第 1 話 元弘の変
眠りから覚めると、土ぼこりが霞のごとく遠くの景色を遮っていた。目の前には、大勢の男たちが慌ただしく動き回っている。虎夜刃丸と呼ばれた楠木三郎正儀の幼き日、思い出す限り最初の記憶であった。
元弘元年(一三三一年)九月初め、ここは河内国の南にある水分村。南河内に威勢を誇る兵衛尉、楠木三郎正成の館である。
その縁側、誰かの腕の中で目を覚ました虎夜刃丸は、それが母であることがわかると安堵の表情を見せた。たどたどしいが一人で歩けるようになったところ。だが、喋るにはまだ早かった。
母の名は久子。近くの甘南備村の土豪、南江正忠の娘で、楠木へ嫁いで、はや十年が経っていた。嫁いだ時は数えの十八。夫の正成より十歳下である。楠木の大所帯を切り盛りできるのかと心配する周囲をよそに、持ち前の器量と笑顔で、すぐに一族郎党たちから慕われる存在になった。
「母上、わしも手伝うというに、兄者が手伝わせてくれん。兄者に言うてくだされ」
砂を噛んだような顔をして駆け寄ってきたのは、虎夜刃丸の四つ歳上の兄、持王丸。戦で腹に巻く胴丸(鎧)の代わりに、手作りの板を首からぶら下げ、腰に木刀を差していた。
「これ、持王丸。兄上の邪魔をしてはなりませんよ。兄上は、お前に構っていると、自分の仕事ができぬのじゃ」
久子は、目を覚ました虎夜刃丸をあやしながら、口を尖らす息子を諭した。
楠木館は、戦の支度で集まった多くの兵で慌ただしかった。直垂の上に胴丸を巻き、侍烏帽子を被った郎党たち。他にも、裸に胴丸を付けただけの異形の兵もたくさん混じっていた。
「わしは兄者の手伝いをしたいだけじゃ。さすれば兄者の仕事もはかどるであろう」
「そんなに手伝いがしたければ、母からお前に仕事を頼むとしましょう。ちょうど虎夜刃丸が目を覚ましたところ。歩けるようになってから、この子はどこに行くかわかりませぬ。遠くに行かさぬよう、見張っておいてくだされ」
「へん、母上に言うではなかった。虎の世話などできるか。わしは武士の子。戦の支度じゃ」
持王丸は逃げるようにして庭の方へと駆けて行った。
その反対側に納屋がある。大きな建物だが館に比べるといかにも古く、粗末なものであった。中は薄暗く、壁の隙間から入り込む陽の光に照らされて、埃がちらちらと揺れている。
ここで刀と薙刀の数を数えているのが、持王丸の二つ歳上の兄、多聞丸。虎夜刃丸の長兄である。多聞丸という名は父、楠木正成の幼名でもあり、父から譲られた名であった。
「七郎叔父、父上はなぜ鎌倉と戦うのじゃ。鎌倉とは将軍がおる幕府のことであろう」
問いかけた相手は楠木七郎正季。正成の十一歳下の末弟で、虎夜刃丸ら兄弟の叔父である。
ううんと唸り、正季が薙刀を揃える手を止める。
「よいか多聞丸、お前の父はかしこくも帝の思し召しで幕府討伐を命ぜられたのじゃ。いつぞやこの館に高貴な方々が大勢やって来られたであろう。中納言様という偉いお方が、御綸旨というてな、帝の命が書かれたものを持って来られた。それには、鎌倉の幕府を攻め滅ぼせとあった」
帝とは神武天皇から数えて九十六代の後醍醐天皇。天皇親政の御代であった醍醐天皇の治世を理想とし、通常は死後に贈られる諡(追号)を、生前自らが後醍醐と定めていた。
「うん、あの時は驚いた。さぞ、父上も驚かれたであろうな」
「いや、三郎兄者は驚かなんだ。いずれ帝から声がかかることはわかっておったからじゃ。楠木にはいろんな伝手があるからな。ただ、予想より早過ぎた」
瞳をきらきらと輝かせ、多聞丸が正季に向き合う。
「父上は帝に会うたと申されておったが……」
「そうじゃ。帝は幕府の成敗を考えておられたが、幕府に気づかれてしまい、大和の笠置山まで逃げて来られたのじゃ。兄者は帝の御召しを受けて笠置山へ向かった。そこには帝をはじめ、宮様(皇子)方や高貴な殿上人の方々がおられた」
「あぁ、帝はどのようなお顔をされておられるのであろうか」
恍惚な表情を浮かべる多聞丸に正季は口元を緩める。
「さあ、そこまではわしも知らぬが……兄者は宮様から、幕府軍を討ち破る策をたずねられた」
かじりつくように多聞丸が身を乗り出す。
「父上はどのように答えたのじゃ」
「うむ、『残念ながら、我らの武力で幕府の大軍に勝つことはできませぬ』と答えた」
期待を先走らせていた多聞丸は、しゅんと肩を落とした。
その様子に正季が悪戯っぽく笑う。
「続けて三郎兄者は言うた。『されど、人心が離れた幕府の衰運は、すでに見えております。ゆえに、この難局を生き延びることこそが最大の策とお心得いただきますように。我らは幕府の凋落を誘う戦をいたします。ただ、戦の習いなれば、一時の勝ち負けはお気になさらぬよう。この正成が生きてこの世にありと聞こえ召されば、必ず主上(帝)のもとに、御聖運が開けるものと思し召しください』とな……」
耳を傾ける多聞丸の目に、再び輝きが戻る。
「……そうして、ここ水分に帰ってきた兄者は、幕府と戦うために赤坂に砦を造り、戦の備えをしているという次第じゃ」
「されど、京の朝廷も、鎌倉の幕府も国を治めているのであろう。なぜ帝は幕府を滅ぼそうとするのじゃ」
腑に落ちない多聞丸が、予てからの疑問をぶつけた。
対して正季は、こどもの問いにどう答えるか、一度、頭の中の言葉を積み直してから口を開く。
「ううむ、そうじゃな……源頼朝が征夷大将軍となって幕府を開いた。じゃが、今や幕府を牛耳るのは将軍ではない。北条得宗家(北条惣領家)の高時じゃ。北条は源家の家臣であったが、源家が滅んだ後、京より力のない将軍を戴き、幕府を乗っ取ったのじゃ」
源家とは、源氏の中でも特に頼朝の系譜を指す。それは、平氏の中で、平清盛の系譜を平家と呼ぶのと同じである。
「それでどうなったのじゃ」
「朝廷は、時の帝の父君であらせられた後鳥羽院が、北条の幕府を成敗しようとされたのじゃが、逆に負けてのう。それから北条の幕府は、帝や朝廷に自由に政をさせぬようになった」
「北条とは酷いのう」
北条氏の言い分はさておき、多聞丸は素直に頷いた。
「そればかりではないぞ。帝に成る時も幕府が口を挟む次第じゃ。おかしいであろう、幕府は帝の臣下であるというに」
「されど七郎叔父、それだけ強い幕府に父上は勝てるのか。帝が勝てぬ相手に……父上はそんなにすごいのであろうか」
多聞丸は心細げに手元の薙刀に目を落した。
突如、納屋の扉が開き、まぶしい光が多聞丸の不安を包み込む。
「あっはは、そうじゃ、お前の父は幕府より強いのじゃ」
男が豪快に笑いながら中に入ってきた。虎夜刃丸ら兄弟の叔父、美木多五郎正氏である。
口と顎に髭を生やした正氏は、端正な顔の正季とは対照的な顔立ちをしている。叔父と言っても血の繋がりはない。正氏は和泉国の御家人、美木多氏の庶流家の末子であった。幼い時に、虎夜刃丸の祖父、楠木入道正遠(正玄)の猶子となり、楠木家で育った。
猶子とは、他家の子を預かって親代わり、後立てとなって、養育することである。養子と異なり、その家の家督を継ぐわけではない。苗字は元の家のままとする場合が多く、正氏は楠木ではなく美木多のままである。この頃、畿内の豪族は、有力家と婚姻や猶子縁組を行って緩い武士団を形成し、他国の有力豪族から自らを守っていた。
【注記:大中臣氏系の「美木多」は本来「和田」と書くが、本作では楠木一門の「和田」との混同を避けるために「美木多」と書く】
