第25話 樟葉道心
正平十四年(一三五九年)、正儀は数え三十歳となる。
この年の四月、南朝の帝(後村上天皇)の尊母である、新待賢門院こと阿野廉子は病床にあった。先帝(後醍醐天皇)が崩御した後も仏門に入らず、南朝の国母として権力を振い続けた。その廉子も、一年半前には髪を降ろし出家していた。
正儀は妻の徳子と連れ立ち、天野山の行宮に、阿野廉子を見舞う。徳子が伊賀局として廉子の側にいたときから、すでに五年が経っていた。
二人が部屋に入ってきたことに気づくと、廉子は身体を起こそうと試みる。しかし、すぐに周囲の女房に制される。
「熙成親王の立太子の儀を見届けたいと思うておりましたが、それも叶わぬようです」
「どうか、御院様(廉子)、お気を強くお持ちになってください」
傍らに座った徳子は、そう言って廉子の手を握った。
すると廉子は微笑みを返し、正儀へも眼を向ける。
「河内守(正儀)、阿野中納言(実為)とともに、どうか、熙成親王を支えてやってくだされ。わらわが居なくなると、宮がどのようになるのか、気掛かりなのじゃ」
熙成親王は廉子の大姪である阿野勝子が生んだ子で、十歳になっていた。
「御院様、この河内、命に代えても宮様(熙成親王)をお守り致します。御安堵召されませ」
「ありがとう河内守。そなたの父は先帝(後醍醐天皇)が最も頼りにしていた武将です。湊川で正成を亡くしたこと、先帝は後悔されておられました。献策に耳を傾けるべきであったと……先帝に代わり、わらわが謝ります。河内守、すまないことをしました」
「もったいなきお言葉。御院様、その言葉だけでそれがしは十分にございます。どうぞこれ以上、お気に召されませぬように」
正儀は身を正して頭を下げた。
重ねて徳子も気遣う。
「お身体にさわります。御院様、今日はもうお休みくだされませ」
「伊賀局(徳子)、わらわは大丈夫じゃ。もう少し河内守と話をさせてたもれ」
徳子は頷き、廉子の手を優しく擦る。
「河内守、そなたは幕府と和睦を進めるべきと考えておるのか」
「御院様、それがしはたびたび、京へ討ち入って幕府と戦いました。されど、幕府を攻め滅ぼすことはできませんでした。それは、諸国の武士が幕府を求めておるからではないかと思うのです。建武の御代にお戻しすることは、それがしにはできそうもありませぬ。されど……」
「されど……」
「されど、主上(後村上天皇)と幕府が和睦し、手を携えて政を行う世にすることは可能と存じます。それが主上をお守りする唯一の方法と、それがしは思うております」
そう言うと、正儀は申し訳なさそうに目を伏せた。
廉子は正儀の話を聞き終わると目を瞑る。
「それが御上をお救いする道なのですね。それしかないのであれば、気兼ねせずにやってみられるがよい。阿野中納言がきっと力になってくれます。かつて正成も足利尊氏と和睦するよう先帝に献言されました。やはり親子ですね」
決意に満ちた目で、正儀は顔を上げる。
「必ずや、帝を京へお戻し致します」
その言葉に、廉子は微かな笑みを浮かべ、頷いた。
それから半月後の四月二十九日。廉子は四十九歳で亡くなった。墓は、楠木氏の菩提寺でもある観心寺に作られた。その死は、徳子を通じて知遇を得ていた正儀にも影を落とすことになる。
五年前には廉子の政敵、北畠親房が亡くなり、そしてこの度、その廉子も亡くなった。建武の御代に大塔宮派と隠岐派として始まった二者の対立は、この後、新たな世代に別の形で受け継がれる。
阿野廉子が亡くなったことに、ほくそ笑む者がいた。北畠親房の三男で、跡継ぎの北畠顕能である。
その妹は、帝(後村上天皇)の中宮、北畠房子。父の親房が、頭中将、中院具忠と恋仲にあった房子を、強引に帝に輿入れさせたことで悲劇が生じた。
房子は中宮になった後も、具忠への思いを断ち切ることができずに密会を続けた。そして、八幡合戦での具忠の死をきっかけに、自責の念にかられ、帝に全てを吐露したのである。
これに親房は激怒し、密会の場所を提供した賀名生の庄屋一家を、問答無用に首を刎ねた。すると、これに怒った民が一揆を起こし、一時、帝が行宮から避難するまでの騒ぎに発展する。この事件が、顕能の人生を狂わせのであった。
帝の怒りは当然としても、帝以上に怒りを見せたのが、尊母の廉子である。帝は母の進言を聞き入れ、親房に蟄居を命じるとともに、跡継ぎの顕能に対しても、廟堂への出仕を停止した。廉子の目の黒いうちは、顕能は領国、伊勢に引き籠らざるを得なくなる。
ただ、廉子が亡くなっても、顕能の立場は微妙であった。廟堂で親房を支持していた左大臣の洞院実世が、前年に亡くなっていたからである。
顕能は、自らの力となってくれる人物として権大納言となっていた四条隆俊を頼り、密かに賀名生の四条邸で会う。
「これは四条大納言様、わざわざ、痛み入りまする」
「いえ、北畠様、こちらこそご無沙汰を。あれからどのようにされておられました」
上座から隆俊が同情の眼差しを向けた。
「廟堂への出仕におよばずとの命には、正直、落胆いたしました。されど、その間、伊勢国の経営に力を注ぐことができました」
「伊勢半国を手中に収められたとか。さすがは准后様(親房)のお血筋であらしゃいますな」
「麿が動かせる兵は、今や万を越えております」
隆俊は目を丸くする。
「それだけの兵であれば、楠木を頼らなくてもよいですな」
「楠木がいかがされましたか」
顕能は、隆俊が正儀を嫌っていたこともよく知っている。だが、あえてそのことを問うた。
これに、隆俊は苦々しい表情を浮かべる。
「楠木は、新待賢門院様(廉子)の覚えめでたいことをよいことに、公卿(三位以上)でもないのに、たびたび、御上にお会いしておった。今では阿野中納言とともに、熙成親王の後見人気取りじゃ」
「では、二の宮様(熙成親王)が次の帝に御成りあそばせば、朝廷は、土豪あがりの楠木が兵馬を牛耳り、成り上がりの阿野家が政を取り仕切るようになるやも知れませぬな」
「何と恐ろしき事か。そのようなことになっては、父上(四条隆資)に面目が立ちませぬ」
