第48話 小僧と大御所(最終回)
応永六年(一三九九年)秋、だんだんと色を濃くする紅葉が、京の寺の佇まいを際立たせる。
南北朝の合一から七年の歳月が過ぎた。
この日、京の四条大宮から壬生に向けて、怪しげな風体の男が歩いていた。僧侶のようであるが、袈裟を背中に回し、托鉢笠ではなく深編笠を被っている。そのうえ、竹でできた大きな縦笛を吹いていた。
その四条大宮にある神鶏山安国寺から、幼い小僧が駆け出して行った。手に風呂敷包を持っている。小僧は遠目にその怪しげな男を確認すると、一瞬、立ち止まって目で追う。だが、思い出したように、再び駆け出した。
安国寺は北禅寺とも呼ばれ、京十刹にも入る名刹である。足利将軍家ゆかりの寺で、像外集観が和尚を務めていた。京の町の中にあり、公家や武家の子弟が預けられる事も多かった。
寺の中では小僧を送り出した一人の僧が、走り去った山門を見つめて立っていた。
「鉄斎よ、周建は、今日は泣かなかったとみえるな」
鉄斎は小僧たちの世話役の僧侶で、一方、周建は先ほど寺から駆け出して行った小僧のことである。
鉄斎が声の主に振り向くと、そこには、集観和尚が立って居た。
「はい、和尚様。周建もここに来て一月、少しずつ慣れてきたようにございます」
「そうか、それは何よりじゃ。今日はどこへ遣わしたか」
「はい、そこの上宮王院でございます。法華経の十巻を拝借した御礼として、経紙(写経用の用紙)を少々、持たせました。近頃、怪しげな男がこのあたりをうろついておるようで、あまり遠くへはやらないようにしております」
すると、集観和尚が興味深そうな表情を浮かべる。
「ほう、怪しげな男とは」
「何でも、袈裟を着ているのですが、深編笠を被って顔を隠しているとか。経の代わりに二尺もあろうかという縦笛を吹いて托鉢の真似事をして回っているそうにございます」
鉄斎の話を聞いて、集観和尚が首をひねる。
「確か、海の向こうの中国に、普化という僧侶が始祖となった教えがある。鈴を鳴らし、簫を吹いて御布施を得るそうじゃ。昔、我が臨済宗の僧侶が海を渡り、その流派の僧より竹管吹簫の奥義を受けて帰国した。紀伊国の由良に庵を結んだらしい。薦(むしろ)を腰に巻くので薦僧と皆は呼んだという話を聞いたことがある」
「では、その薦僧でございましょうか」
真顔で問う鉄斎に、集観和尚が微笑む。
「いやいや、その者が居たのは、百年、いや百五十年は昔の話じゃ。それに深編笠を被っていたかまではわしも知らぬ」
そう言って笑いながら本堂に向かった。鉄斎は集観和尚を見送ってから、周建が出て行った山門に再び目をやった。
この頃、足利義満は、すでに将軍職を嫡男の足利義持に譲り、自らは太政大臣に任じられて位人臣を極めた。だが、直に辞任し、出家して道号を天山、法名を道義とする。
太政大臣を辞任して、実質的な治天の君となった平清盛を真似たものであった。まさに、源頼朝と平清盛の両方の権力を得たのだ。
出家した義満は室町にある花の御所を義持に譲り、自らは京の北山に壮大な邸第を造り移り住んでいた。そこには、広大な庭園と金箔を施した三層建ての舎利殿が造られた。人々はこの北山の邸第を北山第、舎利殿を金閣と呼んだ。
将軍職を譲った義満であったが、幕政から引退するつもりはさらさらない。ここ北山第を第二の御所として政の実権を握り続けた。
すでに南北合一の時の幕府管領であった細川頼元は亡くなっていた。今は、千早城を落として河内国全部を我がものとした、畠山基国が幕府管領である。
その基国が北山第に参殿し、舎利殿金閣で義満に拝謁する。その義満の傍らには、政所執事の伊勢貞行も控えていた。
「大御所様(義満)、大内左京権大夫(義弘)が、十三日に周防の兵五千を率いて船で堺浦に入った模様にございます」
「そうか、ついに動いたか」
土岐氏、山名氏と、力を持ちすぎた外様の大名を、義満は粛清していった。次なる狙いは、明徳の乱で勢力を拡大した大内義弘である。義弘も、次は自らの番であろうと悟り、将軍家との融和を図ってきた。しかし、義満は北山第の工事を負担しなかった事を理由に、義弘を巧みに挑発していた。
「大御所様に申し上げます」
下座に現れたのは、蜷川帯刀先生親俊であった。蜷川氏は祖父の代から伊勢氏の家臣であり、姻戚でもあった。
そして、伊勢氏が政所執事を世襲すると、蜷川氏も政所代(政所執事代)を世襲するようになる。蜷川の棟梁、親俊は伊勢貞行の諸事を助けていた。
「左京権大夫殿の家臣で、平井新左衛門と申す者が、大内殿の書状を持って来ております」
にやりと口元を緩めた義満が、基国に目を配る。
「よし、通せ」
早速、義満は平井新左衛門と会うことにした。
謁見の間に通された平井新左衛門は、出座した足利義満に、平身低頭で大内義弘の書状を差し出す。そして、兵を堺に入れたことを延々と弁明して、謀反の意志がない旨を説明した。
話が終わると、義満が睨みを効かせる。
「平井とやら。五千もの兵を堺に入れておいて、弁明とは笑止千万。ならば、なぜ左京権大夫(義弘)は自ら上洛せぬのじゃ。余には、ここにその方を遣わしたことも、戦の支度に時を稼いでいるようにしか見えぬぞ」
「め、滅相もございませぬ。ただ我が主は、弁明をするなら別の形を希望しております」
新左衛門の申し出に、義満は怒りをあらわにする。
「ここでは嫌じゃと申すか。大夫はここにくると討たれるとでも思うておるようじゃな。余がそのような真似をすると思うてか」
「い、いえ、決してそのようなことは……」
慌てる新左衛門に、義満は追い討ちをかける。
「早々に帰り、大夫に伝えよ。申し開きをするのなら、ただちに兵を周防へ戻せとな」
「はっ、はは」
頭を床に擦り付けるように新左衛門は平伏し、急ぎ足で謁見の間を後にした。
「さて、これで左京権大夫はどう出るかじゃな。怒りに任せて挙兵すれば、願ったりじゃが」
平井新左衛門が帰ると、義満は先ほどの態度から一変し、何事もなかったように、横に控えていた畠山基国と伊勢貞行に話しかけた。
基国が難しい顔を義満に向ける。
「大内殿が本当に、周防に兵を引き上げたらいかがなされます」
「大人しく兵を引けば、紀伊と和泉の所領を返上するよう働きかける。それを呑むようならば手を打つが、さもなければ、討伐するまでのことじゃ」
下座に控えていた蜷川親俊は、些細なことをと言わんばかりの義満に畏れ入った。
嵯峨野の大覚寺、その境内にある小倉御殿を御所にして、先の南帝(後亀山天皇)が慎ましく暮らしていた。