二人の話を適当にあしらい、正氏は正季に顔をぐいっと突き出す。
「で、七郎、薙刀はいくら揃った」
「そうじゃな、ざっと三百というところかのう」
「そうか、まだまだ少ないのう」
頭を掻きながら、薙刀の束に目を落した。
「そういう五郎兄者の方はどうじゃ。兵は集まったのか」
「こちらも三百というところか。一族の和田や橋本だけではなく、大和の十市や和泉の八木にも声をかけておる。わしも美木多の一族に頼んだ。ざっと五百にはなるであろう」
「それでも五百か。苦しいのう。されど、少ないとは言うても、兵糧をそれだけ集めるとなると、皆に苦しい思いをさせねばならん」
百姓たちを気遣う正季の肩に、正氏が手を添える。
「なあに、勝って倍にして恩を返してやればよい。兄者(正成)は、五百の兵が二カ月は籠城できるようにしたいと言うておる。我らのことを、まるで悪党のごとくと呼ぶ者もおるぐらいじゃ。少々手荒な真似も致し方あるまい」
悪党とは、幕府の支配から外れ、領主に対して反抗的な武士団を指した。幕府からみれば面倒な存在である。
「うむ……されど、今は二十日分しかない。戦が始まった後も、紀伊から兵糧を集め、赤坂の砦に運び入れる必要があるぞ。されど、敵に囲まれた砦に運び込むのは難しい」
「よし、その役目はわしが引き受けよう。兄者(正成)にそう伝えておいてくれ」
「さすがは五郎兄者、頼りになるのう」
「おう、任せておけ」
胸をどんと叩いた正氏は、そこにあった薙刀を一本手に持ち納屋を出て行った。
多聞丸は、せっかく十本単位で揃えた薙刀の束に、えぇと小声を上げて一本追加した。
翌日、久子は楠木正季に頼み込み、こどもらを連れ立って赤坂の砦に同行した。秋の和らいだ日差しの中、多聞丸と持王丸は、砦へ続く坂道を、汗も流さずに駆け上がる。虎夜刃丸は久子の腕に抱かれ、兄たちの後ろ姿を目で追った。
その目の前に壮大な砦が現れる。そこにかつての下赤坂の小山はない。麓の木々は伐採され、寒々としたその周りを、柵と逆茂木がぐるりと囲っていた。山の上部は土が削られて平地が造られ、数基の櫓が建てられている。その下の、土が剥き出しの急峻な崖は、何者をも寄せ付けぬ威圧感を醸し出していた。
「父上」
砦の上に着いた持王丸の大声に、振り向いた男が困り顔で頭を掻いた。この男こそ虎夜刃丸の父、楠木正成である。正季同様に端正な顔立ち。引き締まった口元には意志の強さが表れていた。
「久子よ、このようなところへこどもらを連れて何事ぞ。もう直、戦が始まるのじゃぞ。女こどもがくるところではない」
「あら、もうすぐ戦が始まるから来たのですよ。いざ戦が始まれば、ここに入ることはできませぬ。女こどもは今のうちしか見ることができぬではありませぬか」
「まったくお前という奴は。嫁いできた折から何も変わらぬな」
溜息をつく正成だが、久子との会話を楽しんでいる風でもあった。
皆に気づいた美木多正氏が、腹を抱えて歩み寄る。
「あははは。さすがの兄者も義姉上にかかれば形なしじゃな」
「何をいう。お前も、おかかがここに居れば、軽口は叩けぬであろう」
正成の放言に、久子がぱあっと掌を合わせる。
「そうだ。五郎殿(正氏)も七郎殿(正季)も、奥方をお呼びすればよい。な、そうなさいませ」
すると、正氏が顔をひくつかせながら正季に視線を送る。
「そう……わしは掻き集めた兵の帳簿を作らねばならなんだ。かかにはまたの機会を作り申そう。義姉上、これにて御免。七郎、後は任せたぞ」
「おいおい、五郎兄者、わしまで巻き込むな。まったく……」
そそくさとその場を離れる正氏を、正季はあきれ顔で見送った。
「五郎は久子が苦手なようじゃ。口では勝てぬからな」
「まあ、殿まで」
これから戦が始まるにもかかわらず笑い声を響かせる三人を、虎夜刃丸は母の腕の中から不思議そうに見つめた。
多聞丸と持王丸は、興味津々に砦の中を見て回っていた。虎夜刃丸も、久子の手から解放されると、すぐに兄たちの跡を追いかけた。といっても、足取りはたどたどしく、縦横無尽に走り回る兄たちからあっという間に置いてきぼりにされる。
「こんなところに童が。我が末子と同じくらいであろうか」
ひょいと虎夜刃丸を抱き上げたのは十市範高。大和国十市郡の豪族、十市兵部少輔遠高の次男である。
「十市殿、この子は殿の三男、虎夜刃丸殿でござる」
歩み寄ったのは恩地満俊。楠木家の家宰である。家宰とは家老職のことで、楠木の内々の諸事を仕切っていた。周囲から左近と呼ばれる満俊は、正成の父、楠木入道正遠の代から仕えている。老域に達した風貌と朴訥な喋りは、周囲を和ますに十分であった。
「これは左近殿、お久さしゅうござる。我が党は五十人を連れて参ったぞ。砦の口に待たせておる……」
そう言いながら、範高が浅黒い顔を、その手に抱いた虎夜刃丸に向ける。
「……されど、楠木ではこのような小さき子まで砦に入れるのか」
「いやいや、虎夜刃丸殿は予定外でござる。楠木には、それは元気のよい奥の方がおられますので。わしはいつも驚くことばかり……」
左近が視線を向けたその先を範高も目で追う。そこには気さくに兵に声をかける久子の姿があった。
「なるほど、楠木は夫婦揃って枠にはまらぬ、ということじゃな。さらにこの子までも変わった子じゃ。わしに抱かれても怖がるでも嫌がるでもなく。かといって、すぐに懐いて甘えるでもない。じっとわしの顔を見ておる。何というか……そう、心の中を透かして視ようとしているようじゃ」
「ははは、十市殿はおわかりのようで。奥方様は、虎夜刃丸殿のことを、人の心がわかる子じゃとわしに申します」
「ほう、案外、本当かもしれんな。ははは」
そう言うと、両手を伸ばして幼子を高く掲げる。すると、虎夜刃丸は我に返ったかのように周囲を見渡し、そのぷくんとした顔をこわばらせた。
興味津々で砦の中を見て回っていた多聞丸は、柵に沿って周りを走る男たちに目を止める。
「五郎叔父、あの者らは何をしておるのじゃ。先ほどから砦の周りをただ走っておるようにしか見えぬが……」
「ああ、あれか。あれは千度巡り(尽度巡り)というてな、兄者が命じて何度もこの砦を回らさせておるのじゃ」
何気に応じる正氏に、多聞丸が小首を傾げる。
「何だ……勝利の願かけか」
「いやいや、逃げるために足腰を鍛えておるのじゃ」
「何、逃げる……まだ戦ってもおらぬうちからか。そのようなことでは勝てぬではないか」
その顔に不満の色を滲ませる多聞丸に、正成が歩み寄る。
「多聞丸。戦で最も重要なことは何じゃと思う」
「え……それはもちろん、勝つことにございます」
「いや、最も重要なことは負けぬことじゃ……」
そう言って、いつになく厳しい顔を多聞丸に向ける。
「……無理をして勝つことより、負けぬ戦いを続けることじゃ。さすれば自ずと勝機も訪れる。負けぬためには兵を大事にすることじゃ。兵が居なくなれば、いかに良将といえども勝てはせぬ。危なくなれば兵を逃してやる。そしてまた兵を集めて戦を仕掛ける。よいか、多聞丸。これが楠木の戦じゃ。いずれ持王丸、虎夜刃丸とともに、楠木の負けぬ戦を覚えるのじゃ」
頭の片隅にもないその解に、多聞丸は目を丸くする。
「は、はい、わかりました。肝に銘じまする」
多聞丸にとって父は、河内を見下ろす金剛山のように大きな存在であった。
ちょうどそこに持王丸が元気よく駆け戻る。その後ろから、左近が虎夜刃丸の手を引いて現われた。
