8、文字が読めないとは
「うーん、うん?」
どうしよう、全く分からない。新居を確保した私は、それは晴れやかな気持ちで見習いの仕事が始まるまでの期間を過ごせると思っていた。それが、どうしてこんなことになっているのか。謎のメモを片手にまた建物内をぐるぐるしている、決して徘徊が趣味ではない。
どうしようもなく空腹を感じ、昨日迷っている間に見つけた食堂らしき場所に向かおうとしていた。だが、その途中で知らない騎士に「おい、見習い! これを副団長室まで持っていけ」とよく分からない紙を押し付けられたのだ。まだ、見習いの仕事は始まっていないのだが、そんなことを抗議する間もなく見知らぬ騎士はどこかへ行ってしまった。
騎士団の人からしたら見習いは都合の良いパシリなのだろう、納得はいかないがそれくらいのことならさっさと済ませた方が面倒事も起きないか、と思い渡された紙切れを見た。
メモ書きらしく三段に分かれた短い文字であろう塊が並んでいる。なぜこのような言い方なのか、お察しの通りここに書かれた文字が読めない。先程の人がスパイか何かで仲間との秘密の暗号を間違えて私に押し付けた、なんてことがない限り私はこの世界の文字が読めないということになる。
全く想定していなかった訳ではない。しかし普通に会話ができているのだから大丈夫と思っていた節もある。それに、私という意識はこの世界の外から来たが、体はこの世界に属しているのだから記憶喪失になる前のこの体に染みついた知識が何とかしてくれると勝手に期待していた。
こういうの魔法でぱぱっと解決できないのかな? いや、そもそも魔法のこともよく分からないんだった。なす術もなく紙切れを掴む手に力が入る。文字が分からないことで選択を間違える可能性は格段に上がるだろう、それに日常生活を送るうえでも単純に不便だ。これ、と言われて渡されたせいでこの単語が何を示すか察しもつかない。
「廊下の真ん中で立ち止まって、その年で迷子かよ?」
紙切れと向き合っていると、後ろから人を小馬鹿にしたような声が聞こえた。私がこの世界で名前を把握している三人のうち一人だ。そして、その中では一番会いたくない人物でもある。
「げ、ユリオプス、さん……」
「そんな嫌な顔するなって。あー、もしかして掃除から逃げたことでも怒ってんのか? 冷静に考えてくれよ。このオレに掃除は似合わない、アンタもそう思うだろ」
常人では羞恥が湧き言い切ることが不可能なセリフとともに、趣味の悪いギラギラした指輪が何個も付けられた手で前髪をかき上げる。この人は本当に副団長のお叱りとやらを受けたのだろうか? 全く反省の色は見られない、副団長への信頼が静かに落ちた。
「そうですかね」
「ま、そんなことは良いんだよ。それより何か困ってるんだろ? 昨日のお詫びじゃないが手を貸してやるよ」
やはりしっかり怒られた後らしい、でなければこんな親切じみた提案をするはずもない。何はともあれ、彼のおかげで押し付けられたメモは解決しそうだ。文字が分からないことには変わりないため根本は一切解決しないが今はどうしようもない。
「メモを渡されたのですが読めなくて、途方に暮れてたんです」
「そんな汚い字で書いてあるのかよ。とりあえず、貸してみなって……おい、普通に読めるじゃねぇか。え、アンタもしかして文字が読めない?」
ひったくるように私からメモを取るとユリオプスは直ぐに視線を私に戻してそう言った。馬鹿にしているというより、単純に驚いたといった表情は私が彼に抱いていた印象とは少しズレている。分かってはいたが、彼の反応からもこれは暗号ではなくただの文字であると決まってしまった。
「そうみたいなんですよ。これもさっき気づいたことですがね」
「へぇ、記憶喪失って文字も分からなくなるのか?」
「僕にもそれは分かりません」
何がユリオプスの興味を刺激したかは分からないが顎に手を当てて何やら真剣そうに考え始めた。軽薄な印象を受ける顔ばかりするせいで気が付かなかったが、こうして見ると思いの外ユリオプスも鋭い眼光をしている。たれ目がちなお陰か副団長ほどの眼圧はないが、表情が抜けると顔が整っている分、作り物じみた冷たさを感じる。美人が怒ると怖いみたいな話だろうか。
「ま、いいか。ここに書いてあるのは本のタイトルだ。それでこの本をどうするつもりだ?」
