第26話 立選り居選り
正平十五年(一三六〇年)五月三日、南河内は梅雨時の重苦しい雲に覆われる。
龍泉寺城を奪われた楠木軍は、赤坂城に拠って籠城戦に備えていた。
一方、東条を占領した幕府方は、赤坂の楠木館を占拠して、ただちに楠木本城である赤坂城を包囲する。しかし、堅固な城を前にして、迂闊に攻めることはない。かつての鎌倉幕府軍の二の舞となることを、躊躇しているかのようであった。
正儀も、自ら戦を仕掛けようとはしない。無益な戦で兵を失うような真似はできなかった。
「討って出ても勝ち目はない。ここは、千早城に退き、機会がくるまで籠城じゃ」
赤坂城の本丸(主郭)の陣屋で正儀は諸将に命じた。しかし、武勇を誇る和田正武はこれに我慢がならない。
「三郎殿(正儀)、何と意気地のないことを言うのじゃ。ここで戦わずして逃げるは恥じゃ。南軍は野伏や悪党の戦をしておると諸国に伝わってもよいのか。幕府と一戦交え、それでもだめなら、そのとき、金剛山に籠ればよいではないか」
しかし、正儀も珍しく熱くなる。
「新九郎(正武)殿、周りから何と言われようが、負けては元も子もない。我らが負ければ、帝(後村上天皇)は誰がお守りするのじゃ。無駄に兵を討たれてはならん」
「討って出たとて、負けるとは限らん。敵はこの地に不慣れな坂東武者。騎馬も使えぬこの山の中では負けはせぬ」
正武も顔を真っ赤にして、食い下がった。
「ならん、新九郎殿。無駄な戦は止めるのじゃ」
「無駄な戦じゃと。わしに無駄な戦はない」
諸将は二人の衝突をはらはらしながら見守った。
正武は立ち上がり、正儀に背を向ける。
「止めても無駄じゃ。我ら和田党だけで出陣する」
そのまま、正武は肩を怒らせて広間を後にする。末席に控えていた津熊義行は、おろおろと正武を目で追った。
兵を揃えた和田正武は夜を待った。
「我ら、和田の力を見せるときぞ。者ども、敵の本陣目掛けて突入じゃ」
星空の元、和田党の兵、三百を引きいて赤坂城から出撃した。
関東執事の畠山国清に従って、駿河守、結城直光が関東から出兵していた。直光は、夜中、突如として赤坂城から出撃してきた兵に青ざめる。時をかけて赤坂城を落そうと、評定で決した矢先であった。直光は慌てて、寝ていた結城党七百の兵を叩き起こして下知をする。
「敵襲じゃ。者ども、押し戻せ」
真夜中に、双方入り乱れて派手な合戦となる。
将軍家執事の細川清氏は、結城の陣からそう遠くない所に宿営していた。暗闇に響く鬨の声に、清氏は取るものも取り敢えず、結城の加勢に駆けつける。
「窮鼠猫を噛むとはこのことよ。まさか、討って出てくるとはな。結城を助けよ。幕府の力を知らしめるのじゃ」
清氏が郎党に激を飛ばした。
細川勢がなだれ込むと、押し気味に戦を進めていた和田軍は劣勢に転じる。兵の数は圧倒的に差があった。さすがの正武も撤退を決意するしかない。
「くそ、今日はここまでじゃ。全軍、撤退せよ」
あちらこちらで和田党の諸将が大声で兵に命じた。
「撤退じゃ、撤退じゃ」
その声を聴いた和田党は、雑兵も含めて赤坂城へ撤退を開始する。
しかし、撤退の命令を聞いたのは、和田勢だけではなかった。結城の若党、物部次郎が隣の若者に声をかける。
「やつらは撤退するようじゃ。敵に紛れてついて行けば、奴らの城に入れるぞ」
「なるほど、それは面白い。城の中の様子を殿に伝えれば、褒美に与かれようぞ」
二人の若者の会話に、他の者も割り込む。
「いや、それどころか、城の中に入って大将の首をとればよいのじゃ。大出世じゃぞ」
「おお、面白きことを話しておるな。わしも雑ぜてくれ」
もう一人も加わって、若い侍四人が撤退する和田の雑兵に紛れた。
和田正武が和田党を引き連れて赤坂城に戻る。篝火が明々と照らす虎口門の中で、正武を迎えたのは棟梁の正儀であった。
「皆の者、ご苦労であった」
結果はわかっていた。しかし、あえてそのことには触れない。まずは無事に正武が戻ってきたことに安堵していた。
そんな正儀に、正武が歩み寄る。
「いま、戻り申した」
篝火が二人を照らす。
「新九郎(正武)殿、無事で何よりじゃ」
いつもと変わらぬ表情で正儀が話しかけた。だが、正武は罰が悪そうに目を逸らす。
「残念じゃが、敵軍に援軍が加わった。今日はここまでじゃ」
正武の抗弁にも、正儀は静かに頷くだけであった。
雑兵に紛れた結城の若党四人が、声を潜める。
「迎えたあの者が大将であろうか」
「いや、まさか大将自らが出迎えには来ぬであろう」
「では、しばらく様子をみるか……」
物部次郎が、声を押さえながら上目遣いに顔を上げる。すると一瞬、正儀と目が合い、慌てて下を向いた。
和田の兵たちを見渡して、正儀が正武の耳元で囁く。
「新九郎殿、敵味方、入り乱れて戦ったのであろう。用心召されよ」
そう言って、正儀は背中を向けた。
本丸(主郭)に戻っていくその後姿を目で追った正武は、渋い顔で兵の方に振り返る。
「山っ」
突如、正武が大声を上げた。するといっせいに和田の兵が立ち上がった。
驚いたのは、結城の若党四人である。周囲の兵がいっせいに立ち上がると、皆を真似て遅れて立ち上がった。
「谷っ」
もう一度、正武が大声を上げた。すると、今度は兵がいっせいにその場に座り込む。
呆気にとられた結城の四人は、立ったまま取り残された。
「あの者どもを取り押さえろ」
大声で正武が命じた。
これは楠木党が『立選り居選り』と呼ぶ、正儀たちが編み出した敵味方の見分け術である。味方には、あらかじめ合い言葉が知らされていた。
「あっ、わわっ」
敵兵の中で、ぽつんと突っ立ったままの四人は真っ青になり、慌てて刀を抜いて和田の兵たちに立ち向かう。だが、大勢に囲まれてはどうしようもない。次々とその場で討たれていった。ただ一人、物部次郎だけが騒動の中、手傷を負うも城を脱出し、結城の陣に駆け戻っていった。
五月九日、物部次郎の報告で、意外に陣容が手薄と知った結城直光は、大将の畠山国清とともに赤坂城に攻め込んだ。
しかし、そこに楠木党は一兵も居なかった。
直光は忌々《いまいま》しそうに、足を踏み鳴らす。
「くそ、またしても逃げたか。武士の風上にもおけぬ奴じゃ」
