あとがき(解説)
一年間の大河ドラマをイメージして書いたため、たいへん長い小説になりました。分厚い文庫本で四巻分になろうかと思います。最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
はじめは南北朝を小説にするつもりもなく、この時代をもっと知りたいと思ったことがきっかけでした。楠木正成が活躍する太平記前半の時代と、足利義満と一休さんの、いわゆる北山文化の時代は知っていても、その間を繋ぐ南北朝五十六年間の歴史を知る人は多くはないと思います。
歴史本の多くは、南北朝と言いつつ南朝の話は断片的で、主に北朝(幕府)の流れが綴られています。時代の終焉に近づくと、南朝がどこにあったのかさえも正確にはわかりません。南朝側の信頼できる記録が、後世に伝わっていないからです。
南北朝、特に南朝の歴史を把握することは難しいと痛感する中、南朝の人物で興味を持ったのが楠木正儀でした。あの楠木正成の子にして、南朝と北朝の間を渡り歩いた不可解な人物。この人の行動を解き明かすことで、南朝で何が起こっていたのか、わかるのではないかと思ったからです。
いつか、歴史論評的なものでも書けたらと、四年前から材料を集めはじめました。しかし、想像で補わなければならないことが多過ぎます。それなら、いっそ、小説にしようと思い立ちました。正儀や周囲の人々の行動を追い掛け、物語として纏めることで、歴史の流れが見えてこないだろうかと思ったからです。
ただ、通説や伝承を継ぎ合わせても矛盾があり、物語にはなりません。当然、それが正しいのかという疑問が湧きます。逆に、矛盾のない物語に纏めることができれば、そこに真実が見えてくるのではないかと思いました。そこで、少数派の説にも目を向け、自分なりの考えで物語を完成させました。
まず、物語の設定ですが、南朝内部の争いは、和睦か強硬かといった政策争いの前に、派閥のいさかいが根底にあるのでは、と考えました。それなら、隠岐派と大塔宮派の対立の流れを受けて、とするのが自然です。
両派の対立は、後村上天皇の崩御で、決定的となります。天皇は、阿野廉子の子でありながら、陸奥で北畠親房の薫陶を受けて育ちました。両者の折り合いを、唯一つけることのできる存在だったからでしょう。
その大筋に沿って、長慶天皇の母を、少数派の意見ですが源顕子(北畠顕子)としました。北畠顕能が天皇の後ろ楯となり、後に准三后を贈られたことを考慮してのことです。
今では、御製(天皇の和歌)の贈答歌から、母を嘉喜門院とするのが通説となっています。しかし、贈答歌があったからといって、母子とするのは早計ではないかと考えました。
また、御製が全て長慶天皇のものかという疑問もあります。この頃の熙成親王(後亀山天皇)の歌が、あまりにも少ないからです。古くは、天皇の歌だけではなく、東宮(皇太子)などが詠んだ歌も御製とする時代もありました。頻繁に歌が詠まれたのは、京で長慶天皇譲位の噂が立って後のことです。南朝内の難しい対立もあり、熙成親王(後亀山天皇)の顔を立て、親王の歌も御製と扱った可能性はないでしょうか。二人の歌が混在していないか、専門家の分析が待たれるところです。
その嘉喜門院の出自も諸説あります。その中で、阿野家の出とする説もあります。難点は、系図上、嘉喜門院が阿野廉子の兄、実廉の玄孫になってしまうことです。しかし、阿野家独特の命名法則から考えれば、系図は血脈ではなく当主の順であると推定できます。
血脈としては、実村も実為も、実廉の子であろうと思われます。であれば、嘉喜門院は実廉の孫となり、(七つ年長の長慶天皇を生むのは難しくとも)後亀山天皇を生むことは可能です。本作では阿野実為説をさらにアレンジして、亡くなった阿野実村の娘を、叔父である実為が養女ないし後見したとしました。
一方、源顕子(北畠顕子)の通説としては、後村上天皇の中宮(皇后)として入内し、憲子内親王と坊雲を生んだとあります。しかし、長慶天皇の母でないなら、中宮が生んだ坊雲がなぜ東宮(皇太子)に成れなかったのか疑問です。どうして、出家までしたのか、説明がつきません。
ただ、中院具忠との不義の噂があり、こういった経緯から、坊雲を連れて行宮を出奔したとの伝承もあります。しかし、源顕子に比定される新陽明門院の御稜が、陽雲寺に造られています。しかも、長慶天皇が即位してから、天皇の命で作らせたとあります。自らの母でないなら、中宮とは言え、不義を起こして出奔した人の御陵を造るでしょうか。かたや、中宮の不義と賀名生で一揆があったという北朝側の噂の後、北畠親房が表に出て来なくなります。やはり、親房は何らかの責任を負わされたとみるべきではないでしょうか。これらの矛盾を解消するために、本作では、長慶天皇の母とする源顕子(新陽明門院)と、不義を起こした中宮は別人で、いずれも親房の娘としました。
