第二十三話:大陸の破壊者、チンギス・ハンの清算
あらすじ
西暦一二〇〇年頃、中華帝国が、漢、唐、宋と、長期的な建設と停滞の螺旋を繰り返し、その強大な制度が膠着状態を生み出し始めた頃、三柱の意識は再び人類文明の「破壊」の必要性を感じていた。特に、ユーラシア大陸の東西が巨大な壁(万里の長城、文化の壁)によって分断され、生命の交流が停滞している状態であった。破壊柱は、この硬直したユーラシア大陸の構造を力ずくで一掃し、史上最大規模の清算の役割を担うため、「チンギス・ハン」の肉体を選んだ。その孫であるフビライが鎌倉を責める際には、創造柱が北条時頼として特宗家の力を高め、続く建設柱が北条時宗として、それを防ぐのであった。
本編
西暦一二〇六年。モンゴル高原の風は肌を切り裂くほど冷たく、乾燥していた。テムジン、後にチンギス・ハン(破壊柱)となる男は、青空の下、全ての部族を統一し、「チンギス・ハン」の称号を得た。彼の手は、弓と剣の硬い感触を知っており、その瞳は、眼前の広大な草原の先にある、硬直した大陸の構造を見据えていた。
彼は、馬の背に乗り、広大な草原を見渡した。革と汗の匂いが、彼の周囲に濃く漂う。強い風が彼の髪を激しく揺らす。
「東も西も、分断され、淀んでいる。血と馬蹄の力で、全ての壁を平らにする。もはや、古い秩序に従う時は終わった」
彼の声は低く、しかし、数万の騎馬を動かす、破壊の意志を含んでいた。
チンギス・ハン(破壊柱)は、まず西夏と金といった強固な王朝の城壁を、馬蹄の音とともに容赦なく打ち破った。彼の軍団が通過した後には、古い文明の建物の焦げ臭い匂いと、土埃だけが残った。
彼の行動は、徹底的な破壊を通して、創造された新しい交易路と技術の交流を促した。モンゴル軍の隊列には、東と西の知識が混ざり合い、異なる文化の人々の喧騒が響いた。破壊によって初めて、広大な平和な時代の礎が築かれた。彼の破壊は、一時的な混沌と、その後の大きな創造を可能とした。
西暦一二四六年頃。遠く大陸の破壊が最盛期を迎える中、極東の日本、鎌倉では、北条時頼(創造柱)が、北条氏の特宗家の力を高めていた。時頼の邸宅の庭は静かで、彼は畳の上で静かに禅を組み、内なる安定を求めていた。畳の草の匂いが、彼の周囲を包む。
彼の創造は、外部の力に対抗する前に、内部の構造を整然とさせることであった。彼は、評定衆の制度を見直し、特宗の権力を強化した。さらに、引付衆の制度を整え、公正な裁判を通して御家人の不満を静かに解消した。この一連の内政改革は、後に来る巨大な外敵との衝突に耐えうる、鎌倉幕府という構造の耐久力を高める創造であった。
時頼は静かに目を開け、畳の上に置いた筆を手に取った。墨の匂いが鼻を突く。
「強大になりすぎた破壊の力は、いずれこの東国の建設を試す試練となる。今は、内を固め、御家人の心を安堵させる『公正の法』を創造して、次に備える」
彼は、私邸を訪れた御家人(安達泰盛ら)に静かに諭した。
「大陸の風は荒い。我々が小さな不満で争っている暇はない。御家人たる者、私的な感情を越え、幕府という大きな構造への忠誠を思え」
時頼は、その後、出家するが、裏では引き続き執権を支え、北条氏に権力を集中させる仕組みを完成させた。この創造こそが、日本が迎える国家的な危機への「精神的な準備」と「統治の効率化」であった。
西暦一二七四年。時頼の後を継いだ北条時宗(建設柱)は、フビライ・ハンが率いる元・高麗の大軍を迎え撃つという重責を担った。フビライの使者が幾度も鎌倉へ現れ、その書状から異国の強いインクの匂いと威圧感が漂ったが、時宗は受け取ろうとしなかった。
時宗は、使者を斬首するという断固たる決断を下した時、冷たい刀の感触を確かめた。刀の重みが、彼の建設者としての覚悟を示している。
評定衆たちの前で、時宗は座を立ち、静かに一同を見渡した。
「この国には、源頼朝が築いた『武士の建設』がある。いかなる破壊の力も、この秩序を覆すことはできぬ。我らは服属しない。応戦の準備に着手せよ」
時宗の建設の役割は、源頼朝が築いた基盤を守り、強化することであった。彼は、御家人たちに動員を命じ、異国の侵略者への恐怖を、一致団結への力に変えた。二度にわたる元寇の際、博多の海には、火薬の焦げた匂いと、異国語の叫びが充満したが、御家人たちは、時頼が創造した「内なる公正」と時宗が固めた「建設への忠誠」を胸に、故郷の土の硬さを踏みしめて戦い抜いた。
天気の力も借りながら大陸の破壊を退け、時宗の建設は、その後も続いた。彼は、異国警固番役の制度を整え、防衛体制という構造を永続的なものとした。建設柱は源頼朝として鎌倉幕府を開き、北条時宗としてその基盤を守り抜いたのであった。




