第13章 セーフティマージンの死角
第13章 セーフティマージンの死角
星空が覆う峠道。夜空には雲ひとつなく、視界は驚くほどに良好だった。
──来た。
スイッチが、入った。
水稀はハンドルを握りしめながら、心の奥で静かに宣言する。
「本気モード、スイッチ入れたぜ……!」
その視界は、かつての自分とはまるで別物。
千里眼――いや、今のそれはもはや、全方位に張り巡らされた感覚の束。
一切の霧も歪みもなく、峠のすべてが彼の掌の上にあった。
「視界良好……!」
前方を走る赤いSUV、日産エクストレイル。
その動きを、見失うことなくピタリと追う。
だが、水稀の眼差しには焦りはなかった。むしろ、今この瞬間が最高の観察タイムであるかのように、落ち着いた気配を漂わせていた。
「打開策を探るセンスね」
助手席で呟いたのは、リスだった。
水稀は答えるように鼻を鳴らし、視線を先へ送る。
「まぁ見てな。このあと、左右交互に同じRが続く」
彼の口元には余裕すら見える。
道を読む力、視界の広さ、そして精神の静けさ。
それらが噛み合った時、水稀は最強のモードへと突入する。
「意識体を遥か前方に置いた……。プレスをかけながら、じっくり観察すりゃ――前を奪い返すヒントが、必ず見えるはずだ」
対する絵美も、その気配を察していた。
「来るのね。最強の戦闘態勢で」
唇に微かな笑みを浮かべ、彼女は言葉を飲み込む。
「……このまま最後まで抑えてみせる!」
アクセルを踏み直し、絵美は再び加速した。
──
ドン、とタイヤが地を蹴る音。
二台は次のコーナーへと突入する。
「いくよ……ドッグファイト!」
水稀が低く呟く。
「どんな魔改造車だろうが……」
その目には一切の迷いがなかった。
「私のホームコースでは――そう簡単にはちぎらせないよ!!」
――ギャアアアアアアア……!
甲高いタイヤの悲鳴が、コース全体に響き渡る。
まさに接近戦。互いの車体が、触れる寸前の距離で火花を散らす。
「凄い……!」
思わず漏らすのは絵美。
だが彼女はすぐに気を取り直し、猛然とブレーキングに移る。
「猛烈なプレス……!」
ブレーキランプが赤く光り、タイヤが地面を焼く。
「左はOK! 右も見せてもらうよ!」
水稀の視線は、絵美のエクストレイルの動きに釘付けだった。
――彼女は、左右のコーナーを対称のように制圧していく。
一切の無駄がない。だがそれでも、水稀は食らいついていた。
――
2台の車が、滑るように峠を駆け抜ける。
ミラー越しに見るスープラの姿に、絵美が目を細める。
「私の動きに、瞬時に反応してラインを修正してくる……」
「まるで後ろに目があるかのような、ミラーチェックだぜ……」
絵美の操作は、まさに研ぎ澄まされた職人技。
「それでいて、前への集中を切らさず、限界ギリギリで攻めてるときたもんだ……」
水稀は内心で舌を巻く。
「いったいどれだけの練習を積んだんだ……」
さりとて、追走する水稀のスープラも、少しも距離を空けようとしない。
「並のドライバーなら、このまま最後まで抑え込まれて終わるだろうな」
だが水稀の視線は、ただ前だけを見ていた。
「だけど、天才の水稀さんは――前を獲り返す策を、もう見つけたっていうこと?」
助手席のリスがポツリと呟く。
「ま、そうゆうことだ」
水稀の眼差しの奥には、冷静な分析と、確かな“読み”があった。
****
中間地点
「究っ……! ちゃんと見てろよ! 寝んじゃねーぞ!」
駐車中のランエボの傍ら、沙羅が携帯を握って怒鳴っていた。相手は、ゴールゲートの見張り役を任されている究。
「お前、前回居眠りこいてたからな! 対向車入ってきたら、キープレフトの合図忘れるなよ!」
「わ、わかってるって……!」
電話越しに、苦笑混じりの声が返る。
「大丈夫! 寝不足じゃねーし! すぐ皆にグループLINE鳴らす準備はできてるぜ!」
夜風に揺れる木々の影。遠くで虫の声がかすかに響く。
沙羅は受話器を握ったまま、峠の先を見据えた。
「まもなくここ通過するから。そっちもしっかり頼むぜ」
「おう、任せとけ!」
通話の向こうで、究が楽しげに笑う。
「にしてもさ。やっぱリーダーが先行して、フィニッシュって構図じゃね?地の利だよ。
絵美さんもマジ上手いけど、まだこのコース慣れてないっしょ?」
沙羅は目を細めて月を見上げた。
「……それを言うなら、水稀もSUVとのバトルなんて、まったくの未経験。たしかに普段のバトル相手なら、いつも通り、逃げ切りで終わる流れだろう。だけど…今日は……なんか違う気がする」
「――へぇ、そうなんすか?」
沙羅の瞳が、月に引かれるように動く。
「なんというか、このバトル……妙な引っかかりがあるんだよな…」
「バトル中に満月ってのが……」
「何か大事なこと、見逃してるような気もするし、気のせいかもしれない」
「……梢ちゃんがテストしてたときは、そんな感じはしなかったけど…何が違うんだろ…」
「マジっすか? それって……食いかけのマックの月見バーガー忘れてるとか、じゃないの?」
「……バカ! そんな低レベルな話じゃねぇよ!!」
2人のやりとりが続く中――峠のどこかで、再びマシンが唸りをあげていた。
****
オオォォン……!
