第27話 正儀と道誉
正平十六年(一三六一年)十二月、小雪混じりの横風が容赦なく頬を叩く。この日、正儀は楠木党を率いて行宮のある住吉に入った。
楠木軍には舎弟の楠木正澄、従弟の楠木正近をはじめ、家臣の津田武信・津熊義行・恩地満信らのほか、年が明ければ数え十七になる甥、楠木正綱もいた。他に、和田正武が率いる和田党、橋本正高が率いる橋本党、神宮寺正廣が率いる神宮寺党などが正儀に従っていた。
楠木が駐留する寺の食堂。権大納言、四条隆俊の元から戻ってきた正儀を、舎弟の正澄が待ち受ける。
「兄者、此度の軍立ちは如何様に」
「うむ、二条関白(教基)自らが総大将として出陣されることになった。されど、実際の総大将は四条卿じゃ。南軍は、四条様が率いる紀伊勢と我ら楠木軍が主力となる」
「して、北畠大納言はいかがされた」
この年、北畠顕能は、阿野実為とともに、中納言から大納言に昇進を果たしていた。
「伊勢長野城の仁木の救出に手間取っておるようじゃ。此度は参陣できぬとのこと」
「仁木など、放っておけばよいものを」
正澄は憮然とした顔つきで、腰を降ろす正儀を目で追った。
仁木義長は細川清氏によって京を追われた後、六角崇永(佐々木頼氏)、土岐頼康らからなる幕府の追討軍に攻められる。窮した義長が、帝(後村上天皇)に南朝帰参を申し出て許されたため、伊勢の顕能が救援に出陣していた。
北畠軍が上洛できないのは南朝にとって痛手ではあるが、他方では、京に近い六角勢や土岐勢を伊勢に釘付けにするという意味を持っていた。
一緒に四条邸から戻った正武が、正澄の向かいに座って口元を歪める。
「仁木を追い出した細川と、細川に追い出された仁木。ともに我らに降ってくるとはのう。幕府というところはほんに可笑しなところよ」
正武は、幕府の内輪揉めを面白そうにあげつらった。
「北畠大納言と仁木殿の件は致し方あるまい。此度は、我ら楠木軍と紀伊衆・大和勢、そして細川清氏が集めた者らで京に攻め入る」
「ふん、公家はいつも威勢のよいことを言うが、武士を頼らなければ何もできぬ」
吐き捨てるように正近が言った。
「まあ、そう言うな。此度は帝(後村上天皇)の御心なのじゃ。従わねばなるまい」
皆の手前、正儀は平静を保っているが、結果の見える戦に、心は倦んでいた。それでも士気を失わなかったのは、甥の正綱に、戦の術を教えるという使命からである。
「明日はいよいよ出陣じゃ。新九郎(正武)殿、太郎(正綱)に兵の備えを教えてやっておいてくれぬか。和田党のことも教えておきたい」
立ち上がろうとしていた正武が、正儀の言葉に動きを止める。
「ん、太郎殿にか。それは棟梁への布石か」
「そう受け取ってもらっても結構じゃ」
この返事に、正武がにやりと笑う。
「そうじゃな、三郎殿(正儀)には持国丸殿もおられる。まさか楠木に御家騒動が起きるとは思わぬが、早めに皆に立場を示しておいた方がよかろう。よし判った。わしが、太郎殿にいろいろ教えて進ぜよう」
「うむ、頼みましたぞ。新九郎殿」
正儀はそう言って、正綱を探しに外に出ていく正武の背中を見送った。
翌日、正儀をはじめとする楠木軍の諸将は、帝(後村上天皇)に出陣の報告をしに、住之江殿に出向いた。関白で総大将の二条教基、副将で事実上の総大将である大納言、四条隆俊に従って、正儀らも殿下に座った。
殿上の中央に垂れる御簾の向こうに帝が鎮座し、公卿らが、その手前に居並んでいた。
大鎧に立烏帽子姿の教基が、殿下にて前に進み出る。
「御上、これより賊軍の討伐に出陣致します。よい知らせをお待ちくだされ」
すると、帝が蔵人に御簾を上げさせる。
「二条関白、四条大納言、よき知らせを待っておるぞ」
「ははっ」
二人が頭を下げるのに合わせて、正儀らも頭を下げた。
住之江殿を発った正儀らは、摂津の四天王寺に向かう。すでに細川清氏、石塔頼房らが参集しており、これらを加えて、南軍は総勢二千余騎となった。
南軍の動きは、すぐさま京の幕府にもたらされる。京極道誉が将軍、足利義詮を迎えに将軍御所に参じた。
「将軍、敵は摂津国の四天王寺を、今にも出立する気配ですぞ」
「入道(道誉)、そちの進言を信じて清氏を追討したのは失敗であった。大変なことになったではないか」
わなわなと肩を震わせて、義詮は前に控えた道誉に怒りを見せた。しかし、道誉は何食わぬ顔で平然としている。
「これはしたり。細川清氏は自らが執権北条になる野望を抱いておったのですぞ。これを野放しにすれば、御所様は鎌倉二代将軍、源頼家のように、執事の手にかかり、命を失っていたことでしょう。清氏を取り逃がしたことは残念でしたが、目障りな南軍ともども、まとめて討伐するよい機会ではありませぬか」
道誉にとっては、幕府の中の地位固めに、よい機会であった。
しかし、義詮の不安はまったく解消されていない。
「入道、京の軍勢で勝てるのか」
「負けそうになれば、京を明け渡して逃げればよろしかろう。その後、諸国の守護に命じ、敵を京から追い払うまでのことでござる」
「京を明け渡せじゃと。四度も同じことが続けば、将軍の威厳は失墜じゃ」
義詮は、父、足利尊氏が築いた将軍の威厳を、二代目が貶めたと言われることを極端に恐れた。
一方、道誉は、将軍の威厳などどうでもよかった。さらにいえば、将軍に威厳がないほうが都合がよかった。もちろん道誉はおくびにも出さない。
「威厳よりも結果でございましょう。所詮、我が方の兵力が上なのです。無理をする必要はありませぬ。京を落ちても直に戻れることでありしょう。それより今は陣容を整えなければなりませぬ。諸将には東寺に入るように伝えております。大将がおらぬでは諸将の士気も下がります。さ、将軍も早う支度のほどをお願いします」
道誉の言葉に義詮は、不満顔で近習に身支度を命じた。そして、その日のうちに、道誉と千騎の兵を伴って東寺に入り、陣を張った。
一方、南軍は、いまだ摂津の四天王寺に兵を留めていた。諸将は事実上の総大将である四条隆俊の元に集まって、軍議を開いていた。