「副団長室に届けろと言われました」
「はあ、副団長室ね。早速アンタは、虐められているわけだ」
ユリオプスが私に向けたのは、分かりやすい哀れみの目。あーあ、とでも言いたそうな顔で初対面の時と同じように肩をすくめてみせた。そうだ、彼にとって副団長の話題は恐らく地雷だ。こんなに分かりやすく態度に出されるとは思わなかったけど。
「え? パシられてるなとは思いましたが。虐めってほどじゃ……」
「今日のアイツは最高に機嫌が悪いんだよ。アンタは生贄にされたようなもんだ」
「本、届くの遅れたらもっと怒りますかね……」
「さぁね。このオレの時間はアンタの時間より貴重なんだ、さっさと蔵書室へ向かうぞ」
ユリオプスはそう言うが、副団長のご機嫌な姿は当然想像もつかないが当たり散らしてくる姿もそんなに想像できなかった。速足の彼に私も小走りでついていく。蔵書室の場所は昨日覚えたが中に入るのは初めてだ。扉の先はいまいち管理が行き届いていないのか数多の本で埋め尽くされている。この中から特定の三冊を見つけるなんて無理があるんじゃないか?
手助けされている身分で文句を垂れるのはどうかとは思うのだが、普段は蔵書室に来ないと言っていたユリオプスが頼りになる気はしない。図書館のように司書がいるわけでもないのだから。
「相変わらず埃くさい部屋だな……まあ、アンタの部屋よりマシか」
「今は綺麗ですよ。それはいいとして、このメモに書かれた本を探さないといけませんね」
「さてと、ちょっと待ってな」
メモをもう一度見せようとした私を軽く手で制すと、ユリオプスは一言残して本の山に進んでいく。何の迷いもなく奥の方へ消えていったが、まさかこの先に他の出口があって私を置き去りにしてサボりに行くつもりだろうか?
「メモの本はこの三冊だな」
私の疑いは杞憂に終わり、そう時間が経たないうちに本を手にしたユリオプスが戻ってきた。差し出されたまま受け取り表紙を確認する。やはり何が書いてあるかは分からないが、メモの羅列と本に書かれた文字らしきものは同じ形をしていた。すぐに見つけてくれたのは有難いが、蔵書室に興味がないと言っていた人が見つけるスピードとも思えない。
「ありがとうございます……」
「ん? 何か言いたげだな、メモの通り本は間違ってないはずだぜ」
「いえ、ただ見つけるのが早いなと思いまして」
「アンタと違って文字が読めるからね」
疑問が声色に出てしまっていたらしくユリオプスは不満げに眉を寄せた。思ったことを断片的に伝えると、少し意地悪そうに口の端を釣り上げる。はぐらかされたのかただ嫌味を言いたかったのかは分からない。
「で、仕方なく手伝ってやったが届けるのは一人でできるだろ?」
「実は副団長室の場所が分からないです」
「はあ? そんなことも分からないままパシられてんのかよ」
「情けないことにその通りです」
「アンタ、そんなんで今までどうやって生きてきたんだよ」
「それが記憶にないんですよね」
何だかユリオプスの私を見る目が、どんどん可哀そうな生き物を見る感じになっているような気がする。居た堪れない気持ちになり、読めやしない手元の本に視線を落とす。酷い言われようだが、こういう時は全て記憶喪失のせいにしておけばいい。
「はぁ……アンタみたいなぼんやりした奴はうまーく利用されてポイっと捨てられちまうぜ?」
「えぇ、僕ってそこまでぼけっとしてますか?」
「ああ、分かった」
「何がですか?」
「オレがアンタの教育係にさせられた理由だよ」
「え?」
これは思ってもいない収穫か。思わずユリオプスに顔を向けると、得意げに細めたアイスブルーの瞳と視線がぶつかった。副団長に聞けずに終わった疑問がここで解消できるなら嬉しい誤算だ。ただ副団長のことを嫌っている彼から見た答えを鵜吞みにはできない。変に刺激しないように曖昧な答えを返しながら彼の話を促す。
「今にも問題を起こしそうなアンタが実際に何かしらやらかせば、教育係のオレを連帯責任で罰せられるだろ」
「わざわざそんなことしますかね?」
この際、私への評価が絶望的に低いことは受け入れよう。そんな遠回りなことをしなくても、普段の怠慢気味であろう職務態度を理由に罰を下せそうだと思うのだが、そうもいかない事情があるのだろうか?