「それは麿とて同じことでございます。父、親房が作ろうとしていた帝の世は、断じてそのようなものではございませぬ。四条様、ここは手を携えて、ことにあたってはいかがかと……」
興味深そうに耳を傾ける隆俊を確認して、顕能は話を続ける。
「……それは、一の宮様(寛成親王)のことにございます」
寛成親王は、熙成親王の兄宮で、顕能の姉、顕子が帝の女御となって産んだ子であった。親房の後ろ盾もあり、一時は東宮(皇太子)を期待されていた。だが、顕子が亡くなり、帝が寵愛する阿野勝子に熙成親王が生まれると、状況が変わる。そこで、親房は策を弄して顕子の妹、房子を、中宮(皇后)として帝に輿入れさせた。中宮に皇子ができれば皇位継承の一番手になり得えるからである。結果、寛成親王は、親房からも忘れられた存在となっていた。
「一の宮様を我らでお支えし、次の帝にお据え奉ればと存じます。宮様をもう一度、表舞台にお迎えするには、新待賢門院様(廉子)がお亡くなりあそばせた今が機会かと存じます」
「なるほど、よき案でございますな」
隆俊は笑みを返した。
「そのために、ひとつお願いがございます」
「わかっておりまする。まずは北畠様を廟堂にお戻しせねばなりませぬな」
「四条様、ぜひよしなに」
「幸いにも、二条師基様は関白を退かれ、出家されておられます。今は御子息の教基様が関白。さっそく教基様を説得してみましょう」
この後、隆俊は幕府に対して強硬な態度をくずさない幾人かの公卿を抱き込み、まだ歳若い関白、二条教基に脅しをかける。公卿の中には、廉子を背景に力を持った中納言、阿野実為への反発もあり、隆俊らの計略を後押しした。
中納言、北畠顕能が廟堂へ復帰したのは、それから二月後のことであった。さっそく顕能と四条隆俊は、寛成親王の元を訪れる。親王は十七歳の青年となっていた。
小さな、こじんまりとした一間で、顕能が隆俊と共に畏まる。
「一の宮様(寛成親王)、お久しゅうございます。四条大納言様のお力沿えで、今日から麿は、廟堂へ出仕できることになりました。宮様におかれては、お心淋しくお過ごしになられていたことと存じます。されど、麿が廟堂に戻ったからには、宮様のお力になりとうございます」
「我の力になるとは……」
【注記:貴人の一人称として用いている「我」は本来「身」と書くが、本作ではわりやすいよう「我」と記載する】
「はい、四条様とともに、我らの力で東宮(皇太子)にお据えしたいと思うております」
「東宮(皇太子)は熙成じゃ。いくらそなたたちが力を貸してくれようと、帝(後村上天皇)が決めたことには逆らえまいぞ」
顕能の申し出を、寛成親王は悲観的に受け止めた。無理もなかった。母方の祖父にあたる北畠親房でさえ、寛成親王の東宮宣下は、早々にあきらめていた。その親房と顕能が失脚して五年が経つ。その間、公卿たちからも相手にされることはなかった。世を儚んで希望を持てなくなっていたとしても不思議ではない。
そんな寛成親王の心根を顕能は悟る。
「宮様の御祖父にあたる先帝(後醍醐天皇)は、北条の幕府に捕えられても、隠岐の島に流されても、お心が折れることがありませなんだ。京へ戻る日のことだけをお考えて過ごされ、ついには幕府を倒して京へお戻りになられました。宮様にも先帝の御血が流れておられます。御心を強くお持ちくだされ。さすれば運は開けるものと存じます」
「……」
「我らも宮様の運が開けますよう、力を尽くす所存にございます。どうか、麿たちを信用いただきとう存じます」
黙り込む親王を、四条隆俊も励ました。
寛成親王は、半信半疑で二人の話に耳を傾けた。
南朝が行宮とする天野山金剛寺。中納言の阿野実為に呼び出された正儀が、楼門を潜ろうとしたとき、一人の男に行く手を塞がれる。
「河内守(正儀)、久しいのう」
「これは、中納言様ではありませぬか」
深々と頭を下げる正儀の前に立ったのは、権中納言の北畠顕能。口元に笑みを湛えているが、その目は刺すように正儀に向けられている。
「此度、昔のように廟堂へ出仕することになった。よしなに頼むぞ」
「はっ、こちらこそ、よしなにお頼み申します」
「今日は河内守も朝議へ御参加か」
朝議へ出られるのは参議以上、または従三位以上の公卿でなければならない。もちろん顕能は百も承知でたずねていた。
「いえ、それがしは……今日は阿野中納言様に呼ばれて、御用を伺いに参内つかまつりました」
「左様か。それは失礼をした。早く参議に成られませ。ともに政を行いましょう。では、麿は先を急ぐので、これにて」
その言葉に、正儀は頭を下げて顕能を見送る。一方、背中を向けた顕能は、不敵な笑みを浮かべていた。
正儀はその足で金堂の中で大日如来に手を合わせる中納言、阿野実為を訪ねる。
「中納言様、遅くなりました」
一礼をして中に入り、入り口を背にして座った。
「河内守、実は北畠卿が廟堂へ復帰された」
「はい、今しがた、そこでお会いしました」
「そうか……北畠卿はこちらに参っておったのか」
「はい。挨拶を交わしただけですが……北畠卿は、それがしに何やら思うところがあるような気が致しました」
実為が怪訝な顔つきとなる。
「北畠卿には、何か狙いがあるのであろうな。何といっても北畠准后様(親房)のお子じゃ。策謀に長けておられる」
「しばらく、様子をみられてはいかがかと」
「そうじゃな。それまでは互いに気をつけることにしようぞ」
「はっ、承知いたしました」
正儀は頷きながら、この先のことを思案した。
赤坂の楠木館へ戻った正儀が、ふと館の庭先に目をやる。そこには、津田武信が縁側に腰をかけ、ぼんやりとしていた。
「当麻(武信)、今戻ったぞ」
「あ、殿、これは失礼つかまつった。気づきませなんだ」
武信は尻の埃を払いながら立ち上がった。
「どうした、何かあったか」
「あ、いや……」
「何じゃ、申してみよ」
「は、はい……殿にこのような話をするのはためらわれるのですが……」
武信はいったん目を伏せてから、再び正儀に視線を合わす。
