第 3 話 千早城
元弘三年(一三三三年)一月二十二日、寒風吹きすさぶ中、宇都宮公綱が率いる紀清両党五百騎が、辻風を巻いて疾駆する。そして、摂津に入るとただちに橘紋の旗指物が棚引く四天王寺を取り囲んだ。
紀清両党とは益子貞正(本姓は紀氏)と芳賀高名(本姓は清原氏)を両翼とする、宇都宮家臣団の命を厭わない精鋭である。
「今日こそは、楠木正成が首をあげてくれよう。者共、周囲の家々に火を放て」
馬上から公綱が冷徹な軍命を轟かせた。楠木党が得意とする神出鬼没な戦を封じる策に出たのだ。
命を受けた宇都宮の兵たちは、躊躇なく家々に火を放つ。すると折からの風に煽られて、あっという間に燃え広がった。
烈火が去ると、焼け野原の中にぽつんと寺だけ残される。同時に、焼け出された人々は住む場所を失った。
だが、公綱にとっては些細なことである。
「者ども、寺を取り巻いて、矢を射かけよ」
例え、聖徳太子が建立した古刹であろうが容赦はない。命を受けた宇都宮の兵たちは塀の内側へ放り込むように矢を放った。
しかし、返し矢はない。公綱は訝しがって、物見を出した。
その物見は、すぐに戻って片ひざを付く。
「御館様、寺に楠木の者どもの姿は見えませぬ」
「なにっ」
楠木軍は旗指物だけを残し、すでに四天王寺の陣を引き払っていた。
拍子抜けした公綱が、憮然とした表情で四天王寺に足を踏み入れる。
「楠木め。矢を交えることもなく撤退していたとは。舐めた真似を」
寒々とした境内を見渡し、臍を噛んだ。
だが、隣の男は安堵の表情を浮かべている。六波羅探題から遣わされた目付役である。
「楠木は治部大輔殿(公綱)に恐れをなして逃げたようじゃ。最初から貴殿にお越しいただけばよかったのう」
「いや、これはおかしい。何かの罠かもしれん」
いぶかしがる公綱は、後ろに控える近臣を目で呼び寄せる。
「武装は解くな。敵襲に備えるのじゃ」
「承知っ」
ついと相づちを打った近臣は、六波羅の目付役にも一礼して、その場を下がった。
その日から、四天王寺を占領した公綱は、楠木党の奇襲を恐れて緊張の日々を送った。
幾日が経ち、宇都宮公綱の姿は京の六波羅にあった。
胴丸を身に纏ったまま、殿上に座る探題北方の北条仲時を前に、庭で片ひざを付いていた。
「治部大輔殿、ご苦労であった。見事、楠木を摂津から追い払ったようじゃな」
「探題殿、追い払ったのではござらん。敵は不利な戦を避けただけのこと。地の利あるところへ兵を引き、我らを誘い出そうとしたまで……」
敵が攻めて来ないと見極めた紀清両党は、楠木軍を追って討伐しようとした。しかし、公綱はこれを押し止め、京に戻ってきたところである。
「……このまま、我らが調子に乗って敵の城を攻めれば、きっと手痛いめに遭うたことでしょう」
「されど、結果として四天王寺から楠木はおらんようになった……」
「いえ、敵は四天王寺に拘っておらぬだけ。我らが攻めねば、また、別の場所で同様な動きをするだけでございましょう。その目的はおそらく幕府を翻弄することかと」
さすがに公綱は、楠木正成の戦略を理解していた。
「くっ、ではどうせよと申すのか」
達観したもの言いに、不機嫌そうに仲時が聞き返した。
「楠木は思うたより手強い。このまま楠木を放っておけば、幕府に大きな禍根を残すことになりましょう。倒すには大規模に奴らの拠点を攻めて、動きを止めることでござる」
「とすると南河内……赤坂城か」
公綱は静かに頷く。
「もはや六波羅の面子に拘っているときではございませぬ。急ぎ鎌倉に大軍を要請すべきと存じます」
「うぐぐ……」
深遠な意見に、仲時は顔を歪め、くぐもった声を漏らした。
進言は的確であった。しかし、赤坂城は囮で、その後ろに千早城が控えていることまでは、さすがの公綱を以ってしても、想像だにできていなかった。
その千早城に、山陰から戻って摂津の戦を見聞した服部元成が訪れていた。本丸(主郭)に造られた陣屋の広間。元成はこれまでの戦の成りゆきと京の世情を、久子ら女こどもの前で話して聞かせる。虎夜刃丸は、興味深く聞く兄たちの隣で、大人しくしていた。
「楠木軍が十倍の六波羅軍を破ったという話は、今や、京や摂津で知らぬ者はいないほどです」
「ほう、それほどまでに」
家宰(家老)の恩地左近満俊が、ほくほく顔で目を細めた。
「京の四条河原には、誰の仕業か、楠木の勝ち戦を詠んだ落書が掲げられました」
「落書……ですか。何とあったのですか」
倫子をひざに乗せたまま、良子が前のめりに腰を浮かせた。
『渡辺の水いかばかり早ければ 高橋落ちて隅田流るらん』
六波羅軍を率いて渡辺橋で敗れた軍奉行、高橋と隅田の両将をからかったものである。
「まあ、何と面白きかな」
良子は、澄子とともに笑い転げた。
「すごいのう、父上は。幕府を相手に、いっこうに引けをとらん」
「わしも戦場に早う出たいのう」
多聞丸と持王丸は父、正成の活躍に心を躍らせた。従兄弟の満仁王丸と明王丸も同じである。
しかし、一人、虎夜刃丸は嬉しがる風でもなく、母、久子に顔を向ける。
「もう戦は終わったの」
年が明け、虎夜刃丸は数えの四歳。しっかりと疑問も伝えられるようになっていた。
「終わってはおりませぬ。本当の戦はこれからです」
久子の言葉に虎夜刃丸は曖昧な表情で首を傾げる。勝ったというのに戦は終わっていない。さらに戦はこれからだと言う。幼子には理解できなかった。
だが、虎夜刃丸の疑問はこの戦の本質である。討幕を目指して挙兵した戦は、一度や二度の勝利で決着するものではない。幕府が滅びるか、自分たち討幕派が滅びるまで続く。投げられた賽が再び元に戻ることはない。いつ終わるともわからぬ戦が、この先も続くのである。
小さな腕を組んで首を傾げる虎夜刃丸の姿に、良子が思わず笑みをこぼす。そして、思い出したかのように元成に向き直す。
「治郎殿(元成)、晶子殿が御懐妊とか。おめでとうございます」
「それで、晶子殿はどちらでお生みになるのですか」
続けて、澄子が質問を重ねた。
「伊賀国のそれがしの実家に身を寄せています。このままそこで生むことになりましょう」
応じた元成に、久子は申し訳なさそうに顔を曇らす。
「本来ならば、水分の楠木館へ戻って生ませてあげたかったのですが、こちらはこんなありさまです。伊賀の母上様にも、申し訳のう思うております」
