第 2 話 院の庄
元弘二年(一三三二年)、咲き誇る紅梅が金剛山に彩りを添える頃、虎夜刃丸は、母、久子に手を引かれ、千早に入る。叔父の美木多正氏が先導した一行は、女こどもだけでも総勢二百を超える大所帯であった。
足下の悪い山道から解放され、やっと平地へ抜け出た虎夜刃丸は、母の手を握ったまま周囲を見渡す。目の前には山頂に白いものを残した金剛山が迫る。そこから吹き下ろす冬の名残に、虎夜刃丸は思わず身を縮めた。
千早は、その金剛山から西へ延びた支脈の先端。四方を深い谷に囲まれた天然の要害である。三方は川が流れる谷で、一方は谷向かいに金剛山へと支脈が続いていた。
「これ、虎夜刃丸、どこへ行くのです」
久子の手を振りほどいた虎夜刃丸が、きゃっきゃっと声をあげ、同じ年の従弟、明王丸と駆け出す。しかし、数えでまだ三歳。跡を追い駆けた多聞丸に、すぐに捕まった。
気が抜けない久子に、正氏が笑いながら振り返る。
「三月前から兄者と七郎が男ども指図して、木を切り倒し、幾つかの平地を造っております。銭で広くから人足を集めることができればよいのじゃが、幕府に見つからぬよう事を進めなければなりませぬ。何と言うても信頼できるのは一族郎党とその家族。義姉上、よろしくお願い申します」
にっこりと口角を上げて久子が頷く。
「わかっておりますよ。ねえ」
今更と言わんばかりに、隣の良子や澄子にも目配せし、微笑みを誘った。
赤子の倫子を抱いた良子が、いたずらっぽく正氏の顔を覗き込む。
「義姉上様、我が旦那様は、義姉上様を相当気遣っておいでのようで。私にもいつもあのように気遣いいただきたいものです」
「な、何を言う」
その焦った声は、女たちにとって格好の気慰みとなる。耳まで赤くした正氏を、ころころと笑いで囲んだ。
笑い焚き付けた良子が、今度は真顔を見せる。
「して、旦那様。千早をこれからどのように。当面我らは何をすればよいのですか」
「うむ、山を削り、石垣を積み、塀を造って櫓を建てる。平地には陣屋も造り、兵庫も建てる。なあに、力仕事は男衆がやるが、女衆も縄から矢までいろんなものを作ってもらわねばならん」
「殿方たちの朝食夕食もですね」
戯言の余韻に頬を緩めたまま、義妹の澄子が口を挟んだ。
「あはは、そうじゃな。腹が減っては戦はできぬからのう。それで思い出した。此度の戦も持久戦。兵糧も自給自足で調達せねばならん……」
そう言って、正氏は周囲に目をやる。
「……そこで、義姉上。城のあちらこちらで食える物をたくさん育てる必要があります。腹持ちのよい芋をたくさん植えようと思いまする」
「そうですね、枯れた土地ではありませんから、どんなものでもよく育つでしょう。粟、稗、蕎麦などの雑穀。豆は狭い土地でもよく育ちます。植えられるところは全て植えていきましょう」
あたりを見回す久子の目には、早くも、揺れる雑穀の稲穂と、青々と育った蔓豆が映っていた。
母の手を離れた虎夜刃丸は、興味津々に砦の中を見て回る兄や従兄弟らを追いかける。しかし、持王丸と満仁王丸は自分の興味が最優先。野兎を見つけると、さっさと二人して駆けていく。もっぱら、幼い虎夜刃丸と明王丸の面倒をみるのは年嵩の多聞丸であった。
虎夜刃丸はどこかのんびりしたところがあり、よく皆から置いてきぼりを喰らった。しかし、一人になっても泣くでもなく、気にする風もない。そういう子であった。
楠木正成は、千早に着いたばかりの美木多正氏を、仮造りの陣屋の中へ呼び寄せた。小屋といった佇まいのそれは、人の顔ほどの小さな窓しかなく、中は薄暗い。
外の明るさに慣れた正氏は、目を細めて中を見渡す。そこには楠木正季と、頭巾を被った小波多座の竹生大夫こと服部元成が待っていた。
腰を降ろす正氏に、元成が苦り切った顔を向ける。
「京に放った一座の者の知らせでは、幕府は、帝をどこかに御流しすることを決めたそうです」
「ど、どこに御流しするのじゃ」
「それはまだわからん」
驚く正氏に向け、正季が憮然とした顔で首を横に振った。
過去には、恵美押勝の乱で淳仁天皇が淡路に、保元の乱で崇徳上皇が讃岐に、そして、承久の乱では後鳥羽上皇が隠岐の島、順徳上皇が佐渡に流された先例があった。
「何とおいたわしい事か……兄者、何とかならぬか」
「うむ、治郎(元成)に行ってもらうことにした」
淡々と答える正成に、正氏が怪訝な表情を返す。
「治郎は兵を持たぬ。どうやって奪い返すのじゃ」
「五郎(正氏)よ、奪い返すのではない。今は時がくるまで、帝を御見守りするだけじゃ。流刑地までの道中、仔細を報告してもらう。人に紛れて帝の一行に付き従うには、治郎のような旅の一座の方がよい」
「では、御救いせぬのか」
「もちろん御救いする。されど、それはしばらく先の話じゃ。それまでは、恐れ多きことなれど、御辛抱いただく。いずれ幕府を倒してから京へお戻しする。それには、この千早での戦が重要なのじゃ」
深謀遠慮な兄の言葉に、正氏は拳をぎゅっと握り、逸る気持ちを腹の中にしまった。
三月七日、御輿を担いだ武士の一行が京を発ち、西国に向かった。行列の中央は先帝(後醍醐天皇)の御輿である。
鎌倉幕府は、討幕を企てた先帝の扱いに窮し、承久の乱の後鳥羽上皇の先例に習って隠岐の島へ流謫することとした。随行の公家は千種忠顕と一条行房のわずか二人。それに、三人の女御が同行していた。
幕府は先帝の護送を、隠岐守護、佐々木清高の遠縁である佐々木京極家の佐々木高氏に命じた。奇しくも足利高氏と同じ諱である。ただし、佐々木高氏はすでに出家しており、道誉という法名があったため、人々からは佐々木道誉と呼ばれていた。
頭こそ剃髪しているが、目鼻立ちの整った端正な顔立。赤い直垂に、金糸を縫い込んだ戦羽織という出で立ちの通り、万事派手好みの男である。
世間では婆娑羅という言葉が流行っている。伝統や形式から逸脱し、人目を引く派手な格好で、身分の上下に遠慮せず、好き勝手に振舞う者たちを指した。道誉はまさに、この婆娑羅であった。
気分よく馬上で揺られる佐々木道誉の元に、郎党が駆け付ける。
「殿、千種殿より、先帝が暖を所望とのこと。いかが致しましょう」
確かに、桜が咲こうとする季節に似つかわしくない底冷えする天候である。郎党はおずおずと、馬上の主を見上げた。
道誉が口を開く前に、隣に馬を寄せた重臣、吉田秀長が、むっとした表情を見せる。
「いかに先の帝とはいえ、ここは島流しの道中。丁重にお断りするのがよいかと存じます」
しかし、薄ら笑いを浮かべ、道誉が首を横に振る。
「いや、ならんぞ。すぐに近くの民家をあたり、輿に入るような小さな火鉢を探して参れ。ここで我らは、できるだけ先帝に恩を売るのじゃ。この道誉が、いかに先帝のことを大事に思うておるか、おおいに吹聴するのじゃ」
