第34話 正儀上洛
正平二十四年(一三六九年)三月二十一日、南河内の山々は、若々しい緑に包まれていた。
正儀が東条を出奔した翌日のことである。楠木本城である赤坂城を取り囲む橋本太郎正督の陣中に、斥候が戻ってきた。床几から立ち上がる正督の前で、斥候が片ひざを付く。
「殿(正督)、石川河原の幕府軍が撤退をはじめました」
「何、本当か」
「細川と赤松の軍勢は、竹内峠へ向けて、兵を引き上げております」
「いったい何があった……昨日の一件は何だったのか」
正督は独り呟き、陣幕を出て、赤坂城になびく菊水の旗に目をやった。
しばらくすると、和田正武もやってくる。
「太郎殿(正督)、幕府軍が撤退したようじゃな。いったいどうなっておる」
「それがしにもわかりませぬ。赤坂城は、ほれ、あのように変わりない」
赤坂城に目を向けた正武も首を傾げた。
橋本本家の橋本正高らも集まる中、正督の近習、大夫判官、和田良宗が駆け込む。
「殿、赤坂城より和睦の申し出がありました。楠木伊予守殿(正澄)が殿にお会いしたいとのことでございます」
「何、四郎叔父上が……あい判った。すぐに会おう」
正督は正武と顔を見合わせて陣幕の中に入り、床几に腰を据えた。
しばらくして楠木正澄が現われる。
「おお、太郎(橋本正督)か。久し振りじゃな。それと新九郎(正武)殿も。かたじけない」
正澄は、討伐軍の陣に入ってくるなり、何事もなかったように二人に声をかけた。
その傍らに楠木正勝が居ることに、正督は目を剥く。
「持国丸ではないか」
「太郎兄者(正督)、しばらく振りでございます。今は元服し、楠木小太郎正勝となりました」
唖然とする正督・正武を尻目に、正澄は正勝をも促して、用意された床几に座る。
「太郎(正督)、それに新九郎殿、小太郎が楠木の家督を相続した」
唐突な正澄の話に、正武は思わず床几から腰を浮かす。
「では、三郎殿(正儀)はどうされたのじゃ」
「我らは、幕府に降った兄者(正儀)と袂を分かち、兄者を城から追放した。兄者は昨夜、城を抜けたようじゃ。我ら楠木党は、この小太郎を立てて、あくまでも帝(長慶天皇)に奉公致す所存じゃ」
「太郎兄者、叔父上が言うた通りです。楠木は父が居なくなっても今まで通りじゃ。よしなに頼みます」
正武は、驚いて言葉を失った。その隣で正督は、昨日の一行が城を脱出した正儀であったのかと、今やっと得心する。
正儀一人が追放され、楠木党が今まで通り南朝を支えると聞けば、赤坂城を取り囲む意味はない。翌日、正督は正武と諮って、東条から兵を引き上げた。
三月二十三日、摂津国の四天王寺に、東条を逃れて一息つく正儀ら一行の姿があった。しかし、ここに腰を落ち着けるわけではない。
すぐに正儀は、幕府管領、細川頼之の舎弟、細川頼元とともに、寺を出て摂津国の榎並城に入る。
この城は摂津国住吉郡に根を下ろす渡辺党の支城であった。そこで正儀ら一行を待っていたのは、渡辺党の棟梁、左衛門尉の渡辺択である。
「河内守殿(正儀)、右京大夫殿(細川頼元)、お待ちしておりました。ここは今となっては幕府の勢力下。南方も手を出せぬ城でございますれば、御一同も、ここでゆるりとおくつろぎくだされ」
「かたじけない、渡辺殿」
「いや、何の。河内守殿(正儀)に、摂津の守護代を御推挙いただき、我ら一族、たいへん感謝しておるのです」
択は、白髪頭を正儀に下げた。
幕府から、摂津国住吉郡の守護も任された正儀は、守護代をこの択とした。英雄、渡辺綱を家祖に持つ、かつての名族であった渡辺惣官家(惣領家)だが、時代が下がると徐々にその輝きを失っていった。南朝に与した渡辺党は、常に幕府方の侵食に疲弊する。だが、正儀とともに幕府に帰参した択は、住吉郡の守護代を任され、大そう喜んでいだ。
細川頼元が正儀に声をかける。
「河内守殿(正儀)、それがしは先に京に入って、兄(細川頼之)に報告せねばなりませぬ。この後、河内守殿(正儀)にも京へ入っていただき、御所様(足利義満)と御対面いただきます。されど、暫しの支度が必要です。整いましたら知らせますゆえ、それまではここでお待ちくだされ」
「右京大夫殿(細川頼元)、承知つかまつった」
「では、河内守殿(正儀)、上洛の手筈は万事、この守護代にお任せあれ」
択は自らの胸をどんと叩いた。
その日の夜には、楠木党の津熊義行が、北河内で集めた兵を率いて榎並城に駆け付け、城を守備する。着の身着のまま東条を出奔した正儀であったが、やっと一軍の将としての陣容を整えた。
東条を撤退した橋本正督と和田正武は、兵たちを地元に帰すと、武者姿のまま、賀名生の行宮に参内する。御殿の下に敷かれた御座に座った二人は、帝(長慶天皇)と公卿たちに子細を説明した。
大納言の四条隆俊は、正儀が東条を出奔したことにほくそ笑む。
「左様か。正儀は居なくなったか。されど、楠木党は今まで通り朝廷(南朝)に残るというのじゃな」
願ったり叶ったりの状況であった。
「御意。よって、楠木伊予守殿(楠木正澄)や楠木小太郎(正勝)など、楠木の一族には、何のお咎めもないよう御計らいのほど、お願い奉りまする」
正督は、正勝を楠木惣領家として、また、正澄を今まで通り河内目代として遇するよう訴えた。
殿上から内大臣の北畠顕能が頷く。
「あい判った。御上(長慶天皇)にお伺い致しましょう」
そう応じると、顕能は玉座に向かって畏まった。
すると、帝が近習に御簾を巻き上げさせる。
「楠木を宮方のままに、正儀一人を追い出したその方の働き、まことにもってあっぱれである。正儀と袂を分かった伊予守(正澄)らに何の咎があろうか。楠木党への追討の綸旨は、正儀を除き、取り消そう。そして、伊予守はこれまで通り、河内目代として認めよう。河内の守護であるそなたとは叔父・甥の間柄。以後も、河内国をうまく治めよ」
「ははっ、恐縮至極に存じます」
上機嫌で答えた帝に、正督が平伏した。
気をよくした帝は、さらに問いかける。
「他に何か願いはないか。言うてみよ」
「はっ……では、恐れながら一つだけ。観心寺、法華三昧堂再建のため、また、南軍の備えを整えるため、山中渓に関所を設け、税をとることをお許しください」
南軍の指揮を執るためには財源が必要である。そのためには徴税の名目が必要で、正督は、観心寺の法華三昧堂再建ということにした。租税を扱う民部省の長としての初仕事と言えなくもなかった。
「観心寺は楠木家の菩提寺であるとともに、先帝(後村上天皇)の御陵がある。よかろう。改めて朕からそちを関所の奉行に任ずることにしよう」
「お聞き届けいただき、ありがとう存じます」
「うむ。では、あれを」
帝に命じられた蔵人が、両手で太刀を掲げて階を降りる。そして、仰々《ぎょうぎょう》しく頭の上に掲げてから、正督の前に置いた。
殿上の帝が口元に笑みを湛える。
「蔵人が渡せしは、雲切という刀。正儀は家祖伝来の竜の尾と呼ばれる太刀を持っておるそうじゃな」
「御意」
「たとえ、その太刀が手元に無くとも、汝が正成の継承者であることに変わりはない。朕が、竜の尾に代わる、新たな刀を与えよう。天駆ける龍も、この、空の雲をも切り裂く剣があれば恐るに足りぬ。これを持って正儀を成敗せよ」
