第39話 康歴の政変
天授四年（一三七八年）十月、山深い吉野は、色鮮やかな紅葉に包まれる。
南朝は、再び行宮に南軍の武将たちを集めた。
御簾の向こうには帝（長慶天皇）が鎮座し、束帯姿の公卿たちが殿上に居並んで座っている。対する武将たちは、小具足（篭手や脛当など）姿で、階の下で平伏していた。その中には、楠木正顕と楠木正勝の顔がある。が、いずれの表情も硬かった。
「……の言上くだんの如し。よって、汝、ただちに兵を挙げ、これをことごとく征伐せしめん」
御簾の手前で、大納言の葉室光資が綸旨を読み上げた。諸将の士気を高揚させて出陣を促すものである。全ては右大臣、北畠顕能の献策であった。
南軍は、河内の正顕と正勝、和泉の和田正武・正頼親子、大和の十市遠康、そして紀伊からは湯浅、隅田、山本の諸将や熊野庄司らの面々。諸将は、それぞれ急ぎ本領に戻り、出陣に向けて兵を集めた。
平尾城の正儀の元にも、南朝の不穏な動きは伝わっていた。
聞世（服部成次）が正儀の元に現れる。
「殿（正儀）、仁王山城の御舎弟殿（楠木正顕）より、密書にございます」
ちょうど奥の書院で、重臣の河野辺正友から南朝の動向を聞いていたところであった。さっそく正儀は密書を受け取って目を落とす。そして、困惑の表情を浮かべる。
「先日、吉野山の行宮で、諸将を集めて討幕の綸旨が発せられた。赤坂城や仁王山城でも、兵を集めざるを得ぬから承知しておいて欲しい、とのことじゃ」
「やはり、このところの行宮の動きは、討幕の兵を挙げる支度でございましたか」
正友は溜息をついた。
「ここで吉野が兵を挙げれば、畠山ら幕府の強硬派にとっては思う壺。これまで管領殿（細川頼之）には、これ以上、力で南方を制圧するのは踏み留まっていただいておった。じゃが、南方から兵を挙げたとなると戦は避けられぬ。まずは強硬派の武将どもが出て来ぬうちに、管領殿（細川頼之）と諮って、南方の動きを押さえるしかない。聞世、そなた、わしの書状を京の管領殿に届けてくれ」
「承知しました」
「又次郎（正友）は、雨山城の太郎（橋本正督）に使いを送るのじゃ。すぐに兵を集め、出陣の支度を進めておくように伝えよ」
「はっ、では、ただちに」
一気に平尾城は騒がしくなった。
正儀の知らせを受けた幕府管領の細川頼之は、紀伊守護となった同族の細川業秀に、南軍への備えを怠らぬよう下知した。
そのような中で、ついに南軍が動き出す。まずは、北畠顕能の嫡男で伊勢国守の北畠顕泰が鈴鹿まで出撃した。そして、十一月二日には、ついに和泉守、和田正武までもが和泉国で兵を挙げる。平尾城には、次々と知らせが舞い込んだ。
城の館で、正儀は河野辺正友・津熊義行と、絵地図を囲んで南軍の動きを協議していた。そこへ、猶子の津田正信が駆け込んでくる。
「兵を上げた和泉の和田党が、南へ進んでおります」
「南……そうか、和田軍の狙いは雨山城を守備する橋本党であろう。北からの和田党だけであれば、雨山に籠城すれば持ちこたえられる。じゃが、紀伊の諸将が呼応して南から攻めれば、さすがに太郎（橋本正督）も持ちこたえられん。よし、我らは北から和田軍の背後に回り込み、和田党が動けぬように牽制しよう。二郎（篠崎正久）は細川業秀殿のところに向かい、紀伊の南軍を南から牽制するように伝えよ。急げ」
「承知しました。父上」
篠崎正久は軽く頭を下げて、部屋を飛び出して行った。正儀は正久を目で追うこともせず、津熊義行に視線を向ける。
「三郎（義行）は京の管領殿（細川頼之）と摂津の右京大夫殿（細川頼元）に、それぞれ使いを送って知らせよ」
「かしこまりました」
ただちに津熊義行も正久の後を追った。
続いて正儀は、河野辺正友に顔を合わせる。
「又次郎、陣触れを出すのじゃ。用意ができ次第、すぐに出陣する」
「はっ、心得てそうろう」
そう言って、正友も席を立った。
正儀が率いる楠木軍が平尾城を発って西に向かう。そして、和泉国に入ると南に進軍した。雨山土丸城の橋本軍との間で和田軍を挟み撃ちするためである。
しかし、和泉国からは戦前のぴりぴりとした緊張が伝わってこない。南に向かう正儀は馬上で首を傾げる。
「おかしいな、和田軍の気配がない。斥候からの知らせはまだか」
雨山土丸城の近くまで来ても楠木軍は和田軍に追いつくことはなかった。
馬を停めて諸将を集めた正儀の元に、正友が斥候を
連れてくる。
「殿、物見が戻って参りました」
片ひざ付く斥候に、正儀自ら歩み寄る。
「で、和田軍はどこに布陣しておるのじゃ」
「そ、それが……すでに紀伊に入っております」
斥候は申し訳なさそうに頭を下げた。
不信な表情を浮かべた津田正信が、斥候に詰め寄る。
「なにっ、では雨山の橋本勢と戦ったのか」
「いえ、雨山の民部大輔殿（橋本正督）も、和泉橋本の橋本本家（橋本正高）も、和田軍に合流して、紀伊を南進しております。おそらく細川業秀殿を責めるべく府中に向かったものかと存じます」
一同が耳を疑う。
正信は、まさかといった表情を正儀に見せる。
「太郎兄者（橋本正督）が我らを裏切って南軍に与したというのですか」
正儀とて何が起きたのかはわからない。ただ、紀伊の方に顔を向け、茫然とするしかなかった。
雨山土丸城には橋本軍の過半が残り、正儀の楠木軍が紀伊に入らぬように牽制した。
一方、橋本正督自身は、軍勢の一部を割いて和田軍に合流し、幕府方の紀伊守護、細川業秀が拠点とする府中の守護館に進軍する。南軍には、和田・橋本の他に、神宮寺正廣、佐備正胤ら南朝方の楠木党諸将が加わっていた。さらに紀伊北部からは湯浅、隅田、山本らの諸将、さらには南紀から熊野庄司らが、正督に歩調を合わせて一斉に挙兵した。
細川業秀に正儀の言葉を伝えた篠崎正久は、そのまま守護館に留まっていた。広間で南軍侵攻の報を受けた業秀が、目の前の正久にいきり立つ。
「篠崎殿、話が違うではないか。我らは北に向かう南軍の背後から牽制するという話ではなかったか」
「も、申しわけござらん。それがしにもわからぬのです。雨山城が落ちておらぬのに、これを背にして南軍が迂闊に紀伊を責めるはずはないのですが……」
いまだ、正督の裏切りを知らない正久は、合点がいかなかった。
そこへ細川の郎党が飛び込んでくる。
「殿、わかりましたぞ。南軍には橋本軍が加わっております。いや、加わっているというよりも、布陣をみる限り、橋本軍が南軍を率いてこちらに攻め込んで来ております」
郎党の話に顔を強張らせた正久が、業秀に目を合わる。
「兵部大輔様（業秀）、こ、ここはひとまず撤退を」
「くっ……そなたには聞きたいことが山ほどあるが、とりあえず、今は急いでここを出ようぞ」
業秀は郎党に下知して、すぐさま、守護館から撤退する。すると、直後に南軍が府中の守護館を占領した。
さらに南の有田へは、蜂起した湯浅党が雪崩のごとく侵攻し、湯浅城を奪還した。
こうして正督ら南軍は、電光石火で紀伊国北部を制圧した。
十一月八日、橋本正督の寝返りの知らせは、すぐに京の室町にある花の御所にも届いた。幕府管領、細川頼之の報告に、将軍、足利義満は明らかに機嫌が悪くなる。