「殿、帝とはいえ、それはこれまでの話。いま、輿にお乗りになる御方に、どれだけの値打ちがありましょうや」
日頃から主君の奇行にうんざり気味の秀長は、怪訝な表情を返した。
「値打ちのなきものに値を付けるのが婆娑羅の真骨頂よ。いずれ今日のことは、大いにわしを助けてくれるであろうよ」
「どうも殿のお考えはわかりませぬ」
「あははは。よいよい、わからぬでもよい。まずは火鉢じゃ。その方は早う探して参れ」
主の高笑いに、秀長は首をひねり、郎党は考える暇もなく火鉢を探しに走った。
しばらくして、佐々木道誉が小ぶりな火鉢をひとつ抱え、先帝の側近、千種忠顕の元に歩み寄る。
「千種殿、この佐々木道誉が、御上のために火鉢をお持ちしましたぞ」
わざとらしい大きな声は、輿の中に聞かせるためである。
「これは道誉殿、かたじけない。輿の中ではお身体を動かすことも、ままならないですからな」
ひとまず願いが叶った忠顕が、頬をほころばせて礼を返した。
流刑地へ従うこの忠顕は、権中納言、六条有忠の次男である。この時、二十歳を越えたばかり。学問よりも笠懸や犬追物を好み、淫蕩・博打にかまけたため、父から絶縁されていた。そこで、六条の名字を捨て、千種を名乗って先帝に近づき、討幕の計画に加わっていた。
この度の随行は、父、有忠の推挙で決まった。要は、騒乱に加担した不肖な息子を、京から遠ざけたいというのが真相である。
「廉子様ら女御の方々の火鉢も用意致しておりまするぞ」
入道頭の後ろには、火鉢を抱えた三人の郎党が控えていた。
「何と気の利く御仁じゃ。此度の廉子様の同行も、道誉殿に骨を折っていただいたからであったのう。御上も大そうお喜びじゃ」
「は、ありがたき幸せ」
調子よく、道誉は側近にも愛想を振りまいた。
廉子とは先帝の愛妾、阿野廉子のことである。元は、先帝の中宮(皇后)である西園寺禧子の侍女として内裏に入ったが、その美貌と才気を先帝に気に入られ、愛妾として寵愛を一身に受けていた。
忠顕は道誉から受け取った火鉢を、輿止めに止めた先帝の輿の中に差し入れる。そして、その輿に向かって何やら話を終えた忠顕が、道誉を手で招いた。
「はっ、ただちに」
すぐさま、道誉は先帝の輿の前に駆け寄り、ひざまづいた。
「御上自らが道誉殿に礼を申されたいとのことじゃ。御上が直接言葉をかけられるなど、宮中ではあり得ぬこと。じゃが、此度は、どうしても礼を言いたいと仰せじゃ」
恩着せがましく忠顕は言った。この男はこの男で、道誉を利用しようとしていた。
「は、ありがたき幸せ」
わざとらしく道誉は同じ言葉を返した。
輿の中から先帝の声が響く。
「佐々木判官、朕はそこもとの忠節を忘れぬぞ。これから先の道中もよしなに頼む」
言い終わると、輿の横に付いている御簾を自ら手繰り、顔を見せて微笑んだ。
切れ長の鋭い目に、堂々とした口髭と長い顎髭を蓄えていた。壮年と呼べる歳を過ぎ、配流の途上にあるというのに、いささかも憔悴した風はなく、顔からは鋭気が放たれていた。
道誉はその気勢に一瞬、搦め取られるも、振り払うように、大げさに両手を上に付きだしてから、ゆっくり地面につけて平伏する。
「はは、ありがたき幸せに存じ奉ります」
わざとらしい三度目の『ありがたき……』である。だが、先帝は、微笑ましそうに目を細めた。
金剛山でも、桜のつぼみがほころびはじめる。その支脈、千早の城は、徐々にその全貌を現そうとしていた。
縄張で囲まれた巨大な郭の中には、四つの広い平地が造られ、斜面の至るところに、ところ狭しと畑が設けられた。
女たちは草鞋や縄を編むだけでなく、兵らに混じって土を運び、塀造りも手伝った。こどもたちは畑を耕し、芋や雑穀の種を蒔いた。
久子も多聞丸・持王丸と一緒に畑を耕した。
懸命に鍬をもって土を耕す持王丸に、ふと手を止めた久子が顔を向ける。
「虎夜刃丸はどこに行きましたか」
「え、今、ここで種を触っておったが……」
持王丸は腰を伸ばし、きょろきょろとあたりを見回す。
「……母上、虎を探して参ります」
世話を言い付けられていた持王丸は、ばつがわるそうな顔して、慌てて探しに走った。
千早には伝手を頼ってさまざまな者が入り込んでいた。それは、必ずしも楠木に好意を持つ者ばかりではない。怪しげな二人の野伏が、他の者から隠れるようにして人足小屋の陰で話し込んでいた。
背の低い男が目を据えて、背の高い方に問いただす。
「おい、絵図面の方はどうじゃ」
「まあ、だいたいのところは、だな」
背の高い男は、頭を掻きながら、のほほんと応じた。
「だいたいでは駄目じゃ。四方の川や谷など地形を書き込んでおくのじゃ。城内の人数、弓矢の数、それに水や兵糧のことなど、できるだけ詳細に調べておかなければ金にはならんぞ」
「ううん、ああ、判った」
背の低い偉そうな態度の男は平三郎といい、背の高い、少し間の抜けた方が太一郎といった。会話から互いの力関係は明確である。二人の野伏は千早の詳細を調べて幕府方に持ち込み、金にしようとしていた。
「それにしても、いろんな仕掛けを作ろうとしているようじゃが。これがどのように使われるのか、見たいものよのう」
呑気な太一郎は、いつも、平三郎の神経を逆撫でする。
「何をたわけた事を。それを見るということは、それまでここに残るということじゃぞ。お前は奴らと一緒に死にたいのか。こんな山城で大軍を擁する幕府に立ち向かおうとするなど、正気の沙汰ではないわ。どうせ、落城するのじゃ。さっさと城を出て金にするぞ」
「ああ、そうじゃな。されど……見たかったな……ううわっ、な、何じゃ」
視線を落とした太一郎が、素っ頓狂な声を上げる。いつの間にか虎夜刃丸が、足元から見上げていた。
「こんなところに童が……いったい、いつから……わ、我らの話を聞かれてしもうたか」
おろおろと狼狽える太一郎に、平三郎が呆れる。
「お主、この子が幾つに見える」
「うーん、二つ、いや三つか……」
虎夜刃丸は数えで三歳になったばかり。太一郎は質問の意図がわからずきょとんとする。それが、また、平三郎の癇に障る。
「三つの子に、我らの話がわかるはずがなかろう。まだ言葉だって喋れん。こんな子に聞かれても、困るはずはない。放っておけ」
「ああ、そうか……」
たしなめられた太一郎は、身ぶりも交えて胸を撫で下ろす。
そして、二人は虎夜刃丸を残して、どこかに立ち去ってしまった。
虎夜刃丸は、二人が去った方角にひょこひょこと歩いていたところで、後ろから声をかけられる。
「おい、虎。よかった……やっと見つけた……」
持王丸が駆け寄り、へなへなとその場に座り込んだ。
