第9章 千里眼
第9章 千里眼
湖畔の風が、夜の空気を少しだけ揺らした。
絵美がオウルージュの一員となって数分。絵美の手に握られたステッカーには、まだ淡い熱が残っていた。
「チームに新しい風…か」
沙羅が呟いたその時、別の熱が灯る。
「面白ぇな!」
さらに一人、メラメラと炎を背負っている者がいた。
「……滾るぜぇ~~!!」
それは、赤いスープラの乗り手、チームリーダーの水稀。
「ちょ、水稀さん!?ダメよ!絵美さんはまだ新人だから無理させちゃダメなんだからね?ヘンな闘争本能!出したらダメよ」
すかさず梢が制止の手を伸ばす。
「だってさ梢、センターも割らずに、アンタを追い抜いたってー それもSUVでだぜ? それを聞いて、一戦交えたくなんねぇ奴がいるかってよ!」
「……はいはい、勝手に盛り上がってますよー、この人」
「新人っっ!! さっそく私とバトルじゃぁぁ!!」
水稀が突然、前に出て、絵美を正面から見据えた。
勢いに押されてきょとんとする顔の絵美。
絵美はステッカーを大事そうにポケットへしまい、一拍の沈黙のあと頷いた。
「ええ。もうひとっ走り付き合いましょう。鬼ごっこテストもいいけど、やっぱり走り屋はバトルよね」
「アンタ、わかってるねー」
絵美の快諾に、水稀のテンションも上がる。
「絵美さんも軽いなぁ……」
梢はため息交じりに笑った。
「そう、オウルージュは売られたバトルは絶対に買うチームだからな」
水稀は、腕を組んで一歩引き、絵美を見やった。
「とはいえ、ノーマルのSUVじゃさすがに分が悪いだろ。少しハンデ、やるよ」
その言葉に、絵美は小さく微笑んで答える。
「お気遣いありがとう。でも……その必要はないわ」
「は?」
「その代わり……」
絵美は静かにエクストレイルのリアゲートへと歩いていった。
「ちょっと、荷物を降ろさせてもらうわね」
「カパ」
開いたラゲッジルームから、ずしりとした音を響かせて、彼女が取り出したのは──。
「……ドン」
「ドン……」
「ドン……!」
並べられるタンク。
「ガソリン……携行缶……!?」
水稀の目が見開かれる。絵美の足元に並んだのは、5缶の携行缶。すべて26.4Lのフルタンク。
「これで少し、身軽になったわ」
軽く伸びをしながら、絵美が言う。
「これ積んで走ってたのかよ……」
水稀が目を丸くして呟き、沙羅が重さの計算を始める。
「比重計算で、約100kgもあるよ……」
梢が思わず両手で顔を覆った。
「えぇっ!? そんなウエイトハンデあったのぉ!?」
絵美は肩をすくめて笑う。
「究さん、悪いけどこれ、預かっててもらえるかな?」
「ま、いいけど…」
携行缶を持ち上げた究が改めて驚く。
「わ、マジ重っ!よくこんなの普段から積んで走ってるね」
「後から積んでることに気づいたの。仕事では、常に備えを積んでるもんで。探偵だから、車中泊や追跡もあるしね」
「遊び人のコイツにとっては脅威の存在だな……いつかスッパ抜かれるかもな…」
そんな究を見やりながら沙羅が皮肉たっぷりに言う。
「た、探偵かぁ……(浮気現場を撮られるところを想像する男の顔)」
動揺気味な声で究が呟く。
「梢さん、オレもスッパ抜かれかもだってよ〜」
「"も"って変でしょ!一緒にしないで!意味全然違うから!」
慌てて全力否定する梢。
水稀はその会話を聞きながらも、これでアドバンテージを埋めきれてるとは思っていない様子。
「なるほどね、鬼ごっこは普段から得意ってことね。ますますアンタのドライビングセンスが気になってきた」
(――たしかにこの新人、腕は確かなようだ。だが所詮は重量級のSUV。私のスープラにとって脅威ではないにしても、彼女に潜むセンス、梢を出し抜く技術、そして執念は私を相手にしてどこまで迫れるのか?非常に興味あるな――)
「……見せてよ。100kgのダイエット効果を」
目の奥を光らせながら、水稀が言った。
「バトルがメインの東コースは、タイトなコーナーばかり、路肩もスペースはほぼ無い。だから西コースのようにはいかないよ」
星降る夜。リーダーとの初の本気セッションが、今、幕を開けようとしていた。
(走り屋チームでのバトル経験は、セリカの女との接触に必ず役に立つはず。今、断る理由はない)
頭の中で絵美はそう考えていた。
***
東コースーーー沼の沢ゲート
峠の空気が張り詰める。
「まもなく、最後の一般車が通過するわ。その後は、もう来ないわ」
風がぬける星空の下で、梢が絵美と水稀に告げる。
「一応、コース脇には2人待機しているから」
「中間地点には、沙羅ちゃん、ゴール先の知来乙ゲートには、究くんが待機。もうこの後の時間帯は、滅多に一般車は来ないけど、もしもコースに一般車が侵入した場合は、直ぐにグループLINEを流すから。各自着信音の時点でキープレフトよ。」
スターターを務める梢の声が静かに響く。
走行ラインの先を確認した絵美は、ラゲッジを閉じ、スーッと深呼吸をひとつ吐いた。手にはもう、重量100kgの携行缶はない。身軽になった彼女の表情には、余計な迷いもなかった。
その、瞬間、絵美はちょっとした異変を感じて顔を上げる。
その視線の先は、腕を組み、黙したまま、どこか別の方向を見て集中している水稀の姿だった。
(──何だこの思考波は???)
