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神山七 短編集  作者: 神山七
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6、裏返せば、氷雨

裏返せば、氷雨


神山七

 

静かだ。明かりのついていない電球をぶら下げた天井はその静けさにぴったりの雰囲気をしている。おもむろに立ち上がってカーテンを開けた。昨日は雨だったから景色も心なしか落ち着いて見える。窓でも開ければ鳥の鳴き声でも聞こえてくるのかもしれないが今はこの静けさに身を任せたい気分だ。   


ふと時計を見る。夜の8時をちょうど回ったころだ。すぐ下に書いてある温度は11度。11月にしては少々寒いほうかもしれない。軽く夕飯をつまもうと思った。朝にお茶漬けを食べてから何も食べていない。何か惣菜を買ってこようと財布を手にして中身を確認する。バイトの給料が入ったばっかりなので少し多めに入っている。これならスーパーじゃなくてコンビニで済ませていいだろう。夜のスーパーというのはなぜか枯れたにおいがするから嫌いだ。


使い古したコートを羽織って外に出た。鳥の声は聞こえなかった。部屋と同じ静寂がまた僕を包み込む。鍵を閉めてアパートの廊下を自分の足音を聞きながら歩く。そういえば昨日となりに誰かが引っ越してきたようだった。挨拶に来られていないからそれがどんな人かは知らないが。あるいは今日学校に行っている最中に来ていたのかもしれない。まあ、別に来なくても来ても挨拶以外することないのだから強制するつもりはさらさらない。ただ少しこれからは物音に注意したほうがいいかもしれないな、と思った。

階段をパタパタと降りてアパートの敷地を抜ける。ここから3分ほど歩いたところにあるコンビニを目指してコートに首を埋め込ませながら歩いた。ああ、寒い。


アパートを抜けて路地に出る。近所の共同のゴミ捨て場に3匹の猫がいた。縞が二匹と黒が一匹。縞の方はカップルみたいだ。黒はそれを遠巻きに見ている。決して一匹狼なんかではない(だからと言って一匹猫でもない)寂しそうな感じで見ていた。黒猫は僕の方をちらりと見て家と家のはざまに消えていった。どこにだって寂しい奴はいるものらしい。


コンビニに入るとホッとするような温かさに顔が火照る。入店の音がやたらと大きく響いた。部屋を出てから初めて耳が仕事をした気がする。ふらっと店内を回ると、冷たいチキンナゲットが目に留まる。迷わずそれを手に取った。もう一つくらい何かと思って、視界に入った納豆巻きを見てこれを選ぶことにした。飲み物もと悩んだが確かバッグに紅茶が入っている。無駄遣いはよくない。レジに向かおう。


会計の列には2人ほど並んでいた。その列の後ろにつきなんとなく外を眺める。コンビニの中が明るすぎて外のことなどほとんど把握できないがそれでも眺める。どうせ並んでいる最中など何もできない。しばらく眺めていると、ザーッと音がしてきた。雨が降り始めたのだ。コートにはフードがついているがやはり濡れると余計に寒い。今会計をしている人も慌ててビニール傘を持ってきたのでその人に倣ってビニール傘も買うことにした。これは無駄遣いではない。


外に出ると、やはり雨が降っている。しかし、思っていたより降っていた。傘を買ったのは正解だったようだ。新品のせいか少し開きにくい傘を無理やり開いた。さっきまでの静けさはどこに行ったのか、止まない雨音を聞きながらアパートまでの道をゆっくりと歩く。すると、足早に女性がバッグを頭にのせながら抜かしていった。この突然の雨に焦っているのだろう。どうする。傘を貸すべきだろうか。どうせアパートまでは走ってすぐだ。この傘も今買ったとはいえ、もとはない傘だと思えばたいしたことはない。僕は傘を貸すことに決めて、いまだ走り続ける女性を追いかけた。


「あの!この傘使ってください。」

「え、でも、」

「こっちはもう走ってすぐ着くので気にせずに、どうぞ。」


そういって僕はリレーのバトンパスのように傘を女性に押し付けて残り少ない家までの道のりを走った。


すっかり濡れながらようやくアパートにたどり着く。思ったよりも長い道のりだった。馬鹿なこともしたもんだ。さび付いた手すりを掴んで湿るように濡れた赤茶けたアパートの階段をカンカンと金属音を響かせながら、駆け上る。上った先の電気も照らしてくれない薄暗い廊下には一つのうずくまっている人影があった。無視したいところだが、いかんせん僕の部屋はそいつが座るその先だ。


