プロローグ
幼少の時に飼っていたカブトムシを思い出す。
霧吹きを持って虫かごを開けたときによく嗅いだ匂い。甘いような饐えたような匂いが鼻にこびりつく。
切れ目なく蝉の声が聞こえる。
日頃から煩わしく思っていたその声は遥かに煩わしく聞こえる。
都会での彼らの声など本来の彼らの力からは程遠いことを思い知らされる。
尻餅をついた拍子に地面についた手からは湿った土の感触が伝わってくる。しっかりと土で手を汚したのは小学校の畑体験の時以来だろうか。
木漏れ日に目を細めながらあたりを見回す。
一言で表すのならば、森だろう。
普段見る自然といえば街路樹とかそのくらい管理された自然、果たして管理された自然を本当に自然と呼ぶべきかは疑問が残るが、その程度な俺からすれば初めてみるであろう本物の自然はなかなかに圧倒されるものがあった。
なんだかんだ人間の手が及んでいないところだってあるのだな、なんて感慨に浸っていると声をかけられる。
「目が覚めたようね。」
声のする方を見るとそこには少女がいた。
美しい、本当に美しい少女であった。見た目は俺とそう変わらないだろうか。岩か木の塊か、そんなものに腰掛けていた。
キリッとした赫い猫目に濡羽色のロングヘアー。あどけなさが残りつつも、その美しさによって大人っぽさを兼ね備えたそれは、ある種で奇跡のような配分で成り立っていた。
「黙ってじいっと見ているだけだし、大丈夫?頭がパァになっちゃったりしてない?」
そう言って彼女は立ち上がり、俺の方へ歩いてくる。いまだに尻餅ついた俺にぐいっと顔を近づけて、瞳を覗き込む。美しい瞳は宝石を思わせるようで実際に見たことはあらずとも、ルビーのような瞳とはこう言うことなのだろうと感じる。
「指、何本に見える?」
彼女は白くて細い人差し指と中指を俺の眼前で振り、そう聞いてくる。
「問題なく見えてるよ、二本。」
「そう、じゃあ早速だけど、あなたに二つの選択肢を与えます。」
彼女はそのまま上げた指の片方を折り曲げていう。
「一つ目はこのまま一人でお家へ帰ること。あなたは今住んでいる場所から遠く離れた場所にいます。ヒッチハイクと手持ちの現金で電車を乗り継いで家に帰るってことね。」
「言ってること無茶苦茶すぎないか。俺が住んでる場所から遠く離れている場所にいる原因は多分お前だろう。そもそも俺には一体全体今までに何が起こったか、」
「だからもう一つの選択肢があってね。」
彼女は俺の話を無理やり打ち切り、徐に立ち上がって、俺に向けて手を差し出す。
絶え間なく鳴いていた蝉の声が遠のく気がした。
木漏れ日は彼女をキラキラと照らして、森林のじめりとした空間を心地の良いそよ風が通った。ふわりと香った花の匂いは風がつれてきたのだろうか。
先ほどまでと何一つとして変わったわけでもなしに、それでも世界が彼女のために様相を変えたように。
「私と一緒に家出しない?」
そう言って。
劇的で運命的で魅力的なその瞬間に。
今までの人生全てがこの時のための消化試合のようにすら思える、まるで映画館の予告が終わり舞台が暗転する時のような、その瞬間に。
そよ風によって捲られたスカートの中を俺は目にしたのであった。