第16章 読みの果て(前編)
第16章 読みの果て(前編)
暗い山道を切り裂くように、赤いスープラと改造SUVが並んで走る。ヘッドライトが照らす先――そこに、不意に現れたのは、月光を浴びた一頭の鹿だった。
「お、おい!バカ!こんな時に出てくるな!!」
ハンドルを握る水稀の目に、鋭い警戒色が宿る。視界の先に、角を掲げたシカがゆっくりと路面へと歩み出ている。まるでこの峠の主であるかのように、堂々としたその姿は、戦場に現れた“第三の存在”そのものだった。
「まずい……!ぶつかる!!」
水稀の脳裏に電撃が走る。ここまでの接戦は、読み合いと応酬の連続だった。しかしこれは、どちらのラインでも対応できない“イレギュラー”。
(そうか……!あいつ――新人も、鹿避け笛を付けてなかったのか!)
(……ブラインドの先が見えてるのは、私だけ……!!)
ギュッとハンドルを握る水稀の指が白くなる。このままではSUVにぶつかる、それに気づいた瞬間、水稀の心臓が跳ね上がった。
「クソッ!! 大誤算だ……!」
絵美のセーフティマージンは、緊急対応のための確保だが、この瞬間の一手はそれすら捨て、水稀のアドバンテージに対抗し勝負に出た。
――そう、最終コーナー、もう対向車は無い。ブラインドの先に“それ以外の何か"はもう無いと信じた判断の結果が、いま無情にも眼前に迫ろうとしている。
「SUVの回避スペースを残せない!」
水稀は反射的にフットブレーキを踏み込む。しかし、あきらかに間に合わない。ラインの選択も、速度調整も、すべてが無力に思えるほど――近い。
「鹿ヤロー、止まれ!止まりやがれ!」
次の瞬間、絵美の視界にも、ようやく鹿の影が飛び込んだ。彼女の脳内で全警報が鳴り響く。
「え……!」
「クソっ!どうにもできねぇ!」
水稀の背筋に、凍るような緊張が走る。
万事休す。
その時だった――
背後から、耳を裂くようなエキゾーストが鳴り響いた。
「ギャアアアアァァァァ!!!」
後方から猛然と迫る、もう一台のマシン。
真紅のランエボが、コーナーをスライドさせながら迫ってくる。
ギュイイイィィィ……と夜気を割くように、鋭い笛の周波が前方へ飛び、鹿の耳を捉えた。
警戒の気配に満ちた鹿が一瞬、その動きを止める。
電子式の鹿避け笛は届いた。
それは、水稀の視界に飛び込んだ一条の光だった。
咄嗟に見えた、僅かに空いた回避の隙間。
(スペースが……!)
残されたのは、紙一重の回避ライン。
水稀は迷わず叫んだ。
「――外へ振れえぇえええ!!」
叫びは、空気を貫いた。
その声が絵美に届いたのか、偶然か、それとも一瞬の直感か。SUVがわずかにアウトへ身を振る。
「……っ!」
間一髪。
SUVの車体は鹿の胴を掠める寸前で躱した。すぐ後ろの水稀も、そのわずかな通路を滑り込むように通過した。
風圧だけが鹿を後ろに吹き飛ばし、濃密な沈黙が一瞬、峠を覆った
数拍の沈黙――そして再び、咆哮。
二台のマシンは月夜の峠を駆け抜けていった。
つづく