期待を寄せる帝に、正督は、拝領した雲切を、目の前で恭しく掲げる。
「は、ははっ。この民部大輔、正儀を討ち、必ずや御上を京へ御連れいたします」
頭を低くする正督に、帝は目を細めた。
四月二日、幕府方に転じた正儀は腹心の臣、河野辺正友を、新たな河内守護代に任じた。その正友と菱江忠元、津熊義行、猶子の篠崎正久・津田正信ら、楠木党二十余人。さらに摂津守護代の渡辺択と渡辺党の数名を連れ立って、摂津国の榎並城を出た。
一行は、渡辺党が準備した舟で淀川を上り京へ向かった。舟は順調に伏見の船着場に入る。そこには、出迎えに来ていた細川頼元の姿があった。
舟から降りた正儀は、頼元に向けて軽く頭を下げる。
「これは右京大夫殿(頼元)、お出迎え、かたじけのうござる」
「河内守殿(正儀)、よく京へ上られました。我が兄が、細川の京屋敷で楠木殿を待っております」
正儀は頷き、頼元に案内されて、細川屋敷を目指した。正儀にとって、戦以外での上洛は、幼き頃、四条猪熊坊門にあった楠木屋敷で過ごして以来のことであった。
道すがらにある伏見稲荷の市は、大勢の人で賑わっていた。赤い風車が門前の店の軒先で回っている。
「ととさま、かかさま」
子供が脇をすり抜けて、町人夫婦の元に駆けて行った。正儀の目には庶民が幸せそうに映る。戦では、京の人々の支持は得られないと改めて思った。
細川の京屋敷にて、幕府管領の細川頼之が正儀らを待っていた。北河内の仁和寺荘に建立した観音寺で会って以来、一年ぶりの対面である。上下の座の区別はない。正儀は居住まいを正して頼之と向かい合った。そして両脇に、河内守護代に任じた河野辺正友、摂津国住吉郡守護代の渡辺択を座らせる。一方、頼之は、舎弟の頼元を脇に従えていた。
「楠木殿、ようおいでくだされた。一年前にお会いし、必ずや、楠木殿を味方に付けたいと思い、少々、強引なことも行いました。申し訳ござらん」
南朝を裏切らざるを得ない状況を巧みに作った頼之から、謝罪の言葉を聞けたことが、正儀には意外であった。
「もったいないお言葉、痛み入ります。されど、それがしに従ったのは、この河野辺駿河守(正友)ら若干の者たち。我が嫡男の小太郎(楠木正勝)、舎弟の伊予守(楠木正澄)らを説得するには至りませなんだ」
「それは残念でございました。されど、楠木正儀という武士が、幕府の武将になったということが、何よりも大事なのです」
「それがし如きに……お気遣い、かたじけない」
謙遜ではない。正儀は自らの立場を過小評価していた。
すると、頼之が首を横に振る。
「いやいや、本当のことでござる。ただ、東条は南方の勢力下。楠木が東条で幕府方としてありつづければ、常に南軍の討伐に苦しめられる。此度のことで、それがしもようわかりました。少し事を急ぎすぎたのやもしれませぬ。他の楠木党の方は、追々、御味方になってもらいましょう」
そう言って小さな笑みを返した。
正儀は頼之の柔軟な態度に感心する。
「管領殿が申されるよう、河内の南を我が拠点にするのは早すぎまする。それがしは四天王寺の南、開けた平野の地にある瓜破野の小山に城を設けて拠点としようと存じまする」
「それはよい考えです。築城には、我らも手を貸しましょう」
頼之の賛同を得て、正儀の新たな居城が決まった。
「明日、御所様(足利義満)にお会いいただこうと存ずる。今宵は当屋敷にお泊まりいただき、ごゆるりとおくつろぎくだされ」
その夜、頼之自ら、正儀の一行を大切な客人として、酒と料理でもてなした。
翌、四月三日、正儀は河野辺正友と渡辺択を連れて、将軍御所の三条坊門第に入った。
謁見の間に通された正儀は、一面に敷かれた畳と、違棚などの座敷飾りに目を奪われる。いつぞや京極道誉の屋敷でみた造りであるが、その規模と手の込みようは比較にはならない。
(この屋敷の……この間の有様はいったい何じゃ。京の屋敷はこのようなものなのか……)
この頃から、書院造が、寝殿造の屋敷にとって変わろうとしていた。南朝では、いまだ玉座など人の座るところにだけしか畳は敷かれていない。賀名生や住吉では決して目にすることのない部屋に、正儀は南朝の刻だけが止まっていたのではないかと思う。
部屋の造りに目を奪われつつ、正儀は一段高くなった上座を前にして座り、将軍、足利義満の出座を待った。
しばらくすると、管領の細川頼之を従えて義満が現われる。
(小太郎(楠木正勝)より、少し若いか)
心の中で呟やきながら、正儀は両手を着いて頭を低くした。
すると、義満は上座を空けたまま、畏まる正儀に歩み寄り、その場に座る。
その状況に正儀は驚き、慌てて向きを直して頭を低くした。
「楠木殿、御所様(義満)は、武家の棟梁たる征夷大将軍として、南方における武家の棟梁である楠木殿と、対等の立場で和合を図りたいと仰せじゃ」
後ろに控えた頼之が説明した。もちろん義満の自主的なものではなく、段取りは、この頼之が整えたものである。
正儀は南朝から従四位下、左兵衛督に任じられていた。征夷大将軍を置かない南朝では、実質、武家の棟梁たる位置付けである。
「これは過分な扱い、痛み入り申す。楠木河内守正儀にございます。それがしの幕府への参陣をお許しいただき、真に恭悦にございます。必ずや南方と幕府・朝廷との和睦を図り、世の安寧の実現に、力を尽くす所存にございます」
「楠木河内守、大義である」
無表情なまま、義満が筋書き通りに労いの言葉を掛けた。
後ろに控えた河野辺正友と渡辺択を紹介したあとで、正儀は正友に目配せして一振りの太刀を受け取り、義満の前に差し出す。
「御所様、これは竜の尾と呼ばれている楠木家伝来の太刀でございます。父から兄、そして、兄からそれがしが受け継ぎました。幕府に伏する証に、これを御所様に御納め致しとうございます」
四条畷に赴こうとする兄、楠木正行が、正儀に託した太刀であった。兄の形見とも言える竜の尾を手放すのは、正儀にとって苦渋の決断である。しかし、義満の信頼を得るためにはやむを得なかった。
目の前に差し出された刀に、義満は筋書きから外れ、興味深そうに手に取り、白刃を抜いてしげしげと眺める。
「河内守の兄というと、楠木正行殿であるか」
「はい、左様にございます」
義満は、白刃を眺めた後、ゆっくりと鞘に納める。
「父上が生きておったら、この太刀を見て、さぞ喜んだであろう。この太刀は将軍家の家宝とさせていただく」
無邪気に喜ぶ義満の態度が、正儀には不思議であった。後ろで見ていた頼之が、その疑問を解消する。
「御所様の御父上である宝筐院様(足利義詮の戒名)は、河内守殿(正儀)の兄上である楠木正行殿を敬愛されておられた。亡くなる間際、それがしに、楠木正行殿の隣に葬ってくれと言われ、観林寺(善入山宝筐院)の首塚の隣に分骨して、墓を作りました」
「な、何と」
正儀は驚きを隠せなかった。兄の首塚というのも生々しかった。しかし、それ以上に、先の将軍、義詮は正儀にとって敵である。その敵が、自分の兄を慕っていたとは、にわかには信じられないことであった。
