第47話 南北朝の合一
元中九年(一三九二年)五月初め、初夏の風が京の町へ、新緑の馨香を運ぶ。室町の幕府はすっかり権威を高め、賀名生の南朝は京の人々の意識から失せていた。
そんな京の町に、楠木正元と楠木正秀の姿があった。二人は十数名の手勢と一緒に、京の外れにある荒れ果てた空き寺の御堂に潜んでいた。いずれも直垂に侍烏帽子といった平装である。
二人の前で服部十三成儀が絵地図を広げる。先に京に潜伏していた成儀は、かつて父の聞世(服部成次)がそうであったように、諜報のときに用いる黒い装束を身に纏っていた。
絵地図を指差しながら、成儀が顔を上げる。
「明日、将軍(足利義満)は、清水寺に参詣します。襲うのであれば、このあたりかと」
「うむ、ご苦労じゃった。今度こそは我らの手で、父上(正儀)と兄者(正勝)の仇を討とうぞ」
力のこもった正元の言葉に、正秀と成儀は頷いた。
二月前、千早城が落城した。楠木党は畠山軍の追撃を受けて、散り散りになりながらも賀名生に落ちた。たどり着いたのはわずか五十余人。楠木正元・正秀をはじめ、楠木正通・正房兄弟、楠木正建、和田正平、そして津田正信の面々である。しかし、棟梁、楠木正勝の姿はなかった。
千早落城の際、服部成儀は数名の透っ波とともに正勝に従って逃げていた。だが、追手を撒くためにと、途中、正勝らと別れた。再び一行を見つけたときには時すでに遅く、郎党たちは息絶え、正勝は行方知れずになっていた。成儀は慌てふためき、懸命に辺りを探した。しかし、まだ畠山の兵たちがいる山の中では、声を上げて探すこともままならず、ついに正勝の亡骸さえ見つけることはできなかった。
いったん、賀名生の楠木屋敷に入り、正勝の無事を祈っていた一同は、成儀が到着して初めて惨劇を知る。実弟の正元は号泣し、一同は言葉を失った。
楠木党は、棟梁の正勝と多くの将や兵を失い、千早城を追われた。楠木に、もはや軍と呼べるほどの兵を動かす力は、なくなってしまった。
一門の長老、楠木正顕は、正元にこれ以上、幕府に抗う事を思い留めさせる。父や兄たち、そして帝(後亀山天皇)のためにも、楠木の血脈を残すことに心血を注いだ。
しかし、正元は幕府を許すことができなかった。正秀と成儀、それに十数名の郎党を連れ立って将軍、足利義満の暗殺を目論んで出奔した。
一度は義満が紀州の粉河寺へ参詣した折を狙った。だが、越後守、赤松顕則ら将軍近習の警備は思いのほか厳しく、目的を達成することはできなかった。
そこで、今度は京に潜伏して暗殺の機会を窺う。京であれば義満も気を許し、警護の少ない機会も生じるだろうとの考えであった。
楠木正顕は甥である楠木正勝の嫡男、金剛丸を、賀名生の楠木屋敷に引き取る。姉の照子はすでに賀名生にあった。懐成親王の妃で、叔母でもある楠木式子の後ろ盾を受けて、官女として行宮に出仕していたからである。
その照子が正顕の屋敷を訪れていた。正顕は、姉弟を前に座らせてあらたまる。
「金剛丸、照子。そなたらの父(正勝)が亡くなってから二月が経つ。そろそろ、お前達の身の振り方を決めねばならん」
大叔父、正顕の話に、二人は目を落として頷く。
照子は姉として、金剛丸のゆく末を気遣っていた。弟の背中に手を添えて頭を下げる。
「大叔父様(正顕)、金剛丸は棟梁、正勝の子です。どうか、大叔父上様の元で立派な武将にしていただけないかと存じます」
「うむ、元よりそのつもりじゃ。小次郎(正元)が出奔した今、わしには、お前たちの面倒をみる務めがある。兄者(正儀)の孫なのじゃからな。今日からわしがそなたたちの父となろう」
そう言って正顕は、照子と金剛丸を自らの猶子とした。
同じ賀名生の行宮では、千早城と楠木正勝を失ったことに、いまだ動揺が収まっていなかった。
関白の二条冬実を筆頭に、右大臣の吉田宗房、内大臣の阿野実為、大納言の六条時熙らが廟堂に集まり、朝議が開かれる。
どんよりとした曇り空。薄暗い廟堂の中で、冬実が悔しそうな表情を浮かべて一同に目を配る。
「幕府は和睦を欲した橘相(正儀)を殺した。さらに、楠木を滅ぼそうと千早を落とし、右馬頭(楠木正勝)までも殺した。やはり、幕府は信用の置けぬやからよ」
「常久(細川頼之)が亡くなったと聞きました。もはや幕府との交渉さえも難しいやも知れませぬ」
宗房も残念そうに冬実に応じた。
「こういうことになるのであれば、山名に綸旨を下し、官軍として京に攻め込めさせばよかったのではないか。伊予守(楠木正顕)の言葉を聞いたばかりに、このようなことになった」
「関白様(冬実)、お言葉なれど、山名に官軍の名分を与えておれば、幕府は勢いに乗じて、この賀名生に攻め入ったやも知れませぬ。幕府はあの山名氏清でさえ一日で討伐致しました。綸旨を与えても結果は変わらなかったかと存じます」
反論する時熙に、冬実は憮然とした表情を浮かべ、視線を反らした。
その二人に向けて、宗房が口を挟む。
「いずれにせよ、最大の懸念は幕府が我らを討たんと兵を送ってくるのか、和睦を求めてくるのかじゃ」
「和睦を求めてきたとしても、我らが呑める和睦の条件であるかということもございます。このようなときにこそ、我らに橘相殿(正儀)が、そして、幕府に常久(細川頼之)が居ればよいものを……」
残念そうに実為が呟いた。
五月十八日、征夷大将軍の足利義満は、護衛の兵を従え、馬に乗って音羽山清水寺へ詣でた。身体を悪くし、かつての威勢を無くした義母、大方禅尼(渋川幸子)のための、病気平癒の祈祷のためである。
寺での参拝を済ませ、室町にある花の御所への帰路のことである。通りは、将軍の行列を一目見ようと京の町人らでごった返していた。将軍の馬廻衆の一人が先触れとして前を走り、京の町人たちを道の両脇に控えさせた。
その見物人に紛れて楠木正秀の姿があった。目立たない直垂姿で、人影から馬上の義満を見据えると、裏路地を走り、行列を先回りする。正秀が駆け込んだ廃屋跡の空き地には、具足(甲冑)に身を包んだ楠木正元や服部十三成儀ら十数人の楠木党が居た。
「小次郎兄上(楠木正元)、来ました。真ん中が義満です」
義満が影武者でないか確認するため、正元が正秀を偵察に向かわせていたのであった。正秀は池田教秀と名を偽って、足利義満の厳島詣に同行したため、将軍の顔を間近に見ていた。
「どんなさまか」
「赤い直衣に立烏帽子で馬に跨がっております」
「そうか」