「義姉上、頭を上げてください。義兄上は帝のために挙兵したのです。むしろ、伊賀の父は此度の挙兵、鼻が高いと申しておりました。駆け落ち同然にそれがしと所帯を持ったのです。楠木の家に迷惑をかけようとは、晶子も思うておりませぬ」
「されど、伊賀の家にはくれぐれもよろしくお伝えくだされ。それに、晶子殿には、河内が平穏に戻れば、子を連れて遊びにくるように伝えてくだされ……」
少し気を晴らした久子は虎夜刃丸に目を移す。
「……この子たちも喜ぶでしょう」
「義姉上、痛み入ります」
元成も虎夜刃丸に目を落し、穏和な面持ちで頷いた。
二人の話に、澄子が祈るように両手を合わせる。
「そのためにも、殿方たちには、勝ち続けていただかないとなりませんね」
「そうですね。されど、勝てば勝つほどに、幕府は大軍をこの千早城に送ってくることでしょう。これからが正念場です」
自らに言い聞かせるように久子は胸に手を当てた。
「その通りです。いくら義兄上が戦上手というても、楠木だけで勝てる戦ではありませぬ。問題は畿内の、いや、諸国の武士が、どれだけ帝に御味方されるかです。そのためには大塔宮様(護良親王)の御令旨が頼りです」
元成の言葉に、一同は口元を引き締めて頷いた。
その護良親王は、暫く大和に潜伏していた。そこで、幕府討伐の令旨を発し、味方を募った。
そして、権中納言の四条隆資らを従えて、楠木正成と足並みを揃え、ついに吉野で挙兵する。
親王は大鎧に大鍬形の兜を被り、吉野山の蔵王堂に陣を敷いた。常に武具を纏って戦場に立つ姿は、とても皇子とは思えぬ凛々《りり》しいものであった。
薄暗く、香の漂う本陣で、護良親王は諸将を集め、軍議を開いている。そこに、近臣の赤松則祐が外から戻り、ひざまづく。
「宮様、正成殿より繋ぎがございました。楠木軍は摂津で六波羅の大軍を破った後、宇都宮公綱に四天王寺を追われました。ですが、実はこれも手のうち。追われたと見せかけて、幕府軍を金剛山へ誘き寄せるつもりでございます」
「そうか、頼もしき奴よのう。我らも続こうぞ」
「御意。さらにもう一つ。我が父、円心が播磨で旗を揚げると、知らせが届きました」
護良親王は、ひざを打って立ち上がる。
「ついに起つか。赤松一門の働き、頼もしく思うぞ」
「は、お褒めの言葉を賜り、さぞ父も喜ぶことでしょう」
頭を低くする則祐は、早くから仕えた従臣で、主従の絆は深かった。
家臣の居ない護良親王は、播磨の赤松円心・則祐親子や、信濃の村上義日など、村上源氏の武家を味方につけていた。これは、護良親王の母方の縁者である、村上源氏の名門、先の権大納言、北畠親房の働きかけでもあった。
【赤松円心や村上義日の出自については諸説あり】
播磨国愛宕山に立つ苔縄城。ここで、楠木正成や護良親王の挙兵と歩調を合わせるように、赤松則祐の父、赤松円心入道が討幕の兵を挙げた。諱は則村といい、播磨の豪族、赤松氏の四代目である。
円心が大石の上に乗り、大きな眼で舐めるように一族郎党たちを見回す。
「三郎(赤松則祐)の知らせでは、宮様(護良親王)も吉野で挙兵したようじゃ。早くから三郎を宮様の元に仕わせておいたが、やっとこの日がやってきた。河内の楠木とともに、幕府に一泡ふかそうぞ」
そう言うと、嫡男の範資に視線を送った。
意を汲んだ範資が、太い腕を突き出す。
「者ども、鬨の声を上げるぞ。えい、おうっ」
「えい、おうっ」
「えい、おうっ」
一族郎党の気勢が木霊のように続いた。
赤松円心は、手はじめに同じ播磨国の西条山城に向けて兵を進める。城主は幕府の御家人、高田兵庫輔頼重。赤松軍はこれを囲んで攻め落とし、頼重を自害に追い込んだ。
知らせを聞いた六波羅探題の北条仲時と北条時益は、円心を討たんと、備前国の御家人たちに命じて兵を差し向ける。
目論み通り円心は、山陽道の幕府勢を引き付けることに成功した。
千早城では、虎夜刃丸が従弟の明王丸とじゃれあいながら、母、久子の元に駆け込む。そこでは、叔母の良子と澄子、侍女の清ら女衆が集まって繕い物をしていた。
気になった虎夜刃丸が、明王丸とともに、久子の脇に座る。
「母上、何しているの」
繕いの手を止め、久子が複雑な紋様があしらわれた旗を広げて見せる。
「虎夜刃丸、明王丸、これが我が楠木の新たな旗印、菊水じゃ。よく覚えておくのですよ」
女衆は、戦で用いる旗指物を縫っていた。
紋様を指差して虎夜刃丸が首を傾げる。
「何で上と下で違うの」
「上は菊、下は水です。菊は帝から賜った皇家の印。されど、父上は恐れ多いことだと半分だけにして、下に建水分神社の流水の紋をあしらって菊水としたのじゃ」
「ふうん」
興味深そうに虎夜刃丸は、菊水の紋様を指でなぞった。
「それと、もう一つの旗印」
そう言って久子は、非理法権天の旗も広げて見せてやる。もちろん幼いこどもらには、何の意味かはわからない。
「ほほほ、そなたたちにはちと早いのう」
そう言って、久子は微笑を浮かべた。
楠木正成はこの千早城で、四天王寺に残してきた橘紋に代えて、菊水の旗と非理法権天の旗を、初めて掲げることにしていた。
「義姉上、非理法権天とはどういう意味でございますか」
「非理は理屈に勝てませぬ。理屈は法律に勝てませぬ。法律は権威に勝てませぬ。そして、権威も天道には勝てませぬ。天道を歩む我らは誰にも負けないという意味ですよ」
久子はにこりと笑って良子に応じた。
すると、澄子が繕いの手を止め、目を丸くする。
「義姉上は何でもご存じなのですね。そのような難しいことまで」
「本当にそうじゃ。義姉上は物知りじゃ」
昔から二人は、物知りで、何でもてきぱきとこなし、おまけにいつも明るく振る舞う久子を尊敬していた。
「いえ、私だって殿に教えてもろうたのです。此度の挙兵に際し、我ら楠木党の大義を示すため、儒学の格言から選ばれたそうじゃ」
二人の義妹がなるほどと頷く隣で、すでに虎夜刃丸と明王丸の興味は他に移っていた。こどもらの追いかけっこがまた始まる。
そこに虎夜刃丸ら以上に慌ただしい足音で男が駆け込んだ。楠木家の家宰、恩地左近である。
「お、奥方様、ついに幕府軍がやって来ましたぞ。大塔宮様(護良親王)が挙兵した吉野には大和街道から、そして、ここ南河内には紀伊街道と河内街道から、いずれも万を超える大軍のようじゃ」
「左近殿、泣いても笑うても、成るようにしかなりませぬよ。我らは殿を信じるだけです」
