第30話 南北和議
正平二十年(一三六五)春まだはじめであるが、南紀の桜は、早くも蕾が開き始める。
この年、熊野の新宮大社は、式年遷宮にあたった。正儀は、河野辺正友と数人の郎党を引き連れて、大社を目指していた。目的は、幕府から式年遷宮の総奉行を命じられた京極道誉に会うことにある。
すでに道誉は、京でたくさんの大工を集め、三十九名の武士に先導させて熊野に送り込んでいた。そして、京に忍ばせていた聞世(服部成次)配下の透っ波によって、道誉自らも新宮大社に姿を見せることを掴んでいた。
熊野に到着する直前、正儀らは新宮大社へと向かう道誉の一行を見つける。百名を超える手勢を引き連れた行列であった。正儀ら一行は、十間ばかり手前で、道誉の行列の前に立ち塞がった。
正友が大声で叫ぶ。
「京極入道殿の行列とお見受け致す。無作法お許しあれ。危害を加えるつもりはござらん。刀を抜かれるな」
楠木の郎党たちは、片ひざ付いて座り、争う意志がないことを示した。
行列は突然の出来事にざわつく。道誉自身は輿に乗り、姿は見えなかった。
先頭を任された京極の郎党が叫び返す。
「何者じゃ」
すると正儀が一歩、前に進み出る。
「それがしは楠木河内守と申す。京極入道殿に楠木河内守が会いに参ったとお伝えあれ」
その名乗りに京極の郎党たちがざわついた。
「おのれ、楠木と聞いたからには生かしておけぬ」
息巻く郎党たちが刀を抜いたその時である。
「止めよ。楠木殿はわしの客人じゃ。丁重に扱え」
そう言って、輿を降りてきたのは道誉であった。心配する郎党たちを尻目に、ゆっくりと正儀らの方に歩み寄った。
「これは入道殿、こうしてお会いするのは、東大寺にて持明院の主上をお渡しした時以来でございますな」
「楠木殿、何と大胆な。わしが止めねば首と胴は繋がってはおらなんだぞ」
「いえ、そのようなことはありますまい。必ず入道殿がお止めになられたことでしょう」
「なるほど、わっはっはっは」
平然と答える正儀に、道誉は高笑いで返した。
「入道殿、此度まかり越しましたのは、頓挫した和睦の話の続きをするためにございます」
「和睦を断ったのは南方ではないか……」
道誉は怪訝な顔をすれども、すぐに気を取り直す。
「……まあよい。ここで立ち話するのも何じゃ。これから式年遷宮の進み具合を見るところじゃ。わしの手勢に紛れて付いて来られるがよろしかろう。くれぐれも正体を現さぬようお願い申す」
すると道誉は、正儀らを傍らに連れ、自身の郎党たちを前にする。
「皆の者、わしが楠木殿とお会いしたこと、口外無用じゃ。よいな。それと客人に馬を用意せよ」
道誉は正儀を一瞥してから、郎党たちに命じた。
正儀らは京極道誉に連れられて、熊野新宮大社の社造営の現場に案内された。
「どうじゃ、壮大な眺めであろう。京から千人もの大工を集めてきたからのう」
道誉の言う通り、あちらこちら、ところ狭しと大工が働いていた。正儀はせわしなく働く大工たちの間を、道誉とともに歩く。
「先の和睦では、廟堂の意見を纏めることができませなんだ。それがしの力不足、申し訳なかったと存じます」
「ほう、こうしてわしの前に現れるということは、力不足が解消したということか」
嫌味な問いかけであった。
「力不足が解消したかはわかりませぬが、蔵人として帝(後村上天皇)のお側に使えることになりました」
「何、そなたが蔵人……」
婆娑羅で破天荒な京極道誉でさえも、正儀の蔵人就任は意外であった。
「なるほど、状況が変わったようじゃ。されど、わしとて状況が変わった。無理をして南北合一を進める必要がなくなったのじゃ」
「状況が変わった……とは」
「仔細は話せぬがな。わしにとって、無理をして和睦を推し進めても得るものはない」
正儀は、道誉一流の駆け引きと思った。
しかし、道誉が心変わりしたのは本当のことであった。昨年末に、幕府で問題が生じたからである。
将軍、足利義詮の命で幕府管領の斯波道朝が、越前にある興福寺の荘園を召し上げた。怒った興福寺の僧兵は、春日大社の宮司を巻き込み、大社の神木を担いで京へ強訴に押しかけた。そして、道朝の屋敷に神木を投げ込み、逆らえば天罰が下ると騒ぎ立てた。
この騒動に、道誉の娘婿にあたる赤松則祐は、将軍、義詮に道朝の排除を訴えた。結果、管領職の剥奪とまではいかなかったものの、幕府内で、道朝の威厳は低下した。
全ては京極道誉の策略であった。
もともと道誉の南北朝廷の合一は、幕府管領、道朝の追い落としが狙いである。道朝の力が削がれれば、道誉にとって南北朝の合一は必須ではなくなっていた。
真義のほどは兎も角、正儀は交渉を繋げなければならない。そろり、道誉の様子を探りながら話す。
「それは困りました。何があったかは存じませぬが、御一統は入道殿にとって損にはなりますまい」
「損ではないが、特段、得とも思うておらん」
返事を聞いた正儀は、これは駆け引きではなく本音だと感づいた。であれば、道誉の気を変えることが重要である。
「それがしが見るところ、将軍は、我が方の朝廷の息の根を止めるおつもりがないようにお見受けする。これが我が朝廷と京の朝廷がいつまでも並び立つ理由ではありますまいか。将軍(足利義詮)のお考えか、はたまた先の将軍(足利尊氏)の遺訓でありましょうや」
正儀の言葉に、道誉が歩みを止めて振り返る。
「そのほう……」
畳みかけるように、正儀は話を続ける。
「足利将軍家にとって、我が朝廷は敵でもあるが、潰すこともできぬ、矛盾した存在じゃと思います。さすれば、この乱世の出口は和睦しかないのではありますまいか。和睦を実現すれば、足利将軍家に対して、恩を売ることができるでしょう。入道殿にとって、先々、必ずや得はあると存じます」
ふふと道誉は笑みを浮かべる。
「面白きことをいう男よのう。さすがは楠木正成の子というべきか。されど、わしはもう歳よ。先々のことなどわからん。今更、将軍家に恩を売ってどうなる」
「入道殿は、入道殿が亡くなった後の京極家のことは考えぬのですか。跡継ぎ殿のためにも有益でしょう」
道誉の眉がぴくりと動く。
「跡継ぎじゃと。誰のお陰で、我が京極家が跡継ぎに苦労していると思うておるのか。忘れるでない、あくまで楠木は我が京極の仇ぞ。馴れ合いは止めようぞ」