「……篠崎六郎(久親)のことです」
「六郎か……行方をくらませてから五年、いや六年が経とうか……」
正儀は懐かしむように目を閉じた。南軍が二度目に京を追い落とされた際、篠崎久親は自身の家に戻ることなく、行方をくらませていた。
「はい、六郎には妻子がおりまして……それがしは気になって、ときどき様子を見に行っておりました……」
ぽつりぽつりと、武信が語りはじめた。
北河内の樟葉村にある篠崎の里。行方をくらませた篠崎久親には、妻と二人の子がいた。出奔当時、娘の菊は数えで五歳、嫡男の藤若丸は一歳であった。
それから六年の歳月が経つ。当初、母子は親族の助けを借りて暮らしていた。だが、次第にその助けもなくなり、妻が女手ひとつで姉弟を育てた。
十日ばかり前のこと、その妻が亡くなった。姉弟は頼る当てもなく、二人だけで母を荼毘に臥し、泣きながら骨を拾った。そこに旅の僧侶が通り掛かる。僧侶は墓をこしらえ、経をあげ、姉弟の母を供養した。
「御坊様、ありがとうございました。されど、私たちにはお渡しできるお布施がありませぬ」
菊の申し訳なさそうな言葉に、僧侶は首を横に振る。
「幼い子から、お布施などもらおうとは思うておらぬ」
言葉少なに応じる僧侶に、幼い二人は頭を下げる。
「この御恩、生涯忘れませぬ」
「いや……拙僧に、恩など感じてくれるな」
僧侶は終止、笠を被ったまま、伏し目がちであった。姉弟の前から立ち去ろうとする僧侶に、菊がたずねる。
「せめてお名前をお教えください」
「拙僧は……拙僧は元梅……元梅道心じゃ」
少し躊躇いを見せた後、答えた。道心とは元服後に仏法の道に入った僧侶のことである。
元梅と名乗った道心は、懐から小さな弁才天のお札を取り出し、少しの銭とともに菊に手渡す。
「寂しくなったら、この弁才天に手を合わせればよい」
そう言って旅の僧侶は去っていった。
その数日後のこと。久親の妻の死を知らない武信が、様子を窺いに姉弟の元に行った。そして、姉弟から事情を聴き、二人を自分の館に連れて帰ったという次第である。
話し終えた津田武信は、一つの疑念を抱えていた。
「その元梅とかいう旅の道心でございますが……」
「気になることがあるのか」
「はい、菊に渡した弁才天の御札です。菊に見せられて気づいたのですが、それがしは以前、見たことがあるのです」
「何、同じものをか」
正儀は、身を乗り出す。
「はい、木でできた御札の端が欠けておりました。確かに同じもの」
「どこで見たのじゃ」
「それは、六郎(久親)が常に身につけていたものです」
武信の話に、正儀は顎に手を当てる。
「なるほど、するとその道心が六郎であったか」
「はい、そうとしか思えませぬ」
「子らのことを思い、時折、見守っていたのであろう」
話を聞いた正儀は、深く息を吐く。
「ううむ、わしにも責任がある。我らは我らの都合で戦をしておるが、そのしわ寄せは常に弱い者にいく」
「殿に責任など……殿が好き好んで戦をしていないのは、この当麻が誰よりもようわかっております」
「されど、不幸なこどもは確実に増えておる。その子らはそちの館におるのであろう。わしは二人に会って謝りたい。ここに連れて参れ」
「されど……」
「いや、構わん。連れて参るのじゃ」
「はっ……承知つかまつりました」
棟梁に余計な気遣いをさせてしまったことに、武信は少し後悔をした。
次の日の楠木館。さっそく正儀は篠崎久親の二人の子と対面する。姉弟の傍らには津田武信が控え、正儀の傍らには徳子が座った。
姉弟は、行儀正しく、手を突いて頭を下げる。
「藤若丸にございます」
弟が名乗るのを見届けてから、姉の菊が続ける。
「菊にございます」
母親の躾がよほどよかったのか、二人は行儀よく振るまった。
「わしは楠木の棟梁、楠木三郎(正儀)じゃ。そしてこっちは、我が妻、徳子じゃ」
「御父上が去り、そして御母上が亡くなったそうですね。さぞかし辛かったでありましょう」
すでに話を聞いていた徳子は、慈愛に満ちた瞳で二人を見つめた。
「そなたたちに辛い思いをさせたのは、わしが戦をしたからかも知れん。許してくれ」
そう言って正儀は姉弟に頭を下げた。すると、菊が驚く。
「なぜ殿様が頭を下げられるのですか」
「そなたたちの父、六郎は、わしの元で戦に出ていたのじゃ。六郎が居なくなったのも、戦で世の儚さを感じたからであろう。わしが戦をしなければ、二人の今は変わったものになっていたやも知れん」
「殿様、私にはよくわかりません。されど、殿様に詫びていただいたので、私には十分でございます」
「わたしも十分でございます」
菊が答えると、藤若丸も後に続いた。
徳子は、賢く礼儀正しい菊と藤若丸を一目で気に入る。
「殿、二人をこの城に置いてやってはいかがでしょう。津田殿とて、いつまでも自分の館に置いてやるわけにもいかぬでしょう」
「そうじゃな、藤若丸は持国丸の遊び相手としても、ちょうどよいやもしれん」
嫡男の持国丸は五歳となり、正儀は傳役としては、恩地左近満一の次男、左近満信を任じていた。
「藤若丸殿、我らには持国丸というそなたより歳下の子がおります。遊び相手になってもらえまいか」
徳子はにこやかな顔で藤若丸に呼びかけた。藤若丸は戸惑った表情で、いったん姉の菊の顔を見る。菊が微笑むのを見てとると、藤若丸も安心して笑顔を見せる。
「はい、」
元気な藤若丸の返事を聞いて、正儀と徳子も安堵する。
「菊殿、では、そなたもここでお暮らしなさいませ」
「いえ、奥方様、私は髪を降ろし尼になりとうございます」
意外な申し出に、正儀と徳子は驚いて顔を見合わせた。
姉弟の隣に座る武信が、不思議そうな顔をして菊の顔を覗き込む。
「なぜ尼になると申すのじゃ」
「母が亡くなる時、約束しました」
一同は、母親が娘のこれからをおもんぱかり、そう言い残したのだろうと思った。
「そうか、尼にのう。じゃが、この館も人手不足でな。藤若丸をこの館に迎えるとなると、藤若丸の面倒をみる者がおらん。どうじゃ、藤若丸の面倒を観ながら、ここで働いてくれぬか。出家は藤若丸が大きくなってからでもできよう」