左近の慌て振りとは対照的に、久子は努めて冷静である。覚悟を決めた女たちは強かった。
明王丸を追いかけていた虎夜刃丸は、左近の様子を見て立ち止まる。幼いながらも、何か大事があることを肌で感じ、身震いした。
楠木正成を討つべく河内街道を進む幕府軍の中に、丸に一つ引きを旗印とする一軍があった。
「小次郎よ、鎌倉は大塔宮様を討伐した者に近江麻生荘を、楠木正成を討伐した者には丹後船井荘を与えると御触れを出したそうじゃ」
馬上で泰然と声を発したのは幕府の御家人、新田小太郎義貞。そして、隣に馬を付けるのは実弟の脇屋小次郎義助である。
「宮様(護良親王)は兎も角、楠木如きにそのような値打ちがあるのであろうか。たかが一介の土豪ではないか。どうせ手柄を立てるなら吉野山へ向かいたかった」
そう言って、義助はちっと舌を鳴らした。脇屋と名乗るのは分家として脇屋荘に居を構えたためである。
「いや、楠木は侮れんぞ。上方から来た商人の話では、楠木党の強さは尋常ではないらしい。北条の天下も危ういと言う輩も出る始末じゃ」
「ふん、それはそれで面白いがのう。我らは亡き源将軍家と先祖を同じくする身。たかが、頼朝公の家来であった北条に、我が物顔で幕府を牛耳られるのは癪に障る」
新田氏は足利氏と並ぶ清和源氏の名門である。ただ、名門とは言っても、幕府における地位は足利に対して大きく水を開けられていた。
「小次郎、立場をわきまえよ。我らも幕府の御家人ぞ」
「されど兄者……」
「お主の気持ちはわからんではない。じゃがのう小次郎、大志はいざという時までとっておけ」
これに義助は少々、不満顔で口を噤み、手綱を強く握った。
六波羅軍を破って十分に幕府の気を引いた楠木正成は、赤坂城に戻って幕府の出方を探った。その赤坂城の城将には、推挙した権中納言、四条隆資の顔を立て、平野将監重吉を任じた。そして副将を舎弟、楠木正季とした。
この日、陣屋の広間で、正成と重吉が上座に座り、諸将を集めて評定を開いていた。
鼻息荒く、重吉が口火を切る。
「赤坂城はそれがしが守備するとして、正成殿はいかがするのじゃ」
「兄は千早城で幕府を迎える支度を致す。平野殿とわしは幕府軍をここに引き付けて、千早城へと導くのが狙いじゃ」
正成に代わって舎弟、楠木正季が下座から応じた。
「そ、それでは囮ではないか。下手をすれば我らはここで退路を閉ざされ、討死するぞ」
重吉は頬を引きつらせ、一同の顔色を窺った。
その様子に隣から正成が言葉を足す。
「いや、大丈夫でござる。以前に増して守りを固め、赤坂城から千早城へ抜ける抜け道も造ってある」
「されど、城将はわしじゃ。幕府軍の狙いはわしになるのであろう。わざわざここに幕府を引き付けなくとも、初めから千早城が幕府を引き付ければよい。そうじゃ、そうすればわしらが千早へ向かう幕府軍を背後から襲える。なあ、よい策であろう」
尻込みする重吉に、正季が苦笑を浮かべる。
「平野殿、この赤坂城に敵を引き込み、抵抗した挙句にこの城が落城するからこそ、敵は勢いに乗じて千早城を攻めようとするのじゃ。そうしなければ、金剛山の懐深くまで幕府の大軍をおびき寄せることは難しい。それに、もし、幕府軍が最初から千早城を目指したとしても、その途上にある赤坂城を、幕府が見過ごして通ると思うておいでか」
「いや、されど……」
腹を括ろうとしない重吉に、近くで聞いていた湯浅定仏(宗藤)がずんと立ち上がる。
「平野殿が納得なされぬのなら、わしが代わって城将に成って進ぜよう。もちろん手柄はそれがしがもらい受ける」
「あ、い、いや、結構でござる。正成殿の策はようわかり申した」
慌てて承諾する重吉に、定仏は正成に目配せして笑いを誘った。
平野重吉と楠木正季らを赤坂城に残し、楠木正成は兵を率いて千早城に入る。すでに城には、女衆が作った菊水と非理法権天の旗印が無数に掲げられていた。
千早城は女こどもも含め、およそ千人が籠城する。もちろんそこには、虎夜刃丸の姿もある。久子ら女衆は、兵たちへの炊き出しで急に忙しくなっていた。
虎夜刃丸も久子の隣で兵たちにむすびを配る。
「はい、どうぞ」
幼子が配るむすびは人気で、男たちが列を作った。
そこに、十市範高も姿を見せる。
十市氏は古代豪族、中原宿禰の末裔で、平安の朝廷に学者として仕えた中原氏の子孫である。正成の呼びかけに応じた父の十市遠高によって赤坂城に遣わされて以降、楠木の与力となっている。
「これは、虎夜刃丸殿、母上の手伝いか。感心じゃ」
「うん」
範高は虎夜刃丸からむすびを受け取ると、もう片方の浅黒い手で頭を撫でる。代わりに虎夜刃丸は、愛嬌ある笑みを返した。
二月、ついに幕府軍は赤坂城を取り囲む。城には城将の平野将監重吉、副将の楠木正季を頭に、およそ三百の兵が籠城した。
対する幕府はおよそ七千余。総大将に北条一門の若き阿蘇治時を据える。若干十五歳の若者だが、得宗家(北条惣領家)、北条高時の猶子であったため、討幕軍の旗頭として担がれた。
その治時を支える参謀として、北条得宗家の御内人(北条家直参)、長崎高貞が軍奉行として遣わされていた。実質的な総指揮官である。
「この城には、一度手痛い目に合うておる。正面から力で攻めることなく、城の側面に回り込んで矢を射かけよ」
長崎高貞は幾重にも弓矢を射かけ、正季らを釘付けにした。
「水が呑めなければ籠城も不可能。水源じゃ。水源を探し当てて、押さえるのじゃ」
「はっ。承知つかまつりました」
近習は、高貞の沈着冷静な命を兵たちに伝えるために走った。
さすがに軍奉行の高貞は、過去の赤坂城の戦を教訓に、慎重に、かつ確実に、赤坂城を追い詰めようとしていた。
その赤坂城は籠城のために、複数の水路を引いて水源を確保していた。そして、見つからないように木々を置き、土を被せて隠しておいた。しかし、その水路は幕府軍にことごとく抑えられ、早速、楠木正季は頭を抱える。
兵糧庫で、正季が郎党から水の備蓄状況を聞いていたところに、城将である平野重吉が、郎党を従えて入ってくる。
「御舎弟殿(正季)、話が違うではないか。千早城に撤退するにも、寄手の囲みを突破せねばならん。日干し状態では兵は働けぬぞ」
騙されたと言わんばかりの勢いで、重吉が正季に迫った。
正季にとっても、隠しておいた水路がこんなに早く見つけられるとは、想定外であった。
「わかっており申す。今、兄者に使いを出した。千早城からの助けを受けて一気に撤退を開始致す」
