第45話 厳島詣
元中六年(一三八九年)正月、賀名生に薄っすらと雪が積もる。紅梅に覆われた賀名生も絶景だが、雪の花が咲いた賀名生も、趣では負けていなかった。
賀名生に正儀が住むようになって、すでに三年が経つ。この日は、垂纓冠に束帯姿で朝議に出ていた。廟堂で、公卿たちを前に、正儀が畏まる。
「足利義満が厳島詣に向かうという話がございます。幕府は大規模な船団の手配に取り掛かっております」
正儀は京に透っ波を放ち、絶えず幕府の動きを監視していた。
これに、公卿たちがどよめく。
「昨年、高野山詣をしたかと思えば、駿河にも渡り富士の山をも見物した。そして、今年は厳島。西国にも将軍の威光を示そうというのか」
内大臣の阿野実為は、将軍、足利義満の権勢の高まりを、ひしひしと感じていた。
「御意。高野山詣は南軍、高野山、そして山名の牽制が目的でした。続く富士詣の狙いは、男体城を落とし、関東支配を盤石とする鎌倉公方(足利氏満)を牽制するのが狙いでございましょう。わざわざ足助討伐を将軍下向に合わせて行ったのもそのためかと存じます」
正儀が口にした男体城とは、鎌倉公方の足利氏満に反逆した小田孝朝の一族が立て込もった城である。一年前の五月十八日に、氏満を補佐する関東管領の上杉憲方が陥落させていた。
独自に関東支配を進める従弟、氏満の動きを牽制するかのように動いたのが義満であった。昨年九月十六日には駿河に入り、守護の今川泰範の案内で富士を見物した。幕府はこれに合わせて、三河国の南朝方、足助氏の残党を討伐していた。
右大臣の吉田宗房が、正儀の言葉の真意を確かめる。
「橘相(正儀)は、此度の厳島詣にも、きっと理由があると言いたいのじゃな」
「御意。一つ目は、高野山詣で山名(氏清)を試したように、大内の忠節振りを試すことにございましょう」
大内義弘は、南朝と幕府の間を巧みに世渡りして周防国・長門国の守護職を手に入れた大内弘世の嫡男であった。つまり、大内は山名と同じく南軍として幕府に反旗を翻した過去があった。
「二つ目は、征西将軍宮様(良成親王)に対峙する九州の幕府勢を励ますこと。そして三つ目は……」
「橘相、まだあると申すか」
関白の二条冬実は、呆れ顔を向けた。
「はい。常久殿に会うためではないかと思われます」
正儀は、常久こと細川頼之の幕府管領への復職に期待を寄せていた。
しかし、実為は残念そうな表情を向ける。
「橘相殿が期待する気持ちはわからぬではないが、常久はすでに過去の男ではないのか。前に常久が上洛し、我らに管領復職を期待させてからすでに五年が経った。常久を管領に戻すのであれば、とっくに復職させているであろう」
「内大臣様(実為)の仰せはごもっともなれど、五年前とは確実に変わったことがございます」
上手に座る宗房が首を傾げる。
「それは何じゃ」
「それは、将軍(義満)自身が力を付けたことにございます。それがしが見るところ、足利義満は、尊氏の度量と直義の知謀を兼ね備えております」
幕府に見切りを付けた正儀が南朝に帰参したのは七年前。義満は二十五歳であった。すでに大物の片鱗を感じていたが、七年の歳月が、さらに義満を成長させたであろうことは、容易に想像できた。
「橘相は義満贔屓じゃな。そなたは此度の厳島詣で、義満が常久を赦免して、幕府管領に復職させるというのじゃな」
関白の冬実は、少し嫌味を入れながら正儀を問い質した。
「仰せの通りにございます。和睦は交渉すべき相手があってこそのこと。やっと、このときが参ったのでございます」
並々ならぬ期待を、正儀は寄せていた。すでに齢六十となっていた正儀にとって、最後の機会かもしれなかった。
二月、正儀は猶子の津田六郎正信を供に、密かに摂津国渡辺津の、渡辺左衛門尉択の元を訪ねた。
択は長い間、正儀の元で摂津住吉郡の守護代を務めた。だが、正儀が南朝に帰参した際、正儀の勧めもあって幕府側に残っていた。幕府の勢力下にある摂津国の中で、一人南朝に与することは不可能なためである。
しかし、択は、かつての名族、渡辺惣官家に何かと便宜を図った正儀に対し、恩義を感じていた。よって、袂を分かった後も、正儀の力になろうと苦心する。細川頼之の弟で、摂津守護に返り咲いた細川頼元も、そんな択の動きを黙認した。
その択も歳をとり、病に臥せる。すでに家督は嫡孫の左馬允、渡辺与が継いでいた。
渡辺の館に着いた正儀は、与によって、択の寝所に案内された。
「これは、楠木殿(正儀)、わざわざのお運び、かたじけない」
「あいや、そのまま。身体の加減はいかがか」
正儀は、起き上がる択に気を遣いつつ、正信とともに傍らに座った。
「歳をとりました。それがしはもう長くはありませぬ。されど、楠木殿に幕府に留まるようにと言われ、こうして家名を残し、生き永らえることができました。楠木殿のお陰です……」
択は与に支えられるようにして上体を起こし、一息付く。
「……楠木殿、今日、お呼び立てしたのは会ってもらいたい者がおるからです」
択は縁側に控える郎党に目配せして席を立たせた。
すぐに、その郎党が正儀たちの前に一人の男を連れてくる。
「叔父上、ご無沙汰をしております」
手をついて挨拶する男を見て、正儀は驚く。兄、楠木正行の次男にして、橋本正督の弟、池田十郎教正であった。
「そなたがなぜ、ここにおるのか」
「御所様(足利義満)の安芸下向に向けて、細川右京大夫様(頼元)に呼び戻されました」
池田党の拠点は摂津国池田荘である。だが、幕府の命で、安芸国の南軍討伐に加勢するため、安芸守護の小早川春平の元に遣わされていた。その教正もすでに四十二歳である。
渡辺惣領家を継いだ与が口を挟む。
「すでに御承知とは存じますが、御所様は厳島詣のために安芸国に下向されます。此度の西国下向は、百隻を超える大船団からなる大規模なもの。御所様は、その手配を摂津守護である細川右京大夫様(頼元)に命ぜられました。大夫様は、我ら渡辺党に船を集めるように仰せになられるとともに、安芸国をよく知る池田殿(教正)を案内役に呼び寄せたという次第です」
「なるほど、左様でござるか」
納得した正儀は、択に目をやり、軽く頷いてみせた。
「今日は西国下向に向けて池田殿(教正)がこちらに参られると聞き、祖父(択)が、楠木殿をこの館へお呼びせよと、それがしに命じた次第です」
与の説明に、正儀は納得する。
「これは、わざわざの御配慮、痛み入り申す」
改めて択と与に、正儀は丁寧に頭を下げた。そして、教正に向き直し、再び頭を下げる。
「すまぬ。そなたの兄(正督)を守ってやることができなかった」
「叔父上、単に叔父上が兄を見殺しにしたとは思うておりませぬ。それがしも歳をとりました。こうなったのも、双方に事情があってのことと察しております。ただその事情を知りたい。そして兄の最後は、どのようなものであったのか知りたいと思い、今日ここへ参りました」