機転を利かせた正儀の話に、菊は戸惑う。しかし、徳子や武信の説得もあり、菊はやっと頷いた。
話が纏まると、徳子は侍女の妙を呼び寄せる。
「妙、仔細あって、今日からこの子らが、この館で暮らすことになりました。館の中を案内してやってくりゃれ」
「はい、承知致しました。では、こちらへ」
笑顔を湛えた妙が、二人を連れて広間から下がっていった。正儀と徳子は、二人をこの日から楠木館に住まわせる。そして後日、改めて、自分たちの猶子として迎える。
三月後、菊は楠妣庵の敗鏡尼(南江久子)の元に居た。
赤坂の楠木館で暮らすようになってから、菊子と呼ばれるようになっていた。そして、徳子に敗鏡尼(南江久子)を紹介されてから、たびたび、庵に出かけ、安置されている観音菩薩に手を合わせた。
「菊子は熱心ですね」
「夢が覚めないようにでございます」
問いかけに応じた菊子に、不思議そうな顔で敗鏡尼が首を傾げる。
「夢……」
「私は本当は尼となるはずでした。それが思いがけず、藤若丸とともに殿様(正儀)の元に置いていただけることになりました。何だか夢のようです。こうしてお勤めするのは、殿様と観音様に感謝し、この夢がいつまでも醒めないようにと願っているのでございます」
いじらしい胸のうちを知り、敗鏡尼が優しそうに微笑む。
「そうですか。では、私たちも一緒に、菊子の夢が醒めないよう祈りましょう」
敗鏡尼は、庵に来ていた侍女の清にも声をかける。
「観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色……」
三人の般若心経が庵に響いた。
この年の十一月六日。征夷大将軍、足利義詮は、河内守護に任じた畠山国清を、大軍とともに鎌倉から呼び寄せた。
畠山氏は足利の一門衆である。もともと国清は足利直義派であり、かつて、高師泰の後を受け、河内守護として石川河原の向城に入っていた。しかし、正平の一統の折には、足利尊氏に従って直義討伐のために関東に下向する。そして、幕府が関東統治のために置いた鎌倉公方、足利基氏(義詮の弟)を補佐する関東執事となり、伊豆国の守護となった。以来、基氏を補佐し、関東の地で過ごしていた。
京に到着した国清は、小具足(篭手や脛当など)姿のまま将軍御所に参殿し、義詮に拝謁する。将軍の傍らには、新たに将軍家の執事となった細川清氏の姿もあった。
「畠山河内守国清、将軍の命に従い、関東より二万の兵を率いて、ただいま参上つかまつりました」
「うむ、よう来た国清。此度は何としても南の帝(後村上天皇)との決着を着けたいと思う」
「それがしが来たからには、南軍など敵ではありませぬ」
「うむ、頼もしい限りじゃ。されど、余は南の帝を滅ぼそうとしているわけではない。御一統を実現させるのじゃ」
意外なと言わんばかりに、国清が眉をひそめる。
「将軍、それでは手緩うございませぬか」
「いや、御一統は父上の遺訓。何としても成功させねばならん」
義詮は、父、尊氏が亡くなり、自分が征夷大将軍に成ったことに気負っていた。将軍の威厳を高めるために、父、尊氏でさえ成し得なかった南北朝の合一を、自らが実現したいと願った。
執事の清氏が足利義詮に代わって説明する。
「まずは大軍を擁して行宮のある河内天野を責め、実力の違いを十分に知らしめる。そこへ和睦を突きつける。折り合いどころは、最大譲って両統迭立じゃ」
「は、承知つかまつった」
不満顔を奥にしまった国清が、ゆっくりと頭を下げた。
しかし、一つの懸念が義詮の頭をよぎる。
「国清よ、河内といえば楠木じゃ。楠木が最大の難敵。これをいかに攻めるかじゃ」
「確かに、南河内は楠木の本拠。幾重にも罠が仕掛けられていることでしょう。数をもって攻めれば制圧は可能と存ずるが、御味方の被害も覚悟せねばなりませぬ」
国清の表情が少し曇った。すると、横に控えていた執事の清氏が、にやりと笑みをこぼす。
「河内守殿(国清)、それがしに策がござる」
「ほう、それはどのような」
興味深そうに、国清が身を乗り出した。
「それは……」
自身あり気に、清氏が自策を披露した。
黙って清氏の策を聞いた国清が、掌で顎を撫でる。
「ううむ、他の武将ならいざ知らず、楠木に通用するであろうか……」
「すでに下調べは済んでおります」
清氏はそう言うと、すかさず義詮の顔を窺う。
「御所様(義詮)、それがしにお任せくださりませぬか」
「ううむ、それほどまでに自信があると言うのであれば、清氏、そちに任せようぞ」
そう言って、義詮はじわりと頷いた。
関東執事の畠山国清が、大軍を率いて上洛したことは、すぐに天野山金剛寺にいる公家たちにも伝わっていた。将軍家執事の細川清氏が、積極的に軍勢の上洛を、南朝側に流したためである。
行宮の中では、この話題で持ち切りとなっていた。
「阿野様、お聞きになりましたか。権中納言の中院通冬様が京へお戻りあそばせたとか」
食堂の外で、中納言の阿野実為に話しかけてきたのは、参議の六条時熙であった。
「すでに聞きおよんでおります。大軍を前に、御上をお守りすることもなく京へ戻るとは、何とも節操のないことじゃ……」
実為は悔しそうに、小さく舌を鳴らす。
「……されど、このままでは後に続くものが出てくるであろう。これでは戦う前から勝敗が見えておる」
「さぞかし御上(後村上天皇)も不安に感じていることでありましょう」
そう言って、時熙は帝が住まう摩尼殿に目をやった。
「さっそく楠木河内守(正儀)を参内させるとしよう。きっと河内守であればよい知恵があるはずじゃ。御上も御安堵なさるに相違ない」
自分に言い聞かせるように実為が応じた。
阿野実為に呼び出され、正儀と和田正武が行宮に参内した。二人は、食堂の戸口近くに控える。中はすでに御簾が上げられ、帝(後村上天皇)が顔を見せていた。手前には関白の二条教基と中納言の阿野実為、参議の六条時熙のほか、幕府に強硬な態度を見せる権大納言、四条隆俊と冷泉実清らもいた。
