表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/54

第35話 二つの楠木

 建徳元年(一三七〇年)十一月一日、摂南せつなんの紅葉はすでに見頃を過ぎ、枯れ色が目立つようになっていた。

 最後に残された秋を駆逐するかのように、瓜破うりわり城に南軍が攻め寄せる。

 正儀は、館の広間に近臣の河野辺正友や菱江忠元、そして猶子ゆうしの篠崎正久・津田正信ら諸将を集めた。そこに、馬を駆って物見ものみに出ていた津熊義行が戻り、慌ただしく広間に入ってくる。

「殿、南方みなみかたの兵は千余騎。なびく逆さ菊水の旗は橋本勢と和田勢。それと……非理法権天ひりほうけんてんと菊水の旗。楠木軍と思われまする」

「何……ついにそのときが来たか」

 恐れていたことが現実となった。楠木軍は、楠木正澄(まさずみ)と楠木正勝が率いていると思われる。

「ち、父上、どうされます。まさか、小太郎兄者(正勝)と戦うことになろうとは……」

 正勝の義弟である正信は、あきらかに動揺していた。義兄の正久にとっても同じである。

 そんな二人の猶子ゆうしに向けて、正儀は小さく頷く。

「うむ、すぐに管領かんれい殿に助けを求めよう。たかが千騎。幕府から大軍を差し向ければ、引かざるを得ないであろう」

 そう言うと、その場で、すぐに書状をしたため、京の幕府管領(かんれい)、細川頼之と、北和泉に駐留する細川頼元へ、使いを走らせた。

 続いて、正儀はたつを呼び寄せる。

「女衆はすぐにこの城を離れるのじゃ。それぞれ、家に戻るか、寺にかくまってもらうようにせよ」

「殿様(正儀)はいかがされますか」

「我らはここに残り、城を守る」

「ならば、私もここに残らせてください」

 たつは口の両端にきゅっと力を入れて応じた。

 これに正儀は驚き、その顔をまじまじと見る。

「何を申す。そなたは楠木の者ではないのじゃ。我らとここに一緒に残るいわれはない。正覚寺しょうかくじ村の御母上を連れて、早く逃げよ」

 正儀の優しさであったが、他人だと言われたたつは、寂しそうな表情を浮かべた。


 北侵した南軍は、瓜破うりわり城の近くの寺に布陣していた。食堂じきどうには、大鎧おおよろいまとった大納言、四条隆俊を上座に、橋本正督(まさただ)と和田正武、そして楠木正澄と楠木正勝ほかの面々が座る。

「小太郎殿(正勝)、そなたにとっては辛い戦じゃが、帝(長慶天皇)のめいじゃ。是非もない。三郎殿(正儀)はもはや敵。ここは私情を捨て、討ち取らなければならん」

 正武は正勝に、父のしるしを求めた。

 一瞬、戸惑いの表情を浮かべた正勝に、叔父の正澄が目配せし、ゆっくりと頷く。すると、正勝も覚悟を決めたかのように総大将の隆俊に顔を向ける。

「親子の情は捨てております。逆賊を討ち、南摂津を取り戻したいと存じます」

「うむ、天晴れな覚悟じゃ。期待しておるぞ」

「ははっ」

 上機嫌な隆俊を、正勝は伏し目がちにうかがった。

 この度の出陣は、南朝に募った憂慮からである。一つ目は堺浦を幕府方に押えられたこと。二つ目は和泉の豪族が幕府方に寝返ったこと。三つ目は幕府の宇都宮氏綱が南朝の支配地域深くにまで侵攻してきたことにある。

 強硬派の隆俊は、ここは無理をしてでも、裏切り者の正儀を攻めて南摂津を取り戻し、世に南軍の健在を知らしめたいと考えていた。

 一方、橋本正督(まさただ)は出陣したものの、正儀と戦うことに悩んでいた。聞世(服部成次)から伝えられた叔父の、今も変わらぬ君臣和睦の思いが、自分の中で消化しきれていなかったからである。

「殿(正督まさただ)、殿……」

 近臣である大夫判官たいふのほうがん、和田良宗の呼びかけで、正督まさただは我に返る。

民部大輔みんぶのたいふ正督まさただ)、いかがした。まずは、どうやってこの城を攻めるかじゃが……」

 四条隆俊は閉じた扇で胸のあたりを小刻みに叩きながら、皆に考えを求めた。

 正督まさただが隆俊に向き合い、両の拳を床につけて進言する。

「大納言様、相手はあの楠木正儀です。どのような策が待ち構えているかわかりませぬ。まずは兵糧の補給路を断ち、様子をみてはいかがかと存じます」

 消極的な意見は、自身の迷いと、実の父と戦わねばならない正勝の立場を考えてのことであった。

「何を弱腰な。城内の敵は察するところ、五百にも満たなぬであろう」

 正武は正督まさただを一笑に伏し、積極的に討って出ることを主張した。

 意外にも、これに正澄が頷く。

「和泉守(正武)の申しよう、それがしも承知した。ここは我ら楠木も討って出ようではないか。大将の民部大輔みんぶのたいふ正督まさただ)殿は、攻めには出ず、後ろを固めておいていただきたい」

 わしに任せろと言わんばかりに、正澄は正勝に視線を送った。その申し出に、隆俊と正武は満足そうな表情を浮かべた。


 正儀から知らせを受けた管領かんれい、細川頼之は、直ちに将軍御所である三条坊門第に出仕した。将軍の許諾を得て、瓜破うりわり城救援を命じる御教書を畿内の諸将に出すためである。

「御所様、楠木殿の城が、南軍に攻め込まれております。直ぐに、畠山(基国)、京極(高秀)らに命じて、救援に向かわせたいと存じます」

「う、うむ……」

 歯切れの悪い声を漏らす足利義満の視線の先は、頼之を飛び越えて、その後ろにあった。

「管領殿、本当に兵を出す必要があるのですか」

 その声に頼之が振り向くと、そこに、薄藤色の帽子もうす(頭巾)を被った尼が立っている。

「こ、これは大方おおかた様……」

 驚いて一礼する頼之を一瞥し、大方禅尼おおかたぜんに(渋川幸子(ゆきこ))が義満の隣に座る。

「楠木の参来は、戦をせずに河内・和泉を手中に収めるという妙案と思うておりましたが、来たのは河内守(正儀)のみ。楠木一門は割れて南方に残った者も多い。そして、此度こたびは、その正儀を助けよと言う。管領殿。河内守は、幕府が諸将を動員してまで助ける価値のある男なのですか」

 父として、母として、共に義満を支えようと言っていた禅尼の疑いの眼差しに、頼之は閉口する。

 猜疑さいぎの目を向けられるようになったのは半年ほど前。頼之が禅尼の甥で九州探題の渋川義行を解任したことがきっかけであった。

 九州は征西将軍、懐良かねよし親王が覇権を唱える南朝の支配地。これまでも幕府が送った九州探題は成果を出すことは叶わなかった。そこに、大方禅尼の推挙で弱冠十八の甥子が探題に任じられる。だが、南朝の威勢に、九州に入ることさえ叶わず、無駄に五年の歳月を費やしていた。

 理路整然で淡白なところがある頼之は、十分に大方禅尼の同意を得ることなく、九州探題を、文武に長けた今川了俊(貞世)に挿げ替えてしまう。このことは禅尼の不信を煽るには十分な出来事であった。

 神妙に頼之が頭を下げる。

「御説、ごもっともでござる。まさか楠木が割れ、このようなことになるろうとは、それがしの浅慮ゆえのこと……」

 そう言うと、頼之は頭を上げて、大方禅尼の目に視線を合わせる。

「……されど、その楠木党が割れたことこそが大きな進展。河内守かわちのかみ(正儀)が負ければ、楠木党は再び一枚岩となり、手強い敵となりましょう。それがしには、河内守を救い、河内守を通じて得た楠木党を味方に付けていくことしか思いつきませぬ。されど、他に良き方法あらば、それがしは従う所存。大方様、何か妙案あらば、ぜひ、御指南くださいますよう」