正成は虎夜刃丸を抱き上げると、水分の方角に目をやる。
「虎夜刃丸、持王丸、多聞丸よ。河内の野山をよく見ておくがよい。わしはこの平穏な河内の野山を、戦で汚してしまう道を選んだ。罪深いことじゃ。されど、帝の命を違えることはできぬ。長い戦となろうが、必ず元の平穏な野山に戻すつもりじゃ。よいか、万が一、父が果たせなければ、お前たちで、この平穏な野山を取り戻すのじゃ。これは父の願いじゃ」
遠くを見るこの時の父の横顔を、虎夜刃丸は生涯忘れることはなかった。
鎌倉幕府は、楠木正成に赤坂砦を完成させる猶予を与えなかった。
虎夜刃丸らが砦を見物していた頃、帝が籠る笠置山は幕府の軍勢およそ一万に取り囲まれていた。さらに新たな軍勢も押し寄せる。正成は一刻も早く赤坂砦で挙兵し、幕府軍を引き付け、敵を分散させる必要があった。
この日、旅支度を整えた虎夜刃丸は、母に手を引かれ、兄の多聞丸・持王丸、女衆らと一緒に楠木館の外に出る。
目の前には、浅葱色の直垂の上に黒韋威の胴丸を身に着け、大鍬形の兜を被った正成がいる。その後ろに、家臣・郎党らが戦支度を整えて立っていた。
館の前で久子はあらたまり、瞬きもせずに正成の顔を見つめる。
「殿、御武運をお祈り致します」
「うむ。館に火を掛けることは、そなたに対しても心苦しいことである。されど、幕府軍の陣屋になってもらっては困る」
すると、久子が白い歯を見せる。
「わかっております。それに、隠れる先が勝手知ったる氏寺なら、我ら女こどもも安心です。どうか、後顧の憂いなきように。されど、これで楠木党には帰る館はありませぬ。今日からは赤坂の砦が楠木の館でございます。我らは赤坂城と呼ぶことに致します」
「赤坂城か……よし、今日からわしもそのように呼ぼう」
そう言いながら、正成は虎夜刃丸の頭に手をやった。
「殿、それがしは赤坂城に入れぬのが残念ですが、家宰として奥方様たちをしっかりお守りする所存。御安堵くだされ」
白い髪を侍烏帽子で隠した恩智左近が胸を叩く。正成の命で、虎夜刃丸らの供をして避難先に向かうことになっていた。
その横では、小振りの鍬形の兜を被った楠木正季が、妻と名残を惜しんでいる。名を澄子と言い、縁戚の甲斐庄家から嫁いでいた。妻となって年月が浅い澄子は、目を潤ませた。
胴丸に侍烏帽子の美木多正氏が、久子に歩み寄る。
「では義姉上、参りましょうか」
身軽な小具足(篭手や脛当など)だけの正氏は、兵糧調達のために、正成・正季とは別行動をとることになっていた。
その隣には妻の良子が、こどもらを連れて立っている。楠木の血縁である和田一族、和田良守の娘である。
二人の間に生まれた嫡男の満仁王丸は虎夜刃丸の三つ歳上。まるで祭りにでも行くがごとく、朝からはしゃいでいた。次男の明王丸は虎夜刃丸と同い歳。だが、半年以上早く生まれたので、足元もずっとしっかりしていた。そして、良子が抱く赤子はその二人の妹で倫子。やっと首が座ったばかりである。
澄子とは対照的に、良子は終始笑顔を絶やさない。良子なりの気遣いであった。
美木多正氏は、少数の兵を引き連れて避難先の氏寺への道を先導する。虎夜刃丸は久子に背負われ、その後を多聞丸らが続いた。
途中の小高い丘で、振り返った持王丸が、呆然として立ち止まる。
「母上、館が燃えておる。煙があのように高く……」
「父上の戦が始まった合図じゃ。よく見ておくがよい」
久子の言葉に、皆それぞれの思いを胸に、飛竜のように立ち昇る煙に見入った。
すすり泣く侍女の声も聞こえる。楠木党に戻る場所はもうない。賽は振られてしまった。
虎夜刃丸も久子の背中越しに、じっと煙を見つめている。
「この子も、ちゃんとわかっているのかもしれませんね」
何気ない澄子の呟きに、久子は静かに頷いた。
「では……」
と、正氏が一行に振り返る。
「……義姉上、ここでお別れじゃ。わしらはこのまま神福山を越えて五條で兵糧を調達する。良子、皆をよろしくな」
そう言うと、良子が抱く倫子の頬を、ごつい指でそっと撫でた。
虎夜刃丸ら一行が向かうのは観心寺。楠木の氏寺で、山号を檜尾山という。大宝元年(七〇一年)に役小角(役行者)が開き、後に弘法大師の弟子が再興して高野山真言宗の寺院となっていた。
日が暮れぬ間に、一行は観心寺に入った。
久子は背負っていた虎夜刃丸を降ろし、出迎えた僧侶に頭を下げる。
「院主様、此度はお世話になります。斯様な仕儀となり、一族を連れて院主様にご迷惑をおかけすることになりました」
「何の、迷惑などと。此度の正成殿の御決意、拙僧にも責任がありますので」
温かい笑みで一行を迎えたのは、観心寺中院の院主、龍覚である。龍覚は正成より二回りほど歳上。若き日の正成の学問の師であり、今は多聞丸と持王丸に学問を教えていた。
「拙僧は昔、若き頃の正成殿に、親への恩、衆生への恩、三宝(仏法僧)への恩、そして帝への恩という四恩を説いて参った。拙僧は此度の正成殿の決意を嬉しく思うております。さりながら、このことが逆に、楠木の女子らを、厳しい道にお誘い入れてしまうことになり、心苦しい思いもございます」
神妙な顔で頭を垂れる龍覚に、久子は微笑みで応じる。
「私は殿を信じております。殿の決意は間違ってはおりませぬ。院主様、我が夫はすごいのですよ」
「まあ、義姉上ったら」
精一杯お道化る久子に、良子ら女たちも笑いで応じる。戦で夫たちが命を落とすかもしれない中、女たちも涙をこらえるべく、心の内で戦っていた。
笑い声が落ち着いたところで、龍覚がこどもらにも目をやる。
「多聞丸殿、持王丸殿、よう参られた」
「院主様、此度はお世話になります」
しっかり者の多聞丸の挨拶に釣られ、持王丸も慌てて頭を下げた。
「こちらは虎夜刃丸殿ですな」
龍覚が屈んで正面に顔を据える。すると、母の足にしがみ付いていた手を放し、兄たちの仕草を真似てちょこんと頭を下げた。
龍覚が、顔の皺と変わらないくらいに目を細める。
「何と、賢き子よ」
迫る苦難の前の、和やかなひと時であった。
赤坂城は、笠置山から第一皇子の尊良親王を迎え、討幕の狼煙を上げる。これに対し、幕府の討伐軍が赤坂城を取り囲み、戦の火蓋が切って落とされようとしていた。
城には、楠木正成・正季兄弟の元、多くの者が籠城していた。恩地左近の嫡男で恩地満一、和田五郎高遠、神宮寺太郎正師、橋本八郎成員などの家臣や一門衆。加えて、大和の十市範高、和泉の八木法達など正成に合力する近隣豪族の与力衆からなる、総勢五百人である。
赤坂城を取り囲む幕府軍は日を追うごとに膨れていた。
櫓から麓の幕府軍を見ていた楠木正季が、渋柿を喰ったような顔をして楠木正成の元に戻る。
「どうであった、七郎(正季)」
「ううむ、すっかり囲まれた。一万は下らぬ」
「そうか。じゃがこれで済みそうにないぞ。治郎が悪い知らせを持ってきた」
正成の言葉を受けて、傍らの男が頷いた。男は武具も纏わず、頭には烏帽子の代わりに頭巾を載せている。名は服部治郎元成。正成の末妹、晶子が嫁いだ猿楽師である。大和国で猿楽を習得し、竹生大夫の名で、故郷の伊賀国小波多に座(小波多座)を構えていた。
服部氏は桓武平氏の末裔を名乗る伊賀の国人である。傍流の元成は、早くから武士を捨てて猿楽の道へと進んだ。正成の妹を駆け落ち同然に娶った元成は、負い目もあり、正成の手伝いをするようになっていた。