帝(後村上天皇)は、蔵人も通さずに直接、正儀に問いかける。
「河内守(正儀)、幕府は関東から二万の兵を呼び寄せ、河内を攻めるという。これに恐れをなして、すでに多くの公卿が朕を見捨てて京へ去った。率直にたずねるが、此度の戦、少しでも勝つ見込みがあるであろうか。忌憚なく申せ」
正儀は、殿上の実為に少し目配せしてから、帝の尊顔を凝視しないよう、目線を落とす。
「卦を占いますれば、足利義詮は三年塞がりでございます。また、ここ河内は天然の要害。これまで幾度も責められましたが、一度も我らが降参したことのない地にございます……」
公卿らの不安を払拭しようと正儀は多弁になった。これ以上の離反を封じるためである。
「……そして、関東から大軍を擁して京に入った畠山(国清)でございますが、京極道誉など畿内の諸将が反発しております。さらに、執事の細川清氏は、先の執事の弟である仁木義長から妬みを持たれておりまする。とても幕府が一つに纏まっているとは思えませぬ」
阿吽の呼吸で実為が正儀に問う。
「ほう、幕府の内情は、そのように酷いのか」
「御意。それがしは京に多くの透っ波を放っており、間違いありませぬ。我が方は、天の時、地の利、人の和の三徳においていずれも優れております。ゆえに、幕府がいくら大軍を擁して来ようとも、決して負けるはずはありませぬ。何卒、御安堵召されますように」
「なるほど、河内守がそのように申すのであれば、そうなのであろう。朕は安堵したぞ」
正儀に対する帝の信頼は、日増しに厚くなっていた。しかし、正儀にとって、ここからが本題である。
「はっ。されど、金剛寺は我が地より幾分か離れており、西に対して手薄にございます。さすれば、御上におかれましては、いったん観心寺に御移りいただきとう存じます。観心寺は、我らが勝手知ったる金剛山にもより近く、いざという時は千早城にも御移りいただけまする」
正儀の提案に対して、強硬派の四条隆俊が疑念の表情を浮かべる。
「先ほど勝てると申した舌の根の乾かぬうちに、負ける時のことを見越して、観心寺に移れとは何事であるか」
「四条様、河内守が申しておるのは、楠木軍が背後の憂いなく戦うために必要な事。そうでございますな、河内守」
すかさず、実為が正儀を援護した。
「御意。主上におかれましては、近臣の御方々、三十人ばかりで、観心寺に御移りいただきたく……」
すると中納言の葉室光資が狼狽える。
「御上の近臣が三十人ばかりじゃと。では後の公家や女房衆はいかがする」
「恐れ多きことながら、賀名生や十津川へ一時、身を隠していただきとうございます」
賀名生はおろか、さらに山深い十津川と聞いて、多くの公家がざわつく。しかし、帝の心は固まっていた。
「朕は観心寺に動座しようぞ。皆も暫しの辛抱じゃ。十津川に入ってくれまいか」
さすがに、帝の決心に反対できる公卿は居なかった。
和田正武を伴って赤坂の楠木館に戻った正儀は、すぐに楠木党の諸将を集めた。
広間で、顔を付き合わすようにして諸将が左右に座ったところで、正儀が上座に腰を降ろす。
「各々方、公卿の御方々による朝議で、観心寺へ帝の御動座を奉り、幕府軍に備えることが決まった。四条大納言様は紀伊龍門の砦を修復して陣を敷かれるとのこと。紀伊勢だけでなく、楠木からも兵を送って欲しいとのことじゃ」
「兄者、紀伊に兵を送っている場合ではないぞ。矢面に立つはこの東条。あちらこちらの砦はずいぶんと傷んでおる。観心寺をお守りする南の仁王山城、烏帽子形城は使えるとしても、北の備えが心配じゃ。平石城や持尾城は修復せねばならん」
「それに、龍泉寺城も石垣や土塁が崩れており修復が必要じゃ」
舎弟の楠木正澄と従弟の楠木正近は、広げた絵地図を見ながら応じた。
「されど、龍門にも人を送らねばならん。これだけの砦と城を修復するとなると、人手と時が心配じゃな」
絵地図から顔を上げた正武が、正儀を促すように呟いた。
「ううむ……又次郎(河野辺正友)、それぞれの砦、どのくらい掛かる」
「しかと算段せねばわかりかねますが、おそらく一月もあれば……」
思案して河野辺正友が答えたが、正儀はううむと唸り、腕を組む。
「いや、もっと正しく知りたい」
「では、この場に弥太郎を呼んで、問うてみましょう」
正友が口にした弥太郎とは、兵糧や傭兵・人足などの手配をしていた民部少丞、菱江弥太郎忠元のことであった。
すぐに忠元が前に現われる。正友から用件を聞くと、暫し目を閉じて首をひねった後、自身あり気に口を開く。
「まず、紀伊の龍門には、笹五郎殿に集めてもらう野伏を送ってはいかがでしょう。その野伏を紀伊に送る前に、龍泉寺城の修復に回しましょう。近隣の百姓なども使えば、およそ半月で終わるかと存じます」
しっかりした答に、正儀は満足そうに目を細める。
「うむ、では今からすぐに取り掛かってくれ」
「はっ、承知つかまつりました」
忠元は、すくっと立ち上がって座を外した。
和田正武が、その後ろ姿を目で追いながら口を開く。
「東条の備えを固めれば、敵はいったん和泉に入ってから東の観心寺を目指す可能性もある。そのときは、助氏殿に踏ん張ってもらわねばならん」
当然のように言い放つ正武に、美木多助氏が顔をしかめる。
「正儀殿、和睦の道はないものか」
その言葉に正武は目を剥いて驚く。
「この期におよんで和睦などあり得る筈はない。この事態に何を言っておるのじゃ」
「我が領地は北和泉。正武殿の領地と異なり幕府方に接する地ゆえ、日々侵食され、日増しに勢力が衰えておる。戦となれば我が領地が戦場となり、領民にも苦労をかける。正直、幕府の体は固まり、戦一つで世の中がひっくり返る事もあるまい。これを機会に和睦の道を探るべきかと存じる」
「世迷い言を。逆に己が討って出て、幕府の領地を切り取ってくればよいではないか」
「待たれよ。いまそのような議論をしているときではない」
二人の間に正儀が割って入った。
「三郎殿(正儀)は和睦に反対でござるか。三郎殿こそ、無益な戦にこれまで反対をしておったはずでござろう」