道誉の長男・次男を初め、多くの者が南軍との戦で命を落としていた。機嫌を損ねた道誉は、正儀らをその場に残し、立ち去ってしまった。
翌日、正儀らは昨日と同じ場所で京極道誉を待った。
近臣の河野辺正友は、不安げな表情を見せる。
「道誉は来ましょうや」
「必ずくる。京極道誉は賢い男よ」
正儀は心配する素振りも見せず、大工たちの手際のよさに感心しながら、社造りを見物した。
「殿、あれに。殿の見立ての通り、本当に来られましたな」
正儀と正友は顔を見合わせて、口元を緩めた。
その日から数日、正儀と道誉は和睦の協議を重ねた。
協議の場所は、楠木氏とは古い縁があるとも伝わる熊野新宮神職の楠三乃大夫の屋敷である。熊野は、正儀ら南朝に同心する土豪が多い土地柄であった。だが、新宮大社の式年遷宮を支援したのが幕府であることからもわかる通り、新宮大社と神官たちは微妙な立場にあった。
二人の話し合いは、幕府を認め、北朝の皇統と、南朝の皇統が交互に践祚する両統迭立を基本としたものである。今後、それぞれの朝廷の直轄地や、それぞれの武家の守護国など、種々の話を双方で交渉していくことに合意した。
「では、入道殿、それがしは住吉に戻り、帝(後村上天皇)に奏上致します。入道殿も将軍への奏上をよしなに」
「楠木殿、心配なのは住吉の公卿どもじゃ。これまで上手くいかなかったものが、いくらそなたが蔵人になったとて、そう簡単に進むものとも思えぬ。この件、将軍には奏上するが、我らから動くことはない。すべては住吉の朝廷次第じゃ。肝に銘じられよ」
先回、道誉から持ちかけられた和睦の時よりも、南朝の立場が悪くなっていることを、正儀は肌で感じていた。和睦を急がねば、この先、ますます帝(後村上天皇)の立場が悪くなるであろうことは想像に難くない。
「承知つかまつった。それがしから状況を入道殿にお伝えすることに致しましょう」
そう言って正友とともに座を立った。
道誉も式年遷宮の社の造営を見届けることなく、京に戻っていった。
京極道誉は、正儀と会談した熊野新宮からの帰り道、伊賀国小波多へ向かった。観世こと服部清次に会うためである。
新生小波多座を旗揚げした観世は、伊賀の一の宮である敢国神社や、名張の宇流布志根神社の奉仕神楽の楽頭職に任じられ、次第にその評判を上げていた。
道誉が先に走らせた使者から知らせを受けた観世が、大和との国境で出迎える。
ひれ伏す観世の前で道誉が輿を降りた。
「この様なところまで御越しいただけるとは、恐悦至極にございます」
「観世大夫、久し振りじゃな。お前の名で一座を旗揚げしたようじゃな。噂は聞いておるぞ」
「はい。父(服部元成)より座を引き継ぎましてございます。今はこの座で申楽能を行っております。『申』は……」
そう言いながら、観世は宙に『申』の字を書いた。
「申楽能……それが、田楽を越えた猿楽か」
「支度をしておりますれば、後ほど、御覧いただきとうございます」
胸のうちに自信を隠して、観世は頭を下げた。
「ところで、熊野で楠木の棟梁に会うてきたぞ」
不意に道誉の口から出た名に、観世は戸惑う。
「ど、どうして、それを私めに……」
「母方の従兄であるのであろう。そなたのことはここへの道すがら、調べさせてもろうた」
道誉に問われ、観世は黙りこんだ。
「どうした。成敗されるとでも思うたか。じゃが、ちょうど熊野で楠木正儀と和睦の協議をしてきたところじゃ。わしが楠木の縁者であるそなたを切れば、和睦にも影響しよう。運がよかったな。わっはっはっは」
豪快に道誉は笑った。
肝を冷した観世であったが、気を取り直し、道誉を案内して伊賀国小波多に入る。
福田神社の境内の端に作られた舞台は、茅葺の屋根を持った常設の小屋である。境内に向けて五間ほどの間口が開かれ、中は一段高くなった床がある。申楽能を奉納するときは、青天井の境内に観客が座る筵が敷かれる。この度は、筵の上に道誉が座る床几が用意された。
緊張の面持ちで舞台に上がった観世は、舞台の中央に進み出て、大きく息を吸う。
「入道様、我が申楽能を御覧あれ」
そう言って、女形である小面を顔に付けた。
主役の仕手方を務める観世は、脇方,狂言方,囃子方の三役を務める一座の者たちとともに申楽能を演じる。
演目は、旅の僧侶と里女の出会いから始まる物語。
『思えばこの世は仮の宿、心を留めてはならぬ……』
舞台の中央で紅の扇を開き、静々と足を運ぶ観世の動きを、道誉は客席から食い入るように見る。観世が演じる女は、まさにまったりという言葉が心地よい、艶美な色香が漂っていた。
申楽能を演じ終わった観世が舞台を降り、道誉の元でひざまづく。
「いかがでございましたか」
少し考えてから道誉は口を開く。
「なるほど、猿楽とは思えぬほどに、優雅で品のある歌舞じゃ。足先から指の先までの細やかな配慮は田楽ゆえんか。仕手と周りの者の役割も見事じゃ……」
その言葉で観世は安堵する。
「……されど、目の越えたわしを唸らせるほどものではなかった」
続く道誉の言葉に、観世の表情が固まる。
「ど、どこがお気に召しませんでしたでしょうか。何卒、お聞かせください」
身分をわきまえることなく、観世は道誉に詰め寄った。
「田楽にせよ猿楽にせよ、芸能は目で見て、耳で聴くものじゃ。その両方が調和すれば倍にも十倍にもなるであろう。観世大夫の芸はどうであったかのう」
道誉の指摘は観世の心に刺さる。心の奥底に隠していた違和感を、見透かされてしまった思いであった。
項垂れる観世を前に、道誉は席を立つ。
「その方のその態度。どうやら感じいるところがあったとみえるな。であれば、わしとの約束は先伸ばしにしてやろう。わしを唸らせるものができたら、また、わしに見せにくるがよかろう」
約束とは、観世が田楽の一忠に師事していた時のことである。平等院での年越し田楽奉納で、道誉と行った賭けであった。観世は道誉の挑発に乗って、田楽を越える猿楽ができなければ、猿楽を封じると大見得を切った。
「失礼を致しました……」
観世は深く頭を下げた。悔しさと恥ずかしさで顔を上げられない。道誉は、そんな観世をその場に残したまま、立ち去った。