「武蔵守（細川頼之）、何たる失態じゃ。橋本正督の寝返りに河内守（正儀）は気づいていなかったのか」
「はっ、申し開きもございませぬ。河内守（正儀）は民部大輔（正督）を味方と信じ、南軍の和田を挟み撃ちにしようと兵を進めておりました。裏切りの気配すら、まったく気づいていなかったものと存じます」
そう言って、頼之はひれ伏すしかなかった。
「それでいかがするつもりじゃ」
「すぐさま、我が舎弟（細川頼元）と赤松兵部少輔（義則）に兵を付けて送り、南軍を征圧致します」
苦渋の表情を浮かべて、頼之が義満に応じた。
「ちと心もとなくはありますまいか」
頼之に対して胸に一物を持つ将軍近臣の伊勢照禅（貞継）は、そう言って義満の様子を窺う。細川一族（頼元、業秀）や、頼之に近い赤松義則、そして正儀の手柄にしたくなかったからである。
「そうじゃな……武蔵守（頼之）、山名に合力させよ。多いに越したことはないであろう」
「……はっ」
反論を飲み込んで、頼之は神妙に頭を下げた。
義満の命に従った頼之は、舎弟の細川頼元を大将に、赤松義則、山名義理・氏清兄弟らに、雨山土丸城へ向かうように下知した。
山名義理と氏清の兄弟は、山名時氏の次男と四男である。妾腹であるため、いずれも山名の惣領は継げなかったが、義理は美作守護、氏清は丹波守護を継いでいた。
一方、赤松義則は、この時、二十歳の若武者であった。赤松則祐の嫡男で、母は京極道誉の娘である。歳をとってからの子であったため、則祐が亡くなり、赤松の惣領を継いだ時はわずか十四歳であった。
南軍に帰参していきなり総大将となった橋本正督は、紀伊北部の幕府方を追い払って背後の憂いを無くし、天然の要害である雨山土丸城に籠城する。
一方、正儀は城から少し北の方に兵を引く。そして、幕府の大軍が到着するまで、しきりに雨山土丸城の正督に使いを送り、翻意を促した。しかし、正督は幾度も使者を追い返し、書状さえも受け取らなかった。
十一月十七日、総大将に任じられた細川頼元が率いる幕府軍は、雨山の北に陣を敷いていた正儀と合流する。紀伊に残って雨山土丸城の南に布陣する細川業秀らを加えると、幕府軍は一万余騎の大軍となった。
本陣とした近くの寺で、正儀は討伐軍の諸将を迎える。総大将の頼元が上座に腰を下ろすと、正儀は申し訳なさそうな表情を浮かべて、頭を垂れる。
「右京大夫殿（頼元）、このような仕儀となり、申し訳ない」
「それで、どうして橋本正督が南軍に寝返ったのか、その後、何かわかりましたか」
「いえ……」
正儀はゆっくりと首を横に振った。
その背後から、がちゃがちゃと具足（甲冑）を鳴らしながら、山名義理・氏清の兄弟が入ってくる。
「理由はどうあれ、裏切り者は討ち滅ぼすのみじゃ」
二人の会話に口を挟みながら、弟の氏清が、どすっと床に胡座を掻いた。
「右京大夫殿、我が山名に先陣を御申し付けくだされ。兵部大輔殿（細川業秀）は城を捨てて逃げたのじゃし、河内守殿（正儀）は寝返られては厄介じゃからな」
兄の義理も床にどかっと腰を下ろし、正儀の存在を無視して……というより、むしろ、正儀に当て擦るように言った。その正儀は、山名兄弟の挑発も気にする素振りをいっさい見せず、軽く会釈を返した。
勇む山名兄弟と、沈黙する正儀を前にして、頼元はしばらく考え込む。
「ううむ……では、先陣は山名兄弟にお任せしよう」
「はっ」
義理と氏清は、軽く頭を下げたまま、顔を見合わせて、互いに口元を緩めた。
翌日、さっそく山名兄弟は、城のある雨山の麓に兵を進め、城へと続く山道を封鎖した。
その日の夜のことである。山名義理・氏清が、雨山の麓に建つ館を接収して翌日の策を練っていたところ、突然、あたりが騒がしくなった。
兄弟の元に郎党が飛び込んでくる。
「と、殿、敵襲にございます」
「何っ、山から下りて夜襲を仕掛けてきたというのか」
義理はそう言ってぎろっと郎党に目をやった。氏清は動じることなく、すくっと立ち上がる。
「つけあがらせるな。押し返せ」
野太い声で周囲の兵らを鼓舞した氏清は、自らも薙刀を持って陣を出ていった。
橋本軍は夜の雨山を下り、山名の館に火矢を放った。
館の外で具足（甲冑）を外して休息していた山名の兵は、それぞれに脛当て、胴丸など、武具を付けようと右往左往する。
「者ども、具足など付けている暇はないぞ。矢を放て」
氏清は鬼のような形相で、薙刀を振り回して橋本の兵を討ち取っていく。兄弟の中で、父、山名時氏の豪胆さを最も引き継ぐのが、この氏清であった。
義理も兵を率いて応戦し、何とか橋本軍を撤退させる。しかし、不意を突かれた山名軍は大将の一人、山名時正が討ち取られるという大きな被害を被った。
翌日、激怒した山名兄弟は、総大将の細川頼元に軍議を迫り、細川の本陣に、赤松義則、細川業秀、そして正儀ら諸将を集めた。
「右京大夫殿（頼元）、我が方の被害は甚大じゃ。これ以上、橋本正督を付け上がらせるわけには参らぬ。ここは総掛かりを進言したい」
兄の山名義理が頼元に迫り、弟の氏清が諸将に睨みを効かせた。
眉間に皴を寄せて、頼元が正儀に顔を向ける。
「楠木殿、もはや橋本正督が我らに帰参することはあり得まい。ここは山名殿の言われる通り、雨山の麓から総掛かりで兵を送りたい。よろしいな」
正儀は言葉もなく、目を瞑り、ゆっくりと頷くしかなかった。
すぐに、正儀は楠木の陣に戻り、諸将の前で、自軍もこの総掛かりに加わらざるを得ないことを話した。
猶子の篠崎正久は、城攻めと聞いて、辛辣な表情を浮かべる。
「父上（正儀）、本当に雨山を落とすのですか。太郎兄者にも何か考えがあってのことと存じます」
「あやつにも何かの事情があろうことはわかっておる。されど、もはや致し方ない。君臣和睦、南北合一のために、ここまで耐え忍んできたのじゃ。大儀を無視することはできぬ」
正儀の決心は固かった。
翌日から、幕府軍は幾日にも続く波状の攻撃を雨山土丸城に仕掛けた。だが、南軍の守備も固い。千早城にも匹敵する堅牢な雨山土丸城からは、楠木正成張りに丸太や石が襲い掛かり、正儀ら幕府軍は迂闊には近づけなかった。
しかし、元弘の折の千早城ほどには籠城の備えが整っていなかった。雨山土丸城は、日が経つほどに城内の兵糧が枯渇していく。細川業秀ら紀伊に残った幕府軍が、南からの補給路を抑えたためでもあった。
十一月末、太陽が西の山間に隠れようとする頃であった。雨山土丸城を取り囲む正儀は、陣中に聞世（服部成次）を呼び寄せて向き合っていた。
従弟の聞世に、正儀は苦渋の表情を見せる。
「明日が総攻めと決まった。太郎（橋本正督）は持ちこたえることはできぬであろう。そなたの配下の者を雨山の太郎の元に遣わせ、今宵のうちに雨山から兵を引き上げるように伝えてくれ。わしからの最期の願いじゃと……」
「ならば、それがしが参りましょう。撤退するよう説き伏せてみます」
「そうか……たのむ、聞世」
危ない役目であった。聞世のそばに歩み寄った正儀は、その肩に手を掛け、目を見ながらゆっくりと頷いた。
夜が更けても、雨山土丸城の南軍に動きはなかった。