重吉がちっと舌を鳴らす。
「すでに千早城へも鎌倉方が兵を進めたと聞く。策士、策に溺れるとはこのことじゃな」
そう言って重吉は正季を睨みつけるようにして兵糧庫を後にする。感情を隠そうとしない重吉に、正季は苦虫を噛み潰したような顔で沈黙した。
翌日、平野重吉は本丸(主郭)の陣屋に、自らの郎党だけを集める。
「寄手の軍奉行、長崎高貞より、よい知らせじゃ。今、城を明け渡して軍門に下れば、罪を許し所領を安堵するとのこと。ただし、楠木兄弟は許されぬ。もっともなことじゃ。これ以上、あやつらの無謀な策には付き合うてはおれぬ」
これに、平野の郎党たちは驚いて顔を見合わせる。そこにはやましさがあった。
しかし、重吉にとって郎党の同意など大したことではない。さっそく使者を、正季に気づかれぬよう長崎高貞の陣に走らせた。
次の日も赤坂城では、昨日までと変わる事なく、城の兵たちと、寄手の兵たちの間で睨み合いが続いていた。そんな中、突如として幕府側が、城の下手にある虎口門へと兵を動かした。
南北に長い赤坂城は、北の下手を城将の平野重吉が、南の上手を副将の楠木正季が守備していた。
正季は、神宮寺正師の報せに息を飲み込む。
「何、幕府軍が……総攻めに出たのか」
「いや、それにしては、兵の数が少ないようじゃ」
正師の話に、正季は急ぎ櫓に登り、城の下手に目をやる。平野の守備兵と、寄手の兵の間で戦いが始まっていると思いきや、平野の兵たちは、虎口門を開き、城の外に出て、幕府の兵に薙刀や弓矢などの武器を渡していた。
「ぐぐ、重吉め、敵に投降しおったか……」
しかし、血を逆流させた正季の瞳に、意外な光景が映る。
「……ん、あれは」
櫓の上で目を凝らす。そこでは、幕府の兵が、武装を解いた平野勢を取り囲み、小競り合いが起きていた。
赤坂城の虎口門では、幕府方の兵が平野重吉に薙刀を向けている。
「平野将監じゃな、大人しく縄を受けろ」
「おのれ謀ったな。長崎はどこじゃ。約束が違うではないか」
怒り心頭の重吉は、郎党たちとともに幕府の兵を前に息巻いた。
―― ざぐっ ――
隣に目をやると、郎党の一人が薙刀で突かれて倒れ込んだ。
「どうせ、お前たちは斬首される身よ」
薙刀を振った兵がうそぶくと、重吉は青ざめる。
「ま、待て。待ってくれ。手向かいはせぬ。命だけは助けてくれ」
恐れおののき、ひざを付いて命乞いをはじめた。
城の上手では、急ぎ、翔るように櫓から降りた楠木正季が、集まった兵たちを前に声を張る。
「よし、この混乱に乗じて逃げるぞ。囲みを突破する。者ども、ついて参れ」
「おう」
「承知」
正季は神宮寺正師らを率い、南の尾根から決死の脱出を図った。
後詰めの千早城は、すでに北条一門の名越宗教の六千余、同じく一門の大仏家時の一万余に取り囲まれていた。宗教は別名、遠江入道とも呼ばれ、剃髪頭の幕府重鎮である。一方、大仏家時は、一年前の赤坂城攻めの総大将、大仏貞直の甥で、まだ、二十一歳と若かった。
その幕府軍に包囲された千早城に、斥候が戻り、赤坂城が落ちたとの知らせをもたらした。
虎夜刃丸ら女こどもが、強張った表情で、本丸に建つ陣屋の奥間に集まる。
「旦那様はご無事でしょうか」
夫、楠木正季を心配する澄子は、今にも泣き出しそうな顔である。久子は、そんな澄子の手を両手で包む。
「大丈夫ですとも。きっと逃げおおしていることでしょう」
その言葉に、澄子は自分を納得させるべく頷いた。
「叔母上、これ……」
虎夜刃丸が澄子に差し出したのは木切れである。
「……観音様じゃ」
虎夜刃丸に言われ凝視すると、木の窪みが目や口のようでもあり、観音立像に見えない事もない。
澄子は虎夜刃丸の頭を撫でる。
「ありがとう。虎夜刃丸殿」
「澄子殿、皆で、この観音様に祈りましょう」
久子は虎夜刃丸の観音像を壁際に安置し、手を合わせた。すると、虎夜刃丸も隣に座り、久子を真似て手を合わせる。
「むにゃむにゃむにゃ……」
その様子に、澄子は穏やかな表情を取り戻し、虎夜刃丸ととも観音像に手を合わせた。
続いて、良子、清をはじめとする侍女たち、多聞丸をはじめとするこどもらも、次々、その場に座り直して手を合わせる。迫る闇に抵抗するかのように、皆の読経は続いた。
この重苦しい状況を変えたのは、またも、恩地左近である。
「七郎殿が帰って来られましたぞ」
大声に、澄子の頬に赤みが戻る。
「虎夜刃丸殿、ありがとう。そなたの観音様のお陰じゃ」
そう言って虎夜刃丸に抱き付くと、すぐに立ち上がり、小走りで奥間から出て行った。
澄子の後姿から視線を戻した虎夜刃丸は、自慢気に、母の久子に向けてかわいい鼻を高くした。
楠木正季が率いる赤坂城の二百人は、千早城を取り囲む幕府軍を迂回して、いったん金剛山に入り、背後から千早城に着いたところであった。
安堵の表情を浮かべた楠木正成と美木多正氏が正季を出迎える。
「七郎、よう無事に千早城にたどり着いた」
そう言って、正氏が弟の肩を叩いた。
「何のこれしき。ただ平野将監が裏切って投降した時は、肝を冷やしたが」
これには、申し訳けなさそうに正成が顔を歪める。
「そうか、平野将監が裏切ったのか。あやつを城将にしたのはわしの不覚じゃ。四条中納言様(四条隆資)の顔を立てたのが失敗であった。すまぬ」
「いや、あやつなど、端から信用してはおらん。少し気を抜いたわしの失態じゃ」
気にする素振りも見せず、正季は生還を兄たちと喜びあった。
「お前様、よくぞご無事で……」
澄子が息を切らせて駆け付けた。正季は澄子を振り返り、その肩に両手を掛ける。
「心配をかけた。もう、大丈夫じゃ」
正季の言葉に、澄子はこくりと頷いた。
「叔父上」
澄子の跡を追うように、虎夜刃丸が久子の手を引いて駆け付けた。その後ろから、多聞丸と持王丸、満仁王丸と明王丸も駆け付けて叔父の生還を喜ぶ。
これで千早城には、赤坂城から合流した正季らを加え、およそ千の兵、女こどもを含めればおよそ千五百が籠城することになった。
一方、千早城を取り囲む幕府軍は、赤坂城攻めの軍勢が合流し、総勢五万となっていた。
閏二月二十二日、慎重に睨み合いを続けていた寄手であったが、総大将の阿蘇治時と軍奉行の長崎高貞が合流し、ついに力攻めに打って出る。
「よいか、者ども、城を取り囲み、時を同じくして一気に押し上がれ」
