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神山七 短編集  作者: 神山七
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1、おでん

おでん


神山七


カーテンの隙間から漏れた陽光が照らす六畳間で、女は一人ソファにもたれかかっていた。正面のテーブルに置いてある冷めた日本茶は、茶葉を底の方に沈殿させ始めている。一つため息をついて、女はテレビの横のデジタル時計を眺めた。時刻は男が外出してから二十分が経過していた。


女は男を待っていた。この二人が小さなアパートで同棲を始めてから、すでに三年になる。女は地方都市に生まれ、地方都市で育った。中学も高校も、そして大学もその地方都市に位置するものに通い、従業員百人程度の、やはりその地方都市を拠点とする企業で事務として働いていた。生まれてこの方、この地方都市を離れて一週間と生活したことはなく、旅行と言っても本州を出たことすらない。ましてや、海外などには行くはずもなかった。決して、この地方都市に強い愛着を持っていたり、親戚関係のしがらみに縛られていたりするわけではない。人並みにSNSなどを通して、友人や有名人が載せる輝く日常を夢見ながら、やはり人並みにそれは自分には無関係な生活だと言い聞かせて過ごしていた。


男は二十分前に家を出た。二人の自宅から歩いて五分と経たない場所にあるコンビニに、おでんを買ってくると言って出たきりだ。実際のところ、男がおでんを買う必要はさらさらなかった。女がすでにその日の食卓を彩る品々を仕上げていたからだ。この日が両者にとっての休日ということもあり、料理にかける時間と気力が増大したことによって、その出来栄えには普段より若干の豪勢さが増していた。しかし、男はそれを一瞥すると何に不満を覚えたのか、おでんを買ってきたらもっといい、と女に主張するわけでもなく宣言し、女の言葉になりきらない反論を無視して家を出て行った。それ以来二十分間、女は特段食べたくもないおでんとそれを求めた男を、腕によりをかけて作ったせっかくのご馳走が冷めていくのを見ながら、ひたすらに待っている。


男と女が出会ったのは、大学二年生の時だった。第二外国語の会話の授業が偶然かぶったのである。その初回の授業で何の因果か、知らない者同士で隣に座ってしまったことから彼らの関係は始まった。アプローチをかけたのは男の方だった。一体、女のどこに惚れて行動したのかは明言しないでおくが、その一年を通して男は女にアタックをし続けた。ラブコールを受け続けた女がついに男の気持ちを受け入れたのは二年次が終わる頃であった。女にとっては、初めての恋人であった。


依然として男は帰ってこない。しびれを切らした女は、今までもたれかかっていたソファに腰かけ、こんな時に充電が切れてしまったスマートフォンを恨めしく見つめながら、男とのこれまでの日々を思い返そうと試みた。


前述のとおり、女にとって件の男は初めての恋人であった。女の容姿についてこの物語で言及するのは避けるが、女はかなり引っ込み思案な性格であり、中高と共学に通っていながらも色恋沙汰に巻き込まれることは一切なかった。実のところ、高校時代には女に直接告げていないだけで、女に好意を持っていた男性もいることにはいたのだが、いかんせん彼らの情報やその想いは女に届いていない。つまりそれは、彼女にとって好意を向けられたのも、関係を持ったのも、件の男が初めてという事実を指し示していた。


男と女が同棲生活を始めたのは、大学を卒業して一年と少しが経過したころだった。提案したのは男だった。この二人の関係において主導権を握っているのは常に男であった。女よりも、若干、本当に若干恋愛経験が豊富であった男は、自分に都合のいいようにその関係を進めていた。対して、女は恋愛経験が皆無に近かったため、その関係性に疑問を持たず、ただ等身大の愛をはぐくみながら男に追従していた。男が今回のような調子でふらっと外出し始めるようになったのは同棲を始めて、約一年が経った頃である。


依然として男は帰ってこない。ふと、女はカタカタという物音が耳に入っていることに気付いた。その音の主を確認すると、それは自分の貧乏ゆすりであった。知らぬ間にストレスがたまっていたのか、右足が痙攣したように震えていた。女はそれを自覚した上で、やめることはしなかった。以降これは、意志を持った貧乏ゆすりということになる。


現在、男は彼の勝手な思い付きにより外出している。彼らが恋人関係を始めたころ、男は常に女に気を配る姿勢を見せていた。暑くないか、疲れていないか、居心地悪くないか、様々な点に目を向ける男は、まさに理想の恋人と言っても過言ではなかった。女はそんな男の人となりに、段々と深く惹かれていった。


しかし、男の様子はその関係が長引くにつれて変わっていった。男は元来、自己中心的な性格であった。決して、女に対して見せた気遣いが見せかけの物だったわけではない。初めこそ、様々な事柄に対して気を配っていったのだが、女との関係に慣れるにつれて男も素の部分が出てきてしまったのだった。厄介なことに、男は自己中心的な性格とは多少自認しておきながらも、その部分を段々と女に見せていくことについて、相手も自分の素の部分が見れる方が喜ぶだろう、とこれまた自己中心的な考えで肯定していた。


女はそんな男の変化に、戸惑いや不安を覚えてはいなかった。ただ、少しだけ不満に思っていた。しかし、それらの不満を持った事柄について、女は男にほとんど言及していない。というよりもできていなかった。それは、女が幼少のころから引っ込み思案であったというのも理由の一つであるし、自己肯定感が低められていたのも原因の一つだ。また、件の男としか関係を持っていなかった女は、彼以外とのビジョンを想像することが難しかった。それ等全ては、男に対してこれまでの狼藉を咎められない事由として存在し続けていた。