実兄を思う教正に、正儀は沈痛な顔で頷いた。
これを見て、正信が代わりに口を開く。
「十郎殿(教正)。それがしは父、正儀の猶子、津田六郎正信と申します。そのことに関しては、それがしからお話しましょう」
正督が南朝に帰参した経緯と、雨山土丸城の攻防について、正信が語った。
すると、教正の瞳が潤む。
「叔父上、憎しみは憎しみを呼びます。楠木を七生滅賊の輪廻から、解き放たなければなりませぬ」
その変わりように正儀は、皆、それぞれが長い歳月を重ねていたことを了知する。
正儀が与に顔を戻す。
「百隻もの大船団、如何様に集められるのじゃ」
「さすがに渡辺党だけでは無理です。右京大夫様(細川頼元)は、四国の常久殿(細川頼之)や、周防介殿(大内義弘)にも命じて、百隻を集めたのです」
「それがしも、周防から大内殿の船に乗って十日前に兵庫津に入りました」
頷いて、教正も話を付け加えた。
細川頼之の名が出たことに、正儀は期待を膨らませる。
「常久殿が船を出したということは、やはり将軍は四国にも渡り、常久殿にも会われるのか」
「いかにもその通りにございます。右京大夫様(頼元)も西国下向に同行され、讃岐の兄、常久殿の元に立ち寄られます」
孫の与の話を受けて、病床の択が口を開く。
「楠木殿(正儀)をお呼びしたのはそのことなのじゃ。この機会に、楠木党から誰かを常久殿への密使として遣わしてはいかがか。南北合一を進めるには、御所様(義満)を動かさねばならん。そのためには、常久殿に管領職に復職いただき、御所様に南北合一を説いていただく必要がある。常久殿も、楠木殿との密約があれば、背後の憂いを気にせずに動きやすくなりましょう」
「渡辺殿(択)、かたじけない。それこそ我が意。こちらから、改めてお願いしたい」
敵方楠木への択の気配りに、正儀は心底、感謝した。
「密使は、それがしの供廻りとして加えましょう。もちろん右京大夫様(頼元)にもあらかじめ御承知おきいただくつもりじゃ。出航は三月六日。それまでに、誰か適当なる者を、それがしの元へ送ってくだされ」
段取りの良い教正に、正信が正儀に向かって改まる。
「常久殿との密約となれば、父上(正儀)に近い者が名代となったほうがよろしかろう。父上、それがしが密使となりましょう」
「いや、十郎殿(教正)の供廻りということであれば適任がおる。十郎殿、すまぬが土丸山の麓にある蓮華寺に忍んで出てこれぬか」
猶子の正信を制して、正儀は教正に提案した。
「土丸山にございますか……彼の地は山名陸奥守(氏清)が兵を置く処。それがしは構いませぬが、南方の叔父上にとっては物騒な所ではありませぬか」
なぜ危険を冒してまで土丸山で会おうとするのか、そんな表情で教正は首を傾げた。
「蓮華寺には、そなたの兄の墓がある。そこで、その者を引き合わせたいのじゃ。我らも見つからぬよう忍んで参ろう」
「兄上の……そうまでして、それがしを墓へ……」
一瞬、教正は声を詰まらせる。
「……承知しました。では明後日、伺いましょう」
「そうか、かたじけないのう」
その日、正儀は、教正に和らいだ表情を見せて別れる。肩から重荷をひとつ降ろした心地であった。
翌々日、一人早く土丸山の蓮華寺に着いた池田教正は、兄、橋本正督の墓に参る。
「兄上……」
近くにある雨山の館で、兄、正督に会ったのは、もう十年以上も昔のことである。教正は、その時の、思いつめた兄の表情を思い浮かべながら、無言で墓に手を合わせた。
しばらくして、正儀が津田正信と和田良宗を連れて現われる。
「先に来ておったのか。待たせてすまぬな。楠木の密使として十郎殿(教正)に託したかったのはこの者じゃ」
正信と良宗の後ろから進み出たのは、旅装束の楠木正秀である。
「それがし、楠木九郎正秀と申します。此度、正儀が名代としてお供つかまつることになりました。若輩の身なれど、よしなにお頼み申します」
「楠木……正秀……殿」
このとき、数えて十八歳。名代としては若過ぎる正秀に、教正は困惑の表情を浮かべた。
その疑問を正儀が振り払う。
「そなたの兄、太郎(正督)の忘れ形見じゃ。そなたの供廻りに加えるのなら適任じゃと思う。何と言うても叔父と甥なのじゃ」
改めて、教正は正秀の顔を見る。
「そうか、兄上の子か……それがしに、兄上の子を預けていただけるのか……叔父上(正儀)、御気遣い、痛み入ります」
「さすがに楠木正秀の名は使えぬが、甥ということで同行させればよいと思うてな」
「叔父上(正儀)、承知しました。道中は池田九郎教秀と名乗るがよかろう。それでよいか。九郎殿」
「承知しました。では、それがしは今より池田九郎教秀でございますな……叔父上」
少し照れ臭そうに、正秀は『叔父』という言葉を口にした。
「池田様、若を何卒、よしなにお願い申します」
傳役の良宗が深く頭を下げた。
そのまま正秀は、教正の供廻りとなって摂津に向かった。
三月六日、百艘からなる幕府の大船団が、兵庫津を出港する。
将軍、足利義満が乗る船には、摂津守護の細川頼元も乗船した。池田教正と楠木正秀は渡辺党の船団を指揮する渡辺与の船に乗った。
兵庫津を発って、まず向かったのは、細川頼之の拠点である四国である。その日のうちに、船団は讃岐国宇多津に入った。
頼元に先導されて下船した義満は、迎えに来てきた法衣姿の細川頼之を目に留める。そして、ゆっくりと歩み寄った。
「弥九郎(細川頼之)、久しいのう」
「御所様(義満)、お懐かしゅうございます。何と凛々《りり》しく、ご立派になられたことでございましょうや」
我が子とも思って育てた義満と再会した感激で、頼之は目を潤ませた。
別の船から遅れて下船した教正と正秀は、そんな二人を、少し離れて見ていた。
「あれが将軍か……」
思わず、正秀の口から声が漏れた。
「九郎(正秀)、少しの気の緩みが大事に繋がる。気を引き締めよ」
「はっ。申し訳ござらん」
叔父、教正に諭された正秀は、ばつの悪そうな顔で頷いた。
その夜、摂津守護の細川頼元が、池田教正と楠木正秀を、細川頼之の部屋に連れてくる。
「兄上(頼之)、こちらは池田兵庫助教正殿でございます。安芸に下向しておりましたが、厳島詣の案内役として、それがしが呼び寄せました」
「池田兵庫助にございます。御引き立てのほど、よしなにお願い致します」
教正は手を突いて御辞儀した。
「そうか……そなたが池田教正殿か。そなたのことはよく聞いておる。こうして会うことができてよかった」
先代の将軍、足利義詮から、頼之は教正の出生のことを聞いていた。
「そなたが楠木正行殿の子であることは、御所様も御存知のことじゃ。何も臆することはない。厳島の案内はよしなに頼むぞ」
「はっ。承知つかまつりました」