 凛とした頼之に、大方禅尼は苦い表情を隠すよう、口元にだけ笑みを浮かべ、義満に顔を向ける。

「それを考えるのは管領殿の仕事。のう、義満殿。照禅殿(伊勢貞継)とも、よう相談して決めるがよろしかろう」

 板挟みに苦り顔を浮かべる義満を尻目に、禅尼はすくっと立ち上がる。そして、頼之に、うちきの裾をかすめるようにして、その場を後にした。


 瓜破うりわり城では、正儀が諸将を集め、絵地図を囲んで戦略を説明する。

右京大夫うきょうのだいぶ殿(細川頼元)の援軍がくるまで、何としても持ちこたえるのじゃ。東からは楠木軍が、西からは和田軍が攻めてくる。皆、西の防御に注力せよ」

 篠崎正久が不思議そうな表情を正儀に返す。

「父上、東の楠木軍はどうするのじゃ」

「四郎(楠木正澄)と渡りがついた。四郎は戦を仕掛ける振りをするだけじゃ。城に攻め込んでくることはない」

 正澄の考えは、聞世(服部成次)を通じて、正儀の耳に届いていた。

 津田正信は安堵の表情を浮かべる。

「なるほど。我らは小太郎兄者(楠木正勝)と戦わなくても済むということじゃな」

「そうじゃ。されど、新九郎(正武)殿とは戦わねばならぬ。気が引けることではあるが、和田勢に集中して押し返すのじゃ」

「承知した」

「おう」

 正儀の下知げちに皆が応じた。


 楠木正澄・正勝が率いる楠木軍と、和田正武・正頼まさより親子が率いる和田軍の、瓜破うりわり城攻めが始まる。

 南方みなみかたの楠木軍は、瓜破うりわり城へ絶妙な距離を保って、ときの声を上げながら矢を射かけた。矢はぎりぎり城壁に届く程度で、城の中までは届かない。これに応じて城の中からも矢が射返えされた。そして、時折、矢合わせを止めて、城を囲う南方みなみかたの楠木軍が騎馬を走らせた。これも正澄の演出であった。

 一方、瓜破うりわり城の西からは、和田軍が真剣に攻め込んでいた。和田の勢いは激しく、正儀らは防戦一方であった。心情的にも、和田軍に非道な戦術を用いることは躊躇ためらわれた。しかし、正儀の優しさが、味方の被害を大きくする。

 この城を普請した菱江忠元が正儀に駆け寄る。

「殿、ここは危のうございます。奥へお入りください」

「いや、大丈夫じゃ」

 構わず正儀は前線で指揮をとり続けた。

 和田の兵が瓜破うりわり城の城壁を登りはじめた時、正儀が意を決する。

「丸太を落とせ」

 解き放たれた丸太は、幾人もの和田の兵を巻き込んで転がり落ちていった。

 楠木軍の常套手段は和田の兵たちとてよくわかっていた。しかし、終始、正攻法で寄手よせてを防いでいた瓜破うりわり城の守備に、和田の兵たちは油断していた。一瞬のきょをつかれた格好である。


 一進一退の攻防が続く中、細川頼元の軍勢千余騎と、山名氏清の軍勢千余騎が到着する。

 山名氏清は、南朝側から幕府側に寝返った山名時氏の四男で、山名家を相続した山名師義(もろよし)の弟である。父に似て勇猛果敢な武将であった。

 その氏清が率いる山名軍が、和田軍に襲い掛かった。和田軍は当初は山名軍を押し返す勢いであったが、数の差は埋めきれず、後退を余儀なくされる。

 そこに、橋本正督(まさただ)の軍勢も駆け付けて、和田正武とともに撤退戦を行いつつ、泉南せんなん(南和泉)へと兵を引き上げていった。

 瓜破うりわり城の中では、正儀と河野辺正友が、城壁の上に造った物見ものみ台の上から、戦況をうかがっていた。

「殿(正儀)、若(正勝)と御舎弟(正澄)も兵を引きはじめたようにございますな」

「うむ、何とか窮地は脱したが……」

 いつまた南軍が兵を押し上げてくるかわからない状況に、正儀は心休まることはなかった。


 南軍が撤退した後、正儀は友軍である細川頼元の陣中に出向いた。幕府管領(かんれい)の細川頼之が、京から陣中見舞いに来ていたからである。

管領かんれい殿(頼之)、右京大夫うきょうのだいぶ殿(頼元)、此度こたびも、危ないところをお助けいただき、かたじけのうござる」

「楠木殿、御無事で何よりじゃ。されど、御嫡男と御舎弟に攻められてはたまらんな」

 頼之は正儀に同情した。確かに正儀には一番辛いことであった。しかし、頼之へ強がった顔を見せる。

「自らが選んだ道です。致し方ありませぬ」

「楠木殿、このあたりで一度、南の帝(長慶天皇)へ和睦を持ちかけてはいかがかと存ずる。先回の宇都宮との戦いや、此度こたびの我らとの戦で、もう戦では勝負にならんと判ったのではないか」

「さて、それはどうでありましょう。和田正武や橋本正督(まさただ)だけではありませぬ。紀伊にもまだ、南方みなみかたの武将が控えております。実際に、この者たちが戦うかどうかは別にして、強硬派の公卿くぎょうたちは、まだまだ戦えると錯誤しておることでしょう」

「されど、強硬派の公卿くぎょうばかりではあるまい。和睦を望んでいる公卿くぎょうもおろう」

 確かに大納言、阿野実為(さねため)ら和睦派の公卿くぎょうも残っていた。

「それがしも、今の宮中は承知しておりませんので、何ともいえませぬが……」

「楠木殿、そうであれば、一度、和睦を持ちかけようではないか」

 頼之が和睦を急ぐのは、正儀を気遣ってのことであった。

 しかし、正儀は難しい顔を崩さない。だがそれでも、一縷いちるの望みをかけて頷いた。


 細川頼之は和睦の使者として、忠雲ちゅううん僧正そうじょう天野山あまのさん金剛寺の行宮あんぐうへ送った。和睦の条件は、以前に正儀がまとめた条件と同じものであった。すなわち、南朝の帝は京へ戻り、三種の神器をいったん北朝の帝へ渡し、北朝の帝を今上帝きんじょうてい、南朝の帝を上皇とする。その後は、南朝と北朝が交互に帝につくというものである。

 また、双方の朝廷の国衙領こくがりょうや荘園、諸将の官位や領地領国なども、ほぼ同じ条件であった。日増しに勢力が衰える南朝にとっては、かなり配慮されたものである。もちろんこれも、正儀が頼之に働きかけた結果であった。


 天野山金剛寺の南朝は、この和睦の申し出を受けて、食堂じきどうで朝議を開いた。

 奏上役の葉室はむろ光資はるすけが読み上げた条件に対し、関白の二条教基(のりもと)が一同の顔をゆっくりと見回す。

「幕府からの和睦の内容、皆、どうであろうか」

「三年前の和睦の条件を守られております。今の我らの状況からすれば、幕府は誠実に対応しておると存じまする」

 大納言、阿野実為(さねため)が賛意ととれる発言をした。これに敏感に反応したのが、大納言の四条隆俊である。

「三年前と同じ条件であれば、断るのが道理ではないか。この条件で和睦を呑むのならば、では、なぜ三年前に和睦を結ばなかったのかということになる」

 これに対し、和睦派の実為さねためと参議、六条時熙(ときひろ)は、静かに目を閉じる。威勢を失った和睦派のささやかな抵抗であった。

 内大臣、北畠顕能(あきよし)が、その和睦派の公卿くぎょうらに睨みを効かす。

「我らの意見は兎も角、御上おかみ(長慶天皇)が、この条件を許すことはありますまい。せめて御上おかみが、合一後も帝となるのであれば別ですが、上皇では納得されますまい」

 二年前の和睦交渉では、先帝(後村上天皇)が上皇となってもよいと、決意されてのことであった。だが、まだ若く、強気を崩さない今上帝きんじょうてい(長慶天皇)に、これを求めることは不可能である。結局、関白の教基のりもとも、反論することができず、朝議は決した。


 北畠顕能(あきよし)らの強気の裏には、またもや幕府の内紛が影響していた。幕府の美濃守護、土岐頼康は、かつて、仁木にっき義長のために失った伊勢守護への復帰を望んでいた。だが、管領かんれいの細川頼之は、いっこうにこれを許さなかった。

 十二月十五日、これに怒った頼康は、勝手に本領の美濃へ帰る。そして、ほんの一年前に戦った南朝の伊勢国守、北畠顕能(あきよし)と手を結び、反乱の動きをみせた。

 この動きに、管領かんれいの頼之は、末弟の細川満之、それに京極高詮(たかあきら)らを伊勢に送り、頼康を攻めさせるということが起こっていたのである。


 建徳二年(一三七一年)三月十一日、南朝は、先帝(後村上天皇)の三回忌法要を、御陵ごりょうのある檜尾山ひのおざん観心寺で執り行なう。

 観心寺は楠木の菩提寺でもある。正儀を信頼していた先帝(後村上天皇)は、自分のみささぎをこの寺にと望み、その奥山にたてまつられていた。

 法要には、関白、二条教基(のりもと)をはじめとする公卿くぎょうたちと、南軍の武将たちが参列した。この中には、橋本正督(まさただ)、和田正武、楠木正澄、楠木正勝らとともに、徳子と如意丸、それに式子のりこの姿もあった。