正儀が諸将の前で絵地図を広げる。
「それがしが放った透っ波の知らせでは、足利義詮は京極道誉や近習の者らと、千騎を率いて東寺に布陣したようでございます」
そう言って東寺の位置を指差した。
「楠木殿、道誉は東寺におるのじゃな」
「いかにも」
細川清氏は正儀の返事を聞くと、隆俊に向き直す。
「四条様、東寺への先駆けは、我ら細川にお任せあれ。幕府の者どもを蹴散らしてご覧に入れまする」
清氏の、道誉への恨みは深かった。
「よかろう。その方に先陣は任せよう」
「かたじけない」
隆俊は、二つ返事で清氏の申し出を了解した。
先陣を奪われた正儀だが、この度は清氏の戦とばかり、気にする素振りも見せず、話を続ける。
「さらに幕府は、摂津茨木に京極高秀の五百余騎が、山崎には今川貞世の七百が、大渡には吉良満貞と宇都宮貞宗が、それぞれ出張ってきております」
それぞれの兵の動きを、正儀は絵地図で丁寧に示した。
「我が方は、淡路から従弟の細川氏春が、軍勢五百余を連れて兵庫津に入る予定じゃ。それと、赤松範実が我が方に味方すると言うてきており、兵庫津で合流する手配じゃ」
清氏は自らが手当てした援軍の状況を説明した。
赤松範実は、先達っての龍泉寺城侵攻で、清氏との先駆け争いを制した武者である。叔父は、幕府の重鎮、播磨守護の赤松則祐であった。だが、清氏の誘いに乗り、南軍に加勢することを約束していた。兄、赤松光範が摂津守護を罷免されたことで、道誉に恨みを持っていたからである。
「それは結構なことじゃ。山名時氏には、時を同じくして丹波口から京へ攻め込むよう、麿より下知しておる」
南軍を指揮する隆俊は、満足げに頷いた。
この頃、山名時氏・師義親子は、相変わらず反幕府のまま、山陰(因幡・伯耆・出雲)を支配下に置いていた。
「恐れながら、山名殿は丹波にあらず……」
そう言って、正儀は閉じた扇の先で、絵地図の中を指し示す。
「……美作に侵入し、幕府方の美作守護、赤松貞範に戦を仕掛けたようにございます」
これに、隆俊が目を剥く。
「何、美作じゃと。なぜ丹波に向かわずに美作なのじゃ」
「おそらくは幕府が手薄な今、美作、さらには備前を手中に収めるのが目的でしょう」
「麿は山名にたぶらかされたというのか」
隆俊は、目を吊り上げて正儀を見据えた。
「山名殿が、これを好機ととらえて美作に侵攻したのは間違いありませぬ。されど、我らを裏切ったとまではいえませぬ。なぜなら、播磨の赤松則祐は、兄、貞範の救援に美作に出兵せざるを得ないでしょう。山名殿が美作や備前で暴れれば、西からの脅威はなくなります」
動揺する隆俊に対し、正儀は努めて冷静に説いた。
「されど、それで京を落すことができなければ、元も子もないではないか」
「大丈夫でございます。幕府の大半が我らを迎え撃とうと京を離れました。後は我が楠木軍がこれら幕府軍と、いかに時間稼ぎの戦を行うかにございます」
二人の会話に、清氏は感心した風に正儀の顔を窺う。
「楠木殿の申される通りじゃ。幕府の主軍は、ここ男山で雌雄を決するつもりの布陣。楠木殿が時を稼いでいただいている間に、我ら細川の軍勢が東寺に突入すればよいのでござるな」
「その通りでござる。細川殿は紀伊の軍勢とともに、東寺を目指してくだされ」
絵地図で東寺を示した正儀は、清氏に向けてゆっくりと頷いた。
「さりとて、貴殿の軍勢だけで幕府の大軍に持ちこたえることができますか」
「それがしは無理な戦は仕掛けませぬ。押しては引き、引いては押す。楠木の戦術の一つです」
「なるほど。楠木殿らしい」
清氏は正儀に、にやりと笑みを返した。
だが、自分を飛び越えて話が進んでいくことに、隆俊は一人、不愉快そうに顔を歪めていた。
四天王寺を出立した南軍は、摂津国の茨木で、細川清氏の従弟、氏春と、赤松範実の軍勢を糾合して山崎に進軍した。
一方、将軍、足利義詮の命で、五百余騎を率いて茨木の忍常寺に布陣していたのは、京極高秀であった。なぜか一矢も射ることなく、小高い忍常寺から、南軍の進軍をただ見送るだけであった。
楠木軍は、細川軍の後に続いて忍常寺の麓を進軍する。
「兄者、あそこの旗が京極じゃな。討って出る様子はないが、いったい、どういうつもりか」
正儀の隣で馬を並べる舎弟の楠木正澄が、怪訝な顔を向けた。
「この南軍の勢い、たかが五百の兵では抑えられん。京極高秀は無益な戦は好まないのであろう」
「はは、兄者と同じじゃな」
弟の言葉に、思わず正儀は苦笑いする。
「入道じゃ」
「入道……」
正澄が首をひねる。
「……討って出てこないのは京極道誉の思惑と言われるか」
「そうじゃ。道誉は子や孫を多く亡くした。討ったのは我ら南軍。高秀まで討たれれば、家名の存続さえ危うくなる。慎重になるのは無理もない」
「ふうむ、京極が動く時は、勝ち戦の時ということか」
そう言って正澄は、高秀の籠る忍常寺を見上げた。
高秀は道誉の三男である。嫡男の秀綱は、南軍による二度目の京奪還の折、討死した。次男の秀宗は、四條畷の戦の後、水越峠の戦で正儀率いる楠木の野伏まがいの攻撃によって討死した。そして、秀綱の子である秀詮と氏詮の兄弟は、前年の神崎橋で楠木党と戦い討死していた。
とにかく道誉は、楠木との相性がよくない。高秀に、楠木との戦を避けるように命じたとしても、不思議ではなかった。
摂津国の茨木を通過した南軍が山崎に達する。ここで南軍を待ち構えていたのは、幕府方、今川貞世の七百騎であった。
南軍の先陣を預かった細川軍に緊張が走る。弓矢の支度を命じようとする側近を、大将の細川清氏が手で制する。
「待つのじゃ。六郎(貞世)はわしとは戦いたくはないであろう。わしとて同じじゃ」
貞世と清氏は長年厚い親交の間柄であった。清氏が幕府を追われた折も、貞世は一人、清氏を庇っていたくらいである。
細川軍が今川軍と矢合わせできる程度に近づいた時、今川の七百騎が鳥羽秋山に向けて撤退を開始する。