義満が進めた南北朝の合一は、正儀が目指していたそれとは、あまりにも大きくかけ離れたものであった。南北合一の翌年には歴代帝の持仏、二間本尊を北帝(後小松天皇)に渡したが、南帝を帝として認めない北朝は、先の南帝に太上天皇(上皇)の尊号を贈らなかった。この状況に義満は朝廷を脅し、半ば強引に太上天皇(上皇)の尊号を贈って、何とか南朝の尊厳を守った。
そして、二年前には仏門に入り、人々からは南朝法皇(後亀山法皇)と呼ばれるようになっていた。
「法皇様、昼餉の支度ができたようにございます」
先の内大臣、阿野実為の嫡子である阿野公為が、書院の外から障子越しに声をかけた。すると、南朝法皇は書院を出て、膳が用意された座敷に移る。
「法皇様、相も変わらぬもので申し訳けのうございます」
すでに膳を前にして法皇を待っていた六条時熙が、申し訳なさそうに言った。膳の上には稗や粟が混ざった飯と少しの漬物、具のない汁、それだけである。法皇の暮らし振りは厳しかった。
南北合一の約定で大覚寺統(南朝)の領地とした諸国の国衙領は、武家による蚕食が著しく、実際の実入りはほとんどなかった。困窮によって、南朝の公卿の大半は、大覚寺のある嵯峨野を出て、それぞれ、京の親族や先祖が寄進した寺を頼った。
最期まで南朝法皇に付き従ったのは、出家をした阿野実為とこの時熙であった。ただ実為はこの春先、風邪をこじらせて亡くなり、代わりを嫡子の公為が務めていた。
困窮は皇族とて同様で、嫡子の恒敦親王(小倉宮)を除いては、大覚寺を出て、親戚筋の公家や南朝所縁の寺を頼った。
懐成親王と宮妃の楠木式子、その子の淳義王も大覚寺を離れざるを得なかった。
そんな状況でも、南朝法皇は耐え忍んでいた。
「時熙、構わぬ。今や出家の身の上じゃ。これも修行、御仏の思召しと受け止めよう。今はただ我が苦行を持って、持明院(北朝)の朝廷が約定を守り、早く恒敦(小倉宮)に東宮宣下をするよう祈るばかりじゃ」
ことごとく合一の約定を反故にされた法皇であったが、両朝迭立には一縷の希望を抱いていた。
「左様にございますな」
時熙は返事を合わせるが、客観的な状況から望みはほぼないとわかっていた。それは、南朝法皇でさえ同じである。しかし、何かの希望を抱かなければ、それは、あまりにも辛い日々であった。
安国寺の小僧、周建は、寺の西、壬生の地を歩いていた。ここは湿地が広がる荒れ地である。鉄斎の使いを終えた後、笛の音に釣られて少し寄り道をしていた。
音色に惹かれて進んでいくと、一人の男が荒ら屋の外縁で笛を吹いていた。周建が安国寺を出た時に見かけた男である。ここを自らの庵としているようであった。
男は深編笠を被って顔を隠したまま、二尺もあろうかという大柄な縦笛に息を吹き込み、指を動かしている。涼やかな中に、どことなく物悲しい音色であった。
一節吹き終えた男が、横に立った周建に、深編笠の透かし編み目を向ける。
「それがしに御用かな」
怪しげなその風体にも、周建は動じる様子を見せない。
「笛の音を聞いておりました」
「そうか、笛が気に入ったか」
「はい、母上を思い出します。母上が口ずさんでいた調べです」
深編笠越しに、男は繁々と周建の顔を窺う。
「小僧殿、名は何と言う。歳は幾つじゃ」
「六つです。名は周建と申します。和尚様からは一休という道号もいただきました」
男は深編笠を被ったまま、ゆっくりと頷き、再び語りかける。
「そうか、一休殿(周建)か」
「あの……お坊様なのですか。お侍様なのですか」
その装束は僧の様でもあるが、帯刀し、言葉遣いは侍であった。
「それがしは虚無。人に問われれば虚無僧と返しておる。わしとて仏に使える者じゃ」
「なぜ顔を隠しているのですか」
「わしは、人の世の無常、虚しさを背負って僧になり、俗世の顔は捨てたのじゃ。されど、師僧に付かず受戒もしておらぬので、僧侶の顔を得ておらぬ。よって、顔を持たずに仏世と俗世の間を、こうして彷徨っておるのじゃ」
不思議そうな顔をする周建に、虚無僧と名乗った男がふふと笑う。
「人にはそれぞれ出家の仕方があってよいのではないか。格好を気にする僧は、格好だけが僧になっておるのじゃ」
小さいながらも、なるほどと思う周建であった。
「読経で御仏に使える僧もおれば、それがしのように、ほれ、これで御仏に使える者もいる」
そう言うと、虚無僧は周建の前で大振りな縦笛を一節、披露した。
笛の音が途切れると、周建が首を傾げて興味深そうに、その大柄な笛を覗き込む。
「これは何ですか」
「これは一尺八寸の縦笛、尺八じゃ。吹いてみたいのか」
「はい」
「じゃが、そなたには大きいのう……そうじゃ、これを吹いてみよ」
そう言うと、男は腰袋から小振りな笛を取り出す。
「これは一節切という縦笛じゃ」
虚無僧は、童にちょうどよさそうな、ひと際小振りな一節切を周建に持たせ、穴の塞ぎ方と息の吹き込み方を教えてやった。
―― ぴいぃ ――
上擦った音色が響いた。ただそれだけであったが、周建は一節切を気に入り、眺めては吹く、眺めては吹くを繰り返した。
「そうか、気に入ったか。ならば、一休殿にこの笛をやろう」
虚無僧の言葉に、周建は驚いて顔を上げる。
「大事なものではないのですか」
「うむ、大事なものじゃ。されど、一休殿であれば、きっと、この笛を大事にしてくれるであろう。それに、わしにはこの尺八がある」
「でも……」
戸惑う周建の頭を、虚無僧が軽く撫でる。
「この笛が好きなのであろう。わしもその方が好きになった。皆がわしを怖がる中、こうして話し掛けてくれた。好きになった者に、何かをやりたいのじゃ。のう、一休殿。もろうてくれるのであれば、わしがときどき笛を教えて進ぜよう」
「本当に。やった。では、明日またここに来ます」
満面の笑みを浮かべた周建は、虚無僧と再び会う約束をした。
御輿に乗った足利義満が、政所代の蜷川親俊と近習たちを供に、安国寺を訪れる。寺の前では周建が箒を持って落葉を掃いていた。
御輿の先達を行っていた親俊が、周建に声をかける。
「そこの小僧、集観和尚様に大御所様(義満)が参ったと伝えて参れ」
「は、はい」
仰々しい御輿に驚いた周建は、箒をそこに放ったまま、慌てて寺の中に入っていった。
「何じゃ、これは」
親俊は、周建が懐から落としていった一節切を拾い上げた。その間にも、義満は一人で御輿を降りて寺の中へと進んだ。
そこに集観和尚が、鉄斎と、呼びに行った周建を連れて現われる。
「これは大御所様、急なお越しで。前もってお教えいただければ、お迎え致したしたものを」
和尚は、義満にも動ぜず、にこにこと笑って出迎えた。
「いや、近くまで寄ったものじゃからな。安国寺は将軍家が建立した寺。時には釈迦如来に手を合わせねばならんと思うたのじゃ」
「それはよき御心掛けと存じます。さ、どうぞ、こちらへ。御堂へお越しくだされ」
集観和尚が案内して、義満を御堂へ導いた。