 僧侶たちによる般若心経はんにゃしんぎょうの合唱が響く中、大納言の阿野実為(さねため)が、供養のためと歌の短冊を供えた。いずれも御製ぎょせい、つまり、先帝の歌である。これを繋いで、折り畳めるようにし、裏に写経をしたためた。

 僧侶たちの合唱が終ると、先帝に殉じて出家し、大僧正だいそうじょうの位を与えられた側近の日野頼意(よりおき)が立ち上がる。

『書き置きし 昔の春の言の葉に 御法みのりの花を 今日は添えつつ』

 高名な歌詠みでもあった頼意よりおきの歌で、法要はつつがなく終わった。

 金堂の外から、この法要に参列していた徳子は、手水ちょうずから戻ってこない娘、式子のりこのことを気にしていた。

 あたりを見回す徳子に、如意丸が振り向く。

「母上、いかがされました」

式子のりこが戻って来ません。少し様子を見て参ります」

 そう言って、徳子は席を立った。

 一方、寺の外では一人の男が立ったまま、この法会ほうえをずっと見守っていた。小袖に袈裟けさをかけ、修行僧のようであるが、深編笠をかぶり、さらには小刀を帯びた変わった風体であった。

 男は観心寺の外から手を合わせ、般若心経はんにゃしんぎょうを唱え終えると、寺を後にしようと振り返った。

「父上、父上でありましょう」

 男の前で呼び止めたのは、八歳となった正儀の娘、式子のりこであった。

 男は深編笠の網目から式子のりこの姿を認めて立ち止まる。そして、無言で式子のりこの肩に手を載せる。ほんの一瞬である。そして、惜しむようにゆっくりと手を上げ、足早に立ち去った。

 式子のりこを探しに山門さんもんを出た徳子は、式子のりこの元から立ち去る男の姿を目にする。風体を代え、深編笠を被った姿にも係わらず、すぐにその正体に気づく。

「殿……」

 徳子は思わず声を上げた。だが、決して呼び止めるためではない。夫の気持ちをおもんぱかり、その場に立ち止まって、ただ後姿を見送るのみであった。


 この月の二十三日、京の朝廷では、後光厳天皇が第二皇子の緒仁おひと親王(後円融天皇)に譲位し、院政を布く。

 だが、この譲位は一筋縄にはいかなかった。それは、かつて正儀が東条へ連れ去った崇光すこう上皇の存在である。既に京に戻っていた上皇は、皇統を自身の血統に戻すべく、大方禅尼おおかたぜんにに、自身の第一皇子、栄仁よしひと親王への譲位を強く働きかけたからであった。

 一方の後光厳天皇は、管領の細川頼之の支持を取り付けたことで、譲位の問題は大方禅尼と細川頼之の争いとなる。結果は頼之が征したものの、二人の間に大きなしこりを残すことになった。


 五月、濃い緑に覆われた天野山金剛寺の行宮あんぐうに、立烏帽子たてえぼし大鎧おおよろい姿の大納言、四条隆俊の姿があった。再びの出陣に際し、帝(長慶天皇)に拝謁するためである。従うは橋本正督(まさただ)、和田正武、楠木正澄、楠木正勝。それに、湯浅党の湯浅宗隆ら、紀伊や南大和の諸将であった。

「これより逆賊、楠木正儀と幕府の者どもの討伐におもむきます」

 隆俊が正儀のことを逆賊扱いするたび、正勝の顔は険しくなった。

 帝は御簾みすを上げさせて、顔を覗かせる。

「武運を祈るぞ」

 玉声に、正勝らはその場に伏した。

 南摂津みなみせっつ北和泉きたいずみに侵攻した幕府方に、渡辺津わたなべのつや堺浦の交易の利権を奪われたことは、南朝の財政をおおいに苦しめていた。北和泉を取り返すためには、南摂津に駐留する細川頼元と瓜破うりわり城の正儀は邪魔な存在である。特に強硬派の公卿くぎょうらにとって、目の敵である正儀の討伐は優先課題であった。そのため、南軍は大納言の隆俊を総大将に、総力を上げて出陣した。

 そして、もう一人の強硬派の中核、内大臣の北畠顕能(あきよし)は伊勢に居た。幕府管領(かんれい)の細川頼之が北伊勢に送った幕府軍を平定するため、伊勢の兵を指揮して伊勢国安濃(あのう)郡に進軍していた。


 瓜破うりわり城の正儀は、聞世(服部成次)の配下を通じて、南軍の動きをいち早く察知する。ただちに、館の広間に諸将を集めた。何事か息を呑む一同に、苦悶の表情で正儀が口を開く。

南方みなみかたが大軍をようし、北侵をはじめるようじゃ。その数はおよそ三千」

 諸将の間にどよめきが起こる。近臣の河野辺正友はううむと唸って腕を組む。

「今の南方みなみかたで、よくそこまでの人数を集めましたな」

「おそらくこれが最後の決戦のつもりであろう。この人数、わしの討伐だけではあるまい。南摂津三郡の平定が狙いであろう」

 猶子ゆうしの篠崎正久が、眉根まゆねを寄せて正儀の顔をうかがう。

「やはり、城に籠って、管領かんれい殿(細川頼之)に援軍を乞いますか」

「うむ、管領かんれい殿にはすぐに知らせを出そう。されど、わしらはこの城をいったん棄て、榎並えなみ城まで引く」

「父上、一戦も交えずにでございますか。それは東条の者たちを考えられてのことですか」

「それもあるが、結果が見えておるからじゃ。南軍は無理をして、兵をき集め、出兵してきておる。ここで勝っても、三郡を維持することは難しかろう。北和泉や南摂津の豪族を抑えるための兵がおらぬからな……」

 正儀が、北和泉の淡輪たんのわや田代を味方につけたのも、このためである。

「……さすれば、浜に押し寄せる波を相手にするがごとく、敵が押し寄せてきたときには引き、敵が引いたときに押せばよい。その間に幕府の大軍を後ろ楯に、南方みなみかたの戦意が失せるのを待つのじゃ。南方みなみかたは交易の税も失って、朝座ちょうざ(廟堂に座る公家たちによる政治)を維持する事すら難しかろう。我らは焦らず、時をかける事こそが戦略なのじゃ」

 現状を的確に把握した正儀の言葉は、常に皆を安堵させた。

 落ち着きを取り戻した正久らは、すぐさま榎並えなみ城への撤退の支度したくに取り掛かった。


 翌日、京の三条坊門第では、正儀からの知らせを受けた幕府の管領かんれい、細川頼之が、将軍、足利義満の元を訪れていた。

「御所様、ただちに諸将に命じて、南摂津へ向かわせとうございます」

「武蔵守(頼之)、昨年の楠木救援の折、畠山が文句を言っておったが、構わぬのか」

 義満はそう言って、近臣の伊勢照禅(貞継)に目をやった。

管領かんれい殿、畠山だけではありませんぞ。それがしのところには仁木にっきや京極からも、河内守かわちのかみ救出の苦情が聞こえております。一守護大名を助けるために、諸将を動かすのは筋違いじゃと言うております」

 照禅の言葉に、頼之は苦々しい表情を浮かべる。

「御所様、これは河内守を守る戦いにあらず。矢面やおもてに立っているのは河内守なれど、これは、南方みなみかたが南摂津を奪いにきた戦です……」

 続けて照禅に体を向ける。

「……では、照禅殿におたずねしたい。河内守が討たれれば、南方みなみかたは大人しく兵を引くと思うておられるのか」

 そう言って頼之は照禅の顔を睨んだ。

「さ、さあ、それは……」

「御所様に、苦情をそのままお伝えするばかりが側役そばやくの務めではありますまい。諸将をさとすのも照禅殿の努めではありませぬか」

 自分の息子ほどの頼之が、正論で責めてくることに、照禅はほぞを噛んだ。

「判った、弥九郎(頼之)。もう、伊勢を責めるでない。将軍の名で諸将を摂津に送るよう下知げちせよ」

 面倒は御免とばかりに、義満は頼之に後を任せた。


 危機が迫る瓜破うりわり城。正儀はその広間に、たつを呼び寄せる。南軍が撤退したことで、たつは再び城に出仕していた。

此度こたび、我らは榎並えなみ城へ兵を引く事とした。これも、無駄な戦をせぬためじゃ。そなたらは、前と同じように、それぞれの家に帰るか、寺にかくまってもらうようにせよ」