その麓、楠木の陣中では、猶子の篠崎正久が正儀の前をうろうろと歩き、苛立ちを見せる。
「太郎兄者（橋本正督）は、いったい何をしておる。このまま逃げないつもりなのか……父上、そのうち、夜が明けてしまいますぞ」
焦る気持ちは正儀も同じである。言葉少なに漫然と過ごす二人を、夜のしじまが包みこんだ。
未明のことである。郎党が正儀の前に駆け込んでくる。
「雨山の南軍に動きがありました。山を駆け下っているようです」
郎党の知らせに、正儀と正久は顔を見合わせ、胸を撫で下ろした。
橋本正督が率いる南軍は、夜陰に紛れて雨山土丸城から一気に駆け降りた。まるで、二十六年前の、男山からの南軍撤退を思わせる、激しいものである。
南軍は包囲が手薄な東の赤松軍を狙った。突然のことに、若い赤松義則は狼狽え、一瞬、指揮を失った兵が左右に開いてしまう。そこに正督はすかさず軍勢を集中させ、堂々と突き進んだ。正儀は形ばかり、逃げる南軍の追撃に出撃するが、南軍が逃げおおせるのを見届けると、深追いすることなく、兵を引き上げた。
雨山の北にある山名軍の本陣では、一報を受けた山名義理・氏清兄弟が、地団駄踏んで悔しがる。ほぼ、正督の首は手にしたも同然のところまで、追い込んでいたからである。
その後、正督が率いる南軍は、紀伊に入り伊勢街道から吉野方面へと撤退した。
そして、十二月二日には、討伐軍の総大将、細川頼元が、仕方なく幕府軍に撤退を命じた。活躍の場を失った山名兄弟は悔しさを滲ませながら、領国に兵を引き上げていった。
一方、南軍の居なくなった雨山土丸城は、紀伊守護の細川業秀と和泉の守護でもある正儀の両軍が入城した。
一段落したかに思えた雨山土丸城であるが、天は正儀の苦悩を解き放してはくれなかった。
十二月十三日、正儀の姿は、雨山土丸城の本丸（主郭）にあたる、雨山山頂の陣屋にあった。そこに、津熊義行が駆け込んでくる。
「殿、大変でございます。南軍が再びこの城を目指して進軍して来ております」
「何じゃと」
軍忠状に証判の袖書を認めていた正儀は、驚いて筆を止めた。
橋本正督が率いる南軍は、吉野郡の兵を糾合し、以前より数を増して雨山土丸城の奪還を目指していた。
「幕府軍が去って、わずか十日でか」
正儀は、天から次々と与えられる試練に頭を抱えた。すでに山名も赤松も、総大将の細川頼元も、この地から撤退を完了している。いま、味方と言えるのは、土丸城を守備する紀伊守護の細川業秀だけであった。
雨山と土丸山は尾根続きに一体となっており、雨山城が本丸、土丸城が三の丸となっている。その雨山城にいる正儀の楠木軍は五百、土丸城の細川業秀と合わせてもわずか千余の兵であった。
一方、雨山の南、犬鳴峠には、土ぼこりを巻き上げ、砂利を蹴散らして、南軍およそ二千騎が北進していた。
「狙うは雨山城の楠木軍じゃ」
橋本正督は、轡を並べる側近の和田判官良宗に下知をした。
驚いた良宗が顔を向ける。
「細川軍ではなく、楠木軍を討つのですか」
「そうじゃ。楠木軍を攻めれば、叔父上（正儀）は必ず戦を避けて兵を引くであろう。わしと戦をしたくないからじゃ」
その正督の隣に、和田正頼の馬が迫り上がる。和田軍は、南朝の和泉守である和田正武に代わり、跡継ぎの孫次郎正頼が指揮していた。
その正頼が怪訝な表情を浮かべる。
「されど、土丸城には細川業秀がおりますぞ。どのみち、戦は避けられぬと存ずるが……」
「土丸城の細川業秀は無視しても大丈夫じゃ。楠木軍だけ攻めれば、必ずや雨山と土丸山を回復することができる」
正督は自信ありげな表情を浮かべ、馬を急がせた。
正儀は、雨山の上から麓に続々と到着する南軍の様子を窺っていた。
物見櫓から降りてきた篠崎正久が、正儀の元に走り寄る。
「父上（正儀）、およそ二千騎というところでございましょうか」
「南軍は土丸城を無視するかのように、雨山城にだけ兵を配しておる。おそらく、我らと兵部大輔殿（細川業秀）との関係をおもんぱかってのことであろう」
「我らが窮地に落ち入っても、兵部大輔殿は救援しないということですか」
正久は苦々しい表情を浮かべて、土丸山に目をやった。
「くそっ、太郎兄者（橋本正督）はなぜ南方に戻ってしまったのか」
津田正信は土をにじるように足先を動かし、正督に対する恨み節を口にした。一緒に過ごした日々は短い。当時、父を亡くしたばかりの正信は、その原因を作った正督にわだかまりを感じていた。
対して、早くに正督の義弟となった正久は、心情を推し測る。しかし、人一倍、繊細な義兄の思いは、正久をしても検討がつかない。
「わしもそれがわからん。太郎兄者とて、頭の硬い南方の公家たちを好いている様子はなかったのに」
その言葉に、皆、苦虫を噛み潰した。
重臣の河野辺正友が、麓に続々と集まる南軍の様子を窺って、口を開く。
「殿（正儀）、南軍二千に対して我らは五百……されど、籠城すれば凌げますな」
「いや、此度は撤退しよう」
てっきり籠城すると思っていた正友は、怪訝な表情を浮かべる。
「なぜにございますか。この城ならば、援軍が来るまで十分に持ちこたえることはできましょうぞ」
「南軍は我らを取り囲んでいるうちに、きっと幕府の援軍に取り囲まれることになろう。窮地に陥るのは我らではなく、南軍のほうじゃ。しかも、この山には、我らと兵部大輔殿（細川業秀）がおる。城に逃げ込んで籠城することもできぬ。無益な戦をせず、太郎を助けるためには、先に我らが撤退するしかない」
頭の中には、兄、楠木正行の顔があった。兄の子を死なすわけにはいかない。ただそれだけである。
「南軍の狙いはこの城じゃ。我らがこの城から退却すれば、追い討ちをかけてくることもなかろう。まだ北は囲まれておらんな」
城はまた奪い返せばよい。誰も傷つけることもなく、穏便にことを収めようとするのは、いかにも正儀らしかった。
その正儀の下知で、楠木全軍は早々に北から山を下り始めた。
これに驚いたのは、雨山と尾根伝いの土丸山を守備していた細川業秀である。
「くそ、楠木め、一戦も交えずに逃げおって。このままでは我が軍はここに取り残されたままとなるぞ」
業秀も、不利を悟って全軍に撤退を命じ、土丸山を駆け降りた。
橋本正督は、悠々と、正儀の楠木軍が居なくなった雨山城へ入る。すでに土丸城の細川業秀も居ない。再び雨山土丸城は、南軍が拠るところとなった。
さらに南軍は、紀伊の北部、守護館のある府中からも幕府勢を追い払い、再び紀伊国をも手中に収めることに成功する。まさに、小軍で快進撃を続けた父、楠木正行を髣髴とさせるものであった。
吉野山の朝廷は、この正督の活躍に沸く。強硬派の公家たちは小躍りして喜んだ。
行宮の金輪王寺では、南朝の帝（長慶天皇）が公卿たちを集めていた。
帝は上機嫌で皆の前に姿を見せる。
「橋本正督はこれに免じて、幕府に投じた罪を許そう。そうじゃ右府（右大臣）、正督に紀伊守を与えてはどうであろうか」
「よき、お考えと存じます」
大納言の葉室光資は、真っ先に賛意を示した。
「橋本正督、よくやってくれるではないか。やはり帰参させてよかったのう、右府（右大臣）よ」
「御意」
喜ぶ帝に、右大臣の北畠顕能が笑みを蓄えて応じた。