「いや、楠木正儀。なかなかの奴よ」
大将の国清は、正儀の思い切りのよさに、感心していた。
正儀は赤坂城を撤退するに際して、楠木正澄と河野辺正友を観心寺に遣わせていた。帝(後村上天皇)を千早城へ御迎えするためである。赤坂城が幕府方の手に落ちると、観心寺の帝にも危機が迫る。帝の傍に付き添っていた中納言、阿野実為や、徳子ら帝を御世話する女たちも一緒に千早城に入った。
動座した帝の前で、正儀が平伏する。
「申しわけございませぬ。幕府に押され、御上をこのようなところにまで、お連れすることになりました。これも、この河内めの力不足ゆえ」
「河内守ばかりを責めることはできぬ。これほど我が方から裏切りが出ようとは。昔、北畠准后(親房)は、天子の徳を朕に説いた。此度のことは朕にも責任はあろう」
帝は正儀を責めることはなかった。
「御上、決してそのようなことはございませぬ。しばらくの辛抱でございます。幕府はいずれ兵を引くことになります」
実為が藁をもすがるつもりでたずねる。
「幕府が撤退するとは、どういうことじゃ」
「それがしは京へ透っ波を放っております。知らせでは、幕府の仁木義長に不穏な動きがあるようです。仁木が京で兵を挙げれば、幕府は我らを攻めている余裕はなくなるはず」
この度の合戦では、紀伊の龍門山の砦を落とした仁木義長であったが、その後、何を思ったか、兵を京へ引き上げていた。
義長の兄で伊勢守護の仁木頼章は、細川清氏の前任の将軍家執事であった。その兄の元で、権力を得ようとしていた義長は、将軍、足利義詮に取り入って執事になった細川清氏のことを、恨みに思っているのは間違いない。
「今は河内守の言うことを信じるしかございませぬ」
実為は帝に身体を向けて、頭を低くした。
正儀も畏まって帝に奏上する。
「しばらくは、この金剛山に籠って幕府の攻撃を何とか凌がなければなりませぬ。まことに恐れながら、帝におかれましては、山頂の転法輪寺に御動座いただきたく存じます」
「何、山頂にか」
実為は思わず、館の中から金剛山の方角に顔を向けた。
「我らは千早城に籠り、敵を引き付けます」
「朕は、そちの言うとおりにしよう。頼んだぞ、河内」
正儀の奏上に、帝は自ら答えた。
「はっ。必ず」
帝の不安を払拭するように、正儀は力強く返答した。
ついに関東執事の畠山国清が、二万の兵で千早城攻めに取り掛かる。守備に徹っしざるを得ない千早城だが、城内の士気は高かった。
「来たわ、来たわ。元弘の戦を再現してくれようぞ」
正儀の舎弟、楠木正澄が勇ましく兵らに激を飛ばした。
千早城はかつて父、楠木正成がたった千で、鎌倉幕府五万の兵を寄せ付けなかった城である。正成がこの城で鎌倉幕府軍と戦った時、正儀はまだ四歳、舎弟の正澄においては生まれてもいなかった。
幕府軍が攻め上がると、楠木党がすかさず応戦する。千早城からは、大岩や丸太が転がり落ちて、畠山勢に死傷者が続出した。千早城の二重塀や大岩・丸太を使った攻撃は、いまだ健在であった。
山深い千早城の守りは、赤坂城とは比べものにならないほど堅いものである。正儀は、千早城の鉄壁の守りを駆使して国清の攻撃を凌ぎ、戦を膠着状態に持ち込んだ。
五月二十八日、幕府軍に動きがあった。
腹心の臣、津田武信が正儀の元に駆けつける。
「殿(正儀)、敵が撤退しております」
「何……」
正儀は武信とともに、急ぎ、櫓に登った。
千早城を取り囲んでいた幕府軍は一部を残して兵を引きはじめていた。千早城を取り囲んでから、半月ばかりでの撤退は、正儀の読みよりもずいぶん早い。
「幕府はそれだけ深刻ということか……」
櫓の上で、正儀は撤退する幕府軍を見ながら呟いた。
幕府内はこれ以上、千早城に構っている余裕がなくなっていた。
河内攻めをはじめて、すでに半年が経とうとしていた。難攻不落の千早城が相手では、さらに戦が長引くことは必至である。二万の兵を山深い金剛山の麓に留めておくには兵糧の懸念もあった。元弘の折の楠木正成の戦振りは、時を経てもなお、幕府方の城攻めを躊躇させる理由としては十分であった。
さらに決定的であったのは、足利一門の仁木義長が原因である。将軍家執事の細川清氏をはじめとする諸将との間で、衝突寸前となっていた。赤坂城攻めの後、京に戻っていた清氏は、一触即発のこの状況に、千早城を囲んでいた畠山国清を呼び戻したという次第であった。
清氏は、京に戻った国清と土岐頼康を自らの館へ招く。清氏は二人と、上下の隔たり無く車座になって座った。
「仁木義長は、我が畠山軍の苦戦を嘲笑し、喜んでおった。敵か味方かわからん奴じゃ」
怒り心頭といった風に国清が吐き捨てた。
これに、清氏も大きく頷く。
「義長は、前の執事であった仁木頼章の弟ということをよいことに、傲慢な態度は目に余る。あやつを取り除かなければ、これから先、幕府の安寧は保たれぬ」
「そういえば、以前、執事殿が賜った三条西洞院の土地に、仁木義長が館を建てようとされましたな。あの時は、合戦におよぶのではないかと思いましたぞ」
「土岐殿、それがしは、そのような私念で言うておるのではない」
むっとして言い返す清氏を国清がなだめる。
「わかっておりまする。いずれにせよ、前の執事の仁木頼章殿が亡くなられた今が好機と存ずる」
兄の頼章は半年前に病で亡くなっていた。
国清が話を括り、三人で義長を討伐するための算段を話し合った。
一方、幕府軍が去った千早城では、正儀が広間に和田正武ら諸将を集め、今後について説明する。
「新九郎(正武)殿、待たせましたな。いよいよ我らが軍勢の力を見せるときじゃ」
「何、今更ながら、討って出るというのか……」
「いかにも。此度の幕府の侵攻で、我ら南軍が壊滅したと諸国に伝わっては困る。そのような噂が立てば、我らに味方する者はますます居らんようになる。ここは、我らが健在なところを世間に見せなければならぬ」
時流を読むのが上手い正儀は、まさに引くときは引く、出るときは出るである。
これに正武は、にやりと口角を上げる。
「相変わらず策士じゃのう。判った。討って出ようではないか」
「では、我が策を説明しよう」
正儀は諸将に作戦を伝えて、出陣を命じた。