先帝(後醍醐天皇)を護送する佐々木道誉の一行は、出雲街道を通り杉坂峠を越えて播磨国から美作国に入った。
一行を陰から見守るべく、楠木正成の命を受けた服部元成が、小波多座を率い、つかず離れずに従う。このときは、美作の守護館がある院庄に先回りするべく急いでいた。
元成は伊賀国小波多で猿楽の一座を構えている。だが、大和の猿楽師に比べると実入りは少なく、座を率いて興行の旅に出ることも多かった。
一行には服部元成の妻、楠木晶子の姿もあった。正成ら兄弟の末妹である。
「三郎兄上(正成)の人使いの荒いこと。貴方様は楠木党の者ではありませんのに」
色白の頬を膨らませ、晶子が愚痴をこぼした。
正成や正季と同様に、整った目鼻立ちの器量よし。前妻に先立たれた元成と互いに惹かれ合った晶子は、縁談を断り、兄たちの反対を押し切って、小波多に出奔して夫婦になっていた。
「まあ、そう言うな。義兄上がわしに仕事を申し付けるのは、わしを親族と思うてくれておるからであろう。そなたと夫婦になった事を赦してくれたのじゃから、少しは恩に酬いなければ」
「危ないことには首を突っ込まぬよう、お願いしますよ」
仏頂面の晶子に、元成は目を逸らして苦笑いした。
「貴方様、あれは……」
晶子が何かに気づいた。そこには、数十人の武士が街道を塞いでいた。臨時の関所かと一行に緊張が走る。元成は、素知らぬ素振りで通り抜けるようにと一座の者たちに命じて足を進めた。
すると、その武者たちは関心を示すことなく道を空ける。
「お前たちに用はない。早々に立ち去れ」
首領と思しき武者の声に、一行は頭を低くして、そそくさと前を通り過ぎる。
(この男、どこかで……)
記憶をたどった元成が、はっと顔を上げて振り返る。
「児島様とお見受け致します。このようなところで何を……」
これに、男はぎょっと元成を睨んだ。
「そ、その方は何者。なぜ、わしの名を知っておる」
「私は伊賀の猿楽師、小波多座の竹生大夫と申す者。そしてこれらは一座の者でございます」
そう言いながら、荷車の周りの者たちを手で示した。
「怪しき者ではありませぬ……と言うても、いかにも見た目怪しき異形の輩でございますが。ははは」
これに対し、怪訝な顔でゆっくり刀の柄に手をかける男の様に、元成は慌てる。
「お、お待ちあれ、私めが児島様を存じ上げていたのは、笠置山でお見かけしたからでございます。そして私どもがここに居るのは、我が義兄、楠木正成の命でございます」
「な、何と」
息を呑んだ男の名は児島三郎高徳。備前国の国人である。先帝から討幕の綸旨を受け、笠置山にも参じていた。
その後、備前に戻り、挙兵をしようと兵を集めた。しかし、早々に笠置山が落ちてしまったため、討幕は諦めざるを得なくなっていた。
「命ということは、楠木殿は生きている……という事か。そういえば、そなた、楠木殿を義兄と呼んだな。いかなる仔細か」
「そこに控えし女は我が妻で、楠木正成が妹にございます」
「晶子と申します。我が兄、正成は死んではおりませぬ……」
そう言って、愛嬌のある笑みを高徳に見せる。
「……我が夫に、配流の道程を陰から御見守り奉るよう、命じましてございます」
「なるほど……あの楠木殿のことならば、さもあらん」
納得の表情を見せる高徳に、元成はそろり疑問をぶつける。
「ところで、児島様はここで何を……まさか、佐々木道誉の軍勢を襲って、帝を奪還しようとされておられるのか」
「いかにも。諸将を集めて船坂峠で御救い申し上げようとしたが、帝の行幸は杉坂峠に向こうてしもうた。他の諸将はそこで諦めたが、それがしだけでもと思い、郎党を率いてここに先回りしたのじゃ」
高徳は口元を引き締め、元成に決意を打ち明けた。
「正成は再起を図り、挙兵するつもりです。児島殿にも、ぜひそのときに立ち上がっていただきとう存じます。帝はその折に必ず御救い申し上げます。ですから、今は無理をなさらず、時を待っていただけませぬか」
どこまで信じてよいものか、ひとり、高徳は難しい表情を浮かべて思案する。しかし、元成の必死の説得に、最後は仕方がないという顔をして、気負いを解いた。
それでも、後ろ髪を引かれるように街道の先に目を向ける高徳に、晶子が提案する。
「児島様、帝を御救いすることは難しくとも、帝に児島様の思いをお伝えすることはできるやも知れませぬ。さすれば、きっと、帝も希望を持たれることでしょう。我らと一緒に院庄に参りませぬか」
「何、それができると申すか」
訝しがる高徳に、晶子はゆっくりと頷いた。
結果、高徳は郎党たちを帰し、元成の一座とともに院庄に向かった。
千早では虎夜刃丸が、持王丸によって畑に連れ戻されていた。先の件に懲りて、今度は虎夜刃丸を近くに座らせ、たびたび目を配った。
長兄の多聞丸が耕した畑に、次兄の持王丸が茄子の種を撒く。その都度、虎夜刃丸はその手を引っ張り、覚えたての言葉を投げかける。
「あにじゃ、あにじゃ……」
「何じゃ虎。手を離してくれねば、種蒔きができぬではないか」
その手を振り払うが、そのたびに虎夜刃丸は手を引いた。
「持王丸、どうしたのじゃ」
多聞丸が腰を伸ばし、憮然とした表情の持王丸に声をかけた。すると、虎夜刃丸は多聞丸の元に駆け寄り、同じように手を引く。
「あにじゃ、あにじゃ……」
多聞丸は、いったん虎夜刃丸に目を落してから持王丸へと顔を戻す。
「持王丸、いったい、何じゃ」
「ああ、さっきからずっとこの調子じゃ」
「むうぅ、虎夜刃丸は、わしらをどこかに連れて行こうとしておるのか……何かあるのかも知れんぞ。行ってみるか」
虎夜刃丸に手を引っぱられ、後について歩きはじめた。
「兄者、本当に行くのか……」
ぶつぶつ言いながら持王丸も跡を追った。
虎夜刃丸は二人の兄を工事場へと引っ張る。そこでは、横に寝かせて造った巨大な櫓に、綱をかけて引き起こす作業が行われていた。
男たちが額に汗を浮かべて綱を引く。
「それ、引け」
「やれ、引け」
作業に加わらず、適当に、後ろの方から掛け声だけを張り上げる者がいた。野伏の平三郎と太一郎である。
その二人を虎夜刃丸が指差す。
「ん、ん……」
「あの者どもに何かあるのか」
持王丸が問いかけた。だが、虎夜刃丸はせいぜい言葉を二十ほど覚えたところ。兄たちの問いに答えることはできない。
「母上は、虎は人の心がわかる子と言うておった。何かあるのかも知れん。少し様子をみてやるか」
そう言うと、多聞丸は虎夜刃丸を背負い、平三郎と太一郎の死角から近づき、物陰に隠れた。持王丸も神妙な顔で跡を追い、身を屈めた。
しばらくして、平三郎と太一郎はそっと作業場を抜け、兵糧を収めた仮倉の中に入る。