その後ろでは親俊が、放った箒を拾おとする周建を呼び止める。
「これはそなたのものであろう」
そう言って、先ほど拾い上げた一節切を周建に渡した。
「あ、ありがとうございます」
ちょこんと頭を下げて、周建はその笛を受け取った。
二人のやり取りに義満が振り向く。そして、興味深そうに周建の手元に目をやる。
「一節切ではないか。小僧殿はそれを吹けるのか」
「今は吹けませぬが、もう直、吹けるようになります」
首を左右に振りながら、周建が答えた。
これを見ていた鉄斎が言葉を足す。
「どうも、見ず知らずの男にもろうたようで……今度は調べを教えてもらうと約束をしたようです」
「ほう、そうか。それは楽しみじゃな。小僧殿、名は何という」
「周建と申します。和尚様からは一休という道号もいただきました」
名を聞いて義満は目を細める。
「では一休殿、その笛が吹けるようになれば、また、余に聞かせてくれぬか」
緊張していた周建であったが、笛の話になって笑顔となる。
「はい。わかりました」
「うむ。約束じゃぞ。楽しみじゃ」
義満も笑顔を見せて、和尚とともに御堂へ向かった。
御堂に入った足利義満は、本尊の釈迦如来座像の前に座り、集観和尚の読経に手を合わせた。蜷川親俊も義満の後で手を合わせる。
読経が終わり、和尚が義満に向かって座り直す。
「よくお勤めいただきました」
軽く会釈で応じてから、義満が境内に目をやる。
「和尚、先ほどの小僧殿がそうか」
「はい、左様でございます」
だが、後ろに控えた親俊には、会話の意味がわからない。すると、義満は、腑に落ちない表情を浮かべる親俊に振り返る。
「帯刀(親俊)よ、先ほどの小僧殿の顔は覚えたな」
「え、は、はい」
「では、そちに仕事を与えよう。時折、小僧殿を、いや、一休殿を見張るのじゃ。この寺で何事もなく僧侶となっていくようにな」
「大御所様(義満)、先ほどの小僧殿は、いったい何者なのでございましょうや」
首をひねる親俊に、義満に代わって集観和尚が答える。
「周建……いや一休は、主上様(後小松天皇)の皇子です。さる事情があって、ここで預かることになりました」
和尚の言葉を聞いて親俊は絶句する。
しかし、東宮(皇太子)以外の帝の皇子が、皇位争いに利用されないよう寺に入り僧籍となることは、よくあることではあった。原則は、一旦、僧籍になった皇子は、たとえ還俗しても皇位につくことはできない。だが、正平の一統の後、後光厳天皇が、急ごしらえの治天の君の院宣で皇位についてからは、何が起こってもおかしくなかった。
「では、万が一の時は、一休殿が皇位につかれることもあるということですか。なるほど、だから、無事に日々を過ごされるよう、それがしが見守ればよいのでございますな」
一人で合点する親俊に対して、義満は首を横に振る。
「いや、そうではない。あの子が皇位に就くことはあり得ん。本来、生まれて来てはならん子であったのじゃ」
「え、あの……いったい何が何なのか、それがしにはまったく見えぬのですが……」
困り顔の親俊に、義満が深く溜息をつく。
「あの子には楠木の血が流れておる。正成の血を引く皇子が帝になろうものなら、朝廷は天と地がひっくり返る騒ぎになろう」
「く、楠木……なぜ、そのようなことに……」
「それは、また、追々、余から話そう。とにかく、そちは、一休殿がここで平穏に僧侶となっていくように見張るのじゃ。自身がそのことに気づき、皇位を欲しないように。また、南朝の残党に利用されないようにな。帝の血を引いている子を殺すわけにもいかぬ。何事もなく、無事に僧侶となってもらうしかないのじゃ」
さすがに親俊も全てを了知する。
「承知つかまつりました。それがしにお任せを」
親俊は神妙な顔つきで両手を床についた。
十月二十七日、夢窓疎石の弟子で、老僧の絶海中津が、和泉堺の左京権大夫、大内義弘の元に説得に赴いた。
義弘は、堺に城山城を築き、籠城していた。その城は巨木を用いた四十八の大櫓と一千七百の小櫓を備えた前代未聞の要塞である。しかも、城の前には敵の侵入を阻止する低地の湿地帯が広がる。義弘はこの城に五千もの兵を入れていた。
城の本丸(主郭)にある館の広間で、中津が義弘と向き合う。
「左京権大夫殿(義弘)、このまま、ここに兵を留めていては、いずれは幕府の討伐を受けることになりましょう。ここは、いったん兵を周防に引かれてはいかがか。不肖、この中津が、大御所様(足利義満)との間で仲介の労をとりましょう」
足利将軍家の菩提寺、等持寺の住持(住職)も務めた絶海中津は、今は再び、鹿苑院の院主となり、臨済宗相国寺派を統括する立場に納まっていた。
覚悟を決めたかのように、義弘は口元を引き締める。
「院主様(中津)、それがしのために、このようなところまで御足労をおかけし、申し訳けなく存じます。されど、この期におよんでは致し方ありませぬ」
「大夫殿、南北合一により、戦乱の世も終わりとせねばなりませぬ。大御所様もあえて戦をしたい訳ではありませぬ」
「されど……」
中津が掌を掲げ、反論しようとする義弘を制する。
「大御所様の味方をするわけではありませぬが、大内家は六か国の太守(複数の守護国を持つ大名)。大内殿の力が増せば、やはり大御所様としては警戒されるのは道理でございます。いっそのこと、和泉一国くらいは幕府に返上されてはいかがか。必ず拙僧が大御所様の怒りを解きましょう」
中津は、義弘を助けるためにはそれしかないと思っていた。しかし義弘は首を縦には振らない。
「我らは武士です。領地は力で得たのです。戦で負けて領地を失うのであれば納得もできましょう。されど、一戦も構えずに兵を引いては、大内の名折れでござる」
「それでは無駄に命を失いますぞ」
「命なぞ惜しくはありませぬ。それがしはすでに、母へ形見と遺言を送り、周防の舎弟には領国の差配を申し送っております。それに、この後の仏事もすでに僧侶に指図しております」
「それほどまでに……」
義弘の覚悟のほどを知った中津は、説得を諦め、帰らざるを得なかった。もう、戦は避けられそうもなかった。
京の壬生にある荒ら屋の中で、一休周建が約束通り虚無僧に一節切の手解きを受けていた。外は木枯らしが舞い、荒ら屋の中にも冷たい風が入り込んだ。
その一節切はこどもの手にも馴染む、一際小さなものである。周建は、ほぼ毎日、虚無僧の元に通いつめ、熱心に息の吹き込み方、指使い、節回しを覚えた。漠然と、この調べを覚えれば母に会えるような気がして、練習に熱が入った。
「熱心なのはよいことじゃ。されど、たびたび、寺を抜け出して、大丈夫なのか」
「はい、鉄斎様は一節切の稽古の時だけは、厳しいことは言わないのです」