「よう。」


突然、人影がうなるように声を上げた。その声にはある種聞き覚えがあるようだった。確信はないが人影の正体を当てようとする。


「……山本か?」

「おうよ。」

「何してんだよ。」

「ちょっとあってな。家、入れてくんね?」


人影、もとい、山本は雨に濡れた服を壁に沿わせるようにのろのろと起き上がって僕の隣の部屋のドアに寄りかかった。


「雨に降られたのか?」

「まあ、そんなとこだ。」

「別に入れてもいいけど、僕の部屋は隣だ。」

「あ?そうか。」


僕は鍵を開けて突然の来訪者を招き入れた。雨で少しこもった空気が部屋の中から漏れてくる。僕は靴を心なしかいつもよりそろえて狭い畳へと進んだ。山本ももたもたとしながらも畳にやってくる。


「今日、もう遅いから泊まってけば?」

「いいのか?悪いな。」

「風呂入ってくるから。その飯、まだ食うなよ。」

「おう。」


僕は服をさっさと脱いでシャワーを浴びた。ものの数分とはいえ、雨を浴びた後だとシャワーはとても気持ちがいい。ざらついてしまった髪を手櫛である程度整えながら体が温まりをしみじみと感じる。とはいえ、一応忠告しても僕の夕飯をそのうち食い始めるであろう山本を放っては置けないので早めに上がる。畳には山本が壁にもたれながら固まっていた。僕が風呂にいる間、ずっとそこにいたかのように居座っていた。ちゃぶ台の上のビニール袋には未開封のナゲットが残っている。下手なことはしなかったようだ。


「お前も入るか?」

「あ?僕はいいよ。着替えもないし。」

「そうか。」


隣のドアが開いた音がした。まだ見ぬお隣さんが帰ってきたらしい。続けてバタン、と閉まる音もする。案外聞こえるものだ。改めて、物音に注意しなければと胸に誓った。それから、少ないナゲットと納豆巻きを山本と分けてすぐに寝た。これでまた、冷蔵庫にはニンジンだけだ。明日は土曜日。バイトもない。ゆっくりできそうだ。


翌朝、目が覚めた。時計を見ようと体を起こす。だが、時計を遮るように山本が座っていた。昨日の定位置からは少し移動したようだ。僕としてはどうでもいいが、時計は見せてほしい。


「起きたか。」

「ああ。何時だ?」

「ちょうど九時だ。」

「なるほど。」


完全に体を起こして欠伸をする。疲れがすっかりとれたというわけでもないが、部屋に他人がいる限り、おちおち二度寝もできない。何の気なしに立ち上がってみる。山本がこっちをじっと見てきていた。


「どうかしたか。」

「いや、なんか食えるもんないのか。」

「ああ、買いに行かないとな。おごれ。」

「わかった。」


案外すんなりと買ってくれることを了承したので不思議な気分になったが、気にせずにコートを手に取る。まだ少し濡れているようだった。しかし着ていかないわけにはいかない。背に腹は代えられないのだ。背中に冷たいものを感じながら妙にそろった靴を履いて、薄いドアを開けた。すると、隣も同じくドアが開いた。


「あ、えっ、もしかして、」


ドアから出てきた女性が僕を見て何かつぶやいている。


「どうも、初めまして。」

「いや、あの、もしかして昨日私に傘、貸してくれました?」


女性は、すっと部屋に戻ってビニール傘を持ってまた出てきた。確かに僕が昨日購入してすぐに人にあげてしまったものだ。いや、確かにというほど確信は持てない。何せ、自分の所有物であった時間はほんの数分なのだから。しかし、そうかもしれないという思いがすでに圧倒的に心を埋め尽くしていた。


「ああ、あなただったんですか。」

「ええ、こんな偶然うれしいです。どうやって返そうものか悩んでいたので。」

「いや、別に返さなくていいですよ。たかが傘なんで。」

「いえいえ、その傘がなければ今頃風邪ひいていたかもしれませんから。」


女性はそういって傘を僕に渡してきた。いらない。少し、嘆息したい気持ちを抑えながら顔を上げた。そこで初めて女性の顔をしっかり見る。背は僕と同じくらいだろうか。160センチメートル後半くらい。女性にしては大きめだ。鼻筋はしっかり通っていて目もパッチリしている。まさにお手本のようなきれいな人だ。山本が僕に聞いてくる。ちなみに山本は僕より断然背が高い。170センチメートル後半だ。