助氏は助けを求めた。正儀は内心、助氏に同調していた。しかし、帝(後村上天皇)の地位が保証されなくては、正儀とて和睦は受け入れ難い。
「わしは助氏殿の考えを否定せぬが、今すぐ強硬な公家衆を説得し、帝の勅許を得るのは不可能じゃ。まずは幕府を河内から追い出すことに専念せねばなるまい。帝をお守りするためには新九郎(正武)殿の言うよう、和泉の地は、助氏殿に踏ん張ってもらわねばならぬ」
これに助氏は落胆し、一方の正武は当然という表情を浮かべた。
「それは、我が美木多を蔑ろにするものではござらんか」
「助氏殿、敵が和泉に進軍したなら、必ず我らが支援致す。今は辛抱くだされ」
正儀の意志が変わらぬのをみてとると、助氏は口をつむぎ、拳をぎゅっと握り締めた。
助氏の美木多家は楠木家との血縁はなく、楠木に与力するようになったのは、助氏の父、助康が棟梁になってからである。それに比べて正武の和田家は、楠木家に養子に入った正儀の祖父、楠木正遠の本家筋ともいえる血縁であった。
これまでも助氏は、同じ和泉を地盤とする和泉の守護代、和田正武の配下として扱われることを嫌い、正儀の直下で働いた。和睦への理解も高かっただけに、正儀の同意を得られなかった助氏は、梯子を外されたような気持ちであった。
【注記:大中臣氏系の「美木多」は本来「和田」と書くが、本作では楠木一門の「和田」との混同を避けるために「美木多」と書く】
【注記:本作の東条は、佐備川流域の旧東条村一帯だけではなく、当時、指し示していたとの説もある東条川(千早川)流域の赤坂や水分までを含む西条川(石川上流)東側の広域としている】
決戦を覚悟した正儀は、多聞丸に命じて、持国丸・藤若丸・菊子らを連れて楠妣庵に向かわせた。
小高い場所にある庵に 皆より一足早く、多聞丸が駆け上がった。そして勢いよく、戸板を開ける。
「お婆様、戦が始まります。すぐに出立の御支度を」
突然の訪問に、敗鏡尼(南江久子)と侍女の清は顔を見合わせて驚く。
「多聞丸、このあたりも戦場となるのですか」
「わかりませぬが、幕府の大軍が大挙して向かってくるそうにございます。叔父上(正儀)は、お婆様を連れて、ひとまず紀伊の橋本九郎殿(正茂)の館へ向かうように命ぜられました」
「そ、そうですか……」
敗鏡尼は呆気にとられつつも、清に支度を急がせた。そして、多聞丸を追って庵に入ってきた菊子は、大事そうに観音菩薩立像を木箱にしまい、手に抱えた。
十二月十九日、将軍、足利義詮が出陣し東寺に陣を張る。幕府の大軍に、南朝では帝(後村上天皇)を見捨て、京へ戻る公家が続出していた。
この日、和泉国大鳥に、美木多助氏を訪ねてきた者がいた。赤坂から帰ってきた助氏は、館の前で声をかけられる。
「美木多左衛門尉殿(助氏)とお見受け致す」
馬上の助氏が声の主に振り向くと、山伏姿の男が、伏し目がちに片ひざを付いていた。
助氏は身構える。
「何者じゃ」
「御無礼つかまつります。我が主よりこの書状をお渡しするように仰せつかっておりまする」
そう言って、書状を前に差し出した。馬から飛び降りた助氏が男の前に立つ。
「主とは……」
書状を受け取った助氏は、その場で開いて目を落とす。そして、書状から顔を上げた時には、すでに男は視界から消えていた。
四日後の十二月二十三日、帝(後村上天皇)は正儀が率いる楠木党に守護されて観心寺に入った。そして、この寺の別院、総持院を一時の行宮とした。
総持院の奥に、帝は御簾を上げたまま座る。傍らには中納言、阿野実為が付き従っていた。
正儀は帝の前で恐縮する。
「此度は御上に、このようなご不便をおかけ、申し訳ありませぬ。暫しのご辛抱をお願いできればと存じます」
「河内守(正儀)、そなたが恐縮することはない。これも幕府を追い払うためには必要なことであろう」
「はっ。もったいなきお言葉、痛み入ります」
そこに徳子が、三方を持った侍女の妙とともに現れた。
「誰かと思うたら、伊賀局(徳子)であるか。息災であったか」
気さくに帝が言葉をかけた。徳子は恐縮して平伏する。
「御尊顔を拝し奉り、恐悦至極にございまする」
「局は正儀の妻としてつつがなく過ごしておるようじゃな。結構なことである……ところで、それは何じゃ」
妙が手に持つ三方に、帝は興味深そうに目を落した。
「これはもち米で作った寒晒にございまする」
「ほう、もち米の寒晒か」
「この地の民が、帝がこの観心寺に滞在されると聞きおよび、それはそれは喜びまして。白玉が好物と話したところ、この土地で食される寒晒を献上しに参ったという次第です」
正儀が経緯を説明した。
「そうか、ここに来て楽しみができたのう。河内守よりその者どもへ礼を申してくれ」
「はっ。きっと喜びまする」
帝は正儀と接するようになって、前にも増して、民の暮らし振りを気に掛けるようになっていた。正儀は、その帝の心遣いが心底、嬉しかった。
帝(後村上天皇)が観心寺に動座したその日、将軍、足利義詮は東寺から二万の大軍を引きいて摂津に進軍し、大覚寺に陣を張った。
本陣とした食堂の中で、義詮は閉じた扇で、執事の細川清氏を近くに呼び寄せる。
「清氏、その方の手筈はいかがじゃ」
「万事、抜かりなく整いましてございます」
「うむ。南の朝廷は、この大軍に、さぞ驚いておることであろう」
「はい、南主(後村上天皇)が退いた天野山の行宮からは、逃げて京へ戻る公家たちが後を絶たないようでございます」
義詮が口元を緩める。
「そうか。ではそろそろ頃合いかのう。和睦の書状を南の帝へ届けよ」
「はっ。畏まってございます」
清氏は仲介役の僧侶を使者に立て、観心寺の行宮に向かわせた。
和睦の書状を受け取った観心寺の行宮では、さっそく評定が行われた。正儀は残念ながら朝議に出られる官位ではない。
「和睦の条件はどのようになっておるのか」
大納言、四条隆俊が怪訝な顔でたずねると、中納言の阿野実為が顔を上げる。
「ここには善処とあるだけで、それは我らが和睦の話し合いに応じたうえで示されるものと存じまする」
