3、わりと記憶がないっぽい
「……気付いたらあの場所にいました」
命がかかっている状況でこんな雑な返答はだめだろ、と自分に言ってやりたいがこれ以上に説明ができないのも事実だ。
本当に目が覚めたらあの場所にいた。むしろ気付いたら異世界にいた。しかも、体ごと別人になっていたなんて言えるわけがない。確実に正気を疑われてしまう。
「そうか……」
男の紫の瞳が懐疑的にこちらを見た。嘘をついても見透かされてしまいそうな鋭く不思議な目だ。それを見ていると広告で殺される場面が頭に浮かび、背筋がゾクりとして居心地悪い。
しばらく、表情も動かせぬままそのアメジストと見つめ合っていると男は再び口を開いた。
「では、この持ち物は君の物か?」
「持ち物ですか?」
「村の近くで拾ったものだ。中身は何も入っていないようだが」
そう言って男が差し出したのは、汚れの目立つボロボロのバッグだった。中身は男の言った通り空っぽだ。
このバッグに見覚えがあるかと言われれば無い。とはいえ、目覚めた時に何も持っていなかったため私の物である可能性も高いが。
「すみません。分からないです」
「違う、ではなく分からないのか?」
「はい」
男の言葉に慎重におずおずと頷く……そう、ただ分からないのだ。今の私には、何かを断言するための情報が圧倒的に不足している。
「では、君の出身はどこだ?」
「……分かりません」
短い逡巡も空しく、ぼんやり霞がかった記憶は底が見えず何度も否と返すばかりだ。
「そうか。ならば……君の名は分かるか?」
「えっと、私の名前は……あ、れ? わ、たしの名前は?」
当たり前のように名乗ろうと開けたはずの口が、告げる言葉を失い固まる。男に問われて初めて気づいた。
私は誰だ?
私が覚えているのはそこそこ楽しく生きていた女子大生の記憶だけで、この体の記憶が何一つ分からない。
名前も、あの場所に倒れる前は何をしていたのかも。押し出し方式でこの体の人格も記憶も私が入ったとことで無くなってしまったとか?
それとも、そんなものは始めからない? いや、それはないはずだ。あの瞬間に私が誕生したわけでもないし。
「私は……」
絡まってきた思考の中、男の鋭い眼圧に何とか思い出そうとしても明確な答えは出ず、諦め混じりに首を傾げる。
何を思ってか男は僅かに眉を上げた。そして、少し私を見つめると静かに言葉を告げる。
「どうやら記憶が混濁……もしくは喪失しているようだな」
「……え?」
「モンスターに襲われたショックにより記憶を喪失した例がある。君もその類だろう」
「……記憶喪失、ですか?」
そうなんですよ、記憶喪失です! とあからさまに食いつくと怪しさがぷんぷんしてしまう。ひとまず事態が受け入れられず悲壮感が漂う女性を演出しておく。
嘘はついていないが、例の広告の記憶と前世の記憶とやらが微妙にあるせいで何となく後ろめたい。今の私に名乗れる名前もないのだから嘘ではないはずなのに。
「そ……そういえば、あなたはなぜ私を助けてくれたのですか?」
「仕事だからだ」
気まずくなったついでに、ずっと気になっていた質問をぶつける。すると、間も置かずに大して温度を感じない淡々とした声で返された。
「なるほど、仕事ですか。あと……あなたの名前を聞いてもいいですか?」
「名乗っていなかったな。私は青竜騎士団副団長アスター・ラインフェルトだ」
忘れていただけにも、情報を与えたくなかっただけにも見える態度だが、彼は耳に残るはっきりとした声で名を告げた。
「アスター……ラインフェルトさん?」
「そして、ここは騎士団の本部だ……記憶の無い君に言っても分からないかもしれないが」
よく分からない単語が並んだが騎士であることは分かった。とりあえずゲームなどに出てくる騎士をイメージしてみる、騎士と言っている以上は戦う仕事だろう。
つまり、あんな恐ろしい生物と日常的に戦っているということか? なるほど、主人公の一人や二人殺せる力があるのも納得だ。
折角の情報も、世界観がまだ掴めていないせいで上手く呑み込めていない。RPGの世界観に近いものは感じるが実際はよく分からない、何せ確信に至る情報が何もないのだから。
「君の処遇についてはまた追って知らせる。今日はこのまま養生してくれ」
「はい。ありがとうございます」
騎士団をイメージしている間に会話は終わり、アスター・ラインフェルトと名乗った男はそそくさと部屋を出ていった。
副団長というくらいだ、きっと忙しいのだろう。私としては、広告の人物とは一秒でも早く離れたいため有難い限りだ。助けてもらった恩とそれは別である。
現状を再確認しよう。今の私は騎士団という組織に保護され安全地帯にいる。しかし、どれだけ同情を引けたとしても体が治るまでが居座る限界だと思われる。
ただ、ここは広告の情報から見て乙女ゲームの世界。普通に考えたら攻略対象と仲良くなってハッピーエンドを目指すのが定石だ。
個人の感情としては、それをクリアしないと死ぬとかでない限り恋愛ルートに入りたくない。
少し選択を間違えたら殺されるスリリング過ぎる恋愛は求めていないし、情報が全く無い状態でハッピーエンドまでもっていける自信もない。
相手の地雷を踏んで消されるのも、嫉妬で厳しめの束縛の果て殺されるのもごめんだ。
理想としては誰とも深い仲にはならず、お友達として終えるノーマルなエンドか物語に全く関わらず外の世界で強く生きて行く方向性で頑張りたい。
どちらにせよ、先ずは自分の正体をはっきりとさせることの方が重要だ。
この世界の自分が、どんな身分で生い立ちでどんな思想を持って今まで生きてきたのかを知らないまま恋愛なんてハードルが高すぎる。
「それで……結局、私は……誰?」
疑問を口にしても答えは返ってこない。心細くでも感じたのか、布団を掴む手に力が籠った。
何より怖いのは、私がこの体の持ち主の人格を乗っ取ってしまった気がすることだ。記憶が戻れば元の人格に戻るのだろうか?