「そういう奴なんだよアイツは。急に呼び出してオレに役をつけるって時点でおかしな話だと思ったんだ」
「ただ信頼されて任されただけかもしれませんよ」
「……はは、なんだ、もうアイツに躾けられた後か?」
やばい、間違えたか? すっと鋭くなった眼光が次の瞬間、嘲笑うようなものになり私を見下す。大丈夫この場所は、壁に近くないし壁ドン首絞め即死ルートにはならないはずだ。
うっかり怖気づいてしまいそうな視線だが、ここは冷静に言葉を選ぼう。副団長の悪口にならない範囲でユリオプスに同調しておけばいいだろう、明言は避けて適当に濁してみるか。
「まさか、僕はあの人のことよく知らないですし、躾けられるつもりもありませんよ」
「どうだか。アイツがオレを信頼することなんてないよ」
ユリオプスは私を一瞥すると自嘲気味に眉を下げた。もう彼の瞳に先程のような鋭さはない。彼の言葉も私というより彼自身に向けられたもののように聞こえた。
折角、濁したのに直ぐ蒸し返してきた様子から見て、地雷ワードは信頼だったらしい。副団長の話題が地雷というより、彼を肯定的に言うことがダメなのかもしれない。それとも、知った口を利くんじゃない! ということなのか。
「余計なことを話したな。さ、副団長室に案内してやるよ」
私の返事も待たずにユリオプスは歩き始めた。本を持ち直し慌てて後を追いかける。一冊なら大したことないがそこそこの厚みがある本を三冊となれば思いの外、重量がある。それとも空気が重すぎて余計に重く感じているだけのか。
特に会話は起きないまま騎士団本部の最上階につくと少し先に一際大きな扉が見えた。そこでようやく足を止めたユリオプスがこちらを振り返る。
「この先にある偉そうな装飾の入った部屋が副団長室だ。オレは絶対に入らないからな。ここまで案内したのが奇跡みたいなものだと思ってくれよ」
「ありがとうございました」
「じゃあ、オレはこれで。真面目に仕事はこなしただろ? そうだ、間違ってもアイツに変なこと言うなよ」
待って、という間もなく去っていったユリオプスはいつになく速足だ。それにこちらが口を挟む隙もないくらい早口だった。
そもそも、ここまで案内してもらえれば何も問題はないのだから止める必要なんてなかった。むしろ二人が揃ってしまった空間なんて一番避けなければならない危険ゾーンだ。これ以上、面倒な展開になる前にさっさと副団長に本を届けてしまおう。
「カルミアです」
「どうぞ」
扉の前まで進み軽く呼吸を整え、数回ノックする。直ぐに副団長の声が聞こえたため、控えめに扉を開けた。いつもの制服に身を包んだ副団長は、執務机で何か作業をしているようで手を止めない。邪魔にならないうちに本を置いて部屋を出よう。
「えっと、騎士の方に本を……」
「おや、その顔。どうやら奴に何か吹き込まれたらしいな」
「ひぇっ」