九死に一生を得た南軍は、六月に入ると千早城から討って出て、赤坂城と龍泉寺城を奪還した。さらに河内平野に進出する。南軍監視のために幕府が兵を駐留させていた誉田の森、誉田城を電光石火で攻略し、幕府方を追い払った。
正儀は、和田正武の馬の隣に自分の馬を並べる。
「新九郎(正武)殿、まだ戦は終わったわけではありませぬぞ」
「もちろんじゃ。まだまだ暴れ足りぬわ」
正武らしい返事に、正儀は笑みを返した。
正儀はさらに諸将に命じて、南朝の摂津の拠点である住吉郡の奪還を目指した。貿易の拠点、堺浦に接する住吉郡の確保は、南朝の懸案でもあった。
楠木軍の侵攻に驚いたのは、幕府方の摂津守護、赤松光範。赤松円心の嫡孫にして、赤松則祐の甥である。さっそく光範が兵を率いて住吉に現れる。楠木軍は、赤松軍との間で激しい戦となった。
「住吉から赤松を追い払え」
腕の覚えのある和田正武は、水を得た魚のように、兵を鼓舞して戦った。
「あれに見えるは、敵の大将ではないか」
津田武信が声を上げると、津熊義行を伴って十騎ばかりが大将、赤松光範に向かった。
接近戦となると弓矢は使えない。光範は馬に跨ると側近から薙刀を受け取る。
「こしゃくな。返り討ちにしてくれよう」
大将の光範自らが楠木の兵たちと白刃を交える。光範の近習二人も、薙刀を奮って応戦した。
すると、楠木党の津熊義行が、馬上から槍を降り回し、光範の近習二人を討ち取った。武信も、すかさず郎党とともに馬で光範を囲む。そして、武信が進み出て、馬上で槍を構えた。
まさにその時、赤松方の赤い具足(甲冑)の騎馬武者が単騎で駆け付ける。
「殿、ここはそれがしにお任せを」
「おお、六郎」
「さ、早う」
赤松光範と短い言葉を交わしたかと思うと、光範の馬の尻を思い切り叩いた。馬は驚いて光範を載せて走り出した。
馬を追おうとする楠木の騎馬を、赤い具足の騎馬武者が馬で遮る。
「これより先は行かせぬぞ」
そう言って騎馬武者が、武信や義行らと切り合うが、数人掛かりの武信らには敵わない。槍で足を衝かれて馬から落ちたところを楠木の郎党がとどめを刺した。
光範は赤松の軍勢を伴って、命からがら住吉から北へと撤退した。住吉は再び、南軍が手中に収めた。
正儀は住吉大社に諸将を集める。
「皆、ご苦労であった。されど、もうひと踏ん張り。幕府勢を渡辺橋より北へ押し戻す」
これには武勇を誇る和田正武でさえ驚く。
「三郎殿、我らの兵も傷ついておる。ここで一息ついてはどうじゃ」
「いや、新九郎(正武)殿、時運に乗ることが重要じゃ。我らに流れがあるときは、少ない兵力でも敵を追い詰めることができる。逆に時運がない時に戦えば、数倍の兵が必要になるであろう。寝返った諸将を味方に付けるには、ここで幕府勢に対して徹底的に優位に立っておくことじゃ」
「う、うむ……」
いつもの戦嫌いの正儀はどこに行ってしまったのかと、正武は閉口した。
間髪置かず、楠木軍は住吉を出立して渡辺橋に出撃した。正儀の言う通り、赤松光範の兵たちの士気は下がり、赤松軍はずるずると退いていった。敵が渡辺橋を越えて退いたところで正儀は進軍を止める。
「橋を落せ」
正儀の下知に、津熊義行は兵らとともに、あらかじめ用意していた大きな木槌や鋸で橋を壊して落した。こうして、渡辺橋より南は、再び南朝の支配するところとなった。
勇猛果敢な楠木の戦振りが伝わると、いったん寝返って幕府方へ与した河内の豪族の中に、またも南軍へ寝返る者たちが現われる。まったくもって、正儀の読み通りであった。
しかし、大和の越智家高までもが南軍に帰参する中においても、美木多助氏だけは、正儀の元へ戻ることはなかった。
住吉の戦いの結果を受けて、幕府内で政治的に動いたのは京極道誉である。さっそく将軍御所を訪ねて、足利義詮に拝謁した。
道誉は下座から義詮に声を張り上げる。
「将軍、此度の赤松大夫(光範)の戦振り、まことにもって体たらく。せっかく河内国に幕府の威厳を知らしめたというのに、夜が明ければ元に戻ったようなもの。幕府の威厳もこれでは失墜したも同然。赤松大夫には何らかの処分をせねば、示しがつきませぬぞ」
道誉は深刻な顔つきで義詮に訴えた。
「さりとて、赤松大夫のせいばかりにはできぬであろう」
「いえ、将軍。赤松大夫は先の河内侵攻の折も、兵糧を出し惜しみ、幕府軍撤退の要因を作りました。幕府の威厳が失墜するは全て赤松大夫にあります。それがしは我慢なりませぬ」
えらい剣幕で言い寄る道誉に、義詮は面喰らう。
「ま、まあ待つのじゃ、入道(道誉)。そなたの言うことはわからぬでもないが、ここは執事(細川清氏)ともよく相談してみよう」
「執事殿と今更相談など、先代(尊氏)が生きておいでなら、悲しみますぞ。将軍は貴方様ではありませぬか。これは諸国の守護大名への示しでもありますぞ。この場でご決断なさいませ」
道誉の迫力に押されて、義詮は十分に納得できないまま承諾する。結局、光範は摂津守護を道誉にとって代わられる事となる。
しかし、これに激怒したのは、当の赤松光範はもちろん、執事の細川清氏であった。さっそく清氏は、将軍御所に上がり、義詮に意見する。
「将軍、道誉の目的は、端から摂津の守護に自らが着くことです。此度の楠木のことで、赤松大夫(光範)に責任を求めるのは、いささか無理がございます」
無言で頭を抱え込む義詮に対し、さらに清氏は続ける。
「まして、河内侵攻で後ろの方に控えていた京極に、兵糧の責任を問われるのは、筋違いもはなはだしい」
正論であった。しかし、清氏の言いように、次第に義詮は反省顔から憮然とした顔つきに変わる。
「それは余が、道誉の古狸に騙されたとでも言いたいのか」
憤る義詮にも臆せず、清氏は半身、義詮ににじり寄る。
「いや、そのようなことではございませぬ。此度、苦労したのは畠山をはじめ、それがし、土岐、赤松などの諸将。何もしていない道誉が、口先だけで褒美にありついては、幕府の信用がなくなります」
「清氏、すでに決めたことじゃ。道誉の思惑があったにせよ、つけ込まれる隙を見せたは赤松大夫(光範)じゃ。道誉はその方に対しても苦言を呈しておった」
高揚する清氏に、義詮が冷や水を浴びせた。