猿楽とは、もともとは神社に奉納する神事芸能である神楽の余興であった。滑稽な猿の物真似から発生し、歌や舞の要素を強めて神社の祭礼に用いられる芸能となっていった。
元成が率いる小波多座は、山の民、散所の民、山法師など怪しげな者たちの巣窟である。しかし、この者たちの諜報網と、大道芸で身に着けた軽業術は、正成にとって、世情を集めるのにありがたいものであった。
「七郎殿、笠置が落ちましたぞ。物見に送っていたそれがしの手の者が知らせて参った。笠置攻めの兵は、赤坂城に向かっているとのこと。すぐに二万にはなるでしょう」
元成の言葉に、正季は泡を喰う。
「何と、早々に笠置が……して帝は」
「落城前に抜けられたそうです。御無事に逃げおおせられればよいのですが……」
「兄者、どうする」
色めき立つ正季とは対照的に、正成は落ち着いていた。
「もし、囚われるようなことがあっても、まさか幕府も帝を手にかけることもあるまい。いずれ帝はお救い致す。そのためには、幕府との戦いを長引かせることじゃ。さすれば北条に不満を持つ諸国の武士が、必ず挙兵する」
「わかっておるが、この赤坂城は半分しか出き上がってはおらぬ。笠置にはもう少し持ちこたえてもらいたかった」
「そうじゃな。されど七郎、半分とはいえ策はある。存分に、我ら楠木の力を見せようではないか」
「承知じゃ。とうに腹は括ってある」
すでに正季には、兄を信じる道しか残されていなかった。
秋冷が赤坂城のある小山を包み込んだこの日、ついに、幕府軍の本格的な攻撃が始まる。
「これで城とは片腹痛いわ。このような砦などすぐに落としてみせようぞ」
「せめて一日でも持ってもらわねば、褒美にはありつけんな」
寄手の侍大将たちは、軽口を叩いて兵を率いた。
まずは、赤坂城の正面から先陣の一千が一気に進撃する。しかし、城からの反撃はない。兵たちは我先にと城の塀を目指した。
東夷が、土がむき出しとなった崖に、両の手を使ってへばりつく。
「くそ、こんな事までさせやがって」
「おお、そうじゃ。奴らめ、ただではおかぬ」
口々に文句を言いながら、急峻な山肌に手をかけて城を目指す。そして、早い兵は、あと少しで郭の塀に手が掛かるところまで迫った。
泥散る顔を上げた兵に向け、塀越しに恩地満一がひょいっと顔を覗かせる。
「よう、ここまでご苦労であったな」
「うっわっ」
不意のことに仰天した先兵が、足を踏み外し、急斜面を滑り落ちていった。
「よし、寄手は両手が塞がって矢を放つこともできぬぞ。者ども、よく狙って存分に矢をくれてやれ」
満一の合図で、身を潜めていた楠木の兵がいっせいに塀の上に顔を覗かせた。すかさず、塀の上から矢先を下に向け、思いっきり弓の弦を引く。そして、断崖を登ってきた一千の幕府軍に矢を放った。
「ぎゃあぁぁぁ……」
崖を登ることで両手が自由にならない幕府の兵たちは格好の的。抗う術もなく矢を受けて、次々崖を転がり落ちていく。これによって、先駆け一千のうちの二百がいきなり討たれる。すると、崖を降りて逃げようとする者と、崖を登ろうとする者で、寄手の兵たちは混乱をきした。
そこに、城の側面に隠すように配置していた和田五郎高遠が率いる五十の兵が、いっせいに矢を射かける。あっという間に先陣の半分、五百余の兵が壊滅した。
その頃、観心寺の近くの竹林の中で、十数人の身なり怪しき男たちが息を潜めていた。裸の上に直接、腹当を纏った者も居れば、兜だけ被った者もいる。その真ん中に、ひときわ大きな男がいた。
「お前らよく聞け。狙うは楠木正成の妻子じゃ」
「頭、本当にやるのか。わしはどうも気乗りがせん。楠木の殿様には昔世話になった。まして観心寺に討ち入るなど、何とも罰当たりな……」
頭目と思しき男の隣で、一人の若い男が尻込みする。
「笹五郎、何を気弱な。すでに赤坂城は幕府の大軍に囲まれておる。我らが何もせずとも、直に楠木は滅びる。ふん、馬鹿な戦に手を出したものよ。どうせ滅びる楠木じゃ。だったら、わしらの役に立ってもらおうではないか」
このあたりを根城とする野伏……というのもおこがましい、いわゆる山賊であった。
一同を見渡した頭目は、笹五郎の胸倉を掴み、血走った目で睨む。
「もう一度言う。狙うは楠木正成の妻子じゃ。他の者は切って捨ててもよいが、正成の妻子は幕府の陣に連れて行けば金になる。必ず生け捕りにせよ。よいな」
「わ、判った……じゃが、観心寺にも僧兵がおるぞ」
これに頭目は、ちっと舌打ちをして、笹五郎を突き飛ばすように放つ。
「抜かりはない。今日は観心寺の門主ら高僧たちが高野山に上っておる。その護衛で僧兵たちも出払った。今日は手薄じゃ」
頭目はにやにやと笑った。
観心寺の塀の中では、小僧がその塀に寄り添うように、しゃがんで草をむしっていた。ふと頭上を見上げると、山賊の一人が塀越しに身を乗り出して、寺の中の様子を窺っている。小僧は思わず息を飲み込んで身を屈めた。
塀越しに男たちの声が聞こえる。
「頭、本当にやるのか」
「笹五郎、まだそんなことを。裏切れば死あるのみぞ」
凄みのある声にびびったのか、あきらめたのか、返事は聞こえなくなった。
「楠木の女こどもは中院の建物にかくまわれておるとのことじゃ。奥方は三十、嫡男の多聞丸は十に満たぬ歳らしい。見つけたら生け捕りにせよ。他の者は切って構わぬ」
仲間に命じる威圧的な声が響いた。
(これは一大事じゃ。僧兵も出払っているというに)
口に手を当てたまま、小僧は心の中で叫ぶと、とにかく中院に走った。
「賊十人が奥方様と多聞丸様を狙って押し寄せます。は、早う、お逃げに……」
血相を変えた小僧の声に、久子はすぐさま、立ち上がる。
「良子、澄子、早う子らを連れて。多聞丸と持王丸は侍女たちと共に行くのです。左近殿、皆を頼みます」
対応は早かった。小僧の話を聞き終わらぬうちに、てきぱきと周りを指図した。
しかし、お守り役の恩地左近は、おろおろと周りに目を向ける。
「い、いったい、どこへ逃げれば……」
「阿弥陀堂の裏から山の中へ入れます。さ、早う」
小僧が指差す方へ、多聞丸と左近は皆を連れて駆け出した。
一人、中院の奥に向かおうとする久子に、持王丸が振り返る。
「は、母上、どこへ」
「虎が奥の間で寝ております。お前は気にせずに、さ、早う。清、頼みます」
侍女の清が強く頷く。
「さ、参りましょう」
清は拒む持王丸の手を引いて阿弥陀堂へと駆け出した。
中院の奥間に駆け込んだ久子は、寝ている虎夜刃丸を抱きかかえる。外へ逃げるのは諦めて、厨へと続く板間に入った。
小さな窓だけのそこは薄暗い。目を凝らすと、使わなくなった袈裟などの法衣を収める長持が三つ並んでいる。ただ、子供を抱いて隠れるには少々小さい。しかし、迷わず久子は右端の長持の蓋を開け、熟睡する虎夜刃丸のみ、そっと寝かせた。続けて、袈裟を上から無造作に置いて目隠し、再び蓋をしようとする。だが、思い直したかのように、蓋を開けたままにした。
息子を隠し終えて一息ついたところで、自らの置かれた状況に、今度ははっと息を飲み込む。辺りを見回しても身を隠せそうなところは無い。賊はそこまで迫っている。あせる久子は板場の端を踏み外し、土間に転げ落ちた。
観心寺を脱出した多聞丸らと入れ替わるように、山門から山賊たちが乗り込む。賊は行く手を制する数名の僧侶を切り倒して中へと進んだ。
中院に乗り込んだ頭目が、あたりを見回し、舌を打つ。