多聞丸も弟たちを伴って仮倉に近づき、外から聞き耳を立てた。
「……決行は今晩じゃ。今夜は満月。月あかりだけでも山道を下ることは可能じゃぞ」
ぼそぼそと低い声が聞こえた。
「ああ、判った。それで、どこに行くのじゃ」
「夜の間にこの山を抜け、明けたら河内の守護館に駆け込む。この城の絵図面を忘れるでないぞ。きっと高く売れる」
「ああ、任せてくれ」
小屋の中の会話に、兄たちは目を見開き、互いに顔を見合わせた。
蚊が囁くような声で多聞丸が持王丸に耳打ちする。
「父上たちを呼んでくるのじゃ。わしは、この者たちが逃げぬように見張っておく」
持王丸は無言で頷くと、すぐに走った。
虎夜刃丸が、持王丸の後姿を見送る多聞丸の手を引く。
「あにじゃ、あにじゃ……」
「と、虎……」
慌てて虎夜刃丸の口を手で塞ぐ。気づかれたかと、聞き耳を立てるが、小屋の中からは男の声が続いていた。特に慌てた風はない。
(よし、気づかれていない)
胸を撫で下ろすが、ふと顔を上げると平三郎が見下ろしている。
「お前たち、ここで何をしておる。話を聞いておったのか」
目を吊り上げた平三郎が多聞丸に迫った。太一郎に独り言を喋らせたままで、そっと倉を抜け出し、裏手から廻り込んでいたのだ。続いて太一郎も仮倉から出てくる。そして、虎夜刃丸に目を落す。
「ん、この童は先ほどの子じゃ。平三郎、やっぱり、この童に聞かれていたのじゃ。だから、歳上の子を連れて戻ってきた」
どうだと言わんばかりに太一郎は胸を張った。
「今はそのような事を言うておる場合ではない。早くこの子らを始末せねば、我らが殺されるぞ。早く捕まえるのじゃ」
平三郎は太一郎の言葉を軽くいなしてどやしつけた。太一郎は話を無視されて憮然とするが、気を取り直して両手を広げ、虎夜刃丸らのゆく手を阻んだ。
「そう、易々と捕まるものか」
まだ数えて十歳の多聞丸だが、そこは楠木家の嫡男。武芸の心得はある。腰に結び付けていた短刀を抜くと、二人の大人に立ち向かった。
しかし、平三郎と太一郎は、にやにや笑いながら迫る。前後を挟まれた多聞丸は、間合いを詰められる前に、横に飛び出そうと虎夜刃丸の手を引いた。だが、三歳の虎夜刃丸では多聞丸の早さに着いていけない。
「おっと」
太一郎が、横に飛び出そうとした多聞丸のさらに先へと回り込んだ。虎夜刃丸を連れて、この場を切り抜けるのは不可能であった。万事休すと思われたその時である。
―― どさっ ――
突如、目の前に立ちはだかった男に腹を殴られた太一郎が、前のめりに倒れ込んだ。
「もう大丈夫じゃ。話は持王丸から聞いた。この者たちはわしに任せよ」
叔父の美木多五郎正氏であった。続けて、強張った表情で、ゆっくりと後退りする平三郎に目をやる。
「何処へ行くつもりじゃ」
「あ、え、あの、その」
あたふたと意味のない言葉を口にしながら、平三郎が逃げようと背を向けた時、正氏が素早く走って首筋に手刀を当てる。すると、平三郎は気を失い、その場に崩れ落ちた。
ふうと息を吐き、多聞丸もその場に座り込む。
「あにじゃ、あにじゃ……」
何事もなかったかのように、虎夜刃丸は無邪気に多聞丸に纏わりついた。
「虎夜刃丸、大手柄じゃ」
正氏がその大きな掌で、ぐしゃっと掴むように頭を撫でる。虎夜刃丸は褒められたことがわかると、にっこりと笑みを返した。
遅れて、持王丸が息を切らして駆けつける。
「はぁ、はぁ……間に合うたのじゃな……良かった……で、五郎叔父、この者らはどうなるのじゃ」
「うむ、お前らは知らなくてよいことじゃ」
正氏は急に無表情となって言葉を返した。その態度に多聞丸は気絶した二人に目をやる。
「切るのか……そこまでせずとも……」
「多聞丸よ、非情と恩情、両方持ち合わせておらねば、楠木の棟梁にはなれんぞ」
叔父の重い言葉に、多聞丸は黙り込んだ。
先帝(後醍醐天皇)を護送する佐々木道誉の行列が、美作国院庄の守護館に入る。
一方、児島高徳と服部元成の一行は、先に院庄に入り、先帝に会おうと機会を窺っていた。
楠木正成が生きて再挙を果たそうとしていること、諸国の反幕府の諸将が立ち上がろうとしていることを知らせたいと考えていた。
近くの林の中に身を潜めた高徳は、その後ろで身を屈める元成とその妻、楠木晶子に表情を硬くして振り返る。
「さすがに厳重な警護じゃ。館はおろか、塀にも近づけぬ」
「確かにこれでは近付けませぬ。夜まで待たれたらいかがでしょう」
晶子の提案で、男二人がその場に残り、機会を窺うこととした。
夜半となっても、守護館を囲う松明が途切れることはなかった。服部元成と児島高徳は、うつらうつらしながら明け方近くまで機会を待った。
そして、やっと塀の外が手薄となった頃、そろりと二人で守護館を囲う塀の脇まで近付く。しかし、その内側では、未だ篝火が明々と燃え、見張りも隙間なく立っている。館を目と鼻の先にして、結局、塀の脇で身を小さくするほかなかった。
「児島殿、これでは手も足も出せませぬ。ましてや、主上(後醍醐天皇)がどこにおるのかさえも……」
この状況に歯ぎしりする高徳だが、ふと思い直す。
「竹生大夫殿(元成)、筆と墨をお借りしたい」
「筆でございますか……」
不思議そうな表情を浮かべ、元成は腰袋の矢立(携帯用の筆と墨壺)を差し出した。高徳は筆を手にすると、近くの桜の木に歩み寄る。そして、短刀を抜いて桜の幹を削り、白い木地に筆を走らせる。文字を記し終わると、桜の幹に両手を合わせた。
その背中越しに、元成が覗き込む。
「児島殿、これはいったい……」
「海の向こうの中国の故事じゃ。これが帝の目に入れば、我らの思いはきっと伝わるはずじゃ。この警護では、これが精一杯……」
「児島殿、きっと、我らの思いは届くことでしょう。さ、警備の兵に見つからぬうちに参りましょう」
元成は高徳を急かし、その場を立ち去った。
翌朝、先帝(後醍醐天皇)に随行する千種忠顕が、朝の爽気に当たろうと守護館の縁側に出る。塀の外から館を囲う桜の木々が、淡い鴇色の花弁を、窮屈なほどに纏っていた。
「ほおう、見事じゃな。おや、あれは……」
中でも、ひと際見事な花を咲かせる一本の桜の下から、塀越しに、男たちの声が聞こえる。
―― いったい何をしておったのじゃ ――
佐々木京極家の重臣、吉田秀長の声であった。
兵たちが桜を愛でているのかと思ったが、何やら叱責のようである。忠顕は何事かと耳を傾けていると、後ろに人の気配を感じた。
「天勾践を空しゅうする莫れ、時に茫蠡、無きにしも非ず」
声は男らの主人である佐々木道誉であった。
「これは判官殿。今、何と」
「あの桜の幹にそのような漢詩が記してあったのです」
「桜の幹に……それは誰の仕業でございますか」