──再び深くなる森のトンネル。
木々の密度が一段と増し、コーナーの先はますます視認しづらくなっていた。
が、絵美の眼差しに迷いはなかった。
「焦るな……スタート前、あの意識体にトレースしたんだ」
すでにライン取りのイメージはできている。
目には映らずとも、感覚が正解を描いていた。
「ここだな」
対する水稀は静かに呟き、唇の端をわずかに吊り上げた。
エクストレイルの絵美が、コーナーへ突入する。
「ターンイン……このまま、このまま……エイペックスまで我慢!」
「ミドルライン、キープ!」
声を漏らしながら、絵美は自らのラインを精密に守っていく。
だが――
「……過ぎたら、すぐにクリップに」
チラリとバックミラーを確認した瞬間、彼女の視線が揺れる。
「えっ……!?」
水稀のスープラが、いない。
ミラーから、その姿が忽然と消えていた。
「いない!? どこだ!? ……消えた……!?」
焦る視線を宙に彷徨わせる絵美。
「まさか……ライトを、消したの!?」
──ブラインドの先、水稀のスープラは一切の光を断って姿を消していた。
完全なステルス化。まさに“見えない獣”が闇の中に溶けている。
「……マンガみたいなこと、やるのね……!」
即座に判断を切り替えた絵美は、咄嗟にハザードスイッチを押す。
「これで、炙り出すっ!」
レッドマスクの両サイドが、閃光のように爆ぜた。
──パッ……!
背後の森に、ウィンカーの光が一瞬だけ反射する。
「いたっ……!」
その瞬間、エクストレイルの横に、赤黒い影が並びかけていた。
「しまった……並ばれてる……!」
水稀のスープラは、絵美の“セーフティマージン”を突き、完璧なタイミングでサイドに滑り込んでいた。
「クリップに……つけない……!」
絵美が呻くように言った。
「暴光ウインカーか、照らすのがほんの少し遅れたね」
――照らし出されたスープラの顔が、わずかに笑っているように見えた。
「基本的に、アンタの走りは“セーフティマージン”をギリギリ残しながら攻めていく、手堅いスタイルだ」
水稀は冷静に絵美の戦術を解析する。
「加えて、後続車に一切の隙を見せないマシンコントロールは、一級品」
だが、その“完璧さ”にも弱点がある。
コーナーアプローチの“わずかな隙”――それを突かれたのだ。
そしてこのエリアのレイアウトが、それを許した。
見通しの悪さが、何かあったときのためのセーフティマージンを必要とする。例えば対向車、あるいは停車中の車。それは一定の技量のあるドライバーなら誰もがもつ無意識のリスクヘッジだ。
だが――
「私には……必要ない」
何があるかわからないということはない。
「最初からコーナーの先が視える私には、セーフティマージンは不要」
水稀の目には、木々の裏側までが見えていた。
前の集中が一瞬でも切れれば、その隙を突く。
そのすべてを前提にして、彼女は戦術を組み上げていた。
ライン図が脳裏に描かれる。
彼女はブラインドで最も速く安全にコーナーを抜けるため、クリップを奥にずらし、立ち上がりを重視した加速重視ラインを選択している。
その分侵入速度は若干落ちるが、モンスターマシンの脅威的な加速力でリカバリーしている。
だが、水稀は違った。
「相手より先に最速でコーナーに進入できて、相手にクリップを取らせることなく、並走できる……」
──それが、千里眼ドライビング。
「だから、厳しめのミラーチェックを外した……」
絵美の集中が、一瞬だけ切れた瞬間。
水稀はそこに潜り込み、サイドに並ぶ――
「来た!!」
前方の月明かりが、2台の車を照らし出す。
峠の中腹でそれを見つけた沙羅が、息を飲む。
「ひゃー、大接戦じゃん……!」
その目の先――
エクストレイルとスープラが、まさにサイド・バイ・サイド。
ミリ単位で並びながら、火花のように駆け抜けていた。
つづく