事実上の指揮官である長崎高貞が激を飛ばした。七千の兵で千早城の三方を取り囲み、昼前から兵を一気に千早城へと押し上げた。
城の周囲は一部を除いて逆茂木が設けられていた。ところどころ逆茂木が途切れているところは急峻な崖がゆく手を阻んでいる。崖は地が剥き出しで、掴まる草さえ見当たらなかった。
しかし、幕府軍は楠木軍の裏をかくように、この急峻な崖に梯子や綱をかけて登っていく。
前線を指揮する侍大将が、その大顔に似合わずに口をすぼめる。
「よいか、者ども、声を上げずに静かに進めよ」
身振りを交えて周囲の兵に注意を促した。
急峻な崖下は城の中からは死角である。そこに、驚くほどにびっちりと人が張り付いた。
しかし、城内からはまったく反撃がない。
「よし、もう少し。拙者が一番乗りじゃ」
先駆けの兵がもう一息で城に達しようとしたその時である。
―― ぐわん、ごわん、がらがら ――
けたたましい轟音が耳に入る。
「なんじゃ、この音は」
一人の兵が顔を上げると、上から落ちてきた岩が目の前に迫る。次の瞬間、その岩を抱いて崖下に転がり落ちて行った。
崖に張り付いていた他の兵らもいっせいに顔を上げた。大小幾つも岩が、自分たち目掛けて転がり落ちて来ていた。
「うわあ」
「ぎゃあ」
「助けてくれ」
あちらこちらで戦慄の悲鳴があがる。さらに、無数の岩が兵たちを巻き込んで落ちていく。
一瞬の出来事であった。崖下の土煙が治まると、そこに現れたのは地獄絵図である。多くの兵が岩の下敷きになり、あちらこちらが血で染まり、兵たちの口々から、苦しそうなうめき声が上がっていた。
千早城の上からは、楠木正成・正季・美木多正氏の三兄弟が崖下を覗き込んでいた。
正氏が満足げに笑う。
「わはは、逆茂木を開けておいたのはここに敵を誘き寄せるためじゃ。よく引っかかってくれたわい」
「むごいことではあるが、致し方ない。成仏するがよい」
正成は幕府軍の死傷者に手を合わせた。
軍奉行の長崎高貞の元に戦況がもたらされる。
「千早城へ北から攻め上った御味方、千余が全滅致しました」
「南から攻めた名越殿の郎党、千が全滅です」
「西から三手に分かれて登っていた御味方、死者多数、動けるものはわずかです」
次々に報がもたらされた。いずれも悲惨な内容ばかりである。
「な、何と、七千もの攻め手が一瞬でほぼ全滅ではないか。このようなことがあろうか……」
高貞は呆然として千早城を見上げた。
この日の幕府軍の死傷者は数知れず。記録の役人十人が、三日かかっても終わらないほどであった。
大将の一人、名越宗教の陣にも動揺が走っていた。
「殿、力技ではこちらがどのような被害を受けるやもしれませぬ。多少時は掛かりますれども、ここは赤坂攻めと同じく水を絶つことかと存じます」
側近の献策に、宗教はううんと唸って腕を組む。
「城の周囲は三方が川であったな。いずれかの川から水を汲んでいるのであろうか」
「はい、すでに調べは付いております。南北と西には幕府方の兵が隙間もないほどに陣を布いておりますので、水を汲むとすれば、東側の山の端との間にある風呂谷という谷底を流れる湧き水かと存じます」
「そうか、よう調べてくれたのう。よし、その方に三千の兵を与える。風呂谷の東に兵を配して谷伝いに水場を全て押えてしまえ」
「承知つかまつりました」
早速、側近は兵を引き連れて風呂谷に向かった。
千早城の本丸に建つ陣屋の厨では、久子の前で虎夜刃丸が水瓶から柄杓で水を救い上げ、がぶがぶと飲んでいた。
「これ、虎夜刃丸。大事な水です。こぼさずに飲みなさい」
母の声で足下を見ると水がこぼれている。虎夜刃丸は慌てて土間に染み込んだ水に手をやる。
「これ、水は元には戻りませぬよ。手が汚れるから、止めなさい」
その言葉に虎夜刃丸は汚れた手を服で拭きながら立ち上がった。
久子は、その服に目をやり、我ながら、余計な事を言ってしまったと額に手を当てた。
「ごめんなさい」
虎夜刃丸は、久子のお説教に、しょんぼりと頭を下げた。
「まあまあ、義姉上、その辺で。虎夜刃丸も悪気はなかろう。それに、水ならたくさんある」
厨に入ってきた楠木正季が水瓶に寄って、自らも柄杓を手にする。そして水を汲むと、前屈みに首を突き出して水を飲んだ。虎夜刃丸は、その様子を注意深く観察する。が、正季は水をこぼさない。
「な、虎夜刃丸。こうやって飲めば水はこぼれぬであろう」
そう言って、虎夜刃丸に柄杓を持たせた。
遠慮がちに母の顔を一瞥した虎夜刃丸は、柄杓で水を少し汲み、正季を真似て、首をつき出して水を飲んだ。
「偉いぞ、虎夜刃丸。今度はこぼれなかったな」
正季に褒められ、虎夜刃丸は振り向いて久子にしたり顔を見せる。そして柄杓を差し出した。
「七郎殿、水は本当に大丈夫なのですか」
「大丈夫。赤坂城と同じ轍は踏みませぬ」
柄杓を受け取る久子に、正季は余裕の笑みを返した。
幕府軍の名越勢が、風呂谷の見張りに付いてから三日が経った。
千早城の本丸に建つ陣屋の外では、楠木正成と美木多正氏が手頃な石に腰かけて、幕府軍の出方を話し合っていた。
そこに恩地左近の息子、満一が駆け寄り、片ひざを付く。
「風呂谷の敵兵ですが、いまだに居りまする」
「もう三日か。寄手の兵も、ご苦労な事だな」
焦る事もなく、正成は平然としていた。それもそのはずで、千早城は谷水に頼らなくても、掘り当てた井戸だけで十分に足りていた。
正氏は風呂谷の方角を一瞥する。
「まったく能のない奴らじゃ。同じことでこの城が落ちると思うなよ」
「五郎(正氏)、そろそろ、幕府の兵たちも退屈しておるころであろう。期待に応えて水汲みに行ってやってはどうか」
「ん、兄者、ということは……」
「籠城だけではないところを見せてやろうぞ。弓に覚えのあるものを集めて風呂谷に向かうのじゃ」
「おお、待っておった。鎌倉武士に我らが武勇を見せてやろう」
正氏は、窮屈な鳥籠から出てきた鳥のように、首をぐるぐると回した。
さっそく正氏は満一とともに、百人の精鋭を引き連れて風呂谷へと下った。そして、幕府の兵たちが目に入るところまで降りて、岩陰に潜む。
「よいか、日頃鍛えたお主らの腕前を見せる時がきたぞ。東夷を驚かせてやれ」
正氏の合図で楠木党の百人が力を入れて、きりきりと弓を引き、狙いを定めていっせいに矢を放った。
―― ひゅん ――
いきなり十人程度が矢を受けて倒れた。名越の兵たちは驚き、木蔭に隠れて矢を射返した。