熊野から住吉に戻った正儀は、大納言の阿野実為に事の次第を説明した。実為は直に、正儀を従えて帝(後村上天皇)に拝謁した。
交渉の経緯を聞いた帝は、神妙な顔で頷く。
「左様か、交渉を続けることで合意したのじゃな。新宮大社の意向も無視はできぬ。大平の世を実現させるには致し方なかろう。されど、これに異を唱える者も、きっと多い。彼らは彼らで忠臣なのじゃ。彼らの意見も汲んでやって事を進めるように」
帝は先帝(後醍醐天皇)の遺勅を気にしていた。
思えば南朝は、崩御してなおも続く先帝の威厳で成り立っていた。強硬派の公家たちは、幕府を滅ぼせとの遺勅に忠実であったのだ。
そして、今上の帝も遺勅には背けなかった。正儀はその呪縛から帝を解き放して差し上げたかった。
「四条様のお顔も立てながら、事を進めたく存じます」
実為の言葉は、帝を安堵させた。
この後、実為は幕府との交渉開始を朝議に諮る。帝の意向も背景に、ひとまず、交渉を続けること自体は決裁した。
大納言の四条隆俊・北畠顕能ら強硬派の公卿が話を覆さなかったのは、帝の意向があったからである。しかし、焦りはない。隆俊にしてみれば、交渉の過程で決裂に導けばよかった。
すぐさま、正儀は京へ使いをやって、朝議の結果を京極道誉に伝えた。努力が実り、和睦交渉はやっと振り出しに戻った。
正平二十一年(一三六六年)三月、三条坊門に再建された将軍御所で、花見の宴が催される。かつてこの地にあった三条坊門第は、正平の一統の折、南軍侵攻で灰塵に帰していた。
新たな三条坊門第は、その隣に昨年、建てられた。この度の花見は、言わば、復活した三条坊門第のお披露目である。そして、この宴を取り仕切るのは、幕府管領の斯波道朝であった。
道朝は、興福寺と春日大社による強訴と、自分を飛び越えて始まった南朝との和睦交渉の件で、おおいに面目を失っていた。それだけに、この幕府を上げての催事を取り仕切ることで、面目を取り戻し、自らの威厳を高めようとしていた。
将軍御所には朝から多くの諸将が集まった。広い庭に点在する赤い野点傘のもとで、招かれた者たちが和やかに言葉を交わしていた。
宴席の首座に腰かけた将軍、足利義詮があたりを見渡す。
「修理大夫(道朝)よ、道誉の姿が見えぬが、奴は来ぬのか」
「いえ、道誉殿からは花見を楽しみにしていると、参上の意志を伺っておりまする。今しばらく、お待ちいただければと存じます」
そう言ったものの、道朝は顔を見せぬ京極道誉に苛立っていた。
「道誉だけではない。公家や町衆の出も少なくはないか。せっかく我が御所を開けたというに集まりが悪い。修理大夫、しかと公家や町衆には伝わっておるのであろうな」
義詮の指摘を受けて、道朝があたりを見渡す。確かに集まりは悪い。
「ま、まだ早うございます。これから人は集まりまする」
その場を繕う道朝であったが、内心は焦っていた。
そこへ、将軍近習が慌てて駆け込んでくる。
「申し上げます。大原野の勝持寺で佐渡守(道誉)が花見を開き、公家や町衆で溢れかえっているようにございます」
「なんじゃと、まことか」
わなわなと道朝は震えた。そんな道朝に、後ろから義詮が問う。
「修理大夫(道朝)、これはいったいどういうことじゃ。そなた、道誉はここへ参上すると申したな」
「は、はい、確かに。一風変わったものを興じると……」
「一風変わったものじゃと。それは何じゃ」
「それがし、内容までは……」
困る道朝に代わって答えたのは、駆け込んできた先の近習である。
「お話の件かどうかは存じませぬが、佐渡守は、ひと抱えもある香木を一度に焚き上げ、その香りが風に乗ってあたり一面に立ち込め、あたかも芳香ただよう極楽浄土のようであるとの噂です。その香りに引かれて、また多くの者が集まっているとか」
近習の話はまだまだ続く。
一丈もの真鍮の花瓶を四本の桜の大木の根元に置いて、桜の立木を立花(生け花)に見せる演出を行っていた。そして、百品もの料理、百服の茶、当代一流の歌舞音曲を取り揃え、京の公家や文化人をもてなしているという。
もともと婆沙羅大名として立花、茶道、香道、笛、田楽など文芸に造詣が深く、その筋の一流の文化人との人脈もある道誉ならではの花見の宴であった。
もちろん、ただの馬鹿騒ぎではない。道誉一流の駆け引きでもあった。
「道誉め。幕府の花見を蔑ろにするのか。御所様、これは将軍に対する謀反にも等しい振る舞い。このままには捨て置けませぬ。すぐにでも兵を出して力尽くでも……」
真っ赤になって激怒する道朝であったが、すぐに真っ青にならざるを得なくなる。
「修理大夫、幕府の威厳を示すべきはこの宴。そなたに任せるのではなかった。これでは将軍は恥をかいたようなものではないか。道誉はいつにも増して無礼であるが、この宴そのものが、魅力のないものであったということじゃ。余は引き上げる。後はそなたに任せよう。しっかりと務めを果せ」
「お、お待ちくだされ。首座の将軍がおらぬでは、来客をもてなせませぬ」
道朝は焦った。
そこへ、もう一人、将軍の近習が駆け込む。
「申し上げます。京極佐渡守より、将軍を宴にお招きしたいと、輿が御所の前まで来ております。使いの者の話では、将軍御所の宴のほんの余興として、こちらの宴へも、跨いでお楽しみいただきたいとのことです。他の来客のためにも複数の輿が用意されてございます」
「何、世に勝持寺まで参れというのか」
将軍、義詮は怪訝な顔をする。
しかし、近くの来賓席で、事の次第を聞いていた関白、二条良基が立ち上がる。
「行けばよろしかろう。将軍が参れば、勝持寺の宴も、将軍の名の元に行われている宴になりましょう。それに、麿もその宴、興味があります」
なるほどと義詮が頷く。
「では、関白様と参るとしよう」
そう言って席を立ちあがった。
「お待ちくだされ、それではますます、こちらの宴が……」
「それはそなたの仕事じゃ。最後までしっかりと客人をもてなすがよろしかろう」
関白の良基が、止めようとする道朝を諫めた。
義詮は道朝を一瞥して、道誉が用意した輿に向かった。道誉の策略によって、道朝は幕府管領としての面子を失った。
八月八日、将軍、足利義詮は突如、三条坊門第に軍勢を集める。幕府管領、斯波道朝の陰謀が露顕したとして、攻め込む支度であった。
義詮の使者が、道朝の元に着く。