恐縮して教正が頭を下げた。
「して、その者は……」
その疑問に応えるべく、頼元が後ろで控える正秀を手で招く。
「この者は池田兵庫助の供廻りとして同行しておりますが、楠木正儀殿から託された密使です」
「何、正儀殿じゃと……」
驚く頼之の前に、正秀が進み出て、頭を低くする。
「それがしは、楠木宰相正儀が養子、楠木九郎正秀と申します。父(正儀)より、この書状を預かって参りました」
そう言って、正秀は懐の書状を頼之に差し出した。
「宰相……そうか、正儀殿は南方で参議に成られたのであったな」
「はっ。我が父は細川殿の管領復職を願い、参議の立場で、その後の南北合一に向けての約定をそれがしに託しました」
驚きつつも、頼之は書状に目を落とした。読み終えると、静かに書状を直して顔を上げる。
「正秀殿と申されたな。まだ若いのに大儀であった。養子とのことじゃが、正成公との血縁はあるのか」
頼之の問いに、正秀は教正の顔を窺った。そして、静かに頷く教正を見てから口を開く。
「いかにも。それがしは楠木太郎正綱こと橋本民部大輔正督の子です。正成からは曾孫となります」
「そうか、では正行殿の孫……ということは池田殿の甥ということか。それで合点がいった。南北合一はわしも望むべきこと。正儀殿が、いまだその思い強く、それがしに期待する気持ちはよく判った。正儀殿の思いに応えるためにも、何としても、幕政に復帰せねばならんな。されど……」
そう言って、頼之が腕を組む。
「……いまだ幕政は、南方の所領を侵食しようとする強硬派に押され、斯波義将が力を握っておる。御所様でさえ、これを覆すとなると勇気のいる事じゃ」
「では、どうなるのでございましょうや。それがし、手ぶらでは河内に戻れませぬ」
不安げな表情で、正秀は頼之の顔を窺った。
「あとは御所様のお気持ち一つ。九郎殿(正秀)、このまま同行して、その結果を見定め、正儀殿の元に帰るがよい」
「このまま同行……はっ、はい。承知しました。御配慮、ありがとうございます」
「ただし、御所様はいうにおよばず、我ら以外、そなたの素性が悟られないよう、くれぐれも御注意なされよ」
「はっ」
正秀は教正とともに、頼之に向けて、深々と頭を下げた。
翌日、細川頼之は自身の館で、将軍、足利義満のために、盛大に宴を開いた。
その席で、細川頼元が池田教正を義満の前に連れていく。
「御所様、紹介したい者がおります」
そう言って、頼元は傍らに従った教正に目で促した。
「御所様、お初にお目にかかります。安芸国に遣わされております摂津池田の地頭、池田兵庫助教正と申します。此度、厳島詣の案内役を右京大夫様(頼元)より命ぜられております」
「そうか……その方が池田兵庫助か。右京大夫(頼元)から聞いておった。安芸から兵庫津まで、わざわざ大内の船で上ったそうじゃな。ご苦労であった。よしなに頼むぞ」
将軍、義満は、拍子抜けするほど教正との対面を喜んだ。義満は、楠木正行の次男が池田の姓を名乗っている経緯を詳しく知っていた。足利尊氏が、北朝側に楠木正成の血脈を残そうと、池田教依に命じて養子とさせた顛末についてである。
名を隠し、池田教秀に身を変えた楠木正秀は、教正の供回りとして、その傍らに座して、頭を低くしていた。そして、時折、ちら、ちらっと義満の顔を窺う。
(これが足利義満か……)
父、橋本正督をはじめ、楠木一族の仇の顔を、しっかりと目に焼き付けた。
三月八日、厳島詣の一行は、讃岐国の宇多津を出て、翌々日には周防国の湊に入る。一行には細川頼之も加わっていた。ここで将軍、足利義満は、周防介、大内義弘に迎えられる。
義満は、沖合いに停泊した船から小舟に乗り換えて上陸した。すると、桟橋まで迎えに来ていた義弘が、義満に深々と頭を下げる。
「これは、御所様(義満)。遠路遥々、足をお運びいただき、まことにありがとうございます」
「周防介(義弘)、出迎えご苦労であった。この地はそちが頼りじゃ。よしなに頼むぞ」
「はっ。それがしのできる事は何なりとお命じくだされ」
慣れぬ笑顔で、義弘は平身低頭に接する。過去、南朝に与した大内一族が、義満から警戒されていることはよくわかっていた。厳島詣と言いながら、安芸国の港に入らずに周防国に入ったことがそれを示している。義弘は、厳島詣の間、義満に少しでもよい印象を持ってもらうことだけを考えていた。
「大内殿、我らも同行させていただく。よしなに頼み申す」
摂津守護の細川頼元が声をかけた。
「これは細川大夫殿(頼元)、それに常久殿(細川頼之)までも。それがしは田舎者ゆえ至らぬことが多いと存じますが、何卒、ご容赦のほどお願いします」
頼之らにも、終始、低姿勢で接した。
その夜、大内義弘は、将軍、足利義満一行を、周防国の国府にある守護所に招いて歓待した。宴席には頼之・頼元の細川兄弟の他、安芸国の案内役である池田教正も同席する。
一方、池田教秀と偽って教正に従っていた楠木正秀は、館の外で宴が終わるのを待っていた。
「その方、池田殿(教正)の御供の者であったかのう」
正秀の背後から声をかけたのは、厠で座を外した義弘であった。
「はっ、池田九郎と申します」
「池田といえば摂津。されど、先般から聞いておれば、その方は、紀伊や河内あたりの訛りがあるのう」
不意に義弘から指摘された正秀は、顔を強張らせた。その様子を見て、義弘がにやりと微笑む。
「近頃は、南方から幕府に寝返る者も多いと聞く」
「あ、いえ……寝返るなど、そのような……」
「なあに、咎めておるのではない。今や南の朝廷は無いに等しい。生きるためには仕方のない事じゃ。我が大内も南方から幕府に帰参した」
正秀は驚きの表情を浮かべる。
「大内様も……」
「そうじゃ。よって、こうして今も頭を低くしておらねばならぬ」
「そうでありましたか……」
「それでも家名を残すためには仕方がない。頭を床に擦り付けてでも、我慢が必要じゃ。斯様な中、今更、幕府に反旗を翻し、南方に帰参する風変わりな大名もおるがのう」
その言葉は、明らかに正儀を指していた。
「そ、それは……」
正儀を愚弄されて憤る正秀であったが、義父の思いをここで打ち明けるわけにもいかない。薄く笑みを湛えた義弘は、口ごもる正秀の肩を軽く叩いて、厠に向かった。
将軍、足利義満が、周防国の守護館で歓待を受けた翌日のことである。義満は、大内義弘も従えて安芸国に入り、厳島の対岸に到着する。厳島へは対岸から小舟を使う必要がある。将軍の乗る渡し舟は、池田教正が手配をしていた。
「御所様(義満)、これより厳島へは、この兵庫助(教正)がご案内つかまつります」
教正は、池田教秀こと楠木正秀を従えて、義満の渡し舟に乗る。
正秀は終始、顔を伏せていた。務めて冷静を保とうとしていたが、仇を目の前にして、動揺を隠すことができなかったからである。
