最後の冒険
※武頼庵(藤谷K介)様主催『この秋、冒険に出よう!!』企画参加作品です。
午後の回診。
主治医の和田先生が、世間話の合間にさり気なく、次に耕太郎がいつ来るのかと訊いてきた。
──もう察しはついてるわ。そろそろ、抗ガン剤の効果が見られなくなってるんでしょう。検査データに目を落とした先生のお顔が、ほんの一瞬だけ曇ったもの。
今後の治療方針について、家族も交えて相談したいというところかしら。
でも、──そろそろ潮時なのかもしれないわね。自分から緩和ケア病棟に移ることを申し出てみようかしら。
ひとつ前の抗ガン剤は、副作用がきつくてとても辛かった。次の抗ガン剤でもあんなしんどい思いをするくらいなら、もう痛みだけ抑えてもらって、心穏やかにその時を待つ方がいいわ。
窓の外では、今日も紅葉がはらはらと風に舞っている。
どうやら、私にはもう来年の桜を見ることは叶いそうもないわね……。
「ばあちゃん、起きてる?」
ベッドの背を倒して少しまどろんでいると、孫の武弘が病室の入口から声をかけてきた。
本当に優しい子。大学が近いということもあるんだろうけど、3日と空けずに訪ねてくれるのよ。
でも今日は、その武弘の後ろから、ぴょこっとポニーテールの女の子が顔を覗かせたの。
──あら? あらあら、まあ!
「お邪魔しまーす。初めまして、北村カナエと言います」
もしかして武弘のガール・フレンドさん? まあ、こんなの初めてだわ。
「ああ、コレ俺のカノジョ。ついてくるって聞かなくってさ」
「何よ、武弘がどこに行くかはっきり言わないからじゃん。ユウヤなんて『あいつ、こっそり他の女と会ってるんだぜ!』とか、紛らわしい言い方するし」
「ちぇっ、あいつ、しょーもないことを──」
そんな初々しいやり取りを見てたら、何だか嬉しくなってきちゃったわ。
「まあ、よく来てくれたわね、カナエさん。初めまして、武弘の祖母です」
「お話はかねがね伺ってますよ。
お祖母さん、○○県出身なんですよね? 実は私もなんですよ!」
「あら、そうなの!?」
清潔感もあって、はきはきした素敵な子ね。いい子を捕まえたじゃない、武弘。
久しぶりに、カナエさんとお国言葉全開の会話なんかを楽しんで──でも、ものの十分ほどもしたら息切れしてきちゃった。もう、体力がだいぶ落ちてきてるのね。
「あ、すみません、私ばかりベラベラと──! お祖母さん、少し休んでください」
「あら、いいのよ、カナエさん。とっても楽しかったわ。
──ねえ、武弘。少しいいかしら」
うん、今がいい機会なのかも。武弘も、カナエさんがいるところで取り乱したりはしないでしょうし。
「耕太郎に伝えておいてくれる? そろそろ緩和ケア病棟に移ろうと思っているって」
私の言葉に、武弘が一瞬顔をこわばらせる。もうわかっているのでしょう。それはもう、私にこれ以上の治療を続ける意思がないのだということ──そして、私に残された時間がいくらもないってことを。
「わかった、帰ったら今夜にも伝えとく」
すぐに力強く答えてくれる。
頼むわね。気の弱い耕太郎には、受け入れるための時間が少し必要だと思うし。
「──俺さ、試験もレポート提出も終わったから、しばらくはヒマなんだ! どこか行きたいところとか、やりたいことがあったら、どんどんつき合うよ」
それでも、明るい笑顔を作って訊いてくる武弘の優しい強さが、本当に愛おしい。
「そうねぇ、特にはないけど──最後に故郷の景色くらいは見ておきたいかしら。
もう実家もないし、何十年も帰ってないから、だいぶ変わっちゃったんでしょうけどねぇ」
何気なく答えてはみたけど、もう外泊許可なんてたぶん出ないでしょうね。
そんな風に思っていたら、ふいにカナエさんが身を乗り出してきたのよ。
「あの、お祖母さん。故郷って○○県のどの辺りなんですか?」
「ああ、××っていう古い温泉街なんだけど、知ってるかしら。
──もうすっかり寂れちゃってるか、再開発で跡形もなくなっているか、どちらかだと思うんだけど」
「あっ! ××温泉なら、昔の景色を見られるかもしれませんよ!」
そう言って、カナエさんが急いでスマホで何かを調べ始めた。
「××温泉って確かに一時期寂れちゃったけど、最近はその古い街並みが逆に『昭和レトロ』とか言って、若い人にも人気なんですよ。
今では観光客向けに、あえて街並みを残す方向なんだそうで、──ほら!」
カナエさんがスマホで見せてくれたのは、観光協会か何かのホームページ。
確かに写っている写真は寂れた田舎町の街並みそのものだけど、私の記憶にあるような光景よりもはるかにオンボロな建物ばかりで、──今はこんなのが人気なの? 本当に?