「六郎(貞世)……かたじけない」
撤退する今川軍に向けて、清氏は手を合わせた。
「よし、せっかく六郎(貞世)が空けてくれた京への道。ありがたく進ませてもらおうぞ。全軍、我に続け」
清氏は全軍に下知して京へ進軍した。
正儀は山崎で楠木軍を留め、馬上から清氏の進軍を見送った。そして、轡を並べた舎弟の楠木四郎正澄に顔を向ける。
「さて、四郎、ここからは我らの出番じゃ。大渡の幕府軍をここで食い止めるぞ」
「うむ、兄者、承知した」
正澄はここに陣幕を張って諸将を集めた。
床几に腰を据えた諸将を前にして、上座から正儀が、甥の楠木太郎正綱を近くに呼び寄せる。
「太郎、よいか。我らは敵に比べて兵力に劣る。よって、敵を小分けにしてそれぞれを叩く」
「叔父上、どのように敵を分けるのですか」
「敵を釣るのじゃ。よく見ておくがよい……」
そう言うと、正儀は立ち上がる。
「……小七郎(楠木正近)、当麻(津田武信)、出陣じゃ」
「承知」
「畏まってござる」
二人は、兵を引き連れて大渡の北へと向かった。
一方、正儀は正綱を連れて、幕府の吉良満貞や宇都宮貞宗の軍勢が見渡せるところまで馬で移動する。
二人の目線の先で、武信が指揮する軍勢が動く。津熊義行ら五十騎ばかりを率いて、大渡の向かいの川辺から敵の前に進み出て、いっせいに矢を放った。
すると、幕府の宇都宮勢は楠木軍に雨あられのように矢を射かけ返す。武信の間合いは絶妙であった。双方の矢が届きそうで届かない、ぎりぎりの距離での矢合わせであった。
「お、叔父上、当麻(武信)が押されております」
声を上擦らせ、正綱が正儀に訴えた。
あと少しなのに矢が届かない宇都宮勢は、少しずつ前に進み出て、矢を射かける。対して武信はジリジリと押され、矢の届かない間合いまで下がらざる得なかった。
「まあ、見ているがよい」
心配そうに成りゆきを見守る正綱の肩を、正儀は軽く二度叩いた。
しかし、正綱の不安は的中する。
「叔父上、当麻の軍勢が崩れましたぞ。我が方を追って、幕府軍も川を渡ってこちらに来ています。これは只事では……」
そう言って、正綱が隣に目を向けるが、正儀は至って冷静に戦況を窺っている。
「太郎、ここからじゃ」
視線の先に、正近が率いるおよそ二百の兵が、手前の草むらから姿を現す。そして、武信を追って川の浅瀬を渡ってきた宇都宮勢の先駆けたちに矢を射かけた。
気づけば、宇都宮勢は大軍が川によって阻まれ、四分の一は川を渡り切り、四分の一は川中にあり、半分以上は川向こうに取り残されたままであった。
宇都宮勢の先陣は正近が率いる楠木の矢の餌食となった。川を渡っていた宇都宮の兵は、味方の先陣が矢で討たれる姿を目の当たりにして、立往生する。
正儀の策の通り、幕府軍はここで慎重に楠木軍と睨みあうことになった。
楠木の陽動戦によって、後ろから追撃の可能性がなくなった細川清氏は、先陣を務めて京へ突入した。
すると、幕府の諸将はろくに戦うことなく、いとも簡単に、かつての将軍家執事である清氏の侵入を許してしまう。
将軍、足利義詮は激怒しつつも、予てから京極道誉と図った通り、北朝の帝(後光厳天皇)を奉じて京を離れ、近江の武佐寺(長光寺)に逃れた。
十二月八日、ついに南軍は四度目の京奪回を果たす。将軍が京から落ちたという知らせは、瞬く間に幕府諸将にも伝わった。
「叔父上(正儀)、敵方が退いていきます」
楠木正綱が指差した方には、撤退する宇都宮の軍勢があった。
「細川殿(清氏)が京を落としたようじゃな。よし、我らも京へ入ろうぞ」
「おおっ」
正儀は、気勢を上げた諸将を率いて入洛した。
将軍、足利義詮が去った東寺で、細川清氏が正儀を待ち構えていた。
「これは楠木殿、お待ちしておった。やはり此度の軍事の要は楠木殿とそれがしじゃ。京の軍政は二人で手分けして当たろうではないか」
早くも京の支配を画策する清氏に対して、正儀は愛想笑いを返した。これまでの経験から、京の占領は永くは続かないと悟っていたからである。
「こうも易々と京を落とせるとは、わしが居らんようになって、幕府も気概がなくなった」
「細川殿、我らは将軍の動きに目を配らなければなりませぬ。幕府が早々に京を明け渡したということは、我らは無傷の幕府軍に周囲を取り囲まれているということじゃ」
しかし、清氏は勝ち誇る。
「なあに楠木殿、心配はござらん。我らがこうして勝ったことは、すぐに畿内の国人たちに伝わるであろう。直に我らは十万を越える軍勢になれましょうぞ」
「細川殿、我らは過去三度も京を奪回した。されど、そうはならんだ。ここで勝ったと浮かれてはなりませぬ」
楽観視する清氏を、正儀は窘めた。
この後、二人は、それぞれの郎党を率い、二条教基、四条隆俊ら南朝の公卿たちとともに、主の居ない京の内裏を占領した。
大納言、四条隆俊ら公卿たちを内裏に残してその帰り、細川清氏と郎党たちは、大きな屋敷の前で立ち止まる。
「道誉めの屋敷じゃ。目障りな。元はといえば、道誉の讒言から始まったこと。ええい、忌々《いまいま》しい。屋敷に火を掛けよ」
清氏の命で、郎党の一人が松明の用意に走ろうとした。そこに、屋敷から男が飛び出してくる。京極道誉に侍る隠遁者である。隠遁者とは、書や絵、連歌などを嗜む俗世を離れた文化人たちである。道誉は芸術肌のこのような者たちを、幾人か囲っていた。
「お待ちくだされ。私はこの屋敷に仕える者でございます。屋敷に罪はございませぬ。何より、この屋敷がなくなれば、私は行くところがありませぬ。どうかご勘弁を」
「ならぬ、こんな屋敷、見るのも腹立だしいわ。早く火を着けろ」
清氏は、隠遁者を無視して、馬上から郎党を急がせた。
そこに、後ろから正儀が郎党を率いて清氏に追いついた。雑然とした雰囲気の中で、正儀は清氏のとなりに馬を並べる。
「細川殿、どうされた」
「道誉めの屋敷じゃ。目ざわりゆえ、火を着けて燃やすのよ」