「ちっ、逃げたか……されど、まだ間に合う。追え」
一味がいっせいに駆け出たところで、がたっと物音が響いた。厨からであった。自らも外に出ようとしていた頭目は、その場に立ち止まる。そして、同じく止まった笹五郎を、顎で促した。
厨に入った笹五郎が女を捕まえてくる。久子ではない。逃げ遅れた下働きの中年女であった。
「奥方はどこへ逃げた。倅はどこじゃ」
頭目の問いかけに、女は怯えて顔を逸らす。
「わ、わかりませぬ。知りませぬ」
「言わねば切るぞ」
どすの利いた声に、女はがたがたと震える。
「ほ、ほ、本当に知りませぬ」
「そうか」
そう言うと、頭目はゆっくりと刀を抜いた。慌てて背中を向けて表へと逃げる女の肩から、袈裟掛けに刀を降り下ろす。
―― びゅっ ――
血しぶきが散った。
「くそ、つまらん時をとってしもうた。まだ逃げ遅れた女こどもがおるやも知れん。この中を探せ」
頭目の所業に眉を歪ませつつも、笹五郎は厨に入る。そして、ぐるっと見渡し、大きな米櫃の中や、野菜を入れた駕籠の中まで調べ始めた。
いまだ、久子は厨の中に居た。転んだ拍子に、土間と板場の間に僅かな隙間を見つけると、無我夢中で身体をねじ込んだのであった。
一方、頭目も厨に入り、板間に置かれた三つの長持に目を留める。そして、一段高くなった板間に飛び上がりその前に立った。
まず左端の長持の蓋を開け、中に刀の鞘を突き立て、法衣を掻き回した。居ないとわかると、真ん中の長持の蓋を開けて刀の鞘を突き立てて掻き回す。ここにも居ない。次に、蓋の開いた右端の長持に目を落した。
板場の下の久子は、虎夜刃丸が見つからないよう、必死に手を合わせる。
すると、願いが通じたのか、頭目は蓋の開いた右端の長持だけは、上から見ただけで、それ以上は調べることはなかった。
「頭、こっちには居りませんぜ」
そう言って、厨の中を探していた笹五郎が板間に上がってきた。
「いや、人の気配はある……隠れているのはわかっておるぞ……出て来なければ手当たり次第に刀を入れる」
頭目は、空気が震えるような野太い声を響かせた。
板場の下で息を殺していた久子は、掌の汗に気づく。すると、ずりずりと這って自ら男らの前に姿を見せた。
「ほう、そこに隠れておったか。歳の頃といい、その方が楠木の奥方か」
「いかにも。楠木の内儀です。さ、お連れすればよい」
土間に降り、土ぼこりにまみれる久子と向かい合った頭目は、首を傾げる。
「そうまでしておいて、妙に潔いな……まだ、ここに誰か居るな……そうじゃ、こどもじゃ」
「だ、誰も居りませぬ。さ、私を連れて行くがよい」
「いったいどこに隠した」
「だから、居らぬと言うておるではありませぬか」
疑いを払拭しようと、久子は強い口調で言い返した。
その時である。声に反応したのか、右端の長持の中の袈裟がむくっと動く。運悪く、その前に立っていた笹五郎の視界に入った。訝しがって、そっと袈裟を捲ると、そこには虎夜刃丸の寝顔がある。その様子を横目で追っていた久子は、すうっと血の気を失った。
一方、頭目は、笹五郎の態度にいらつく。
「おい、何をしておる」
「い、いや、何も」
何事も無かったかのように、笹五郎は手にした袈裟を虎夜刃丸の顔の上に戻した。そればかりか、長持の蓋までも閉めようとする。
だが、頭目は、その不自然な様子を見逃さない。
「笹五郎、まさかお前……」
そう言うと、板間に飛び上がり、笹五郎を押しのけて右端の長持に手をかけた。
ちょうど、その時である。中院の外が騒がしくなる。
「頭……」
山賊の一人が厨に駆け込んで、ばたりと前のめりに倒れた。見ると、その後ろに、血の付いた刀を手にする数人の武士の姿があった。
「な、何じゃ」
驚いた頭目は刀の柄に手をかける。そこを、数人の侍が取り囲んだ。
直後に凛々《りり》しい顔つきの武者が入ってくる。
「お主の仲間は、すでに皆、討ち取ったぞ。諦めて刀を捨てよ」
凛とした声に怯み、刀を持つ手をゆっくりと降ろす頭目であったが、一瞬の隙をみて切り掛かる。
「死ねっ」
―― ぎんっ、ざっ ――
いとも容易く、その武者は頭目の刀を跳ね上げ、一刀両断に切り倒した。相当に武芸に達者な者のようであった。
事が終わって茫然とする久子に、武者が声をかける。
「怪我はなかったか」
「あ、ありがとうございます」
久子は礼を言い終えると、小袖に付いた土汚れを払う間も惜しむように、すぐさま板間に上がり、まだ長持の中ですやすやと眠る虎夜刃丸を抱きかかえた。
「何と、そのようなところに童が」
その武者は、久子に振る舞いに呆気にとられた。
薙刀を持った僧兵姿の若者が、前に出て、こほんっと小さく咳払いする。
「楠木殿の奥方殿と承った。こちらは大塔宮様じゃ」
「大塔宮様……ということは、帝の三の宮様(第三皇子)……」
二の句を継げなくなった久子が、虎夜刃丸を抱いたまま、慌ててその場にひれ伏した。
大塔宮とは通称で、名を護良親王と言い、この時、数えて二十四であった。久子も正成より、笠置山で皇子に会ったことは聞かされていた。
若い僧兵がせわしなく続ける。
「あちらの御方は四条中納言様」
そこには金剛杖を支えに、疲労の表情を隠せない、四十頃と思しき男が立っていた。狩衣に胴丸姿のその公家は、帝の側近、権中納言の四条隆資である。
「その方、よしなに頼むぞ」
隆資は品よく扇で口元を隠しながら、久子に声をかけた。
「そして、わしは赤松則祐。播磨の赤松円心が三男じゃ」
まだ十八の若者だが、延暦寺で受戒し、諱の則祐を読み変えて、法名を則祐としていた。だが、護良親王の還俗に従って自らも還俗する。しかし、法体姿を気に入り、名も則祐のまま通していた。これは長兄の諱(範資)と読みが同じという事情もあったからである。
播磨の豪族、赤松円心(則村)の名は久子も知っている。円心の弟に、正成の親族が嫁いでいたため、楠木と赤松は遠縁でもあった。
寝ている虎夜刃丸を抱いたまま、久子は護良親王に向けて、よりいっそう頭を低くする。
「危なきところをお助けいただき、ありがとうございました。虎夜刃丸に何かあっては、夫、正成に合わす顔がありませなんだ」
「虎夜刃と申すか。斯様な中、落ちついたものよのう。いずれ大物になるぞ。ははは」
親王の破顔を見ることもなく、ひれ伏し続ける久子が、恐る恐る口を開く。
「あの……なぜ宮様(護良親王)がこのようなところへ」
「それは麿が答えて進ぜよう……」
応じたのは、四条隆資である。
「……笠置が落ち、それぞれ散り散りとなって山を下りた。帝は他の公卿らとともに落ち延びられた。宮(親王)は麿らとともに正成が籠る赤坂城へ向かう途中じゃ。ところが、赤坂城はすでに幕府方に囲まれて入るのは難しい。そこで、正成から縁があると聞いておったこの寺へ参ったのじゃ」
公卿とは、主に三位以上の官位を持つ者のことである。その一人、隆資の言葉にもひれ伏し続ける久子に、親王がううむと頭をかく。
「奥方、ここは内裏ではないぞ。いつまでも伏しておったのでは話も出来ぬ」
言われて、久子は少し頭を上げ、何か言いたげな素振りを見せる。
「ん、何か我にたずねたきことがあるのか」
【注記:貴人の一人称として用いている『我』は本来『身』と書くが、本作ではわりやすいよう『我』と記載する】
「恐れ多きことなれど、宮様が斯様にお強い方とは夢にも思いませなんだ。宮様といえば……」
はっと気付いて、久子は言葉を飲み込んだ。