「これはしたり。それがしにも落ち度があると」
「仁木義長の一件も片付いておらぬ。いかがするつもりじゃ。道誉にばかり気をとられているときではなかろう」
「そ、それについては、それがしに策がござる。お任せくだされ」
「では、まずは、仁木の件を何とかせよ。道誉の件は、それから聞こうぞ」
清氏は拳をぎゅっと握り、苦渋の顔で平伏し、下がっていった。
七月、執事の細川清氏は、誉田城を奪還すべく、畠山国清、土岐頼康、六角崇永、今川貞世を率いて摂津の四天王寺まで出陣した。誉田城を守備していたのは、正儀の従弟、楠木正近であった。
楠木本城である赤坂城に戻っていた正儀の元に、河野辺正友が急ぎ現われる。
「殿、大変です。幕府の大軍が四天王寺に入りました。おそらく誉田城を奪還するものかと」
「何、その数はどのくらいじゃ」
「確かにはわかりませぬが、一万は下らないかと」
正儀は顎に手を当てて考える。
「又次郎(正友)、すぐに小七郎(正近)に使いを出して、城を放棄してこちらに戻ってくるように伝えるのじゃ」
「はっ。ただちに」
急いで広間を下がる正友を目で追いながら、正儀は呟く。
「面妖な……本気で我らを責めるのか。はたして……」
幕府の内部はごたごたで、今、京を空けることは火に油を注ぐようなもの。正儀は、幕府軍の出陣を不審がった。
将軍家執事の細川清氏は、四天王寺の陣で楠木が誉田城から撤退したとの一報を受ける。すると、すぐさま、全軍に命じて、急ぎ京へ引き返した。本当の狙いは楠木ではない。獅子身中の虫、仁木義長を討たんとするための挙兵であった。
しかし、清氏の動きを知った義長は、先手を打たんと、事もあろうに軍勢でもって将軍御所を取り囲み、将軍、足利義詮を軟禁する。将軍の命を偽って幕府を牛耳ろうと画策したのだ。
だが、京極道誉の手引きで、義詮は女物の小袖を被いて、何とか御所を脱出する。
将軍が救出されたと知った清氏は、諸将に義長の討伐を命じた。すると多勢に無勢、仁木義長は戦わずして本国伊勢に落ちていく。こうして清氏は、一戦を交えることもなく、政敵を追い落とすことに成功した。
正儀は、この幕府の内紛に応じて、すぐさま楠木正近を誉田城の奪還へと差し向けた。
誉田城を守備していたのは幕府方の守護代、杉原周防介入道である。楠木軍が押し寄せると、杉原入道は誉田城を放棄して水走城に立て籠もり、幕府の援軍を待った。しかし、楠木軍の猛攻により、幕府の援軍を待たずして、一日抵抗しただけで大和へと敗走した。
さらに八月には、関東執事の畠山国清が、諸将との間で不和が生じ、京を離れて鎌倉に戻った。
これで南朝は完全に息を吹き返し、帝(後村上天皇)は金剛山を降りて観心寺に戻った。
さらにその翌月には、摂津と和泉の間の堺浦を押えて経済地盤を確保するために住吉大社に動座する。そして、宮司である津守国量の屋敷、住之江殿を行宮とした。
東条に一年ぶりの平和が戻る。翌月、戦つづきだった正儀は、幕府から取り戻した楠木館に入った。
多聞丸・持国丸・藤若丸・菊子らこどもたちも紀伊橋本から東条に戻り、楠木館に入る。敗鏡尼(南江久子)も、楠妣庵に戻る前に、ひとまず館に同行していた。
正儀の猶子となった藤若丸は、麓の館に入るとぐるっと見回してから、多聞丸に振り返る。
「兄上、館が燃えていなくてよかった」
藤若丸は、多聞丸を兄と呼んだ。すっかり、楠木の家にも馴染んでいた。
こどもらから兄と頼られる多聞丸は、敗鏡尼らと一緒に、広間で待つ正儀と徳子の前に座り、手をつく。
「叔父上(正儀)、叔母上(徳子)、ただいま戻りましてございます」
「多聞丸、よう戻った。持国丸・藤若丸・菊子も息災であったか」
「はい、父上」
数えで六歳の持国丸が元気よく応えた。我が子の元気な返事に、徳子も安堵の表情を浮かべた。
「三郎殿(正儀)、心配しておりましたが、此度も見事に敵を追い払われた。たいしたものです」
正儀は敗鏡尼の言葉に苦笑する。
「いや、母上(敗鏡尼)、追い払ったというより、幕府が内輪揉めを起こして撤収しただけです。それがしは追い討ちをかけたまでのこと」
「いえいえ、それでもたいしたものです。父上にもあなたの立派な姿を見せてやりたかった」
そう言って敗鏡尼は目を潤ませた。菊子が傍らから敗鏡尼の手を握る。
「敗鏡尼様……」
このところ、めっきり涙もろくなっていた。正儀はそんな敗鏡尼を見て、母も歳をとったものだと思った。
一方、徳子はこどもたちを見回して、にこりと笑みを浮かべる。
「さて、多聞丸殿。それから、藤若丸・持国丸。そなたたちも父上のように、知略に富み、勇気もある立派な武将となるよう精進なされませ。そのためにも多聞丸殿と藤若丸は戦で遅れた分の学問を取り戻さなければなりませぬ。さっそく明日からでも観心寺に通いなされ」
「え、叔母上(徳子)、明日からですか……」
口元を強張らせた多聞丸が、藤若丸と顔を見合わせた。
「そうですよ。それに、持国丸は六歳です。明日からこの母が弓矢を教えましょう」
徳子は女だてらに、弓矢、薙刀など、武芸全般を嗜んでいた。
「本当に、母上。やったあ」
義兄らと異なり、持国丸は喜びの声を上げた。
「何とも厳しいお母上じゃな。さすがは勇婦、伊賀局様じゃ」
「まあ、殿様」
顔を赤らめる徳子を見て、皆が笑った。
正儀と徳子の長男、持国丸は、次の日から徳子に弓矢を教わる。
袖をたすきで括った徳子が、小さな弓を持国丸に持たせて弦をひかせる。
「持国丸、また矢先が下がっておりますよ」
「はい、母上」
母の厳しい指導にも、持国丸は歯を食いしばって期待に応えた。正儀は縁に座って、そんな母子の様子を微笑ましく眺めた。
ある夜、正儀は月あかりのもと、目を閉じて一節切を吹いていた。一節切はその昔、正儀が虎夜刃丸と呼ばれていた幼い頃、足利尊氏にもらったものである。正儀はその笛で、尊氏に教わった調べを奏でた。
一節終えて隣に目をやると、持国丸が立っていた。
「何だ、持国丸。笛に興味があるのか」
すると、持国丸はこくりと頷く。
「笛など吹いていると、母上に怒られるかもしれんな」