「私は……やはり、楠木の者ではないからでしょうか……」

 その言葉に面食らう正儀に、たつが詰め寄る。

「……このような時こそ、たつはみなさま方のそばりとうございます」

「なぜ、そうまでして……」

 正儀は、たつの気持ちを量りかねた。しかし、思いつめたその表情に、正儀も折れる。

「そなたが、楠木の者と同心したいと言うのであれば、榎並えなみ城にくるがよかろう。榎並えなみまで敵が押し寄せる事もあるまい」

「あ、ありがとうございます。一生懸命にみなさまの御世話を致します」

 たつに安堵の表情が戻り、頬にほのかに紅色が差した。正儀はそんなたつの様子に当惑の表情を浮かべた。


 翌日、瓜破うりわり城の楠木軍は取るものも取り敢あえず、慌ただしく城を出て、榎並えなみ城まで撤退した。

 その榎並えなみ城の広間。諸将を前にして腰を下ろし、一息つく正儀の元に菱江忠元が現れて床に拳を付く。

「殿、全員、撤退を完了致しました」

「うむ、ご苦労であった。で、弥太郎(忠元)、兵糧はどのくらいあるか」

「はい、今、人足にんそくどもに、兵糧庫へ運ばせております。およそ一月ひとつき分かと」

心許こころもとないな。渡辺(すぐる)殿に渡りを付け、淀川から舟で兵糧を運び入れられるようにしておくのじゃ。三月みつき籠城ろうじょうできるようにな」

「そんなに……しょ、承知致しました。では、ただちに」

 驚いた顔で忠元は下がって行った。

 榎並えなみ城に入った楠木党は、兵糧の確保とともに、へいを修繕して逆茂木さかもぎを設け、籠城ろうじょうに備えた。

 一方、正儀が撤退した瓜破うりわり城は南軍に占領される。南軍は総大将の四条隆俊に、橋本正督(まさただ)、和田正武ら諸将が従っていた。その中には、楠木正澄と楠木正勝の姿もあった。


 五月八日、幕府管領(かんれい)の細川頼之は、将軍の名で、近隣の諸将に正儀救援のため、南摂津へ向かうよう下知げちした。めいを受けたのは、丹波守護の山名氏清、若狭守護の一色いっしき詮範あきのり引付方ひきつけかた頭人とうにん仁木にっき義尹(よしただ)、幕府評定衆の京極高秀、そして侍所頭人さむらいどころとうにんの畠山基国らであった。

 諸将は足利義満の手前、無視することもできず、渋々出陣に応じた。しかし、わざとゆっくり進軍し、七日後にやっと、榎並えなみ城の淀川を挟んで北岸に陣を張った。

 布陣した諸将は、さっそく集まって軍議を開く。ここで口火を切ったのは若く血気盛んな畠山基国であった。

「おのおの方、管領かんれい殿は河内守を援けよと申されるが、その舎弟や息子は南方みなみかたとして攻めてきているという。楠木を守るために楠木と戦えというのか。馬鹿げておる。いっそ正儀など討たれてしまえばよい。その後、我らが南方みなみかたを打ち破れは一石二鳥ではござらんか」

 一色いっしき詮範あきのりが我が意を得たりとひざを打つ。

「うむ、そうじゃな。何も我らが河内守(正儀)を援けなくとも、南軍さえ討てば文句はなかろう。きっと、大方禅尼おおかたぜんに様も御味方下さる。では、淀川を渡らずに、しばらくこちらの岸から様子を見ておくか」

「わしも賛成じゃ。楠木にはこれまで散々、煮え湯を飲まされておる。我が兄や甥も楠木に討たれて亡くなったのじゃ。目の前で楠木が討たれるのは、見ものじゃ」

 そう言って、京極高秀も頬を緩めた。

 しかし、父、山名時氏の豪胆な性格を受け継ぐ山名氏清は、基国の言い分を鼻で笑う。

「畠山家はかつては幕府方の河内守護(しゅご)家柄いえがら。畠山殿が言う一石二鳥とは、河内守が討たれ、その後に我らが南方みなみかたを打ち破れば、河内の守護はそなたに転がり込むというようにも聞こえるがのう」

「何じゃと、この裏切り者が」

 基国は吐き捨てるように雑言ぞうごんで応じた。氏清の父、時氏は、正儀が幕府に降る八年も前に、南朝から幕府に転じていた。

「若造、聞き捨てならん」

「何をっ」

 氏清と基国が同時に床几しょうぎから立ち上がった。つかみかかろうとする二人を、他の諸将が止めに入る。

「二人とも、その辺にされよ。我らがいがみ合っていたのではどうにもならん」

 年長の高秀がその場を収める。一枚岩とはいえない幕府軍であったが、とりあえず、正儀が南軍に討たれるまで、淀川の北岸に陣を布いて動かぬということだけは決まった。


 南軍は瓜破うりわり城の陣を発ち、榎並えなみ城へ迫っていた。やぐらの上から降りてきた津熊義行が、小具足こぐそく姿の正儀の前で片ひざ付く。

「殿、南軍はこの城からあと一里までに迫りました」

 義行の報告に、正儀のかたわらの河野辺正友が心配そうな顔をする。

「援軍は淀川の北に布陣したまま、川を渡る気配がありませぬ。これでは南軍に攻めてくれと言っているようなものでござる」

 諦め顔で正儀が溜息をつく。

「やはり、幕府の諸将は、我らを助ける気がないと見える」

「催促をかけましょうか」

 正友の隣から菱江忠元が進言するが、正儀は首を横に振る。

「無駄じゃ。ここはやはり、管領かんれい殿(細川頼之)におすがりするしかなかろう。弥太郎(忠元)、すまぬが、渡辺択わたなべのすぐる殿にお願いし、舟で京へ向かってくれぬか。この窮状を管領かんれい殿へお伝えし、幕府軍を動かしてもらわねばならん」

「承知つかまつった」

 忠元はすぐにその場を下がった。

 正儀は聞世(服部成次)を呼び寄せて、正友とともに館の中に入った。

「淀川の北岸にいる幕府の諸将は、我らが南軍に討たれるのを待っておるようですな」

 苦々しそうに話す聞世に、正儀も頷く。

「おそらく我らが討たれたところで淀川を渡り、疲弊した南方みなみかたを襲う気であろう。二万の軍勢じゃ。南軍はひとたまりもあるまい」

「左様にございますな」

 正友は険しい表情を浮かべた。

「わしのみならず、南軍の太郎(橋本正督(まさただ))や小太郎(楠木正勝)らまで討たれることあらば、楠木の血筋は途絶える。帝(長慶天皇)を京にお戻しあそばすことは叶わなくなる。南方みなみかたと我らが戦うことは無益じゃ。この戦は避けねばならん。聞世、南方みなみかたの四郎(楠木正澄)に、この状況を伝えてくれぬか。太郎や諸将が早まった事をせぬように」

 そう言って、正儀は聞世に頭を下げた。戦で高揚する敵陣に忍ぶという危ない役目であった。

「殿(正儀)、それがしとて、楠木一門のはしくれ。一門が分かれて争う姿は見たくありませぬ。四郎殿への繋ぎは任せてくだされ」

「すまぬ」

 正儀は聞世にじり寄り、肩に手を置いた。


 この後、南軍は榎並えなみ城の目前で進軍を止め、正儀率いる楠木軍と睨み合う。大将の四条隆俊が、正儀の意を受けた楠木正澄の進言を聞き入れたためであった。

 隆俊は、目の前の榎並えなみ城を攻めたいが、正儀を討ち取ってしまえば、直後に、後ろに控える二万の幕府軍を相手にしなければならない。かと言って、ここで引き返す踏ん切りも着かない。一先ひとまず、兵糧攻めにするべく榎並えなみ城を囲んだ。


 五月十九日、幕府管領(かんれい)の細川頼之が、自らの屋敷で目を吊り上げ、顔を真っ赤にしている。怒りが頂点に達していた。

 事は一昨日。正儀が京に送った菱江忠元から、援軍の諸将が淀川の北岸に留まっていることを聞き、さっそく督促とくそくの使者を送った。だが、それでも諸将は兵を動かさなかったからである。