正秀の返事に、正元は口を真一文字に引き締めて頷いた。
その時である。正秀はみぞおちに激痛が走り、意識が遠退く。正元が当て身を食らわしたからであった。
「父上(正儀)と兄者(楠木正勝)の仇討ちは我らだけで十分じゃ。九郎(正秀)よ、そなたは楠木の血を繋ぐ者として、生き延びよ」
意識の霞む正秀に、正元が語りかけた。そして、前のめりに倒れる正秀を抱きかかえ、傍らの石灯籠にもたれかけさせた。
「では、参りましょう」
傍らから服部成儀が促し、正元らは町屋の陰で義満一行を待ち伏せした。
馬上の義満を正元が見定める。
「いざ、参らん」
その声に、楠木党十数人は大路に飛び出し、一行の側面から義満に槍を向けた。
「何奴っ。将軍の行列と知っての狼藉か」
一足早く異変に気づき、正元らの前に立ちはだかったのは、将軍近習の赤松顕則であった。赤松円心の孫の一人である。その怒声によって、正元らは馬廻衆の侍に囲まれた。
「くそっ」
成儀らとともに、正元は囲みを破って義満に近付こうと馬廻りの侍たちと槍や刀を交えた。双方の白刃ががちがちと合わさり、町人たちが騒然となる。
具足を纏っているとはいえ、人数の少ない楠木党は、じりじりと追い詰められた。
「御舎弟殿(正元)、危ない」
楠木の郎党が、正元を庇って一人二人と討たれていく。
「おい、しっかりせよ」
正元は、次々に討ち取られる楠木の郎党たちに気を遣りつつも、自分に向かってくる敵の刃を躱すことに精一杯であった。ついに正元と成儀の二人は圧倒的な数の敵に囲まれる。
「小次郎様(正元)、これでは将軍に近づくことさえ叶いませぬ。それがしが血路を切り開きますゆえ、どうかここはお逃げくだされ」
矢面に立った成儀が、敵を寄せ付けぬように大振りに槍を振った。
「退け、退けっ」
声を張り上げ、成儀は道を切り開く。
しかし、正元の回りに集まってくる幕府の兵の数は次第に増え、正元と成儀は二重、三重に囲まれる。
「ぐわっ」
正元に背を向け、将軍の馬廻衆と白刃を交えていた成儀が、薙刀で足を払われて倒れた。
「じゅ、十三っ」
止めを刺される成儀を目の当たりにして、正元は、もはやこれまでと観念し、その場に胡座を掻いて座り込んだ。
そのとき、馬上の義満が赤松顕範に向けて声を上げる。
「切るな。生け捕りにせよ」
「ははっ」
四方から繰り出された薙刀で身動きが取れない正元は縄を打たれた。
将軍近習の顕則が、捕縛された正元に歩み寄る。
「その方はいずれの手の者じゃ」
無念そうに正元は顕則を見返す。
「我は楠木帯刀じゃ」
「何、楠木じゃと……」
訝しそうに、顕則が正元の顔を覗き込んだ。
気を失って石燈籠に突っ伏していた楠木正秀は、通り掛かった町人に肩を揺すぶられ、気を取り戻す。しかし、すでに事は終わった後であった。
血相を変えた正秀が、逆に町人の肩を揺さぶる。
「将軍を襲った侍たちはどうなったのじゃ」
「え、あ……皆、切られたようですが……賊の頭は、将軍の馬廻りの侍が生け捕りにして連れていきました」
「連れて行かれたと……」
「ええ、何でも楠木の一族とか。楠木は平穏を脅かす朝敵ゆえ、きっと打ち首にされることでしょう」
京の町人が、平然と正元の刑死を望む声を聞いて、正秀は愕然とする。自負する忠臣楠木と、京の人々にとっての逆賊楠木とは、あまりにもかけ離れていた。
町人に礼を言う事すら忘れ、正秀は苦悶の表情を浮かべて立ち去った。
楠木正元は縄を打たれ、花の御所まで引き回された。義満は狼藉者が楠木と聞いて興味を持ち、自ら立ち会う事にする。
殿上の縁に座る足利義満に対して、正元は後ろ手に縄を打たれたまま白州に座らされた。その後ろには将軍近習の赤松顕則が立ち、正元を縛る縄を握っていた。
「その方の名は何と申す」
無念な顔つきで、正元は殿上の義満を見返す。
「それがしは楠木右馬頭(楠木正勝)が舎弟、楠木帯刀。兄、正勝と父、正儀の仇を討たんと刀を抜いたが、武運拙くこのような仕儀と相成った。もはや勝敗は決した。さあ、切られるがよろしかろう」
「そうか、正勝の弟か……なぜ戦場ではなく、このような形で余を討とうとした。一軍の将とは思えぬ仕儀じゃ。楠木一族の汚点になるであろう」
落胆した表情を見せて、義満は正元を非難した。
「千早城が落ち、兵も散ってしもうた。これが、今、それがしが動かせる軍勢じゃ。楠木は七生滅賊。いかなる状況であろうが、自らができることを考えて朝敵を討つのみでござる」
「そなたの父は考えが異なったようじゃが。正儀は常に余に和睦を説いた」
「父、正儀もまた一途な者でござった。いかなる状況であろうが君臣和睦、南北合一のために動き、時には幕府にさえ降った。それがしは、幕府に降った父を蔑むこともあったが、今であれば父の気持ちもわかり申す」
その言葉に義満はにやりと笑う。
「余が幼き時から思い描いていた楠木正成や正行と、そなたの父、正儀は、あまりにも違う者と思うてみておったが、根は一緒なのか……少し楠木が判ったような気がする」
「いや、簡単にはわかりますまい」
正元が笑い飛ばした。
その態度を気に留めることもなく、義満は真面目な顔で正元の目を見る。
「どうじゃ、帯刀(正元)よ、我が奉公衆に入り、余の手助けをしてくれぬか」
奉公衆とは、義満が整えようとしている将軍直属の軍事組織である。今までの親衛隊である馬廻衆を発展させた組織であった。力を付ける山名氏清のような守護大名を押さえるには、将軍自らが軍事力を掌握しなければならない。義満は守護大名に中枢の武将を差し出すように求めるが、簡単なことではなかった。将軍が強力な軍事力を持つことに、大名は危機感を抱いたからである。
そこで義満は、大名の惣領家に距離を置く分家筋から武将を集めていた。将軍近習で馬廻衆を纏める赤松顕則も、赤松円心の次男で、惣領を継げなかった赤松貞範の子であったからこそである。
将軍が楠木正元を欲したのは、楠木が拠りどころとする守護国を失った事と、楠木という敵を従えたという喧伝のためである。だがそれだけでもない。
義満の突然の申し出に、馬廻衆を纏める顕則が眉を吊り上げる。
「御所様(義満)、なりませぬ。楠木の者など、もっての他でございます。いつまた御所様の命を狙うかわからないではありませぬか」
しかし、義満はいっこうに気にする素振りを見せない。
