第10章 ホールショット・トラップ
第10章 ホールショット・トラップ
夜の空気がすっと張り詰める。
最後の一般車が、起点のゲートを通過していく。
「コースはオールクリア。さあ、2人ともスタート位置について」
梢の合図を受け、スタートラインを鋭く見つめる絵美。
背後に立つ水稀が、挑発するような声をかけてくる。
「さ、楽しもうぜ、新人。いい勉強になると思うぜ?」
絵美は軽く笑みを返しながらも、胸の奥では別の火が灯っていた。
このバトルに、ただの腕試し以上の意味を込める――その一手を今こそ打つときだった。
「でもせっかくだから、このバトル……賭けをしない?」
「ん?」
水稀の目が一瞬だけ細まる。
「勝った人の言うことを聞くっていうのは、どう? 勝負師としては、その方が張り合いあるでしょ?」
その提案に、一瞬場が静まり返った。
だが、水稀は豪快に笑い、腰に手を当てて叫ぶ。
「いーぜ! なんだって言うこと聞いてやるよ。ただし、アンタが私に勝ったらの話だからね」
「もちろん。私が負けたら、その時は何でも言うことを聞くわ」
絵美は無邪気な笑みで返す。
「そーだな、たとえば……パフェでも奢ってもらうとか?」
水稀の笑いが夜空に響く。
絵美はその様子を冷静に観察しながら、内心では確信していた。
(勝負師が相手の場合、こういうときこそ心理の隙を突くべきなのよ)
この賭けは、絵美にとって“捜査のための契約行為”でもあった。
信頼関係を一朝一夕で築けない相手に、正面から協力を頼むのは非効率だ。
だからこそ、正々堂々と勝負に勝って“言うことを聞かせる正当な理由”を得る――
それが絵美の描いた筋書きだった。
悪意ではない。強制ではない。
ただ、自らの力で“結果を導き、導かせる”。
それが彼女の流儀。
水稀が背を向け、自らのスープラへと向かっていく。
「じゃ、よろしく」
その背中を見送りながら、絵美もゆっくりとエクストレイルのドアを開けた。
(……彼女、私の車を完全にノーマルだと思ってるわね。ガソリン缶を下ろしたとはいえ、エンジンルームまでは興味なし。そう思い込んでるなら好都合)
スターターの梢が、運転席についた絵美に笑いながら話しかける。
「絵美さーん、ごめんね。もう一本付き合わされることになっちゃって」
「大丈夫。私の方こそ、いい経験ができます」
「水稀さん、大好きだから……バトル。最近このエリアじゃ敵なしだったから、ちょっと退屈してたのよ。……あなたなら、いい刺激になりそうだわ」
エンジンが唸りを上げる。
その音が、峠の静寂に火をつけるように、空気を震わせた。
(まずは──一コーナーまで目一杯、引きつけてから……)
後方確認を終え、絵美は姿勢を整える。
「――はじめるからね」
***
風が止んだ。
峠の空気が張り詰め、時が静止したかのような一瞬が訪れる。
2台の赤いマシン――スープラSZとエクストレイルT32が、路面を睨み合うように横一列に並ぶ。
その中央に、1人のスターターが立っていた。
梢。
漆黒のTシャツに身を包み、静かな瞳で2台を交互に見やる。
夜空の月が、まるで彼女を照らす舞台照明のように輝いていた。
両手は軽く上げられたまま、唇が開かれる。
「――アーユー・レディ…」
スピーカー越しでもないその声は、なぜか車内まではっきりと届くような圧を持っていた。
「……レディ?」
梢は水稀に指差しジェスチャーをする。
運転席の水稀がニヤリと笑う。
視線は逸らさないまま、ハンドルを片手で握り、親指を立てて応える。
次に梢の視線が、ゆっくりと絵美の方へ移る。
「……ステディ?」
梢は絵美に指差しジェスチャーをする。
絵美もまた、ピースサインをし、軽く頷いた。
ほんのわずかに緊張の色が宿ったその顔――けれど、口元は静かに微笑んでいた。
夜空に月が高く浮かぶ中、梢の両腕が、スローモーションのように静かに、しかし確実に持ち上がっていく。
心臓の鼓動が、地面を叩くタイヤの振動よりも大きく聞こえる。
ヘッドライトが強く瞬き、2台の車が同時に唸りを上げて構える。
そして――
両手が一気に振り下ろされた。
「ゴォオオオッ!!」
叫ぶような梢の声が峠に響いたその瞬間、
ドンッ――!
梢の手が振り下ろされると同時に、タイヤは路面を噛み、白煙が宙へ巻き上がった。
二台は流星のように走り出した。
山を切り裂くような爆音が路面に轟く
スープラのリアがわずかに振れ、エクストレイルのタイヤが地を噛みながら力強く前方へと蹴り出す。
水稀は即座にクラッチを切り、ギアを正確に繋ぐ。スタート直後のトルクの立ち上がり、路面への接地感、全てが理想的。
対する絵美のエクストレイルも横並びで食らいつく。
そのハナ差はじじょに開き始める。
「………な、なんだ?」
水稀は、目を疑った。
なんと、絵美のエクストレイルが信じがたい滑らかさでぐんと加速してゆくのだ。
一瞬、水稀の表情が強ばる。
「んなアホな!? 何だその加速!!」
絵美のエクストレイルは、並のCVTとは思えぬほどの鋭さで前へ前へと飛び出していく。
(これでもネルソン・ピケ級のシフトチェンジャーって言われてんのにさ……)
苦笑交じりにギアを叩き込む水稀。しかし、彼女もまた負ける気はさらさらなかった。
「見てな! ここは突っ込ませてもらうよっ!!」
目にも止まらぬ速度で、真紅のスープラがエクストレイルのインをえぐるように侵入する。
「これが……水稀様の!」
「鬼突っ込みだぁあああ!!」
タイヤが路面を鳴かせる。煙と音を引き裂いて、水稀が鋭く抜け出す。
「どう、新人? アタマはこーやって奪うのさ!」
突っ込みでインを制する。それは水稀にとって、信条に近い技術だった。咄嗟にコーナーのRが小さくなるリスクを承知のうえで、彼女はエクストレイルの鼻先を制した。
「来ると思った」
絵美は静かにハンドルを切り返す。
その瞬間、2コーナーの姿が月光に浮かび上がった。
(──突っ込み重視のライン。イン側に長く居れば…)
絵美は既に、その先を見据えていた。アウトラインをキープしたまま、速度を落とさずに立ち上がる。SUVという図体、そしてCVTの加速。そこに先読みとライン取りを乗せた一手。
「――すり抜ける!」
アウトから切り返す一瞬、絵美は水稀のブロックラインをすり抜けた。
水稀の視界の右端に、一瞬、赤いテールランプが滑り込む。
「なっ……!」
車体がわずかに傾き、接触スレスレのラインで抜けていく絵美のエクストレイル。
「しまった……最初から、2コーナー狙いだったのか!」
ブレーキングで絞ったイン、立ち上がりで舵角が戻らない。遅れる水稀を尻目に、絵美の4輪が先に加速ラインに乗った。
「クソっ……まんまと突っ込まされた……」
水稀が奥歯を噛み締める。
絵美は、彼女の“突っ込み癖”を読んでいた。
立ち上がりのもたつき、ラインの収束。全てが伏線だった。
「さぁ、水稀さん──ここからは、私の番」
月下の山道に、二台の咆哮が響き渡る
つづく