今は失ったであろう記憶と眠りについているのかもしれない。それならば、元の持ち主に返すためにも絶対に死ねない。
頭を悩ませているとコンコンと控え目なノックの音がした。返事をすると扉が開き、隙間から顔を覗かせるのは先程の少女だ。
「副団長とお話終わった?」
「君はさっきの……」
「私、スズラン。いつもは修道院で暮らしてるの。でも今日は特別な日だからここに来てるんだよ」
栗色ボブの少女は、スズランと名乗るとふわりと笑った。恐らく看病をしてくれていたであろう彼女に私も出来る限りの笑顔を見せる。
広告に出てこない人間というだけで心に余裕ができるため、笑顔も増し増し大サービスだ。
「スズランちゃんね。私の面倒を見てくれていたのかな? ありがとう」
「うん……あ、着替えもってきたよ。今、着てるローブに形は似てると思う」
「ありがとう。着替えさせてもらうね」
彼女に差し出されたローブを受け取り、早速ボロボロの服を脱いだ。こうして脱いでみると、かなり酷い状態であることが分かる。
ドラゴン自体に危害を加えられていないとなると、何故ここまで服がボロボロなのかは分からないが先ずは着替えることにした。
「お兄さんじゃなくて、お姉さんだったの?」
「ん? え、あぁ……女だね」
ローブに腕を通すと、部屋を出ようとしていた少女が僅かに驚いた声を上げた。当たり前のように自分が女だと思っていたが、自分の容姿をまだ確認できていなかったことを思い出す。
今、この体を動かしている私の意識は女であるが、この体がそうであるかは知らない。慌てて体を触って確かめればやや筋肉質ではあるものの女性の体つきであることが分かった。
スズランちゃんに気づかれないように密かに安堵の息を漏らす。異世界転生で性別まで変わるのは流石にハードルが高い。
しかし、スズランちゃんが男だと思っていたくらいには中性的な見た目をしているのだろう。違和感を感じていなかったが、言われてみれば女にしては低い声だ。
「じゃあ、名前は何ていうの?」
「ごめんね……思い出せないんだ」
「そっか。修道院にもモンスターに襲われて何も思い出せなくなった人がいるよ、大丈夫」
当たり前のように怖いことを言ってくれるな。可愛らしい彼女から発せられた言葉からも、穏やかな世界ではないことが感じ取れて既に心が折れそうだ。
彼女の言う記憶を無くした人とは先程、副団長が言っていた人のことだろうか。もし違かったら、それはそれで記憶喪失が頻発してることになるためもっと恐怖が増すだけだ。
「そういえば、バッグに……カルミアって刺繍してあったの! もしかしたらお姉さんの名前かもしれないよ。他には何にも見つからなかったから詳しいことは分からないけど……」
「カルミア……ね」
彼女に言われた言葉をオウム返しで小さく口に出す。妙に口に馴染むその名前に何かを思い出せそうな気がしたが、深く考えようとすると頭がズキンと痛んだ。
記憶を辿っているとベッドの端に座ったスズランちゃんが私を見つめ、少し言いにくそうに口を開く。
「えっと……その、思い出せないなら、カルミアを名前にしたらどうかな?」
「え……」
名前は記号にすぎない、しかし自分を自分と示す重要な情報だ。簡単には決められない、ましてやこの体が借り物である以上、私が勝手に安易に決めて良いものか。
分かりやすく言い淀んだ私に、スズランちゃんは大きなピンクの瞳を伏せた。
「本当の名前じゃないからやっぱり嫌だよね」
「ううん、いいよ!」
親切そうな少女にそんな顔をされては嫌とも言えない。どうせ名乗る名前もないのだから、細かいことを考えるのは止めてスズランちゃんに頷いた。
仮にでも名乗れる名前が無いというのは不便極まりない。本当の名前を思い出したらその時にまた名乗り直せばいいか。
「じゃあ、カルミアお兄ちゃんだね」
「……いや、女だからお姉ちゃんかな」
「あ、そうだったね。私のお兄ちゃんにちょっとだけ似てたからつい間違えちゃった」
嬉しそうに私をカルミアお兄ちゃんと呼ぶ彼女にほっこりしかけたが私は女である。
後で自分の姿を確認しなければ、と思いつつ何となく引っかかるカルミアという名前をもう一度小さく呟いてみる。
しばらくはこの名と付き合っていくのだろう、ある種の誕生とも言える瞬間に感慨はない。
いずれ体に馴染む日が来るのか? 不透明な未来に静かに目を閉じた。