「将軍は修理大夫(道朝)の謀反の証を掴みました。もう、言い逃れはできませぬ。大人しく京を離れ、領国に下向されると申されるなら、討伐は致しませぬ。が、あくまで京に残り幕府に抗うというのなら、軍勢を差し向けまする」
「な、何じゃと、わしが謀反じゃと。何を言っておる」
道朝にとって、与かり知らぬことであった。
将軍、義詮を焚きつけて軍勢を集めさせたのは、もちろん京極道誉である。
すでに幕府内での威厳を失っていた道朝に、抗う術は残されていなかった。抵抗できないと悟った道朝だが、足利一門筆頭としての意地を見せようと、郎党たちに戦の用意をさせて、翌朝、自らの屋敷に火を放つ。
この道朝の行動は、戦が始まると幕府を慌てさせる。だが、道朝は戦をすることなく、後継ぎで執事の斯波義将と一族郎党を伴って、領国の越前国へと落ち延びて行った。
しかし、越前国の杣山城に入った道朝に対して、追討しないと言ったはずの将軍、義詮は、討伐軍として六角崇永、山名冬氏の軍勢を差し向ける。道朝は杣山城に籠城して、討伐軍と対峙することとなる。
九月、京極道誉が総奉行として造営にあたっていた熊野の新宮大社が落成する。幕府は将軍、足利義詮の名だけでなく、嫡男、春王丸の名でも神興と数々の神宝を寄進した。
京極道誉より新宮大社落成の話を聞きつけた正儀は、大納言の阿野実為に相談して、帝(後村上天皇)に神宝を寄進するよう奏上する。そして、正儀が帝の使者として熊野新宮大社に出向いた。
正儀は、熊野別当(長官)、嫡流家の一つである、宮崎快宣の屋敷に逗留する京極道誉の元を訪れた。
社の落成を祝い、正儀が道誉の労をねぎらう。
「入道殿(道誉)、此度の大役、無事お努めなされ、祝着にございます」
「楠木殿、わざわざのお越し、痛み入る。そなたが住吉の主上に寄進を奏上されたのであろう。和睦を進めるわしの面子もこれで立つ。今宵はゆっくり過ごされるがよかろう」
「かたじけのうございます。それにしても壮大な社でございますな」
正儀は、幕府の余力を感じずにはいられなかった。南朝には、式年遷宮でこれだけの支援をする余裕はすでにない。それでも南朝は、結びつきの深い四天王寺の金堂再建には金を出していた。
「今度、四天王寺の金堂が落成致します。上棟式には帝(後村上天皇)も行幸されまする。ついては、この上棟式に将軍の名で何かしていただけるとありがたい」
「なるほど、御返しというわけか」
「いかにも。幕府との和睦の雰囲気を醸し出し、強硬派の公卿たちに見せる必要がありまする」
やはり、南朝内部の調整は一筋縄ではいかなかった。
「その方も大変よのう。まあ、わかっていた事だが……よかろう。それがしから将軍に奏上しよう」
その提案に、道誉は苦笑いしながらも快諾した。
その年、摂津国の四天王寺、金堂の上棟式が、帝(後村上天皇)の臨席のもとで行われる。南朝は、五年前の地震(正平/康安地震)で崩れ落ちた金堂の再建を支援していた。幕府からは、京極道誉が約束した通り、将軍、足利義詮の名で、駿馬が寄進される。
「将軍が馬を寄進してくるとは。和睦の交渉が進んでいる証ということか」
大納言の四条隆俊は、阿野実為と談笑する正儀を苦々しく睨んだ。
「四条様、河内守(正儀)を甘く見ない方がよろしかろう。あの男、本当に和睦を纏めてしまいますぞ。蔵人として御上のお傍近くに仕え、日々説得をしているのでしょう。すでに御上も和睦を容認されておられる」
大納言、北畠顕能は隆俊を煽った。
「そうじゃな。何とかせねば」
顕能から目を逸らした隆俊は、険しい表情を、向こうに見える正儀に戻した。
翌々日、正儀の和睦の動きに懸念を抱いた大納言、四条隆俊は、一人の男を自らの屋敷に招く。
「和泉守、よう参った。さ、こちらに」
現れたのは楠木一門の重鎮、和田正武であった。正武からすれば、隆俊は公家大将として、兵馬の繋がりがある。隆俊の要請を無下にはできなかった。
隆俊を前にした正武は、落ち着かない様子で下座で畏まる。
「四条様におかれてはご機嫌麗しゅう。さて、それがしを召された御用向きは何でございまするか」
怪訝な表情で正武はたずねた。隆俊は、その様子を察して言葉を足す。
「近頃、戦がない日々が続いておるが、幕府の動きについて、意見を聞きたいと思うてな」
「はあ……されど、河内守殿(正儀)はよろしいのですか」
「武勇の誉れ高き、そちを見込んでのことじゃ。まずは会うてもらいたい御仁がおる」
隆俊はそう言うと、手を叩き、近習を呼んで耳打ちする。しばらくして近習とともに顔を見せたのは、大納言、北畠顕能であった。
「これは、北畠大納言様」
伊勢に戻ったものと思っていた正武は驚く。そして、なぜ、この場に顕能が現れたのか、訝しがった。
顕能は、向かい合う隆俊と正武を、横から見える位置に座る。
「和泉守、久し振りよのう。四天王寺金堂の上棟式の後、こっちの宿坊に泊まっておる」
「そうでありましたか」
「四天王寺で河内守(正儀)に会うた。以前に比べ、貫禄が増したようじゃ」
「左様でございますか。河内守殿も、兄、正行殿の後を継いだ時は十九歳。それが今では三十七です」
しみじみと正武が応じた。
「ちょうど高師直・師泰兄弟に攻められている最中での家督相続であったな。若い河内守を支えて盛り上げてきたのは、紛れもなく一門一党。中でも和泉守が率いる和田党あればこそじゃ。違うかのう」
「これは、恐縮にございます」
顕能は、正武の反応を探るように話を続ける。
「ところで、和田家と楠木家はどういう間柄なのか。確かそちと河内守は従兄弟とか」
「正成公の姉が我が母でございます。ただそれだけではなく、正成公の父、楠木入道正遠は、和田家の出。先妻を亡くした正遠は、楠木の一人娘を後妻として、楠木家に婿養子として入りました」
面食らいながらも、正武は素直に答えた。
「なるほど、それで合点がいきました。他家はいかがじゃ」
顕能に目配せされて、隆俊が問うた。
「楠木一門の橋本も神宮寺も、皆、和田から分家したり、養子に入った家にございます」
「すると和田家が楠木一門の本家というわけじゃな」
「え……まあ……そうとも言えますが、本家というのはいささか……」
顕能は一瞬、口元を緩めた後、同情したかのように言葉を足す。
