7、モノクロ女を色ヌル光
モノクロ女を色塗る光
神山七
「ねえ。いつまでそれを眺めているの?」
幼馴染が私の声ではっと我に返る。彼は組んでいた手を解いてにこりと笑った。
「ううん。もう行こうか。」
彼はそういって再び歩き始めた。だけどいまだ舞い散る桜にその目は泳いでいる。私はついさっき買ったシラスコロッケなるものをほくほくと食べながら同じように桜を眺めている。満開の桜が舞うのはとてさわやかでその奥でただ動じずに立っている大樹たちはとても厳かだった。
「そういえば、桜の下には死体が眠っているっていうじゃん?あれって深大寺がモデルらしいよ。」
「え?そうなの?」
「いや、エイプリルフールさ。」
「なんだ。」
そういえば、今日から4月だった。そう考えると、今年は桜が咲くのが早いのかもしれない。春だ。出会いの季節であり、そして別れの季節だ。この四月一日、私は物心ついてからずっと一緒だった幼馴染と離れて暮らすことになる。海外の大学に行くそうだ。お盆や正月には帰ってくるにしろ、今まで通りには会えなくなる。はっきり言って寂しい。ポケットでぶるっと震えたケータイをちらっと見る。親友からのメールだ。
「けじめつけちゃいなよ!後悔するなよ!」
分かっている。私はこの幼馴染のことが好きだ。そして、それを伝えたことはない。だから今日、親友の言う通りけじめをつけるために花見に誘ったのだ。場所はこの幼いころからの思い出が詰まる深大寺。私は腹を決めて幼馴染に声をかけた。
「ねえ、とし君。」
「ん?」
あの時見た桜はもっときれいだったような気がする。いや、あの日以来私の心は濁ってしまったのかきれいなものをきれいととらえることが出来なくなってしまった。だからきっと、この桜もあの時と同じ鮮やかさなんだろう。
もう10年も前になるか、私はここで幼馴染のとし君に告白した。そして、フラれた。私はそれがあまりにもショックで、予想外で、逃げ出すように帰ってしまったから、とし君とはそれっきり会っていない。海外に行くから携帯の契約も切ってしまったのだろう。電話もつながらなかった。固定電話にかける気にもならなかった。かける筋合いもない。だって私たちはただの幼馴染で恋人同士ではないのだから。
それでも、私は毎年この季節になると未練がましく深大寺の桜を見に来ていた。大丈夫。狂ったのは私の心の眼だけらしい。手に持っている団子はとてもおいしい。これを食べたら仕事に戻ろうか。いい加減、散りゆく桜に目を泳がせるのも飽き飽きだ。と、そう思って振り返ろうとすると視界の隅に見覚えのある顔が見えた。とし君だ。そしてとし君の隣にはきれいな金髪の女の人がいた。10年ぶりに見るとし君は、記憶の中よりも凛々しくなっていてシュッとした大人の男性になっていた。女性の方もとても私とは比べられないほどまぶしい金髪とまっすぐな鼻筋の美人。二人とも幸せそうに、お互いを見つめながら微笑んでいた。私は驚いた。それは、天文学的な確率でとし君に再会できたからではない。とし君の隣にきれいな外人さんがいたからでもない。自分がそれを見て反射的に睨みつけるようなしかめっ面になっていたからだ。10年ぶりの再会でも話しかける気にはなれない。私は右手で顔の筋肉をほぐしながら確かにあのカップルが自分の幼馴染であることを確認して仕事に戻った。ああ、今日は桜が一層濁って見える。
「ねーえー、聞いてるー?さゆりったらぁ!」
そういって絡んできた同僚の方を振り返るとアルコールのにおいがむわっと入ってきた。
「聞いてるよー。で、なんだっけ?」
「だーかーらー、そいつ『君とは、友達でいたいんだ。』とか言ってー、そんなに恋人じゃあ不満があるの?あたしには分からないよお。なんでいつも寸止めでお預けされるのー?ひどいよー。」
話し方こそ酒が入っているせいで品を欠くが、この同僚は本当に恋愛運というものがない。運がないのだろう。それは、私もそうだ。いや、原因がわからない漠然としたものを運のせいにしているのかもしれない。分からない。友達と、恋人のラインというのはどういう基準なのだろう。私が越えられなかった壁を越えたあの外人さんは自分と何が違っていたのだろう。そう考えながら私もコップを仰いだ。どうも視界は回っても頭は回らない。
