第11章 開眼のレゾナンス
第11章 開眼のレゾナンス
2コーナー、鋭い立ち上がり。
1コーナのアウトラインから、2コーナへ切り返した絵美のエクストレイルは、水稀のスープラの鼻先をあっさりとすり抜けていった。
黒い影を振り払うかのように、闇を切り裂いて走り抜けるエクストレイル。
――重いはずの車体が、まるで羽根のように躍る。あまりにも異質で、そして鮮やかなライン――。
「……やるじゃないか。たいしたバトルセンスだ」
水稀の口元がわずかに歪んだ。
ホールショットは取った。スタートの鋭さは、いつも通り。これまでなら、それだけで決着がついたはずだった。
だが、今回は違う。先行してなお、背後から地を這うような鋭さで迫るものがあった。
スープラがSUVに抜かれる――そんな展開など、想定していなかった。
「すごいよ! いきなり激しくやり合うなんて! スタートも、ポジション争いも!」
スタート地点で行方を見ていた梢が、歓喜に身を震わせながら叫ぶ。両の拳を胸元で握りしめ、まるで自分がその一台であるかのように。
しかし、その興奮とは裏腹に、スープラのコクピットには、重い沈黙があった。
……集中が、定まらない。
いつものように、地形も、相手の挙動も、感覚で“見えて”いるはずなのに――なぜか、視界がぼやけるような感覚に陥っていた。
「……あ?」
異変に気づいたのは、シートの裏から、なにかが“ひょい”と顔を出した時だった。
「おやおや、水稀さん。珍しく劣勢ッスね?」
ふさふさの尻尾が、揺れる。
ダッシュボードの影から現れたのは、一匹のリス。だが、ただのリスではない。
小さな前足で軽く挨拶をすると、当然のように助手席にちょこんと座った。
「……おい、何だよオマエ、いつの間に乗ってきた……!」
「いやぁ、なんか月夜ってワクワクする感じで。水稀さんのドライブ、同行したくなったんスよ」
水稀は眉間を押さえた。あきれたような、困ったような表情。
「また勝手なことを……!」
こいつは、名もないリス。水稀の家の裏山、朽ちた祠の奥に住み着いているという、不思議な存在。人語を解し、時に彼女の心に土足で入り込んでくる、図々しい“モノ”だ。
「なんか今日、全力で行けてない感じッスよ?」
水稀はフッと鼻を鳴らした。
「何言ってんだよ。私はバトルはいつだって全力。ぽっと出のSUVに負けるわけねぇだろ。これから巻き返すんだよ」
「……あーあ、やっぱり。それッスよ、それ。“せっかくの千里眼に、色眼鏡かけてどうすんスか”」
その視線の先、SUVのリアビューがぐんぐんと視界から遠ざかっていく。
――ブオォォォォ……!