その様子に、護良親王が笑いながら久子の心情を探る。
「宮といえば、内裏の奥で青白き顔をした女子のような男のはず。この男、本当に宮であろうか……といったところか」
「い、いえ、滅相もありませぬ」
「いや、よい。もっともな疑問じゃ。我は父帝から天台座主(延暦寺の主席僧侶)を命ぜられ比叡山へ下った。じゃが、どうも仏の道は生に合わん。だから、荒くれた僧兵を相手に刀、薙刀、弓の稽古ばかりしておった」
「そして、今では宮様に敵う僧兵は居なくなってしもうたそうじゃ……」
ほほほと笑いながら四条隆資が話を括り、続けて本題に入る。
「……ところで、我らは正成に会わなければならん。ここで奥方殿に会うたのも観音様のお導きであろう。赤坂城へ入る手立てはあろうか」
「それであれば、正成が舎弟、美木多正氏が、尾根伝いに城の外から兵糧を運び入れておりまする。観心寺に参るよう使いを出します」
「うむ、奥方、助かったぞ」
護良親王のねぎらいに、はっと思い出したように、久子は再び平伏した。
皆の頭から忘れ去られていたのが、山賊の笹五郎。逃げる機会を失い、長持の後ろに身を隠し、気まずそうに耳を傾けていた。
これに、赤松則祐が気づく。
「まだ一人残っておったか。観念せよ」
「ま、待て、待ってくれ」
身を縮める笹五郎に向けて、則祐が薙刀を振り上げた。
「赤松殿、お止めくだされ。その者は山賊の一味なれど、隠していた虎夜刃丸を見て見ぬふりをし、開けておいた長持の蓋まで閉めて、隠そうとしてくれました。きっと根は正直な者でございます」
すると則祐は、その顔から不満をこぼしつつ薙刀を戻す。
「奥方殿に命を助けられたな。早々に立ち去るがよい」
ばつが悪そうに、笹五郎は久子にちょこんと頭を下げて立ち去った。
護良親王が、久子に向けて首を傾げる。
「虎夜刃丸が寝ていた長持、蓋が開いていたじゃと。何故、蓋を閉めなんだのか」
「はい、蓋を開けておけば、まさか、そこに隠れていようとは思わず、見逃すのではないかと思いまして……」
「ふうむ、人の思い込みを逆手に取ろうということじゃな。我もこの先、身を隠すことになれば、使わせてもらおう」
親王は久子の機転に舌を巻いた。
笠置山を落とした幕府は、落城寸前に脱出した帝(後醍醐天皇)の行方を懸命に探した。そして、道に迷って三日三晩、山中を彷徨っていた一行を見つけて捕えた。帝は他の皇子や公卿らと一緒に、自らの足で赤坂城を目指していたところであった。
幕府は帝を、京の拠点である六波羅へ送り、南館に幽閉した。この一連の事変は、時の元号にちなんで『元弘の変』と呼ばれる。
今上帝の追捕は前代未聞である。が、すでに帝が京を脱出して笠置山で挙兵した時点で、幕府は皇太子の量仁親王を強引に新帝(光厳天皇)として即位させ、帝(後醍醐天皇)を先帝として扱っていた。しかし、新帝は後醍醐天皇の子ではない。
この頃の皇家は、後深草天皇を祖とする持明院統と、亀山天皇を祖とする大覚寺統とに分裂していた。そして、両統迭立といって幕府の裁定で、ほぼ十年おきに交互に皇位についていた。後醍醐天皇は、大覚寺統の兄帝、後二条天皇が崩御し、その世嗣、邦良親王がまだ幼少であったため、中繋ぎとして大覚寺統の中で擁立された一代限りの帝であった。一方、新帝となった光厳天皇は持明院統の帝である。
幕府は、先帝を拘束したことで、笠置山の鎮圧軍を赤坂城に差し向ける。結果、総勢五万の兵でこれを取り囲んだ。
総大将は、笠置山を落した北条一族の大仏貞直。城攻めの先陣が大敗したと聞いて、眉間にしわを寄せる。
「たわけが。あの城を見て侮ったのであろう。梯子やかぎ縄を用意させ、先頭の兵は城にとりつくことだけに専念させよ。これとは別に矢を射かける兵を付け、先駆けの兵と組にして攻めさせるのじゃ」
出鼻をくじかれた討伐軍は、今度は慎重に城を囲む。弓矢をもった兵を背に、先頭の兵たちが梯子をかけた。
「よいか、者ども。かぎ縄を塀にかけて一気に登れ」
現場を指揮する大将の一人、金沢貞冬が声を上げた。
背後で弓を引く兵たちの援護を受け、先駆けがいっせいに塀によじ登る。だが、城からの反撃はない。
まさに、一番乗りの兵が塀を乗り越えようとした時であった。
「よし、今だ。切れ」
塀の内側から様子を窺っていた楠木正季の合図を、恩地満一ら楠木の諸将もいっせいに復唱した。
次の瞬間、塀をよじ登っていた幕府の兵は、天地が逆さになる。かぎ縄をかけていた塀が、塀ごと城の外へ崩れ落ちたからである。塀と見えていたのは、本当の塀の外側に巡らせた偽の塀であった。
その塀とともに落ちた兵は、後に続こうと待ち構えていた下の兵を巻き添えにして、さらに下へと転がり落ちていった。続けて上から丸太が転がり落ち、寄手の兵らにとどめを喰らわす。この一瞬の出来事で、幕府軍は数百の兵を失った。
現場を指揮する金沢貞冬は、わなわなと肩を震わせ、目を吊り上げる。
「おのれ、卑怯な小細工ばかりしおって。されど、それも、もう尽きようぞ。続けて兵を送り一気に城を落せ」
貞冬の激に、幕府軍の二陣、三陣が崖をよじ登り、雲霞のごとく赤坂城に纏わりついた。攻め上がった兵が、再び塀にたどり着く。すると今度は、城の中から多数の柄杓が塀の外に付き出す。寄手の兵たちは、あっけにとられ、ぽかんと口を開けて柄杓を見上げた。
その瞬間である。
「ぎゃ、熱」
「うお」
「目が、目が」
柄杓から降ってきたのは熱湯であった。あちらこちらでわめき声が上がり、兵が崖を転がり落ちていった。
別の塀からは、それとは異なる類の悲鳴が上がる。
「な、なんじゃ……こ、これは、糞ではないか」
「うげ、わしは顔に被ったぞ」
「おのれ、鎌倉武士を愚弄しおって」
糞尿を被り、頭に血を上らせる兵たちだが、次は一瞬で血の気が引く。上から大岩が転がってきたのだ。思わず身を屈めた兵たちを、大岩は構わず巻き込み、崖下へと転がり落ちていく。
幕府軍は、あちらこちらで楠木軍に翻弄され、とうとう攻撃の中断を余儀なくされる。
幕府本陣の後方に、丸に二つ引き紋の旗指物が立っている。幕府の有力御家人で、大将の一角でもある足利氏の陣であった。
「兄者、今日の戦だけで、幕府軍は五百を超える兵がやられた。なんということじゃ」
「うむ、楠木というのは只者ではないな。どのような奴か、会うてみたいものよ」
「何を呑気な。城攻めに加われとの御沙汰が下れば、我らも兵を失うぞ。こちらも何か策を考えておかねば」
「大丈夫、そのようなことにはならん。幕閣は、そろそろ力攻めを止めて頭を使う頃であろう」
二人は、棟梁の足利高氏と二歳違いの弟、足利直義であった。
足利氏は、天下第一の武勇の士と言われた、八幡太郎こと源義家の子孫である。同じく子孫であった源頼朝の源家が滅んだ後は、最も義家の嫡流に近い名門氏族といえた。代々、北条得宗家とも姻戚を結び、幕府の中でも有力な地位を築いている。
亡き異母兄の代わりに当主となった高氏は、いかにも御曹司といったおおらかな佇まい。同じ母から生まれた直義は、何ひとつ乱れの無い着衣が、几帳面で堅気な性分を物語っていた。
「直義、楠木の戦いは坂東武者の戦い方とは異なる。我らは、蒙古の襲来に戸惑った折の鎌倉武士と同じじゃ。こういうときには焦って動かず、相手の戦振りをよく見ることじゃ。のう師直」
目配せした相手は足利の家宰(家老)、高師直である。もっとも、足利では家宰と言わず、執事と称した。