絵美の瞳が揺れた。
(私のと似ている?……何、この感じは……)
絵美の額に、冷たい汗が滲んだ。
彼女の意識の奥から、波動ようなものと共振する感覚だった。彼女は――何かを“視よう”としている?
(まさか……リーディング? いや、それとも違う)
だが、もしそれが“残留思念の記録”に触れれるものならば、きっと何が、わかるはず――
絵美は目を伏せ、こっそり地面に片膝をついた。アスファルトに手を置くと、感覚の向こう側に水稀の産地直送のリアルタイムな残留思念を捉えた。
「これは……!」
次の瞬間、絵美の視界に、あり得ない“映像”が飛び込んできた。
(白いRV車……、プラド待ちか)
水稀の呟きと重なり、白のRV車が通過していく。そして道路端に立つメンバーの姿。地面の凹凸、ブリスタの位置、そして舗装の継ぎ目までもが、ありありと浮かび上がっていく。
絵美は息を呑んだ。
(……これ、彼女が“視ている”もの……?)
意識の外へ飛ばされた精神が、まるでドローンのように空を駆け、コース全体を俯瞰していた。人や車の位置はもちろん、次のブラインドコーナーに現れる視界まで正確に把握している。
「まさか……リモートビューイング……!」
自分の能力と似て非なるその力に、絵美は戦慄した。
(彼女の意識体が、遠隔でコースチェックをしている……!)
「――まるで……千里眼の異名を持つオウル」
“サイキック・センサー”――視える領域は異なるものの、彼女もまた、自分と同じく“視えている”者だった。だがその使い方も精度も、明らかに別。脳裏に浮かぶスープラの姿が、まるで千里眼を宿す猛禽のように重なる。
絵美は水稀を見た。
その眼差しは既に未来を見据えている。先の路面、コーナーの形状、障害物の配置――すべてを走る前から読み切る視力。それが彼女の武器であり、“オウルージュ”の名を背負う所以なのか。
(すごい……)
そしてそれは、走行しながらも先の路面の状況を分析できるということだ。つまり、彼女にとって、“ブラインドコーナー”という概念は存在しない。
先が視える。どんな突発も即座に対処できる――。
――これは、走り屋として圧倒的なアドバンテージだ。
驚嘆と敬意が混ざった思いが、自然と絵美の胸に湧き上がる。
(……まいったわ。これは予想外ね)
そのまま無言で唸るようにして意識を深く潜らせていた絵美のもとに、低い声が響いた。
「……おい、どうした?腹でも痛くなったか?」
びくっ。
「えっ、い、いや……なんでもないっす!!」
反射的に立ち上がり、手をぶんぶん振ってごまかす。
「これ……その……ルーティーンなの、ヴァレンティーノ・ロッシがレース前にやる儀式みたいな、アレです!」
「……へぇ?ルーティーンねぇ。意識高いじゃん」
水稀はニヤリと笑ってみせた。
「まぁ、おまじないでもなんでも、“やれることはやる”ってのは、バトル女子に必要な心構えだよ。相手が格上なら、なおさらね」
肩をすくめて、軽く冗談のようにそう言いながら、水稀は梢のもとへ戻っていった。
絵美はその背を目で追いながら、小さく息をついた。
(……やっぱり、間違いない。あの人も……“PSI"だ)
まさか、こんな場所で同類と出会うとは思ってもみなかった。
さすがに「一緒に先に下見してました」なんて口が裂けても言えない。
(でも……これはチャンスかもしれない)
心に浮かんだのは、あの「セリカの女」の謎。
解決の糸口がつかめないままだった事件の、真実の一端。
(サイコメトリーとリモートビューイング……お互いの力をうまく協調させれば一気に迫れる⁉︎――)
再び目を閉じ、思考を巡らせる絵美。
だがその様子を見ていた水稀が、再び声をかけてきた。
「……おい、また腹痛か?」
「ち、ちゃう!ちゃうってば!」
反射的に振り返り、関西弁が出てしまった絵美に、今度は水稀が怪訝そうな顔をした。
絵美は頬をかき、内心で苦笑した。
(……慣れていかないとね。何もかも)
夜は静かに、しかし熱を帯びながら、始まりを告げていた。
つづく