峠の闇を切り裂く2台の咆哮。水稀のスープラの背後を、重量級SUVがきらめく残光を曳いて突き抜ける。
「色眼鏡、だとぉ……?」
思わず口を衝いた声。認めたくない感情が、胸の奥でざわついた。
確かに、頭のどこかで思っていた。
――所詮はSUV。あんな重くて背の高い車で、本気の走りができるはずがない。
その油断が、ここにきて牙を剥いたのだ。
「サングラスでもしてたんスか? 水稀さん」
助手席の影から、ふさふさの尻尾を揺らして顔を出したリスが、ひょいと首を傾げる。
「違う。……違うけど……」
「違うようで、けっこう似てるッスよ? SUVに対する先入観、ですかね?」
水稀は思わずハンドルを握る手に力を込めた。何を言われているか、わかっていたからこそ、言い返せなかった。
「最初から“遅い車”って思ってたっしょ? そこがそもそも間違いッス」
「……うるさいな。私は……」
「いや、ほら。前にGT-Rとバトったとき、めちゃくちゃ相手の足回りとか見てたじゃないスか」
リスの目が鋭く光る。
「けど今回は? ノーチェックのままスタート切って、完全に“ブラインドの森”で勝負するつもりだったッスよね?」
――図星だった。
「……自分でも、気づいてなかった」
「そういう“舐めた走り”は、全部相手にバレてるッスよ。水稀さんがどう見てるか、相手だって、とっくに気づいてるッスよ」
それは、まるで背筋をなぞるような言葉だった。
「だいたい、あのSUV。見た目はただのノーマルでも、動きは完全に別モンッス。チェックすらしてないってのは、そもそも“千里眼”を腐らせてるって証拠ッスよ」
水稀は無言のまま、前方のエクストレイルを見つめた。
絵美の走りは、明らかに“分かっている”走りだった。
――なのに、自分は。
「くやしいが、言われりゃ確かに……そうかもな」
リスの言葉に、ふと、意識の奥に揺らぎが走る。
ぼやけていた輪郭が、急に明瞭になっていく感覚。千里眼が、己自身を見下ろすように俯瞰しはじめる。
「色眼鏡が……邪魔してた」
次の瞬間、水稀の目が淡く発光した。己の意識体が、スープラのキャビンを離れ、風の粒子のように前方車両――絵美のマシンのへと飛翔する。
――フワッ。
「私は、自分のことが一番見えてなかったよ……」
エクストレイの上空に光の意識体がふわりと留まり――そして、潜るように車体の中へ吸い込まれていった。
直後、絵美の瞳が――ふっと、ルームミラー越しに揺れた。
「あら? 車を視ているの?」
彼女の唇が、わずかに弧を描いた。
「どうやら、気づいたようね。私の事件解決用マシンの本当の姿に」
軽くウィンクするようなその声に、水稀の千里眼は確かに感じ取った。
――この子は、あなたが思っていたような車じゃない。
水稀もまたエンジンルームを視ていた。
見た目はノーマルSUV。それが水稀の先入観を強固にしていた。だが、その中身は――
――こ、コイツは……。
「……魔改造車……っ!」
水稀の声が、咆哮に重なって、闇へと消えていく。
突如、視界に現れた過給機――まさか、SC……!夜気を掻き分けて咆哮する。高圧で圧縮された空気が、鋼鉄の喉を通り、タービンが甲高く唸りを上げる。
「後付けのSC……いや、それだけじゃない。後輪側にも……見たことねぇ駆動モーター……!」
構成はまさかのツインエンジン。スープラのSZに匹敵するどころか、下手をすれば凌駕するパッケージ。優に百馬力以上は底上げされている。
そして極めつけは――
「……嘘だろ、コイツ、トロイダルCVT……!?」
脳裏に走る衝撃。
それは、十数年前に開発され、FF車への搭載が困難とされて消えていった“幻のトランスミッション”だった。だが、裏で開発され続けたそのCVTは当時のとは別モノ。遊星ギヤを組み込み、変速比も大幅に進化させ、しかもコンパクトな横置き型で今、水稀の千里眼の眼前で、現実に稼働していた。
「まさか……どこからこんなものを……」
水稀は、震える唇で呟く。
「今の市販車には搭載されてない。なのに、こんなスワップを誰が……」
コクピットの中の絵美が静かに呟く。
「熱心に視るのね……
変速機が珍しいのも無理ないわ」
彼女は知っていた。
自分のマシンが、“表のルート”では決して手に入らない代物であることを。
水稀の背筋に、凍えるような緊張が走る。
これは……もう、ただの公道バトルじゃない――
彼女は今、未知の領域――人知の外にある“影のテクノロジー”と、真正面から向き合わされているのだった。
(……そんなもんを、普通のSUV扱いしてた……)
ようやく水稀の中で、“色眼鏡”が崩れ落ちた。
「色眼鏡を脱ぎ捨てた瞬間。
視えた。――真の千里眼が、今ようやく開かれた。」
つづく