笑いながら正儀は、自分の一節切を持国丸に持たせた。音が出るように手を取って教えるが、なかなか音は出ない。息を吐く音だけが漏れ伝わった。しかし、持国丸は根気強く父の手解きを受ける。すると、かすかに音が出た。
「うむ、最初にしてはなかなか上手いではないか。今度、お前にも笛を作ってやろう」
一つ成し遂げ、無邪気に笑顔を見せる持国丸であった。だが今度は、うつむき加減に、顔を曇らせる。
「父上は、笛を教えていただいても、弓矢は教えていただけないのですか」
弓矢をはじめとする武芸を持国丸に教えるのは、もっぱら母、徳子であった。徳子の父は、新田四天王の筆頭、篠塚伊賀守重広である。女だてらに幼い時から武芸の嗜みがあった。伊賀局として宮中に出仕していたときも、准三后、阿野廉子の侍女たちを集めて、もしもの時のためにと武芸を教えていたくらいである。
「父上は弓矢ができるのですか」
持国丸の意外な問いかけに、正儀は苦笑いする。
「父は幾度も戦場に出て、敵味方の悲壮なありさまを目にしてきた。お前たちの顔を見て、このひと時に戦など持ち込みたくないと、いつの間にか思うてしもうたようじゃ……」
そう言って、持国丸の顔に目を落す。
「……されど、我らは武士。我らに戦う意志がなくとも、敵から責められれば戦うしかない。武門に生まれた限りは弓矢、薙刀、槍、刀、馬の鍛錬は必要じゃ。よし、明日からはこの父がお前に弓矢を教えてやろう」
「はい、父上」
満面の笑みを浮かべた持国丸は、勇んで館に戻って行った。
この子も武士の子。いずれ戦場に立つことになる。正儀は複雑な思いで、その後ろ姿を目で追った。
それからしばらくの後のある日、楠木館の奥の間で、徳子が袴の裾を直していた。そこに、正儀が現れる。
「誰の袴じゃ」
そう言いながら、正儀は徳子の前に座った。
「多聞丸殿のです。背も伸びて、袴の丈もすっかり短くなりました」
「そうか、そんなに背が伸びたか。早く多聞丸の元服を執り行わねばならぬな。本来、幕府が攻め寄せてさえ来なければ、元服させようと思うておったところじゃ」
「そうでございますね。いずれは楠木の棟梁に成る子です。たくさん人を集めて、披露してやらねばなりませぬ」
徳子は、正儀が多聞丸を楠木の次の棟梁に据えることを承知のうえで、楠木の家に嫁いでいた。
「烏帽子親はどなたに」
「うむ、やはり、九郎殿にお願いしようと思う」
「まあ、それはよろしいこと。正茂殿にしてみれば、多聞丸殿は我が子同然。さぞ喜ばれるでしょう」
橋本九郎正茂は、正儀の戦指南役として、龍泉寺城に詰めた後、今は紀伊橋本に戻っていた。母の内藤満子と別れた幼少期の多聞丸を養育したのは、この紀伊の橋本家であった。
正儀は徳子の喜ぶ姿を見て、すぐに多聞丸と傳役の津田武信を呼び寄せる。
「多聞丸、お前の元服を行うぞ」
「ほ、本当にございますか、叔父上。待ちに待っておりました。ありがとうございます」
素直に多聞丸は目を輝かせた。
年が明け正平十六年(一三六一年)正月、霜日和のこの日、数え十六歳となった多聞丸に、元服の儀を執り行う。楠木の跡目を披露するというもので、たくさんの人を集めた。河野辺正友、津田武信、菱江忠元、津熊義行、そして恩地満信ら家臣。和泉の和田正武や橋本正高といった一門。津田範高らの与力衆。一門一党以外からも、大和の十市遠康、紀伊の湯浅定仏の嫡男、湯浅宗隆らである。
さらには住吉の朝廷からも、祝辞の使者を賜るという、大そう大掛かりなものであった。
烏帽子親の正茂が多聞丸に烏帽子を被せると、続いて、正儀が立ち上がって一同の前で書き物を掲げる。
「多聞丸よ。新たな名を与える。今日からそなたは、楠木太郎正綱と名乗るがよい」
「太郎正綱……叔父上、ありがとう存じます」
多聞丸改め楠木正綱が深々と頭を下げた。
正儀の実子、持国丸と、猶子の藤若丸が傍らから進み出る。
「兄上、おめでとうございます」
「おめでとうございます」
「うん、二人ともかたじけない。我らはそれぞれに父が異なる兄弟じゃが、この先も、力を合わせて楠木家を盛り立てようぞ」
楠木正綱は左右の手で、二人の肩を叩いた。
「さあ、太郎殿の元服の御祝いです」
徳子がそういって、自ら料理を運んで一同の前に現れた。続いて侍女の妙が女房衆を引き連れて、次々と酒や料理を運ぶ。猶子の菊子も、料理を両手に持って続いた。広間に入った菊子は、正綱の凛々《りり》しい元服姿に思わず立ち止まり、頬を赤くした。
この年の九月、将軍御所に京極道誉が出仕していた。道誉は周囲の気配に気を配ってから、征夷大将軍、足利義詮に囁くように語りかける。
「将軍、御存知でございますか。執事殿のことでございます」
意味ありげに道誉が細川清氏の名を出した。
「入道(道誉)、何かあったのか」
「執事殿が僅か九歳の息子を元服させました」
義詮は不思議そうな顔をする。
「少々若いが、めでたいことではないか。それがどうしたのじゃ」
「いえ、執事殿であれば、将軍を烏帽子親として頂いてもよさそうなものでございましょうが、お頼みになられなんだ」
「執事だからこそ遠慮したのであろう。余とて、皆から烏帽子親を頼まれても身体が一つしかないからな」
義詮は気にする素振りを微塵も見せずに笑い返した。
「いえ、続きがございます。男山の八幡宮で八幡大菩薩を烏帽子親として元服させ、息子を八幡八郎正氏と呼んでいるようでございます」
「何、八幡八郎じゃと」
「八幡太郎といえば、将軍家のご先祖、源義家公のこと。されど、将軍家の縁戚である執事殿にとってもご先祖。執事殿は武勇を誇った八幡太郎に、御自分を重ねているのでございましょう。天下取りの野心が見え隠れ致しまするな」
「入道、何を申す。清氏は武骨な武者じゃ。よもやそのようなこと、あろうはずがない」
いつもの戯れ言と、義詮は相手にしなかった。それをみて取って、道誉は手で懐をまさぐる。
「それがしもそのように思うておりました。されど、このようなものを手に入れてしまっては……」
そう言って一通の書状を差し出す。
「……これは、執事殿が荼祇尼天に祈った祈願文。これは自ら天下を治め、子孫繁栄を願い、鎌倉公方基氏殿が降伏し、そして将軍が急死することを願ったものでございます」
「なに……」