それは、一年前のことであった。
橋本正督の姿は、大和国五條の学晶山栄山寺にあった。正儀に呼び出されたためである。
その八角堂で、大日如来坐像に向かって経を上げていた正督は、後ろから声を浴びせられる。
「大輔（正督）、しばらくであったな」
入口に背を向けていた正督は、その声に振り返り、絶句する。
「こっ、これは……」
そこには右大臣、北畠顕能が立っていた。
唖然とする正督を尻目に、顕能は八角堂の中へと歩き、大日如来の正面を空けて、正督に向かい合うようにして座る。
「正儀は来ぬぞ」
「なぜ、右府（右大臣）様（顕能）が……」
「呼び出したのは麿じゃ。正儀の名でも使わねば、その方と会えぬからな」
「そ、そうまでして……何用でありましょう」
絞り出すようにして正督が声を発すると、顕能がにやりと口元を緩め、八角堂の入口に目を向ける。
再び正督が、その視線の先に目を移すと、そこには大納言の葉室光資を伴った帝（長慶天皇）の姿があった。
突然のことに、正督は狼狽え、その場でひれ伏す。帝はその横を通り、上座に座ると、大日如来に手を合わせた。すると正督は、恐る恐る帝に向き直し、改めて平伏した。
帝は、右大臣の顕能に、幕府に降った橋本正督の取り込みを命じていた。湯浅党を裏切った幕府に不満を募らせているとの情報を得ていたからである。
ゆっくりと帝が身体を向ける。
「まだ、捨てずに持っておったのじゃな」
帝は正督が脇に置いた太刀に目をやる。それは、かつて帝が下賜した名刀、雲切であった。
「は、ははっ」
ばつが悪そうに、正督は目を伏せた。
すると、帝が少し、表情を和らげる。
「かつて、朕が幼きときのことじゃ。北畠准后（北畠親房）は、朕に、帝の徳について説いたことがあった。天子に徳があれば人が集って天子を助け、世が治まると言うた。しかし、多くの者が朕の元を離れた。汝の叔父、正儀に去られ、ついに汝にも去られた。それは朕の不徳の致すところであった」
後醍醐天皇の強さを求める帝から出た弱気な言葉に、正督は平伏したまま、困惑する。
「い、いえ、滅相もございませぬ」
思わず直答で応じてしまい、赤面する。しかし、帝は咎めない。
「いや、よいのじゃ。さりながら、朕には後醍醐の帝の遺勅をも背負わなければならん。辛い宿命じゃ」
どう言葉を返してよいか、まったく見当がつかず、正督は、ただ、ひれ伏すしかなかった。
「汝とて同じであろう。汝も楠木の者として、七生滅賊を背負ってきたのであろう。たとえ楠木の名に復していまいとも、楠木正成の嫡孫、楠木正行の嫡男であることに変わりはない。忠節の心は誰よりも厚かろう」
「……」
正督は、帝の言葉に無言で赤面した。
「朕は大輔（橋本正督）の助けが必要じゃ。後醍醐の帝を助けた正成がごとく、我が父帝（後村上天皇）を助けた正行が如く。正督は朕にとっての正成であり、正行なのじゃ。そなたが、その雲切を携えて、朕の元に戻ってくることを、いつまでも待っておるぞ」
「はっ……」
短い言葉で、正督は応じた。
帝が正督を引見したのは、ほんの一時のことであった。その場で顔を上げることのできない正督を残し、帝らは八角堂を後にした。
正督は激しく動揺した。湯浅党を騙し討ちした事への良心の呵責と、幕府への不審感が背景にあった。
楠木家を出奔した正督を、河内・和泉の大名として迎えてくれたのは帝である。正督には正督の忠義があった。
花の御所では将軍、足利義満が、傍らに伊勢照禅（貞継）を控えさせ、管領、細川頼之から、雨山土丸城の報告を受けていた。
雨山における幕府方の不甲斐ない戦ぶりに、義満が眉を吊り上げる。
「では、楠木（正儀）と（細川）業秀は、戦わずして雨山城と土丸城から引いたというのか。何という意気地のないことか。南軍の動きを見極めなんだ右京大夫（細川頼元）にも、そして、此度の討伐を算段したそなたにも責任がある」
「申しわけございませぬ。それがしの責任はいずれ……」
頼之は頭を下げた。盟友の正儀に続いて土丸山を放棄した一族の細川業秀は、紀伊も失い、堺浦から海路、本国の淡路まで撤退していた。頼之の面子は丸潰れである。
「管領殿、少々、楠木殿に肩入れし過ぎたのではありませぬか。楠木殿の甘い仕置きが、南軍をつけあがらせたと思いませぬか」
照禅は、正儀を通して頼之を批判していた。
むっとした表情を浮かべて、頼之は照禅に身体を向ける。
「それがしはそのようには思いませぬ。河内守殿を幕府に取り込んだからこそ、畿内のみならず、関東や九州の南軍の動揺を誘い、引いては幕府方の制圧が成ったのです。畿内においても、橋本正督の裏切りさえなければ、南主（長慶天皇）も手詰まりとなり、和睦を受け入れざるを得なかったでしょう」
「されど、その橋本正督は、楠木殿の身内でありましょう。身内の裏切りに気づかぬとは、やはり楠木殿は甘すぎる。いや、楠木殿も裏切りを画策しておったやも……」
―― ばちん ――
照禅が言い終わるのを待たず、義満が手に持った扇を音を立てて閉じた。
「もうよい、照禅。橋本正督を甘くみるべきではなかった。相手が楠木正成の嫡孫なら、余も足利尊氏の嫡孫じゃ。余が自ら出陣しようぞ」
「な、なんと。わざわざ、御所様自らが御出陣などせずとも……」
予期せぬ義満の発言に、照禅は慌てた。
「控えよ、照禅。余は武家の棟梁ぞ。祖父の尊氏、父の義詮は幾度となく戦場に立ったのじゃ。武蔵守（頼之）、出陣の用意を致せ」
「はっ。承知致しました」
頼之は、すぐに意を汲んで平伏した。頼之の薫陶を受けて育った義満は、その血筋も相まって、二十一歳にして早くも将軍の貫禄を備えるまでになっていた。
十二月二十日、足利義満は、管領の細川頼之を従え、御所を出て京の東寺に陣を張った。しかし、伊勢照禅（貞継）ら近臣たちが繰り返し説得したことで、本陣をこの東寺に留めたままで、諸将に下知することになった。
それでも、義満自らが大鎧を身に纏って出陣したことに、諸将はおおいに驚く。そして、橋本正督とはそれほどの敵なのかと気を引き締め、士気を高めた。
義満は本陣とした食堂の中に頼之を呼び寄せる。
「武蔵守（頼之）よ、雨山を捨てて敗走した楠木と業秀をそのままにしておいては他の武将への示しがつかぬ。二人から和泉と紀伊を召し上げる」
「お、お待ちください、御所様（義満）」
「ならぬ」
間髪入れず、義満は頼之を制した。和泉国へ赴くつもり満々であった義満は、出鼻をくじかれて機嫌が悪かった。
頼之に相談することなく、細川業秀からは紀伊守護を取り上げる。そして、正儀からは和泉国と摂津国住吉郡の守護職を取り上げ、河内国のみに封じた。それだけではない。
「すでに後釜を呼んである」
そう言うと、傍らの伊勢照禅（貞継）が近習に目配せした。すると、近習はいったん下がって二人の武将を連れてくる。頼之と正儀を敵視する山名義理・氏清の兄弟であった。兜や胴丸を外した小具足（篭手や脛当など）姿の二人は、義満の前に座り、両の拳を床に着いて頭を下げる。
「御所様、弾正（義理）、御召しにつき、参上つかまつりました」
「民部少輔（氏清）めにございます」