微かに戸惑いを受けべる正儀に、義満が補足する。
「我が父は、楠木正行殿の御舎弟である河内守(正儀)と、和睦の暁に、酒を酌み交わすのを楽しみにしておったようじゃ」
幕府と南朝の和睦交渉が破綻して、ちょうど二年が経っていた。
心の中で正儀は呟く。
(あの折、幕府と南方の和睦が成っておれば、わしは、ここで足利義詮殿と酒を酌み交わしていたのか……)
二人は同じ歳である。正儀は静かに目を閉じ、ついに会うことの無かった義詮に思いを馳せた。
「河内守殿、どうされた」
頼之の呼びかけで、正儀は我に返る。
「い、いや、何でもござらん」
「ところで、南の朝廷は、正儀殿の後任として河内・和泉両国の守護に、橋本民部大輔を任じたと御触れを出したようじゃ。橋本民部大輔とは何者でござる」
小首を傾げる頼之に、正儀は真実を言うか否か躊躇する。
「あの……橋本民部大輔正督とは、楠木が一門、橋本四郎正高の甥にございます」
「河内・和泉二か国を治めさせるにしては無名な男よのう。和田和泉守(正武)の方が、よほど名が通っておるが……」
頼之に不審が生じていた。それを感じ取った正儀は、いずれわかることだと観念する。
「橋本正督の元の名は楠木正綱。我が兄、楠木正行の嫡男、つまり楠木正成の嫡孫となります。橋本の分家筋の養子になり、橋本の姓を継ぎました。されど、名を正督と改めたことまでは、それがしも知りませなんだ」
不審を払拭するために、正儀は一気に説明した。
「何、楠木正成の嫡孫とな」
目を剥いて、義満が興味を示した。同じく足利尊氏の嫡孫である自身を重ね合わせていた。
「なるほど、それで合点がいきました。血筋を気にする公家どもが、なぜ橋本正督で纏まったのか。されど、これは困ったことじゃ」
「何が困るのじゃ」
頭を傾げる頼之に、義満が問いただした。
「御所様、それはそれがしから……」
正儀が頼之に代わって答える。
「……管領殿(頼之)は、楠木の棟梁であるそれがしが幕府に降ったことで、南方の多くの諸将が幕府になびくと考えておられた。されど、楠木正成の嫡孫が河内・和泉の守護となったことで、諸将は幕府に降ることを躊躇するであろうと思われておるのです」
「武蔵守(頼之)、そうなのか」
「御意」
義満に応じた頼之は、腕を組んで思案する。
「御所様、橋本正督は幸いにも楠木の名乗りを捨てております。橋本正督が楠木正成の嫡孫であることは、この場だけに留めましょう。いずれ南方から漏れ伝わることがあっても、我らから広げる必要はありませぬ。楠木殿も御家臣に、厳に慎むよう、お伝えあれ」
「承知つかまつりました」
手を突いて、正儀は頼之の建言を受け入れた。
一方、南朝である。帝(長慶天皇)の姿は天野山金剛寺にあった。正儀が去ったことで、さっそく、行宮を山深い賀名生から、楠木のおひざ元に移していた。住吉に戻らなかったのは、摂津住吉郡の渡辺択が、正儀に付いて幕府に降ったためである。
再び行宮となった金剛寺の食堂には、三人の人影があった。
「ひとまず、賀名生から金剛寺まで戻れたのはよかった。やはり賀名生は山深く、麿には合わぬ。早く住吉に戻りたいものよ」
大納言の四条隆俊は、内大臣の北畠顕能に愚痴をこぼした。
「そんなことより、住吉を幕府に盗られたのは困りました。堺浦までは目と鼻の先。湊を抑えられてしまっては、交易の富を手放すことになります。さすれば我らは致命的……」
顕能は沈痛な表情を見せた。これに、下座で控える和田正武が同調する。
「左様にございます。いつも、楠木三郎(正儀)が真っ先に気にかけ、再三、兵を住吉に進めていたのはそのためです。それが今や、逆の立場。あの男が幕府方におるのは、はなはだ困ったことです」
「うむ、正儀め。いずれは討ち取ってくれよう。おお、そうじゃ。楠木一族に攻めさせればよい。同士討ちじゃ。ほほほ」
口元をにやつかせて、隆俊が軽口を叩いた。
これには、さすがの正武も顔を曇らせる。
「さあ、どうでありましょう。楠木伊予守(正澄)は宮方(南朝)に留まりましたが、仲のよかった兄弟です。裏では通じておるやも知れませぬ。楠木が再び一つになって、反転、我らに向かってくれば大変なことになります。慎重に事を運ぶべきでございましょう」
正武に釘を差された隆俊は、憮然とした表情で口を閉じた。
「いずれにしても、住吉を取り返す手立てを考えねばなりませぬぞ。ふうむ……」
二人のやり取りを気に掛けることもなく、内大臣の顕能は一人、考え込んだ。
京では、正儀が一人で観林寺(善入山宝筐院)を訪れていた。兄、楠木正行の首塚の供養である。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時……」
墓の前で手を合わせ、般若心経を唱えた。
「兄者、わしはついに幕府に降ってしもうた。帝(長慶天皇)を京にお戻しするためには、もう、わしにはこれしか残されておらんのじゃ。兄者であればどうしておった。父上が生きていたら、どうされておったであろうか」
顔を上げた正儀は、首塚に語りかけた。
その隣には正行の五輪塔より大きい三層の石塔がある。
「これが、義詮殿の供養塔か……兄者、あの世で義詮殿と酒でも酌み交わしておるのか……敵だった者と語り合うというのは、どういうものじゃ。腹を割ればわかり合えるものかのう」
そう言って正儀は、足利義詮の供養塔にも手を合わせた。
四月二十二日、正儀ら一行は、淀川を下り、榎並城に戻った。その館の広間で、正儀は渡辺択に勧められ、上座に腰を下ろす。
「渡辺殿、我らは瓜破野に城を造り、移るつもりじゃ。それまでは、この城で世話になるがよろしいか」
正儀は、本来の城の主である択に気遣った。択は正儀の配下ではあったが、与力であり、河野辺正友のような家臣とは立場が違う。
「河内守殿(正儀)、お気遣いなく。城とはいうても、見ての通り、砦に毛が生えたようなもの。わしは渡辺津の館に戻るので、好きなように使うてくだされ」
いかにも人のよさそうな老人風情の択は、正儀らがしばらく暮らしていけるよう、兵糧や酒、衣服や身の回りのものを全て取り揃えた。そのうえで、自らの拠点である渡辺津に戻っていった。
翌日、正儀は広間で、河野辺正友を傍らに据えて菱江忠元を呼び出す。
「弥太郎(菱江忠元)よ、瓜破野に城を造ろうと思う。ついては、そなたに差配を頼みたい」
瓜破野の花塚山には、昔、楠木正成が築いた砦があった。正儀は、今は使われていないこの砦に郭を造り、瓜破城として南朝に睨みを効かせようとしていた。
「人を集めなければなりませぬな」
「管領殿(細川頼之)から御支援いただける。それと、東条の四郎(楠木正澄)からは手勢と金銀が届く予定じゃ」
「承知つかまつった。では、それがしは、瓜破野を見て参りましょう」
城造りの大工や人足を手配するため、さっそく菱江忠元は、瓜破野に向かった。
その瓜破野で城造りが始まると、かつての正儀配下の兵がぽつりぽつりと集まってくる。舎弟、楠木正澄の配慮で、南朝に見つからぬよう、郎党を少しずつ東条から北へと差し向けていた。