「片方では刀を持ち、片方では和睦を説く。これが幕府のやり方よ。条件も我らが期待できるようなものであろうはずがない」
「いや、お待ちを。話しをしてからでも遅くはないでありましょう」
実為は最後まで和睦の可能性を探った。しかし、隆俊は顔をしかめる。
「こうして議論をするのでさえ、敵の術中に入っているのではありませぬか。この間にも、多くの公家や武士が、天野山から抜けて京に舞い戻っておりまする。ここは相手に付け入る隙を与えることなく、すぐに使者を追い返すべきでありましょう」
「ほんに、もっともじゃ」
大納言の冷泉実清らは、ここぞとばかりに賛同した。結局、帝(後村上天皇)に諮ることもなく評定は終わり、幕府の使者を追い返してしまう。
正平十五年(一三六〇年)、年が明けても将軍、足利義詮は、和睦を諦めず、両統迭立を前面に押し出して、再度、和睦を求めた。しかし、ここでも大納言、四条隆俊らの強硬派が、朝議に諮ることなく一蹴した。
大覚寺の幕府本陣でこの知らせを聞いた義詮は、将軍の威厳を蔑ろにされたと、顔を赤くして激昂する。
「ぐぐっ、忌々《いまいま》しい南の公家どもめ」
この事態に、執事の細川清氏が進み出て、次の手立てを説く。
「こうなればやむを得ませぬ。軍勢を河内へ差し向け、南軍を懲らしめたうえで、再度、和睦を求めるしかございませぬ」
「そのようじゃな。男山に留めおいた国清(畠山国清)に、河内へ進軍するように伝えよ」
「はっ、承知しました」
「して、その方の策は、大丈夫であろうな」
「はい、それはもう」
清氏は自信ありげににやついた。
義詮の命は、ただちに男山の国清に伝えられ、関東の軍勢二万が河内へ進軍を開始した。
正儀は、幕府軍が南河内に進軍する前に、何とか防御の支度を整える。本営とする東条の城塞、龍泉寺城は以前にも増して土塁を高く積み上げた。また後詰の赤坂城や千早城も、籠城に耐えるように修復する。また、北の守りのために平石城や持尾城も城壁を造り直し、仕掛けも施した。
紀ノ川沿いの龍門に設けた砦は、大納言、四条隆俊を大将として、紀伊と十津川の兵が入る。そこに正儀が送った笹五郎率いる野伏も配置し、紀伊からの幕府軍の侵入に備えた。さらに、廟堂に復帰した北畠顕能は、伊勢から三千の兵を率いて、伊賀を越えて大和に進軍していた。
しかし、正儀はこれで幕府軍を防げるとは思っていない。いざとなれば、帝を金剛山にお連れして、籠城するしかないと腹を括っていた。正儀の目には、今や幕府との力の差は歴然である。動員できる兵力も、限られる中、正儀らにできることは、これが精一杯であった。
すでに正儀は、男山から南進する畠山国清が率いる関東の軍勢を牽制するべく、従弟の楠木正近に三百騎を付けて四條畷に出陣させていた。国清の出陣は、斥候によってただちに、その正近に知らされる。
「幕府軍は二万。とても我らが戦える相手ではない。ただちに東条にとって返すのじゃ」
正近の命で、楠木勢三百騎は戦わずして撤退した。
国清が率いる関東勢二万は、正近を追うように一気に龍泉寺城から一里ほど北の地、廿山まで進んで陣を張った。
龍泉寺城に籠って守りを固めた正儀は、廿山の国清と睨みあう。すでに敗鏡尼をはじめとする楠木の女こどもは、東条を出て、紀伊の橋本正茂の館に避難していた。
二月十三日、ついに関東執事の畠山国清が率いる関東の軍勢が、龍泉寺城の攻略を開始する。関東の兵は、我先にと嶽山を登った。
「よし、東夷に目にものを見せてやろうぞ。皆の者、支度に掛かれ」
嶽山の中腹の砦から、正儀が下知をした。
砦から麓の様子を眺めていた舎弟、楠木正澄は、正儀へ振り返り笑みを浮かべる。
「兄者、畠山の者どもは、ここが楠木の城であることを忘れているようじゃ」
正儀も口元を緩めて頷く。
「まったくじゃな。又次郎(河野辺正友)、十分引き付けるのじゃぞ」
「承知しております」
少し離れたところには、津田武信も正儀の合図を待っていた。
「よし、今じゃ」
正儀は右手を上げて下知した。これを見て、河野辺正友や津田武信、楠木正近らの諸将がいっせいに、下知をくり返した。
津熊義行が雑兵に混ざって、複数の丸太を束ねて太い杭に括っていた綱を切る。次の瞬間、嶽山の上から雪崩を打って、丸太が幕府の兵に降り注いだ。あっという間に、百を超える兵が丸太とともに転がり落ちる。そして残った兵に向けては、雨のように矢が射られた。
最初の攻撃で痛手を被ったことに、大将の畠山国清は、ぎりぎりと歯ぎしりする。
「くっ、しまった。功を急ぎ過ぎたか。正儀になっても、楠木はやはり楠木のままか」
龍泉寺城にどんな仕掛けがあるのかわからないと見てとった国清は、攻撃を中断させて、睨みあう。
「ここは、細川殿の策とやらを待つとしよう」
国清は、城攻めを止めて、将軍家執事、細川清氏からの知らせを待った。
三月十七日、正儀にとって思わぬことが起きる。
龍泉寺城の本丸(主郭)。津熊義行を連れて兵たちの様子をみて回っていた正儀の元へ、聞世こと服部成次が、小具足姿で駆け寄り片ひざを付く。
「殿(正儀)、廿山の幕府軍が進発いたしました。向かうは天野山(金剛寺)の行宮。すでに和田和泉守殿(正武)が防戦に向かっております」
「何、天野山に向かっただと。金剛寺に帝がおられぬことは幕府とて知っておるであろう……いったいなぜじゃ」
正儀は自問した。
「それより、幕府の先鋒ですが……」
「先鋒がどうしたのじゃ」
正儀に促された聞世が、言いにくそうに言葉を吐き出す。
「それが……菱唐草の旗印。美木多殿と思われます」
「何、助氏殿が……」
さすがの正儀も、驚きを隠せなかった。正儀にとって美木多助氏の裏切りは、他の豪族のそれとは大きく異なる。助氏は、これまでも数々の戦で、正儀の先陣を務めていた。正儀は助氏を一門同様に接し、信頼を置いていた。
「まさか……助氏殿が、あのようなことで幕府の調略に落ちるとは……」
戦評議での助氏の態度が思い出された。