山名兄弟が口上すると、義満は二人に顔を上げさせる。
「その方ら、雨山を落とし、和泉と紀伊を平定することができたあかつきには、紀伊守護を弾正（義理）に、和泉守護を氏清に与えようぞ。しかと励め」
「はっ。ありがたき幸せにございます」
「必ずや、雨山を落としてご覧にいれます」
山名兄弟は深く頭を下げた。そして、二人は立ち上がると頼之を一瞥し、少し口元を緩めてから下がって行った。
厳しい表情を浮かべ、山名兄弟の背中を目で追う頼之に、義満が追い打ちをかける。
「武蔵守、次はそなたじゃ。これより男山に出向き陣を張るがよい」
「男山でございますか……」
頼之は言葉を失う。
将軍自らが出陣した戦において、幕府軍を差配すべき管領が本陣を出されるというのは稀有なことであった。事実は兎も角、頼之がそれだけ義満の信任を失ったと周囲は見てしまう。正督の挙兵は、正儀ばかりか、頼之の立場をも微妙なものとした。
雨山土丸城を橋本正督に明け渡した正儀は、楠木軍を率いて平尾城に戻っていた。
正儀は、館の広間に猶子の篠崎正久、家臣の河野辺正友、津熊義行ら諸将らを集めた。雨山土丸城の攻略を協議するためである。末席には天野山で討死した菱江忠元の嫡男、兵庫允の菱江庄次郎忠儀も出仕していた。
そこに、猶子の津田正信が駆け込んでくる。
「父上（正儀）、管領殿（細川頼之）より、早馬でございます」
何事かとざわつく一同の間を通り、正信は正儀に書状を差し出した。素早く書状を開いて、目を落とした正儀は、わなわなと肩を震わせる。
「わしから和泉と摂津住吉郡の守護を取り上げ、河内一国のみに封じるとの将軍の命じゃ」
悔しさを滲ませた正儀の言葉に、一同は色を成した。正久が目を吊り上げて憤る。
「何と、それはあまりにも無体な仕置きではありませぬか」
「何を持っての仕置きでしょうや。雨山から引いた事を咎めておるのでしょうか」
重臣の正友も、身体をにじり寄せるようにしてたずねた。
「これにはそのように書いてある。されど、それは表向きのことであろう。太郎（橋本正督）の裏切りで、将軍は楠木にも疑心暗鬼になったということか……」
正儀の言葉に、皆は言葉を呑み込んで沈黙した。
若い忠儀が、皆の顔を見回し、遠慮がちにたずねる。
「あの……殿（正儀）、後任の守護はどうなるのですか」
「将軍は、山名義理・氏清兄弟を橋本討伐の大将として送った。首尾よく雨山を取り戻すことができれば、紀伊は義理に、和泉は氏清とのことじゃ」
武勇を誇る山名兄弟の出陣に、正信は悔しそうに歯ぎしりする。
「くっ……いっそ、太郎兄者に加勢して、山名を討ってはどうじゃ」
「おお、それはよい。太郎殿も助けられるし、一石二鳥じゃ」
義行が相槌を打った。しかし、正儀は険しい表情で首を横に振る。
「幕府を裏切ることはいつでもできる。じゃが、我らは君臣和睦、南北合一を図るために、これまで耐え忍んできたのじゃ。太郎に加勢することで南北合一が成るのであれば、それもよかろう。されど、そうではあるまい」
そう言って正儀は口を閉じた。だが、その拳は強く握られている。一番悔しいのは正儀であることは、皆わかっている。その正儀の言葉に、異議を唱える者は居なかった。
天授五年（一三七九年）正月二十三日、山名義理・氏清兄弟が率いる幕府軍は、赤松や畠山などを糾合して二万騎となった。そして、橋本正督が籠る雨山土丸城の攻略に着手する。
兄弟は、紀伊と和泉の守護職を獲る機会だと、山陰の山名嫡流家をはじめ、一族総出の陣容であった。
対する橋本正督は、橋本本家の橋本正高、和田党の和田正頼ら、南軍諸将を雨山城の陣屋の広間に集め、軍議を開いた。
和田党を率いる正頼が、麓に集まった山名勢に頭を抱える。
「太郎殿（橋本正督）、幕府は二万の大軍。籠城の備えの無い我らが防ぎ切れるものではないぞ」
幕府軍の動きは正頼らの想定よりずっと早く、籠城の備えを行う隙はなかった。また、雨山土丸城は天然の要害ではあったが、尾根続きに雨山城と土丸城を持つその全容は、少人数で籠城するには規模が大きすぎる。雨山と土丸山に寄った南軍だけでは、四方の支丸に十分な兵を配置することはできなかった。
近臣の和田良宗も色を失う。
「殿（正督）、確かに分が悪うございます」
「兵が居らんのなら、知恵で補うしかない。雨山と土丸山の本丸を空にして、全ての兵を四方の支丸に配置しよう」
正督が突飛なことを口にした。これに正頼は、良宗と顔を見合わせていぶかしがる。
「何を言うのじゃ。そのような事をすれば、支丸の一つでも突破されれば、敵はこの本丸を占領し、我らは上からの攻めにも晒される。兵の少ない我らにとっては致命的じゃ」
「いや、本丸を奪われれば、幕府軍とは戦わぬ。支丸を一つでも突破されれば、狼煙を合図に四方の支丸は敵の囲みを突破して一目散に山を駆け下るのみ。敵が山頂の本丸に取り付く隙を付いて逃げるのじゃ。城はいったん明け渡し、時期をみて奪い返す。延々と繰り返せばよい」
無謀な策に、正頼は呆れて頭を掻く。
「本当に一か八かじゃな。じゃが、それもよかろう。ここは御大将に任せるとしよう」
正頼は苦笑いを浮かべて立ち上がり、自らの持ち場に戻っていった。諸将も腰を上げて、後に続いた。
広間に残った正督は、誰に聞かせる訳でもなく呟く。
「叔父上（正儀）、守りはこれでよろしかったですか……」
その姿を、近臣の良宗だけが静かに見守った。
ついに山名軍による城攻めが始まる。山陰の兵たちは勇猛果敢で、雨山に籠る南軍を四方から激しく責め立てた。しかし、雨山土丸城の橋本正督も、祖父の楠木正成ばりに奮戦し、これを寄せ付けない。しばらくは、両軍の攻防が繰り広げられた。
山名を主体とする幕府軍の雨山土丸城攻めが始まった翌日、平尾城に早馬が駆け込む。これに、菱江忠儀が慌てて奥の間にいた正儀に繋ぐ。
「殿（正儀）、雨山に送っていた物見が戻って参りました」
「うむ、すぐに参ろう」
館の外に出ると、すでに斥候の周りには、河野辺正友や篠崎正久、津田正信らが集まっていた。
正久が悔しそうな顔を上げる。
「父上（正儀）、雨山が落ちたとのことでございます」
「それで、太郎（橋本正督）はいかがした」
正儀は片ひざ付いた物見の兵にたずねた。正友が、息を切らせる兵に代わって答える。
「南軍の多くは幕府軍の囲いを突破して四方に逃げたそうにございます。橋本党と思しき五十人が討死し、二十人は捕えられたとのこと。太郎殿の安否はわかりませぬ」
「そうか……」
力なく正儀は応じた。
少し落ち着きを取り戻した斥候が、正友の話に続ける。
「初め、南軍は山名の攻撃をよく防いで持ちこたえておりましたが、何せ、多勢に無勢。次第に旗色は悪くなっておりました。橋本党が守る土丸城が落とされると、南軍はすぐに山を下り、山名の囲いを破って四方へ退散しました」
「おそらく、そういう時のために、逃げる算段をつけておったのであろう。太郎らしいではないか。きっと、生きておろう」
正儀は、義兄を心配する正久と正信に目を配り、皆を安心させた。