見ると、婆沙羅大名らしい趣向を凝らした門構え。その向こうには枝ぶりのよい椿が真赤な花を咲かせている。正儀は素直にきれいだと思った。
清氏にあしらわれた隠遁者は、今度は正儀に泣きつく。
「どうか、屋敷を燃やすのをお止めくだされ」
懇願の言葉を聞いて、正儀は清氏に視線を戻す。
「細川殿、それがしはこの屋敷が気に入った。ここをそれがしの屋敷としよう」
「なに、ここを楠木殿の屋敷にじゃと。ここは道誉の屋敷じゃぞ」
「それがしにとっては、関係のない事。ただいまより、ここはそれがしの屋敷じゃ。細川殿、楠木の屋敷を燃やしてもろうては困るのう」
清氏が、むっとして正儀を睨む。
「邪魔立てされるな」
「邪魔などしておらん。どうしてもというのなら、我が屋敷を守るため、一戦交えなければならんのう」
とぼける正儀に、清氏は、ここで面倒を起こしてもとばかりに顔を背ける。
「ふん、勝手になさるがよろしかろう」
清氏は郎党たちを引き連れて、陣を布く東寺に戻っていった。
細川清氏が立ち去ると、隠遁者は正儀に礼を言って、屋敷の中に招き入れた。正儀を一人にしてはいけないと、津田武信と津熊義行が慌てて付き従う。
中で正儀が大きく息を吸い込む。屋敷の中はよい香りで充ちている。落ち着いてあたりを見渡すと、香炉から煙が立ち上がっていた。
「さ、こちらでございます」
その男は、正儀らを弥勒菩薩の祭壇が設けられた客間と思しき一間に案内した。床は板間ではなく、珍しい畳が敷かれている。中央がくびれた花瓶には黄色い水仙が生けられ、あちらこちらに書のかけ軸、脇絵などが飾り付けられていた。また、部屋の隅には、茶道具と思われる鑵子や盆も置かれている。
武信と義行は、口をあんぐりと開け、あちらこちらに、きょろきょろと目を向けた。正儀も感心しきりに、ぐるっと周りを見渡す。
「ここは、まるで戦とはかけ離れた世界じゃな」
「後ほど書院なども案内致しましょう。王義之(東晋の書家)による草書の偈(仏典における詩)、韓愈(唐の文学者)の文集などもございます」
「入道殿(道誉)は、これらの宝物をそのままにして、都を落ちていかれたのか」
隠遁者の話に、正儀は不思議そうに問い返した。
「はい。我が主は、きっと名のある南軍の将が屋敷にくるであろうから、もてなすようにと仰せでございました。飾りつけなど、自ら細かく指図なされ、また、一献進めよと申され、酒肴も用意致しております。さ、こちらへどうぞ」
正儀らは男の後について行った。そこは母屋から離れた遠侍であった。遠侍とは警備の武士の詰所である。
その中には、酒を並々とたたえた大筒に、兔、雉、白鳥などの珍味が並べられていた。
津熊義行が目を丸くする。
「おお、これはすごい」
「せっかくじゃ。馳走に与かろうぞ」
正儀は義行に、楠木正澄ら諸将を呼びに行かせた。
楠木の諸将たちは酒と御馳走があると知って喜び勇んで乗り込み、それらを囲んで座った。
「さ、みなさま、一献」
隠遁者は、持ち手の付いた銚子を持って、皆の盃に酒を注いで回った。
その男が風呂の用意をすると言って席を立った後、正澄が不思議そうに顔を上げる。
「なぜ道誉はこのように我らをもてなすのじゃ」
「たぶん、この屋敷を守るためよ……」
酒を口に運びながら正儀が続ける。
「……道誉は、すぐに京へ戻れると思うておるのじゃ。そのとき、屋敷がなければ困る。酒や食い物、また宝物を盗られても、屋敷に火を着けられるよりはましということじゃ」
「なるほど、狸ですな」
武信が話に割り込んで感心した。
「まあ、おかげで我らにとっても、よい宿ができた」
「ふふ、まったくじゃな」
正儀・正澄の兄弟は、顔を見合わせて笑った。その隣では、久しぶりの御馳走に、甥の楠木正綱が美味そうに、両手を使ってむしゃぶりついていた。
この日、正儀は風呂に入り、横になって寝ることができた。寝所には沈の枕に緞子(絹織物)の宿直物(夜衣)が用意されていた。まさに、至れり尽せりの道誉のもてなしに、正儀はしきりに感心した。
しかし、残念ながら、正儀の平穏な時間は長くは続かなかった。
京極道誉が、将軍、足利義詮を補佐して反撃の体制を整えたのである。
「将軍、兵はこの武佐寺(長光寺)に続々と集まってきております」
山崎・大渡から南軍に押されて撤退した今川貞世、宇都宮貞宗のほか、尾張から斯波氏頼、伊勢から戻った六角崇永が義詮の元に参集した。
「そうか、で、そちの息子はどうした」
息子とは、摂津国の茨木に布陣していた京極高秀のことである。
「我が倅は京の西に兵を集めております。そのさらに西には赤松貞範と則祐が軍を進めております」
「そうか、いよいよ、南軍を追い払ってくれようぞ」
幕府軍は、総勢一万余騎馬となっていた。
対する近隣の南朝方武将は、身動きが取れない状況にあった。伊勢国守の北畠顕能は、伊勢長野城攻めの土岐頼康に、逆に足留めにい合い、京へ援軍を送ることはできなかった。そして、美作へ進軍していた山名時氏は、赤松貞範・則祐兄弟によって山陰に押し戻されていた。もっとも、時氏は端から入京するつもりはない。
他に、関東の新田、九州の菊池、周防の大内、越中の桃井など南朝武将は、いずれも京から遠く離れた地である。幕府の守護たちに街道を塞がれれば、とても京へ攻め上ることはできなかった。
十二月二十四日、ついに幕府軍が、体制を整えて近江の武佐寺(長光寺)を発った。
京極道誉の屋敷にいた正儀の元に、津熊義行が駆け込んでくる。
「殿、足利義詮が動きました」
正儀は奥の書院で、道誉が残していた様々な書に見入っていた。
「そうか、出立したか」
そう言うと、手に持っていた書を丁寧に元の位置に戻した。
「四郎(正澄)と小七郎(正近)、当麻(武信)に戦支度を整えるように伝えよ。それと太郎(正綱)には、屋敷にいる者を集めさせるよう伝えよ」
「承知しました」
頷くと、義行は書院を飛び出した。
遠侍には楠木正綱と郎党が集まっていた。正儀が皆の前に立つ。