「本家筋の当主であるそちが、楠木の下に着くというのは、少々、窮屈ではないのか」
誘導する問いかけに、正武は返答に困る。
「い、いえ、それがしは、戦で河内守殿を支えることができれば、本望にございます」
「殊勝な心掛けじゃ。それにしても、戦嫌いの河内守には、和泉守はもったいない武将じゃな。のう、四条様」
「ほんにそうじゃな」
「いえ、河内守殿は戦嫌いではありますが、戦上手。戦に対して天賦の才があります。さすがは正成公の子」
「さりとて、その才も、勇将のそなたも、和睦一辺倒の河内守では宝の持ち腐れ。残念なことじゃ」
今度は隆俊が正武に同情の眼差しを向けた。
「いえ、そのようなことは……」
「……ない、と申すか。重ねて殊勝じゃ。されど、機微をみて、戦で力を示さねば、相手にいいようにされてしまう」
「ごもっとも」
小さく頷き、正武は隆俊に応じた。
顕能は、正武の不満の表情を見逃さなかった。
「和泉守よ、河内守に反して、そなたが戦を必要と思う時があれば、我らのところにくるがよい。力になろうぞ」
武骨な正武でさえも、さすがに二人の思惑に気づかないはずはない。
「お心遣い、痛み入ります。されど、和田と楠木は一心同体。それがしと河内守殿が意見を違えることはないと存じます」
「そうか、要らぬお節介であったのう。気を悪くせんでくれ」
隆俊の言葉に、正武は恐縮する。
その後、正武は、幕府の動きなどについて、ひとしきり意見を述べた後、礼の言葉を述べて、帰っていった。
和田正武が居なくなった座敷で、四条隆俊が北畠顕能に向き合う。
「北畠卿、和泉守をどう思われました」
「そうですな。言葉とは裏腹に、顔に出ておりましたな。本音では和睦に賛同しておらぬ。篭絡は可能でしょう」
「熙成親王への東宮宣下を廃して、寛成親王を立てるには、まずは、武力の後立てたる楠木の力を削ぐことが肝要じゃ。和泉守がこちらに付けば、楠木の力を削ぎ、我らの力を高めることができる。一石二鳥じゃ。さすればきっと、帝は我らを頼られるであろう」
隆俊は扇で口元を隠しつつ、顕能に向けてほくそ笑んだ。
年が明け、正平二十二年(一三六七年)一月となった。正儀が、篠崎六郎久親の子、藤若丸を猶子に迎えてから八年が経つ。そして、赤松光範の元を追われた熊王丸を迎えてからも七年の歳月が過ぎていた。藤若丸も熊王丸も、ともに十五歳。二人は仲のよい兄弟として育った。
正儀は、よき日取りを選んで、二人に元服を執り行うこととした。
楠木館の広間には、舎弟の楠木正澄、従弟の楠木正近、家臣の河野辺正友、菱江忠元、津熊義行、神宮寺正廣。恩地満信らが並んだ。そして、烏帽子親として、和泉守の和田正武が招かれていた。
侍烏帽子を藤若丸の頭に載せた正武が、頂頭掛の懸緒を結ぶ。
「なかなかよい顔つきをしておるな」
そう言って、正武は口元を緩めた。
「藤若丸、そなたに名を与える。今日からそなたは篠崎二郎正久じゃ」
正儀が掲げた紙に書かれた『正』は楠木の通字。そして、『久』は篠崎家の通字であった。
「二郎|正久……父上、ありがとうございます」
二郎としたのは、上に出奔した楠木太郎正綱がいたからであった。
藤若丸改め篠崎正久は目を輝かせる。そして、実の父に捨てられた自分を猶子として迎え、ここまで育ててくれた正儀に、心の底から感謝した。
「正久殿、よい名です。ほんに立派になられて」
姉の菊子は、弟の元服に目を潤ませる。そんな菊子の傍には、徳子が優しく付き添っていた。
「二郎の兄上、おめでとうございます」
正儀の嫡男、持国丸は、自らのことのように喜んだ。この時、持国丸も、はや、十三歳となっていた。数えで六歳となった次男の如意丸も兄の隣でにこにこと笑顔を振りまいて喜んでいた。
同様に正武は、熊王丸の頭にも侍烏帽子を載せて、頂頭掛の懸緒を結ぶ。
「どうした、緊張しておるのか。早く一人前の武将に成って、三郎殿(正儀)をお助けせよ」
「は、はい」
硬い表情で、熊王丸は正武に応じた。
「熊王丸、そなたは今日より宇野三郎正寛じゃ」
再び正儀は、新たな名を書いた書き物を掲げた。楠木の通字の『正』に、『寛』は熊王丸の父の諱からである。
「新たな名、ありがたく頂戴つかまつります」
熊王丸改め宇野正寛は、恐縮して正儀に礼を言った。
「元服した二人に、少しじゃが知行を分け与えたいと思う」
思わぬ正儀の言葉に、二人は顔を見合わせた。
「二郎(篠崎正久)、そなたには猫路山城を任せたい。まあ、城と言っても砦じゃがな。元弘の戦の折、我が父、楠木正成に従ったそなたの祖父、篠崎嘉門が籠り、鎌倉の幕府を撃退した砦じゃ」
「我が祖父が戦った城……でございますか。あ、ありがとうございます」
正久は思わぬ祝儀に素直に喜びを見せた。
「三郎(宇野正寛)、そなたには桝形城じゃ。これも砦じゃがな」
申し訳なさそうに、正寛が口を開く。
「父上、ありがとうございます。私如き若輩に、城などもったいなきことでございます」
手を突いて正寛は頭を下げた。
正儀の実子である持国丸と如意丸、それに、討死した津田武信の遺児、正寿丸が、主役の二人を取り囲んで祝福した。正寿丸は、楠木家を出奔した楠木正綱と入れ替わるように、楠木館に入っていた。
兄弟たちの祝福に、正久は満面の笑みで応える。対して、正寛は終始、強張った表情を隠すかのように、皆に合わせて作り笑い浮かべていた。
二人の元服が無事執り行われた後に、酒が振る舞われる。篠崎正久の姉、菊子が、妙ら女衆とともに酒や料理を運んだ。
皆が楽しく和む中、和田正武が正儀に酒を勧める。
「よい元服式であったな」
そう言って正儀の盃に酒を注いだ。
「新九郎(正武)殿に烏帽子親になってもらい、正久も正寛も勇ましい武将に成るであろう」
正儀は、笑顔で盃を口に運んだ。今度は、正儀が瓶子(酒器)を手に取り正武に返杯の酒を注ぐ。
「さ、新九郎殿も、もう一献」
「かたじけない……時に、幕府の使者を迎えて、和睦の交渉に入ったそうじゃな」
盃を手に、正武は無関心を装ってたずねた。
「うむ、京極入道(道誉)と交渉をはじめたところじゃ。意見の隔たりは大きい。時が必要じゃ。新九郎殿はどう思う」