 日頃から諸将の身勝手な言い分に苦慮していた頼之は、拳を握りしめて立ち上がる。

管領かんれいめいを聞けぬというのであれば、幕府に管領かんれいなど必要ない。そのほうは、御所様(足利義満)に、弥九郎(頼之)は管領かんれいを辞めて隠居すると伝えて参れ」

「と、殿っ、お、お待ちくだされ……」

 慌てる老臣を残し、頼之はすごい剣幕で屋敷を出て行った。そして、その日のうちに、西山の西芳寺さいほうじに籠ってしまう。

 細川家の老臣は、大慌てで三条坊門第に駆け込んだ。

 数えて十四歳の将軍、足利義満は血相を変える。すぐに伊勢照禅と相談して、赤松則祐(そくゆう)を呼び出した。義満が幼い頃、京に侵攻した南軍に追われ、則祐そくゆうの白旗城にかくまわれたことがあった。それ以来、京の赤松邸をたびたび訪ねるほどに、信頼を寄せていたからである。

 則祐そくゆうは身体の調子を崩して病床にあった。それでも、幼い時より、子や孫とも思っていつくしんだ義満の頼みとあって、無理を押して将軍御所に出仕した。入道頭の則祐そくゆうが、家臣に脇を支えられるようにして、義満の前に座る。

 上段に座る将軍の表情は強張っていた。

「御所様、いかがされました」

「播磨守(則祐そくゆう)よ、弥九郎(頼之)が怒って隠居すると言っておる。どうしたものか」

「何も困る事はありますまい。日頃から、御所様は細川頼之を煙たがられていたではありませぬか。管領かんれいを代えるよい機会ではありませぬか」

「いや、弥九郎(頼之)は、いつもに厳しいことを申すが、それも、を思ってのことであろう。も弥九郎を信頼しておる」

 その言葉に、則祐そくゆうは表情を緩める。

「そのお言葉をお聞きしとうございました。であれば、それがしも武蔵守むさしのかみ(細川頼之)が管領かんれい職に留まるよう力を尽くしましょう。将軍、明日、ご一緒に、西芳寺さいほうじに参りましょうぞ」

 義満は、則祐そくゆうの言葉を聞いて、やっと安堵の表情を浮かべた。


 翌日、義満は則祐そくゆうを供に、頼之が籠る西芳寺さいほうじに出向いた。

 わざわざ出向いてきた義満と則祐そくゆうを前にして、頼之はかしこまった。

「弥九郎(細川頼之)、頼む、戻って来てくれ。そなたが管領かんれいを辞めては、幕政が立ちゆかぬ」

「御所様、わざわざ足を御運びいただき、たいへん恐縮なれど、それがしなど、何の力もございませぬ。管領かんれいに戻ったとしても、諸将はそれがしの言うことを聞かぬでしょう」

 頼之は簡単には折れなかった。

 二人の会話に則祐そくゆうが割り込む。

「武蔵守(頼之)殿、そなたに全ての苦労を背負わせたのは、我らの責任もある。諸将が言うことを聞かぬのは今に始まったことではない。わしはそなたに同情を禁じ得ぬ。されど、そなたが管領かんれい職を続けてくれるのであれば、わしと道誉殿が諸将の説得にあたろう」

「京極入道殿(道誉)もでございますか」

「そうじゃ、道誉殿は我がしゅうとでもある。わしが説得にあたろう」

 則祐そくゆうの申し出は、頼之にとってありがたいものであった。則祐そくゆうと京極道誉は、足利尊氏の時からの重鎮で、幕府の諸将も一目置く存在だからである。しかし、頼之は道誉の言質げんちが欲しい。

「ありがたいお話なれど、入道殿がそのような役回り、はたしてお引き受けいただけるか……」

「まあ、そなたが言うこともわからぬではないが、ただの一度も、足利将軍を裏切ったことはありませぬぞ。意外と義理堅いお方じゃ」

 頼之も、言われてみれば、そうかとも思う。結局、義満と則祐そくゆうの説得を受けて、幕府管領(かんれい)に留まることにした。則祐そくゆうは約束通り道誉からも、諸将の説得に尽力する旨の返事を得て、頼之に伝えた。


 六月二十二日、南軍が正儀と睨みあいをはじめて一月ひとつき。淀川の北岸に布陣して動かなかった畠山基国、京極高秀、一色いっしき詮範あきのり仁木にっき義尹、そして山名氏清が、突然、淀川を渡りはじめた。

 物見ものみに出ていた和田良宗が、榎並えなみ城と対峙する南軍の本陣に戻る。

「申し上げます。幕府軍は大挙して淀川を渡っております」

 この知らせに、橋本正督(まさただ)は驚き、大納言の四条隆俊に向き直す。

「大納言様、これはさすがに分が悪うございます。いったん軍を引くのが得策と存じます」

「和泉守、そもそのように思うか」

 隆俊は、信頼する和田正武にも考えを求めた。

「伊勢の援軍でもない限り、これを支えるのは難しいかと存じます。それがしも、ここはいったん南に兵を引くのがよいかと思います」

 この頃、伊勢国守である内大臣の北畠顕能(あきよし)は、伊勢国安濃(あのう)郡の支配を巡って土岐左馬助(さまのすけ)義行と争い、伊勢を離れる余裕などなかった。

「わかった。そのほうらの言う通りにしよう。ただちに兵を引くように諸将に下知げちせよ」

 隆俊のめいで、南軍は撤退を開始し、藤井寺まで兵を下げる。そして、ここからあっさりと河内・和泉に兵を引き揚げた。

 一方、幕府軍は、河内・和泉に撤退した南軍を牽制するため、三手に別れて、河内・和泉方面に駐留した。


 八月六日、南軍にしばらく動きがなかったことで、畠山基国ら幕府軍は河内・和泉への駐留を止め、兵の引き揚げをはじめた。諸将にとっては、大軍を留め置くだけでも、たいへんな出費だからである。

 だが、南軍の総大将である大納言の四条隆俊は、この機会を待っていた。

 行宮あんぐうとした天野山金剛寺の食堂じきどう。そのきざはしの前には、急遽、招集を受けた直垂ひたたれ姿の南軍の諸将が座っていた。

 隆俊は、殿上てんじょうの縁に立ち、したり顔で殿下でんかの諸将を見渡す。

「幕府軍が撤退を開始した。麿はこの時を待っておった。皆、戦支度いくさじたくを整えよ。今度こそ、逆賊、正儀を討ち取って、住吉、堺浦を取り返そうぞ」

 隆俊の言葉を受け、前列の和田正武がすくっと立ち上がり、武将たちに振り向く。

「大納言様の言われる通り、敵が引いた後が一番の好機。この機を逃さず、兵を北進させようぞ」

 片手を突き上げる正武に、南軍の諸将も小具足こぐそくをがしゃっと鳴らして立ち上がる。

「うぉおっ」

 一同が気勢で応じた。

 しかし、中には浮かない顔の者もいる。十七歳の楠木正勝は、父、正儀と戦をすることに、割りきれない思いが募っていた。後見役の楠木正澄も、もちろん同じ気持ちではあるが、そこは年の功で表情には出さない。

「小太郎(正勝)、しかと気を保て」

 正澄は正勝に小声で注意をうながした。

 殿上てんじょうの四条隆俊は、素知らぬ振りで、その様子をうかがっていた。楠木一族が正儀に通じているのではないかと、日頃から疑っていたからである。


 一方、正儀の姿は瓜破うりわり城にあった。南軍が河内・和泉へ去ったことで、避難先の榎並えなみ城を引き揚げていた。

 その館の広間で正儀は河野辺正友と、摂津の領国経営について話し合っていた。そこへ、菱江忠元が強張った顔で現れて、二人の前に座る。

「殿、再び南軍が兵を集めております。直にこの城へ押し寄せて参ります」

「ふう……やはり諦めておらんか……」

 凶報に、正儀の顔は曇った。幕府の諸将が河内・和泉から撤退し、正儀が瓜破うりわり城に戻った、わずか半月後のことであった。

「幕府の諸将が撤退した直後です。もともと我らを助けるつもりのない大名たちが、再度の出兵に応じるかどうか」

 正友は、眉間に皴を寄せ、悲観的な観測を口にした。もちろん正儀とて同じである。

「それでも、管領かんれい殿に助けていただくしかあるまい。すぐに使いを送ろう」

「殿、して、此度こたびも、榎並えなみ城まで引かれますか」

「仕方あるまい」

 苦渋の表情で、正儀は息を吐いた。正友と忠元も、顔を見合わせて溜め息を漏らすしかなかった。

 正儀は、すぐにたつを呼び寄せ、女どもに親族や寺に身を寄せるように命じた。この度は、はなからたつの帯同を許すことはなかった。それだけ、厳しい戦が待ち受けていた。

 男どもは大急ぎで瓜破うりわり城を出て、榎並えなみ城に向かう。荷を載せた馬の手綱たづなを引く津田正信の顔にも疲労の色が見て取れた。

「いつまでこのようなことが続くのか」

「仕方がないであろう。文句を言わず、荷を運ぶのじゃ」

 義兄の篠崎正久がたしなめる。しかし、正久とて、この不毛な戦に辟易としていた。


 幕府管領(かんれい)の細川頼之は、正儀からの援軍要請の書状を前に置き、溜息をつく。さすがに先に出兵した諸将に頼むことははばかられた。

右京大夫うきょうのだいぶ(細川頼元)と播磨守(赤松則祐(そくゆう))、それと京極入道殿(道誉)にただちに出兵するように申し伝えるのじゃ。他にも摂津の豪族に命じて、集められるだけ兵を集めよ」