安国寺の小僧たちの世話役である鉄斎は、周建が謂れのある子とは知らなかった。しかし、足利義満が楽しみにしているという一節切の稽古を、止めさせることには躊躇いがあった。なので、周建が決まった刻に寺を抜け出していくことに、目を瞑っていた。
一節切を教える時だけ、虚無僧は笠をとった。
その顔を周建が見上げる。
「虚無僧様は、本当に顔がないのかと思っておりました」
初めて会ったとき、俗世の顔を捨て、仏世の顔もまだ持ち合わせていないと語っていた。だからか、虚無僧は周建に苦笑いを返した。
その風体は、頭は剃髪しておらず、白髪を伸ばし、白鬚も蓄えていた。そして、顔には、目尻の皴とともに、額から頬にかけて深い傷が刻まれていた。深編笠はその傷を隠す為かと周建は思った。
「母上はどうされた」
虚無僧が聞くと、周建は手を止め、うつむく。
「わかりませぬ。私が寺に入ってから会うておりませぬ」
「そうか……以前は、母上と二人で暮らしていたのか」
周建は首を横に振る。
「お黒が、手伝いに来てくれました」
「お黒とは」
「近くに住む女の人です」
「寺に入るまで、母上と、どのように暮らしておったのじゃ」
その問いに周建は黙り込む。これ以上、母を思い出すことは聞かれたくなかった。周建は再び、一節切を持って息を吹き込んだ。
そんな二人が居る荒ら屋を、遠く離れて見張る男たちがいた。幕府政所代の蜷川帯刀先生親俊とその近習であった。
堺の城山城に籠城した左京権大夫、大内義弘は、絶海中津が帰った後、弟の大内弘茂や重臣たちを集めて軍議を開いていた。
平井新左衛門が、不安げな表情を義弘に向ける。
「院主様(中津)を返して、よかったのでございましょうか」
「わしは何も、意地だけで幕府軍を迎え撃とうというのではないぞ。なに、大丈夫じゃ。見よ、この城を。百万の軍でも破れまい。兵糧も堺浦から船で運び入れればよい。数年でも持ちこたえよう」
自信満々な義弘であった。だが、一瞬とはいえ、足利義満の威光に触れた新左衛門は、不安を払拭することができなかった。
黙り込む新左衛門の憂虞を取り除こうと、義弘は饒舌になる。
「大御所様(義満)に不満を持つ鎌倉公方様(足利満兼)も立ち上がる手筈になっておる。鎌倉公方様が立ち上がれば、出陣を渋っている駿河の今川了俊も必ず立ち上がるであろう。さらに美濃の乱で没落した土岐詮直。明徳の乱で滅ぼされた山名氏清の嫡男、時清。京極家の家督争いに敗れた京極秀満など、将軍家に不満を持つ武将は多い。他にも九州の菊池の残党、比叡山の衆徒など、幕府に恨みを持つ者たちへ、ともに立つように書状を送り、色よい返事をもろうておる」
これでどうだと言わんばかりに、義弘は諸将の名前を並べ立てた。
しかし、新左衛門の表情は硬い。
「殿(義弘)、頼もしき諸将たちではありますが、いずれも堺からは遠く、我らの助けになりましょうや」
「畿内では、楠木にも書状を送っておる。楠木が立ち上がれば、幕府に不満を持つ河内・和泉・紀伊の諸将もきっと立ち上がるであろう」
義弘の希望的な観測であった。
しかし、新左衛門も他の重臣たちも、今更、楠木が立ち上がっても、大勢を覆すことにならないことはわかっていた。
それでも義弘は楠木に一縷の望みをかけていた。
「あの時の池田の小童が、楠木の棟梁に成る男だったとは……すっかり騙されたわい。まあ、そのお陰でこうして繋ぎもできる。人とはどこでどう繋がるかわからぬものよ」
義弘は十年前のことを懐かしんだ。当時、征夷大将軍だった足利義満が、厳島詣で周防・安芸に下向した。この時、接待役、池田教正の従者として、池田教秀と偽って義満に随行したのが、十八歳の若き楠木正秀であった。
南朝法皇(後亀山法皇)が住む嵯峨野の大覚寺からほど近いところ。ひっそりとたたずむ粗末で小さな百姓家を、背負子を背負った一人の侍が訪ねた。
「居るか、わしじゃ」
遠慮なく庭に入ってきたのは正儀の猶子、津田六郎正信であった。
「これは、叔父上様、いつも気遣っていただき、ありがとうございます。さ、これに」
正信を縁に招き入れたのは、楠木正勝の娘、伊予局こと楠木照子であった。
「これは、村の百姓が届けてくれたかぶと白菜、それにごぼうとねぎじゃ。稗や粟、麦、それに少しじゃが白米もある。また、当座はこれで過ごしてくれ」
野菜と雑穀を降ろすと、縁側に腰をかける。
「どうじゃ、つつがなく過ごしておるか」
「はい、叔父上様。貧しいながらも何とか食べるものにも困らずに暮らしております。これも、叔父上様のお陰です」
「礼など要らぬ。お前は小太郎兄者(楠木正勝)の娘じゃ。わしを父と思うて、もっと頼ってくれてよいのじゃぞ」
義叔父の言葉に、照子は頭を下げた。
「そなたも、千菊丸が居らんようになって、淋しいであろう。どうじゃ、いっそ、わしのところに来ては。皆も喜ぶ」
「ありがとうございます。時折、大覚寺にも出向いて、法皇様や六条様(時熙)とも話をしておりますゆえ、淋しくもありませぬ。それに……」
「そうか、離れたとはいえ、やはり千菊丸のことが気になるのじゃな。それなら致し方なかろう。同じ京の地で、見守ってやるがよい」
照子が千菊丸を産んだのは、南北合一から一年半ほど後のことであった。その時、楠木照子はまだ十九であった。
「お疲れでしょう。白湯でも持って参ります」
そう言って照子は厨に入っていった。正信は縁側に腰かけて、昔のことに思いを馳せる。昨日のことのように、鮮明に記憶が残っていた。
それは正儀が亡くなって一年と少し後、南北合一の直後である。
唯一無二となった京の朝廷が、南帝(後亀山天皇)へ、太上天皇(上皇)の尊号贈呈を、いまだに渋っていた頃のことである。
楠木一族は、すでに内大臣を辞した阿野実為に呼び出され、大覚寺正寝殿に参じた。正儀の舎弟、楠木正顕と正通・正房の二人の息子、正儀の養子となった楠木正秀、正勝の嫡男である楠木正盛、楠木正近の嫡男である楠木正建、和田正武の孫、和田正平、そして津田正信の八人であった。
上座には懐成親王とその室で正儀の娘、楠木式子が座り、その傍らに出家した阿野実為と六条時熙が控えていた。そして正勝の娘で、正顕の養女となっていた伊予局こと楠木照子も後ろに控えた。つまり、楠木の一門と、これに係る者だけが集められていた。
「伊予守(正顕)、幕府より、楠木一門の処遇について内々に打診があった。ただ、打診とは言うても、実質は申し渡しということであろう」
実為は正顕を、南朝の旧官職名で呼んだ。
「して、その内容は」
「楠木正秀を楠木家の嫡流として認め、摂津国走井荘の地頭を任じたいとのことじゃ」
走井は、正秀の叔父、池田教正の領国である摂津国池田からも近い。つまり、教正が御目付け役ということであった。
