第十三話:唐建国、創造から建設への継承と腐敗の布石確立
あらすじ
三国時代の後、中華は短命な統一と崩壊を繰り返す混沌の渦中にあった。西暦六〇〇年頃、隋の短命な統一の後、中華は再び混乱した。李淵(建設柱)は、強力な軍事力を背景に唐王朝を創始し、隋の基盤を受け継ぐ形で広大な帝国の構造を建設する。その建設は、尉遅敬徳(破壊柱)が協力した、玄武門の変によって、息子の李世民(太宗/創造柱)へと受け継がれ、前例にとらわれない柔軟な発想と実行力で貞観の治という長期の安定システムを創造する。同時に、高力士(内なる毒)が後の李氏の宮廷に登場し、建設された体制の内部に潜む腐敗と終焉を演出する布石を残す。
本編
西暦六一八年五月。隋の暴政と疲弊により中華が大きく揺れる中、李淵(建設柱)は禅譲を受け、唐を建国した。彼は、長安の荒れ果てた宮殿の玉座に座り、冷たい床を踏みしめた。煬帝の暴政が残した、煤と混乱の匂いが鼻を突いた。
李淵の目には、短命に終わった秦と隋、そして、王朝の脆弱性が見えていた。彼の使命は、血縁と軍事に基づく一時的な権力ではなく、胡漢の融合を受け継ぎ、広大な国土を支える、永続し得るシステムを建設することであった。
彼は周囲の臣下に向かい、静かに、しかし、強い意志を込めて宣言した。
「隋が失敗したのは、建設が拙速であったからだ。我々は前例を学び、律令という骨格を緻密に組み上げる。この唐は短命に終わることは許されぬ」
李淵は都を長安と定め、六ニ一年には漢の五銖銭以来の貨幣である開元通宝を鋳造、発行した。さらに、六ニ四年には唐の最初の律令である武徳律令を制定した。李淵が建設したこの律令の枠組みは、中央集権を可能とする、確固たる構造の礎であった。長安の街には、新王朝の貨幣が流通し始める、冷たい金属の触れ合う清々しい音が聞こえた。
李淵の建設を世界帝国の頂点へと昇華させたのが、息子の李世民(太宗/創造柱)であった。
西暦六ニ六年。長安の大内には、李淵(建設柱)が建設したばかりの王朝の継承をめぐり、李世民(創造柱)と、兄の李建成、弟の李元吉(内なる毒)との権力争いの緊張が重くのしかかり、夏の暑さが宮殿の空気を重くしていた。湿気のせいで息苦しい。
李世民は夜、自らが創り出した新しい統治の制度案を広げ、筆を握ったまま微動だにしなかった。竹簡から立ち上る、墨の生乾きの匂いが、創造への熱意を示していた。しかし、彼の創造の青写真には、兄弟の野心と対立という、見るに堪えない暗い墨が飛び散るように感じられた。
李元吉(内なる毒)は、李世民の才能を認めず、皇太子を唆し、世民の排除を画策していた。夜の宴で、李元吉は兄の建成の前で大笑いし、杯を打ち鳴らした。陶器の高い音が宮殿の壁に反響する。
「李世民の武功など、所詮は運に過ぎぬ。殿下の威厳こそが、この国を治めるのだ」
彼の言動は、王朝の建設の安定を脅かす内部の歪みと対立の象徴であった。
李世民は自身の宮殿で椅子を強く握りしめ、指の関節が白くなるのを感じた。彼は立ち上がり、庭の冷たい石を踏みしめた。石の冷たさが足の裏にじんと伝わる。
「私が望むのは、前例を超える新しい世の創造だ。だが、この内なる毒を放置すれば、全てが崩壊する。創造のため、避けては通れぬ道だ」
李世民の窮状を見て、破壊の役割を担う、尉遅敬徳(破壊柱)が動いた。敬徳の顔は無骨で、常に戦場の土の匂いをまとっているかのようだった。彼は、余計な思考を挟まず、創造の邪魔となる「障害物」を物理的に排除することに徹した。