正儀が思った通り橋本正督はかろうじて落ち延びていた。だが、南軍の被害は甚大で、雨山土丸城の三の丸にあたる土丸城を守備していた者たちは、逃げる間もなく全滅していた。
雨山土丸城から四方へ散った南軍であったが、そのうち正督本軍と湯浅党は紀伊で合流し、紀伊有田の湯浅城まで撤退していた。
しかし、山名義理は、正督ら南軍を見逃さなかった。義理は将軍、足利義満から紀伊守護を約束されており、紀伊の南軍を殲滅しておきたいというのが理由である。それは、山陰の山名惣領家や、赤松・畠山などの諸将の援軍を受けている間に行っておく必要があった。
二月九日、南軍を追って紀伊の有田まで進んだ幕府軍は、湯浅城に総攻撃を仕掛けた。湯浅城は先の紀伊守護、細川業秀から湯浅一族が取り返し、敗走した正督らを迎え入れていた。幕府軍は雨山土丸城を落としたその勢いで、湯浅城からの反撃をものともせずに攻め込んだ。
湯浅城には野伏などの傭兵が多く、負けが濃厚になれば、蜘蛛の子を散らすように、逃げて行った。
近臣の和田良宗が、苦汁の表情を正督に向ける。
「殿、いかが致しますか」
「くっ……ここは、撤退するしかなかろう」
正督は湯浅一族と諮って城から撤退し、東の山合にある石垣城まで敗走した。
正督らが撤退した湯浅城に、山名義理が入城する。
「殿、この後、いかに」
「うむ、石垣城を攻めて南軍の息の根を止めてくれよう。山名は兵部大輔（細川業秀）のように甘くはないことを、思い知らせようぞ」
近臣の問いかけに、義理は不敵な笑みを返した。
翌々日には幕府軍が石垣城を攻め、南軍を追い詰める。執拗な攻撃に、正督らは石垣城も追われ、山の中へ逃げ込むしかなかった。
時を同じくして安芸国でも、幕府軍が南朝勢力の一掃を進めていた。この地に下向していた池田十郎教正も、守護の小早川春平に従って矢野城攻めに加わっていた。
そして、二月十日、安芸の幕府軍は、教正の活躍もあり、矢野城を落として南朝勢力を駆逐する。
虎口門から兵を率いて入城した小早川春平は、傍らの教正に振り返る。
「これで九州の南方が畿内に進出するのは難しくなった。南方はますます先細るばかりじゃ」
「左様でございますな」
教正は春平に応じながら、畿内の方角に目をやる。
（兄上も、それがしの活躍をきっと喜んでくださるであろう）
自分に言い聞かせるように、教正は心の中で呟いた。
しかし、その橋本正督は幕府軍に追い詰められ、窮地に陥っていた。皮肉なものである。諸国で進む南朝勢力一掃の中、将軍、足利義満が最も討伐すべき相手としたのが実の兄、正督である。
だが、実兄が幕府を裏切って南朝に帰参し、窮地に陥っていることなど、教正は知る由もなかった。
その後も教正の活躍は続く。その二十日には南朝の拠点、安芸天野城をも落し、南朝勢力を追い詰めていった。
同じく二月、幕府は北大和の南軍を征圧する。橋本正督の挙兵に合わせ、南朝の兵部大輔である十市遠康や、伊勢国守の北畠顕泰が大和国で挙兵し、勢力を拡大しようとしたためである。
これに対し幕府は、斯波義将、京極高秀、土岐頼康らを送って南軍を駆逐し、幕府の支配を回復させていた。
大和を平定した幕府軍は、勝利を祝って陣中で酒を振舞まった。陣幕の中に矢盾を敷いて、先の将軍執事であった斯波義将が、京極高秀・土岐頼康と車座に向かい合って酒を酌み交わした。
酔いが回った高秀が、勢いに任せて吐き捨てるように悪態をつく。
「管領（細川頼之）は、御所様（足利義満）から叱責を受け、花の御所に出仕していないようじゃ。いい気味よ」
そう言って、盃になみなみ注がれた酒をぐいっと飲み干した。京極道誉の三男、高秀は、道誉の跡を継いで佐々木京極家を継いでいた。その高秀が頼之を嫌うのには訳がある。息子の京極高詮を、本家筋にあたる佐々木六角家の近江守護、六角崇永（氏頼）の元へ養子に出し、近江守護を継がせていた。しかし、その崇永に晩年、実子、亀寿丸が生まれたことで、両家の関係が悪化していた。それを管領の頼之が裁定し、養子となっていた高詮を佐々木京極家に戻し、佐々木六角家の跡目を亀寿丸とした。このことで、高秀は頼之に深く恨みを抱くようになっていた。
高秀の話に土岐頼康が相槌を打つ。
「京極殿、それは当然じゃ。雨山の戦では本陣から出されて何の差配もしていない。討伐軍にも加わってもいない。何の功も挙げられなかった管領が、どの面を提げて御所に出仕できようか。わしでさえ恥ずかしくて出られんぞ」
頼康が二人の笑いを誘った。頼康もいったん手に入れた伊勢守護を、管領裁定で取り上げられたため、同じく、頼之に深い恨みを抱いていた。
突然、高秀がひざを叩く。
「そうじゃ。いっそ、斯波殿が細川頼之に取って代わって管領職になられればよい。もともと管領職は御父上の道朝殿（斯波高経）のために作られた役ではなかったか。それを斯波殿がお継ぎになっても、何の不都合もありますまい」
「京極殿、口が過ぎますぞ。それを決めるのは御所様じゃ。我らが言うことではありますまい」
義将は、その遠慮がちな口振りとは裏腹に、満足そうに盃を口に運んだ。父の道朝が失脚して召し上げられた越前・若狭の二か国を、桃井討伐の功を持って返還を求めたが、戻ってくることはなく、義将も管領として力を奮う頼之を恨んでいた。
特に斯波家は、足利尊氏の時代までは、足利を名乗ってきた分家である。この家格の高さから、義将が反頼之の頭目に担がれ、天授三年（一三七七年）六月には、越中の太田で、両軍が衝突寸前の騒ぎとなったこともあった。
真面目な表情を浮かべて高秀が頼康の盃に酒を注ぐ。
「されど、此度のことで管領は御所様の信頼を失った。とは言え、それは楠木（正儀）の献策を鵜呑みにした、腑抜けた南方への対応そのものへの批判であろう。つまり、真の怒りは楠木じゃ」
「そうじゃな、御所様は昔から管領を父のように慕っておる。この先、管領が楠木を遠ざけるようなことがあれば、御所様と管領は、元の鞘に収まるやも知れんな」
威勢を下げる高秀と頼康に、義将の顔は不機嫌な様相に変わる。
「いっそ、このまま兵を京に進め、管領を討ち取るというのはどうじゃ。鎌倉公方様（足利氏満）も我らに加勢してくれよう」
唐突に、真顔で危ういことを言う義将を、高秀と頼康が意味ありげに覗き込んだ。すると義将は口元を緩め、薄ら笑いを浮かべる。
「いやいや、戯言よ」
義将はその場を流し、手酌で盃に酒を注いだ。
その細川頼之が、将軍の足利義満によって花の御所に召し出されていた。
「御所様（義満）におかれてはご機嫌麗しゅう、恐悦にございます」
「武蔵守（頼之）、元気にしておったか」
「はい。お気遣い、ありがたく存じます」
何事もなかったかのように、義満が頼之に声をかけたことに、同座していた伊勢照禅（貞継）は一瞬、驚きの表情を浮かべた。将軍御所に侍る照禅でさえも、頼之が義満の信任を失ったと思っていたからである。しかし、二人の間には、先の将軍、足利義詮から授かった、余人には理解できない絆があった。
「此度、そちを呼んだのは、知恵を借りたいと思うたからじゃ。大和に遣わせた南軍討伐の軍勢じゃが、諸将が京に帰洛せず、土岐頼康は領国の美濃に、京極高秀は近江に戻ってしもうた。斯波義将はそのまま大軍を擁して大和に留まっておる。どういうつもりか」