「その方は舟が苦手か」
「……御意」
義満に声をかけられた正秀は、一言返すのがやっとであった。
「ははは、そうか。その方、名は何という」
「い、池田九郎……教秀と申します」
ぎこちない甥の様子に、すかさず教正が言葉を足す。
「我が一族の者でございます。此度の西国下向で人手が必要かと思い、摂津より連れて参りました。若いうちに他国を見るのもよい経験かと思いまして」
「そうであるか。大儀じゃ」
特に気にする様子のない義満に、正秀は安堵の表情で頭を下げた。
そんな正秀らの目前に、海の上に建つ壮大な鳥居が迫る。厳島神社は、平家の氏神として、かつての太政大臣、平清盛の莫大な寄進によって社殿が建てられた。
舟の上から義満が、教正と正秀に語りかける。
「かの平相国(平清盛)は、ここ厳島で、沈む夕日を扇で仰ぎ、昇らせたという。余も平相国にあやかり、日天をも動かしてみたいものよ」
日天とは太陽のことである。他愛もない戯れ言だが、義満からは、単に空言とは思えない意気が放たれていた。
「御所様(義満)は源氏ではありませぬか。にもかかわらず頼朝公ではなく清盛公をあがめられますか」
思わず正秀がたずねると、義満がにやりと笑う。
「源氏将軍の余が、平相国を好きでは都合が悪いかのう。余は清盛公と頼朝公の、よいところも悪いところも知っておる。そのうえで、清盛公も頼朝公も成し得なかった事をやりたいものじゃ」
決意なのか妄言なのかわからぬ言葉に、正秀は戸惑った。
将軍、足利義満の厳島詣は無事に終わる。次に船団は九州へ向かうべく、安芸から出航しようとしていた。
桟橋で、池田教正は甥の正秀を呼び寄せる。
「わしの役目は終わった。ここに留まらねばならん。九郎(楠木正秀)と会えたことはこの上ない喜びであった。叔父上(正儀)に感謝せねばならんのう」
「それがしも叔父上(教正)に会えてよかった」
正秀は曇りのない瞳を向けた。それが、教正にはまぶしい。
「お前のことは渡辺殿(与)にお願いしてある。世の中を広く見聞して河内に戻るがよかろう」
「御配慮、痛み入ります」
頭を下げる正秀の肩に、教正が手を置く。
「次に会うときは南北合一の後じゃ。されど、南北合一が成らなければ、敵として相まみえる事となろう。必ずや、合一を成し遂げ、骨肉相食むことのないようにと、叔父上に伝えてくれ」
「承知つかまつりました」
そう言って正秀は、渡し舟に乗って、沖合の船へと向かった。
これから楠木一族に降りかかる苦難を見通すかのように、教正は険しい表情で見送った。
この後、足利義満を乗せた船団は、予定通り九州へ向かおうとした。だが、風雨が強く、海は時化ていた。
この状況に、九州への案内役として出向いていた九州探題、今川了俊(貞世)が、義満に九州下向の中止を進言する。その結果、船団は周防の大内義弘の館へ引き返した。
三月二十二日、将軍、足利義満を載せた船団は、周防国の湊を出航した。行く先は讃岐国。その日のうちに宇多津の湊に入り、義満一行は細川頼之の館に逗留する。楠木正秀も細川頼元に従った。
細川館の中に入る義満と頼之・頼元兄弟を、正秀は上がり框の手前の式台に片ひざ付いて見送った。
「その方、まだおったのか」
後ろから声をかけてきたのは、上洛のため、義満に随行した大内義弘であった。
「こ、これは周防介様(義弘)……」
「池田兵庫(教正)は安芸に残ったのであろう。なぜ、その方はここにおるのじゃ」
なかなかの観察眼の持ち主である義弘に声をかけられ、正秀は困惑する。
「そ、それがしは、摂津から手伝いとして随行しただけで……叔父(教正)が安芸に残っても、それがしは摂津に寄らなければ……いえ、戻らなければなりませぬ」
しどろもどろに正秀は答えた。
「何を緊張しておるのじゃ。まあ、よい。用が終わったので、摂津に戻るというのじゃな。では、河内にも戻るのか」
「か、河内でございますか」
正秀は急に顔が火照り、汗を吹いた。
「そうじゃ、そちは河内の出なのであろう。違ったか」
「あ、いえ……今は摂津に住んでおります」
「そうか。では兵庫津までは一緒じゃな。よしなに頼むぞ」
そう言って、義弘は館の中へと入っていった。正秀は、義弘を見送りながら、冷や汗を拭った。
翌日の夜のことである。足利義満は人払いをして細川頼之と対座する。
「常久(頼之)、今の幕府、そなたから見ていかがじゃ。忌憚のない意見を聞きたい」
「やはり、山名でございましょうな。あまりにも大きくなり過ぎました」
遠慮のない頼之の返答に、義満は口元を緩めた。
「余も同意じゃ。山名、土岐、赤松、京極と力を持った外様の大名が居る。これらの者が結託すれば、将軍の兵を上回るであろう。余はこれに対抗すべく、馬廻衆として将軍直轄の軍兵を整え、足利一門の斯波、畠山、今川、そして細川に力を付けさせた。問題はその先じゃ。そちならこの後、如何様にするか」
「やはり、それら大名の力を割くことかと存じます。ただ正面から討ってはこちらも痛手を被ります。まずは身内で争わせて力を割き、必要なら弱ったところを幕府が成敗すればよろしいかと存じます」
「やはり、常久(頼之)もそう考えるか」
しっかりと自らの答えを持ったうえで、頼之にたずねていた。
「御意。山名の惣領を継いだ時義が、病で幾ばくもないと聞きます。これを上手く利用することかと存じます」
「うむ。特に山名氏清は時義が惣領を継いだ事を恨んでおった。これは使えそうじゃ」
義満は、紀伊で酒を酌み交わしたときの氏清の顔を思い浮かべた。
「御所様(義満)、土岐もまた、しかりでございます。先般、亡くなった惣領、土岐頼康の後を甥の康行が継ぎました。その康行の舎弟、満貞は侍所の頭人。御所様の御近習でございましたな」
「何、満貞を利用しようというのか……」
満貞は義満のお気に入りである。
「……確かに、満貞は兄の康行や従弟の詮直とは反りが合わないようじゃ」
「御意。満貞に土岐の所領のうち、一国を割譲してやれば、これを喜んで受けるでしょう。さすれば、必ずや、一族の間でいさかいが起きると思われます」
「なるほど、それはよき案じゃ。さっそく理由を付けて満貞に、尾張でもくれてやるか」
頼之の進言に、義満が顔に喜色を浮かべる。
「やはり、常久には、余の側で支えてほしい。此度、わざわざ讃岐に寄ったのも、そなたを京へ連れ戻したいがためじゃ」
「もったいなき、お言葉。なれど、管領の斯波殿がお許しになりますまい」
頼之の返答に義満は、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「父とも慕った常久を京から追い出すことになったのは、余の不徳の致すところじゃ」
「いえ、滅相もございませぬ。そのようなことは……」