玄武門の冷たい石畳が、西暦六ニ六年七月ニ日の朝、その役割の舞台となった。李建成と李元吉が宮城へ入ろうとした瞬間、待ち伏せた李世民の軍勢が襲いかかった。
李建成は弓を引き、最後の抵抗を試みた。弓が放たれる瞬間の弦の高い音が響く。しかし、李世民の側近が放った矢が建成の肉体を射抜いた。建成はその場に倒れ、口から噴き出した血が石畳に散った。鉄の匂いが周囲に広がる。
李元吉は逃走を図ったが、尉遅敬徳が馬を駆り、猛然と追いかけた。馬の蹄の音が石畳を叩く。敬徳は血を浴びることを厭わず、槍を振り上げ、李元吉に向かって突き出す瞬間、李元吉は恐怖に目を見開きたまま、その破壊の力の前で無力に崩れ落ちた。その破壊の音は、李世民の創造を脅かす全ての不協和音を消し去った。
血の匂いが立ちこめる玄武門を背に、尉遅敬徳は李淵の宮殿へ向かった。彼は腰に血の滴る剣を携え、玉座に座る淵(建設柱)の前に進み出た。血の湿った剣を携えたその姿は、破壊の完遂を告げる、無言の圧力であった。
李淵は息を飲み、その破壊の結果を受け入れた。彼の心は息子を失った悲しみと、王朝の建設の安定という大局の間で引き裂かれていたが、破壊がもたらした、不可逆的な状況を前に、決断を下すしかなかった。
李淵は深く目を閉じ、静かな声で言った。
「建設は私情に優る。世民に帝位を譲る。全ては国の安寧のため、これが永続の礎となる」
彼は、創造を担う、李世民に帝位を譲る決断を下した(李世民は太宗となる)。
この玄武門の変という破壊的行為によって、李世民(太宗)の創造のシステムは内側の障害を完全に取り除いた。破壊は創造を確固たるものとし、太宗は自らの理想とする新しい時代の「貞観の治」を心置きなく開始することができた。血の清算は、長期の平和という創造の代償であった。
太宗は即位すると、父が建設した骨格をもとに、前例にとらわれない柔軟な発想で統治の「形」を創造し始めた。彼は政務を執る太極殿の柱に、臣下の誰にでも見える位置に「水は舟を浮かべ、また覆す」という言葉を刻ませた。彼は指先でその文字をなぞり、常に自らの創造者としての責任を再確認していた。
太宗の顔には微動だにしない安定と革新の色が浮かび、その低い声は、臣下の間に静かな信頼を生んだ。
「真の政は停滞を知らぬ。私が創るは、民の声を吸い上げ、常に新しい血を通わせる柔軟な構造だ。過ちを恐れず、変化せよ」
太宗は、建設の基礎を揺るがさぬ範囲で、科挙を本格的に実施するなど、過去の王朝が踏み込めなかった領域に踏み込み、創造的な統治を行った。「貞観の治」と呼ばれるこの時代(六ニ七年-六四九年)、唐は世界の頂点へと押し上げられた。
太宗が創造を確固たるものとし、六四九年に死去した後、李氏の宮廷の片隅には、後の時代に巨大な影を落とす人物が幼い宦官として働いていた。高力士(内なる毒)である。
彼は、太宗が創り出し、李淵が建設した厳格なシステムの中で、帝王の寵愛と権力の歪みが生まれる隙間を本能的に嗅ぎつけていた。彼の小さな手は、李淵が建設した律令の書を運んでいたが、その手の平には将来、朝廷を私物化する野心の種が隠されていた。
高力士は豪華な絹の衣装を着た高官たちの傲慢な囁きを聞き、静かに、柱の訓戒を見上げた。柱の木のざらざらした感触を確かめる。
「水は舟を覆す。舟を覆すのは内部の歪み、私はその水の力となるだろ」
高力士の存在は、建設の安定期がやがて腐敗と終焉へと向かう布石であった。創造、建設、破壊の三柱の巡りは、次の時代への余白として、内側からの崩壊を用意していたのである。