 近臣に向けて頼之は命じた。今、頼之に動かせる兵といえば、これだけしかなかった。


 南軍は、榎並えなみ城への途上にある四天王寺に布陣する。総大将の四条隆俊は、総攻めの前に軍議を開いた。食堂じきどうの中、隆俊は床几しょうぎに座り、床に胡座あぐらく諸将を前にする。

此度こたびの総攻め、先陣は楠木伊予守(正澄)、楠木少輔(しょうゆう)(正勝)、そなたたちに任せたい。見事、正儀を討ち果たし、一族の汚点を晴らしてみよ」

 楠木正勝は、思わず上目遣いに隆俊の顔をうかがう。

(父上が汚点……)

 心の中で呟いたはずの声は、顔に出ていた。慌てて楠木正澄が正勝の背中を小突く。

「承知つかまつりました。必ずや正儀が首、上げて参ります」

 正澄は正勝をうながして、ともに頭を下げた。

 そんな正勝の様子を見かねて、橋本正督(まさただ)が口を挟む。

「大納言様(隆俊)、お待ちください。何も血を分けた親子、兄弟を戦わせずともよろしいのではございませぬか」

民部大輔みんぶのたいふ正督まさただ)、そなたは麿の差配が不服か。伊予守(正澄)が勇ましく首をとると申しておるのじゃ。そなたが口を出すことではあるまい」

 隆俊が厳しい目を正督まさただに向けた。すると、正澄が正督まさただに、それ以上、構うなとばかり、首を小さく横に振った。

 正澄と正勝の顔を一瞥いちべつした正督まさただが、再度、隆俊に向き直す。

「大納言様、であれば、それがしも先陣にお加えください。伊予守殿と少輔しょうゆう殿(正勝)にだけ、正儀と戦わせるのは忍びありません。正儀が甥として、それがしも参りましょう」

 隆俊は下目に正督まさただを見て微笑む。

民部大輔みんぶのたいふは面白いことを言う。よかろう、そのほうも先陣を務めよ」

「はっ」

 硬い表情で、正督まさただは頭を下げた。

 一方、和田正武は、この楠木一族の葛藤を、残念そうに見澄ましていた。


 榎並えなみ城は、慌ただしく南軍を迎え撃つ準備に追われていた。

 城の外では、正儀の猶子ゆうし、津田正信と篠崎正久が、兵を率いて逆茂木さかもぎを城の周りに巡らせる。

 一方、城の中では正儀が、河野辺正友、菱江忠元、渡辺択わたなべのすぐる、津熊義行らを集めて戦評定を行った。ただ、正儀らの兵だけで、南軍を押し返すのは不可能で、幕府の援軍に期待するしかなかった。

 大望の援軍は、南軍が仕掛ける前に、淀川の対岸に到着し、正儀らを安堵させる。そこには、細川、赤松、京極の紋が入った旗がなびいていた。

 幕府管領(かんれい)の細川頼之は、舎弟、細川頼元を差し向けた。その細川軍には北摂津の豪族たちが加わっていた。

 頼之を助けると約束した赤松則祐(そくゆう)は、自らは病床にあったため、重臣たちを後ろ盾に、まだ十三歳の嫡男、赤松義則(よしのり)を差し向けた。

 もう一人、頼之を助けると約束した京極道誉は、一族の朽木くつき氏秀に兵を付けて差し向けた。氏秀は高島郡後一条の地頭じとうで、京極家の重鎮である。跡継ぎの京極高秀が、先の出兵で頼之と揉めてしまったことによる代役であった。

 細川頼元、赤松義則、朽木くつき氏秀の軍勢は、それぞれ淀川を越えて南下した。そして、榎並えなみ城の南に布陣した南軍五千騎に対して、赤松義則はその東に三千、朽木くつき氏秀は西に三千、さらに、榎並えなみ城を守るようにその周囲に細川頼元の軍勢三千が布陣する。

 一方、正儀らおよそ五百の楠木軍は榎並えなみ城に籠城ろうじょうしたままであった。

「殿、正面は非理法権天ひりほうけんてんと菊水。若殿(楠木正勝)と後舎弟殿(楠木正澄)ですぞ……」

 やぐらの上から津熊義行がさらに続ける。

「……太郎殿(橋本正督(まさただ))の橋本党も加わっております」

 やぐらの下では、正儀、河野辺正友、猶子ゆうしの篠崎正久、津田正信らが険しい表情を見せる。

「父上、ここは以前のように、戦をした振りで、この難局を乗り切りましょう」

「そうしたいのは山々なれど、四郎(楠木正澄)らは南軍の総大将、四条大納言(隆俊)らの本営を後ろに背負っておる。行動は見張られておるようじゃ。四郎(楠木正澄)は試されておるのやも知れん。わしらと通じていないのかと」

南方みなみかたが大人しく兵を引き上げる事を、願うしかありませぬな。細川殿(頼元)にも、こちらから仕掛けないようにと伝えておきましょう」

 正友の言葉に、正儀はゆっくり頷いた。


 九月六日、正儀らの願いはむなしく、和田正武配下の兵が朽木くつき氏秀の軍に放った矢がきっかけで戦が始まった。矢会わせは、冬の吹雪を思わせるほどに凄まじく、最初の矢会わせだけで、双方に死傷者が多数生じる。

 直後、和田の騎馬隊が勇ましく、朽木くつきの陣営へ切り込みをかけた。この戦いをきっかけに、湯浅党や隅田すだ、山本などの紀伊勢、また、大和十津川(とつかわ)勢も、西に布陣した赤松義則の軍勢に攻め掛かった。

 しかし、榎並えなみ城を前に、南軍の橋本正督(まさただ)躊躇ちゅうちょしていた。さすがに正督まさただも、強硬派の公卿くぎょうたちの無謀さには疑問を感じていた。

 一方、楠木正澄と楠木正勝は、いかにして正儀と戦わないようにするか、そればかりを考えていた。兵たちの状況は一触即発であったが、双方の大将の躊躇ちゅうちょが、兵たちを睨み合わせたまま、何とか均衡を保っていた。しかし、その均衡は一人の若武者によって破られる。

「楠木を討つ。我に続け」

 勇ましく、馬を駆って正勝・正澄の楠木軍に切り込んで行ったのは池田教正(のりまさ)であった。教正のりまさは、正儀の兄、楠木正行(まさつら)の次男で、正儀と楠木家を深く恨んでいた。その教正のりまさが正儀を守るはめになるとは、皮肉なものであった。

「正儀を討てないのは残念であるが、代わりに南方みなみかたの楠木を血祭りに上げてくれよう」

 楠木軍の中に入った教正のりまさは刀を振った。その突入に釣られて、細川頼元旗下(きか)の武将たちが、それぞれに南軍の正面を突く。もはや戦を避けることは不可能であった。