続いて正儀は、河野辺正友に命じて、瓜破野のある摂津国住吉郡を地盤とする国人たちの取り込みを諮る。正儀が幕府側となったことで、与力しようとする豪族たちが次々に集まった。
その一人に交野秀則がいた。北河内の交野郡を地盤とする交野氏の庶流で、住吉郡の正覚寺村を所領としていた。正儀よりは十五ばかり年配の武士である。
交野秀則は榎並城を訪ねて、その広間で正儀に頭を下げる。
「楠木殿が幕府方になった限りは、我ら交野党も一族を上げて、河内守殿(正儀)を御支えする所存。大船に乗ったおつもりで、お任せ下され」
「これは、交野殿、かたじけない」
正儀が礼をいうと、秀則は後ろを向いて手を打ち鳴らす。
「皆、入ってくるのじゃ」
その合図で、老若入り乱れた十人ばかりの女たちが入って来て、秀則の後ろに控えた。
「楠木の方々は男衆ばかりでこの地に入られた由。差し出がましいとは存じましたが女手を用意しました。瓜破野に移るまでの間、身の回りの世話は、この者どもにお命じくだされ。さ、達、御挨拶じゃ」
秀則は、すぐ後ろに控えた女を促した。女衆の中でも一際、垢抜けた若い女が進み出る。
「交野左衛門尉秀則が娘、達と申します。今日よりみなさま方の飯炊きや洗濯、私どもが行います。何なりと御用を御命じくだされ」
達の口上に、女たちが皆いっせいに頭を下げた。
「いや、女手は助かるが……そのような事をお願いするわけには……」
「我らがお手伝いできるのも、殿(正儀)が榎並城に居る当座のこと。いずれ瓜破野に移られれば、御女中を召し抱えられることでしょう。それまでの繋ぎでございますれば、お気兼ねはなきように」
「交野殿、御気遣い痛み入り申す。では御言葉に甘えさせていただこう」
楠木党にとっては、非常にありがたい申し出であった。
正儀の前から下がった交野秀則は、達を館の外に連れ出す。
「達、楠木の殿(正儀)が榎並城から瓜破野に御移りする前に、殿の御気に入りとなって側室の座を射止めるのじゃ。よいな」
「え、側室……」
達の気持ちなどまったく汲むことなく、秀則は話を進める。
「住吉郡は幕府方と南方が入れ替わる目まぐるしい地であった。我らのような弱小の土豪は、どちらに付いてよいものか悩んだが、南方の大黒柱、楠木殿が幕府に寝返ったとなれば、この地は楠木殿で決まりじゃ」
「……」
顔を強張らせる達を、秀則は気にも留めない。
「お前は器量よしじゃ。楠木の殿(正儀)の覚えめでたき愛妾となれば、弱小土豪に過ぎぬ我らでも、重臣の列に加わることは夢ではない。頼んだぞ、達」
そう言って秀則は、達の肩を軽く叩き、その場をあとにした。
一人残された達は、戸惑いの表情を浮かべて佇む。そんなつもりで榎並城に入ったのではなかった。おとなしい達には、どうしてよいか、すぐには答えは見つからなかった。
五月、正儀は再び上洛する。そして、懐かしい屋敷の前で足を止めた。京極道誉の邸宅である。八年前、四回目の京占領の折、この道誉の屋敷に逗留した。
いつぞやの隠遁者に案内されて屋敷の中に入った。中を見回して、正儀は八年前のことを思い出す。
その時、この屋敷に泊まったのは偶然であった。道誉があらかじめ用意した山海の珍味でもてなされた正儀は、その礼として先帝(後村上天皇)より拝領の具足(甲冑)と太刀を置いて出て行った。その縁もあり、正儀と道誉は南北和睦に向けて交渉を進めることができた。
道誉に会うのは二年半振りである。上段に座る道誉の顔は、皺を深く刻んでいた。
「入道殿(道誉)、ご無沙汰をしております」
「楠木殿、息災か」
「はい、おかげを持ちまして、こうして生きながらえております」
「幕府に降ったそうじゃな。そなたらしくないのう」
幕政を退いた道誉は、正儀と南の帝(長慶天皇)の関係を、詳しく把握していなかった。
「あの折、残念ながら、それがしの力が足りず、和睦が成りませんでした。その後、将軍(足利義詮)がなくなり、帝(後村上天皇)も崩御され、事情がずいぶんと変わりました。されど、それがしは和睦を諦めたわけではないのです。幕府の側から和睦を進めるために、幕府に降って参ったのです」
「そうか、貴殿はやはり変わらぬのか……わしは変わった。身体を悪くしてな。五郎(京極高秀)に家督を譲って、悠々自適のはずが、身体がいうことを効かなくなった。もう少し早く隠居すればよかったのだが、やりたいことができた。何かわかるか」
「いや……」
「ふふ、それはそなたを知って、そなたが切に願う和睦を成し得てみたくなったのじゃ。柄でもないのう。お陰で、もう、昔のように婆娑羅もできぬ。やはり、もう少し早く隠居すればよかった」
柔らいだ表情で、道誉が繰り言を述べた。
「いえ、入道殿は十分、生きることを楽しまれてきた。それがしからみれば、うらやましきことです」
正儀の本音であった。それを聞いて道誉はわははと豪快に笑う。
「そなたは切れ者ではあるが、少々、真面目すぎる。もっと、人生を楽しむがよい。これから先、そなたの性分では辛いことが待ち受けておる。そなたは楠木を背負ってきた。なるほど、棟梁としては申し分ない。されど、そのことが、南軍といえば楠木、楠木といえば正儀、そなたなのじゃ。幕府の諸将も、朝廷の公家も、皆、そなたを敵として扱うであろう。我が息子の五郎でさえ、息子や孫を殺された仇と、よく和睦など進められると、わしに怒っておった」
「わかっており申す。それがしが幕府に降ったのは、父や兄の君臣和睦という悲願を実現するがため。どんな苦労とて厭いませぬ」
神妙な顔で正儀は答えた。
「ふふ、だから、それがよくないのじゃ。周りの者たちは、まあ、山の中で見つけた猿を見物しているようなつもりで見ておればよい。さすれば、気負いも無くなろう」
「猿でございますか、入道殿」
「そうじゃ。猿じゃ」
ふふっと思わず正儀が笑みをこぼした。
その顔に満足そうに頷きながら、道誉が話を続ける。
「ところで、猿といえば、猿楽じゃ。そなた、結崎座の観世大夫(結崎清次)を知っておろう。従弟だそうじゃな」
「……入道殿がどうして観世を……」
不振がる正儀の顔を見て、道誉はにやりと微笑む。
「ひょっとした事から奴の芸に惚れ込んだ。素性を調べ、そなたとの縁が判った」
様々な音曲芸能に通ずる婆娑羅な道誉だけに、さもあらんと正儀は思った。
「京に一座を出したいと言うておったが、楠木の縁者が将軍のおひざ元である京に出てくる事などできぬと言うてやった。素性が割れれば、命の危険もあるからな」
京で楠木はそういう立場なのだと、正儀は改めて認識する。
「楠木殿、されど、そなたが幕府に降ったとなれば話は別じゃ。観世大夫を、すぐにでも京へ誘ってやろうと思う。何、面倒はわしがみる。一応、そなたにも許しを得ておこうと思うてな」
道誉の言葉に、正儀が表情を和らげる。
「叔母が……いえ、観世の母が亡くなり、ちょうど墓参りに行こうとしていたところ。それがしから観世に伝えましょう」
叔母の楠木晶子はひと月前に亡くなっていた。
「では、任せよう。これで奴との約束も果たせる」
満足げに道誉は微笑んだ。