伏し目がちに、口を真一文字に閉ざす正秀に目を配りながら、実為が続ける。
「伊予守(正顕)には交野郡の倉満荘を与え、地頭に任じたいとのこと。そして、正盛には和泉の大饗に所領を与えたいと言うておる」
他にも、楠木正建には生まれ育った河内国の甲斐庄(荘)を、和田正平は先祖所縁の河内国玉櫛荘を、津田正信にも倉満荘の一部で祖父の津田範高所縁の津田村を宛がわれた。
わかっていた事とはいえ、あまりの所領の小ささに、正信らは暗い表情で黙り込んだ。
楠木一門は、一時は守護国として河内国・和泉国・摂津国住吉郡を。ほかに所領として常陸国那珂郡瓜連・土佐国安芸荘・出羽国屋代荘などを領した太守(複数の守護国を持つ大名)であったのだ。
沈黙が続く中、一族の長老である正顕が頭を下げる。
「承知つかまつりました。我ら楠木が幕府の沙汰に抗っては、御上(後亀山天皇)に御迷惑をおかけすることにもなりましょう。きっと、兄、正儀も望まないことと存じます」
楠木党の長老の言葉に、正信は悔しさを静かに胸に仕舞い込んだ。しかし、楠木正元の最期を見届けた正秀は、手をぎゅっと握り締め、肩を震わせた。
見かねた正信が正秀の肩を叩く。
「九郎(正秀)、今は耐えるのじゃ」
「……承知……つかまつりました」
苦悶の表情で、正秀は頭を下げた。
この状況に、式子と照子はすすり泣いた。懐成親王も沈痛な面持ちで目を閉じた。
しばらくして、皆が席を立とうとした時のことである。阿野実為は、楠木正顕と津田正信、式子、さらに照子だけを残した。
「実は、中納言、日野資教卿から直々に話がありました。伊予守殿(正顕)は伊予局殿(照子)の義父、周防守殿(正信)は義叔父、そして式子様は叔母ですから、みなさまのお考えを聞きしたいと思うております」
正信は上洛に際しての南朝最後の除目で、周防守を任じられていた。その正信と正顕が、不思議そうな顔で後ろの照子に振り向く。照子もいったい何の話かと困惑の表情を浮かべていた。
上座から、式子が不思議そうな顔を実為に向ける。
「伊予局が何か……」
「持明院(北朝)の帝(後小松天皇)が、伊予局殿に会いたいと申されております」
「えっ」
一同から驚嘆の声が漏れた。
叔母である式子が、目を丸くする。
「いったいどこで、伊予局を見初めたというのでしょうか」
問いかけに、実為はもっともな事と頷き、神器の引き渡しの日の出来事を話した。
「では、その時の若者が持明院の帝……」
そう言って、正信は息を呑んだ。
怪訝な表情で正顕が、実為にたずねる。
「それで、我らにどうせよと……」
「本来、めでたきことでありますが、此度はそうともいえませぬ。女官を所望されて差し出したとあっては御上の対面にも傷が付きます。されど、太上天皇(上皇)の尊号さえも贈ろうとせぬ持明院の朝廷に対し、貸しもできます。御上に話したところ、伊予局殿御自身のお気持ちと、身内の考えを聞いて決めよと申されました。そこで、みなさまに残ってもらったという次第です」
話を聞いて正顕が、ううむと唸り声を上げてから、疑問をぶつける。
「会うというのは、どのようにして。伊予局を内裏に入れろと申されておるのですか」
「日野卿(資教)は、自身の邸に持明院の帝を招き、伊予局殿を呼んで、会う場を設けたいと申されておる」
実為の話に、正信は怒りで肩を震わせる。
「照子は遊女ではありませぬ。宮廷にも入れず、都合のよい時に外で会うだけなど、いくら帝といえど、承服できかねます。亡くなった兄、正勝に合わせる顔がありませぬ」
正信の意見に、正顕も式子も頷く。
「阿野様、わたくしも同じ思いにございます。申し訳なきことでございますが、お断りいただきたく存じます」
そう、式子が告げた時である。
「叔母上様(式子)、叔父上様(正信)、大叔父上様(正顕)、お待ちください。私は持明院の帝にお会いしとう存じます」
意外な言葉に、三人は一斉に照子の顔を窺った。
「照子、なぜじゃ」
訝しげな表情で、正信が問い質した。
「少しでも御上のお役に立ちとう存じます。私が持明院の帝にお会いすることで、御上に上皇様の尊号が贈られるのであれば、私はこれほどまでに嬉しいことはありませぬ」
「伊予局、そなたそこまで……」
健気な思いに、式子は嗚咽を堪えるかのように、口元に手を当てた。
この後も話し合いは続いた。しかし、結局、照子の決意は変わることはなかった。
それから、たびたび、大覚寺に日野家の御輿がくるようになった。迎えがくるたびに、照子は中納言、日野資教の邸に出向き、持明院の帝(後小松天皇)と会うようになる。帝は幼いとき、資教に養育された。日野邸は言わば実家のようなものであった。
一つ若い帝は、純粋に照子に恋をしていた。それは照子にもひしひしと伝わり、いつしか自身も、帝に会える日を待ち望んだ。
帝は照子を内裏に入内させようと努力した。だが、南朝の官女を内裏に迎えることは、帝の力を持ってしても難しかった。
照子の懐妊が判ったのは、しばらくしてからのことである。先帝(後亀山天皇)の御配慮で、照子は嵯峨野の大覚寺を下がり、飯炊きとして雇っていた女中、お黒の実家で子を生んだ。
大そう喜んだ帝は、千菊丸の名を与えた。菊は皇家の紋であり、楠木の菊水と千早にも気遣った帝の思いが込められていた。
若い帝は、子が産まれれば照子を皇子の母として近くに呼び寄せられると漠然と考えていた。しかし、実際は逆である。帝の長子となる千菊丸と、その母となった照子は、資教によって遠ざけられた。南朝の、しかも楠木正成の血を引く子を、皇子として認めることは、とうていできなかったからである。
困った資教は、将軍、足利義満に相談した。すると義満は、千菊丸が六歳になれば将軍家ゆかりの安国寺に入れるよう、先帝(後亀山天皇)を通じて照子に要求した。そして、千菊丸の出家と引き換えに、太上天皇(上皇)の尊号を約束した。
それから五年が経ち、今年六歳となった千菊丸が安国寺に送られ、一休周建になったという次第である。
「叔父上、白湯が入りました」
昔を思い出していた津田正信は、照子の声で我に戻った。
縁側に座ったままで白湯を啜っていた正信が、隣に正座した照子に顔を向ける。
「久しぶりに篠崎禅尼様(篠崎菊子)を訪ねた」
「まあ、禅尼様はお元気でおられましか」
懐かしそうに照子は答えた。篠崎禅尼に会ったのは、照子がまだ南朝の宮廷に上がる前のことであった。
「うむ、御達者じゃ。樟葉村の薬師堂に父上(正儀)の過去帳を納め、菩提を弔いながら暮らしておられる」
禅尼は幼い頃、正儀の猶子となり、娘として育った。その後、出家して尼となっていた。
「それと、もう一人……思わぬ者に会うた」
「いったい誰でございますか」