「我が足利と楠木は、元弘の事変以来、因縁浅からぬ仲じゃ。我が祖父、足利尊氏と楠木正成は互いに尊信し、最後まで敵として相対することを拒んだと聞く。我が父(足利義詮)は楠木正行を敬愛し、墓まで隣に作った。足利の楠木狂いという悪い血が、余にも受け継がれておるのやも知れぬな」
そう言って義満は笑い、その様子に正元も表情をやわらげる。
「その儀はご容赦くだされ。ここでそれがしが死なねば、楠木の名折れにござる。足利と楠木は、互いに引き合うものがあったにせよ、決して交わることのない空と海にござる。遠慮なく、この首を討たれよ」
「ううむ……」
さっぱりした表情の正元に、義満は残念そうに目を閉じた。
翌十九日、楠木正元は京の千本松原に引っ立てられた。刑場には、楠木正成の孫が処刑されると聞きつけ、京の町人が大勢集まっていた。
「ほう、あの白い装束の者が楠木正成の孫か」
「楠木も、数人で将軍を襲うまでになるとは、落ちたものよ」
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
町人たちは、竹柵の内側に座らされた正元の姿を見て、ひそひそと話した。
見物人たちの中に、楠木正秀の姿があった。
(小次郎兄上(正元)、必ずお助けします)
心の中でそう呟いた正秀は、刀の柄に手をかけて、討ち入る機会を窺った。
刑場の正元は、そんな正秀の視線を感じ取り、一瞥すると、すぐに目を逸らす。そして、大きく息を吸い込む。
「我こそは楠木正成が孫、楠木帯刀正元じゃ。千早城を失った我らは、この地で手勢を率いて将軍との決戦に臨んだ。じゃが、武運拙く囚われの身となった。無念ではあるが、生き恥を晒して命乞いなどもっての外。こうなれば、潔く首を刎ねられるのみ。いかなる者であろうとも、わしの末期を汚すべからず。己は己の束縛を解き離すのみぞ」
突然の大声に、両脇の兵が慌てて正元の両手を掴み、前屈みに背中を押し付けた。
それは、正秀ただ一人に向けられた申し送りである。楠木の因縁に捕われずに生きよと伝えたかったのだ。自らへの戒めでもあった。
その言葉を聞いた正秀は、嗚咽しながらその場に座り込む。もはや正秀は、正元の最期を見届けることしかできなかった。
両脇の兵に腕を掴まれて、正元は首を突き出す。刀を抜いた侍がその前に立ち、刀を振り上げて構えた。
「父上(正儀)、母上(徳子)……」
そう呟いた時、刀が振り下ろされた。
最後まで、正秀は顔を伏せなかった。楠木一門のため、見届けなければならないと、自分に言い聞かせていた。正元の最期の姿は正秀の脳裏に深く刻まれた。
六月二十五日、病床にあった大方禅尼(渋川幸子)が亡くなる。先代将軍、足利義詮の正室として、幕政に大きな影響力を及ぼした。実子の千寿王を幼くして失い、前将軍の義詮が亡くなっても、その威厳はあせることはなかった。北向禅尼(紀良子)が生んだ足利義満の母として振る舞い続け、管領、細川頼之とぶつかり、正儀を苦しめた。
義満にとっては、この母を越えることが真の大将軍になるための一里塚であった。義満は義母の死に、涙を流すことはなかった。
九月、正儀の知略と楠木の兵力を失い、手足をもがれた南朝に、将軍、足利義満は最後の仕上げとばかりに、和睦の交渉を開始した。
義満にしてみれば、抗う手立てを失った南朝に対し、高圧的に和睦を迫るだけでよかった。そのため、武力で山名を討伐し、和泉国と紀伊国の守護となった大内義弘を使者として賀名生に送った。
それでも義満は、表面上は帝(後亀山天皇)に対する畏敬の念をわきまえる。形ばかりは北朝の使者としての体裁を整えるため、京の朝廷を動かし、義弘に右近衛少将の官職を与えた。
花の御所では、管領の細川頼元が将軍、足利義満の元に参じていた。傍らには政所執事の伊勢貞行がいる。貞行は伊勢照禅(貞継)の嫡養子、貞信の子で、この時、義満と同じ三十五歳であった。
その貞行が頼元に向けて、疑問の表情を浮かべる。
「管領殿(細川頼元)、南方(南朝)は和睦に応じるでしょうか。いくら抗う手立てを失ったとはいえ、南方(南朝)は、これまで、幾度も南北合一を頓挫させて参りました」
「これまで、南方の公卿どもは、自らの置かれた状況を鑑みず、身の丈を越えた事を欲したがために和睦が頓挫した。されど、今の南方は兵もなく、領国も持たぬ。いくら頭の固い公卿どもとて、自らの立場はさすがにわかっておるであろう」
応じる頼元に、義満が頬を緩める。
「余は大内(義弘)に、以前の交渉と同じ条件にまで譲歩してよいと伝えておる。これほどまでに分が悪い中で同じ条件を示せば、喜んで応じよう」
「両統迭立でございますか……ここまで衰退した南方に、何もそこまで譲歩することはないのではありますまいか。廟堂も納得せぬのでは」
驚きながら貞行は言葉を返した。
譲歩の真意がわからない貞行に、義満は苦笑いを浮かべる。
「まずは、三種の神器を取り戻すことが肝要じゃ。今はただそのことだけに力を注げばよい。和睦の約定を果たすのはその後じゃ。されど、我らが約定を果たせるかは、そのときの状況にもよる。いくら我らが約定を果たそうとしても、そのときの状況がそれを許さないこともあるであろう。それは致し方がないことではないか。幸い今は、南主(後亀山天皇)の後立てとなる楠木はおらぬ。知恵者の正儀も、約定を守れと迫る軍兵もおらぬという事じゃ」
約定は方便と言わんばかりの口振りであった。
まさにこれが、和睦交渉の前に正儀を討ち、千早城を落とし、楠木軍を壊滅させた理由である。貞行は、義満の底知れぬ心胆を改めて思い知った。
感心する貞行に、管領の頼元が言葉を足す。
「いまだ、伊勢で勢力を誇る北畠(顕泰)が、南主(後亀山天皇)と疎遠であったことは幸いでござった」
南朝の権大納言で、伊勢国守の北畠顕泰は、和睦派の帝(後亀山天皇)との関係は悪い。賀名生には出仕せず、ただただ伊勢の領国を幕府方から守り、広げることだけに精力を費やしていた。
「南方との和睦が成った後、北畠をいかがするおつもりですか」
貞行は、北畠が支配する伊勢の地がどうなるのか気掛かりであった。それは、伊勢国が貞行の祖先、伊勢平氏が治めた地であり、北朝の伊勢守でもある貞行にとっても、手に入れなければならない因縁の地であったからである。
ふうむと、義満は顎に手をやる。
「あくまで幕府に抗うというなら、滅ぼすまでじゃ。されど北畠は、今更に南主(後亀山天皇)の後立てとなることはあるまい。大人しく幕府の軍門に降るのであれば、そのまま伊勢を任せてもよい」