「あっ、そういうことなら──!」
今度は武弘がノートパソコンを取り出して開いた。ちょっと操作をして見せてくれたのは──××温泉街の地図?
「ばあちゃん、生まれた家がどの辺だったかわかる? 道筋とかはちょっと変わってるかも知れないんだけど」
「ええと、そうねぇ」
もう何十年も前のことだし、記憶にも方向感覚にも自信はないんだけど──神社や小学校の位置から、何となくこの辺だったという見当はついた。
「この辺だね。ちょっと見ててよ」
武弘が画面で何やら操作すると、あら、びっくり!
まるで自分がその路地に立っているような色鮮やかな風景が、画面いっぱいに映し出されたのよ!
「まあ、凄い! 何だか魔法みたいね!」
「これ『ストリート・ビューワー』っていうんだ。ここを押すと歩いてるみたいに立ち位置も変えられるし、360度ぐるりと見渡せるんだよ。どう、この辺の景色に見覚えない?」
武弘が、画面を色々動かしてくれる。
──ああ、確かにこの辺りかも! 実家があったところは駐車場になっちゃってるけど、三叉路に向かって下っていく坂道や角の煙草屋さん、はす向かいの美代ちゃんちのお米屋さん──もうとっくに潰れちゃったようだけど、この光景は子供の頃に走り回っていた、あの路地だわ!
何だか胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。まさか病院のベッドに居ながらにして、あの頃の景色の中に行くことが出来るだなんて──!
「──ありがとうね、武弘、カナエさん。
もう見ることなんて出来ないと思ってたけど、今の技術ってまさに『魔法』ね。
これでもう、思い残すことなんて──」
「何言ってんだよ、ばあちゃん! まだまだ、こんなもんじゃないよ」
私の言葉をさえぎって、武弘が明るい声を張り上げる。
「この『ストリート・ビューワー』なら、どこにだって行けるんだよ!
昔行った思い出の場所とか、行きたかったけどまだ行けてないところとか、いくらでも見せてあげるよ!」
あら、そんなことも出来るの?
そうねぇ、おじいさんと行ったところだと、京都の『哲学の道』とか、東北の奥入瀬だとか──。
私が思いつく地名をいくつか挙げると、それをメモに書きとめていたカナエさんも、何だか楽しそうに訊いてきた。
「海外とかはどうです? 行ってみたい国とか、街とか、観光名所とかありませんか?」
「えっ? まさか外国にも行けるの!?」
海外旅行なんて、耕太郎の結婚式でハワイに行ったくらいだったけど、本当はもっと色々行ってみたかったのよ。
おじいさんがあまり長い休みが取れない人だったので、あきらめてたんだけど。
「それなら、シャンゼリゼ通りのお洒落なカフェのテラス席とか──昔の映画で見て憧れてたのよね。
ロマンティック街道のドライブとかも行ってみたかったし──スフィンクスとかピラミッドも見てみたいわね」
「それ、もう全部行っちゃいましょうよ! 私のパソコンの方がもう少し大画面なので、明日持ってきますね!」
「あら、カナエさん、明日も来てくれるの? 嬉しいわねぇ。
一緒に世界中見て廻るなんて、ワクワクしてきちゃうわ」
──本当に優しい子たち。もう治療を続けないという私の意志を尊重しつつ、残された時間が少しでも楽しいものになるように、心を砕いてくれる。
なら私も、この子たちが笑顔で見送ることが出来るよう、残りわずかな日々を笑顔を絶やさずに過ごしていきましょう。
きっと大丈夫。もう治療はあきらめたけど、気持ちはむしろ、とっても前向きになっているのだもの。
「武弘。次はちょっとつまめるようなお菓子も買ってきといてね。
──さあ、明日から、世界中を廻る『冒険』の始まりよ!
行ってみたいところは山のようにあるんだけど──ふたりとも、しばらくつき合ってくれるかしら?」