楠木一族においては、和田賢秀を、通説である楠木正季の子とはせず、和田正氏の子としました。
その正氏は、河内和田氏ではなく、和泉和田氏の庶流家から来た猶子という設定としました。こうすることで、賢秀が和田を名乗る理由が解決します。さらに、湊川の戦いの後、和田左衛門尉が、なぜ楠木一門を率いることができたのか、説明が付きます。
河内和田氏は、和田高遠・高家親子が偏諱を受けて、和田正遠・楠木正家となったとし、その正家の弟を和田正武としました。泉州誌には通字の『高』と『正』が交互に混在し、高遠の子を正遠とする系図がありますが、これでは世代が合わないからです。
また、正武の息子を、吉野和田氏の系図より孫次郎正頼に、孫を正平としました。正平は正儀の四男/五男とする系図の方が有名ですが、その子孫が和田氏を名乗っていることを考慮してのことです。
次に、河内・和泉の守護となった楠木伊予守正顕と、伊予局の父として伝わる楠木正澄は、伊予繋がりで同一人物としました。これに、楠妣庵観音寺に伝る正儀の舎弟、楠木朝成も併せました。記録によっては、この人が三郎で、正儀が二郎とも伝わります。が、ここは通説通り、二郎正時は実在するとして、正儀を三郎、正澄を四郎としました。
一休の母、伊予局こと照子は、正澄の長女とも三女とも伝わります。ただ、実子とするには、年齢的に、少し無理があるような気がします。本作では、正勝の長女とし、養女として正澄(正顕/朝成)の娘(三女)になったということにしました。
橋本正督は、幼いときに紀伊橋本に預けられたという楠木正綱と同一としました。正綱が別に居るのなら、なぜ嫡流の正綱を国守とせず、橋本家の正督を国守にしたのか説明が付きません。それまでの橋本本家の四郎左衛門尉(正高?)や分家の九郎左衛門尉入道(正茂)の官位官職からしても、橋本の血筋から国守が出るのは唐突過ぎます。
楠木正秀は、その正督(正綱)の子としました。和田正氏の外孫、和田良宗の子との伝承もあります。しかし、分家筋や猶子に楠木を名乗らせない楠木家で、正儀が正秀に楠木を名乗らせたのは不思議です。
楠木嫡流は、正行→正綱→正倶→正隆→ そして、長禄の変 (一四五七年)のため、その翌年に亡くなる楠木正理へと続く系図(林家伝)が有名です。しかし、正隆の父を正秀とする系図も存在します。これらのことから、正秀は正倶と同人とし、正綱(正督)の子としました。
なお、正秀は、通説では二郎左衛門として、禁闕の変(一四四三年)に登場する楠木次郎と同一とされるようです。しかし、この正秀は二郎の他に九郎という通名も伝わり、年齢的にも同人とするには無理があり、別人と考えます。
ひとつひとつ上げればきりがありませんが、他の設定も、諸説を比較して矛盾がないか考えて決めました。数ある説の中で、物語に都合のよい説を選んだだけと言われれば、まさにその通りです。ですが、矛盾なく物語が進展するというのは、筆者としては、当たらずとも遠からずではないかと期待する次第です。
物語(歴史)のフレームワークとして用いたのは、古典太平記や桜雲記などの軍記物です。これに、園太暦や愚管記などの記録、吉野拾遺や樟葉道心因話録などの説話を織り混ぜて作成しました。よって、事実と奇聞、さらに筆者の創作が入り乱れた展開となっています。
一応、歴史の探求も主題としているので、虚実入り乱れた軍記から、歴史の流れに矛盾すると思われる出来事は割愛/変更しています。たとえば、太平記にある楠木正成が四天王寺を取り返す件や、後太平記にある楠木正勝の平尾合戦などです。
一方、明らかな作り話であっても、歴史の流れを阻害しない説話は、積極的に取り入れています。たとえば、吉野拾遺にある伊賀局の幽霊話などです。
ただ、各種資料に基づいているとは言え、その通りに書いていないことも多く、基本的にはフィクションです。ご了承ください。
最後に、楠木正儀は、これまで、あまり表舞台で取り上げられることのなかった武将です。父正成や兄正行と比べると、不当な扱いを受けてきたと言えるでしょう。しかし、間違いなく、この時代を動かした代表的な武将の一人です。
彼の波瀾万丈の人生は、物語としては最高の逸材です。なぜ、これまで無名だったのか、不思議なくらいです。今後、楠木正成のように、多くの人が正儀の名を知るようになればよいと、切に願っています。
二〇一八年 正田前 次郎(二〇二一年 改稿)
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