矢合わせでは、崖の上から下に向けて放つ楠木勢の矢が、名越勢のそれを凌駕する。楠木の矢は相手に届くが、相手の矢は届かなかった。あらかじめ矢が届かない間合いを、戦に先立って計っていたからこそである。
さらに浮足立った名越勢を、今度は和田高遠が率いる別働隊の百人が切り込んだ。
数に勝る名越勢ではあったが、崩れ出した体制を立て直すのは難しい。いったん退却とのかけ声が響く。慌てた名越の者たちは、あちらこちらに旗指物を打ち捨てて退却した。
翌日の千早城。撤退した名越の陣に一番近い四の丸に、たくさんの旗が掲げられた。楠木の菊水や非理法権天の旗よりも前面に翻ったのは、三つ開傘の旗印である。
「名越殿、この通り忘れ物をお預かりしておる。名越の御紋が付いておりますゆえ、我らでは使い物にならず困っており申す……」
美木多正氏が四の丸の櫓に登り、がなり声で挑発する。
「……仕方がないので、我らはこれで、褌を仕立てようかと思う。じゃが、取りに来られるのであれば、武士の情けで今日いっぱいはお待ち致そう」
大将、名越宗教は四の丸に舞う三つ開傘を見上げ、顔を真っ赤にして激怒する。
「旗を奪われしは我が家の恥。何として取り返えすのじゃ」
激昂した宗教の命で、一門が率いる五千の兵が、北から四の丸めがけて一気に襲い掛かった。今度ばかりは名越軍も死に物狂いで千早城に取り付く。
急斜面ではあるが、風呂谷付近の切り立った崖に比べれば緩く、捕まるための草木も生える斜面である。梯子や縄を使わなくとも何とか登ることはできた。
それだけに、楠木軍とてここの守備は強固である。正氏は兵を集めて雨のように矢を放った。
名越軍はゆく手を阻む逆茂木を力づくで引き倒す。そこから雪崩を打って城に取付いた。
しかし、先頭の兵が顔を引きつらせる。
「な、なんじゃ」
名越軍の前に現れたのは、ここでも丸太の大群であった。たくさんの丸太が五千の兵を目掛けて転がり落ちる。多くの兵が丸太とともに谷底へ飲み込まれた。
頭に血が上って猪武者のように突進していた名越勢であったが、この丸太の勢いに、一気に血の気が引いてしまう。
「うぐぐ……楠木め。姑息なことばかり。武士ならば正々堂々と戦え」
大将の宗教は、地団駄を踏んで悔しがった。
名越勢が大敗を喫したことは、すぐに幕府軍の総大将、阿蘇治時にもたらされた。若い治時に代わり、幕府軍を実質、差配する軍奉行の長崎高貞は、きっと目を吊り上げて立ち上がる。
「ええい、力攻めしてもこっちの被害が増えるばかりじゃ。城を完全に取り囲み、兵糧攻めにせよ。さすれば奴らも城から出て来て戦わざるを得ないであろう」
高貞は総大将、治時の名で、各大将の陣に触れを出した。さっそく幕府軍の兵は、全方位から千早城を二重三重に取り囲んだ。
千早城の本丸の櫓の上から幕府軍の動きを観ていた楠木正季が、楠木正成の元に降りてくる。
「三郎兄者、幕府軍の配置が変わったぞ」
「うむ、兵糧攻めであろう、赤坂城の攻略と同じじゃな」
特に深く問い返すことなく、正成は言い当てた。
「まったくじゃ。水責めの次に兵糧攻めとは。攻め手の大将も能がないことじゃ。我らがそのくらい用意せずにおると思うてか」
つまらなそうに、正季が鼻を鳴らした。
かくして、幕府軍が兵糧攻めをはじめて一月が経った。守り手にとっても、攻め手にとっても持久戦である。城を取り囲んでいるだけの変化のない日々は、楠木軍・幕府軍ともに士気の低下を誘った。
千早城にある本丸の陣屋の中、楠木正成は美木多正氏を呼び寄せる。
「五郎(正氏)、敵も退屈している頃合いであろう。退屈しのぎに敵の策に乗ってやろう」
「ほほう、敵の策に乗るとは」
興味深そうに正氏が前のめりになって言葉を返した。
「うむ、よく聞け、五郎……」
そう言って、策を詳細に正氏に説明する。正成らしい奇抜な策であった。
幕府の本陣。軍奉行、長崎高貞の元に、前線の兵から知らせがもたらされる。
「ご注進申し上げます。千早城の出丸(四の丸)のさらに麓に、突如として砦が現われました」
「何、突然砦が現われただと。夜のうちに造ったのか」
「それはわかりませぬが、新たな砦は百を超える楠木の兵が守備している模様。城から討って出るのではないかと思われます」
「そうか、ついに兵糧攻めの効果が出てきたということじゃな……」
高貞はふうと、重荷を降ろした時のように息を吐いた。
「……よし、この時を待っておった。千の兵を与える。砦の兵を討ち取ってしまえ」
間髪置かず、高貞は側近に出陣を命じた。
幕府軍は千の兵を砦の麓に移動させて矢合わせを仕掛けるが、楠木方からは、時折、ひゅんと間を開けて散発的な返し矢があるのみであった。
これを見て、戦場を仕切る侍大将は兵たちを鼓舞する。
「敵は、腹を空かせて、矢さえ放つことができぬようじゃ。者ども、わしに続け。一気に蹴散らすぞ」
幕府軍の千が、新たな砦を目掛けて一気に攻め込む。
「やああぁ」
先ほどから一歩も引かずに砦を死守する楠木の兵に対して、幕府の兵たちは正面から切り込む。
―― ずばっ ――
土煙が収まり切らない中、勇猛果敢な侍大将が楠木の守備兵に一太刀浴びせた。
「ううん」
その刀からは人を切ったような感触が何も伝わってこない。
「なんじゃ、これは」
目を凝らすと、切り倒した楠木の兵は、藁人形に具足(甲冑)を纏わせたものであった。幕府の兵たちは、驚いて周囲の楠木兵へも目を向ける。だが、皆、同じ藁人形であった。
「何という恥辱じゃ。楠木め、ふざけおって。ただではおかんぞ」
怒り心頭、血が沸騰寸前の侍大将であったが、次の瞬間、一瞬にして身体が凍り付く。
「い、岩が落ちてくるぞ。逃げよ」
侍大将は、その声を最後に、岩とともに転がり落ちる。幕府軍は、またもや楠木の術中に嵌まった。一瞬で千の兵が岩とともに転がり落ち、千早城から消え去った。
幕府軍の本陣。その陣幕の中では、総大将の阿蘇治時と軍奉行の長崎高貞を前にして、諸将が居並んでいた。名越宗教や大仏家時、新田義貞、さらには京から合力に駆けつけた宇都宮公綱など、幕府軍の大将たちである。
「誰か楠木を攻めるよい策を持ってはおらぬか。このままでは幕府の威厳が地に落ちる」
若い総大将の治時は、苛立ちを抑えきれない。訴えるように諸将の顔を見回すが、誰からも意見は返って来なかった。
「誰か意見はないのか。何でもよいぞ。新田殿はどうじゃ」
高貞が、痺れを切らして、義貞に話を振った。