だんだんと義詮の顔色が変わった。これを見て、道誉は畳み込む。
「執事殿は仏事のためとして、天竜寺に入られたのはご存知でしょうか」
「いや……」
「兄弟・親族の他、仁木家の養子となった執事殿の実弟、仁木頼夏殿ら兵三百余を引き連れた奇妙な仏事です」
義詮は表情を失い沈黙する。
「まあ、この道誉の諫言など、お信じいただくのが無理というもの。気になされないならそれで、いっこうに構いませぬ……されど、少しでも疑念を持たれたのなら、天竜寺の件、お調べなされるがよろしいかと」
道誉はそう言って、神妙な顔を義詮に見せた。
後日、執事の細川清氏が、将軍、足利義詮に召し出された。事の真偽を問いただす義詮に、清氏が唖然とする。
「お待ちくだされ。それがしは身に覚えのないことばかりでございます。それは道誉めにたぶらかされております」
「清氏、余とて入道(京極道誉)の讒言を信用しておるわけではない。されど、天龍寺に兵を集めたのは紛れもない事実であろう」
「これは、讒言を繰り返す道誉に対して、威嚇をしたまでのこと。道誉は幕府に巣食う害虫でござる。いずれ退治が必要と思うてのこと」
「あれはあれで役に立つ。ああ見えて、父上(足利尊氏)を裏切ったことはない」
「道誉は、見せかけの忠義と策謀とで将軍に取り入っているだけでございます。どうか、お信じくだされ」
義詮はふうむと思案してから口を開く。
「おって沙汰するまで、しばらく大人しくしておるのじゃ」
理不尽な仕打ちに、清氏は肩を震わせた。抗弁すればするほど、義詮は頑な態度を示した。
父、尊氏とは異なり、義詮は神経細やかで、猜疑心の強い男である。清氏はそれを勘案して下がらざる得なかった。清氏が、自身の立場を脅かす仁木義長を討伐し、さらに道誉の討伐も企んでいたのは紛れもない事実であった。執事職をまっとうしようとすれば、当然である。
しかし、義詮は、清氏に限らず執事職にある者は、幕府内での権力を固めた後、次は将軍に刃を向けてくるのではないかと、常に注意を払っていた。鎌倉幕府の執権、北条氏は、有力御家人を次々に排除して実権を握った。結果、源家が三代で滅びたことを、義詮としては常に意識せざるを得なかったからである。
後日のこと。楠木館の書院で軍注状に目を通していた正儀は、庭の方に人の気配を感じる。
「聞世か」
縁に出た正儀に、聞世こと服部成次が姿を現した。暗闇と同化するかのように、小波多座の裏方が着る黒い装束を身に纏っていた。
「殿、京で事変がございましたぞ」
「やはり、細川清氏に何かあったか」
正儀は情報網を駆使して、京の事情に驚くほど精通していた。
「はい。足利義詮が京の帝に細川清氏追討の綸旨を求めました。そのことを知った清氏は、舎弟の頼和・将氏・家氏らとともに京を出て、領国の一つ、若狭へ向かったようです」
「何、清氏が京を去ったと……うむ、これはよい機会じゃ。来たばかりですまぬが、和泉の新九郎殿(和田正武)と四郎殿(橋本正高)に龍泉寺城に出張るように伝えてくれ」
「出陣でございますな。承知しました」
そう言うと、聞世は姿を消した。
九月二十八日、龍泉寺城は出陣を控えた多数の兵でごった返していた。
「殿、御武運をお祈り致します」
「父上、幕府軍を追い払ってください」
正儀は、徳子と持国丸の見送りを受けていた。
「うむ、行って参る。持国丸、留守を任せたぞ」
そう言って、正儀は持国丸の頭を撫で、徳子にも笑顔を返した。
向こうでは、初陣を迎えた楠木正綱が、菊子と藤若丸に見送られていた。
「太郎様、お気をつけて」
「兄上、御武運をお祈り致します」
菊子は心配そうに、一方、藤若丸は目を輝かせて正綱を見送った。
楠木軍は、舎弟の楠木正澄、従弟の楠木正近、そして元服間もない正綱からなる東条の将兵と、和田正武が率いる和田党、橋本正高が率いる橋本党などからなる総勢五百で摂津へ出陣する。
正儀の近臣、津田武信は、津熊義行を伴って一足早く、所領の北河内に戻っていた。ここで父、津田範高の津田党や交野郡の豪族たちを取り纏め、淀川沿を下って、楠木軍に合流する。
さっそく正儀は、摂津の天満宮に陣を布き、軍議を開いた。
「京極が五千騎を率いて出陣したようです」
武信が、津田荘で集めた幕府の動きを説明した。摂津守護は、赤松光範を策謀で追い落とした京極道誉が、その後釜に収まっていた。
「京極……率いるは道誉か」
正儀の問いかけに、武信は首を横に振る。
「斥候の知らせでは、軍を率いているのは孫の秀詮・氏詮の兄弟でございます」
「そうか、まだ若いな……」
正儀が呟くと、すかさず和田正武が咳ばらいをする。
「三郎殿、情けは禁物じゃぞ。情けをかければこちらがやられる」
「いや、わかっておる。で、どこを進んで来ておる」
武信が絵地図を指差す。
「淀川の北を、川沿いにこちらへ進軍しております」
「で、三郎殿、どうする」
正武に求められ、正儀は腕を組んで考える。
「摂津の住吉には帝(後村上天皇)がおられる。京極勢が南に向かわぬようにするには、摂津の北へ餌を撒くことだ」
「では、神崎川のあたりまで進み、敵を迎え撃ってはいかがか」
絵地図に目を落したまま正武が提言した。
これに正儀が頷く。
「うむ、そうしよう。楠木本軍が先発して神崎橋を渡って西に進もう。和田勢は搦手として神崎橋を渡った後、南の浄光寺に進軍していただこう」
「ん、なぜ搦手の兵を浄光寺に布陣させるのじゃ」
顔を上げた正武が首を傾げる。すると正儀は、にやりと笑みを返した。
正儀の軍勢は、神崎橋を越えて、ゆっくり西に進軍していた。
楠木軍が神崎橋を越えたことは、すぐに京極軍にも伝わる。大将の京極秀詮・氏詮兄弟の傍らで、実際に戦の采配を振うは重臣の吉田肥前介厳覚(秀長)であった。
「若殿・御舎弟殿、それがしは山陰で万をも超える敵とも戦って参った。たかが五百の楠木など、何ら恐るるに足りませぬ。我らの大軍を見ただけで、恐れを成して退いていくことでしょう。若殿はそれに追い討ちをかければよいのです。まあ、それがしにお任せあれ」
最初から厳覚は舐めて掛かっていた。
京極軍は楠木軍を追って神崎橋に差し掛かる。厳覚は順次、兵を渡らせて、大将の京極秀詮・氏詮兄弟が渡り終えるのを見届けた。そして、自らも隊列の後尾に着いて橋を渡る。