思わせぶりな正信の言葉に、照子は興味深そうに身体を乗り出した。
「交野小三郎正長。正覚寺村の達殿が産んだ、父上(正儀)の末子じゃ。わしを訪ねてきた」
照子も名前くらいは知っていた。
「何の御用であったのですか」
「うむ、交野から楠木の名字に変えたいという。許しを請うべく一門を次々に訪ね歩いているとのことであった。まあ、わしは津田じゃから、わしに断りを入れる必要はないぞと言うてやった」
「そうでございましたか。ご苦労をされておられるのですね」
「そのようじゃ。南北合一の後、正覚寺村を出て、観心寺で三年の修行を行ったと言うておった。その後、四年間、父上(正儀)や楠木一族のゆかりの地を巡り、戦で亡くなった者たちの菩提を弔っていたそうじゃ。今は摂津国の四条村に庵を編んで暮らしているとのこと。幼い頃、その地の桑原寺で勉学に励んだそうじゃ」
「四条村に……正覚寺村の御母上はどうされておられるのですか」
なぜ正長が、隣の正覚寺村に帰らないのか、照子は疑問に思った。
「うむ、正長が楠木ゆかりの地を巡っている間に、病で亡くなったとのことであった。わしも達殿を存じていただけに憐れに思い、墓の場所を聞いて、手を合わせに行って参った」
「そうでしたか。正長殿は御悲しい思いをされたのですね。一度、会うてみたいものです」
照子の言葉に、正信が頷く。
「年が明ければ、叔父上の七回忌の法要じゃ。そこで正長も呼んでやろうと思う。派手なことはできぬが、お前も参列してやってくれ。皆もそなたに会える事を楽しみにしておる」
叔父上というのは正儀の舎弟、楠木正顕のことである。正顕は地頭として、北河内の倉満荘に入るに際し、名を正澄に戻していた。正澄の名は、かつて正儀が命名した名であった。
その正澄は、南北合一から一年と少し後に、風邪を拗らせて亡くなった。千菊丸の生まれた日のわずか二十日後のことである。正儀に成り代わって南北合一と千菊丸の誕生を見届け、あの世の正儀に報告しにいくがごとくの往生であった。
「承知つかまつりました。私を養女にして、後ろ楯になっていただいたのが大叔父上様(正澄)です。私が伊予局となったのも、大叔父上様あればこそ。必ず伺いますとみなさまにお伝えください」
照子の返答に、正信は安堵して頷いた。
ただ今となっては、宮中に入り伊予局となったことが、はたして最善であったのかと、正信は照子をおもんぱかった。
津田正信は、照子が家を出た後、同じ嵯峨野の大覚寺小倉御殿に参殿した。御殿では、南朝法皇(後亀山法皇)が六条時熙と阿野公為を傍らに置いて正信を迎えた。
「法皇様、ご無沙汰をしております」
「久しぶりであるな。周防守(正信)……」
法皇は南朝の旧官職名で正信に語りかける。
「……伊予局(楠木照子)の元を訪ねた帰りか」
「はい。されど、京を訪れたのは、法皇様にお願いの儀があって参りました」
「珍しいのう。朕に願いとは。何じゃ、申してみよ」
懐から書状を取り出した正信は、南朝法皇の傍らに座る伝奏役の公為に渡す。
「大内義弘からの書状でございます」
その言葉に、時熙が目の色を変えて、ぱたっと扇を閉じる。
「大内といえば、堺に籠城して、幕府と一戦構えようとしていると聞いたが」
「左様にございます。大内は幕府に反旗を翻しそうな諸将に、誘いの書状を送って参りました。それがしの元にも。その書状がそれにございます」
「周防守にもか。ならば、楠木の他の諸将にも届いておるのであろう」
「げにも、六条様。倉満荘の楠木正通殿にも届いております。もちろん我らは与するつもりはありませぬ。されど……」
「されど……何じゃ」
書状を手に、法皇が正信に問いかけた。
「走井荘の正秀が、甥の正盛を伴って、十津川に落ちました。賀名生に兵を集めていると申す旧臣もおります。大内に呼応するつもりではないかと思われます」
話を聞いて一同は驚く。
「今更ながらに、幕府に抗おうというのか……勝ち目はあるのか」
時熙の言葉に、正信は首を横に振る。
「勝ち目などありません。お願いの儀と申すは、法皇様(後亀山天皇)に、正秀への書状を承れないかと思い参殿つかまつった次第です」
法皇が大きく頷く。
「正秀が思い留まるよう、朕が書状を書けばよいのじゃな。よかろう。それを持って賀名生に参れ。出陣を思い留ませるのじゃ」
「はっ、法皇様。まことにありがたく存じます」
正信は、その場に深く平伏した。
津田正信は南朝法皇(後亀山法皇)の院宣を持って大覚寺を後にした。嵯峨野から西京を南に下った壬生の地に差し掛かったところ、荒ら屋の前で幼い小僧が一節切を吹いていた。
聞き覚えのある調べに、正信が立ち止まる。
「千菊丸ではないか。わしじゃ」
「津田の大叔父上様……」
見知った顔に、一休周建が堰を切ったように泣き出した。母に会えぬ寂しさに、ずっと耐えていたのだ。
そんな周建の頭に、正信が手をやる。
「そうか、安国寺はこの近くであったな。達者にしておったか」
袖口で涙を拭いながら、周建は頷く。
「母上様は……」
屈み込んだ正信が、周建の両肩に手をやる。
「元気じゃぞ。一人前の僧侶になったお前に会えるのを、待ち望んでおる。じゃから、お前も修行に励むのじゃ」
ひくひくと泣く声を押し殺し、周建は頷いた。
「されど、お前のような年端もいかぬこどもが、なぜ、このような寂しい処で笛を吹いておったのじゃ。それにその調べは……」
「はい、虚無僧様に母上の調べを習っておりました。虚無僧様は母上の調べを存じていたのです」
そう言って一節切を正信に見せた。
「虚無僧とはいったい……」
正信は、その一節切を手にとってしげしげと見た。すると、急に目の色を変える。
「その、虚無僧とやらはどこに行ったのじゃ」
突然の態度に、周建はたじろぐ。
「お、教えることはなくなったと、先ほど、ここを発ちました」
一節切を周建に返した正信は、虚無僧が立ち去ったという方向に走った。
津田正信の胸の鼓動が高まる。まさかと思いながら虚無僧を探した。
しばらく南に走ると、荒ら屋さえない荒れ地となった。そこで、正信が目にしたのは、深編笠で顔を隠した怪しげな風体の僧侶である。
(こやつに違いない)
後ろから肩を掴むと、虚無僧は一瞬、正信の顔を見て、すぐに顔を背けた。
「御免」
正信が虚無僧の深編笠を払う。
「やはり……」
そこには義兄、楠木正勝の顔があった。
どれだけ苦労をしてきたのか、白髪となり、しわも深く刻まれていた。しかし、正信が一番驚いたのは、額から頬にかけての大きな刀傷であった。
「いったい何が……」
そう聞くのがやっとであった。
すると正勝が、苦渋の表情を浮かべてうつむく。
「すまぬ。わしの棟梁としての采配が皆を不幸にしてしまった」
「あの時、死んだものと……」