将軍の言葉は意外であった。期待していた貞行は肩を落とす。
本来、北畠は先代の顕能、先々代の親房と、一貫して討幕を主張して南朝強硬路線を主導した。幕府にとって最も許しがたい存在のはずである。それを、まるでなかったかのように、南帝と疎遠という理由だけで許そうとする義満の度量に、貞行は舌を巻いた。
北朝の使者として、にわか少将に任じられた大内義弘は、正使の吉田兼熙を戴いて、賀名生の行宮に入った。
吉田兼熙は北朝の正三位公卿、朝廷の祭祀を司る神祇大副である。徒然草で名を馳せ、高師直とも懇意であったという随筆家、吉田兼好の一族でもある。
南朝右大臣の吉田宗房、内大臣の阿野実為、中納言の六条時熙らに会った義弘は、将軍、足利義満の意向を伝えた。
実為らは幕府の和睦案を朝議に諮り、義弘らが帝(後亀山天皇)に拝謁することを許した。
後日、再び賀名生に赴き、廟堂に入った大内義弘と吉田兼熙は、南朝の公卿が居並ぶ中、礼服姿の正装で御簾越しに帝に拝謁する。
垂纓冠を被った正使、兼熙の言上に続いて、風折烏帽子の副使、義弘が上目遣いに、前に垂らされた御簾に目を向ける。
「主上(後亀山天皇)におかれてはご機嫌麗しく、恐悦至極に存じます。それがしは、京の君、さらには征夷大将軍より、和睦の交渉を託されて参りました、大内右近衛少将にございます」
しかし、御簾向こうは無言であった。代わって声をかけたのは関白の二条冬実である。
「大内少将、大儀である」
「はは、我が大内は、かつては後醍醐の帝や後村上の帝にも御仕えした家でございます。南の朝廷に対する思いは他の大名とは比べるまでもございませぬ。主上が御納得されて京に御還幸いただけるよう、和睦を整えたく存じます。どうか、御安堵召されますよう、お願い致します」
義弘の父、大内弘世は、観応の擾乱以降、南朝に帰参して幕府と争った。だが、細川頼之が中国管領となると、その懐柔策を受け入れて幕府に帰復した。南朝から言えば、苦しい時に裏切った信用できない武家である。だが、義弘は臆面もなかった。
兼熙が、そんな義弘を瞥見してから話を進める。
「和睦の内容に御納得いただけますれば、まずは嵯峨野の大覚寺にでも御還幸いただき、神器を京の帝(後小松天皇)に御譲りいただけないかと存じます」
和睦の条件は、すでに内大臣の阿野実為を介して、帝の耳に入っていた。三種の神器を北朝に渡せば、両統迭立を幕府が保障するというものである。窮地に落ち入った南朝にとって、ありがたい条件であった。
御簾向こうの帝の反応を、義弘は上目遣いに窺った。代わって傍らの内大臣、実為が帝の内意を伝える。
「幕府が約定を守るのであれば、御上は、必ずや、御還幸の後、神器を譲られることでございましょう」
「本当でございますか」
思わず声を漏らした義弘は、隣の兼熙に目配せされ、ばつが悪そうにうつむいた。
すると、御簾の向こうから、帝が奏上役を差し置いて、低く唸るように直答する。
「無念ではあるが……我が朝廷は治める国を失った。政に関わらぬ者が、いたずらに神器を抱いて何の得があろうか。還幸が実現した後は、必ずや神器を北主(後小松天皇)に譲ろう」
「ははっ」
義弘と兼熙は、恐縮してその場に平伏した。あまりにことが順調に進み、信じられぬ思いであった。義弘はおおいに喜び、急いで京へ戻り、将軍、足利義満に報告した。
正儀の舎弟、楠木正顕は、内大臣の阿野実為に呼び出されて賀名生の行宮へ参内した。
「ついに橘相殿(正儀)の念願であった南北合一が相成った。後は双方で批准するばかりじゃ」
実為の言葉に、正顕は複雑な思いを抱いていた。
「生前、兄(正儀)は、和睦が相成った後のことを心配しておりました。両統の迭立がはたして守られるか、ということにございます」
「もちろん御上(後亀山天皇)もそのことは御承知じゃ。橘相殿(正儀)が申していた通り、我らが兵馬を維持したうえで和睦することが、両統迭立に実を持たせる。さりとて、ないものはない。御上は、元弘・建武以来の長い混乱を収め、民の憂いを除くため、運を天に任せようと御聖断されたのじゃ」
帝の胸中を察しつつも、正顕は無念の表情を浮かべる。
「今思えば、幾度もあった和睦の機会を逸したことが悔やまれます」
「その和睦の機会にことごとく反意を示したのが北畠であるが、伊勢の北畠大納言(顕泰)が、幕府との和睦の話を聞きつけ、使いを送ってきた」
「またしても、和睦に反対する諫奏でございますか」
「そうじゃ。いずれ幕府は約定を反故にするであろうと記されておった。されど、御上は動じなかった。和睦は己のためではない。民のためなのじゃとな」
帝の苦悩の決断を知った正顕は、神妙な表情で目を伏せた。
楠木正顕は、内大臣の阿野実為と別れた後、懐成親王の妃となった正儀の娘、楠木式子を訪ねた。
下座から、正顕が姪の式子に頭を下げる。
「式子様、ご機嫌麗しゅう」
「叔父上様(正顕)、わざわざのお運び、痛み入りまする」
傍らには楠木正勝の娘、照子も控えていた。
「どうじゃ、照子も息災か」
「お蔭を持ちまして、無事に過ごしております。これも、大叔父上様(正顕)が娘として私を迎えてくれたお陰です」
父、正勝を失って哀しみ暮れていた照子に、少し明るさが戻っていた。
「叔父上様(正顕)、照子は宮中では伊予局と呼ばれております。伊予守の叔父上から伊予をいただきました」
式子が伊予局の名を出すと、照子は正顕に向けて、にっこりと微笑んだ。
「ほう、わしの伊予守から。よいのか、小太郎(楠木正勝)のでなくても」
「叔父上様、照子は今では叔父上様の娘ではありませぬか。それに、亡き兄上(正勝)の任国は河内。河内局では、私めと同じになってしまいます」
そう言って、式子は扇で口を隠しながら笑った。
正儀と正勝とを失い、さらに正元までが非業の死を遂げたことで、式子と照子は、今やこの正顕と、津田正信だけが拠りどころであった。三人は、悲しみを乗り越えるために、無理をしてでも笑わなければならなかった。
「母上様」
その声に、正顕が縁側に目をやると、一人の幼子がいた。部屋に入って式子の隣に座ったのは、懐成親王と式子の子、淳義王であった。
「これは宮様。お元気でおわしましたか」
正顕の問いかけに、淳義王は頷く。
「伊予守(正顕)、久しいのう」
五歳児に似つかわしくない言葉に、式子と照子は顔を見合わせ、吹き出すように笑う。好奇心旺盛の淳義王は、父宮の懐成親王の仕種を、すぐに真似していた。