一方の正儀は、自らの行動が思わぬところで人の人生を変えてしまうことに、心の中で驚いていた。
正儀が戻った榎並城では、交野秀則が連れてきた女衆が、皆の食事の支度や洗濯などで忙しく立ち回っていた。
上がり口の框を跨いだ正儀に、達が足を洗う濯桶を前に差し出す。
「殿様(正儀)、これを御使いください」
「これは達殿、かたじけない」
達の手から濯桶を受け取ろうとして手が触れた時、達が思わず手を引いた。父、秀則の言葉を思い出したからである。
濯桶はひっくり返り、正儀の足は水を被った。
「こ、これは殿様、申し訳ございませぬ」
慌ててしゃがんだ達が、持っていた手拭いで正儀の足元を拭いた。
少し内気な女であった。父から、正儀の妾になるようにと話をされてからというもの、正儀を前にすると戸惑いが態度にも出ていた。
足を拭く達の手拭いを、正儀が掴む。
「ああ、よいのじゃ。わしが急に手を出してしまったからな」
咎める事もなく、その手拭いで自分の袴を拭いた。
その夜のことである。正儀は寝所に入り、燭台の火を頼りに筆を走らせていた。こどもの時からの左利きは相変わらずであった。
書状を書き終えた正儀が、筆を置いてあかりを消そうとしたときである。
「殿様(正儀)、あの……よろしいでしょうか」
襖の向こうから聞こえて来たのは、達の声であった。
「達殿か。別に構わぬが、今頃、どうしたのじゃ」
正儀が応じると、達は無言で襖を開けて、寝所に入ってくる。その姿は、白い寝衣を纏い、髪を後ろで括っていた。
「な、何じゃ、その恰好は……」
ゆらゆらと揺れる燭台の火に照らされる達を、正儀は驚きながら凝視した。よく見ると、肩を震わせている。
「我が父より……殿様の夜伽をするように仰せつかって参りました」
達はひざまづき、両手を突いた。父の命に、悩みに悩んで出した結論であった。
「そうか、そのような事を御父上が……じゃが、それはそなたの本意ではあるまい」
「い、いえ、そのような……」
返事を聞く前から、正儀は首を横に振る。
「おそらく家のためと言われたのであろう。御父上に伝えてくれ。その心配りには頭が下がる思いじゃ。されど、わしには不要じゃ。その心配りを住吉郡のために使うてくれるようにと」
そう言って、正儀は優しく微笑んだ。
その笑顔に、達は思わず瞳を潤ませる。正儀の優しい言葉によって、気負いが解かれたようであった。
この後、達は正儀に詫びて、寝所から下がって行った。
半月後、正儀の叔母、楠木晶子の四十九日法要の翌日のことである。正儀は、晶子の息子、聞世(服部成次)とともに、密かに大和国結崎郷に出向き、晶子の墓に手を合わせた。
「聞世……それに三郎殿(正儀)ではありませぬか」
背中越しの声に正儀が振り返る。そこには、晶子のもう一人の息子、観世(結崎清次)が、小さなこどもを連れて立っていた。正儀はその子の顔に、昔の観世丸・聞世丸を重ね、思わず口元を緩める。
「久しいのう。十年、いや十五年振りくらいであろうか」
「本当にお懐かしゅうございます」
頭を下げる観世に、聞世が歩み寄って肩を叩く。
「観世、息災であったか。母上を看とってやれず、すまなかった」
「ああ……母上はお前の名を呼んでいた。聞世も最後に母上に会えず、無念だったであろう」
観世の言葉に、聞世は少し淋しそうな表情を返した。
久し振りに再会した双子の兄弟。同じ顔を持った観世と聞世の会話に、傍らの幼いこどもは挨拶するのも忘れて、二人の顔を見比べた。その子の様子に、聞世が頬を緩めてしゃがみ込む。
「そなたが観世の子、鬼夜叉丸か。噂は聴いておるぞ。幼くして、一座の人気者だそうじゃのう」
「い、いえ……」
七歳の鬼夜叉丸は、聞世の言葉に耳まで赤くして下を向いた。
観世は正儀らを、自分の屋敷に案内する。質素で小さな建物であった。
正儀と観世、聞世の三人は、火の気のない囲炉裏を囲んで座る。
「一座の興行は上手くいっておるようじゃのう。大和音曲と言うたか。京極入道殿(道誉)より伺ったぞ」
向かいに座る観世に、正儀が言葉を投げ掛けた。
「何と、京極入道殿にお逢いになられたと……」
正儀の口から出た名に、観世は驚きの表情を浮かべた。
すると、聞世が呆れたような表情を浮かべる。
「何じゃ。殿(正儀)が幕府に降った事を知らぬのか。本当に申楽能しか頭にないのじゃな」
観世は再び驚いて、正儀の顔を凝視する。
「三郎殿が幕府に……」
「うむ。わしが幕府に参じたことで、京極入道殿(道誉)は、お前を京に誘いたいと言うておられる。面倒はみるとのことじゃが……どうじゃ、観世」
「そ、それは願ったりのことでございますが……」
「よし。では、その旨、入道殿に伝えよう」
「京での申楽能を望んでいたのであろう。本当によかったな、観世」
話が纏まると、双子の弟である聞世は、自らのことのように喜んだ。
「されど、楠木党が幕府に参じるなど、今もって信じられませぬ」
不思議がる観世に、正儀は、さもあらんと頷く。
「じゃが、楠木党がではない。わしだけが幕府に参じたのじゃ」
「三郎殿だけが……いったい何がございました」
「南の帝(長慶天皇)を京へ御迎えせんがため、わしが先に京に入ったまでのことじゃ。聞世を置いていくので、後で詳しく聞くがよかろう」
そう答える正儀の隣では、聞世が悔しそうな顔でうつむいていた。そんな二人の態度に、観世は口を噤んだ。
六月、仮の住いとする榎並城の広間で、正儀は書を認めていた。そこに、瓜破城の普請にあたっていた菱江忠元が駆け込んでくる。
「殿、瓜破城が和田の軍勢に占領されました」
正儀は驚いて顔を上げる。
「何、新九郎(正武)殿がか……」
「はい、突然、三百余騎に囲まれ、成す術がございませなんだ。申し訳ございませぬ」
瓜破城はまだ完成途上で、城の防御もできておらず、兵も充分ではなかった。
住吉大社から瓜破野にかけては、幕府の勢力下にあった。正儀が幕府に降り、ともに渡辺択ら住吉郡の豪族たちが幕府に寝返ったからである。和泉より南に引かざる得ない状況の南朝に対して、正儀は油断していた。
「そなたのせいではない。和田軍が出てくることはないと判断したのはわしの責任じゃ。されど、何より弥太郎(菱江忠元)が無事でよかった。なあに、慌てて取り戻す必要はない。しばらく榎並の城に居って、瓜破城を取り返す手立てを考えようぞ」
思い通りにいかない中でも、決して正儀は諦めない。最善の策が駄目なら次善の策、それも駄目なら次々善の策と、粘り強く事を運ぶのが信条であった。
南軍の攻勢は正儀に対してだけではなかった。九月には、南朝の伊勢国守である内大臣、北畠顕能の軍勢が動く。伊勢国三重郡に進出していた幕府方の美濃守護、土岐頼康に合戦を仕掛け、これを討ち破って諸城を奪い取った。
南朝が攻勢を仕掛ければ仕掛けるほど、幕府、さらには北朝内での正儀の立場は悪くなっていった。
九月二十日、その正儀が、京の内裏に参内していた。北朝の除目を受けるためである。正儀は神妙な顔つきで、御簾越しに北朝の帝(後光厳天皇)を拝した。
「楠木河内守正儀を、従四位下、中務大輔に任じる」