「楠木は侮り難いと存じます。力で押しても、我らの被害が増えるだけ。このまま城を取り囲み、時をかけて楠木を兵糧攻めにするのがよいと存ずる。時が掛かろうとも確実でござる」
消極的な義貞の意見に、大仏家時は眉をひそめる。
「何と臆病な意見じゃ。後方の守備固めだけしておると、そうなるのじゃな」
しかし、家時の嫌味にも、義貞は動じない。
「別に、慌てて城を落さなくとも、この山奥に楠木を釘付けにしておけば、害にはならぬのではありませぬか。取り囲むだけなら、このように多くの兵は必要ありますまい」
ここ千早城の動向が諸国の反幕勢力にどのような影響を与えるか、義貞は見極めたいと思っていた。そのため、今、千早城が落ちることを望んではいなかった。
「新田殿、もうよい。他に意見はないのか。誰でもよいぞ」
高貞は、後ろ向きな義貞に呆れ、他の者を促した。
大将たちから、これといった意見が出ない中、後ろに控えていた郎党の一人が進み出る。
「突拍子もない策ですが、このようなことはいかがでしょう」
「何じゃ、申してみよ」
藁をもすがる思いで、総大将の治時が郎党を促した。
「あのぉ、千早城と、金剛山から伸びる東の支脈の間には深い谷があり、金剛山から千早城に取付くことは難しいかと存じます」
「そのようなことはそちに言われるまでもなくわかっておるわ」
大仏家時は、先に結論を言わない郎党に苛立った。
「で、その谷ですが、深さの割に距離は短く、これなら橋を架けられます」
「何、橋か。じゃが敵は、のんびり橋など架ける暇を与えてはくれまい」
期待外れの意見に、高貞はため息をついた。
「いえ、そこで、金剛山側の橋のたもとで、五重塔のように高い梯子を空へと立てて参ります。そして、この梯子を千早城へ倒せば、一瞬にして橋をかけることができまする」
総大将の治時が、この郎党の進言に目を輝かす。
「ほう、面白き策じゃな。楠木に対するには、こちらも奇策を弄する必要がある。のう長崎、どうじゃ」
歳若い治時は、この突飛な策を気に入り、軍を仕切る高貞に同意を求めた。
「確かに、やってみる価値はあるかと……よし、都から大工をかき集めて参れ。巨大な梯子を金剛山の岸に建てるのじゃ」
居丈高な高貞の命に、幾人かの郎党がいっせいに動いた。
「ふふ、楠木の慌てる顔が見てみたいものじゃ」
治時は独り言のように呟き、その顔に、にやにやと笑みを湛えた。
兵糧攻めを受けている最中にもかかわらず、千早城では平穏な日々が続いていた。それもそのはずで、城の井戸は渇れることなく、兵糧庫の蓄えも充分。おまけに城で育てた穀物や野菜も収穫できるようになっていた。
年長の多聞丸は、弟の持王丸と従兄の満仁王丸に弓矢の手解きをする。こどもらはこどもらで、戦に臨んでいた。
「えいっ」
「とうっ」
まだ、数えて三歳と幼い虎夜刃丸でさえも、陣屋の外に出て、従弟の明王丸と剣術の真似事をしていた。はたから見ると、遊んでいるようにしか見えない。だが、幼い二人でさえも、大人たちと同様に戦っていた。
虎夜刃丸が、ふと、手を止める。
「ん……」
「おい、虎っ」
手が止まった虎夜刃丸に、明王丸は立ち合いの続きを促した。しかし、虎夜刃丸は、向かいの山の端に視線を向けたまま動かない。
「明王、あれ」
虎夜刃丸が指差す向こうには、巨大な柱がそそり立っていた。天をも突くほどに高い柱である。何であろうと二人でしばらく眺めていると、大人たちも異変に気づいて騒ぎだした。
これに美木多正氏が、楠木正季とともに虎夜刃丸らの前に現れる。
「どうした、明王」
「父上(正氏)、あれは」
不思議そうな表情で、明王丸が正氏の手を引いた。
「な、何じゃ、あれは」
「何と奇怪な」
正氏も、さらにその隣の正季も、答えを持ち合わせていなかった。
そこに、楠木正成までもが騒ぎを聞き付けて現れる。
「どうした」
「父上(正成)、あれじゃ」
虎夜刃丸は指を動かし、正成の視線を巨大な柱へと誘った。
ふうむと柱を見据える正成に、正季が首を傾げる。
「三郎兄者(正成)、何やら幕府方がはじめたようじゃが、あれはいったい……」
「なるほどのう。わっはは」
巨大な柱を見て、正成は楽しそうに笑う。虎夜刃丸はそんな父の顔を不思議そうに見上げた。
柱を注視したまま、正氏が正成に問う。
「兄者は、あれの見当がつくのか」
「橋じゃ、あそこからあの柱をこちらに倒して、この城に橋を架けようとしておるのじゃ」
「ああ、なるほど……」
その答えに、二人の弟は得心する。
「うむ、幕府も知恵を絞ったようじゃな」
正成は感心した風ではあるが、特段焦る様子もない。
「兄者、笑い事ではないぞ。橋が架かればまずいであろう」
「うむ、まずいのう。いやはや、敵ながらあっぱれ。されど、五郎(正氏)、大丈夫じゃ。敵はこの城に取付くことすらできぬわ」
皆の心配をよそに、正成は意味ありげに笑い、その場から立ち去った。
二人の弟は顔を見合わせて、首を傾げる。
「何で大丈夫なのであろう」
正氏が腕組みして独り言のように呟くと、虎夜刃丸もそれを真似て、その場で目を閉じ、腕組みをする。
「おお、虎夜刃丸も考えてくれるのか」
しゃがみ込んだ正季が、笑ってその頭に手をやった。
すると、何かひらめいたかのように、虎夜刃丸が目を開く。
「あのね……」
両手を正季の耳元に押し付けて、小さな声で囁いた。
これに正季は、満面の笑みを返す。
「おお、虎夜刃丸。そう、それじゃ。なるほどのう」
「何じゃ。わかったのか。わしにも教えてくれ」
虎夜刃丸の答えに感心する正季に、正氏が詰め寄った。
「五郎兄者(正氏)は駄目じゃ。自分で考えてもらおう。なあ、虎夜刃丸」
おどける正季に、虎夜刃丸はにっこり頷いた。
「意地悪じゃのう」
正氏が追いかける素振りを見せると、虎夜刃丸は明王丸を伴って、きゃっきゃとはしゃいで走り去った。
幕府の渡し橋の計画は大詰めを迎えていた。
「よし、綱を切れ。橋をかけろ」
―― ずずず、どうぉんっ ――
大仏家時の合図で、大音響を伴って巨大な橋が千早城に掛かった。
「よし、一気にこの橋を進んで敵の本丸を落すのじゃ」
大勢の兵がこの橋に群がり、城を目掛けて橋を渡った。
先頭の兵が橋の中央まできた時である。城側の橋のたもとに楠木の兵たちが集まってくる。
「敵は守備兵を集めて、我らを阻止するつもりじゃ」
「い、いや、あやつら何かをしておるぞ」
