第20章 BLUE FRONTIER [前編]
第20章 BLUE FRONTIER[前編]
夜空に星が瞬く。
支笏の森を抜ける峠道、白銀ボディのトヨタ・カレンがその足を停めていた。
「……またか」
ハンドルを握る華蓮の唇から、かすれた声が漏れた。
気がつけば、いつも同じだ。
彼女は知らぬ間に愛車のシートに身を沈め、道脇に停車していた。
「また……ここにいる」
胸元を冷や汗が伝い、息は浅くなる。
無意識のうちに、この場所へと引き戻されてしまうのだ。
(夢遊病……? それとも何かの発作……?)
月光に照らされながら、華蓮は周囲を見渡す。
気づけば眼帯が助手席に置かれている
ここ最近は、この繰り返しだった。
タイヤが悲鳴を上げる。サイドを引き、リアが流れる。
白銀のカレンがスピンターンを描いた。
(……ここを戻ると、必ず……)
カーブの先、路肩にはハザードを点滅させる黒い影。
その傍らに、一人の青年が立ち尽くしていた。
「お決まりのように……よそ者が事故ってる……」
華蓮は眉を寄せる。
それは何度も繰り返されてきた“場面”だった。
「やはり……今回も同じ……」
ブレーキを踏み込み、車を停める。
「!!」
振り返った青年――百八十が、驚いたように目を見開いた。
「お……音速の……ばんにん……!?」
その言葉は、華蓮にとって意味不明だった。
「何だオマエ……まだいたのか……」
吐き捨てるような声に、華蓮の表情が揺れる。
「……音速……? 何のことだ……?」
彼女は怪訝そうに眉をひそめた。
「……誰それ? 人違いじゃない?」
「……車が違う……? いや……すまん、人違いだった……」
百八十は視線を泳がせながらも、なお訝しげに彼女を見据えた。
「……ちょっと聞くけど。その“音速のナントカ”って……何なの?」
問い詰めるような華蓮の眼差しに、青年は少しの沈黙のあと、重く落ちるように言葉を吐いた。
「そいつから制裁を受けたんだ……
そいつは、アンタと同じ歳くらいで……
そして……眼帯をしていたぜ……」
「……!!」
閃光のような衝撃が走る。
もしかして――「私の知らない私」が、これを引き起こしているのか??
翌朝。
勤務中の訪問先に向かう途中、華蓮は足を止めていた。
タイトなスーツに身を包み、道具の入ったバッグを手にしたまま、ふと空を仰ぐ。
淡い青と白い雲の向こうを、一機の飛行機が音もなく横切っていく。
昨夜の光景が、なお瞼の裏に焼き付いていた。
ハンドルを握る掌の汗、青年の困惑した顔。
唇を噛みしめながら、彼女は無言で空を見上げる。
──眼帯をつけた“私の知らない私”が、あの夜を走っているのか?
事故を引き起こしているのは……他ならぬ、自分自身なのか?
「……」
胸の奥に冷たいものが流れ込む。
誰にも説明できないこの現象。
ただ空を仰ぐことしかできなかった。
(……あれは一体、何なの……?)
小さく息を吐くと、華蓮は日常の顔に戻っていく。
スカートの裾を風に揺らしながら、訪問先の建物へと歩を進めた。
******
街を走り抜ける赤いエクストレイル。
頭上には飛行機がゆったりと軌跡を描き、夏の空の奥へ消えていく。
助手席に身を預けた水稀は、窓の外を見ながら呟いた。
「こうして乗ってると……SUVってのも悪くないな」
ハンドルを握る絵美が、ちらりと笑みを浮かべる。
「へぇ、そう思うんだ?」
「街乗りでも安定してるし、居住性もいい。
それに……助手席に座ってるのが一番ラクだ」
水稀の言葉に、絵美は楽しそうに片眉を上げる。
「じゃあ、ラクしてる分うんと働いてもらわなきゃね」
「えっ……マジかよ」
ぼやく水稀に、絵美は声を立てて笑った。
郊外のカー用品店。
二人は並んで店に入る。
「先に買い物してからね」
絵美が振り返ると、水稀は怪訝そうに首をかしげた。
「何買うんだ?」
「水稀の分も買ってあげる」
にっこり笑う絵美の手には、鹿避け用のホイッスルが二つ。
「じゃーん!」
得意げに掲げるその姿に、水稀は思わず吹き出した。
「あぁ、それか。……確かに、ウチらには必需品だな」
二人の脳裏に、あの夜の鹿の影がよみがえる。
ギリギリの判断がなければ、今こうして笑ってはいられなかった。
再び走り出したエクストレイルは、湖畔をかすめるように進む。
窓の外の支笏湖は、陽光を受けて白銀に輝いていた。
「なぁ、絵美……」
「ん?」
水稀は真顔になり、湖へ視線を投げた。
「その……霊だか、生きてんだかわからないヤツ。夜に出てくるんだろ?」
「そう」
絵美は前方を見据えたまま、落ち着いた声で応じる。
「でも、昼間からどうやって探すんだ? 広いぜ、ここは」
「私の千里眼なんて、実際には千里も届かない。せいぜい五里だ」
水稀の言葉に、絵美はかぶりを振る。
「問題ないよ。今はそれで十分」
「それに座標を割り出すには、明るい方がいいから」
「座標……?」
水稀は眉をひそめた。
彼女の言葉は、根拠以上に確信に満ちていた。
やがて車は恵庭岳の登山口に到着する。
「着いたよ」
「え? 何すんの?」
「登山だよ」
軽やかに告げる絵美に、水稀は思わず声を荒げた。
「はぁ!? 正気か!?」
「大丈夫、準備ならちゃんと二人分あるから」
後部座席から差し出されたのは、揃いのリュックと登山ウェア。
「今日は二人で山ガールなのだ」
そう言って微笑む絵美の手には、迷彩柄の帽子まで用意されていた。
「……マジかよ」
水稀はため息をつきながらも、渋々と袖を通す。
「うんうん、よく似合ってるぞ」
絵美が笑顔で親指を立てると、水稀は肩を落とした。
「はぁ……うんと働いてもらうってコレかよ……」
それでも、二人の装いは確かに“山ガール”そのもの。
赤いエクストレイルの横に並び立つ姿は、新しい冒険の始まりを予感させていた。
つづく
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