あの時とは、千早城が落とされ、峠を越えて逃げた時のことである。正勝の敗走軍は、畠山の執拗な追討を受けた。
「事実、わしは死んだも同然であった」
深く息を吐いた正勝は、目に留まった枝振りのよい松の、その根本にある手頃な大石の上に腰を下ろした。
このあたりは、かなり昔、公家の屋敷が建ち並んでいたところである。しかし、湿地であったがために、人々が住まなくなり、荒れ地となっていた。正勝が座った石も、かつては屋敷の庭を飾ったものであった。
その石の上で、しばらくうなだれた正勝であったが、正信にうながされると、ぽつりぽつりと語り始める。
「……深傷を負ったわしは、背後の谷川へ身を投じた……崖を転がり川に落ち、生死の境を彷徨った。されど、運よく修験者に助けられた。やっと動けるようになったのは……小次郎(楠木正元)の死を知った時であった」
「なぜ戻って来なかったのじゃ。皆に会いたくなかったのか」
強い口調で、正信は義兄を責めた。
しばらく悩んでから、正勝は重い口を開く。
「わしは……父上(正儀)のように、君臣和睦の信念を貫けなかった。幕府を討って京へ凱旋したいという気持ちも強かった。常に父上の思いと、自らの中に沸き立つ幕府への憎しみとの間に揺れていた」
「そんなこと……それはわしとて同じじゃ」
「いや、わしはその迷いをもったまま戦に出ておった。采配にはその迷いが出ていた。棟梁としては失格じゃ。皆を……皆を不幸にしてしまったのはこのわしなのじゃ。小次郎が命を落とし、南北の朝廷が合一しようとしていた時、わしは身を隠そうと思うた。迷いを持ったわしが表に出ない方が、事は進むと思うたのじゃ」
正勝の話に正信は沈黙した。照子のことを考えると腹立たしくもあった。
「その後、我らがどうなったのか知っておるのか」
「ああ、知っておる。時折、遠くでお前たちのことは見ておった。お前のことも、照子のことも。千菊丸が生まれた事も。ただ一休が千菊丸であったことには驚いたが」
「では、これを知っておるか」
懐から書状を取り出し、正勝に開いて見せた。それは南朝法皇(後亀山法皇)が、楠木正秀に宛てた、出陣を思い留めるように命じた院宣であった。
その院宣に目を通した正勝は、驚いて顔を上げた。
正信が難しい顔をする。
「九郎(正秀)は、幕府に反旗を翻した大内義弘の誘いに応じ、出陣するつもりじゃ」
「何じゃと」
顔を強張らせる正勝に、正信が畳みかける。
「正盛……元服した金剛丸も一緒じゃ。思い留まらせるには、父である小太郎兄者(正勝)の力も必要じゃ」
これに、正勝は戸惑いの表情を浮かべる。
「わしにどうせよと言うのじゃ」
「わしはこれより、賀名生に向かう。十津川に落ちた九郎が、賀名生で旧臣たちを集めておるようじゃ。この院宣を九郎に渡し、出陣を止めさせる。兄者(正勝)は、何が一族を不幸にしたか、よくわかっておるのであろう。頼む。兄者も手伝ってくれ」
義弟の言葉は、正勝の迷いを抑え込んだ。
十津川で兵を募った楠木正秀と楠木正盛は賀名生に入り、旧臣たちと合流していた。この時、正秀は数えで二十七歳、正盛は二十歳になったばかりである。
この度の出陣に際し、正秀は、正倶と名を改めていた。正儀にもらった正秀の名を捨てたのは、最後まで和睦を求め続けた正儀への後ろめたさからでもある。
かつての行宮に陣を敷いた正倶・正盛の元には、旧臣たちの他に、野伏などの傭兵も集まっていた。
正倶が正盛を呼び止める。
「兵は全部でどれだけ、集まったか」
「ざっと、百五十といったところです。後は天川に向かった新兵衛殿です」
和田新兵衛正平は、天川、五色谷、北山郷など東吉野を廻って兵を募っていた。
「うむ、先に到着した者の話では五十人ばかり集まっておるようじゃ。直に新兵衛殿が率いて到着する。合流次第、出立じゃ」
「されど、合わせても二百人。九郎殿(正倶)、もう少しだけ待ちませぬか。求めに応じて参じる者が居るやも知れませぬ」
正盛の提案に、正倶は腕を組んで思案する。
「ううむ、では、もう少しだけ、様子をみるか」
そう言って、御殿の階に腰をかけた。
楠木正勝と津田正信は、賀名生を目指して馬を駆った。正勝は黒い小袖の上に袈裟を後ろに回した虚無僧姿のまま、傷を負った顔を晒して馬に跨がっていた。かつて、正儀が正勝に戦を思い留まらせようとしたように、今度は正勝が、楠木正倶(正秀)・正盛に挙兵を思い留まらせようとしていた。
賀名生に向かいながら、正勝は、かつて夢現の中で聞いた父、正儀の言葉を思い出していた。
(……朝敵とは誰じゃ。戦の相手が朝敵なのか。幕府を滅ぼせば帝を御救いすることができるのか。幕府であろうが、朝廷であろうが、それは単なる器にしか過ぎぬ。朝敵とは人の心の中に居る。己が欲で政を行うものが生まれれば、我ら楠木が立ち上がるのじゃ……)
父、正儀の思いを胸に、正勝が叫ぶ。
「九郎(正秀/正倶)・|金剛丸(正盛)、挙兵してはならん。楠木党をこのような戦で滅ぼしてはならん。楠木党が戦うところは別にある。正成・正行・正儀の思いを引き継がねばならん」
夜通し馬を走らせて、正勝と正信は賀名生に到着した。かつての行宮に駆け込んだ二人は、馬を降りてあたりを見回す。そこには、出陣の際の盃割りの破片が散乱していた。
「遅かったか……」
そう言うと、正信は肩を落として項垂れた。
わずか一日の差であった。正勝と正信が到着した前日に、正倶・正盛は楠木党二百余騎を引き連れて堺に出陣していた。
正勝がその場に力なく両ひざを付く。
「父上(正儀)、申し訳ありませぬ……」
片手で顔を覆い、振り絞るように声を発した。
応永七年(一四〇一年)正月も終わりの頃。安国寺の和尚、像外集観が、一休周建を連れて足利義満の北山第を訪れた。
(極楽浄土……)
幼い周建は、壮大な舎利殿金閣を前にして、夢を見ているのではないかと思った。
謁見の間で二人を待っていたのは、政所執事の伊勢貞行と、政所代の蜷川親俊である。
「これは、和尚殿、一休殿、さ、こちらへ」
貞行に迎えられ、二人は座って頭を下げた。
「執事様(貞行)、つい先日、堺の戦が終わったばかりですが、このような時によろしかったのでございますか」
集観和尚が恐縮しながらたずねた。
すると、貞行は口元を緩める。
「大御所様(義満)自らが本日を御希望されたのじゃ。気になさるな」
二月前の応永六年(一四〇〇年)十一月二十九日、左京権大夫、大内義弘の城山城を、足利義満は、三万余の軍勢で総攻撃を仕掛けた。義満が整えた将軍直轄の軍事組織である奉公衆もこれに加わっていた。
十二月二十一日、幕府の大軍に対し、城山城は一月持ちこたえた。しかし、ついには落城し、義弘は討ち死にした。人々はこの大内義弘の戦いを、時の元号をとって、応永の乱と呼ぶ。