これに道誉は両の掌を見せて、首をすくめる。
「さあ、それがわかればあの者どもも騒いでおりませぬ。どうも昨夜のうちに記されたようです」
「では、この厳重な警護の中、この館まで来た輩がおると言われるか」
「まあ、そういうことでございましょう。わしは見ておりませぬから何ともいえませぬが」
警護の責任者は道誉である。だが、まるで他人事であった。
「して、漢詩の意味は」
「千種様のような宮仕えの方にわからぬものを、鎌倉武士がわかろうはずもありませぬ。されど、御上なら御存知かも知れませぬな。きっと退屈されておられるでしょうからお話くだされ」
そう言うと、漢詩をゆっくりと繰り返し、にやにやと愉しそうにその場を立ち去った。
怪訝な面持ちでその背を見送った千種忠顕は、先帝の元に参じ、平伏して朝の挨拶を行う。
「御上におかれましては健やかにお目覚めのご様子、恐悦に存じます」
「うむ。さて、忠顕、何やら外が騒がしかったようじゃが」
「はっ。佐々木判官の郎党どもが、何やら桜の木の幹に記された漢詩を見つけて騒いでいた由。どうやら昨夜のうちに忍んできた者の仕業ではないかと」
否が上にも興味をそそられ、先帝が身を乗り出す。
「どのような詩が記してあったのじゃ」
「確か……『天勾践を空しゅうする莫れ……時に茫蠡、無きにしも非ず)』と」
忠顕は、道誉から聞いた漢詩を思い出しながら口ずさんだ。すると、先帝が微笑む。
「そうか、天はまだ朕を見捨ててはおらぬようじゃ」
「御上は、この意味がおわかりになるのでございますか」
「うむ、中国の古典に出てくる逸話じゃ。時は春秋時代、敵に滅ぼされかけた越の王、勾践を、茫蠡という家来が大変な苦労の未に助け、国を再興させたという話じゃ。その忠義な家来がここにおりますと朕に伝えたかったのであろう」
先帝の話に、忠顕がにやりと口元を緩める。
「ほんに、幸先よき出来事。その茫蠡はここにもおりまする。御上が諦めぬ限り、必ずや御運が開けるものと存じます」
口元に笑みをたたえ、忠顕は頭を低くした。
この後、先帝は道誉に護送されて出雲国に入り、千種忠顕ともども、舟で隠岐の島へと送られた。
千早の築城は着々と進んでいた。全貌を見せた砦は、急ごしらえの赤坂城に比べ、比較にならぬほどに大規模で、まさに城と呼ぶにふさわしかった。楠木正成の命で、男らは城造りに精を出し、久子ら女たちは炊き出しを行った。
千早城は金剛山の支脈の尾根にある。最も金剛山に近くて高い位置に、兵糧や水を蓄えた本丸(主郭)を配置。尾根に沿って二の丸(二郭)、三の丸(三郭)、四の丸(四郭)を配した。そして、城全体をぐるっと塀と逆茂木で囲む。本丸には、金剛山から地中に流れる水脈めがけて掘り当てた複数の井戸。これによって、最大の懸案である水の確保が可能になった。
本丸や二の丸に陣屋を造ろうとする頃になると、金で雇った大工や職人を外から呼び寄せる。そうして、徐々に城造りに加わる人も増えていった。金剛山の辰砂(水銀の混じった砂)や水運で蓄えた楠木の財力を見せつけるものであった。
そして十一月、千早城はついに完成する。
枯れ色の金剛山を背負った本丸の陣屋。白木の匂いが充つ中を、虎夜刃丸は、従兄弟の満仁王丸や明王丸とわぁわぁと嬉しそうに走り回る。
「みょうおう、まって……」
この頃になると、ずいぶんと言葉も覚え、自らの意思を伝えるのも、苦にはならなくなっていた。
三人の追いかけっこを目で追いながら、多聞丸が首を傾げる。
「されど、このような山の中で挙兵しても、はたして幕府軍はやってくるのであろうか。わしが幕府の大将なら、こんな山の中の城など放っておくが……」
「大丈夫。父上にはお考えがあるのです。ちょうど皆を広間に集めて、父上が説明しておられます」
母、久子は繕いの手を止めて、広間の方に目をやった。
楠木正成は本丸の陣屋の広間に、楠木正季・美木多正氏の弟たちと、諸将を集めていた。恩地左近満俊・満一親子、和田高遠、神宮寺正師、橋本成員などの家臣と一門衆。それに、与力衆の十市範高や八木法達らである。
自慢の髭を太い指で触りながら、正氏が口火を切る。
「さて兄者、城はできたが、いかに幕府をここに引き付けるか……」
「うむ、まずは赤坂城を取り戻そう。この正成が生きて取り返したとなれば、幕府の面子はつぶれる……」
先の戦の後、赤坂城は幕府方の武将が守備していた。
「……そして、城を取り返したあとは、河内の守護館でひと暴れする。正成これにありと幕府に知らしめるのじゃ。その後、千早城で挙兵し、幕府の兵をこの金剛山へと導く」
「三郎兄者、赤坂城と千早城とでは離れすぎておる。我らだけで両方の城を持ちこたえることができるでようか」
「いや七郎、赤坂城は捨て駒じゃ。今は敵の城ゆえ、籠城の備えはできておらん。赤坂城は取り戻したところで、すぐに幕府の手に落ちるであろう。されど、それで構わん。赤坂城をこの正成が取り戻したと喧伝されれば、それでよいのじゃ」
非情な策に、正氏がいかめしい顔を返す。
「されど兄者、そのような、落城することを前提の城など、誰が守備するというのじゃ」
すると案の定、一同は伏し目がちに黙した。
暫し、苦痛の時が過ぎていく。
「よし……」
沈黙を破ったのは末弟の正季。周囲を見渡して決意を滲ませる。
「……わしがその役目、務めよう。ここは親しい者がやらねば皆の士気が上がらぬ」
「うむ、七郎、よう言うた。されど、犠牲は最小限に留めなければならん。北から進軍してくる敵に完全に囲まれる前に、南の峰から金剛山へ撤退するのじゃ。早過ぎては敵が警戒する。手強く戦ったうえで敗走するように見せかけて、金剛山へ引き上げて参れ」
兄の難しい注文に、正氏が苦渋の表情を弟に見せる。
「七郎、難しい役目じゃが、必ず生きて戻れよ」
「もちろんじゃ、五郎兄者。わしはまだ死ぬつもりはないぞ」
明るく言葉を返す正季だが、命を賭した決意は、ひしひしと一同に伝わっていた。
そんな末弟の決意に、正成がにじり寄る。そして、肩に手を置いてゆっくりと頷いた。
十二月、北風がこの冬一番の寒さを運んできたこの日、ついに楠木党は、再起をかけて出陣の日を迎えた。
千早城では楠木正成が、虎夜刃丸ら家族に見送られている。しかし、旗指物がなびく勇ましい出陣式とは随分と異なっていた。
持王丸は、人夫姿の正成に愕然とする。
「父上、戦に出るというのに鎧も付けず、なぜ、そのような恰好をしておるのじゃ」
「持王丸、戦は恰好でするものではない。此度の戦はこれが都合よいのじゃ。勝つためには手段は選ばん。恰好だって選ばん。それが楠木の戦じゃと心得よ」
「う、うん」