「この屋敷を出る時が来た。幕府軍は京へ向かって進軍中じゃ。お前たちも、すぐに戦支度を整えよ」
「はっ」
「じゃが、その前に、皆に申し伝える。この屋敷にあるものは、いっさい持ち出してはならん。それと、この屋敷を塵一つないように掃き清めるのじゃ」
郎党はざわついた。敵はそこまで迫っているのである
「我らは帝(後村上天皇)の誇り高き皇軍ぞ。敵とはいえ、屋敷でもてなしを受けたのじゃ。入道殿(道誉)への礼儀を示そうではないか」
郎党らは驚きながらも、正儀のそういう義理堅いところを慕っていた。すぐさま、皆で手分けして屋敷を掃き清める。そのうえで、戦支度を整えて屋敷の前に集まった。
「太郎、あの者を連れて参れ」
「承知」
すぐに正綱が、この屋敷でもてなした隠遁者を連れてきた。
目の前でひざを付く男に、正儀は自らの具足(甲冑)と太刀一振りを手渡す。
「これはわしが帝から頂戴した具足と刀じゃ。屋敷を借りた礼として置いていく。戦の最中ゆえ、他に渡せるものはないが、入道殿によしなに伝えてくれ」
その太刀に目を落とした隠遁者が、驚いて顔を上げる。
「しょ、承知しました」
唖然とする男を残して正儀は馬に跨る。そして、郎党たちを率い、他の諸将が待つ東寺へと馬の手綱を引いた。
楠木正綱が正儀の隣へ轡を並べる。
「叔父上、何も帝から頂戴した具足を渡さなくてもよかったのではありませぬか」
もったいないといった顔つきで、正綱は口をへの字に結んだ。
「単なる礼ではない。わしがこの屋敷に入ったのも、きっと何かの縁じゃ。この縁、天が与えたものかも知れん。わしがこの先、やろうとすることには、必要なことなのじゃ」
そう言って正儀は馬を東寺に進めた。しかし、正綱には判らない。首を傾げて後に続いた。
翌日、将軍、足利義詮が率いる幕府軍は、瀬田の唐橋を渡り、京へ進軍した。時を同じくして、幕府の丹波守護、仁木義尹が丹波口へ進む。そして、播磨から上洛した赤松則祐も京の手前まで進んでいた。
着々と京を取り囲む将軍、義詮であったが、幕府軍の侵攻は京ばかりではなかった。
その少し前、赤松の三つ巴の旗指物を掲げた船団が摂津の堺浦に入港していた。船から意気揚々と降りてきたのは、赤松氏範である。
先の畠山国清らによる南河内の侵攻の折、氏範は南朝に帰属していた。この時、氏範は大塔若宮こと興良親王を奉じて南朝を裏切り、賀名生で反乱を起こした。しかし、すぐに正儀の舎弟、楠木正澄らの手によって鎮圧される。氏範は、興良親王の生死さえわからない状況に、兄で播磨守護の赤松則祐を頼って播磨に逃れていた。
則祐は、美作に攻め込んだ山名時氏を駆逐すると、自らは京へ出兵する。そして弟の氏範へ、南朝の行宮である摂津住吉を攻めるように命じて、播磨の室津から船団を出発させていたのであった。
「此度こそは南軍の奴らに、目にものを見せてくれようぞ」
氏範は、生死すらわからなくなった興良親王の復讐に燃えていた。
入港するとすぐさま、和泉国の幕府方の豪族を集める。氏範の呼びかけに応じて参集した諸将の中には、かつて正儀を支えた美木多助氏の姿もあった。助氏は、先の南河内侵攻で、正儀を裏切り、畠山に従って、天野山金剛寺の行宮を攻める手柄を立てていた。
しかしその後、正儀ら楠木党の巻き返しに合い、南河内の地は南朝に取り返される。結局、助氏は所領を増やすこともできず、幕府からの待遇も冷たいものであった。
「これを住吉の阿野大納言様へ渡してくれ」
なぜか、助氏は郎党に阿野実為への書状を託した。氏範が住之江殿に攻め入る前に帝(後村上天皇)が逃げてくれることを願い、早馬を送ったのであった。
美木多助氏からの知らせを受けた大納言の阿野実為は、驚天動地の大事件に驚いた。そして、すぐさま帝(後村上天皇)に拝謁する。
「赤松勢が堺浦に上陸しました」
「何と……」
帝は表情を失い絶句した。
「今は、堺浦にて幕府方の豪族を集めております。おそらくこの住吉を襲うつもりです。楠木も和田も兵の大半は京におりますゆえ防ぎようがありませぬ。恐れ多きことなれど、すぐさま御動座いただくしかありませぬ」
「朕は……朕は、此度も京へは帰ることができぬのか」
帝は肩を落とし、片手で顔を押えた。その姿に、実為は返す言葉が見つからなかった。
「いや、阿野大納言、もうよいぞ。朕の我がままじゃ。では参ろうではないか」
帝は天命を悟ったかのように顔を上げて立ち上がった。
乗馬が得意な帝は、ただちに実為らと馬に跨る。三種の神器以外は、持つものも持たず、ただただ慌ただしく、近衛の兵に守られて馬で河内を目指した。
一方、帝の女御、阿野勝子と女房衆、また残された公家たちは行宮から近くの寺へ分かれて避難した。
楠木館に数騎の早馬が到着する。参議の六条時熙自らが馬を駆っていた。
留守居役の河野辺正友は、時熙の突然の来訪に目を白黒させる。只事ではないと察した正友は、すぐに徳子と、城に残っていた聞世こと服部成次を呼び寄せた。
慌てて徳子が館の広間に顔をだすと、時熙は、座ることも惜しむように、立ったまま徳子待っていた。
「六条様、どうなされました。いったい何があったのでございますか」
「伊賀局殿(徳子)、大変でございます。赤松が船で堺浦に入り、住之江殿を襲おうとしております。御上(後村上天皇)は、阿野大納言様(実為)らとともに、馬でこちらに向かっております」
これには徳子も驚いて言葉を失う。兵の大半は、正儀が引き連れて京へ入っていた。
正友が険しい表情を時熙に向ける。
「赤坂城や龍泉寺城に残っている兵は数えるほどでございます。後は女とこどものみ。ここではとうてい敵を防げませぬ」
徳子も頷く。
「主上の御到着を待って、守りの固い赤坂の本城へ登りましょう。本城であれば、万が一の時には、後詰めの千早城も控えております」
常々、正儀より、何かの折は赤坂城へと言い聞かされていた。
思い出したように、徳子は傍らに控える妙に振り返る。