厳覚は橋を渡るために、隊列を長く伸ばしていた。京極軍が神崎橋を渡り切ったところで、事態が急変する。
「楠木が後ろから攻めてくるぞ」
一人の兵が馬に乗って後ろから駆け上がり、隊列に触れ回った。
楠木軍がこの先に進んでいると思い込んでいた秀詮・氏詮兄弟は、このことに驚き、隊列の中央から兵を連れて神崎橋に向けてとって返した。
触れ回ったのは、正儀が京極軍の中に紛れ込ませた聞世(服部成次)であった。
京極軍は隊列の途中から京極秀詮・氏詮兄弟が神崎橋に向けて引き返したため、隊列の前半分が取り残された形になった。正儀の狙い通りである。
「よし、頃合いじゃ。我らは東にとって返して京極軍を討つ」
正儀は楠木本軍を反転させて東に戻った。
津熊義行らが、兵たちとともに馬を駆って京極軍の先陣に襲い掛かる。そこに、浄光寺で待機していた和田正武が率いる搦手の軍勢も、南から京極の先陣に襲い掛かった。楠木軍の攻撃に、大将の秀詮・氏詮兄弟と、吉田厳覚もいない京極の先陣はたまらず撤退をはじめ、ついに離散してしまった。
「よし、後はもう半分、大将の首じゃ。者ども、東に迎え」
正儀の下知で、楠木軍の騎馬兵は土煙を上げて神崎橋に向かった。楠木軍は神崎橋の袂で、残りの京極の軍勢に襲い掛かる。
半分になったとはいえ、人数では京極軍が勝っていた。しかし、神崎川を背に守勢に立たされる。
「者ども、戦え。引くな」
若い大将の秀詮は、あらんばかりの声を張り上げ、兵を鼓舞した。しかし、川を背にした京極軍は、すでに気持ちで負けている。下手に神崎橋が架かっていることで、逃げようとする兵が橋に押しかけた。
しかし、多くの兵が神崎橋の手前で立ち往生する。見ると神崎橋は橋板が外されていた。知らずに橋を渡ろうとした兵は、後ろから来た兵に押されて川の中に落ちていった。それを見て、留まる兵と、後ろから逃げくる新手の兵で、神崎橋は阿鼻叫喚の地獄となる。
橋板が外されていたのは、吉田厳覚の命であった。楠木軍が襲いかかってきたのを見て、隊列の後方の厳覚が、京極軍の中で誰よりも早く神崎橋を戻ってしまった。そして、大将の京極秀詮・氏詮兄弟へ、引き返すように伝令を出した。
伝令の兵には、秀詮・氏詮兄弟をはじめ味方が橋を渡り終えれば、橋板を外すよう命じていた。しかし、伝令の兵は、敵と交戦中の京極軍の中に入る勇気がなく、途中で引き返し、橋板を外すことのみ、忠実に命に従ってしまったからであった。
秀詮・氏詮兄弟は、側近の県次郎に守られ、何とか楠木軍の攻撃を潜り抜け、神崎橋のたもとまで戻ってくる。
「な、なんだこれは……敵が橋を落としたのか」
県次郎は口を開けたまま呆然とする。だが、すぐさま、決心して、秀詮・氏詮兄弟へ進言する。
「若様、御舎弟様、橋が落とされております。こうなれば是非もありませぬ。楠木軍の中央へ切り込んで、それがしが血路を開きます。若殿らは後に続いてくだされ」
「うむ、承知した」
「いざ、参ろう」
若くて血気盛んな秀詮・氏詮兄弟は、近習らとともに楠木軍に向かって引き返した。
正儀の隣で戦況を見ていた楠木正綱が叫ぶ。
「叔父上(正儀)、あれを」
正綱が指し示す方に目をやると、京極の若き大将と思しき二人の若武者が、楠木本軍を目掛けて、切り込んでくるのが見えた。
「馬鹿な。なぜ戻ってくる」
若い二人を死なせたくはないと、正儀は少し手加減をして退路を与えてやっていた。いったん戦場から消えた二人に安堵していた矢先である。しかし、こうなっては、さすがに正儀といえども、もう助けることはできない。見事な出で立ちの若武者二人に、楠木の雑兵が群がった。
若い二人は馬上から刀を振い、数人の雑兵を切り倒すが、そこまでであった。楠木軍は幕府軍の大将である京極秀詮・氏詮兄弟と、県次郎をはじめとする近習を討ち取った。
自らの立てた策略通りに正儀は勝った。だが、秀詮・氏詮兄弟の死に、心が晴れなかった。若い二人の姿が、初陣の正綱の姿と重なっていたからである。
神崎川には、橋からあぶれた多くの敵兵が落ちていた。楠木の兵は、岸に上がって来ようとする敵兵に矢を射かけようとしていた。
「やめい。すでに勝敗はついた。戦が終われば敵を憎むことなかれ。岸に上げよ。溺れている者がいれば助けよ」
正儀は河野辺正友に命じて、兵たちに京極の残兵を助けさせた。
「服が必用な者はこっちにくるがよい。小袖を与えてやろう」
正友が河原に降りて声を張り上げた。
「怪我をしている者はこちらにくるがよい」
正綱が兵たちの白帯を集め、敵兵の傷口に薬を塗ってから縛った。正儀自身も、怪我をしている者には自ら薬を塗ってやる。そして、敵方へ返してやった。
橋の袂では和田正武が腕組みをして、敵兵を助ける正儀らの様子を見ていた。
「全く、兄弟そろうて情け深いことじゃ……」
かつて、正儀の兄、楠木正行も、橋から落ちた敵兵を助けたことがあった。
「……されど、三郎殿(正儀)、ここは戦場ぞ」
苛立ちを隠しきれない様子で、正武は小刻みにつま先で地面を踏んだ。
十月二十七日、領国の一つ、若狭に逃れた将軍家執事の細川清氏は、将軍、足利義詮に使者を立てて事実無根と訴えた。
しかし、義詮は、京極道誉の進言に従って、越前から斯波道朝の三男、氏頼を、細川清氏の討伐に向かわせた。
斯波道朝とは足利将軍家の分家、足利高経のことである。高経は、足利尊氏の死に殉じる形で出家し、法名を道朝と号していた。そして、猜疑心の強い将軍、義詮に遠慮する形で、足利を名乗るのを止めて斯波氏を名乗るようにした。これは、家祖の足利家氏が、陸奥国の斯波郡を賜ったことに由来する。
若狭に逃れた清氏であったが、この地はもともと斯波氏の領国であった。斯波氏ゆかりの豪族も数多く、清氏は味方を集められずに若狭から比叡山に遁走した。だが、京に近い比叡山がかくまってくれるはずもない。
「こうなっては本国の阿波に戻り、幕府を相手に討ち死にするまでじゃ……いや、あるいは……」
清氏は考え直して、摂津の四天王寺に向かった。
摂津で勝ち戦を収めた正儀は、中納言の阿野実為によって住之江殿に呼び出される。