父の言葉に頷くが、父が考えていることは、まったくわからなかった。
「殿、御武運をお祈り致します」
「父上、赤坂城を取り返してください」
期待を込めて、久子と多聞丸は正成に声をかけた。
「うむ。そなたたちは千早を頼む。では、虎、行って参るぞ」
「ちちうえ、いってらっしゃいませ」
しっかりとした口調の虎夜刃丸に、正成は目を細めて頷いた。
千早城の西南、紀見峠から南は紀伊国である。紀伊橋本から河内へ続く山道を荷駄隊が進んでいた。人夫と護衛の兵、合わせておよそ三十人。幕府の手に落ちた赤坂城へ、兵糧を運ぶのが目的である。
山道を進まなければならない荷駄隊は、荷車の他に、米俵を馬の背に載せ、小さな荷物は人が担いで進んでいた。
街道が山間部に差し掛かったところ。その道を両側から囲う崖の上に野伏の一団が潜んでいた。実は野伏に扮した美木多正氏が率いる五十余騎の楠木党である。
「よし、今じゃ。後ろの逃げ道を開けて、前から襲い掛かれ」
やさぐれた身なりの正氏が手を振り下ろすと、楠木党の兵がいっせいに襲い掛かった。
荷駄隊からみれば盗賊が襲ってきたとしか映らない。
「こ、これは大規模な盗賊団じゃ。こちらの倍以上はおるぞ」
「護衛を前に出せ」
しかし、あっという間に楠木党の先陣が切り込んだ。
「い、いや駄目じゃ。こりゃあ歯が立たぬ」
「皆、逃げよ」
「いや、されど荷駄が……」
「そんなものは投げ捨てて早く逃げろ」
荷駄の護衛たちは口々に叫び、成す術もなく、もと来た方へと逃げ帰っていった。
「追う必要はない。放っておけ」
追撃しようとする兵たちを、正氏が押し留めた。その後から人夫姿の楠木正成が、同じ姿の正季を連れ立って、爽々と現われる。
「よくやった、五郎(正氏)。さっそく手筈通りに進めよ」
「承知した。兄者」
首を縦に振った正氏は、早速、次の段取りに取り掛かった。
河内国の赤坂城。幕府の命でこの城を守備するは、紀伊国の御家人、湯浅宗藤である。出家してからは定仏入道と呼ばれていた。
定仏は赤坂城へ入るとすぐに城の修繕に取り掛かった。焼け落ちた陣屋や櫓、兵庫などは、すでに再建されていた。定仏は、ここを拠点に河内国に勢力を広げるつもりであった。
その赤坂城に、嘶きを上げて早馬が駆けつける。
「開門、開門お願い申す。荷駄が盗賊の一団に追われておる。兵糧を奪われるっ」
馬を駆った人夫は、寒さの中、虎口門の前で、白い息を吐いて訴えた。
騎馬の男に促され、櫓に登った見張り役が、男が駆けてきた方角を凝視する。確かに荷駄隊が赤坂城に向かって駆けており、その後ろから盗賊と思しき一団が土煙りを上げて迫っていた。
「おい、早く門を開けよ。荷駄隊が盗賊に追いかけられておる」
櫓の上から浴びせられた気早な声に、守備兵が慌てて虎口門を開く。
「荷駄隊が中に入ればすぐに閉門せよ……、……、よし、今じゃ。閉門じゃ」
櫓の上からの合図で、大きな木戸が、があぁんと音を立てて閉まった。城の中に入った荷駄隊の人夫たちは、一様に安堵の表情を見せてその場にへたり込んだ。
騒ぎに気づいて定仏が陣屋から外へ飛び出して来る。
「いったい何事ぞ」
「はい、兵糧を運んでいた荷駄隊が盗賊に追われて城に逃げ込んで参りました」
あたりをみると、息を切らせた人夫たちが、そこら中に座り込んでいた。
「盗賊ごときに攻め込まれる城ではないわ。弓矢で追い返せ」
「は、ただちに」
守備兵に命じて、門の外へと向かわせた。
すると、その時を待っていたかのように、へとへとになって座り込んでいたはずの人夫たちが、すくっと立ち上がる。そして、荷車の中から刀や薙刀を取り出し、一斉に定仏を取り囲んだ。
唖然とする湯浅の兵を尻目に、深めに頬被りをした一人の人夫が、定仏を後ろ手に捕まえて喉元に白刃を向けた。
たじろぐ湯浅の兵に向けて、男が声を張る。
「動くな。お前らもじゃ。動けばお前らの殿の命はないぞ。」
「お、おのれらは何者じゃ」
刃を喉に当てられた定仏が、怒りで顔をまっ赤にしながら、ぎっと男を睨んだ。
「入道殿(定仏)、これは失礼つかまつった。じゃがこの城は我らが城。御返しいただこう」
「我らが城じゃと。楠木の残党か」
「残党ではござらん。楠木党でござる」
その男は至極当然に答えた。
すると、荷駄隊の人夫らの間を割って、一人の人夫が顔を晒して定仏の前に進み出る。
「これは湯浅定仏殿、楠木兵衛尉正成でござる」
「な、なに、正成とな」
さらに定仏の喉元に刃を向けていた男が耳元で声を張る。
「わしは舎弟の楠木正季でござる。以後、お見知り置きを」
死んだと思っていた正成や正季が目の前に現れ、定仏は目を白黒させる。
その時、虎口門から先ほどの盗賊五十余騎が雪崩を打って突入してきた。美木多正氏が率いる騎馬隊である。すでに門兵も荷駄隊の人夫たちに刃を向けられていた。
「と、殿が人質に取られておる。歯向こうてはならん」
櫓の上では見張りの兵が、甲高い声を張り上げて、城外の守備兵に命じた。
続けて正成が、湯浅の郎党たちの顔を見回しながら大声を張る。
「者ども、静まれ。城は、この楠木正成が取り戻した。大人しく城から退去すれば命までは奪わん。命が惜しいものは弓矢、薙刀を捨て、急ぎこの城から退散せよ。じゃが、抗えば容赦はせぬぞ」
すると、兵らは互いに顔を見合わせ、武器を捨てて逃げ出す。それでも大半は、定仏の身を案じてその場に留まった。
侠気ある湯浅の郎党の様に、正成はふっと口元を緩め、茫然とする定仏をじいっと見据える。
「定仏殿はよき御家来衆をお持ちじゃ」
すると定仏は、へなへなとその場に座り込んだ。そして、観念したように、前屈みに入道頭を差し出す。
「さ、切るがよい」
「いや、定仏殿。このように城を修理いただき、我らも助かっておる。役に立った者を切るのは忍びない。早々に立ち退かれよ」
気前のよい対応に定仏は恐れ入る。
「何と……ううぅ……まったくもって参り申した。それがしごときでは歯が立たぬ……どうじゃろう、お仲間に加えてくださらんか」
すると、正季が口を曲げて、蔑んだ目を向ける。
「何と節操のないことじゃ」
「そう言われても仕方がない。されど、わしとて、北条には思うところがある。好んで北条の下におるのではない。力がなくば耐えねばならぬのじゃ」
「ならばなぜ」
そう言うと、正季は定仏を突き放ち、刀を鞘に納めた。
一方の定仏は、解放された腕を伸ばすようにしながら、口を動かす。
「楠木殿の見事な御手前を見て、本当に幕府を揺らがすことができるやもと思うた。楠木殿に賭けてみたいと思うたのじゃ」
これに正成は、正季に目配せしてからゆっくりと頷く。
「酔狂な御仁のようじゃ。よかろう定仏殿、よしなに頼む」