「ははっ」
蔵人の勅を、正儀は恭しく受けた。
中務大輔は正五位上相当の官職であり、南朝で拝命していた左兵衛督は従四位下相当である。一見すると格下げであるが、与える側にも事情があった。
任官は幕府の意向があってのうえである。武家を統率する意味のある左兵衛督を幕府で任じられているのは、鎌倉公方の足利氏満であった。さすがにこれを氏満から取り上げて正儀に与えるわけにはいかない。すでに幕府は、正儀を河内国と和泉国、摂津国住吉郡の守護として、十分に遇していた。そのうえ、名ばかりとはいえ、一部の武将にしか許していない国司職への任官も、北朝へ奏上するという破格の扱いであった。
しかし、幕府に求められて、官位官職を与えなければならない北朝の公卿たちは、厳しい目で正儀を見ている。
十七年前、南朝は京を奪還した。時の准后、北畠親房は、崇光天皇を廃し、光厳上皇、光明上皇、さらに東宮(皇太子)である直仁親王の四主上を拉致した。その四主上を、河内東条に護送したのが正儀である。
帝と上皇、東宮が一緒に連れ去られるという、前代未聞の事態に陥った北朝は大いに混乱した。出家しようとしていた弥仁親王を、三種の神器もないまま、新帝(後光厳天皇)として即位させようとした。
しかし、上皇も連れ去られていたため、治天の君の後ろ楯も得られない。苦肉の策として、祖母の広義門院(西園寺寧子)を治天の君に仕立てるという、無茶な即位を強硬する。このことによって、北朝は常に、三種の神器を持つ南の帝に対して、その正当性で後ろめたさを持たざるを得なくなっていた。
その原因を作った一人である正儀に、関白の鷹司冬通が、冷たい視線を向ける。
「河内守(正儀)、三種の神器は、今、どこにあるのじゃ」
「はっ、以前は住之江殿に置かれていたはずですが、今はわかりかねます。おそらくは帝(長慶天皇)とともに、天野山金剛寺に移されたものと存じます」
「河内守よ、天に二朝はおらぬ。そなたの言う帝とは誰のことであるのか」
「はっ。申し訳ございませぬ」
厳しい冬通の言葉に、正儀は頭を低く下げ、口を閉じた。
右大臣の西園寺実俊が、ふんと鼻を鳴らす。
「そなた如きが、幕府に降っても何の足しにもならぬ。必要なのは三種の神器じゃ。それも持たずに、よくも朝廷に参内できたものよ。やはり河内の山深い育ちゆえ、人の常識も持っておらぬと見える。そういえば、そなたの父も、三木一草ともてはやされ、身分をわきまえぬ者であったよのう」
実俊の言葉は強烈な憎悪が含まれていた。これに、公卿たちは半開きの扇で口を隠して笑う。
しかし、正儀はただ平伏して、公卿らの雑言に耐えるしかなかった。
正平二十五年(一三七〇年)正月、幕府管領、細川頼之は、自身の京屋敷で宴を催した。頼之は、舎弟の細川頼元とともに、京極高秀、畠山基国、一色詮範、仁木義尹らの諸将を招いて正月を祝った。
頼之の求めに応じて、諸将が居並ぶ宴席に、正儀が顔を出した。
まず、下手に座して一礼する。
「遅くなり、申し訳ござらん」
「よう、参られた。さ、こちらへ」
頼之は上座の近くへと手招きする。正儀は恐縮しつつも、頼之の傍へと足を運んだ。
ほとんどの者は正儀の顔を知らない。諸将は、いったい誰であろうかと、腰を据える正儀の顔を、興味深そうに窺った。
正儀が着座すると、向かいに座る京極高秀の顔が曇った。唯一、正儀の顔を見知っていたからである。
「お初にお目にかかられる方も多いと存ずる。それがしは楠木三郎正儀にござる。新参者ですが、よしなにお頼み申す」
その口上を聞いて、宴席がざわつき始めた。
「皆も存じておろうが、楠木河内守が幕府の一員となった。皆と顔を合わせるよい機会じゃと、それがしがお呼びした。皆、よしなに頼むぞ」
「幕府に参じたからには、御所様(足利義満)のために、力を尽くす所存でござる」
頼之に続いて正儀も身を正し、再度、頭を下げた。
しかし、宴席は一気に静まり返る。あちらこちらから、ひそひそと声が聞こえる。
この状況に、頼之の舎弟、頼元が気を遣う。
「皆、どうした。楽しく飲もうではないか。さ、畠山殿、一献」
血気盛んな若武者である畠山基国は、頼元がさし出した銚子から、盃を逸らす。
「いや、もう結構でござる。せっかくのめでたい席であったが、一気に酒が不味くなった」
十年前に南河内に侵攻して正儀と戦った関東執事、畠山国清の甥が、この基国である。国清は南河内侵攻の後、幕府に追われる身となり、南朝に降ろうとしたものの、正儀に断られて大和で横死していた。
基国は正儀を敵視していた。ただし、伯父、国清が横死した一件ではない。正儀が幕府から河内守護を任じられたことに腹を立てていた。
畠山家は、もともと幕府側が立てた河内守護である。南朝側の河内守護、楠木家とは、いずれ雌雄を決しなければならない間柄にあった。しかし、正儀は、管領の頼之によって河内・和泉・摂津住吉郡の三ヶ国の守護として丁重に幕府に迎えられる。このことで、畠山家の河内支配の望みが絶たれてしまったからであった。
正儀に悪感情を抱くのは基国だけではない。京極高秀は兄たちが正儀のため、南軍のために討死していた。父の京極道誉は、これを超越して正儀と気脈を通じたところがあったが、高秀は割り切れない思いを抱いていた。
その他の諸将にとっても、正儀は憎むべき相手である。楠木は、常に南朝の軍事力の代表であった。幕府の諸将が南軍と戦うと言えば、楠木と戦うということであった。その楠木のために、先の将軍、足利義詮は四度も京を追われ、そのたびに、幕府の諸将は楠木と戦わなければならなかった。
招かれざる客の正儀にとって宴席は、まさに針の筵であった。
突如として、高秀が立ち上がる。
「それがしは、これにて失礼つかまつる」
ぶすっとした態度で、正儀を一瞥して、背中を見せた。
「京極殿、待たれよ」
接待役の頼元が立ち上がって止めるが、無視して立ち去ってしまう。すると、基国も立ち上がる。
「京極殿が帰られるなら、それがしも」
続いて、一色詮範や仁木義尹も座を外した。釣られて他の諸将も立ち上がる。
「皆、待たれよ。せっかくの宴じゃ」
おろおろと頼元は諸将を引き留めるが、甲斐はなかった。
「頼元」
兄の頼之は、頼元に顔を向けて、ゆっくりと首を横に振った。
諸将が帰った宴席は、細川頼之・頼元兄弟と、正儀の三人だけとなる。
深く頼之が頭を下げる。
「楠木殿、申し訳ござらん。それがしの配慮が、逆に貴殿の面子を潰してしもうた」
「いや、管領殿、気にしてはおりませぬ。それだけ、楠木への恨みが大きかったのでしょう」
「されど、諸将は楠木殿へ偉そうに言うことはできぬのです。皆、己の家名存続、栄達のためのご都合主義。日和見なのです。楠木殿は幕府に降って参ったが、全ては、和睦と朝廷合一のためでござろう。奴らに比べれば、楠木殿は一貫した志をお持ちじゃ」
苦々しい顔をして、頼之は胸のうちを吐露した。
「管領殿、お気遣い痛み入り申す。されど、いつまでも管領殿に迷惑をかけてもおられん。瓜破城も南方に奪われたまま。そろそろ、和睦に向けて動きをかける必要がござる」