義満に問われた頼之は、なるほどとゆっくりと頷く。
「鎌倉公方様（足利氏満）に不穏な動きがあるとも聞きおよびます。もしかすると、通じておるのやも知れませぬな」
「どういうことか」
「はい、斯波義将はそれがしに、鎌倉公方様は御所様に、取って代わろうということかと」
「ううむ、やはりそうか、氏満め。では、まず、義将ら三将に謹慎申し付け、氏満の出方をみるか」
「御意、よきお考えかと」
義満の考えに、頼之は畏まった。
そこに照禅が割って入る。
「御所様、いきなり謹慎とはあまりにも……。まずは三将に弁明を求められてはいかがでしょうや。それを無視するか見極めたうえで、謹慎を申し渡されては」
そう言って、照禅は頼之の顔をちらっと窺った。これには頼之が眉根を寄せる。
二人の様子に、義満はふうむと首を傾げた後、頼之に向けて口を開く。
「武蔵守（頼之）、さっそく義将らに上洛を促し、申し開きをするよう、書状を送るのじゃ」
「はっ、承知致しました」
弁明なら謹慎させてからでもできる。頼之は手緩いと思ったが、義満との間が微妙な状況では、昔のように、強く言うこともできなかった。
さっそく頼之は、斯波義将、京極高秀、土岐頼康に将軍名で書状を送る。だが、三将はこの義満の命を、管領の頼之が勝手にしたことと無視をした。いまだ頼之は、義満の不信を買っているはずと思い込んでいたからであった。
そして、二月二十七日、幕府管領の細川頼之に不満を抱いていた京極高秀が、ついに近江で挙兵する。さらに美濃で土岐頼康が兵を挙げ、鎌倉公方の足利氏満も将軍位を狙おうと兵を起こした。世に言う『康暦の政変』の始まりである。北朝側の元号、康暦に因んだ名称である。
さっそく将軍、足利義満は、高秀の挙兵に対して飛騨と出雲の守護職を取り上げた。さらに佐々木六角家を継いだ亀寿丸こと六角政頼に、高秀の追討を命じた。
義満の頼之不信を信じて拳を振り上げた高秀であったが、義満の素早い命に愕然とする。すると、急に雲ゆきも怪しくなる。鎌倉で兵を挙げた鎌倉公方の氏満は、関東管領の上杉憲春が死をもって諫めたことで、京への進軍を取りやめてしまったのでる。これによって分が悪くなった高秀は、先の関白、二条良基に仲介を頼み、義満も管領の細川頼之に相談して、しぶしぶこれを許した。しかし、これで幕府の憂いが除かれたわけではなかった。
幕府諸将の細川頼之への不満は、正儀にとって他人ごとではない。不評の一役を買っていたのは、南軍へ消極的な態度をとる正儀への批判でもあった。
四月二十二日、この日、瓜破城から平尾城に戻った正儀を待ち受けていたのは、聞世こと服部成次であった。
馬を降りる正儀に、慌てた様子で聞世が駆け寄る。
「殿、橋本左衛門尉殿が討たれました」
「何、四郎左衛門（正高）殿が……」
正儀が強張った顔で立ち尽くした。
「昨日、和泉の高名里で、山名氏清に追い込まれ、一族郎党十余名と共にお討死。首は直ぐに京に運ばれたとのこと」
橋本正高は、和田正武とともに、楠木党を支える一門衆の両翼であった。橋本党の棟梁として正儀を支えたあと、楠木正綱こと橋本正督を橋本党の内から支えた。
三月前、雨山土丸城が落城した折に、橋本党はたくさんの犠牲を出しつつも四散して山を下り、幕府軍の追撃を逃れた。しかし、南に向かった正督は、紀伊で山名義理に追討される。一方、北に逃れた正高は、和泉で山名氏清に、じわり追い詰められていたのであった。
正儀は恨めしそうに天を仰ぐ。南軍とは敵対し、幕府の中では頼之とともに諸将から敵視される。和泉の守護職を失った正儀には、かつての一門衆の重鎮すら救う術はなかった。
閏四月十三日、京極高秀が、将軍、足利義満への恭順の意を表すために、京の祇園神社の宿坊に入ると通達した。
しかし、これは高秀の策であった。翌日、高秀は軍を率いて入洛すると、斯波義将、土岐頼康ら反頼之派の諸将とともに、大軍を擁して花の御所を包囲するという暴挙に出る。
花の御所では、この予想だにしない出来事に、皆が右往左往と慌てふためいた。
将軍近臣の伊勢照禅（貞継）が足利義満の元に駆け込む。
「ご、御所様（足利義満）、斯波治部大輔（義将）らより、武蔵守殿（細川頼之）の管領罷免を求めてきております」
「何……うぐぐ、将軍を取り囲み脅すとは、前代未聞の悪行よ」
若い義満はわなわなと身体を震わせて憤った。しかし、幕臣が将軍御所を取り囲み将軍を脅すのは、これまでもあった。祖父の足利尊氏の時には執事であった高師直が、父の足利義詮の時には前執事の弟である仁木義長が、同様に将軍御所を取り囲んで要求を突き付け、将軍の威厳を傷つけていた。
照禅の前で、義満は感情を高ぶらせる。
「くっ、余は家来の脅しに屈するような将軍ではないわ。余が自ら出陣し、一戦交えようぞ」
「お、お待ちくだされ」
慌てて止めようとする照禅を振り払い、大股で廊下へ出る。まだ義満は、血の気の多い二十二歳の若者であった。
しかし、行く手を阻むように、一人の女が立ち塞がる。
「義満殿っ。一時の感情に任せて、将軍が刀を振り上げるようなことがあってはなりませぬ」
征夷大将軍にも臆することなく一喝したのは、大方禅尼（渋川幸子）であった。
「母上は、それがしの出陣を浅慮と申されますか」
肩を怒らせる義満に、禅尼が口調を戻して言い聞かす。
「将軍が刀を抜けば、もはや、収める鞘はありませぬ。相手を殺すか、殺されるかの何れかです。初代様（足利尊氏）でさえ、仲良き慧源殿（足利直義）を死に至らしめました。兵を挙げる前に、将軍がやるべきことは、相手の話も聞く事です。斯波らがここまでの行動を起こすのは、管領殿にも問題があったからではありますまいか。それを、一方的に成敗しては、新たな禍根が生まれるだけです」
「ではどうせよと言われますか」
きっと目を吊り上げる義満に、禅尼が腹案を語る。
「斯波治部大輔殿（義将）ら三人を御所に入れ、話を聞かれますように。きっと、御所様に危害を加えるようなことはありますまい。お疑いなら、この尼が、先に三人にお会いしましょう。ほほほ」
自身と対照的な大方禅尼の様子に、義満は、くっと声を発して黙り込んだ。
義満の後ろに立った照禅は、禅尼の自信ありげな顔に、この度の出来事の背景を、一人納得する。
平尾城に、早馬が駆け込んだ。
菱江忠儀が慌てて、正儀の元に参上する。
「殿（正儀）、京に潜伏していた服部十三殿から早馬が到着しました」
十三は聞世こと服部成次の嫡男、成儀のことである。この頃、父、聞世の命で透っ波を率いて京に潜伏していた。
急ぎ、正儀が庭に出ると、ちょうど、津熊義行が使いの透っ波に柄杓の水を与えて落ち着かせていた。遅れて、重臣の河野辺正友、猶子の篠崎正久・津田正信も庭に出てきた。
「何があったのじゃ」
目の前で正儀に問いかけられた使いは、その場で畏まる。
「はっ。昨日、斯波義将、京極高秀、土岐頼康が管領殿（細川頼之）の罷免を求めて室町第を取り囲みました。将軍（足利義満）はこれに屈し、管領を罷免して京からの退去を命ぜられました」