「なんかあったん?」

「初めまして。私、先日こちらに引っ越してまいりました高倉由香子と申します。昨日この方には傘を貸していただきました。ありがとうございました。」

「いえ、礼なんてとんでもない。僕は中野博史といいます。大学生です。」

「同級生の山本です。」


由香子さんが自己紹介をしたので僕らもそれに倣った。


「これからどちらに行かれるんですか?」

「僕らは、朝ごはんの食材の買い出しに。」

「あら、私もそうなんですよ。よかったら一緒に作りません?」

「いいんですか?では、お言葉に甘えます。いいよな?」

「ああ。」


そういって僕らは買い出しに出かけた。またコンビニだ。別に不満があるわけではないが、面白みも感じない。一つ二つの野菜と総菜を選んで会計の箱に入れる。ちなみにお隣さんの前で友人に払わせるのは気まずいので僕も払った。ついていないな。


由香子さんは大学院生らしい。なので、年は僕らより上だ。だから敬語は使わなくていいといったが、性分なのでと押し切られてしまった。であった日に、厳密にいえばであって二日目から僕らは互いの部屋でよく食事をする仲になった。山本も僕の部屋に入り浸るようになった。別に誘ってもいないのだが。というかそもそもそんなに親しくなかったはずなのに。でもまあ、これが近年あまり見ないご近所付き合いというやつなのだろう。というか、ほぼ友達になっていた。


そして一か月と少ししてクリスマスを迎えた。


この日も僕の部屋で鍋を囲むことになっていた。クリスマスだからと言って恋人と過ごすなどという世迷言を言える人間はこの三人の中には居ないようだった。悲しくなんかない。絶対に。きっと。


「博史君、食材切れたよ。」

「あ、鍋も温まりました。早速行きましょうか。山本、皿出して。」

「おう。」


由香子さんがぐつぐつと音を立てる鍋に豆腐と白菜を入れる。少しお湯がはねて僕の腕にとんだ。思わず腕をひっこめる。


「いいですね。お鍋。見てるだけで温まります。」

「そりゃ見れるほどの距離にいたら、熱が伝わりますからね。」

「意地悪ですね、博史君は。ねえ、山本君。」

「そうっすね。肉も入れますよ。」


山本が肉を順に浸していく。肉が赤から色を瞬時に変えていった。それを見ながら、僕はポン酢と醤油の量を調整していった。結構こだわりがあるのだ。納得の味ができたところで再度、鍋を確認してみる。白菜はまだ火が通らないみたいだ。豆腐はいい具合だったので僕がそれぞれのお椀に取り分けた。早速ぱくついてみる。おいしい。骨の芯から温まるようなおいしさだ。冷やしても温めてもおいしいなんて罪な食い物だなとくだらないことを考えた。


「私、思うんですけど、豆腐って冷やしても温めてもおいしいじゃないですか。なんか罪な食べ物ですよね。」


由香子さんがだしぬけにそういった。


「由香子さん。」

「なんですか?」

「くだらないこと考えますね。」


それから1時間ほど食べ続けて締めの雑炊も食べ終わった。


「デザートに杏仁豆腐あるんですけど、どうします?」

「私、ほしいです。」

「山本は?」

「僕も、頼む。」

「わかりました。とってきます。」


僕は人数分のスプーンと杏仁豆腐をとってきた。みんながスプーンを手に取って杏仁豆腐を食べ始めたとき由香子さんがおもむろに口を開いた。なぜか嫌な予感がした。


「二人に相談したいことがあるんですけど。」

「なんでしょうか?」

「私、ストーカーに遭っているの。」

これは予感が当たったといってもいいのかもしれない。


「私、ストーカーに遭っているの。」

そう、由香子さんは言った。その目は真剣でとても数秒後になんてね、とか言って舌を出すような雰囲気はなかった。僕は持ち上げていたスプーンに乗った杏仁豆腐を口に入れて飲み込んでから、やっと反応した。