「いや、よいのじゃ。余に力がなかったのじゃ。斯波(義将)や諸将を押さえることができなかった。すまなんだ。じゃが、今なら常久を守ってやれる。いや、守らせてくれ」
義満は頼之の手をとり、切実に上洛を促した。
すると、頼之の瞳からは一筋の涙がつうぅと流れる。
「こうして御所様に請われる日が来ようとは……この上ない喜びでございます。それがしのような者でよければ、残り少なき人生を御所様に捧げたく存じます」
この日、頼之の京への復帰は既定路線となった。
翌日、楠木正秀は細川頼之に呼ばれた。正秀が頼之の前に座ると、書状を手渡される。
「これを、楠木正儀殿に渡してくだされ」
「これは」
書状を受け取りながら正秀は頼之にたずねた。
「御所様(足利義満)の思し召しで、幕政に携わることが決まった」
「そ、それはおめでとうございます。父(正儀)の願いがやっと叶うのでございますな」
頼之の幕政復帰を、正秀は素直に喜んだ。
「御所様は、わしを管領にと言われたが、そこはよく考えて御返事を申し上げるつもりじゃ」
なぜにと気色ばむ正秀を察して、頼之が話の先を続ける。
「御所様は、わしが思っていた以上に大きくなられた。幕府管領という立場は、時として御所様にとっては毒ともなろう。きっと正儀殿なら、そのように伝えればわかるはずじゃ」
「しょ、承知致しました。お言葉、合わせて伝えます」
正秀は頭を下げて広間を下がろうとした。
「いずれにしても、今の管領が居るうちは無理じゃ。一年……持ちこたえることができようか」
背中越しの問いかけに、正秀が振り返る。
「我らにその道しか残されておらぬのなら、必ずや父(正儀)は、持ちこたえて見せるでしょう」
「うむ。それと……いや……道中、気をつけてな」
「はっ、では御免」
広間を出ていく正秀を、頼之はなぜか憐れむような目で見送った。
三月二十六日、将軍、足利義満の船団は細川右京大夫頼元、大内周防介義弘を伴って、讃岐国多度津を出て摂津国兵庫津に向かう。義弘は義満に同行し、そのまま京に滞在するのが目的であった。
渡辺与の船に載った正秀は、船先で懐の書状に手をやりながら、頼之の言葉を思い出す。
「いったい何を言わんとしたのか……」
海風に吹かれながら、正秀は独り言を呟いた。
賀名生にある楠木屋敷を、讃岐から戻った楠木正秀が訪ねる。正儀の弟、楠木正顕も同行していた。
正秀は、細川頼之の書状を正儀に手渡し、幕政復帰には少し時間を要すと考えている事を伝えた。
書状に目を通した正儀は、傍らの舎弟、正顕に手渡してから、正秀に顔を向ける。
「ご苦労であった。そうか、常久殿(頼之)はそう申されたか」
「父上(正儀)、細川殿はなぜ幕政復帰を急ごうとはされないのでしょう。まして、管領就任も躊躇しておる御様子でした」
「将軍(足利義満)が自らの政を欲っしているのであろう。さすれば、管領はいずれ将軍から警戒されることになる。管領という立場より、将軍の側に居て、将軍の求めに応じて意見を申し上げる方が、遥かに自らの意見を通しやすいとも考えられる」
正儀の説明に正秀は、日天をも動かしてみたいと言った義満の言葉を思い出した。
書状に目を落としていた正顕が顔を上げる。
「幕政への復帰を急がないのは、今の管領である斯波義将が居るためでしょうな」
「うむ、今の義満には斯波を罷免することくらいできるであろう。じゃが、執事や管領の罷免は将軍にとっての鬼門じゃ。これまで、そうやって幕府自らが幾度も火種を撒き散らし、南軍はそこにつけ込んだ。此度は、斯波自らが身を引くように仕向けるつもりかも知れぬな」
「そういえば、細川殿はそのときがくるまで、賀名生は持ちこたえることができようか、と言われておりました……一年は、と」
別れ際の頼之の顔を思い出しながら、正秀は話した。
「そうか……一年か」
険しい正儀の表情に、正秀は、差し迫った南朝の状況を思い知るのであった。
一方、幕府の中では、西国下向の折の、将軍、足利義満と細川頼之の親密ぶりが、あちらこちらで話題に上っていた。中でも敏感に反応したのは、幕府管領の斯波義将と政所執事の伊勢照禅(貞継)であった。
五月、照禅は、花の御所に出仕していた義将を見つけ、人気のない部屋へ引き込んだ。二人は小声で話せるほどの間合いで向かい合わせに座る。
「管領殿、山名時義が亡くなりましたぞ。五月四日のことじゃ」
「そうか、予てから病に臥せていたからな。跡目は嫡男の時熙であろう」
あまり意に介す風もなく、義将は答えた。照禅はその答えに首を傾げる。
「はたしてそうであろうか。この頃の御所様(義満)を見ていると、そうともいえぬ。土岐の例もありますぞ」
土岐の例とは、義満が西国から京に戻った直後に、土岐一族に降りかかった一連の出来事である。
義満は、尾張国の守護を土岐の惣領、土岐康行から取り上げて、義満の近習から侍所頭人となっていた弟の土岐満貞に与えた。これに猛然と異を唱えたのが、土岐康行の従弟で、尾張守護代の土岐詮直であった。
新たな守護に任じられた土岐満貞は、義満に急かされるように任国の尾張に下向した。だが、黒田宿に入ったところで尾張守護代の詮直に襲われ、京へ逃げ帰る。すると、義満は激怒して詮直の討伐を決めた。
照禅は、釈然としない表情を義将に向ける。
「確か、詮直の討伐としては、叔父の土岐頼忠と頼益の父子を尾張に向かわせたのでしたな」
「うむ、御所様のたってのご希望であった。土岐一門の不祥事は一門に片を付けさせよとな」
義将の答えに、照禅は考え込む。
「御所様は土岐を潰そうとしているのではあるまいか。帰洛してから、あまりにも手際がよいように思う」
「やはり、讃岐で御所様は、常久(頼之)に入れ知恵をされたということか」
照禅の意見に、義将は苦々しい顔をして腕を組んだ。
「左様、御所様は常久を幕政に戻そうとしているということにございます。常久が幕政に戻れば、かつて四国へ追いやった我らを追い落とそうとするでありましょう。そうなる前に手を打たねば……」
何かを求めるように、照禅はじっと義将の目を見た。
「手を打つ……照禅殿は何を考えられておられるのじゃ」
「ここで、管領殿に大手柄を立てていただき、御所様でさえも、斯波様の管領職を罷免はできぬようにするのがよろしいかと存じます」
「照禅殿の言われる大手柄とは何じゃ」
怪訝な顔を義将は返した。
「三種の神器を取り戻されることです。先代(足利義詮)、先々代(足利尊氏)も成し得なかった事を斯波様が成されるのです」
「されど、御所様は、このところ南方への出兵には消極的じゃ。少なくとも、土岐の一件が片付くまではお許しは出ないであろう」
「御所様が消極的なのは、やはり南方、特に楠木正儀と繋がりがある常久に気を遣ってのことかと存じます。それだけに、今、逆に楠木を討伐しておくことが必要なのです」