正儀は、銚子を持って頼之に酒を進めた。
「楠木殿、何か、お考えがあるか」
ぐっと盃を飲み干した頼之から、正儀が返杯を受ける。
「南方の公卿が和睦を考えざるを得ない状況を作ることです」
そう言って、正儀は杯の酒を喉に流し込んだ。
「ほほう、それはどのように」
「堺浦を押えましょう。南方の支配する土地は少なく、年貢も年を追うごとに少なくなっております。それを補っているのが交易による税です。交易の拠点である堺浦を押えることで、南方は一気に苦しくなります。それは武士ではなく、特に領地を持たぬ公家に、より多くの不都合が生じることでしょう」
堺浦や伊勢国大湊は、南朝の体制維持の生命線である。南朝の実情を知る正儀ならではの提言であった。
「さすがは河内守殿。それは、よいお考えじゃ。南方を攻め、堺浦を押えることと致しましょう」
「されど、兄上、今日の諸将の態度を見ていると、下知に従うでしょうか」
心配そうに、頼元が呟いた。
「うむ。下知に従わぬとなれば、何か手立てを考えねばならんな。楠木殿、いずれにせよ、その件はそれがしにお任せくだされ」
不安な表情をいっさい見せることなく、頼之は正儀の提案に同意した。
以心伝心、一を聞いて百を知る。皆まで言わなくとも、考えを理解してすぐに行動に移す人物が居ることは、四面楚歌の正儀にとって、これ以上もない心強い味方である。かつての楠木正成と万里小路藤房の関係に似ていた。
五月、幕府管領、細川頼之の下知を受けて、宇都宮氏綱が兵を引きいて関東から上洛してきた。堺浦への出陣のためである。氏綱は、正儀の父、楠木正成が一目置いた宇都宮公綱の嫡男であった。
氏綱をわざわざ関東から呼び寄せたのには理由があった。細川頼元が心配したとおり、畿内近郊の武将が、いろいろと理由を付けて、堺浦への出陣を渋ったためである。
一方、氏綱が素直に上洛したのにも理由があった。氏綱は上野・下野・越後と三ヶ国の守護であった。しかし、当時の鎌倉公方、足利基氏の裁定で上野・越後、二ヶ国の守護職を、関東管領の上杉憲顕に奪われる。これに憤慨し、武蔵国の平氏支族が起こした平一揆に乗じて、上杉憲顕に対して反乱を起こした。だが、新たに鎌倉公方になった足利氏満の追討を受けて降伏し、一族存亡の危機を迎えていた。
管領の頼之はこれに目を付け、名誉を挽回する機会を与え、氏綱はこれに応じて上洛したという次第である。
その氏綱は、将軍の足利義満と頼之に出陣の挨拶をするため、三条坊門の将軍御所に参内していた。
「将軍、必ずや南方を打ち破り、将軍の威光を、あまねく天下に知らしめてご覧にかけましょう。我が宇都宮が武功を上げた暁には、何卒、関東の所領の回復を、お願い申し上げます」
氏綱は一族再興をかけて気負っていた。
将軍、義満が満足そうな笑みを浮かべる。
「うむ、頼もしき限りよ。期待しておるぞ」
「ははっ」
気負う氏綱に、将軍の傍らから頼之が釘を刺す。
「宇都宮殿、此度の目的は、堺浦を押えることじゃ。それ以上のことを望んでいるわけではない。決して無理をする必要はないぞ」
「承知致しております。管領殿、お任せ下され。ではこれより出陣致します」
五月二十三日、氏綱は和泉に出陣し、南方の和泉守、和田正武との合戦に挑んだ。
時を同じくして、正儀は摂津の榎並城から出陣し、四天王寺の東南、瓜破城に向けて進軍していた。
馬上から正儀が声を張る。
「よいか、此度の目的は、瓜破城の奪還じゃ。宇都宮殿が和泉に出陣している間、和田新九郎(正武)殿は瓜破城に手をかけることはできぬ。城に残った見張りの兵を追い払えば事は足りる。くれぐれも無駄な血を流すな」
「父上、承知した」
「承知しました」
正儀の下知に、猶子の篠崎正久と津田正信が力強く応えた。正久はこのとき十八、正信は十五。正儀にとって心強い若武将に育っていた。
さっそく正儀の楠木軍は、瓜破城を取り囲んで和田の兵を追い払い、一滴の血を流すことなく、瓜破城を取り返した。これによって正儀は、幕府方となってから、やっと自らの拠点を構えることができた。
正儀は、近臣の河野辺正友と菱江忠元を連れて城の中を見回る。瓜破城は、和田正武に奪われたときは未完成のままであったが、和田党によって城壁は完成していた。しかし、本丸(主郭)の陣屋は、まだ手をかける必要がある。
「宇都宮殿の戦が続いている間に、すぐに大工を集めて、仕上げるのじゃ」
「殿、承知致しました。ではさっそく」
普請の責任者である菱江忠元は、正儀の命に、急いで手配に向かった。
腹心の臣、河野辺正友が、忠元の背中を目で追いながら正儀にたずねる。
「殿、この後、いかが致しますか」
「宇都宮殿が和泉に討ち入ったことで、和泉の豪族は慌てていることであろう。この機会を逃さず、和泉の豪族の取り込みを謀る。すぐに、南方の諸将へ書状を書こう」
和泉は日和見な豪族たちが多く、幕府と南軍の間で、常に揺れ動いていた。正儀は、そんな和泉の南方の豪族に、幕府への帰参を説いて回る。
正儀らの跡を追うように、榎並城から達ら女衆も瓜破城に入った。正儀は河野辺正友、菱江忠元とともに、瓜破城の館に女衆を招いた。
「達殿、かたじけない。されど、もうそなたらはよいぞ。この地で新たな女中を探そう。これまで助かった。礼を申すぞ」
そう言う正儀に、達は他の女衆とともに頭を低くした。
「殿様(正儀)、それでは、お言葉に甘え、この者らは家に帰す事とします。されど、私はこのまま、この城に仕えたく存じます」
「なぜじゃ。御父上のことなら気にする必要はないぞ」
いまだに達が、交野秀則の命で側室になろうとしているのではないかと、正儀は訝しがった。
「いえ、私がここに居りたいのです。他の女衆と違って、私には夫や子が居るわけではありませぬ。また、榎並城と違い瓜破野は、我が実家のある正覚寺村からも近く、通い働きするのにも都合がよいのです。そして何よりも、殿様(正儀)をはじめ楠木の方々はよい御方ばかりでございますから……」
平素はおとなしい達が、笑顔を作る。
「……あと、私が居れば、次に来られる女中への引継ぎもできましょう。何卒、ここに置いていただけないかと存じます」
その言葉を聞いて喜んだのは、普請と勘定方を受け持つ菱江忠元である。
「それは助かります。達殿、お願いします。殿(正儀)、よかったですな」
勝手に忠元に決められてしまい、正儀は思わず苦笑いをする。
「では改めて、達殿、それがしからもお願い申す」
正儀の言葉に、達は上目遣いにその顔を窺い、安堵の表情を浮かべた。
武名を轟かす紀清両党を率いる宇都宮氏綱は、堺浦から和田正武の軍勢を駆逐し、泉北(和泉北部)を制圧した。すると氏綱は、堺浦を細川頼元らの援軍に任せ、和田正武を追撃して和泉を南下した。
「南軍の兵など恐るるにあらず。我ら東人の力を見せてくれようぞ」
幕府管領の細川頼之からは、堺浦さえ押さえればよいと釘をさされていた。だが、容易に和田軍を駆逐した氏綱は、一族の再興をかけて、より大きな武功を上げようと欲を出す。