城の中に残った定仏と湯浅党の者たちは、この日をもって楠木の与力衆となった。
赤坂城が楠木正成に奪還されたという知らせは、ただちに京の六波羅探題へもたらされた。六波羅探題とは、言わば京における守護職であり、朝廷に対する鎌倉幕府の目付役ともいえた。
探題の屋敷は、かつての平清盛の屋敷跡である。南北に分かれ、南方の探題が北条時益(政村時益)、北方の探題が北条仲時(普恩寺仲時)であった。
北方の仲時は二十七歳。上洛してからすでに二年が経っていた。
老臣の報告に、仲時は思わず身を乗り出す。
「何、楠木正成が生きていたと。確かか」
「はっ。舎弟の楠木正季とともに、弓矢を交えることなく、赤坂城を奪い返したということです。今は二百で籠城している由」
「いったい湯浅は何をしておったのじゃ」
「それが……楠木のあまりの手際のよさに感服して寝返ったとのことでございます」
―― ばちっ ――
仲時は手に持つ扇で床を強く打ちつけた。
「何ということじゃ。ことが大きくならんうちに早く手を打たねば……紀伊の御家人どもに命じ、背後から楠木を突くのじゃ。たかが二百、今のうちに討ち取ってくれよう」
六波羅から紀伊国へ向けて早馬が送られた。
ただちに、紀伊国の御家人、井上入道、山井五郎らおよそ五百の兵が紀見峠を越えて河内国に向かった。
いち早く、修験者から知らせを受けた楠木正成は、これに対して舎弟、正季とともに赤坂城から出陣する。そして、峠から北進する紀伊の幕府軍を待ち伏せた。
一方、紀見峠を越えた幕府軍に対し、千早城から美木多正氏を出撃させて、背後から襲わせる。
赤坂城の籠城戦を想定していた井上、山井らの軍勢は、天見で楠木の挟み撃ちに遭う。不意を突かれて井上、山井の両将を含めて五十余が討ち取られ、紀伊勢はあっけなく敗走した。
楠木軍が幕府方の紀伊勢を撃退した知らせは、千早城の虎夜刃丸らの元にも届いた。
「母上、父上はすごいのう」
武将に憧れる持王丸は、父、楠木正成が幕府軍を退けたと聞き、感激して、何度も口に出した。
「すごいのう、すごいのう」
幼い虎夜刃丸も兄の真似をして皆を笑わせた。
久子は、夫、楠木正成が、まずは順調に勝利を収めたことに安堵する。同時に、これからどんどんと大きくなるであろう戦に、言いようの無い不安も感じていた。
翌月、勢いに乗じた楠木正成は、幕府に不満を抱く土豪・悪党を糾合し、河内国の守護館を襲う。そして、守護代を追放した。河内国の守護は、代々、北条一門である。そのため鎌倉からは下向せず、実質的に河内を取り仕切っていたのは守護代であった。
六波羅探題の北条仲時は、またしても、負け戦の報に接する。
「五百にも満たない相手に何をしておるのじゃ。鎌倉が動く前に楠木を仕留めなければ、我らの面子が立たんぞ」
そう言って親指の爪を噛んだ。
「仰せの通りで……」
主のいらつきを察して、老臣が言葉少なに応じた。
「兵はどれだけ集められる」
「今、六波羅の兵は二千といったところでしょうか」
「よし、隅田と高橋の両将を軍奉行に任じて、ただちに楠木討伐に向かわせよ。さらに摂津国の国人どもに、二人に与するように命ぜよ。総勢五千余騎にはなるであろう」
六波羅は急遽、隅田次郎通治と、高橋又四郎宗康を招集して、楠木討伐を命じた。さらに摂津の諸将にも出陣を下知した。
隅田・高橋の戦支度は、すぐに楠木正成の耳に入った。義弟の竹生大夫こと服部元成が、小波多座の軽業師を透っ波(忍者)として京に送り、六波羅の動きを探らせていたからである。
これに正成は、赤坂城に諸将を集めて軍議を開く。
「直に五千余騎の六波羅軍が押し寄せてくる。わしらは先手を打って和泉・摂津に討って出ようと思う」
「されど三郎兄者、この赤坂城の守備はどうするのじゃ」
舎弟の正季が赤坂城を任されていた。
「うむ、大塔宮様(護良親王)と一緒に吉野におられる四条中納言様(隆資)の書状によると、我らの勝ち戦をみて平野将監(重吉)が加わりたいと申し出たそうじゃ。奴をこの城の守備に当てよう」
「なるほど」
得心顔で正季が頷いた。
「左近よ、満一を四条卿の元に送り、平野殿をこの城に送ってもらうようにお願い致せ」
「承知にござる」
さっそく恩地左近は、嫡男の満一を吉野山に送った。
翌々日、楠木正成の求めに応じて、百余騎の一団が、粉塵を巻き上げて赤坂城に乗り込んできた。
先頭の馬から降りた平野重吉に、正成が、頷くようにして軽く頭を下げる。
「平野殿、よう参られた。助かりましたぞ」
「楠木殿、これまでご苦労であった。わしが来たからにはもう大丈夫じゃ。ことが成った暁には、わしが四条中納言様(隆資)に奏上して、帝によしなに取り計らっていただけるよう進ぜようぞ」
そう言ってから、正成の肩を軽く二度叩いた。その嵩高な態度に、楠木正季は眉をひそめる。しかし、正成は涼しい顔で、重吉を陣屋の中に招いた。
元は、関東申次として幕府と親しい公家、西園寺公宗の家人である。その後、主を持たない悪党として権中納言の四条隆資の元に参じた。摂津源氏の血を引く気位だけは高い男である。
建屋の中に重吉を迎え入れた正成は、諸将を集めて、あらためて軍評定を開いた。
そこで、正成の策を聞いた重吉が、さっそく目を剥く。
「何、摂津へ討って出ると。戯けたことを。五千の敵軍に、兵で劣る我らが討って出てどうするつもりか。ここは籠城じゃ」
「平野殿、まずは六波羅を驚かせ、できるだけ多くの敵をこの河内国に向かわせるつもりじゃ」
「多くの敵をこちらに向かわせてどうする。楠木殿は戦をわかっておらんな」
「まあまあ、平野殿、こちらには策があるのでござる。仔細は後でそれがしからお話し申そう」
苦笑いを浮かべて、正季は重吉をなだめた。
すると、その正季に正成が目配せして、話を引き取る。
「平野殿には、この正成がおらん間、赤坂城をお任せ致そう。平野殿、何卒、よしなにお頼み申す」
権中納言、四条隆資の顔を立て、重吉を赤坂城の城将とし、正季を副将に据えた。
金剛山の麓、千早城にある陣屋の広間では、留守居役として城に残っていた美木多正氏が、虎夜刃丸らを前にしていた。
「義姉上、今度は幕府軍およそ五千を迎え撃たなければなりませぬ。今までのようには参りませぬ。されど、御安堵くだされ。兄者には策があります。それに、それがしも千早から兵を率いて出陣します」
ひざに虎夜刃丸を乗せた久子と、妻の良子、義妹の澄子らに、今後の段取りを説明した。
虎夜刃丸がぐるっと皆の顔を見回した後、久子の顔を見上げる。
「また、戦をするのか……」
「そうじゃ」
その返事に、虎夜刃丸は恐々と正面の正氏に目を合わせた。
「心配には及ばん。我らは必ず勝つ……」
怯える甥子に正氏が、からからと笑ってみせた。