「わしに聞いても無駄じゃ。わしであれば幕府と和睦などはせん。それは三郎殿もよくわかっていよう。和睦をすれば、正成公をはじめ、我が父や兄、多くの楠木・和田一族の死が何であったのか。あまりにも報われないではないか」
「その話はすでに何度も聞いた。されど、わしの考えは変わらん。父上も本心ではそれを願っていたはずじゃ。わしはそう信じておる」
今更とばかりに、正武は苦笑いで返す。
「三郎殿の考えはようわかっておる。これについては、いつまでたっても交わることはないであろう。じゃが、残念ながらそなたが棟梁。その命には従おう。わしは美木多助氏のような真似はせん。血の繋がりあるからな。楠木・和田の血族は、一枚岩でおらねばならん」
裏切って幕府側に転じた助氏を引き合いに、正武は、自らの一族への思いを滲ませた。
ささやかな宴はまだ続く。
「どうした、熊王、いや三郎。そなた、今日はおかしいぞ。先般から元気がない。せっかくのめでたい席というのに」
上座に腰を降ろす主役の一人、篠崎二郎正久が、もう一人の主役、宇野三郎正寛に声をかけた。事実、正寛は、正儀に元服の日取りを告げられてから、口数が極端に少なくなっていた。
「い、いや、何でもないのじゃ」
正寛は口ごもった。
「それにしても、父上(正儀)は何と優しいお方か。我らのような、楠木の血筋でないものを猶子として迎え入れ、こうして和泉守様までを招いて、立派な元服の儀式を行ってくれる。このような殿が他におろうか。我らは幸せ者よ。のう、三郎」
黙って正久の話を聞いていた正寛は、急に一筋の涙を流した。
「ど、どうしたのじゃ、三郎」
その様子に、正久は唖然とする。
急に、正寛が、その場で立ち上がる。そして、縁側から庭に飛び降り、短刀を抜いて自らの喉に切っ先をむけた。
慌てて正久も庭に飛び降り、正寛の手元を掴む。
「だ、誰か、熊王(正寛)が……」
その声に、近くに居た正儀の従弟、楠木正近が庭に飛び降りた。そして、正寛の手をねじ上げて短刀を払い落す。
「いったい何をしておる」
正近の怒号で、菱江忠元と津熊義行ら、家臣たちもが庭に飛び降りた。正儀と和田正武も驚いて縁側に出る。そして、立ったまま騒然とした状況を見下ろした。
突如、正寛が声を上げて泣く。
「うおぉ……死なせてくだされ。私は生きていてはならんのです」
「いったい、なんじゃ……」
その隣で正久は呆然とし、その後は声にならなかった。
裸足のまま正儀が庭に降り、正寛に歩み寄って肩に手をかける。
「何があった。わしに話してみよ」
正寛は正儀の顔をまともに見ることができない。
「……わたしは父上を……こ、この手で討とうと思うておりました……さ、されど、父上を目の前にしても、本懐を遂げることはできません。もう、わたしは、死ぬしかないのです」
下を向いたまま、正寛は、泣きじゃくりながら語った。
宴席の一同は言葉少なに、縁側から正寛を見下ろした。持国丸と如意丸・正寿丸も、ただただ呆然として、義兄の姿を見つめている。庭に降りていた義行と忠元は、首を傾げて互いの顔に目をやった。
縁側の上から正儀の舎弟、楠木正澄が詰問する。
「いったい、なぜ兄者(正儀)を討たねばならんのじゃ」
「……父上に拾われる前から……父上を討たんと思い……近づいたのです」
泣きじゃくりながら、正寛は声を絞り出した。
正澄は、信じられないという顔を見せる。
「な、何と。そなたがこの屋敷で暮らすようになって六年じゃぞ。六年も前からお前は兄者を討とうと狙っておったというのか」
「何か訳があったのじゃな」
正儀がたずねると、正寛はうつむいたまま、語りはじめる。
熊王丸の父、宇野六郎は、幕府方の摂津守護を務めていた赤松光範の重臣であった。
六年前、畠山国清が率いる幕府の討伐軍が、南河内から撤退した。すると、正儀が率いる楠木軍は反撃に転じる。さっそく摂津に出陣し、赤松光範の軍勢を打ち破った。
大将の光範が、楠木軍によって討たれそうになった時、光範を助けて自らが犠牲になったのが、その宇野六郎であった。
宇野家に残されたのが、まだ八つの熊王丸であった。大黒柱の死に家族が打ちひしがれる中、熊王丸が主君、赤松光範に召し出された。熊王丸は郎党を連れて、光範の前で畏まる。
「私は父の仇を討ちとうございます。仇は、仇は誰でしょうか」
心の嘆きが聞こえそうなほどに、熊王丸は肩を震わせていた。
「仇は河内の武将、楠木正儀が率いる楠木党じゃ。されど、とても童のそなたが討てる相手ではない。お主はわしの元に居て、立派な武将に成れ。一廉の武将となって戦場に出られるようになれば、いつかは楠木正儀を討つときもやってこよう」
光範は、身代わりで討たれた六郎の子、熊王丸への責任を感じていた。しかし、熊王丸は首を横に振る。
「それでは遅うございます。幼い私だからこそ、仇は油断して私を近づけることでしょう。これより河内に赴き、楠木に仕えとうございます。そして正儀の隙をみて本懐を遂げたいと思います」
熊王丸の頑な訴えに、首を横に振るばかりの光範であった。だが、食い下がる熊王丸に、ついには根負けして、出奔を許す。
「そなたにこの短刀を授けよう。この短刀で見事、本懐を遂げるとよい。されど、無理はするな。難しいと思えばわしの元に戻ってくるがよい。お主の帰る場所はここじゃと心得よ」
光範の思いやりのある言葉に、熊王丸は幼いながらも、心底、恩義を感じた。
そして、南河内にたどり着いた熊王丸は、苦労の未、何とか楠木の家臣、菱江忠元に拾われる。そして、楠木館に招かれ正儀の猶子となり、今日を迎えたということであった。
宇野正寛は、酌るように声を震わせて、これまでの事情を話終えた。そして、楠木正近に払い落とされた短刀に目をやる。
「この館に来てから六年、あの短刀で父上の命を幾度も狙いました。されど、そのつど、ためらいが生じ、今日に至りました」
その短刀を正近が拾い上げる。
「それが、なぜ今となって……」
「今年は亡き父の七回忌。今宵こそと腹を括ってこの場に望みました……」
この騒ぎで、奥から顔を出した徳子と菊子、それに侍女の妙も、息を飲んで話の続きを待った。
「……されど、やはりできません。父上は、自らの御父上、兄上らを討たれたにもかかわらず、己の仇討ちで戦をした事など、ただの一度もございません。そのことを思うと、何と自分が浅はかであったかと……それがしは父上を討つことはもうできぬのだと悟りました」