「それは、具体的にどんな?」

「ポストに私の写真が投かんされていたり、夜中に扉をたたく音がしたり、帰る時も誰かについてこられている気がするの。」


確かに、由香子さんは美人だ。街中を歩いていて振り向きはしなくとも、ああ、あの人美人だなと思うレベルのきれいさだ。ストーカーがいるといわれても別に違和感はなかった。あるかもしれないな、とそう思った。杏仁豆腐をもう一口食べる。山本はスプーンにも触れていないみたいだ。冷めるわけでも、温まるわけでもないのだからどうでもいいのだけれど。


「それで、僕らにどうしろと?」

「これはお願いなんだけど、できれば、そのストーカーを退治してくれないかなって思っています。」


正直、暴力とかそういうのは苦手だ。武道の心得など生まれてこの方覚えようとしたこともない。いざ対峙したときに相手がどれだけぼんやりしていようと腰の入ったパンチなど到底入れることはできないだろう。しかし、こんな相談をしてくれる隣人に無碍な返事をするほど僕はひどい奴ではなかった。最悪、山本が何とかするだろう。じゃなきゃ困る。


「やれることは限られると思いますけど、それでもいいのなら。山本は?」


山本は渋いとも無表情とも言い難い微妙な顔をしていた。そして僕の問いに回答する。


「いいんじゃないか。」


そういうわけで次の日の夜から僕らはアパートを外から見はることにした。面倒なことはごめんだ。


次の日、僕はいつも住んでいるアパートを路地から山本の車に乗って見張っていた。特に異変はない。あるとすれば、今日の天気予報は雨のはずなのにそれが降っていないことくらいだろう。まあ、降っていないほうがありがたい。時刻は夜の10時を回っている。買い出しに出かけた山本が戻らないか後ろを振り返るとゴミ捨て場があった。何かが光っている。僕は車を降りて近づいてみた。いつかの黒猫だ。僕の方をまたちらりと見て消えようとする。しかし黒猫の向かおうとした先から白猫が出てきた。向かい合った二匹の猫は互いにないて連れだって夜闇に消えた。次いで、またいつかの島の二匹が出てきていちゃつく。悲しくなって僕は車に戻った。ストーカーも山本も出るそぶりさえ見えない。というか、今は年末もいいとこだ。ストーカーだって帰省くらいしているんじゃないか。そうでなくともストーキングしないだろう。山本がコンビニのレジ袋を引っ提げて車に戻ってきた。


「何買ってきた?」

「アメリカンドックとピザまん。どっちがいい?」

「ピザまん。」

「まあ、どっちも二つずつあるけど。」

「なんで聞いたんだよ。」

「暇だろ。」


僕は包み紙を向いてピザまんにかぶりついた。中からとろけ出てくるチーズが眠りそうになっている頭を目覚めさせてくれる。気晴らしにカーラジオをつけた。なんだか聞いたことあるような女の歌声が流れてくる。歌が終わって流れていた曲の名前と歌手が読み上げられた。全く知らなかった。聞いたことあると思ったのは何かに似ているからだろうか?曲の区別がつかなくなってきているのは年を取ってきているからか、それとも同じような曲しか売れないこの世の中のせいなのか。山本はピザまんをもう食べ終わったのか、アメリカンドックを食すのに取り掛かっていた。僕も次に流れてきたまたもや同じような曲を聴きながら残りのピザまんをつまむ。相変わらず夜道はしんとしていて、猫も通らない。山本がアメリカンドックを食べる手を止めて話しかけてきた。


「なあ。」

「なんだ。」

「このままここにいてもストーカーは来ないぞ。」

「なんで。」

「俺がそのストーカーだから。」

「お前が?」

「ああ。」


僕は残りのピザまんを一気に口に入れて、無理やり飲み込む。そして大きくため息をついた。


次の日の夜、10時ごろ、由香子さんの部屋のドアがどんどんとなった。鳴らしているのは黒いレインコートを着て顔が見えない不審人物だ。ドアの向こうにいる由香子さんはおそらく震え上がっているだろう。いや、ポケットの携帯が振動している。電話をかけてきているのか。と、そのとき黒いレインコートの男が吹っ飛ばされた。山本だ。不審人物の腹に強烈な回し蹴りを入れる。そこで由香子さんの部屋のドアがゆっくりと開いた。山本はそれを見ることもなく不審人物に立て続けに蹴りをかます。4発ほど食らったところで、不審人物はほうぼうの体で階段を下りて路地へと消えていった。山本はそれを追っていく。しかし、数分後山本だけが戻ってきた。そして、山本は由香子さんの部屋へと入っていった。