「こどもたちは先に行かせましょう。妙、そなたはこどもを連れて先に逃げるのじゃ」
「しょ、承知しました。ただちに」
妙は、すぐに立ち上がり、小走りに館の奥に向かった。
持国丸と藤若丸・菊子の姉弟、それに新たに正儀の猶子となった熊王丸は、妙とともに、取るものも取り敢えず、一足先に館を出た。
皆が赤坂城へと急ぐ中、菊子が足を止めた。すると、藤若丸が慌てて菊子の手を引く。
「姉上、何をしておるのじゃ。早く」
「敗鏡尼様(南江久子)が心配です。わたしは楠妣庵に参ります」
行く先を変えようとする菊子の前を、熊王丸が立ち塞ぐ。
「菊子様、敗鏡尼様は大丈夫です。敵は帝(後村上天皇)の跡を追っています。主上が赤坂城に向かわれるなら、敵兵が楠妣庵に迫ることはあり得ませぬ」
「え、ええ……」
熊王丸の落ちついた対応に、菊子は思い留まる。すると、持国丸が不思議そうな顔を妙に向ける。
「楠妣庵が大丈夫なら、なぜ庵に逃げないの」
「え……そ、そうですね……」
妙も、言われてはたと気づく。それだけ、冷静さを失っていた。
「そうじゃ。赤坂城に行っても、われらは足手まとい。庵に向かおう」
藤若丸の言葉で、一行は楠妣庵に走った。
一方、住之江殿に兵を進めた赤松氏範は、そこで初めて帝(後村上天皇)の動座を知る。一足違いに地団太を踏んだ氏範は、ただちに兵を率いて、住吉から平野に出て、藤井寺を南進した。
京に駐留していた南軍は、四方を幕府軍に囲まれて窮していた。
大覚寺に本陣を布いた南軍は、関白、二条教基と、大納言の四条隆俊を中心に軍議を開き、幕府勢を迎え撃つか、退却するかで意見が割れていた。
関白の教基は、焦りの色を濃くする。
「桃井も山名もいったい何をしておるのか。味方は集まらず、敵の軍勢が増えるだけじゃ」
「ここは、兵を一点に集めて足利義詮の首を取ってはいかがか」
南軍を指揮する隆俊は、勇ましいことを言うが、何一つ具体的ではない。細川清氏はうつむき、南軍とは所詮このようなものかと失笑した。
「河内守、そなたの考えを聞こう」
議論が進まぬ中、教基が正儀に意見を求めた。
すると、黙って公卿たちの話を聞いていた正儀が、ゆっくりと顔を上げる。
「御味方が得られなければ、我らは勝てませぬ。勝てぬ戦で兵を失うは避けねばなりませぬ。ここは、いったん兵を引くべきかと存じます」
「それがしも楠木殿のお考えに同意でござる」
清氏が正儀に目配せしながら加勢した。
それでも、隆俊をはじめとする強硬派の公卿らは、未練がましい。何とか京を離れずに、幕府勢を追い返せないか、議論を続けた。
「御免」
軍議を遮って津田武信が、一人の兵を連れて入ってきた。
隆俊は怪訝な顔を向ける。
「今は評定の最中じゃ」
「一大事でござる。住吉より早馬がございました」
連れてきたのは、大納言、阿野実為が、住吉から送った近衛の兵であった。
「先ほどの話、申してみよ」
武信に促されて、近衛の兵が進み出る。
「昨日、赤松と思われる軍勢が住之江殿を襲いましてございます。主上(後村上天皇)は即座に御動座され、河内守様の赤坂城に向かわれました。赤松勢は主上の跡を追い、東条に進軍した由」
一同は一瞬、虚をつかれる。そして、いっせいに立ち上がった。
「何」
「御上は赤坂城に入られたのか」
「ご無事であろうな」
「御上をお守りする兵はおるのか」
関白、教基や、大納言の隆俊らは、矢継ぎ早に兵を問いただした。
「それがしもその後のことはわかりかねます」
公家たちは兵の言葉に、おろおろとするばかりであった。
正儀は和泉守、和田正武に目配せして、互いに小さく頷く。
「それがしと和泉守はすぐにここを引き払い、兵を東条に戻します」
「うむ、さっそく兵を返すがよかろう。麿たちもすぐに跡を追おうぞ」
そう言って、関白の教基が軍議を打ち切った。
十二月二十六日、正儀と和田正武が率いる楠木軍は、宇治橋を渡って木津川沿いに南進し、大和盆地へと撤退した。
翌日には関白、二条教基と大納言の四条隆俊が率いる南軍、細川清氏が率いる細川軍が、正儀らが通った跡に続いて撤退した。
楠木軍は大和盆地から河内国分を通って東条赤坂に入ると、そのまま、赤坂城へ駆ける。
しかし、麓から見上げる限り、赤坂の城に菊水の旗はなく、静まり返っていた。
正儀は兵を率いて赤坂城に突入する。そこは、敵方も味方も居ない無人の塁塞であった。ただし、赤松の三つ巴の旗が幾つか残されていた。
従弟の楠木正近が、その一つを拾い上げる。
「くそ、ここは赤松に落とされたということか」
旗をぎゅっと握って苦渋の表情を浮かべた。
津田武信は不思議しそうに三つ巴の旗を見つめる。
「誰も居ないということは、帝も楠木の者も赤松に連れて行かれたということであろうか。それにしても……」
「いや、落されたというより、城を放棄して逃げたのであろう。そこに赤松が入ったということか……それにしても、赤松が誰も兵を残しておらぬとは奇怪な」
正儀の言葉で、甥の楠木正綱があたりを見回す。
「あそこじゃ」
何かを見つけた正綱が駆け出し、刀を抜いて切り掛かった。
「まっ、待ってくれ。切らないでくれ」
頭を手で覆ったのは、野伏と思しき身なりの兵であった。
「何者じゃ」
正綱が刀を振り上げて問い詰める。すると、すぐに男は口を割る。堺浦で赤松氏範に銭で雇われた者であった。
「他の者も出てこい。出て来なければ、見つけ次第、皆殺しじゃ」
武信がどすを効かすと、同様の身なりの野伏が二十人ばかり、あちらこちらからぞろぞろと出てきた。
「城の者はどこへ行った」
武信は、正綱が捕えた男の喉に、切っ先を突きつけた。男は震え上がる。
「お、お待ちください。それがわしらも聞かされておらんのです。赤松の兵たちに従って、わしらがこの城に入ったときには、すでに誰もおらなんだ」
「では、赤松氏範はどこへ向かったか」
武信は、刀の切っ先をさらに首に押し当てる。すると、軽く血がにじんだ。