顔を上げた周建に目を配った和尚が、貞行に問いかける。
「伊勢の北畠殿が参陣したと聞きおよびましたが……」
南北合一に、最後まで反対の意を唱えた南朝の大納言、北畠顕泰であったが、合一後は幕府に伏し、伊勢の国司として留まっていた。この度の戦では伊勢の所領安堵を賭け、幕府方として堺に出陣した。戦が始まると三百余騎を突入させ、嫡男、北畠満泰が討死するほどの激しい奮戦を見せて、義満から伊勢の南半国を安堵された。
「南方(南朝)で最後まで和睦を拒んでいた者が、幕府方として所領安堵の戦をするとは、何とも節操のない事じゃ」
北畠の変節に、貞行は顔をしかめた。
伊勢氏は伊勢平氏の末裔で、伊勢国は祖先の地であった。貞行は顕泰を押し退けて、自らが守護に成ることを望んだ。だが、この度の顕泰の奮戦で、その希望も潰えた。貞行が吐き捨てるように言ったのは、その悔しさもある。
「よほど楠木の方が潔いではないか」
貞行が口にした楠木の名は、幼い周建も聞き覚えがあった。母、照子や津田正信の口からたびたび出てきた名前である。しかし、周建は、自分が楠木とどう関係するかまでは、教えられてはいなかった。
集観和尚が、周建を一瞥したあと、貞行に顔を戻す。
「執事様、それで、大内に与した楠木はいかがなりましたか」
「うむ、棟梁の楠木某は落ち延びたようじゃ。だが、行方はわからん」
親俊が周建に同情の目を向ける。
「これで楠木は、大内に加担した者はいうにおよばず、一門全体への責めも厳しくなりましょう。幕府との和睦を求めた楠木が幕府から追われる破目になり、頑なに討幕を唱えた北畠が幕府の元で生き永らうとは……真に不思議なものでございますな」
「人の定めというのは生まれる前から定まっておると言います。楠木は、楠木にしかできぬ役目を背負って元弘の御代に現れ、そして、今、役目を終えたのかも知れませぬな。かの楠木正成公も、正行殿も、そして、和睦を求め続けた楠木正儀殿も。きっと、御仏が役目を負わせ、この世に遣わせたのでしょう」
和尚の言葉に、貞行も親俊も静かに頷いた。
大人たちの話は、周建にはわからなかった。だが、集観和尚が、聞き覚えのある楠木という名を、おもんぱかっていることだけは判った。
一休周建らの前に、舎利殿金閣の主が現れる。
「これは和尚殿、それに一休殿、よう参られた」
近習を連れた足利義満は、謁見の間に入ってくるなり、気さくに声をかけた。
「これは大御所様(義満)、お招きいただきありがとう存じます」
「ありがとうございます」
集観和尚に続いて、周建も手を床に着いて頭を下げた。
徐に周建は、腰袋から一節切を取り出す。
「大御所様、一節切を吹けるようになりました」
「何、もう吹けるのか……」
こども相手にわざと大げさに驚いてみせる。
「……よし、余に聞かせてくれ」
義満に促された周建は、目を瞑り、一節切に息を吹き込んだ。そして、虚無僧に教わった調べを懸命に奏でた。
この正月で数え七歳となった周建の吹奏に、伊勢貞行と蜷川親俊は目を見開き、顔を見合わせて驚きの表情を浮かべる。幼子とは思えぬほどの節回しであった。その節に乗った調べに、二人は陶酔した。
周建が一節、吹き終える。
「おう、一休殿、とてもこどもとは思えぬ音色じゃ」
「まったくじゃ。驚き申した」
貞行と親俊は、素直に感嘆の声を上げた。
当然、義満も喜んでいるものであろうと、二人が顔を向ける。しかし、義満の表情は硬かった。
「大御所様、いかがなされました」
貞行に声をかけられて、義満ははっと気を取り直す。
「その調べは、いったい誰に教えを乞うたのじゃ」
幼子を褒めるでもなく、問い詰めるようにたずねる義満に、一同は戸惑った。
「虚無僧様です。この一節切をもらい、吹き方を教わりました」
「虚無僧……とな。何者じゃ」
「わかりませぬ」
上気した義満の問いに、周建も戸惑った。
見かねた親俊が代わりに答える。
「それがしは、その者が一休殿と一緒に居る姿を目にしました。普段から深編笠で顔を隠した旅の僧でございました」
「そうか、旅の僧か……」
義満は落ち着きを取り戻す。
「……いやいや、悪かったのう。一休殿が吹いた調べは、余が父(足利義詮)より習いし調べと同じであったからじゃ。あまり世に知られた調べではないので、一休殿が奏じた時、驚いたのじゃ。どれ、その一節切を見せてくれぬか」
近習を介して一節切を受け取った義満は、しげしげと眺めた。すると、その近習に何やら耳打ちする。近習はいったん席を外すが、すぐに戻ってくる。その両手は桐箱を掲げていた。
近習から桐箱を受けとった義満は、蓋を開けて中のものを取り出す。一節切であった。
そして、周建の一節切と縦に合わせる。
「な、何と、黒竹の斑紋がぴたりと合うたぞ。斯様なことがあるものであろうか……」
義満は感嘆する。
「……この一節切は、余が幼き時に父(足利義詮)から譲り受けたもの。この一節切で父から先ほどの調べを教わったのじゃ」
貞行も首を傾げる。
「不思議なことがあるものでございますな。目の前で起きていることが信じられませぬ。それにしても、その旅の僧侶とは何者でございましょうや」
これを受けて集観和尚が口を開く。
「その者は御仏の化身かも知れませぬな。一本の竹から作られた二つの一節切。いずれまた出会う定めであったのでございましょう。一方は大御所様が、そしてもう一方は一休が持ち、こうして二人が会うことに意味があったのかも知れませぬ」
和尚の話に、義満は大きく頷く。
「どうじゃ、一休殿、一緒に一節切を吹いてみぬか」
「はい、わかりました」
周建と義満は、それぞれの一節切に息を吹き込んだ。それは、竹の筒を通して乾いた風の音となる。その風韻は、高く、低く、なめらかに音階を変えながら旋律となる。調べは心地よく舎利殿金閣の中に響き、皆の時をさらった。
一節切を吹く二人の姿に、六十五年前の虎夜刃丸こと幼き正儀と、足利尊氏の姿が重なる。
『……この一節切を虎夜刃丸殿に進ぜよう。もう少し大きくなったら、またわしが笛を教えよう』
『ほんとうに』
『ああ。一緒に一節切を吹こうぞ』
元は足利尊氏が童用にと、京の市で作らせた二つの小さな一節切。尊氏はそのうちの一つを虎夜刃丸に与え、調べを聞かせた。そして、それは正儀から正勝を経て一休周建の元へ渡った。もう一つは尊氏から義詮を介して義満の元にあった。
周建と義満は元より、二人に一節切を与えた正勝と義詮でさえも、その謂れについては知る由もなかった。
南朝と北朝に別れた一節切。その間を割いていた長い歳月は、正儀と尊氏、それぞれの血を引くものによって、ようやく取り払われたのであった。
完
 