「では、もうよかったではないか。なぜ死のうとしたのじゃ」
縁側の上から楠木正澄が疑問を呈した。
「私が父上を討たぬということは、恩義ある赤松の殿(光範)を裏切ることになります。私はここで、ぬくぬくと元服して、楠木の武将に成ることはできぬのです。私に残された道は、あの短刀で自らの命を断つことしかないのです」
「このたわけ者め、命は一つしかないのじゃ。死ぬことはいつでもできる。どうしてよいかわからないなら今は生きよ。生きて何をすべきか考えよ」
厳しく諭した正儀は、涙を流しながら正寛を抱き寄せた。
一同は、正儀と抱き合う正寛の姿に嗚咽を漏らした。
数日後、宇野正寛は正儀に、いとまごいを願い出る。許しを得て、赤松光範にもらった短刀で髻を落とした。出家した正寛は、正儀の紹介で、河内の往生院(六萬寺)に入ることになる。
出立の日、楠木館の前に皆が集まり、正寛を見送る。正儀は、ただ無言で皆の後ろに立っていた。
「何かあれば、帰ってきなさい。あなたの家はここなのです」
徳子は心の内を隠し、母として気丈夫に声をかけた。しかし、その隣では、妙が小袖の袂で涙を拭っていた。
「正寛、生きる道は違えども、我らは兄弟ぞ。忘れるな」
去りゆく正寛の背中越しに、正久が呼びかけた。
「熊王の兄者っ」
持国丸は、如意丸や正寿丸とともに、正寛の幼名を叫んだ。
姉として接してきた菊子は、小走りに後を追って、立ち尽くす。
「熊王、大丈夫です。きっと観音様があなたを導いてくださいます」
頬を濡らしながら、大きな声で叫んだ。菊子は去りゆく正寛の背中を見つめ、胸の前で両手を合わせ、ぎゅっと握る。
「あなただけが一人になるわけではありませぬ」
秘めたる思いが菊子にもあった。
この後、往生院に入った宇野正寛は、正儀が名付けた字をそのまま使って、法名を正寛とする。本人たっての希望を僧正が聞き入れたからであった。
元服の日からひと月後、正儀と徳子は、菊子を奥の間に呼び寄せた。
「父上様、母上様、お呼びでございましょうか」
菊子は正儀と徳子の前に正座した。
徳子が微笑みを浮かべて話しかける。
「二郎(篠崎正久)が元服し、菊子も姉として一安心したことでしょう。次は菊子の番です」
「私の番……」
意味深長な徳子の言葉に、今度は正儀に顔を向けた。
「そうじゃ。菊子も十九になった。そろそろ、縁談を考えねばと伊賀(徳子)が申してのう」
そう言って、正儀は徳子と顔を見合わせた。
「よい相手を探したいと思いますが、その前に、菊子は誰か思い人がいないのか、聞いておきたいと思うて、来てもらったのです」
思い人と聞いて、菊子の脳裏に浮かんだのは、東条を出奔した楠木正綱の顔であった。もちろん口に出すことは憚られた。
「母上様、私は嫁ぐ事など考えておりませぬ」
「菊子は縁談などまだ早いと思うておるのであろう。されど、あっという間に年月は過ぎていく。早いとはいえぬぞ」
「いえ、父上様、違うのでございます」
改めて、菊子は両手を床に付いた。
「父上様、母上様、血の繋がりのない我ら姉弟を引き取って、二郎の元服を執り行い、そして、私の縁談まで気を配っていただき、本当にありがとうございます」
「うむ、菊子と二郎はわしと徳子にとって、実の子と同じじゃ。当然ではないか」
その言葉に、菊子は目に涙を溜める。
「二郎も立派な武士に成れました。まるで夢を見ているように幸せな日々でございました。これで心置きなく出家できます」
出家と聞いて徳子は言葉を失い、正儀は目を大きく開く。
「何を申すのじゃ、菊子。なぜ、そのような事を……」
「実の母が亡くなるとき約束をしました。私がどんなに苦労をしても、二郎を立派な武士に致しますと。されど、思いがけず二郎と私はこの館に置いていただけることになりました。そして、二郎は立派に元服し、正久という名を頂戴致しました。私の願いは叶ったのです」
菊子の言葉で、やっと徳子は声を出す。
「願いが叶ったのなら、そなたが尼にならなくとも、もうよいのではありませぬか」
しかし、菊子は首を横に振る。
「いえ、私が苦労せずに二郎が立派な武士に成ることなどあり得ませぬ。たまたま、私が苦労する前に、二郎がこの城に置いていただけるようになっただけ。その分、私が尼となって苦行をしなければ、釣り合いませぬ」
正儀は息を呑んだ。まるで悟りを開いた行者の言いようであった。
その後も、正儀は徳子とともに菊子を説得した。しかし、菊子の考えは、ついに変わることはなかった。幾日もかけて話し合い、正儀は結局、河内の尼寺を紹介してやることにした。
熊王丸こと正寛が楠木館を出た日から、わずか三月で、菊子が尼寺に入る日がやってくる。
正儀と徳子が菊子の旅立ちを見守った。義理の姉弟として一緒に育った持国丸と如意丸、さらに正寿丸が菊子を取り囲む。実弟の篠崎正久は辛そうな顔を菊子に向けた。
「姉上……本当に行ってしまわれるのか」
「武士はそんな顔をするものではありませぬ。一生会えないわけではないのです。尼寺に入っても、私はいつでもお前のことを見守っております」
「姉上は、皆と離れ、寂しくないのですか」
問われた菊子が、懐から弁才天を取り出す。
「わたしには、ほれ、この通り弁才天様がおられます。お前を思い出したら、弁才天様を拝むように致します」
実父、篠崎久親より譲られた弁才天を見せて笑みを浮かべた。
徳子は涙をこらえて、二人のやり取りを見守った。
「義姉上様、これを……」
正寿丸が建水分神社の御札を渡した。正寿丸は菊子に渡すため、朝早く、一人で神社に詣でていた。
正寿丸が楠木館に来たのは、菊子が迎えに来てくれたことがきっかけである。正寿丸は何かと菊子を頼り、菊子も応えた。
「ありがとう、正寿丸殿」
菊子は正寿丸の手をぎゅっと握りしめた。正寿丸は顔を真っ赤にして下を向いた。淡い恋心であったかもしれない。
四月、正儀と京極道誉の交渉が、ついに実を結ぶ。
将軍、足利義詮は、南朝の帝(後村上天皇)に対しても、臣下の立場を受け入れた。そして、将軍の側から、京と住吉の両朝合一のことを、双方の帝に奏請した。