最初に男がその自己中心的人柄を垣間見せたのは、ある日の夕飯のあとだった。二人で一日外出をした後、材料を買い、すき焼きを作った。男はそれを平らげた後、疲れたと言って皿洗いや後片付けをすることもなく、プイっと寝てしまった。別に女もそれに続いて就寝すればよかったのだが、女は律義に一人でその後始末をした。

次に男が同じような行動を起こしたのは、その一週間後である。やはり二人は一緒に外出していた。ふとショッピングモール内で書店を見かけた時、男は一人で週刊漫画誌の立ち読みを、女に断りもせず始めた。女はそれに戸惑いながらも自身も手帳コーナーなどをちらっと見た。しばらくすると、男が女のところに来てこう言い放った。「もう、一人で勝手にふらふらするなよ。」と。


女は、貧乏ゆすりをようやく止めて、立ち上がった。生気を失ったままのスマートフォンを充電するためだ。床に転がった白いケーブルを手繰って穴に差し込むと、女はまた貧乏ゆすりを開始した。実はこの物語が始まってから、まだ時間は五分しか経過していない。以降は女の心情である。


もう、どれくらい待っているんだろう。時計を見ても、彼が出て行った時間を確認していなかったから何も意味がない。ただ、もう三十分、いや四十分は待っているんじゃないか。おでんなんて必要ないと思う。なんでそんなものをわざわざ買ってくるの?私の料理が不味そうにでも見えるのかな……?日本茶もすっかり冷えちゃったよ。底の茶葉が固まって、私に味を伝えようとしてない。最近、私への気持ちも冷めてきているんじゃないかなって思うことが多々ある。付き合い始めたころはいつでも優しかったのに。私が悪いのかな。でも、それにしたって近頃の彼は自分勝手なことが多いと思ってしまう。いつだったか、確かあの時を境に彼は変わってしまった。二人でショッピングモールに買い物に出かけた時。彼は本屋を見つけて、一人で入っていった。そしてあろうことか、私に何の声をかけることもなく、くだらない漫画を立ち読みし始めたのだ!ありえなくない?そして暇を持て余した私が、仕方なくほかのコーナーを回っていたら彼が来て「何一人でほっつき歩いてるんだよ。勝手なことするなよ。」って言ったんだ。何その言い草!ありえないじゃない!彼の方が勝手な行動のかたまりなくせに!あ、ちょっと待って。それ以前にも何か彼がジコチューなところを見せた事件があった気がする。そうだ!すき焼きだ。あの時も私だけが後片付けをやったよね。疲れてたのは私だって同じなのにさ。きっと、今思い出せないだけで、その前にだって何度も何度もそんな事件があったんだと思う。ただ、そのころの記憶は、私が恋愛に浮かれていたせいで曖昧になっているけど、今の彼の兆しは絶対にあった。

こんなことがこれからも続くのかな……?彼と結婚した後もずっと、こんな感じなのかな?だとしたら嫌すぎる。私は知ってる。SNSで何件も見てきたんだ。付き合っている頃はまともだったのに、結婚したとたんDV夫になるような奴を。なんだか、サイレン音が聞こえてきたぞ。彼もきっとそういう地雷なのかもしれない。いや、きっとそうだ。じゃあ、どうする?どうすればいいの?彼と別れる?

仮に彼と別れたとして、私はこれからどうすればいいんだ。彼以外に男性経験のない私なんて、生き遅れのようにしか見られないんじゃないか。このまま、いくつになっても独身生活を送るのかな?でも、今ならまだやり直せるんじゃないか。芋っぽかった高校の時よりも、メイクもうまくなったし、なんだか綺麗になっている気がする。今からでも、別の人といい関係を築くことが出来るんじゃない?実際、こないだの取引先の人だって、私に個人的に連絡先聞いてきたし。感じのいい人だった。きっと、あの人は結婚しても地雷ではないんだろうな。そうだそうだ。何も彼に固執する必要なんてないんだ。彼との生活も、別に悪いことばかりじゃないけど、ちょっと距離を置くべきタイミングとも思えてきた。お互いのためにね。ちょっと気持ちを整理するためにも、同棲解消っていうのは名案なんじゃない?別に永遠の別れになるわけじゃないんだしさ。そうだそうだ、そうしよう!

ぐんと、思い切り立ち上がってみた。背伸びをする。肩の重荷がすっと抜けた。窓辺に寄ってカーテンをバッと開けてみる。すがすがしい陽光が一身に降りかかってきた。窓から見える景色はいつもよりも遠くまで見渡せる気がした。世界はこんなに広いんだ!今まで、なんて小さな世界に閉じこもっていたんだろう!なんだか新しい価値観を手に入れた気がする!


その頃、件の男は一体何をしていたかというと、家を出て二分十二秒後、トラックに轢かれて重体に陥っていた。ドライバーは若干の発熱をしていたらしく、朦朧とした状態で運転を続けていたという。先程、女が心の中で聞こえたサイレン音とは、まさに男が搬送されて行く実際の救急車の音であった。ポケットに入っていた男の携帯電話から女の電話番号が割り出され、この事故の第一報が届くのは、この物語が幕を閉じてからちょうど十五分後のことである。彼の命がどうなるのかは、誰にも定かではない。

物語は再び、女の心情に戻る。


彼が帰ってきたら、ガツンと言ってやろう!この新しい価値観を持った私で!そして新しい世界に飛び出すんだ!しばらく彼のことは忘れよう。その先のことはまだわからないけど、きっといい未来が待っているに違いない!待ってろ!輝かしい私の未来!


女は晴れ晴れとした顔で、窓の外を見ながら心を入れ替えたようだった。そして、一つフンと、鼻息を立ててカーテンをシャッと閉めた。その結果、カーテンの隙間から陽光が漏れてくることは、一切なくなった。


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