「じゃが、御所様の勘気を被っては元も子もない」
近頃、めっきり威厳を備えた義満を、義将は警戒していた。
照禅が詰め寄る。
「三種の神器さえ取り戻されれば、御所様は何も言われますまい」
「ううむ……」
「南方も昔とは違います。伊勢の北畠(顕泰)は新たな南主(後亀山天皇)とは距離を置いております。今や、南主(後亀山天皇)を支えるのは、楠木だけと言っても過言ではありませぬ。その楠木も河内平尾、三ヶ谷、篠ヶ城と負け続け、今や大きく勢力を削がれております。三種の神器を取り戻すには、今を置いて他にありませぬ」
決断を促す照禅に、義将は自分だけが矢面に立たされるのではないかと躊躇する。
「照禅殿のお考えはよくわかりました。じゃが、今は土岐のこともあります。よく考えておきましょう」
無難な言葉を返して、義将は部屋を出て行った。
数日後のことである。めっきり、政に口を挟まなくなった大方禅尼(渋川幸子)だが、人に会わなくなったわけではない。今日は連歌、今日は猿楽と、日々、武家や公家たちと集い、忙しくしていた。
昨年の正月には、絶海中津を呼び寄せて、大乗経典の一つ、円覚経の講義を受けた。齢五十八になっても、何事にも好奇心旺盛な女性である。
経典を講じた中津は、かつて、足利義満が創建した鹿苑院の院主を任された高僧である。だが、義満の怒りを買い、暫く四国に逃れていた。しかし、許されて三年前には京に戻り、将軍家の菩提寺である等持寺の住持(住職)となっていた。
その等持寺に大方禅尼の姿がある。ちょうど、夫、足利義詮の供養塔に手を合わせ終えたところであった。
腰を上げた禅尼を、中津がゆっくりと本堂へ誘う。
「西国から御所様が戻られて、さぞ大方様も、ご安堵されたことでしょう」
「もう、二月です。早いものですね。されど、戻られて早々に、土岐征伐を始められたのは、流石に驚きました」
「西国で何かあった……ということでしょうか」
ざりざりと玉砂利を踏みながら、禅尼が口元を緩める。
「まあ、白々しいこと。厳島詣で、義満殿と常久殿(細川頼之)の間を取り持ったのは、きっと、和尚様でございましょう」
義満の怒りが解けるまで、中津は讃岐の頼之に匿われいた。仲を取り持つにはうってつけである。
「さて、どうでありましたかな」
そう言って、中津はとぼけて首を傾げる。
そんな中津を気にも留めず、大方禅尼が、ぽんと掌を合わせる。
「常久殿で思い出しました。先日、管領殿(斯波義将)がわらわを訪ねて参りましてのう。常久殿が復帰されるのではないかと心配され、如何にすればよいかとたずねるのです」
「それで、大方様は何とお答えに」
「成るようになると」
そう言って禅尼がつっと中津に目を配り、二人で大笑いする。
「大方様は、常久殿の復帰が嫌ではないのですか」
「ほほほ、いろいろありましたからなぁ。されど、斯波家の後、再び細川家が管領になるというのは悪くはないと思うております」
唖然として絶海中津が立ち止まる。
「ほう、それは何故に」
「義満殿の、いえ、足利のためです。管領の力が強くなり過ぎぬよう、潮時を見て代えるのが良いと思うております」
禅尼も立ち止まり、真顔で応じた。
「その為なら、いろいろあった常久殿とて、構わぬというのですか」
「ふふふ、いろいろありましたが、一本気なお方は嫌いではありませぬよ」
「ほう、初耳ですな」
驚く中津から視線を外し、禅尼が境内の松葉に目を移す。
「和尚様、わらわは時々思うのです。もし、先代様(足利義詮)に嫁がなければ、常久殿の妻になっておったのではと」
昔、頼之の父、細川頼春は元服前の頼之を伴って、渋川義季を訪ねたことがある。そこで、まだ幼子であった娘の渋川幸子を気に入り、目の前で義季に、ぜひ息子の嫁にとせがんだことがあった。
「大方様は今でも……」
「ふふ、きっと喧嘩ばかりの夫婦となったことでしょう」
幼き頃を懐かしむように、禅尼は顔を綻ばせた。
元中七年(一三九〇年)二月、政所執事の伊勢照禅(貞継)が、幕府管領の斯波義将に南朝討伐を進言してから、九か月が経った。
大方禅尼の後ろ盾も得られないと悟った義将は、腹を括り、楠木討伐のために、幕府方の河内守護、畠山基国、和泉守護の山名氏清に命じて大軍を集めさせた。
幕府の動きは服部十三成儀によって賀名生の正儀にも、もたらされた。正儀に帯動していた猶子の津田正信も同席し、成儀の話に耳を傾ける。
「畠山と山名は、赤坂城に軍を進めるものとみられます」
「小太郎(楠木正勝)はどうするつもりじゃ」
「右馬頭様(正勝)は、赤坂城の女こども《おんなこど》を千早城に避難させ、正通・正房御兄弟や和泉守殿(和田正頼)に出陣を命ぜられました。また、自らも赤坂城から兵を率い、若江城から南進する畠山を叩くために出陣されるとのことにございます」
思いがけない成儀の言葉に、正儀は目を丸くする。
「何、平地で畠山、山名を迎え撃とうというのか」
幕府軍は一万を超える数になろうと思われた。対する楠木軍は、多少は勢力を盛り返したとはいえ、野伏や農民などを加えても、せいぜい千余といったところ。圧倒的に不利である。
それに、楠木が得意とするのは、城に籠城して攻めくる敵を翻弄するところにある。もっとも、和田の騎馬兵は坂東武者にも勝るとも劣らぬ武勇を誇っていた。だが、これだけ兵力に差があれば、まともにぶつかる平地では、勝ち目があるとは思えなかった。
正儀は、八年前の河内平尾での大敗を思い起こす。
「小太郎は、いったい何を考えておるのか……」
父である正儀をしても、わからなかった。
「小太郎兄者のこと、きっと、策があるのでしょう」
正信の言う通り、正勝が無策で出陣しているとは正儀も思ってはいない。だが、危険な掛けに打って出ようとしていることは間違いないと思った。
その楠木正勝は、兵たちに激を飛ばし、全速で進軍して河内国落合に入る。落合とは石川が大和川に合流する地点の名前で、赤坂城と畠山基国の若江城との中間地点であった。
楠木軍は東に石川、北に大和川を配した地に布陣する。
「よし、我らがいち早く、大和川にたどり着いた。これで我らは勝てるぞ」
「うおお」
正勝が鼓舞すると、兵たちが気勢を上げた。
楠木正元が正秀を伴って、正勝の元に駆け寄る。
「兄者(正勝)、我らの支度も整った」
「よし、九郎(正秀)は、判官(和田良宗)とともに橋を落とし、渡し舟を全て燃やすのじゃ。小次郎(正元)は大和川の南岸に兵を配置せよ。寄せくる兵を討ち取るのじゃ」
「承知した」
正元と正秀は、兵を率いて大和川の南岸に向かった。
少し遅れて、大和川の北岸に、幕府方の河内守護、畠山基国が率いる五千騎が到着する。すでに対岸には、菊水と非理法権天の旗がたくさんなびいていた。
赤坂城か千早城に籠城するものと思い込んでいた基国は舌打ちする。