目を見開いた正儀が、使いの者に詰め寄る。
「何じゃと。で、管領殿はいかがした」
「はっ、御舎弟、右京大夫殿（細川頼元）ら一族の者たちを引き連れて即刻、京の屋敷を退去し、摂津に向かったようにございます。管領殿の去った京の細川屋敷は、諸将によってすぐさま打ち壊され、跡形もなくなってしまいました」
猶子の正久と正信も、互いの顔を見合わせて唖然とした。正儀はその場に片ひざ付いて座り、使いの者の肩を揺さぶる。
「して、管領殿はどこに向かわれるのじゃ」
「し、四国に渡るものと思われます。将軍は、管領殿へ追討の兵を差し向けることを厳しく諫めているようです。されど、将軍御所さえ取り囲んだ者たちです。諸将が追討軍を送ることも考えられ、西へと急いでいたようでございます。おそらく西宮……打出浜あたりに船を呼び寄せているのではないかと」
使いの透っ波は早口で答えた。
すると正儀は、きっと顔を上げて立ち上がる。
「そうか、ご苦労であった。ゆっくりと休むがよい」
労いの言葉を掛けた正儀は、決意を秘めた表情を浮かべて周りの者たちの顔を見まわす。
「楠木にとっては何の得にもならんことではあるが、細川殿（頼之）を見捨てるわけにはいかぬ。追手から逃がすために兵を出す。すぐに集められる者だけを集めて馬を走らすのじゃ。ただちに支度せよ。よいな」
楠木党百余騎の支度が整うと、正儀は正久・義行とともに、摂津国西宮に休みなく馬を走らせた。
閏四月十六日、幕府管領を更迭された細川頼之は、本領の四国に向かうため、摂津の船団を打出浜に集結させていた。そして、謀反の意がないことを示すため、京を落ちるに際して出家し、剃髪して法衣を纏う。出家後は、道号を桂巌、法名を常久と称した。
女こどもを含めた一族郎党およそ三百人とともに、頼之は沖合の船へ向かう小舟の到着を待っていた。
その時、一人の郎党が、血相を変えて指を差す。
「追手じゃ。追手の一軍が来たぞ」
促されて、頼之がその方向を見ると、騎馬の一軍が土煙を上げて迫っていた。
「まずい、急がせろ」
頼之は到着した小舟に女こどもから載せていく。しかし、小舟は小さく、沖合いの船に全員を乗船させるには、幾度も往復する必要があった。
舎弟の細川頼元が駆け寄る。
「兄上（頼之）、このままでは追いつかれますぞ」
「わかっておる……いや、待て……」
近づく騎馬の軍勢が旗を掲げた。
「……あの旗印は……菊水の紋様じゃ」
「まさか、楠木が我らを追討して手柄にしようと来ているのでは」
菊水と聞いて不安を募らす頼元に、頼之が安堵させるように軽く肩を叩く。
「楠木殿（正儀）はそのような男ではない。きっと、我らを無事に逃がすために、援軍として駆け付けたのであろう」
楠木の百騎は、細川頼之・頼元兄弟の手前で馬を止めた。騎馬隊の中央から正儀の馬が進み出る。そして、馬から降りて頼之の元に歩み寄った。
頼之の姿に、正儀が安堵の表情を見せる。
「ご無事でよかった」
「このような仕儀となってしまいました」
剃髪した頭に手をやり、頼之は正儀に苦笑いを返した。
伏し目がちに、正儀は無念の表情を見せる。
「南北合一まで、あと少しでございましたな。まさか、このようなことになろうとは。それがしが幕府に降った時には、想像すらできておりませなんだ」
「楠木殿、申し訳ない。そなたを幕府に引き入れたのはこのわしじゃ。それが、先に幕府を去ることになってしもうた」
「いや、最後に決めたのはそれがしでござる。誰を恨む話ではござらん」
正儀の思いやりは、頼之にも痛いほど伝わっていた。
「それがしが幕府から去れば、必然的に楠木殿への風当たりは強くなろう。楠木殿は私心を捨てて南方のために……この日本のために、よう尽くされた。されど、もうよいのではないか。この先は楠木家のために生きられよ」
頼之が正儀にかけてやることができる唯一の言葉であった。
しかし、正儀は首を横に振る。
「いや、この身がどうなろうと、君臣和睦、南北合一を実現したいと存ずる。これは、我が父との約束でしてな」
「楠木正成殿ですか。後醍醐帝の毘沙門天と言われたお方が、君臣和睦を望んでおられたのですか」
「いかにも。我が父、正成は、君臣和睦こそが後醍醐帝を御救いする唯一の道と信じていたはずです。湊川への出陣の前、父は幼いそれがしに託されたのです」
「そうですか……では、それがしには貴殿の御武運をお祈りするしかありませぬ」
申し訳なさそうな表情を浮かべた頼之が、頼元とともに深々と頭を下げた。
小舟に乗って沖の船へと漕ぎ出していく頼之・頼元の兄弟を、正儀は、見えなくなるまで見送った。大海を渡る船は、もう正儀にはなくなってしまった。
閏四月二十八日、花の御所にて、将軍、足利義満が斯波義将を新たな幕府管領に任じた。武力に屈する形で義将を管領に任ずることになったが、決して流されるままに、応じたのではない。義母、大方禅尼の薦めもあるが、義満の天性の政治感覚が決断を促した。義満は義将を矢面に立てて、武力にものを言わす強硬な諸将たちを、逆に押さえ込もうということである。
また、政変のきっかけを作った京極高秀は、飛騨守護に戻すが、再び出雲守護を許すことはなかった。
もう一人、政変に加担した土岐頼康には伊勢守護を与える。ただし、伊勢国の多くは南朝の伊勢国守、北畠顕泰の支配地であり、土岐頼康の石高は決して多くはならなかった。
その伊勢守護を密かに欲していた近臣の伊勢照禅（貞継）には、政所執事の役を与える。政所とは財政の管理と領地の訴訟などを司る役所である。しかし、大方禅尼の推挙も虚しく、伊勢を与えることはなかった。
義満の仕置きは、武力にものを言わせた諸将に対し、一見、希望を叶えたように見せ掛け、厳しい現実も与える巧妙なものであった。
この後も、義満は賞罰をうまく利用して諸将の人心を捕えていく。頼之が義満のために残した、為政者のための処世術であった。
この年の夏、南朝でも大きな動きがある。
宗良親王の努力も空しく、帝（長慶天皇）と、東宮（皇太弟）である熙成親王を支える両派の対立は、日増しに悪化していた。両者の仲を取り持っていた宗良親王が、信濃宮の名の謂れである信濃に帰った事が大きかった。
ついに帝は、右大臣、北畠顕能の助言を受け、熙成親王と袂を分かつ。熙成親王を吉野山に残したまま、三種の神器を奉じて、学晶山栄山寺に行宮を移した。栄山寺は金剛山と賀名生の中間地である大和国五條にある。寺の歴史は古く、藤原南家の初代、藤原武智麻呂が建立した名刹であった。
右大臣の顕能は、行宮を河内・和泉・紀伊にも近いこの寺に移すことによって、南軍を鼓舞し、再び雨山土丸城の奪回を狙っていた。
帝は新しい行宮に入ると、さっそく吉野山に残した熙成親王の東宮（皇太弟）を一方的に廃し、帝（長慶天皇）の第二皇子である憲明親王を東宮（皇太子）とする。そして、北畠顕能を東宮を養育する東宮傅に任じた。
しかし、吉野山に残った南朝の公卿たちはこれを認めず、今まで通り熙成親王を東宮として奉じる。このことで、帝と熙成親王、両派の関係は修復不可能な状況となってしまうのであった。