次の日のお昼も私は深大寺に来ていた。一人でざるそばを頼んで水をすする。今日もここに来ればとし君とその彼女に会える気がしたのだ。そして、会いたいと思った。いや、会おうと思えばとし君の家にまで行けばいいのだが、それをする気にはなれない。それでもここに来ているのは現実に向き合おうとしているのか、それとも会わない事実にほっとして目をそらそうとしているのか。多分そのどちらでもあるのだろう。この蕎麦のようにグレーな頭の中はつゆをつけるたびに黒く染まって、後者の意見に傾きつつあった。そして染まりきらないまま蕎麦を食べ終えた。会計を済ませてまだ時間があるので植物園に足を延ばすことにする。少し時間はかかるが構わない。今日は土曜日だ。仕事はない。
植物園には心なしか子供が多いような気がした。動物園や水族館と違って、いかんせん地味なので大人向けのスポットだと思っていたのだが、そうでもないようだ。春休みだからかもしれない。特に見たい花があるわけでもなくふらふらと歩いて回った。いつになく気が向いてきてみたのだが、特別思い入れがあるわけでもないし、深大寺の桜を見て動じない私の心にこの植物園の花が何かを響かせるとは思えない。無駄足になってしまったかなと思いつつ、引き続き私は歩いた。するとカメラを構えている女性が目に入った。金髪で、すらっとしていて美術館の絵から出てきたような美しさだ。昨日見たとし君の彼女だ。趣味が悪いとは思いつつその人のことを観察してみることにした。
彼女が構えるカメラの先には色とりどりのきれいな花が並んでいる。何の種類かは知らない。ただ、それらは私が関わらない、関われない世界の象徴のようだった。私の腐った目に輝く彼女は美しく微笑みながらお花畑の間を移動していく。その姿だけで古いイタリア映画のワンシーンのようだ。私はそれからも追いかけてみたが特に得るものもなく虚脱感と虚無感だけが増していくので帰ることにした。つまらない邦画の日常にしか住めない私は、お饅頭でも食べようか。
私は結局帰り際に寄ったコンビニでお夕飯の材料を買って帰路についていた。自分を追い抜かして坂道を下っていく高校生たちに事故るなよ、と声をかけたくなる。その年頃に事故るとおいおい面倒なことになるとも言いたい。私も年を食ったものだ。颯爽と追い抜かしていく高校生とすれ違うように坂を上ってきた人と目が合った。
「あら?さゆりちゃん?」
「あ、おばさん!」
とし君のお母さんだった。会うのはいつ以来だろう。これも10年ぶりかもしれない。おばさんとは遺恨もやましいこともないのだから会ってもよかったのかもしれないけれど、こう実家を出たらなかなか会わないものだ。
「元気にしてた?」
「はい、おかげさまで。」
「何もしてないわよ。もう。聞いてるわよね?としが彼女連れてきたのよ!それも金髪の偉い美人さんでね、」
「そうなんですか。」
「あたしはてっきりさゆりちゃんと結婚するものだと思ってばかりいたからねえ。」
「アハハ……。面白いですね。」
「でも、としが言っていたのよ。さゆりちゃんはもう家族みたいなものだからって。何でも言えるんだって。」
「へえ、そんなことを。」
「さゆりちゃん、これからもいいお友達でいてあげてね。あの子結構内弁慶だからさ。」
「はい。もちろん。」
「あ、そうそうそこのスーパーでお団子が安かったのよ。さゆりちゃんあんこ好きよね?はい、どうぞ。」
おばさんはレジ袋からあん団子を一本渡してくれた。
「ありがとうございます。」
「ふふ、じゃあ、またね。」
私は手元に残ったあん団子を見つめた。懐かしい人と会ったから懐かしい食べ方も思い出してしまった。はしたないと思いつつも黒いあんだけをなめるように食べていく。そして真っ白なお団子だけが串に残った。私はなんだかすっきりした。理由はわからない。ただとても晴れ晴れしている。残った団子をパクリと食べてみる。歯ごたえのあるかたさをかみ切って飲み込んだ。一陣の風が吹いた。びゅっという音とともに何かが視界に広がる。桜だ。見上げると桜の木が満開の花びらを揺らして落としている。とてもきれいだ。とてもとてもきれいだ。目線を戻すと一組のカップルが歩いてきた。黒髪と金髪のカップル。私は満面の笑顔で手を振ってみた。あっちも驚いたように反応する。
春は別れの季節。そして出会いの季節。
でも一番は、桜が美しく見える季節だ。