「た、大将なら、帝を追って千早城へ向かうと言っておった。それ以上は知らん……ほ、本当に知らんのじゃ」
その野伏の言葉に嘘はないようであった。
「帝(後村上天皇)は千早城か……」
正近は千早城の方角に顔を向けた。
和田正武が正儀に歩み寄る。
「よし、われらも千早へ向かおう」
「兄者。急ごう」
正澄にも急かされるが、正儀は釈然としない表情を浮かべる。
「千早はここから遠い。女も連れておっては、赤松に追い付かれよう。伊賀(徳子)と又次郎(河野辺正友)が千早を選ぶとは思えん」
「それではどこへ」
正澄が周囲の山々を見渡した。
思案する正儀に、正武が苛立つ。
「されど、三郎殿(正儀)。もし、千早へ向かったとすればどうされる。我が党だけでも千早へ向かおうぞ」
「新九郎(正武)殿……わかり申した。ならば、お願い致そう」
「では、そうさせてもらおう」
正武は正儀に向けて頷くと、赤坂城の麓に降りて、和田党を率いて千早城へ向かった。
赤坂城に残った正儀は、郎党たちに命じて、あたりを探させる。
しばらく待っても郎党たちから知らせは入らない。焦りの色を濃くする正儀らの背後に、音もなく人が立った。
その気配に振り向いた正儀が、その男の肩を揺さぶる。
「おお、聞世(服部成次)。帝(後村上天皇)は御無事か」
「殿、御安心召されませ。帝も奥方様らもご無事です。茶臼山城に潜んでおられます」
「そうか……茶臼山か」
正儀の表情は和らぎ、隣の正澄からは安堵の溜息が漏れた。
茶臼山城は、赤坂城からほど近い所にある楠木七城にも入らない小さな山城である。
赤坂城から千早城へは、尾根伝いの道と、谷川伝いの道があった。茶臼山城は、その尾根伝いの道から、少し外れたところにある。正儀の父、楠木正成の頃の城で、かろうじて祠のような陣屋が造られていたが、実態は砦であり、今では忘れ去られていた。徳子はここに帝を迎え入れ、公家たちや、河野辺正友ら留守居役の武士たちと、ただただ、息を潜めていた。
正儀らは急いで茶臼山の城の入った。虎口門を潜ると、すぐに徳子が声を上げて駆け寄る。
「殿」
「帝はご無事か」
「はい、陣屋の中におわします」
「よくぞ、茶臼山に入った。千早へ向かっていたら、赤松に追い付かれていたであろう」
「以前、殿に連れてきてもろうたこの城を思い出し、又次郎殿(正友)と相談して決めました」
正儀は、我が妻ながら、徳子の機転と勇気に感心した。その昔、四條畷の戦の後、准三后の阿野廉子を導いて、賀名生へ抜けた伊賀局だけのことはあった。
「そなたの手柄じゃ」
徳子を労ってから正儀は陣屋の中に入った。
すると、それまで気丈に振る舞っていた徳子も、安堵したかのように、その場に座り込んだ。
久しく使われていなかった陣屋の中は蜘の巣が張り、至るところが埃だらけであった。そんな中、帝は、大納言の阿野実為、参議の六条時熙ら公卿とともに、息を潜めていた。
「御上、遅くなり申し訳ございません。それがしが参ったからには御安堵召されますように」
正儀は、埃だらけの床に手を突いて、頭を下げた。
「河内守、よう駆け付けた。大儀じゃ」
「ははっ」
帝の姿を確認し、正儀は心底安堵した。
実為が正儀に問う。
「赤松はいかがした」
「ここに帝が居られるとは知らず、千早城へ向かったようにございます。和泉守(正武)が軍勢を率いて向かいました。直に追い払うことでしょう」
「そうか、赤松は和泉守に任せるとしよう。京の状況はいかがじゃ」
「残念なことなれど、幕府軍の巻き返しに合い……」
正儀は京の戦況について仔細に説明した。
「河内守、やはりそちが申した通りであったな」
わずか六歳で京を離れた帝は、それから三年後、足利尊氏追討のため、北畠顕家に奉じられて上洛した時が、京の地を踏んだ最後であった。
正儀には帝の心の嘆きが聞こえる。
「此度の仕儀、申し訳けなく存じます。この先、戦で京を取り戻す策は、この浅慮な河内には思いつきませぬ。さりながら、帝には和睦の道も残されております」
「和睦であるか。されど、四条大納言をはじめ、幕府に強硬な態度をとっておるものも多い。朝廷の中を和睦でまとめるのは難しい」
残念そうに、帝は目を閉じた。
「帝の御心は如何様でございましょうや」
「河内守、そのあたりで」
実為は核心に触れようとした正儀を制した。
「これは、言葉が過ぎました。申し訳ございませぬ」
暫し目を閉じて沈黙していた帝が、ゆっくりと目を開ける。
「阿野大納言、よいのじゃ。朕の心根を河内守に申そう。朕は和睦を排除せぬ。さりながら、それはあくまで朝廷のもとで幕府が役割を行えばじゃ。それともう一つ、朝廷の中が割れてはならぬ。四条大納言も北畠大納言も朕にとっては大事な臣じゃ。誰がやっても難しい事じゃ。されど、この難題、河内守は引き受けられるか」
「御意」
迷うことなく、正儀は力強く答えた。
千早城に向かった赤松氏範は、和田正武によって南河内から追い払われた。
一方、帝(後村上天皇)は、遅れて京から退却して東条に入った四条隆俊の軍勢に守られて、住之江殿に戻って行った。
そして、細川清氏の軍勢は、ひとまず四天王寺に戻り陣を布いた。
南軍による四度目の京奪回も、帝(後村上天皇)を京へ迎えることなく、わずか半月で終わった。
十二月二十九日、将軍、足利義詮は、南軍が居なくなった京へ、悠々と戻った。近江の武佐寺(長光寺)に動座していた北朝の帝(後光厳天皇)も、義詮の手によって京への還幸を果たす。そして、京極道誉は半月ぶりに自らの京屋敷に戻った。
輿から降りた道誉が、眩しそうに屋敷を見上げる。
「火はつけられなんだようなじゃ。安堵したわ」
屋敷の無事な様子に、道誉は満足げに笑みを浮かべた。
一行の到着に、あの隠遁者が、慌てて屋敷から出てくる。
「これは大殿、お戻りなさいませ」
「うむ、そなたのもてなしが功を奏したようじゃな。おかげで屋敷が燃やされずに済んだ。ご苦労であった」
そう言いながら、道誉は大鎧に頭巾を被った姿のまま、屋敷の門を潜った。