その師直がぎろっと大きな目を返す。
「御館様、仰せの通りですが、いかんせん多勢に無勢。善戦しても赤坂城は遅かれ早かれ落ちまする。時機を逃すと手柄は我らの手元には参りませぬ」
「師直の言う通りじゃ。何もできなんだでは足利の面子にもかかわる」
「ふむ、誰に対する面子じゃ。鎌倉の得宗殿(北条高時)か。何、気にすることはない。ここ一局の手柄より時局が大切じゃ。楠木とはどのような者かのう。そちらの方がよほど興味深い」
そう言うと高氏はおもむろに立ち上がり、招集を受けていた本陣へと足を向けた。まったく心ここにあらずといった風である。
その態度に直義と師直は呆れ、互いに目を合わせた。
その日の夕刻、観心寺に美木多正氏が駆け付けた。夜陰に紛れて、護良親王と四条隆資らを赤坂城へ案内するためである。見送りで寺の山門に集まったのは、久子と多聞丸、持王丸、恩地左近、それに観心寺の龍覚などの面々であった。そこには、侍女の清に連れられた虎夜刃丸の姿もあった。
「虎夜刃丸、次に会う時は、討幕が成った後かのう」
護良親王は親しげに笑みを浮かべて虎夜刃丸の頭を撫でる。すると虎夜刃丸も満面の笑顔で応じた。
「宮様(護良親王)、お気をつけて。五郎殿(正氏)、くれぐれもよろしく頼みましたぞ」
「義姉上、承知しました。それでは行って参ります。皆様方、いざ」
やや緊張した面持ちで、正氏は親王の一行に出立を促した。久子らは深々と頭を下げる。虎夜刃も皆を真似て、頭を低くして見送った。
幕府軍の本陣では、総大将の大仏貞直が、足利高氏をはじめとする諸将を集めていた。
「敵は急ごしらえ。籠城の蓄えも直に尽きるであろう。鼠一匹取り逃がさぬよう取り囲め。城からの抜け道をすべて押えろ。水汲み場も全て探し出すのじゃ」
「は、承知」
北条一門の金沢貞冬が頭を下げる。高氏も、周囲の顔色を窺って軽く頭を下げた。
「城を囲んだ兵どもに命じよ。時折、城に向けて矢を放ち、敵を城に釘付けにせよ。城へ攻め込む必要はない。功を焦る必要はない。一人の敵も城の外に出さぬよう、我が命を全ての陣に下知せい」
「承知しました。ではさっそく」
貞直の下知を各陣に伝えるべく、側近が頭を下げて走り去った。
「ちっ、楠木め……」
これ以上の恥辱は、名家に生まれた貞直には、許されないことであった。
幕府軍は赤坂城を囲み、城に矢を放って楠木の兵を釘付けにした。赤坂城からは、これに応じるように、時折、塀の上から矢を射返す。その中には観心寺から入った帝の第三皇子、護良親王の姿もあった。
赤坂城にはすでに旗頭として担いだ第一皇子、尊良親王がいた。よって楠木正成は、二人の皇子を奉じていた。
本丸(主郭)の陣屋に座したままの尊良親王と違い、護良親王は側近の赤松則祐を連れ立ち、前線で敵と対峙する。
―― ばっびゅっ ――
「うぅ、宮様にしておくのはもったいない……」
楠木正季は護良親王の剛弓に、思わず本音を漏らし、慌てて手で口を押えた。
その隣で正成も目を見開く。
「ほんに、日本武尊のようじゃ」
日本武尊とは古代の景行天皇の皇子で、九州の熊襲や東国の蝦夷を制圧した英雄である。
「日本武尊か……されど、一人では荷が重い。正成は四道将軍を知っておるか」
「はっ。確か、第十代、崇神帝の御代。大和から四方に遣わされた吉備津彦命ら、四人の宮将軍ではなかったかと」
崇神天皇は、その日本武尊の曾祖父で、四人の皇族将軍を各地に進軍させて日本を統一した古代の帝である。
「ほう、よく存じておるのう。正成は武勇だけでなく、知識も豊富とみえる。幕府を倒し朝廷中心の政を行うためには、再び源頼朝の如き者を世に出さないことが肝要じゃ……」
矢を射る手を止め、その瞳に熱い思いをたぎらせる。
「……そのためには、朝廷自身が武力を持つ必要がある。陪臣を将軍に任じるのではなく、皇子がその任にあたらなければならん。我が弟たちもいずれ立つことであろう」
「ははっ」
正成は頭を垂れるが、武家が力を持つ現実の世と、その高潔な理想との差に、返す言葉を見つけられずにいた。
赤坂城の外では正成の舎弟、美木多正氏が、竹生大夫こと服部元成を前にして頭を抱えていた。幕府軍が赤坂城へ繋がる道という道に兵を配置したため、兵糧を運び入れることができなくなっていたからである。
「寄手の兵がこれほどとは……」
「せっかく掻き集めた兵糧も、これでは運び入れることができませぬ」
二人は苦々しい顔で、遠くの赤坂城に目をやった。
それから半月後、楠木正成らが籠城する赤坂城。兵たちの顔には疲労の色が見てとれた。
「殿、もうすぐ兵糧が尽きまする。何より水がありませぬ。もってあと二日かと」
恩地満一が深刻な表情で訴えた。兵糧だけでなく、赤坂城に引かれた水源も、幕府に見つかって抑えられていた。
だが、窮状を聞いても、正成は特に慌てる素振りを見せない。
「そうか。皆、ここまでよく耐えてくれた。満一、兵糧は今宵、残り全てを兵に与えよ」
「では殿、いよいよですな」
「うむ。今宵は、ほどよい風が吹くであろう。七郎(正季)へ手筈のとおり動くよう伝えよ。わしは宮様方のところに行って参る」
そう言うと、本丸(主郭)にある陣屋に向かった。
そこには尊良親王と護良親王の他に、中納言の四条隆資や近習の赤松則祐らが、汚れた衣服をそのままに、土気色の顔で座っていた。
楠木正成は一礼をして、書状を護良親王に手渡す。そこには服部元成らを使って調べた、諸国の気骨ある武士の名が書かれていた。
「なるほど、これらの者に令旨を出せばよいのじゃな」
「御意、幕府を倒すためには、諸国に討幕の機運を創生することが肝要でございます」
書状から顔を上げた護良親王は、兄宮の尊良親王と顔を合わせ、ゆっくりと頷いた。
「それと、今宵、砦のあらゆる建物に火を放ちまする。この騒ぎで敵が城に入り込んできた時が、脱け出す機会にございます。恐れ多きことなれど、宮様方におかれては雑兵の身なりに御成りあそばせ、少人数に分かれてお逃げください」
「そ、それは……」
「いや、我は、それで構わん」
心配する中納言の隆資を、平素おとなしい尊良親王が制した。
「中納言は、ちと上品すぎる顔だちゆえ、雑兵は似合わぬのう。そうじゃ、頭を剃って僧侶となって逃げるがよかろう」
護良親王の戯言に、隆資は見えもしない自分の頭を見るように、黒目を上に動かす。
「坊主となるかはさておき、では後に五條で落ち合いましょう」
掌で自らの頭を撫でながら、両親王に応じた。
その夜、夕刻から吹きはじめた風が草木のざわめきを呼び起こし、遠くの音を遮った。
幕府軍は、家主を追い出した庄屋の屋敷を本陣としていた。中では総大将の大仏貞直を囲うように、諸将が床に腰を下ろしている。中に足利高氏の姿もある。腕組みをして、つまらなそうに目を瞑っていた。
大将の一人、金沢貞冬が諸将を見渡す。
「兵糧攻めにして半月、赤坂城からの返し矢もなくなった。物見の話では、餓死者も出ている模様。明日が総攻めの頃合いかと思う」
高氏も同意見である。しかし、討幕の戦が片付いてしまうことを、少々残念に思っていた。
「失礼つかまつる……」
唐突に守備兵が駆け込んでくる。
「……城に火の手が上がりました。城のあちらこちらで建物が燃えている様子にございまする」
「なに、城が燃えていると」
そう言って、大仏貞直が立ち上がる。すると諸将もいっせいに立ち上がり、陣の外に出て赤坂城を見上げた。