「ちっ、楠木はここまで討って出てきたのか」
畠山軍は、和泉から出撃する山名氏清の軍勢と歩調を合わせるべく、わざとゆっくり進軍していた。にもかかわらず、山名軍は基国の前に姿を見せていない。
それには理由があった。楠木の搦手軍が、和泉国から出陣する山名軍に対して、時間稼ぎの戦を仕掛け、進軍を遅らす手筈となっていたからである。その搦手軍は、楠木正顕の息子、正通・正房兄弟が、和田正頼・正平親子とともに、率いていた。
基国は痺れを切らせる。
「こしゃくな、平地で我らに勝てると思うたか。楠木はたかが千騎。浅瀬を探して騎馬を進ませ、一気に楠木軍を蹴散らすのじゃ」
騎馬隊に向けて、基国は激を飛ばした。
すると、騎馬兵が次々と、身を切るような冷たい水をものともせず、馬の胴まで水に浸かりながら浅瀬を渡る。その後に、歩兵たちも続々と浅瀬を進んだ。
大和川の南岸には、人の背丈ほどの枯色の葦が、うっそうと茂っていた。その葦が生える大和川の南岸まで、あと少しというところで、先駆けの馬がよろけ、騎馬武者を振り落とした。
これを見て、対岸の土手に潜んでいた楠木正元が立ち上がる。
「よおし、今じゃ、矢を射かけよ」
すると、楠木の兵二百余が、いっせいに土手の上に立ち上がり、騎馬兵に向けて矢を射かけた。
しかし、続く畠山の騎馬兵たちは、これにひるむことなく、大和川を渡り切ろうと馬を速める。だが、次々に騎馬は川中で足をすくわれ、落馬する兵が続出した。予てから、騎馬の進攻を封じ込めるために、楠木党は川底に幾重にも綱を張っていたからである。
落馬する騎馬武者たちに向けて、楠木軍は南岸から容赦なく矢を放ち、大和川を赤く染めた。
だが、騎馬には有効な川底の綱も、後に続く歩兵を止めることはできなかった。歩兵たちは足をすくわれてもよろけるだけで、綱を跨いで対岸目掛けて突き進んだ。
次々に川底の綱を乗り越える敵兵に、楠木正元は諦めて、兵たちに向けて片手を上げる。
「やめよ、やめよ」
楠木の兵たちの雨のような矢が収まると、畠山の歩兵たちは一気に対岸にたどり着く。そして、身の丈ほどもある葦の茂みを突き進み、土手の上の楠木軍に迫った。
しかし、突如として歩兵たちの足が止まる。葦の茂みの中には、逆茂木が累々と築かれていた。あらかじめ楠木軍は、野伏などを使って、大和川の綱とともに、葦の茂みの中に第二の防衛線を築いていた。
それでも、畠山の歩兵らは逆茂木を乗り越えようとよじ登る。
「十分に引き付けよ……まだじゃ、まだじゃ……よおし、今じゃ、矢を放て」
正元の号令で、逆茂木を乗り越える歩兵たちに、矢が放たれた。
あたり一面の葦原の中、逆茂木を乗り越えようとする畠山の歩兵は、地面から身体を出す土竜と同じであった。葦原から身体を現した歩兵は、楠木軍の格好の餌食となる。逆茂木を登った兵は、次々に楠木の矢に仕留められた。
それでも、数で勝る畠山軍は、続々と新手の兵を川中へと送り出した。これを見て正元は、残念そうな表情を浮かべる。
「惨いことはしたくはなかったが……もはや致し方ない。火を放て」
その下知で、葦原に火矢が放たれる。火は枯れ色の葦原に、あっという間に燃え広がった。その結果、たくさんの兵が炎に包まれる。
「うわああ、火じゃ」
「逃げろ、逃げろ」
しかし、葦原の中の歩兵たちは、累々と設けられた逆茂木に、進路も退路も塞がれていた。おまけに煙で視界を失い、迫りくる炎に成す術もない。そのうち、炎は兵たちの衣服にも燃え移り、奇声を上げて、のたうち回る。阿鼻叫喚の地獄絵図とはまさにこのことであった。
川中を、南岸目指して渡っていた畠山の兵たちは、目の前に広がる惨劇に、恐れを成して、大和川の北岸へと引き返していった。
後方の本陣では、楠木正勝が大和川に立ち上る煙を見ていた。
正元から遣わされた斥候が、正勝の前で片ひざを付く。
「殿(正勝)、敵の先陣は我が方が撃破。恐れをなして川向こうに引き返しました」
「よし、ひとまず上手くいった。これでしばらく、畠山は動けぬであろう」
正勝が一息つこうとしたその矢先である。山名氏清の動きを探るために、後方に配していた物見が駆け上がって来て、片ひざを付く。
「も、申し上げます」
その慌ただしい様子に、正勝は嫌な予感を覚える。
「いったい何じゃ」
「はっ。楠木正通殿や和田正頼殿が山名軍を引き付けておりましたが、囮と気づかれたようで、西から進軍して我らの背後に迫っております」
山名氏清が、こんなに早く迫ってくるとは予想外であった。山名軍の、折り紙付きの強さを承知していた正勝は、躊躇することなく決断する。
「全軍退却じゃ。全員に伝えよ。これより千早城に撤退する。急げ、急ぐのじゃ」
すぐさま、前線の正元・正秀にも伝令が送られた。
知らせを受けた二人は、ただちに兵を纏め、撤退をはじめた。しかし、あっという間に、山名軍五千騎に背後を取られる。
「石川を渡って東に進め」
正勝は兵たちに下知すると、楠木軍の東、南北に流れる石川の中へ、自ら先駆けて入った。これに正元や正秀も続き、最後に和田良宗が石川を渡り切る。しかし、対岸に上がった良宗が、手勢五十騎とともに馬を留める。いずれも橋本正督の元、郎党たちであった。
先に石川を渡っていた正秀が振り返る。
「判官、何をしておる。早う……」
「九郎様(正秀)、それがし、ここで敵を食い止めます。さ、兄上たちに従って早くお逃げくだされ」
良宗は、馬を止めた正秀に向かって大声を張った。
「いや、されど……」
躊躇する正秀に、正元が馬を引き返す。
「九郎(正秀)、何をしておる。判官の思いを無駄にするつもりか。早く来い。今は逃げおおすことだけを考えよ」
正元は怒鳴って、正秀を撤退させる。
そうしている間にも、山名の兵たちは我先にと石川を渡り、良宗の目前に迫った。
すると、良宗が馬を走らせて水際に立ち、川から上がって来ようとする敵兵に対して馬上で槍を構える。
「我こそは和田大夫判官良宗。恐れを知らぬ者はかかってくるがよい」
殿を買って出た良宗は、大声で名乗りを上げた。そして、騎馬兵を従えて、続々と石川を渡りきる山名の先駆けに切り込んだ。岸に上がる山名の兵を順番に倒す良宗らであったが、だんだんと増える敵兵に、いつの間にか取り囲まれる。
五十騎の騎馬武者は一人、また一人と討ち取られた。そして、足に刀傷を負って馬から落ちた良宗も、山名の兵に囲まれる。
「殿、それがしも、今、参りますぞ……」
亡くなった橋本正督に語りかけた良宗は、自らの刀を首に当て、思い切り引いた。
退却した楠木軍から歩兵たちが霧散する中、楠木の将たちは、石川河原の東から、一目散に南へと馬を駆った。そして、かろうじて千早城へと逃げ込んだ。
本丸に建つ館の前で正勝らを待ち受けていたのは、津田正信を連れ立った正儀である。