「紀伊橋本は、南方の河内・和泉の守護、橋本正督の拠点と聞く。まずは泉南(和泉南部)を押さえ、次に紀北(紀伊北部)にまで兵を進め、一気に橋本正督の首を捕ろうぞ」
「おお」
氏綱と郎党たちは勢いに乗り、紀伊を目指して進軍をはじめた。
瓜破城に落ちついた正儀は、近臣の河野辺正友より、和泉の豪族たちの取り込み状況を聞いていた。
「殿、これまでに、我が方に帰参すると申し出があったのは、和泉淡輪荘の淡輪左近将監殿(光重)、大鳥郷の田代殿(顕綱)といったところです」
「そうか、又次郎(正友)、ご苦労であった」
「それと……」
正友が言い残した話を繋ぐ。
「何じゃ、どうかしたのか」
「美木多左衛門尉殿に、不審な動きがございます」
和泉の豪族、美木多助氏はかつて、正儀の盟友であった。十年前までは楠木軍の一翼を担って正儀を援けた。しかし、畠山国清らによる南河内の制圧の折、正儀を裏切り、天野山金剛寺にあった行宮へ、幕府軍の露払いを行う。それ以来、幕府方のままであった。
「不審な動き……まさか、今度は南方に帰参しようとしているのか」
「定かにはわかりかねますが、その疑いがあります。いつ、この城へ兵を向けてくるかわかりません。努々《ゆめゆめ》、油断召さらぬように」
(そこまで、このわしに、対峙しようというのか)
心の中で呟いた正儀は、そのまま、目を閉じて唸った。
そこへ、正儀の猶子である津田正信が走り込んでくる。
「父上、細川右京大夫殿(頼元)の使者が参り、これを父上にとのことでございます」
正信が書状を正儀に渡した。
そこには、堺浦を制圧した宇都宮氏綱が、当初の目的を越えて、南軍の和田正武を追って泉南へ侵攻したとあった。さらには、橋本正督の拠点でもある紀伊橋本へも兵を進めようとしていると綴られていた。
「何と阿呆なことを。此度の戦は、堺浦を押えることだけで十分なのじゃ。無駄な血を流して何とする」
書状を見た正儀は、わなわなと肩を震わせた。
しかし、正儀は南朝に与するかもしれぬ美木多助氏の動きも気になり、瓜破城から動くことはできなかった。
橋本党の惣領となった橋本正督は、泉南と紀北に別れる橋本党を掌握するため、双方に足を運んで重臣たちと語らう日々を過ごしていた。
宇都宮氏綱の堺浦制圧の際は、橋本党を指揮して駆けようとするも間に合わず、紀伊橋本に入って、幕府軍の侵攻に備えていた。
紀伊で臨戦態勢を整えた正督が、近臣の和田良宗を呼び寄せる。
「慌てて敵を討つ必要はない。紀伊に誘い込んでから背後を和泉守(和田正武)と橋本本家(橋本正高)に攻めてもらう。挟み撃ちにすればよい」
「承知っ」
「では、者ども、出陣じゃ」
正督は紀伊橋本からも兵を進め、紀北の橋本党を糾合した。
和泉の和田正武は、宇都宮軍にさしたる抵抗も見せずに退いていた。これで宇都宮氏綱は勢いに乗じ、鍋谷峠を越えて紀伊に入る。すると今度は、その背後から沈黙していた和田軍と、橋本正高が率いる泉南橋本軍が猛然と襲い掛かった。
今まで、さしたる反撃を受けることもなく、慢心していた宇都宮軍は慌てた。氏綱は急ぎ兵を紀伊に進め、和田軍と泉南橋本軍を振り払って立て直そうとする。だが、今度は橋本正督が率いる紀北橋本軍に襲い掛かられる。
和田勢と橋本勢に囲まれた宇都宮軍は、大勢の死者を出して紀の川沿いを西に敗走した。そして、氏綱は兵たちと粉河寺に逃げ込み、幕府の救援を待つことにした。
しかし、幕府は、すぐには援軍を手当てできない。管領、細川頼之の下知にも、幕府の諸将が、のらりくらりと出陣を渋ったためである。粉河寺に籠城した氏綱は、南朝勢力下の中で、心細い状況が続いた。
六月の終り、管領、頼之の命で、やっと畠山基国が重い腰を上げて、宇都宮軍の救援に出陣する。基国への下知は、敵を追い払えば、合戦に至る必要なし、というもので、これは、無駄な血を流させたくない正儀が、頼之に書状を送って実現させたものであった。
基国も、兵を進めて示威行動を行うだけであればと承諾して、和泉・紀伊へ進軍した。
ここは、紀伊の粉河寺の近く、橋本正督が駐留する南軍の陣である。
「太郎殿、久しぶりでございます」
聞き覚えのある声に、正督は、ぎくりと後を振り返る。一人になった正督に声をかけたのは、陣中に忍び込んだ聞世(服部成次)であった。正督は突然のことに驚くが、ひとまず聞世を陣幕の中へと通す。
「聞世殿、そなたはまだ、叔父上(正儀)の元におるのか」
「それがしは、殿(正儀)に生涯を尽くす所存じゃ。幕府方であろうが南方であろうが、関係はござらん」
「そうか……それでは、此度も、叔父上の使いというわけか」
こくりと聞世が頷く。
「これは、殿が太郎殿へ宛てた書状です」
正督は、聞世が差し出した書状を受け取り、久しぶりに見る正儀の文字を目で追った。そこには、畠山基国の軍勢が和泉・紀伊へ進軍していること、南方が大人しく兵を引けば、畠山軍は合戦をせずに兵を引き上げることが認められていた。
「罠であろう。これをわしに信じろというのか」
正督は広げた書状を聞世に突き返した。それを聞世がもう一度折り畳む。
「なぜ殿が幕府に降ったか、御存知ですか」
「それは、御自身が押す熙成親王が帝になれなかったことであろう」
「あり体に言えばそうですが、その目的は君臣和睦。朝廷の合一です。南方を滅ぼしてしまっては、朝廷の合一は成り得ません。殿は後醍醐帝の血脈を何としてでも残したいのです。南方の立場から南北合一が難しいと観念した殿は、幕府の側から実現を目指しておられます」
すると、正督が怪訝な表情を浮かべる。
「叔父上の君臣和睦は昔からじゃ。さもあらんと思う。されど、この書状を信じることと、どのような繋がりがあると申すのじゃ」
「南方は武力を保ち、幕府に対して己の主張を通せる力を持って和睦をせねばならんとお考えです。完全に南方が力を失ってからの合一など形ばかり。それ故、太郎殿にはぜひ力を温存いただく必要があるのです。にも関わらず、なぜ太郎殿を罠にはめて滅ぼすことなど考えましょうや」
「されど、現に南方の力を割こうと、和泉の豪族どもへ調略を行っておるではないか。わしが知らぬとでも思うておるのか。それは南軍を弱らせ、朝廷(南朝)を滅ぼすことに相違ならん」
正督は、聞世の言い分は、矛盾に満ちていると思った。これに、聞世は首を横に振る。
「殿は、豪族の寝返りを誘っておりますが、討とうとはされておられませぬ。南方の諸将は、たとえ幕府に寝返っても、合一の折は、必ず幕府に、いや、京の朝廷に、物申す存在になり得るからです。それは殿自身がそうであるのです」
聞世の必死の説得に、正督は沈黙した。
畠山基国の軍勢が紀伊に進軍してくると、正儀の助言に従い、橋本正督は撤退を開始する。続いて、和泉の和田正武や橋本正高の軍勢も撤退した。
基国の軍勢は、正儀が言った通り、南方の軍勢が撤退するのを見届けるのみで、戦を仕掛けることはなかった。
畠山の援軍で、宇都宮氏綱は窮地を脱した。ところが、宇都宮家の再興を願った氏綱は病を発しており、そのまま、籠城した粉河寺で亡くなる。そして、大将の居なくなった宇都宮軍は、空しく紀伊から撤退していくのであった。