 正澄も郎党たちに抗戦を下知げちする。

「兵を押し出せ。幕府軍を押し返すのじゃ」

「我に続け」

 攻めくる幕府軍に、正勝も討って出ようと馬を駆った。

 一方、南軍に突入した池田の一隊は、南軍楠木の兵の囲みを破って、正勝・正澄の首を目指していた。

「我こそは、摂津池田の住人、池田兵庫助(ひょうごのすけ)十郎教正(のりまさ)じゃ。楠木の大将、尋常に勝負せよ」

 この挑発に乗り、正勝が馬の手綱たづなを引いて前に出ていった。双方の顔がわかる距離まで近づいた時、騎馬武者が一軍を率いて割って入る。

「池田十郎(教正のりまさ)、わしが相手になろうぞ」

 立ち塞がったのは、かたわらに和田良宗を従えた正督まさただであった。

「お前は、いつぞやの……」

 教正のりまさは、河尻かわじりとまりの戦で、刀を合わせた正督まさただの顔を覚えていた。

「……お前は何者じゃ」

「わしは河内・和泉の守護、橋本大輔(たいふ)正督まさただじゃ。元の名は楠木太郎正綱。お前の兄じゃ」

「何……」

 教正のりまさの動きが止まった。

「我が父は楠木正行(まさつら)、そして母は内藤満子(みつこ)。わしとお前は父母を同じくする兄弟ぞ」

「あ、兄……じゃと」

 目を見開いて驚く教正のりまさであったが、考えている暇はなかった。動きの止まった教正のりまさの背後から南軍楠木の兵が襲い掛かる。今度は教正のりまさに危機が迫った。

「やめよ、やめよ。この者を討つな」

 和田良宗が間に入って叫んだ。正勝も事態を察して兵を留める。

 呆然とする教正のりまさは、郎党にさとされ、反転して、味方の陣中へと戻っていった。

 しかし、一度、火がついた双方の軍勢は収まる気配はなく、戦いは激しさを増していった。

 南軍は劣る兵力ながら、西に東に、そして北の榎並えなみ城へと、幕府軍に伍して戦った。しかし、長引けば兵力の差が見えはじめる。正勝と正澄が率いる楠木軍も、細川頼元旗下(きか)の軍勢に押されはじめた。

「くそ、押し返せ、引くな」

 正勝は力を振り絞って声をあげた。

 そこに、新たな一軍が目の前に現れる。

「何、菊水の旗じゃと」

 菊水の旗を掲げて正勝の前に現れたのは、今は敵方の義兄、篠崎正久であった。続いて細川勢の間を割って菊水の旗が続々と現れた。最後には正儀も馬に跨り姿を現す。

「我こそは楠木河内守正儀じゃ。諸将に守っていただいてばかりでは申し訳ない。我らも武士の意地がござる。皆とともに我らも戦いましょう。それ、皆の者、突入せよ」

 正儀の下知げちで、正久に続いて津田正信、菱江忠元、津熊義行らが、非理法権天ひりほうけんてんと菊水の旗を掲げた兵を率いて突入した。

「河内守殿御自(おんみずか)らが前線に駆け付けてくれたぞ」

 下知げちを聞いた細川の兵たちは歓喜に沸いた。しかし、それも束の間、その歓喜は、すぐに困惑の声に変わる。

「て、敵はどっちじゃ」

 敵も味方も非理法権天ひりほうけんてんと菊水の旗を掲げ、交じり合って戦っていた。細川の兵たちは、どちらに加勢すればよいのかわからず、困り果てる。

 細川軍の侍大将が正儀の元に走り寄る。

「河内守殿、これでは敵か味方が、区別がつかなくなります。お気持ちは嬉しいが、ここは、いったん撤退いただきたい」

「しもうた。これはわしとしたことが迂闊うかつであった。すぐに命じて撤退させたいが、すでにこのようになってしまっては……」

 正儀は馬上でとぼけてみせた。

 そうするうちに、まず、細川軍の兵たちが戸惑って動きを止める。次に、敵と味方に別れた楠木の兵たちも、自然、互いに躊躇ちゅうちょが生じ、動きが止まった。

 その中に、篠崎正久の姿もあった。

 正久は馬から降りて手を差し伸べる。

「小太郎(正勝)、大丈夫か」

「二郎兄者(正久)、これはいったい……」

「父上(正儀)の御指図じゃ。我らが菊水の旗を掲げて突入すれば、幕府軍は手を出せなくなると考えてな。されど、南から和泉の淡輪たんのわ左近将監さこんのしょうげん殿(光重)、大鳥郷の田代顕綱殿が突入した。南軍が壊滅するのは時の問題じゃ。大崩れせぬうちに軍勢を立て直し、負傷した者を連れて河内に逃げよ。父上(正儀)はそなたたちを救うために、わしらを前線に送ったのじゃ」

「ち、父上がそのようなことを……」

「当たり前ではないか。そなたは父上(正儀)の嫡男ぞ」

 正勝は正久の手を握り返した。

「二郎兄者、わかった。この戦場いくさばから脱出してみせよう」

「おう、早う行け」

 正勝は、その場で郎党を集めて撤退を命じた。

 同様の内容が、正澄には菱江忠元から、正督まさただには津熊義行から、それぞれ伝えられていた。南方みなみかたの楠木・橋本軍は、追撃する幕府軍をかわしながら河内・和泉に退いていった。

 一方、東の朽木くつき氏秀と戦っていた和田党や、西の赤松義則と戦っていた湯浅党など紀伊衆は、すでに総崩れして散り散りに撤退をはじめていた。

 南方みなみかたの総力戦ともいえたこの戦は、またもや南軍の敗北で終わったのである。


 数日後、南朝の行宮あんぐうである天野山金剛寺では、大納言の四条隆俊が帝(長慶天皇)に拝謁し、戦の結果を報告していた。

 負け戦と聞いて、帝は項垂うなだれる。

此度こたびも、摂津を回復することは叶わず、ちんは住吉に戻ることはできなかった。四条大納言、そなたの申すことと、ずいぶんと違う結果となったが……」

「め、面目次第もございませぬ。正儀めに加担した和泉の淡輪たんのわ、田代らが、われらが背後から襲ってきたことが敗因でございます」

「伊勢では、北畠内府(ないふ)(内大臣)が善戦しておるようじゃ。四条大納言も内府ないふのように、摂津・和泉で朝廷の威厳を取り戻すようにせよ」

 帝は隆俊に厳しい言葉を投げかけて、奥へと下がっていった。

 隆俊は、面子にかけても、このまま終わるわけにはいかない。しかし、諸将に下知げちした三度目の出陣は、隆俊の思い通りにはならなかった。橋本正督(まさただ)や楠木正澄・正勝は、先の戦での被害が大きく、とても出兵できないと断りを入れる。和田正武でさえも出兵を躊躇ちゅうちょするありさまであった。


 十一月三日、それでも三度みたび、南軍が出陣する。四条隆俊は、楠木・橋本・和田らが出陣を渋る中、自らが動かせる湯浅党などの紀伊勢を、正儀が戻った瓜破うりわり城に差し向けた。

 瓜破うりわり城では、この南軍の侵攻に対して軍議を開いていた。物見ものみから戻った聞世こと服部成次が絵地図を指差す。

「殿(正儀)、天野山の行宮あんぐうを発った南軍は、誉田こんだの森に陣を張りました。此度こたびの主力は湯浅党らを中心とする紀伊勢でございます。楠木も橋本も、和田さえもりません。その数は、先の戦の半分にも満たないと思います」

「そうか…」

 聞世の報告に、正儀は目をつむり、ゆっくりと息を吐いた。自軍が兵を失うばかりでなく、南軍も兵力を失うことに、心底、うれいていた。

 南軍の力が削がれるたびに、正儀の和睦の目論見もくろみは遠のいていった。正儀は、南軍が……というより、己も含め南朝の帝の力となる武将が、力を保ったままで幕府との和睦を成し遂げることが重要だと考えていた。和睦後に、京に戻った後の南朝の帝を支える武力が必要であったからである。

「なぜ先を考えずに、幕府に挑み続けるのじゃ。自ら滅びの道に進んでいるのがわからんのか」

 正儀は苦々しく呟いた。


 十一月五日、再び細川頼元と赤松義則が、瓜破うりわり城の救援に駆け付ける。今度は、正儀の楠木軍も城から討って出て、南軍と戦った。今度の相手には楠木一門が居ないこともあり、正儀配下の兵たちも手加減なく戦い、南軍を押し戻した。

 湯浅党だけでも百人の死者が出る。合戦は正儀、頼元、義則の大勝に終わった。

 戦が終わった戦場いくさばに、正儀は一人、呆然と立ち尽くす。そこには、双方の兵の亡骸なきがらが横たわり、負傷した兵たちが悲痛な叫びを上げて、うごめいていた。

「四条卿(隆俊)、この戦に、どのような大儀があるというのか。なぜ戦われる。多くの者どもが死んだだけではないか」

 その場に正儀は一人(たたず)み、胸のうちを吐露した。

 度重なる無謀な合戦で、南軍は多くの兵を失った。結果、摂津へ北侵する戦力を完全に失う。そして、負け戦は、帝(長慶天皇)の威厳をも失墜させた。


 瓜破うりわり城を守り切った正儀だが、心は晴れなかった。

 ある夜、正儀は風に当ろうと館の縁側に出る。晩秋の夜風は身震いするほどに冷たかった。すぐに中に戻ろうとしたが、空を見上げて思わずたたずむ。そこには、薄く雲のかかった月があった。