「宮様は京の都をご存知ですか。多くの人が住み、たくさんの御殿や寺院があります」
これに、淳義王は首を横に振った。
「ご存知ありませぬか。毎日が祭りのごとく、それはそれは賑やかなところでございます。母上様や伊予局殿と一緒に、京の都に参りましょう。この伊予守が、先達してご案内つかまつります」
しかし、またしても淳義王は首を横に振る。
「京の都より賀名生がよい。京の都に庄助は居ないのであろう」
庄助とは、淳義王の遊び相手で、賀名生の庄屋の子であった。
正顕と淳義王の言葉に、式子も照子も、もうすぐ、賀名生を離れるということを、今更ながらに気づかされる。京に入ると、もう二度と目にすることはないかもしれない賀名生が、急に愛おしく思えた。
十月二十五日、帝(後亀山天皇)の命を受け、右大臣の吉田宗房と内大臣の阿野実為が、和睦の批准のために、京の嵯峨野にある大覚寺に入った。
大覚寺の正寝殿では、北朝の中納言である日野資教と神祇大副の吉田兼熙、それに幕府管領の細川頼元が待ち受けていた。
「これはこれは、吉田右大臣様、阿野内大臣様、よくお越しくださいました。ささ、どうぞこちらへ」
資教は自らの官位より高い南朝の公卿に気を使い、上座を勧めた。頼元の助言に従ったからであった。
しかし、南朝が右大臣と内大臣を送ったにもかかわらず、北朝は中納言の日野資教に交渉の任せたことは、南朝如き……という北朝公卿たちの矜恃である。
和睦の交渉は、両統の迭立や両統の領地など、あらかじめ伝えられていた内容について合意が成されていった。
「さて、神器であるが、これは御上(後亀山天皇)より北主(後小松天皇)に、譲国の儀をもってお渡し致そう」
実為の言葉に、資教の顔が引きつった。
譲国の儀とは、先代帝から次代帝への譲位の儀式であり、譲国の儀を行うということは、少なくともこれまでは、南朝の帝を正式な帝として認めることであった。
「内大臣様(実為)、それは……」
慌てて反論しようとする資教を、隣に座った頼元が束帯の裾を手で引いて留める。頼元が目配せすると、資教はしぶしぶ譲国の儀を認めた。事前に頼元より、幕府は決して北朝に悪いようにはしないから、何があっても和睦を優先するよう、と強く求められていたからである。
同意した約定を、宗房が読み上げる。
一つ、南朝帝から北朝帝へ、譲国の儀をもって神器を引渡す。
一つ、以後の皇位は両統迭立とする。
一つ、国衙領を大覚寺統(南朝)の領地とする。
一つ、長講堂領を持明院統(北朝)の領地とする。
四つの決め事が確認され、双方で誓紙を認めた。
宗房が約定を読み終えた時、実為は初めて安堵の表情を浮かべた。だが、その直後に頼元が冷や水を浴びせる。
「和睦が整ったからには、さっそく南の帝に都へ御還幸いただきたく存じます。幕府より一万騎のお迎えを送りますれば、早々に御出立いただけますよう、お願い申します」
「一万も……」
目を見開いて実為は、絶句した。
一万騎もの兵を送るのは、帝(後亀山天皇)と公卿らに対する威嚇と、南朝残党に帝奪還の隙を与えぬためであった。
京で和睦に批准した右大臣の吉田宗房と内大臣の阿野実為が、賀名生に戻った。そして、関白の二条冬実に連れられて、帝(後亀山天皇)への報告を終えた。
二人の報告に、帝はゆっくりと頷く。
「うむ、御苦労であった。我らがこれほどまでに凋落著しい中、約定を交わすことは並大抵のことではなかったであろう。礼を申すぞ」
「もったいなきお言葉にございます。我らが、もっと早くに御上を玉座にお付けすることができておれば、御苦労をおかけする事もなかったかと存じます」
申し訳なさそうに、実為は頭を下げた。
帝を含め一同は、これまでの長き道のりを思い出し、語り合った。思えば南北合一の機会は、これまでにもたびたびあった。その機会を活かすことができなかったのは、常に南朝の側であった。そこには、後醍醐天皇の遺勅が少なからず影響していた。
頃合いを見計らい、関白の冬実が奏上する。
「御上、和睦が相成ったからには、我ら三人は責任を取り、官職を辞して仏門に入ろうと存じます」
「なぜじゃ。此度の和睦はその方らの手柄ではないか」
驚く帝に対して、右大臣の宗房が、ゆっくりと首を横に振る。
「いえ、和睦が後醍醐の帝の遺勅に背くことであれば、誰かがその責任を取らねばなりませぬ。朝廷を預かる我ら三人が、おめおめと還幸の行列に加わることはできませぬ」
「左様にございます。それに、上皇様(長慶上皇)への意地もございます」
宗房と実為の言葉に、帝は目を閉じた。
「朕は忠臣を持ったものよ。さりながら、和睦が後醍醐の帝の遺命に背くことであれば、真に責任をとるのは朕である」
「そ、そのようなことは……」
慌てる冬実に、帝は首をゆっくり横に振りながら、言葉を続ける。
「されど、朕は還幸を前に辞するわけにもいかぬ。そなたたち三人が居らぬでは、誰が朕を支えるというのか。還幸に関白左大臣や右大臣、内大臣の何れもおらぬでは、北主(後小松天皇)への面子も立たぬ」
朝廷を支える三人が一度に辞任することに、帝は心細さを訴えた。冬実が帝の胸懐を察する。
「では、内府殿(内大臣/実為)は御還幸にお供し、その後、頃合いをみて出家されるということでいかがかと存じます」
実為は、我が子ほどの歳の冬実の言葉に驚く。
「関白様、誰かが残るとしても麿というわけには参りませぬ。後醍醐の帝の遺勅に背き、率先して和睦を進めてきたのは麿でございます。暫しとはいえ、残るのであれば、若い関白様が最も相応しいと存じます」
そう言って実為は頭を下げるが、冬実はゆっくりと首を横に振る。
「いや、還幸は阿野卿にお任せしたい。内府殿(内大臣)は御上の大叔父じゃ。それに、橘相(正儀)の意思を酌んでやれるのは内府殿しかおらぬではないか。麿の代わりは大納言近衛卿でよろしかろう。近衛卿は先の関白、近衛経家卿の御嫡子。関白として申し分はございませぬ」
どちらかといえば、正儀に厳しい目を向けていた冬実であったが、最後は正儀の労をねぎらった。
冬実の提案に、帝が頷く。
「うむ、内府、そうせよ」
もはや実為に断る謂れはなかった。帝に向けて神妙な面持ちで頭を下げる。
「不肖この実為、橘相殿のためにも、最後の御勤めとして、しかとその役目を務めまする」
畏まって、実為はこれを承諾した。