そんな出来事が終わって日が昇り9時を回ったころ僕は部屋にいた。ぼろぼろになった黒いレインコートをごみ袋に入れて、ため息をつく。部屋には山本がこぎれいな姿で座っていた。


「少し、強く蹴りすぎじゃないか。まだ痛むぞ。」

「悪いな。でもおかげさまでだ。」

「ああ、じゃなきゃ困る。」

「なんで、協力したんだ。」

「ゆがんだ愛情は矯正すべきだろ。まっとうな愛情に。」

「ありがたい話だな。」

「ああ、最低な話だ。」


山本は封筒を滑らせてきた。僕はごみ袋を置いてまだ痛む腹を抑えながら封筒を手に取る。


「なんだこれは。」

「謝礼だ。」

「なぜだ。」

「かなうはずのない妄想をかなえてくれたんだからそれくらい当然だ。」

「ありがたい話だな。」

「ああ、最低な話だ。」


冷蔵庫を開けた。何も入っていない。昨日は鍋の残りがあったがそれも食い尽くしたようだ。先ほど受け取った謝礼の封筒を手に取り、昨日は休ませていたコートを羽織る。


「どこに行くんだ。」

「飯を買いに行く。何がいい。」

「なんでも。適当に。」

「わかった。」


ドアを開けて鍵を閉める。隣のドアは心なしかいつもより明るい色をしていた。アパートの前に引っ越しのトラックが止まっていた。誰か出ていくのだろうか。と思ったら家具を階段を上って運び入れてくるのが見えた。二階で空いているのはうちの反対側の隣しかない。またお隣さんが増えるようだ。引っ越し屋に会釈をして階段を下りる。アパートを抜けて路地を見ると誰かがすっと電柱の後ろに隠れた。あまりに不自然なのですたすたと近づいて隠れた人物が誰か確かめた。そこにいたのは全く知らない小太りの醜い男だった。なんだこれ、最低だ。


「何してる。」

「わ、私は、ぎ、義務を果たしているんだ!」

「なんだ、それは。」

「ゆ、由香子さんを見守ることだ!」

「誰だ、あんたは。」

「由香子さんの運命の人だ!」


その男は唾を飛ばしながら僕の質問にまくしたてるように答える。


「ストーカーか?」

「運命の人だ!」

「生憎、彼女にはほかに運命の人がいるみたいだが。」

「ち、違う!僕こそが運命で結ばれているんだ!」


そういうと、男は包丁をこちらに向けて突き出してきた。


「うわ、やっぱり最低だ。」


男は包丁を突き出したままこちらに走ってくる。体が硬直したが、男が踏んだ水溜りがはねたのを見て緊張が解けた。包丁を体の左側に受け流しながら、腕を振り上げると包丁が宙に舞った。ラッキーだ。カランと乾いた音を立てて落ちた包丁を後ろに蹴飛ばして拾おうとかがんだ男を返す足でけり上げた。倒れこんだ男の頭をもう一度、さらに体を二度蹴り上げる。何の芸もないサッカー蹴りで。気づいたら男は伸びていた。僕は一息ついて伸びた男を見つめた。ポケットから封筒を出し、中の紙幣を一枚そいつに落とした。千円札だった。謝礼の割には寂しい額だなと思いながら男に声をかける。


「ついてないよな。これで、彼女には近づかないでくれ。いいな。」


男は完全に伸びているので聞こえているのかはわからない。だが、僕はそれだけ言うと封筒をポケットに戻し、再びコンビニへの道を歩き始めた。


コンビニについて、適当に二入分を見繕いレジに並ぶとまたぼーっと外を眺めた。今は昼なので外の様子もしっかり見える。すると雨が降り始めた。またか、と思いつつ傘も買うことにする。


外に出ると、やはり雨は降っていた。デジャヴを感じるが雨は前より強い。歩き始めると誰かに抜かされた。若い女性のようだ。この雨に焦って走っているのだろう。僕は苦笑しつつ彼女のことを追いかけた。ああ、そういえばもう片方の隣にだれか引っ越してきたなと思いながら。


ゴミ捨て場では、変わらず縞の猫がいちゃついていた。黒猫はまた一人になって遠巻きにそれを見ていた。白猫が現れるそぶりは、微塵もなかった。


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