「お前まで、心が晴れぬのじゃな」

 月に向かって正儀は話しかけた。

 ふと耳を澄ますと、笛のが聞こえる。

「いったい誰が……」

 音色に手繰たぐり寄せられるように、庭に下りて外を歩いた。本丸(主郭)の隅で切株に腰をかけて笛を吹いていたのはたつであった。それは、竹でできた小振りな横笛である。

「この寒い中、こんなところで笛を吹いておったのか」

 その声で笛のが止まる。たつは少し驚き、少しはにかんでいた。

「いえ、館の中では、ご迷惑と思いまして。殿様(正儀)こそ、いかがされました」

「いや、何でもない。誰が吹いているのであろうと思うてな」

「笛がお好きですか」

「わしも笛を……一節切ひとよぎりを吹くのじゃ」

「まあ、そうでございましたか。今度、私にもお聞かせください」

「わしの一節切ひとよぎりは、小太郎(楠木正勝)に与えた。もう、わしの手元にないのじゃ」

 そう言って、正儀は苦笑いを返した。

「そうでございますか……では、私の笛でよろしければ、どうぞお聞きくだされ」

 代わりにたつが、横笛に息を吹き込んだ。

 正儀の一節切ひとよぎりより、ずっと高い音色である。その調べは、瓜破野うりわりのに散ったつわものどもへのはなむけのようでもあった。もの悲しい音色に、正儀の瞳が自然と濡れる。自らの手で南軍に大きな痛手を与えた正儀は、ずっと後悔の念にさいなまれていた。

 月あかりに一瞬光った正儀の瞳に、たつが思わず笛から口を離す。

「殿様(正儀)、いかがされました」

「いや、何でもない。今宵こよいはよいものを聞かせてもろうた。礼を言う」

 直垂ひたたれたもとで涙をぬぐった正儀は、背を向ける。そして、たつに振り向く事もなく、そのまま館に戻ろうとした。

「行かないでください……」

 募る思いに、たつは自分をごまかし切れなくなっていた。

「……辛いことがあれば、たつに何なりとお話しください。辛いことは、たつにもお分けください。このような時こそ、ずっと殿様の側にりとうございます。たつは……たつは、殿(正儀)をお慕い申し上げております」

 ついに胸のうちを吐露したたつは、正儀に駆け寄って背中に顔を当てた。

 思わず正儀は目を閉じる。これまで、たつの気持ちに、気づいていない訳ではなかった。知らぬ振りを続けていた。

「わしは東条に残してきた奥がいる。奥と同じように、そなたの気持ちに応えてやることはできぬであろう」

 たつは、正儀の背中に当てた顔を左右に振る。

「奥方様と同じようになどとは、つゆほども思うておりませぬ。私が勝手に殿様(正儀)をお慕い申しているだけでございます。殿様(正儀)の御世話をしたいだけでございます」

 正儀はたつをいじらしいと思う。自然と身体が振り返り、その華奢きゃしゃな身体を抱きしめた。

 すると、たつは安堵の表情を浮かべ、夜風で冷たくなった顔を、正儀の胸にうずめた。


 建徳二年(一三七一年)は、こうして、かつての味方同士、さらには肉親同士の戦で暮れていった。そしてこの年は、幕府にとって大きな存在の二人が亡くなった年でもあった。

 十一月二十九日、瓜破うりわり城の戦から間もなくのことである。赤松の京屋敷にて赤松則祐(そくゆう)が亡くなった。

 則祐そくゆうは、大塔宮おおとうのみやこと護良もりよし親王の側近として仕えた。その後、親王と敵対した足利尊氏の元で、幕府の重鎮になるという数奇な運命を生きた。

 将軍、足利義満は赤松邸を訪れて、則祐そくゆうの亡骸を前に涙する。

「播磨守(則祐そくゆう)、そなたは、最後までを助けてくれた」

 病気を押して、西芳寺さいほうじに出向き、細川頼之の管領かんれい辞任を押し留めたことが思い出された。

 そしてもう一人、則祐そくゆうの死から遡ること八カ月前、伯耆ほうきにて山名時氏が亡くなっていた。

 新田の支族に生まれたが、早くから足利尊氏に味方して、正儀の兄、楠木正行(まさつら)とも熾烈な戦いを繰り広げた。しかし、その後は南朝に転じて京へ攻め込み、最後は再び幕府に帰参した。ひとえに、領国を増やし、力を蓄え、あわよくば、将軍に変わって天下に号令することを夢見た梟雄きょうゆうであった。

 ともに乱世を生き抜いた武勇名高い二人の名将は、隣接する美作みまさかなどの領国を巡って、たびたび争った間柄あいだがらでもあった。その二人が、しくも、同じ年に世を去ったのである。人々は、きっとあの世でも合戦をしていることであろうとうそぶいた。


 年が明け、文中元年(一三七二年)春。赤松則祐(そくゆう)や山名時氏が亡くなっても、まだ、この男は生きていた。京極道誉である。

 道誉は、正儀を京の醍醐寺に招いた。側近の河野辺正友と猶子ゆうしの篠崎正久を伴った正儀は、招きに応じて上洛した。

 この日、醍醐寺には清瀧宮せいりゅうぐうの前に舞台が築かれ、その手前には桟敷さじき(客席)が設けられていた。

「父上、凄い賑わいでございますな」

 正久は、押しかけた大勢の人に呆気にとられた。正儀らは、人混みをき分けながら桟敷さじきに向かった。

「殿、あそこでございますな」

 正友が指差す先には、一段高い桟敷さじきがあり、道誉が座っていた。正儀らがその桟敷さじきに向かって進むと、気づいた道誉が手で招く。

「河内守(正儀)、よう来られた」

 そこには、かつての策謀家の面影はなく、一人の老人が居た。正儀は挨拶を済ませ、道誉の隣に座る。

「入道殿(道誉)、観世の後ろ楯となって京へ導いていただき、ありがとうございます」

 観世(結崎ゆうざき清次)が京に進出して二年が経っていた。

「ふふ、わしはそなたに対する義理人情でやっておるのではない。絵でも、茶器でも、よいものを見極めるのがわしの努めよ」

 観世大夫かんぜだゆう結崎ゆうざき座の名は、道誉の力もあり、京の上流階層に徐々に認められるようになっていた。

 此度こたび、観世は、大々的に自らの申楽さるがく能を広めようと、道誉の力も借りて、ここ醍醐寺で七日間の公演を行うこととなった。

 道誉が力を貸した舞台は、立花が飾られた華やかなものである。

「ここでの成否で、観世のこの先が決まる。まあ、観ているがよい」

 口元に笑みを蓄えて、道誉は語った。

 その舞台では大和音曲やまとおんぎょくの演目が始まる。

 観世の舞に、道誉の目が釘付けになる。

「そう、これじゃ。この小気味よい節が、観世の舞を際立たせる」

 大和音曲やまとおんぎょくは、目のえていない正儀らでさえ魅了した。

 観世は演目を次々とこなしていった。正儀は、見たこともない結崎ゆうざき座の申楽さるがく能に目を奪われる。これまで知っている猿楽といえば、観世の父、竹生大夫ちくぶだゆうのそれでしかなかった。

「見よ、河内守。鬼夜叉丸じゃ」

 道誉が示す舞台の袖には、観世の息子、九歳の鬼夜叉丸の姿があった。舞台の袖から中央に進み出た鬼夜叉丸は、九歳とは思えぬほどに、華麗に舞台を演じる。

 桟敷さじきから少し離れた木陰で、深編笠を被り、舞台に見入る男が居た。聞世こと服部成次である。観世と同じ顔を持つ自分が、道誉の前に出ることははばかられた。それでも双子の兄である観世の晴れの舞台を、その目に焼き付けておこうと、忍んでここへ来ていた。

 道誉が背筋を伸ばし、申楽さるがく能に見入る観客たちの顔を、満足そうにうかがう。

「ふふ、もうこれで、わしの務めは終わった。もう、奴は自分で道を切り開くであろう」

 その横顔に、正儀は、役目を終えた者の寂しさを感じ取った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
※ぜひフォローください!『正田前次郎のTwitter
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