「……じゃが、この千早城は空になってしまう。まあ、幕府はこの城の存在を知らぬ。不意を襲われることはないと存ずるが、万が一のときには、女こどもで千早峠を越えて五條にお逃げくだされ」
言った端から不安をあおる正氏だが、久子に動じる気配はない。
「五郎殿(正氏)、我らのことは気にせず、存分にお働きくだされ」
「旦那様、御武運をお祈り致します」
続く妻、良子の言葉に正氏は頷き、返事に代えて笑い顔を見せた。
楠木正成は、左少将の四条隆貞を総大将(大将軍)として迎え、手始めに和泉国の守護館を襲った。隆貞は、権中納言、四条隆資の次男で、護良親王の腹心の臣でもあった。
そして、一息付く間もなく、楠木軍は北侵して摂津国に入り、四天王寺に陣を布く。ここを拠点にたびたび、淀川を越えたあたりまで進出し、六波羅を挑発するとともに、幕府の米蔵を襲い、籠城に備えるための米を奪取した。
これに対し、幕府の六波羅軍が満を持して楠木討伐に向かう。六波羅軍五千余騎に対して楠木軍は五百。まともに戦って勝ち目のある相手ではない。だが、正成は勝つのが目的ではない。出鼻を挫き、幕府の失態を喧伝すればよいだけである。
淀の川を挟んで、大軍と対峙した楠木軍は、具足(鎧)も付けない野伏がたくさん混じる、見た目、貧相な軍勢であった。
「三郎兄者、六波羅軍の先陣は、我らの旗を見て、渡辺橋を越えて来たぞ」
「よし、掛かかったな。我らはすぐに撤退する。急ぐのじゃ」
正季の報に、正成はぎっと口元を引き締めて兵たちに撤退を命じると、自らも馬に飛び乗った。
幕府の六波羅軍を率いる軍奉行、隅田次郎通治と高橋又四郎宗康の両将は、撤退する楠木軍を討たんと、我れ先にと攻め寄せる。しかし、先駆けの後が続かない。橋を通ったことで、六波羅軍はひょろひょろと縦に長くなっていた。
逃げる楠木本軍とは別に、美木多正氏が率いる搦手軍が、渡辺橋を渡った幕府六波羅軍の側面に現われる。
「よおし、今じゃ。幕府勢を横から崩すのじゃ」
楠木の搦手軍がいっせいに襲い掛かった。縦に伸びきっていた六波羅軍は、側面から散々に矢を射かけられて浮足立つ。だが、これで終わりではない。
「七郎(正季)、頃合いじゃ。引き返すぞ」
「承知。者ども、これより折り返して、六波羅軍を叩くのじゃ」
敵を背にして一目散に逃げていた楠木本軍は、とって返し、正面から六波羅軍の先駆け目掛けて突っ込んだ。
六波羅軍の先陣は、すでに側面から楠木の搦手軍の攻撃を受けて後方と分断していた。孤立した幕府の先陣は、楠木本軍が引き返してきたことに恐怖する。
勢いの差は明らかだった。六波羅軍との間で激戦が始まるも、楠木軍は六波羅の先陣を力で押し込んだ。これをみた六波羅軍に従う後方の摂津衆は、我先にと慌てて渡辺橋を渡って淀川の北へと撤退する。こうなると、勝負はあっけなく決した。
深い山の中にある千早城。摂津の戦の結果は、まだ伝わってはいなかった。虎夜刃丸はやきもきしながら、畑仕事に精を出す母、久子の袖を引っ張る。
「戦はどうなったの」
「父上のことです。きっと、勝ちます」
昨日から虎夜刃丸は、久子と同じ問答を繰り返していた。久子も気が気ではない。だが、こどもたちの前で、不安な顔はできない。しかし、その気遣いにもかかわらず、多聞丸も持王丸も、城の者皆、口数が少なくなっていた。
その千早城の重苦しい雰囲気を変えたのは、家宰の恩地左近である。久子の前に現れた左近は、傍らに嫡男の満一を連れていた。
まずは左近が満面の笑みを見せる。
「奥方様、ここに居られましたか。殿の使いで、満一が知らせに参りましぞ。御味方、大勝利とのことでございます」
「本当ですか」
そう言って、久子は傍らの満一に目を向けた。いま到着したばかりの様子で、小具足(篭手や脛当など)を付けたままである。
「奥方様、我が軍は、摂津の渡辺橋で、幕府の大軍を破りました。殿も、御舎弟方も、皆、御無事です」
落ち着いて話す満一に、久子は安堵して虎夜刃丸を強く抱きしめる。
「虎夜刃丸、父上は勝ちましたよ。ね、母の言うた通りでしょ」
「母上、痛いよ」
そう言う虎夜刃丸を、久子は抱き続けた。
六波羅探題の北条仲時は、六波羅軍の敗北に苛立っていた。
「数に頼って頭を使わぬ戦振り。隅田は軍奉行を罷免じゃ。高橋もしかりじゃ。その方から伝えよ」
唾を飛ばして、仲時は命じた。
激昂する仲時の様子をみて、老臣が進言する。
「探題様、ここは鎌倉に援軍を求めるのがよろしいかと存じます」
「たかが五百の楠木に対して、たびたび鎌倉に援軍を求めるなど、そのような無様な真似はできぬ」
「されど、この先、いかに楠木を討ちますか」
諌めるように問いただす老臣に、眉を動かして仲時が応じる。
「関東から、宇都宮治部大輔が、京の警護に着くため、上洛の途上にある。その宇都宮を楠木討伐に当たらせよう。京に到着次第、すぐに、摂津へ送るのじゃ」
今度は大丈夫と、自らに言い聞かせるように命じた。
宇都宮治部大輔とは、鎌倉幕府引付衆の宇都宮公綱のことである。宇都宮氏は、紀清両党と呼ばれる武勇名高い武士団を配下に持ち、源頼朝の時代から、御家人の中でも抜きんでる実力を備えていた。
公綱は上洛を果たすと、六波羅の援軍を頼みにすることなく、すぐに、精鋭五百騎を率いて摂津へ出陣した。
六波羅軍を破った楠木正成は、いまだ摂津の四天王寺に布陣していた。総大将(大将軍)として迎えた左少将、四条隆貞を上座に据えて、正成は諸将らとともに下座に居並ぶ。
一同の前に、舎弟の楠木正季がどたばたと駆け込む。
「六波羅は関東の宇都宮公綱を大将に、五百余騎を摂津に向かわしたとのことじゃ」
「五千の次は五百か……幕府も人が足らんようじゃ。のう、正成」
名目上の責任者、四条隆貞が、五百という数に気負いを解いた。
正成が口を開く前に、美木多正氏が鼻で笑う。
「六波羅軍を打ち破った我らに、たかが五百騎。兄者、一気に片付けてくれようぞ」
その勇ましい言葉に乗ることなく、正成は腕を組んで考え込む。
「ううむ……幕府が、五千の後に、わざわざ五百騎を送ってきていることこそが肝要じゃ。宇都宮公綱は坂東一の弓取りと言われる武勇名高い良将じゃ。足手まといの兵は要らぬということであろう。紀清両党の精鋭五百騎と、我らの五百では意味が違う。此度はただでは済むまい」
戦慣れしていない隆貞が、急に気遣わしげな表情を浮かべる。
「では正成、どう戦うのじゃ」
「我らの狙いは、幕府の面子を潰して、千早城へ幕府軍を誘き寄せること。目的通りにやるだけでございます」
そう言って正成は口元を緩めた。思わせぶりなその言葉に、隆貞は訝しみ、正氏と正季は顔を見合わせて小首を傾げた。