「これはまさに……」
「うむ、城が燃えておる」
「観念したということであろう」
「では、自決ということか」
互いに目配せしながら、諸将が口々に呟いた。
「兵を集めてすぐに城へ向かえ。中がどのような状況か知らせよ」
追い立てるように、総大将の貞直が側近に命じた。
翌朝、足利高氏は、舎弟の直義、執事の高師直を従えて赤坂城に入った。本丸は陣屋や櫓が焼け落ち、怪我をして動くことができない楠木の残兵があちこちにいた。
「兄者、あっけない幕切れであったな。されど、万を超える幕府の軍勢を、たかが五百でよく一月半も持ちこたえたものじゃ」
感心する直義をよそに、高氏は無言で城内を見て回った。
城の中で情報を集めていた師直が、高氏らの元に戻ってくる。
「怪我をして城に残っていた者どもの話です。楠木正成は、宮様らとともに、火の手の上がる陣屋の中で、自決したとのことです」
「亡骸を確認したのか」
「はい、当人と思しき兜の亡骸が、焼け跡から見つかりました。見られますか」
「いや、やめておこう。どうせ猿芝居じゃ」
高氏は意外な言葉で応じた。
すると、直義が、まさかと目を向ける。
「兄者は、正成が死んでいないと思われるか」
「確証はない。じゃが、そのうちにわかるであろう」
その推察に、直義は顎を撫でながらううむと唸った。
麓に陣取る総大将、大仏貞直の元にも知らせは届く。
「申し上げます。焼け落ちた陣屋の跡から楠木正成と思しき兜首が見つかったそうです。負傷して逃げ遅れた残兵に確認をとったところ、正成の亡骸に違いないと泣き崩れております」
「そうか、これで鎌倉の得宗殿(北条高時)への面目が立つ。首は見せしめにさらしておけ」
貞直はどがっと床几に腰を落とし、やれやれと肩を叩いた。
観心寺の薄暗い本堂の中に、中院院主、龍覚の読経が響く。その後ろでは久子ら楠木の女こどもが、男たちの無事を祈って本尊の如意輪観音に手を合わせていた。
幼子にとっては苦痛の一時でしかない。虎夜刃丸と同じ歳の従弟、明王丸はすぐに飽きて泣いたため、兄の満仁王丸が外に連れ出していた。だが、虎夜刃丸は我慢強く母の隣に座っていた。
厳かな読経は、本堂に駆け込んできた恩地左近によって遮られる。
「奥方様、大変でございます。赤坂城が……赤坂城が、落ちたとのことでございます」
その顔に生色はなかった。
一同に緊張が走る。幼い虎夜刃丸も大人たちの雰囲気を感じ取り、思わず母のひざにしがみ付いた。
「左近殿、本当ですか。それで、殿はいかに」
「それが……」
言いかけて、左近が口ごもる。その様に、倫子を抱いた良子が、澄子と顔を見合わせて息を飲んだ。
「言ってください」
強い口調の久子に、左近は重い口を開く。
昨夜、赤坂城内の陣屋や櫓などからいっせいに火の手が上がり、朝には幕府軍が赤坂城を占領した。そして、そこには、正成・正季と思われる大将たちの、自害して果てた遺体があったという。
一瞬、場が凍りつき、正季の妻、澄子はわっとその場に泣き崩れた。続いて他の女たちも声を洩らして涙する。虎夜刃丸は、周囲のただならぬ様子に、不安げに久子の顔を見上げた。
そんな一同の様子に、多聞丸が立ち上がる。
「母上、叔母上。父上たちは死んではおりませぬぞ。父上は赤坂城から逃げる手筈を周到に考えておいででした。負けぬ戦をすると言っていた父上が、簡単に自害などするはずないではありませぬか」
まだこどもだと思っていた多聞丸の言葉に、久子は心を鎮める。
「そうですね。多聞丸の言う通りです。皆、殿からの知らせを待ちましょう」
「は、はい」
実の姉とも慕う久子の言葉に、澄子も涙を拭った。
翌日、観心寺の山門でちょっとした騒ぎが起きる。
寺では、山賊が乱入して以来、僧兵がものものしい警備を行い、見知らぬ者を追い払うようにしていた。その山門で、小汚い頬被りをした百姓が寺の中に入ろうとしたため、僧兵たちとの間で押し問答が起きていた。
その騒ぎに、中院院主の龍覚が駆け付ける。百姓は龍覚の顔を見ると、ほっと息を吐いて頬被りを取った。
「こ、これは、七郎殿(楠木正季)でしたか。よくぞ御無事で。赤坂城が落ちたと聞き、心配しておりました。正成殿や宮様方(尊良・護良親王)も御無事ですか」
「宮様方も兄者も大丈夫です。これも、如意輪観音様のお導きです」
これに、龍覚は胸を撫で下ろす。
「さ、奥の方へ。女衆がさぞお喜びになるでしょう」
正季は龍覚の後に続いて中院の宿坊に向かった。
宿坊の上がり端。楠木正季の姿に気づいて、真っ先に駆け寄ったのは、妻の澄子である。
「お、お前様、よくぞ御無事で」
「その方たちが難儀にあったことは、大塔宮様(護良親王)から聞いておる。苦労をかけたが、お互い無事で何よりじゃ」
「お前様……」
そう繰り返すと、緊張の糸が切れたかのように、その場でへたり込んだ。
逆に虎夜刃丸は元気よく正季に飛びつく。
「おお、虎夜刃」
嬉しそうな虎夜刃丸を、両手で高く掲げてから下に降ろした。
その後から久子も、多聞丸らと一緒に駆け寄る。
「七郎殿、皆、御無事ですか」
問いかけに正季は、憂慮を吹き飛ばすように爽やかな笑みを返す。
「兄者も無事じゃ。宮様方も火を掛ける前に城を抜けられた」
「そうですか。でも、伝え聞く話では赤坂の城が落ち、楠木の者は自害したと……殿の首が晒されているとも聞き、気が気ではなりませなんだ」
「それも兄者の謀事。その首は、討死した兵を身代わりにしたのじゃ。兄者はすでに次の戦の備えに取り掛かっておる」
「そうですか……」
気丈に振る舞っていた久子も、その場にへなへなと座り込んだ。
「此度の戦では、十分な戦の備えができない中で戦わねばならなんだ。兄者は、次はしっかりと備えを行う必要があると言うておる。城造りに、女こどもも働いてもらいたいとのことじゃ」
「殿が我らにそのようなことを」
座ったまま、久子がぐるっと首を回して皆の反応を窺う。
すると、澄子が訴えるように視線を返す。
「義姉上様、ここで心配するよりも、殿方と一緒の方がいかに心強いことか。ぜひ、城造りを手伝わさせてくださいませ」
「ええ、私とて同じ思いです。七郎殿、喜んでお手伝いしましょう」
「やった、戦の手伝いができるぞ」
久子の発言に喜んだのは虎夜刃丸の次兄、持王丸であった。
しかし、恩地左近は釈然としない表情を浮かべる。
「七郎殿、城造りというても、赤坂城は幕府の手に落ち申した。如何するおつもりじゃ」
「今度の城は千早じゃ。金剛山の麓の支峰に城を造る」
「まあ、あのようなところに……土地の者でも行かぬようなところに城を造って意味があるのですか」
良子が目を丸くした。
無理もなかった。千早とは里からずいぶんと離れた奥山である。
「あはは。義姉上、大丈夫でござる。意味がなければ意味があるようにすればよい……これは兄者の言葉じゃ」
「わかりました。とにかく我らは殿を信じてお手伝いするだけです」
久子の言葉に澄子も強く頷く。一同に活気が戻っていた。
すると、良子が倫子を抱いたままに、小さく拳を上げる。
「よし、では皆で頑張りましょうぞ」
座り込んでいた久子と澄子も立ち上がり、輪の中心となって、こどもたちと一緒に拳を突き上げる。
「おおぉ」
遅れて、虎夜刃丸も拳を上げる。
「おぉ」
その無邪気な姿が、これから始まる困難な戦を、ほんの束の間ではあるが、皆の頭から消し去った。