「小太郎(正勝)、よく無事で戻った」
「父上(正儀)ではありませぬか、来ておったのですか」
正勝は、正儀が取る物も取り敢えず、手勢を率いて駆け付けた事を咄嗟に理解した。だが、父を目の前にして項垂れる。
「このような仕儀と相成りました。面目次第もございませぬ」
「戦の次第は、斥候から聞いて知っておる。畠山を釘付けにしたのじゃ。上出来じゃ」
だが、正儀の慰労も、正勝には虚しく響いた。知略を駆使して、これ以上はない戦のはずである。それでも楠木軍は負けた。今の楠木には、力で圧倒する幕府軍を阻止する力がない事を、改めて思い知らされた戦であった。
一方、正秀は、落合に残した和田良宗のことが気掛かりで、正儀の話にもうわの空であった。良宗は傳役であるとともに、時として、橋本正督に代わって父でもあった。
しかし、正秀の微かな希望は、落合から戻った残兵の報告で打ち砕かれる。
「判官……」
正秀は、その場で両ひざから崩れ落ちた。
追撃する幕府方の和泉守護、山名氏清は、東条に入ると赤坂の地に雪崩れ込み、楠木館や楠木本城(上赤坂城)を焼打ちした、そして、正勝が逃げ込んだ千早城を包囲する。
「よいか、楠木を千早城に追い込んだのは我ら山名じゃ。畠山に手柄を横取りされぬよう、我らだけでしっかりと囲うのじゃ」
凄みを利かせて、氏清は重臣たちに命じた。そして、傲岸に笑う。
「はっはは、畠山の悔しがる顔が見ものよ」
幕府が任じた河内守護は畠山基国である。だが、氏清は予てから大国である河内国の守護職を狙っていた。自分が千早城を落とせば、楠木に翻弄された基国を差し置いて、河内の南半国くらいの守護には成れるのではないかと期待していた。
楠木軍を千早城に追い込んだ山名軍は、千早城を取り囲むとともに、佐備や赤坂、水分といった楠木ゆかりの地にも兵を送って駐留させる。そして、若江城にいったん引いた基国ともども、千早城へ攻め込む機会を窺った。
ただ、かつて鎌倉幕府の大軍にも耐えた千早城は、今でも伝説の要塞として恐れられていた。さすがの氏清も迂闊には動かなかった。
三月、正儀らが千早城に籠城して一月近く経った頃、城を取り囲む山名軍に動きが生じる。
千早城の館の広間に居た正儀や正勝らの元に、津田正信が駆け込んでくる。
「父上(正儀)、山名軍が兵を引き揚げております」
「何じゃと。いったい何があったのだ」
正儀よりも早く、正勝が声を上げた。
その日の夕刻には、服部成儀によって、千早城に新たな知らせが持ち込まれる。
「大殿(正儀)、山名軍は但馬に向かったようにございます。京に放った透っ波の知らせでは、将軍(足利義満)が直々に、山名氏清と甥の山名満幸に対し、山名惣領の時熙・氏之の兄弟を討つよう命じました」
山名惣領の地位は、前年、亡くなった山名時義の嫡男、山名時熙に引き継がれていた。しかし、これに強烈に異を唱えていたのが、山名満幸と、その後ろ盾となっていた山名氏清であった。
およそ二十年前、山名を有力大名に押し上げた山名時氏が亡くなると、惣領は、嫡男の師義に引き継がれた。その師義の息子が満幸である。師義が惣領になってわずか五年で亡くなると、惣領の地位は若い満幸ではなく、師義の同母弟、時義となった。この時から、すでに火種はくすぶっていた。この度、その時義が亡くなっても、嫡流を自認する満幸の元に惣領が戻って来ることはなかった。このことで、満幸の怒りが頂点に達した。
その満幸に氏清が加担するのは、氏清の娘が満幸に嫁いでいたためである。だが、それだけでもない。実力で所領を大きくした氏清は、正室の子というだけで山名の惣領を継いだ亡き時義に、悪感情を抱いていたからでもあった。
将軍、足利義満はこの好機を見逃さなかった。生前の山名時義に専横の振る舞いありと、跡を継いだ時熙・氏之の兄弟に難癖を付けた。そして、不満を抱く満幸と氏清に、兄弟の討伐を命じたのだ。結果、氏清は但馬の守護、山名時熙の討伐に、満幸は時熙の弟で伯耆守護の氏之の討伐に向かったという次第である。
窮地を脱した正儀は、一息付いて口元を緩める。
「なるほど、将軍が山名討伐に動いたということか」
安堵する正儀に、楠木正顕が首を傾げる。
「兄者、山名討伐と言うが、山名を山名に討たせれば、山名一族の領地は変わらんではないか。まして、山名の中で一番の実力者である氏清の力が増せば、それは将軍にとっても由々しき事」
「うむ、此度の戦は、双方を潰し合わせ、兵力を衰えさせるのが目的であろう。本当の山名潰しはその先じゃ」
正儀は冷静に見ていた。
ううむと正顕が唸り声を上げる。
「では、残った方に言い掛かりでも付け、討伐の兵を送るという算段か。幕府も手の込んだことをする」
「たぶん常久殿(細川頼之)が山名討伐や土岐討伐を、将軍に献策したのであろう。全ては厳島詣から帰って来てからのことじゃ」
その言葉に、正勝は肩の力を抜いて、大きく息を吐く。
「いずれにせよ、我らは救われたという事か」
その隣では、正秀が頼之の言葉を思い返していた。
『一年、持ちこたえることができようか』
ちょうどその一年が経った。そして、正秀が頼之に応じた通り、何とか楠木は持ち堪えることが出来た。
千早城の囲みを解いた山名氏清が、兵を率いて但馬に入った。そして、甥の山名時熙を但馬から追い払い、替わって但馬守護を将軍(足利義満)から拝命する。同様に、山名満幸は伯耆に入り、守護の山名氏之を追い払い、伯耆守護を手に入れた。
義満は、領国を追われて備後へ逃げ込んだ時熙・氏之兄弟への追討の手を緩めることはなかった。讃岐の細川頼之に兄弟の追討を命じた。
舎弟の細川頼有とともに、頼之は軍を率いて四国から備後に渡り、備後から備中に向けて時熙・氏之の兄弟を追討した。
しかし、これは義満が、頼之に備後・備中の守護を任じるための前振りである。隣国の伯耆・出雲に根を張る山名一族への対抗と、頼之の幕政復帰に向けて、力を蓄えさせることが目的であった。まさに頼之が予言したとおり、一年を経て、やっと頼之自身の状況が変わった。
さらに将軍、足利義満は、矢継ぎ早に、土岐一族にも追討の手を広げる。
閏三月二十日、土岐の惣領、土岐康行が、予てからの義満の挑発にたえ切れなくなった。結果、先に討伐を受けていた土岐詮直に呼応して、美濃国池田郡の小島城に挙兵する。しかし、五日後には幕府軍に小島城を落され、康行は伊勢へと追われた。
そして七月、嵩にかかる将軍、足利義満は、所領安堵を約束して南朝諸将に降伏を呼びかける。これに応じて南朝方の児島、桜山、今木、金持といった諸将が、幕府に帰参した。
義満は着実に将軍の威厳を高め、幕府を盤石なものとする。相対的に、南朝の没落は誰の目にも明らかであった。帝(後亀山天皇)を支える兵力は、もはや楠木・和田だけともいえた。