十月二十八日、帝(後亀山天皇)の一行が賀名生を出立した。
幕府から遣わされた播磨守護、赤松義則の六千が先導し、紀伊と和泉の守護、大内義弘の七千が後詰めとなった。
幕府の盛大な出迎えに比べ、南朝の行列自体は凋落をあらわす寂しいものであった。
帝に従う皇族は、弟宮の惟成親王や懐成親王らである。もちろん、中宮(皇后)や楠木式子ら宮妃たち、伊予局こと楠木照子らの女房衆も従う。皇家の人々は皆、用意された御輿に乗っていた。だが、そこに長慶上皇の姿はなかった。
供奉する公家は皆、馬に乗り皇族の後に続く。立烏帽子に直衣姿の近衛関白と大鎧姿の阿野前内大臣(実為)を始め、土御門前大納言、土御門権大納言、三条権大納言、六条中納言(時熙)、押小路中納言、中院中納言、堀川参議、高倉左兵衛督、烏丸頭中将、八条中将、六条中将ら十七名であった。
馬に乗って随行する武家はわずか三十人ばかり。楠木党は正儀の弟である楠木正顕が率い、その子の楠木正通・正房兄弟が続く。楠木正勝の嫡男である金剛丸は、この還幸に合わせて元服し、楠木正盛として従う。さらに、京から戻った楠木正秀と、楠木正近の嫡男である楠木正建、和田正武の孫である和田正平、そして、最後に津田正信が付き従った。
南朝は、たったそれだけの人たちである。御輿を担ぐ力者にも事欠くありさまで、この還幸において御輿を担いでいたおよそ五十人は、大内義弘より遣わされた者であった。
それでも行列は、威風堂々と、その日の宿である大和国の興福寺に入った。
京の室町第、花の御所では、征夷大将軍の足利義満が、近習で政所執事の伊勢貞行を呼び寄せていた。
「南主(後亀山天皇)はどうじゃ」
「無事、賀名生を出立し、興福寺に入られたようにございます」
「そうか、初代(足利尊氏)・先代(足利義詮)の申し送りであった南北合一。やっとじゃ。やっとこの時を迎えることができる」
義満は顔を上げ、万感胸に迫る思いを吐露した。
「常久殿(細川頼之)にも南北合一、見せてやりとうございましたな」
そう言って、貞行は目を閉じた。しかし、義満は首を横に振る。
「それは無理じゃ。常久の死と引き換えの合一なのじゃ」
「そ、それは……どういうことでございますか」
訝しがって首をひねる貞行に、義満が深く息を吐く。
「常久が讃岐から余の元に戻り、南方(南朝)に強硬な斯波(義将)を管領の座から退かせた。その後、常久が静かに亡くなったことで、全ての合一の条件が整ったのじゃ」
「では、もし、常久殿が生きておればどうなったと」
義満は、貞行の顔から庭の木々へと視線を移す。すでに緑は、黄色や紅色の色葉にとって変わられていた。
「常久が生きておれば、何としても千早城攻めを思い留まらせ、楠木正勝を生かしたであろう。楠木の力を温存させたままの合一などありえん」
「では常久殿は、幕府に戻り、自らの役割を務められた後、都合よく亡くなったと……そうであれば、まったく御所様の天運は開かれておりまするな」
感心する貞行に、義満は冷たい視線を送る。
「十郎(貞行)よ、天運は待っておっても開かれぬ。天運は作るものぞ」
冷たい視線を受け、貞行は背中を凍らせた。
顔を強張らせる貞行を尻目に、義満が話を続ける。
「年が明け、しばらくすれば、南北合一も一段落しよう。さすれば、管領も交代じゃ」
「何と……なぜにございますか」
「合一が成れば、常久の居らん細川家を管領に据える謂れはない。常久と異なり頼元は、短慮蒙昧で管領の器にあらず。真面目なだけが取り柄の男じゃ」
平然と答える義満に、貞行は返す言葉を持ち合わせていなかった。
閏十月二日、帝(後亀山天皇)の一行は、ついに京の都に入った。
大宮通りは、南朝の行列を見ようと、朝から大勢の公家や武士、町人たちで賑わった。
「この三つ巴の旗印は赤松殿(義則)じゃ」
「お出迎えの軍勢であろう」
「では、南の帝(後亀山天皇)はこの次か」
京の町人たちは息を飲んで待った。
先導の赤松の大軍勢が通り過ぎた後、楠木正顕を先頭に南朝の行列が現れた。先頭の正顕は、元弘の御代、後醍醐天皇の還幸の先頭を楠木正成が努めたことに倣ったものである。正儀が生きていれば、務めたであろう役目であった。
「えっ……」
南朝の行列を見た人々は言葉を失う。
「これだけか……」
行列は総勢でも百余名であった。
「あの御輿が南の帝(後亀山天皇)であろうか」
「何と塗のない白木の御輿じゃぞ……」
「公卿たちも、どことのうくたびれた立烏帽子を被っておるのう」
「あの直衣姿は関白か……色が褪せておるな」
きらびやかな行列を想像していた京の人々はざわついた。
「きっと御苦労をされてきたのであろう」
「御労しや」
南朝の凋落に同情して涙する者もいた。
京の人々の声は馬上の楠木四郎正顕の耳にも届いていた。驚く声や哀れむ声は、その顔を曇らせた。
『四郎、顔を上げよ』
その声に、正顕は思わずあたりを見回す。
「兄者……」
正顕は息を呑んだ。いつの間にか隣には、馬に乗った正儀が、轡を並べて歩んでいる。その姿に、自然と目が潤んだ。
『泣くな。今日は帝(後亀山天皇)のめでたい御還幸の日ぞ』
「すまぬ……兄者は帝を守るため、楠木の力の温存を描いておったのであろう。それが、小太郎(楠木正勝)も小次郎(楠木正元)も失い、このようなありさまで都に戻ることになってしもうた」
そう言って、後から従うわずかな一族に目をやった。
『四郎。我らは負けて京に戻るのではない。民の平和、世の混乱を収めるために戻るのじゃ。堂々と胸を張って進めばよいのじゃ』
「兄者……」
『四郎よ。そなたはわしの名代なのじゃぞ。立派に務めを果すのじゃ』
正顕は頷き、後ろに続く一族に振り返る。
「皆、顔を上げよ。我らが楠木党じゃというところを、堂々と都人に見せてやろうぞ」
一族に声をかけた正顕が、もう一度、兄に向き直す。だが、もうそこには正儀の姿はなかった。正顕は兄の思いを胸に、堂々と顔を上げた。
群衆の中に、その楠木正顕に視線を送る僧がいた。新葉和歌集の編纂を行った花山院長親である。歌詠みにも通じる正顕は、その編纂で宗良親王と長親を援助した。
長親は賀名生を出奔して、方々を流浪した後、京に入って出家していた。庵を結んで耕雲と号し、この後、足利義満の歌道師範を務めることにもなる。
楠木九郎正秀は、一人険しい顔で行列に従っていた。義兄、楠木正元の刑死を見届けた後、賀名生に入り、楠木正顕に末期の言葉を伝えた。その正顕の説得で還幸に加わったものの、正直、気が重かった。