「ん、水をかけているようじゃが」
橋を進む先頭の兵たちは首を傾げるた。すると、一人の兵が、風に乗って漂ってきた臭いに気づく。
「これは水ではないぞ。この臭いは油じゃ」
「何、油じゃと。ということは……」
次の瞬間、火の付いた薪が橋のたもとに幾つも投げ込まれた。薪の炎は油の染み渡った橋のたもとで一気に燃え広がる。
「うわ、火じゃ」
「も、戻れ。早く」
兵たちは目の前の出来事に、慌てて引き返そうとする。だが、後ろからは蟻の行列が進むように兵が押し寄せ、引き返そうにも引き返せない。そのうちに、火はどんどんと橋の中央あたりにまで燃え移った。
そこからは阿鼻叫喚の光景である。火が燃え移って苦しむ兵。火を恐れて自ら谷底へ飛び込む兵。橋を渡っていた二百余の兵は、生きる術を失った。
千早城の本丸では、渡し橋の成りゆきを見ようと、虎夜刃丸らこどもたちが塀によじ登ろうとしていた。
真っ先に持王丸が塀によじ登る。
「うわ、燃えておる」
塀を跨いで腰かけた持王丸が、驚きの声を放った。次に塀に登った満仁王丸が、明王丸の手を引っ張って、塀によじ登らせた。
「虎も見る、虎も見る」
一人、塀を登れないで置いてきぼりを喰らった虎夜刃丸は、焦って兄たちに訴える。
「よし、虎。わしの肩に捕まれ」
少し遅れてやってきた多聞丸が、虎夜刃丸を背に担いで塀に上った。
兄の肩越しに、幼い瞳が地獄の光景を捕える。あまりに残酷なありさまに、虎夜刃丸は思わず目を背けた。しかし、脳裏には、この光景が強烈に焼き付く。戦とは何と惨いものであろうと、幼心に深く刻まれた。
炎を纏ったその橋は、幼子の心に深い傷を残したまま、敵兵たちと谷底へと消えていった。
閏二月、護良親王が挙兵した吉野山は、すでに幕府軍によって落とされていた。
吉野山の陥落に際し、護良親王は自害を望んだ。しかし、忠臣、村上義日の涙ながらの説得を受けて落ち延びる。
その義日は、親王の兜を被り、身代わりとなって蔵王堂に立てこもった。そして、親王が逃げる猶予を作るため、十分に敵を引き付けてから、敵の前で壮絶に自害をして果てる。
その隙に吉野山を脱出した護良親王は、四条隆資・隆貞親子、近臣の赤松則祐らとともに徒歩で高野山を目指した。しかし、幕府の追討は手を緩めることなく、徐々に一行を追い詰めていた。
「義日を初め、多くの忠臣を失ってしまった。追手の数も増えているようじゃ。我のみ吉野を逃れて何としようぞ。隆資、我はここで腹を召す」
悲痛な表情の護良親王は、歩みを止めてその場に座り込んだ。
先を歩んでいた四条隆資が、振り返って片ひざを付く。
「宮様、義日は宮様を逃すために自ら身代わりになったのでございます。ここで宮様が死んでは義日が浮かばれませぬ」
「されど……」
親王は多くの兵を亡くしたことに、心を痛め項垂れた。
赤松則祐も傍に歩み寄る。
「宮様、千早城では楠木正成が幕府軍を引き付け、いっこうに落ちる気配がないとのこと。宮方の希望は千早城にあります。千早城が落ちぬ限り、我らは負けたわけではございませぬ」
「そうです。宮様には今後も諸国の志ある者に令旨を出して、楠木を助けてやるという仕事があるではありませぬか」
隆資の次男、四条隆貞も後に続けた。
その言葉に親王がぐっと顔を上げる。
「正成か……そうであったな。義日を亡くし、正成までを亡くすわけにはいかぬな。隆貞も則祐も我にとって代えがたき忠臣よ。今後も我を助けてくれ」
「もちろんでございます。我が命は宮様に捧げております」
「この命に代えて宮様をお守り申し上げます」
固い絆で結ばれた主従であった。
その時、護良親王の一行の前に、およそ五十余騎の軍勢が現われる。
「幕府の追手か……」
四条|隆貞の言葉で一同に緊張が走った。
取り囲んだ兵たちを掻き分けて、大柄な男が歩み出る。
「恐れ多きことなれど、大塔宮様(護良親王)とお見受け致します。それがしはこのあたりを拝領します野長瀬盛忠と申す者。吉野山が落ちたと聞きおよび、宮様をお助けせんと駆け付けました。我らをぜひ宮様の一軍としてお加えください」
これに親王が、赤松則祐と顔を見合わせる。
「そうか、まだ、我の運は尽きていなかったようじゃな」
「御意」
則祐は土気た顔に笑みを湛えた。
一行に生気が戻る。護良親王は盛忠の軍勢に守られて、無事、高野山に逃げおおした。
河内では、吉野山を落した幕府軍が千早攻めに合流する。その結果、ついに十万を超える大軍が千早城を取り囲むこととなった。
幕府の軍奉行、長崎高貞は楠木正成の知略に手を焼き、力攻めを止めて兵糧攻めと散発的な奇策で楠木正成に対抗する。まず、千早城の四方に兵を配置して、この地へ通じる全ての道に関所を設け、兵糧が運び込まれないようにした。
しかし、正成の備えは高貞の考えを越えていた。
水は、城の中に掘られた複数の井戸のお陰で困ることはなかった。金剛山に繋がる水脈の存在を、修験者や山の民たちから聞いて知っていたからである。
そして、食い物も十分にあった。事前に兵糧を蓄えていたこともあるが、城の中では女こどもが畑を耕し、計画的に里芋や牛蒡、豆、青菜などが収穫されていた。
さらに立てこもる千人を超える人々の命を繋いだのは、護良親王を助けた野長瀬盛忠の存在である。千早城の中腹には隠された坑道が掘られ、千早城の端から金剛山の奥深くまで繋がっていた。兵糧を運ぶ道を幕府軍に押えられてからは、盛忠とその郎党が、金剛山の山頂を越えて尾根伝いに敷いた山道とこの坑道で兵糧を運び入れていた。
そして、その盛忠が護良親王へ合力したのは、もちろん正成からの要請であった。
赤坂城の中では、楠木正季が櫓に登り、城を取り巻く幕府軍の様子を窺っていた。
そこに楠木正成も登ってくる。
「どうじゃ」
「三郎兄者か……吉野山が落ちてから、取り囲む敵の数は倍になったぞ」
「されど、それが返って幕府軍に災いをもたらすことになる」
ゆっくりと正季が振り返る。
「というと」
「奴らの兵糧を絶ってやればよい。民百姓や野伏の力を借りて、幕府軍の陣中に運ばれる兵糧を絶つ。この十万にもなろうという敵の陣容が命取りなのじゃ」
「なるほど……では、さっそく五郎兄者(正氏)と相談して、皆へ協力を触れ回ろう」
「うむ、戦に勝った暁には、この楠木党が皆の面倒みるぞと言うてやればよかろう」
正成の術策で、幕府軍へ運び入れられる兵糧は、日増しに少なくなっていった。