束帯姿で帝(後村上天皇)の御前に向かう途中、渡り廊下で実為が正儀を待ち構えていた。
「中納言様、何かありましたか」
実為は手に持つ扇を半開きにし、正儀の耳元に近付ける。
「細川清氏が、先に帰参した石塔頼房を介し、降参を願い出たのじゃ」
「やはり……清氏に残された道はそれしかなかったかと存じます」
正儀は清氏の心中を察した。
「それで、それがしに御用とは」
「御上が自ら河内守に、清氏の申し出の是非を問うてみたいと申してのう。よく考えてお答えするがよい」
「心得ました」
神妙な顔で正儀は頷き、帝の御前へと進んだ。
帝は御簾を上げて正儀を待っていた。挨拶を済ませると、さっそく帝が問う。
「細川清氏は、京を責めるのは、執事が居なくなった今を置いて他にない。自らが先達をつかまつると申しておるようじゃ。そなたはどのように思う。朕に思うところを聞かせよ」
正儀は少し思案する素振りを見せて言葉を選ぶ。
「わが父、正成の時代から、武家方を京から追い落とすことすでに四度。されど、勝った我らは長く京に留まることができませぬ。これはひとえに、天下に主上をいただこうとする者がいないためでございます」
廟堂に緊張の糸が張りつめる。実為は固唾を飲んだ。じっと耳を傾ける帝を、上目遣いに窺いながら、正儀は続ける。
「単に武家方を京から追い落とすだけであるならば、清氏の力を借りるまでもなく、我が楠木の力だけでもできまする。されど、我らが京を奪還しても、すぐに武家方は畿内の兵を集めて追い落としに掛かることでしょう。それを押して、我らが京に留まろうとすれば、幕府は諸国の兵を動かして大挙押し寄せることは必定。諸国に我らを求める者たちが居なければ、いずれ我らは京を明け渡さざるを得ないことは道理と存じます」
帝は正儀の話が進むにつれ、何とも言いようのない落胆の表情を見せた。その様子に、正儀は慌てて補足する。
「されど、これはあくまで、それがしの愚慮ゆえのこと。綸旨が出れば、それがしは従うまでのことでございます」
正儀が意見を言い終わるのを待って、帝は深い溜息をつく。
「河内守、そちの考えはようわかった。そちの申す通りであろう。されど、朕は幼き時に京を離れて以来、京に戻ったことがない。一度でよいから京で一夜を過ごせないものか。これは、朕のわがままなのじゃ」
帝の言葉に、正儀は無言で平伏する。結果はわかっていた。にもかかわらず、帝の願いを叶えなければならないと思う自分に矛盾を感じていた。そして、京への侵攻はこれが最後になるだろうと思った。
南朝に帰参することになった細川清氏であるが、皮肉にも、清氏が幕府から追放した仁木義長も南朝に帰参していた。
義長は京を追われた後、伊勢の長野城に籠城して六角崇永(頼氏)、土岐頼康ら幕府の追討軍に攻められた。そこで、南朝の権大納言、吉田宗房を介して南朝帰参を申し出ていたのだ。
義長が南朝帰参を許されたことで、それまで伊勢を巡って敵対していた伊勢国守、北畠顕能は、義長救出のために二千の兵を率いて伊勢長野城へ出陣するという、もう一つの皮肉も生んでいた。
【本作では権限のない名目的な他国の国守と区別するため、北畠家の伊勢守は伊勢国守と記載する】
正儀が楠木館に戻ると、河野辺正友が待ち構えていた。広間の上座に腰を下ろすと、正友が詰め寄る。
「殿、住吉はいかがでしたか」
「うむ、やはり清氏が主上に降って参った。この結果、清氏の策を受け入れて、京へ兵を進めることになった」
呆れたように、正友は右手で顔を覆う。
「これで、何度目でございましょうな」
「四度目じゃ」
肩を落とす正友に、正儀が仔細を話して聞かせた。大きく溜息をついた正友であったが、思い出したように顔を上げる。
「ところで殿、それがしの方からも一つ、よろしいですか」
「何じゃ、又次郎(正友)。申してみよ」
「弥太郎が迷い子を連れて参りまして」
民部小丞、菱江弥太郎忠元は、正友の配下に置かれていた。
「迷い子じゃと」
「はい、城にくる途中、この近くで見つけたようです。忠元の話では父を亡くした武家の子のようです。会ってみられますか」
「そうか、戦で父を亡くしたか」
正儀は責任を感じた。直接ではないにしても、正儀たちが戦をすれば、そのような子が確実に増えていくからである。
「うむ、会おう。ここへ連れて参れ」
「承知しました」
正友はいったん席を外す。そして、再び現われた時に、忠元と一人のこどもを連れ立っていた。
そのこどもは、忠元に促され、館の縁に腰を掛けた正儀に、礼儀正しく頭を下げる。
「その方、名は何と申す」
「熊王丸と申します。」
「左様か、熊王丸と申すか。幾つじゃ」
「はい。八つでごじます」
「御父上は亡くなられたというが」
「はい。父は赤松大夫判官光範が家来、宇野六郎にございます。父は戦で亡くなりました」
熊王丸は正儀の問いに、澱みなく答えた。しかし、赤松の家臣のこどもが、南河内の東条にいたのは、不自然なことである。
「いったい、河内で何をしておった」
「父が亡くなり、一門の備前介に襲われて領地を盗られ、わたしのみが生き延びました。備前介は主君の赤松光範とも通じております。わたしは摂津を追われたため、河内で僧にでもなって父を弔おうと思い、寺を求めて歩いておりました」
自らも父兄を亡くした正儀は、熊王丸を不憫に思う。だが、それ以上に、こどもとは思えぬ、その落ち着き払った態度に感心する。
「そなた、この館に留まるつもりはないか。わしには似たような歳の子や、そなたと同じようにわしの元に来たこどももいる。大勢と一緒に暮らした方が楽しいであろう」
「いえ、殿様にご迷惑をかけるつもりはありません」
「迷惑などと。こどもの一人や二人で、楠木の家が困ることなどあろうものか。そなたはきっとよい武将になるであろう。楠木のために、働いてみるつもりはないか」
仏門に身を投じる覚悟であった熊王丸は、下を向いた。
「熊王丸、僧になりたいと申したな。しばらくこの館で暮らしてみて、それでもどうしても僧になりたい気持ちが変わらなければ、そのときはわしが寺を紹介してやろう。どうじゃ」
正儀の提案に、熊王丸はやっと首を縦に振った。