そんな正秀が、群衆の中から向けられる見守るような視線に気づく。馬上から視線の主を探すと、そこには見知った顔があった。叔父、池田十郎教正である。教正は安芸の南朝勢力を制圧し、南北合一に先立って、摂津国の池田城に戻っていた。
だが、教正と目があった正秀は顔を曇らせる。教正に見せたかった還幸とは、ほど遠かったからである。
伏し目がちに教正の顔を窺った正秀は、その口元が動いていることに気づく。
(されど、お前たちはよくやった。乱世を終わらせたのじゃ)
そう聞こえたような気がした。
「叔父上……」
教正に勇気づけられた正秀は、顔を上げて前を向いた。
正儀の猶子である津田六郎正信が、馬上で胸を張る。
「父上(正儀)、京に戻って参りましたぞ」
そして、懐から正儀の位牌を取り出す。還幸には、正儀の子、楠木正信として供奉していた。
「叔父上(正顕)も、九郎(正秀)も、金剛丸(楠木正盛)と照子も、そして式子も一緒でございますよ。そちらは、太郎兄者(橋本正督/楠木正綱)も、二郎兄者(篠崎正久)も、小太郎兄者(楠木正勝)も、小次郎(楠木正元)も、みんな一緒でございますか」
目を閉じた正信には、兄弟たちの微笑む顔が見えていた。
楠木式子は懐成親王の室として御輿に担がれていた。胸に母、徳子(伊賀局)の位牌を抱いている。
「父上(正儀)、母上(徳子)、京に入りました……」
そう言って、御輿の御簾を少し上げる。
「……お二人にお見せしとうございました……いえ、きっと、この行列と一緒に来られておられますよね」
式子が隣の輿に目をやる。
すると、その御輿の御簾が上がり、中から徳子が笑顔を見せた。その隣には父、正儀が馬に乗り、徳子に目を落して微笑んでいた。
楠木照子は、宮中に仕える局として、式子の御輿の後を歩く。一方、弟の楠木正盛は十三歳で元服し、武者姿で馬に跨がっていた。
その正盛が、馬を照子に近づける。
「姉上(照子)、足は大丈夫にございますか」
「ええ、大丈夫ですよ」
弟の気遣いに、照子は馬上に向けて微笑みを返した。
「姉上(照子)、それがしはどうしても父上が死んだとは思えぬのです。先ほど京の人々の中に、父上を見たような気がしたのですが……」
不思議がる正盛に、思わず照子もあたりを見回した。自身も父、楠木正勝の視線を感じていたからである。
「きっと、御父上は、御母上と一緒に、天から我らのことを見ておるのでしょう。さ、大叔父上様(正顕)の元へ戻りなさい。いつまでも女房の横に馬を付けていては変ですよ」
「承知」
姉に諭されて、正盛は馬を進ませた。
群衆に身を隠すようにして、ただ、還幸の行列が目の前を通り過ぎるのをじっと見ている者がいた。観世座の藤若大夫である。
父の観阿弥が亡くなってからは、二世観阿弥と名乗って舞台に立っていた。父と同様に楠木との縁を封印し、芸の更なる高見を目指す。それでも、自らの身体に流れる楠木の血に、引き寄せられるように、今日ここに居た。そして、幼い日に見た正儀の顔を思い出しながら行列を見送った。
この二世観阿弥が、義満に世阿弥の名を賜るのは、さらに後年のことである。
この日、南朝の帝(後亀山天皇)は嵯峨野の大覚寺に帰還した。後醍醐天皇が京を出奔してから、実に五十六年の歳月が経っていた。
南帝(後亀山天皇)の還幸は、摂津国正覚寺村で暮らしていた正儀の妾腹、交野小三郎正長の元にも伝わっていた。この時、正長は二十一歳。幕府側に残った正長は、京の朝廷より従六位下、右京少進の官位官職を賜っていた。
神妙な顔をして、正長が母、達の前に座る。
「母上、南の帝(後亀山天皇)が、京へ御還幸あそばされました。お寂しい行列であったとのことでございます。ですが、楠木の御一門は、最後まで帝を御護りし、堂々と京へ入られました。楠木正儀の子であるそれがしが、その行列に加われなかったことは、何とも口惜しい限りにございます」
気持ちは痛いほど達に伝わった。しかし、達はあえて厳しい現実を正長に説く。
「お前の口惜しさはよくわかります。されど、御還幸に従った楠木の御一門は、御父上(正儀)をはじめ多くの親族を失い、きっと、我らが想像だにできぬ御苦労をされたことでしょう。そんな御一門に混じって御還幸に加わる資格は我らにはありませぬ」
「わかっております。されど、南北合一が相成った限りは、それがしも、御一門の末席に加わりとうございます」
正長の言葉に達は首を横に振る。
「南北合一が成ったからといっても、楠木の御一門は大手を振って歩けるわけではありませぬ。きっと、幕府の中には楠木をよく思わぬ者が多いでしょう。お前が御一門となれば、しなくともよい苦労をせねばなりますまい」
「いえ、苦労は厭いませぬ。それがしは楠木正儀の子です。楠木を名乗り、父上(正儀)と……いえ、楠木の方々と繋がっておりたいのです。我がままをお許しくだされ」
決意に満ちた正長の表情に、達は溜息をつき、暫し沈黙する。ついにこの時がやってきたかという思いであった。
「わかりました。お前がそうしたければ好きになされませ。すでに御爺様はこの世に居りませぬ。反対する者はいないのです」
達の父、交野秀則は数年前に病で亡くなっていた。
母、達の返事に、正長は安堵の表情を浮かべる。
「母上、申し訳ございませぬ。それがしは真に楠木の者となれるよう、年が明ければ、楠木の方々が学問を学んだという観心寺で修行を行い、御一門の方々を訪ねてみようと存じます」
「わかりました。母はここでお前の願いが成就するよう、阿弥陀様にお祈り致しましょう」
息子の決意に、達は一人になる寂しさを圧し殺し、我が子の旅立ちを、笑顔で見送ろうと心を決める。
閏十月五日、大覚寺に腰を据えた南帝(後亀山天皇)の元に、北朝の中納言、日野資教が数人の公家を伴って参殿した。随行する公家は、十六、七かと見受けられる若者から初老の男まで、さまざまである。
寺の正寝殿に鎮座した南帝の前には御簾が垂らされていた。内大臣の阿野実為と中納言の六条時熙が、その前に座って資教の一行を迎えた。
日野資教が神妙な顔で、御簾に向かって畏まる。
「南の君(後亀山天皇)におかれては、此度のご聖断、ただただ頭が下がる思いでございまする。京に入り、日が浅い中ではございますが、天下安寧のため、早々に譲国の儀を執り行いたく存じます」
畏まった資教の奏上に、実為は怪訝な顔を向ける。