「それで、いったい誰が我が屋敷へ入ったのじゃ」
「楠木殿でございます」
「何……」
道誉は後ろを歩いてきた男に振り返る。
「楠木の棟梁、楠木正儀か」
「左様でございます。楠木殿は、細川殿が火を付けようとするのを止めさせるために自らの宿とされ、一族一党でお泊りになられました」
「そうか……」
複雑な心境であった。楠木は、子や孫を討った仇だからである。
道誉は屋敷の中を一通り見て回る。会所、書院、寝所、遠侍、いずれも塵一つなく浄められ、盗られたものもなかった。
「屋敷を掃除したのはお前か」
「いえ、楠木の侍たちでございます」
「そうか。河内の田舎者、野伏崩れかと思うておったが、存外、礼儀を知っておるとみえる」
感心した風に、道誉は顎を手で撫でた。
「それと、大殿、こちらへ」
隠遁者が道誉を客間へ誘った。
部屋には具足と、太刀が一振り置いてある。
「これは……」
「楠木殿が南の帝から賜ったという具足だそうです。太刀とともに、宿泊の礼じゃと申されて、置いて行かれました」
「何と……礼じゃと……」
思いがけない言葉に、道誉は肩を震わせる。
「……ふふふ……わっはっは……楠木正儀、何と面白き男であろうか」
道誉は、いつぞや東大寺で会った正儀の顔を思い出す。憎しみ横に置き、正儀という男にそこはかとない興味を抱いた。
京から撤退し、四天王寺に留まっていた細川清氏は、いったん本領の阿波へ帰ろうとしていた。
正儀は四天王寺へ清氏を訪ねた。少し薄暗い御堂の中で、正儀は清氏と向かい合う。
「四国へ帰られると聞いたが」
「うむ、いったん阿波に戻ることとした。今しがた、住吉の帝(後村上天皇)に、お別れを申してきたところじゃ。兵を抱えて、いつまでもここには居られんからな。そなたには世話になった」
軽く清氏は頭を下げた。
「そうか、それは残念じゃが、九州の菊池武光殿のように、細川殿は四国を制覇されるがよろしかろう」
「わはは、では、楠木殿には畿内を制覇していただこう」
清氏の言葉に、正儀は苦笑いを返した。
正平十七年(一三六二年)一月十四日、細川清氏は正儀の援護を受けて、堺浦から軍船一七隻で四国阿波に逃れていった。
その年の七月も終わりの頃である。赤坂の楠木館を、参議の六条時熙がたずねてきた。正儀が上座に時熙を迎えると、挨拶もそこそこに本題に入る。
「河内守(正儀)、細川清氏が討たれましたぞ。この二十四日のことじゃ」
「何と、あの豪気な男が……」
正儀は息を飲んだ。四天王寺で清氏に別れの挨拶をしてから半年が経っていた。
本国、阿波に戻った清氏は、淡路の従弟、細川氏春・信氏兄弟を味方に付けた。さらに南朝が送った四国討伐の主将、中院雅平の名の元に、南朝方の豪族、小笠原頼清、水軍の飽浦信胤らを糾合する。そして、三月後には、正儀の勧奨を実現しようとするかのように、細川宗家の本領である讃岐に進軍した。
将軍、足利義詮は、この清氏の動きに対し、讃岐守護の細川頼之と、伊予守護の河野通盛に討伐を命じた。
頼之は清氏の従弟である。将軍の命を受けたときは、中国探題として備中にいた。頼之は、さっそく船団を率いて本領の讃岐に戻る。その後、清氏は讃岐白峰山の麓に陣を敷き、対する頼之の幕府軍は宇多津に陣を敷いて睨み合うという状況が続いていた。
正儀は、これまで頼之に対して清氏が優勢と聞かされていた。
「いったい、どのような最後を……」
唖然とする正儀に、時熙は仔細を話して聞かせる。
敵に囲まれた清氏は、馬を切られて落馬するも、敵兵から馬を奪い取り、挑んでくる敵将と一騎打ちに至った。馬上で敵将と組み討つが、疲労困憊の清氏は、敵将の繰り出す薙刀を受け止められなかった。胴丸のすき間から白刀を受け、落馬したところで止めを刺されたということであった。
「惜しい男を亡くしました」
冥福を祈って、正儀は手を合わせた。
その清氏を討ち取った従弟の頼之は、この勢いで四国を平定し、幕府の中で一気に頭角を現すこととなる。
翌日、正儀は楠木館に、和田正武、橋本正高、神宮寺正廣ら楠木一門を集めた。
上座には、いまだ参議の六条時熙が留まっていた。正儀はそこから少し下がって、皆の前に座る。
「御一同、急に集まってもらってかたじけない」
「三郎殿(正儀)、何かあったか」
正武が怪訝な表情を浮かべて、正儀の顔をじっと見つめた。
「細川清氏が讃岐にて討ち取られたとのこと。中院少将(雅平)ら讃岐の南軍は撤退したそうじゃ」
一同がざわついた。正武がちっと舌を鳴らす。
「それは不味いな。京を撤退してからこちら、幕府に鞍替えする国人衆が後を絶たん。清氏の討死は、日和見な武士を一気に幕府へ走らせてしまう」
幕府に強硬な態度をとる正武はもちろんのこと、集まった者は皆、南軍の行く末に、不安を感じざるを得なかった。
平安を望む正儀にとっても好ましい状況ではない。和睦を進めるにしても、交渉するためには南朝の武力を背景にする必要があった。
「新九郎(正武)殿の言われる通りじゃ。このままでは畿内のみならず、諸国の御味方の中からも、幕府に鞍替えする者が出てくるであろう。そこでじゃ、我らはここで勝ち戦を行って、実績を得ようと思う。摂津に討って出て、南軍これにありと、天下に知らしめたい。皆、いかがじゃ」
「おお、それはよい」
橋本正高はひざを打って喜んだ。
「それがしに異存があろうはずはない。よし、やろうではないか」
正武は、積極的に戦をしようとしない正儀に、いつも歯痒さを感じていた。それだけに、正儀から出た戦の話に、顔をにやつかせた。
出陣を決意した正儀だが、戦で幕府との決着を目指す正武とは、根本的に考えを異にしていた。強硬に決着を目指せば、滅びるのは自分たちであると思っていたからである。正儀にとって、あくまで戦は、幕府との交渉を有利に進めるための材料でしかない。この度の出陣は、摂津の支配を確実なものとする以上に、幕府や諸国の諸将に、南軍の健在を知らしめることであった。