住吉にある南朝の廟堂。ここで和睦案の決裁の取り纏めにあたったのは、右大臣、洞院実守であった。実守は亡くなった洞院実世の従弟である。この時、洞院家跡継ぎの座を、北朝に仕えていた甥の洞院実夏と争って敗れ、南朝の帝の元へ出仕していた。
しかし、正儀と道誉で大筋合意した合一の内容を、ここにきて蒸し返そうとしている者もいる。四条隆俊、北畠顕能の両大納言を筆頭とする強硬派の面々である。
「我ら朝廷の所領を国衙領とするのはよいとして、先の御一統の折は、幕府が横領した所領も我らに寄贈するということであった。それが何じゃ、どこにも幕府が所領を返すとの文言は見えぬではないか」
隆俊は和睦を破談に追い込みたかった。しかし、和睦の方針を決めた帝の手前、面と向かっては反対もできない。そこで、和睦の条件において、いちいち問題をあげつらった。
「四条様、御一統の折とは、全てが変わっておるのです。我らは、もはやそのようなことを言える立場ではないのです」
くどい隆俊に、大納言の阿野実為は苛立っていた。
「条件が呑めないのなら、和睦はできぬのが道理じゃ。いったい河内守(正儀)は何をしていたのか。このような和睦の条件を、よく奏上させたものよ」
顕能が、廟堂の入り口付近に座している正儀に目をやった。正儀は無表情で文机に向かい、筆を走らせていた。
参議でもない正儀は、朝議に加わることはできない。しかし、実為の計らいで、蔵人として、掌記(書記)の役をもらい、下に控えていた。
「これでは、いつまでたっても堂々巡り。ここは御上の御裁断を仰いではいかがかと」
正儀と同じ和睦派の参議、六条時熙が結論を急ごうとした。しかし中央に座して朝議を仕切っていた右大臣、洞院実守は首を縦には振らない。
「まだ、議論が熟したとはいえませぬ。御上への奏上はまだ早いでしょう」
そう言って結論を先延ばしにした。
だが、右大臣である実守の言い分はおかしい。そもそも幕府から奏上された和睦案は、帝の内諾を得て行ったものである。言わば、朝議は儀式でしかないはずのものである。もはや隆俊や顕能ら強硬派の面々が、実守を巻き込んで裁決を延ばそうとしているのは明白であった。
結局、朝議は、右大臣の実守によって、日を改めて開くこととなった。
その夜、正儀は、大納言の阿野実為の屋敷を、参議の六条時熙とともに伺う。さすがの正儀も苛立ちを覚えていた。
「大納言様(実為)、このような朝議、いつまで続けても埒が明きませぬ」
「うむ、さりながら、洞院右大臣(実守)が首を縦に振らねば事を進めることはできぬ。二条関白様(教基)であれば、事はすんなりと進んだであろうが」
正儀の後立ての一人でもあった和睦派の関白、二条教基は、この時期、体調を崩し、関白を退いていた。また、教基の父で、南朝内に影響力をもっていた先の関白、二条師基は、二年前に亡くなっていた。
「こうなれば、最後の策に訴えるしかございません」
苦情の表情で、正儀は意を決した。
数日後、右大臣の洞院実守は、朝議を再開した。
前回と同じく、正儀は蔵人として少し離れた廟堂の入り口付近に座して、朝議の記録をとっていた。もちろん発言権はない。
「これでは、我が方の公卿が少ないではないか。もう一度、条件を詰めねばならん」
大納言の四条隆俊は、相変わらず、和睦案に難癖をつけた。
さすがに洞院実守も渋い表情を浮かべる。
「四条様、そこはすでに先日の朝議で終わったところ。蒸し返されては困ります」
「新たに約定に疑義が出てくれば、前提となる条件も変わります。もう一度、他の約定も確認して調整せねばなりますまい。それとも、洞院様は中身などどうでもよくて、淡々と朝議を終わらせばよいとお考えか。両朝合一となれば、左大臣にもなられるかも知れぬお方のもの言いとは思えませぬ」
強行派の大納言、北畠顕能は高圧的なもの言いであった。
洞院家は二条家など摂関家に次ぐ家格の清華家という家柄である。左大臣の上にある太上大臣の地位さえも狙えた。
右大臣の実守は、京の帝(後光厳天皇)の裁定で、洞院家の跡目争いに敗れ、隆俊や顕能ら強行派の公卿を頼って住吉へやって来ていた。
南北合一を果たした暁には、南朝の力を借りて、洞院家の家督を継ぐことが願いである。そのため、南北合一を実現させたいとの思いは強い。が、一方で、実守を住吉へ招いた隆俊や顕能ら強行派を無視することもできなかった。
優柔不断な実守の態度も一因で、朝議がなかなか進まない中、議場の入り手にいた正儀の元に、他の蔵人が現われて耳打ちをした。
「あいわかった」
聞こえよがしに正儀が声を上げると、公卿の面々に対して、身体の向きを直す。
「御上の御下りでございます」
そう言って、正儀は平伏した。
「お、御上がこちらに渡られるのか」
朝議を仕切る実守が驚いて声を上げた。すると一同が慌てて平伏した。
そこに帝が入ってくる。
「その方たち、ご苦労である。もう、勅書の作文に入ったか」
「あ、はい。いや、その、まだ、何と申しましょうか……」
帝の問いに、朝議を取り仕切っていた右大臣の実守は、答えることができなかった。
「いったいどうなのじゃ。河内守、朝議の進捗を教えよ」
帝の指名により、正儀が口を開く。
「はい、将軍より奏上された両朝の合一の議に対し、条件面について吟味致しております。が、一つ一つの条件について、御指摘を受け、いまだ結論を見ておりませぬ」
「何、すでに約定は朕が目を通しておる。そのうえで朕が朝議に諮るように申し付けたはずじゃ。これ以上、朝議に時間をかけることは相ならん。速やかに決裁を図り、幕府への勅書の作成に取り掛かるのじゃ」
御裁断に、さすがに異議を唱えることのできる者はいなかった。
朝議で決裁を受け、正儀は腹心の臣、河野辺正友を京の京極道誉の元に送る。
正友は南朝が条件を呑むことを道誉に伝えた。幕府は南朝のみならず、武力を背景に、すでに北朝からも条件面での同意を取り付けていた。
そして、将軍、足利義詮は、鎌倉公方である舎弟、足利基氏の同意までも得て、ついに両朝から勅書を賜るばかりという段階にまで至る。
かつて、足利直義との和睦の協議に付いてから、実に十六年の歳月が過ぎていた。正儀にとって実に長い道のりであった。その苦労が、やっと報われる時が来ようとしていた。