「日野殿、譲国の儀の前に、北の君(後小松天皇)とお会いすることが肝要と存じますが」
「いや……無論にございますが、譲国の儀となりますれば、何かと支度も必要にて、前もってこれに取り掛かる必要がございます。まずは今日、神器のみ、お運びして祭殿に供えたく存じます」
慌てて資教が弁明した。その様子に実為は時熙と顔を見合わせて不審がった。
「御簾を上げよ」
資教の奏上を聞いた南帝が、彼らに顔を晒した。
「日野中納言(資教)と申されたな。貴卿のことは内府(内大臣/阿野実為)より聞いておる。此度の合一、いろいろと骨を折ってくれたそうじゃな。朕からも礼を申そう。神器については本日、祭殿に移されるがよい。この期におよんで駆け引きなどしては、天下万民の笑いものになろう」
「はっ、はは」
南帝の言葉に、資教は真っ赤な顔をして平伏した。
六条時熙が南帝の意を汲んで、いったん奥に下がった。そして、三人の官女を連れ立って現れる。その一人は伊予局こと楠木照子である。官女たちは、おのおのに神器の箱を抱いていた。
照子らは資教らの前に座った。すると、時熙が、その傍らに座り、資教に顔を向ける。
「これらが神器でございます。どうか、ご確認を」
「恐れ多いことにございますが、これも努め。拝見つかまつります」
照子が神器の一つ、八咫鏡の箱を差し出した。すると、資教が恐る恐る蓋を開いて中の鏡を確認する。そして、残る二つ、草薙剣と八尺瓊勾玉にも目を通した。
「私如きが神器を知る由はございませぬが、この厳かな風体からして、間違いなく神器かと存じます」
資教は、八尺瓊勾玉の箱を両手でかざし、恭しく頭を下げた。
「伊予局殿(照子)、さ、神器をそちらの方へ」
実為の目配せを受け、照子は八咫鏡が入った箱を持って立ち上がった。そして、資教の後ろに控える若い公家の前に座る。ちょうど同じくらいの歳である。
伊予局は少し微笑みを浮かべて神器を差し出す。
「どうぞ、御納めください」
「……」
伊予局の透き通るような瞳に、若い公家は思わず見入った。神器を差し出す伊予局の手が公家の手に触れる。
「これは、失礼を致しました」
「い、いや……」
若い公家は気を取り直して神器を受け取ると、伊予局から視線を外した。
神器の接収が終わると、資教は深々と南帝に頭を下げる。
「神器は確かに頂戴つかまつりました。では、我らはこれにて……」
そう言いかけたところで、先程の若い公家が口を開く。
「南の君におかれては、神器を手放される事、御心中を御察し致します」
資教は、若い公家が突然、声を発したことに慌てる。
「おか……い、いや……」
その若い公家は資教を無視して言葉を続ける。
「ゆえあって、名乗りを上げることはできませぬが、南の君にお会いできてよかった」
若い公家は堂々とした態度で、照子が手渡した神器を持って立ち上がった。
これに実為と時熙は、驚いて顔を見合わせる。南帝も一瞬驚いたものの、すぐに察して、若い公家に微笑みを返した。
その若い公家に釣られ、資教も慌てて立ち上がる。そして、随行の公家に他の神器を持たせ、若者の跡を追って正寝殿を後にした。
北朝の一行は、大覚寺の庭に待たせていた御輿の前まで歩いた。ここで、中納言の日野資教は、神器を持った若い公家にひざまづく。
「恐れ多くも御上に神器を運ばせるとは、面目次第もございませぬ」
「いや資教、これでよいのじゃ。朕が無理を申して付いて来たのじゃからな。さりながら、こうでもせねば、公卿どもがうるさくて、ここにくることはできなかった」
その若者は、北朝の帝(後小松天皇)であった。
北帝は、幼い頃に資教の邸で育った。わずか六歳で北朝の皇位についてからも、資教を育ての親として慕っていた。
若い北帝は堅苦しい内裏に辟易とし、時には、資教の従者を偽って内裏を抜け出した。好奇心が旺盛な北帝は、この日、京に還幸したという南帝(後亀山天皇)の顔を、どうしても拝みたくなった。そこで、内裏を抜け出して、資教に同行したのである。
「資教には無理をさせてしもうた。じゃが、お陰で南主の顔を拝めた。もう、二度と会うこともなかろうが……」
若い北帝にも、資教が神器を受け取りに来た理由はわかっていた。
北帝は御輿に乗り込もうとして、足を止める。
「あの女官、伊予局と申したか……」
「確かそのように……何かございましたか」
「いや……何でもない」
北帝は資教に手を振り、何事もなかったかのように御輿に乗った。
一方、大覚寺正寝殿に座る南帝(後亀山天皇)は、神器を送り出した後、内大臣の阿野実為、中納言の六条時熙と向き合った。
長い沈黙の後、南帝が口を開く。
「ついに……終わった……」
「御上、まだ譲国の儀が控えております」
そう、時熙が言うと、南帝が静かに首を横に振る。
「その方らもわかっておるのであろう。日野中納言(資教)の態度から、あの若い公家が北の帝(後小松天皇)であったのじゃ。あえてこの場に来たということは、持明院の公卿どもは譲国の儀を行うつもりはないのであろう。騙された振りをするのは辛いものじゃな。これが朕にとっての譲国の儀よ」
南帝の言葉に、実為と時熙はうつむき、目を潤ませた。
「橘相(正儀)よ、そちが描いた南北合一、君臣和睦とは、かなり違ったものになってしもうたな」
目を閉じて、南帝は正儀に語りかけた。
同日、三種の神器は京の土御門内裏に運ばれた。
北朝は、神器を慰めるために、神楽を奉納した。源平合戦で壇ノ浦に沈んだ神器が、内裏に戻ってきた時の先例に倣ったものである。後は三日に渡って酒宴を開き、名実ともに北帝(後小松天皇)の世になった事を祝った。
そして、南朝が使った元号、元中を廃し、北朝の明徳に統一した。南北合体、一天平安。ここに、五十六年もの、実に長きに渡る南北朝時代が終わった。
楠木正儀の生涯は、この南北朝の動乱とともにあった。父の楠木正成、兄の楠木正行の遺訓を胸に、君臣和睦、南北合一を頑なに唱えた。ただただ南北朝の動乱を終わらせる事だけに捧げた生涯である。
動乱の発端に、図らずも加担することになった父、正成の断腸の思い。それを自らの力で止められなかった兄、正行の無念の思い。二人の思いを背負わざるを得なかったのは、楠木を継いだ者の宿命であった。
思えば、鎌倉幕府を終らせるために天が遣わしたのが楠木正成なら、この南北朝の動乱を収めるために天が遣わしたのが、楠木正儀であったかもしれない。
 