しかし、悩んでいる暇はない。これによって計画は、変更を余儀なくされる。正儀は、幕府軍が天野山に向かっている間に、やるべきことを頭に巡らせる。
「義行、すぐに諸将を集めよ。それと当麻(津田武信)には、藁と、壊れて使いものにならない胴丸や腹当、それに兜を、できる限り集めてくるように伝えるのじゃ」
「使いものにならない胴丸や兜でございますか……」
「そうじゃ。さ、早う」
義行は不思議そうな顔をして下がっていった。
この後、露払いとして美木多助氏が先導する幕府軍は、各地に設けられた楠木の砦を避けて天野山金剛寺に乱入する。そして、帝が執務に使っていた食堂や五重塔を焼き払った。
将軍家の執事、細川清氏によって進められた南軍の調略は、他にも着々と成果を上げる。河内の丹下、誉田、俣野、そして紀伊の浅野、貴志など日和見な豪族が次々と幕府に寝返って南軍に刃を向けた。
さらに正儀を驚かせたのは、大和の有力豪族である越智家高の幕府への投降であった。家高は、伊賀守、越智源太家澄が家督を譲った嫡男である。
越智氏は四條畷の戦い以来、楠木とともに帝を支えてきた南軍の雄であった。その家高が、伊勢より進軍してきた北畠顕能の三千と大和で睨み合い、その進軍の邪魔をしていた。
「何と、越智殿までもが……」
次々に起こる味方の離反に、正儀は天を仰いだ。
四月三日、幕府軍の大将、畠山国清の動きとは別に、先の執事であった仁木頼章の舎弟、仁木義長が率いる幕府軍が、鍋谷峠を越えて紀伊に攻め入った。
紀ノ川沿いの龍門山の砦を、笹五郎の野伏を加え、三千の兵で守る大納言の四条隆俊は、決死の覚悟でこれに対峙する。もし、龍門の砦を落されると、河内の背後からも幕府勢の侵入を許し、帝に危険がおよぶことは明白であった。
大将の隆俊は、龍門の砦に籠城して幕府軍を必死に牽制した。だが、紀伊熊野の湯川が寝返り龍門山を責め立てたことで、砦はついに支えきれず落城。笹五郎ら砦の兵たちは四散する。そして、大将の隆俊自身は、十津川の兵とともに、命からがら、紀伊の阿氐河城(阿瀬川城)に落ち延びた。
窮地に陥る南軍のゆく末を占うかのように、南朝との縁が深い摂津の住吉大社で不吉なことが起こる。神殿の前にあった楠の大木が、突如として倒れ、神殿に倒れ掛かったのだ。
「楠が倒れて社が傾くとはなんと不吉な」
「楠といえば、河内守殿(正儀)をおいて他にあるまい」
「諸将が幕府に降参する中、河内守殿が倒れれば、誰が主上(後村上天皇)を御護りするのか」
神官らはささやき、これから起こる事に身震いした。
この不吉な予言が現実のものとなるかのように、南朝をさらに窮地に追い込む事件が起きる。
四月二十五日、南軍に身を投じて以降、京への侵攻でも活躍した赤松氏範が、大塔若宮こと興良親王を奉じて、南朝に対し反旗をひるがえしたのだ。
北畠親房が失脚した後、北畠の血を引く興良親王も、南の朝廷の中で冷遇を受けていた。興良親王に忠義を果たす氏範は、兄で幕府の重鎮、赤松則祐の説得に応じ、興良親王を奉じて幕府側に寝返ったのである。氏範は吉野十八郷の郷士らも味方に付け、賀名生に討ち入って行宮としていた建物に火を放った。
将軍家執事、細川清氏の狙いは、天野山の行宮に続き、賀名生の行宮をも焼いて、帝(後村上天皇)の帰る場所をなくすことにあった。このため清氏は、その豪胆な性格に似合わず、緻密な調略で美木多助氏や赤松氏範らの裏切りを誘い、行宮を攻めさせた。南の帝に、和睦の道しか残されていないことを示すためである。
この事態に、賀名生に避難していた南朝の公家たちは仰天する。しかし、賀名生には、これに充てる兵も、兵を取り纏める将も居なかった。しかも、関白の二条教基ら公卿の多くは河内である。
この事態に、教基の父で、先の関白、二条師基が立ち上がった。賀名生の二条邸に、具足を纏った公家たちと、賀名生の民を集める。
「御上(後村上天皇)に御心配はかけられぬ。ここは、我らの手で裏切者を成敗する。者ども、いざ、出陣じゃ」
大鎧を着込み、大鍬形の兜を被った二条師基が、公家たちに向けて下知した。師基は近衛兵の名和党と、赤松氏範から離反した吉野の郷士たちも加えて、反乱軍に対峙する。
正儀と和田正武は、賀名生からの早馬でこの事態を知るや否や、すぐさま兵を割いて賀名生に向かわせることとした。
楠木・和田の兵を率いて賀名生へ駆け付けたのは、正儀の舎弟、楠木正澄である。
「二条様、我らが来たからには御安堵召されませ。ただちに赤松を追い払ってご覧に入れまする」
「掃部助(楠木正澄)、頼むぞ。されど、麿とてこの窮地に指を加えて見ているわけにはいかん。すでに老いぼれ。いつ死んでも構わぬ。一軍を率いて戦おうぞ」
実際、師基が軍を指揮できるわけではない。しかし、老公卿の頼もしい言葉に、正澄は胸を打たれる。
「赤松はあそこぞ。者ども、矢を射かけよ」
正澄のかけ声で赤松討伐が始まった。楠木党が反乱軍の制圧に乗り出すと、吉野十八郷の郷士らは、興良親王を守ることなく撤退した。
「くそ、頼りにならぬ奴らよ。宮様(興良親王)見捨てるのは武士の道に反する。我らは討ち死しようとも、宮様をお守りしようぞ」
そう言って、氏範はわずか数十騎で応戦した。
「者ども、宮様を斯様な境遇へ追いやった朝廷の奴らを凝らしめようぞ。宮様のためにここは踏ん張り処じゃ」
氏範は、興良親王とわずかな手勢を連れて山に隠れ、神出鬼没の戦いを仕掛け、三日間奮戦する。だが、多勢に無勢、最後は蜘蛛の子を散らすように四方に逃げざるを得なかった。
一人逃れた氏範は、生き別れた興良親王を必至で探した。だが、ついに見つけることはできず、肩を落として播磨へ戻っていく。
その頃、正儀が籠る龍泉寺城は不気味に沈黙していた。嶽山には菊水と非理法権天の旗指物がたくさん立ち、あちらこちらから煙が立ち上っていた。しかし、追い詰められた龍泉寺城からは、兵たちの気勢が響くことはなかった。
幕府に寝返った美木多助氏を天野山に残し、行宮攻めから戻った畠山国清は、城を遠巻きに囲む。
「迂闊に攻めてはならんぞ。こちらが先に手を出せば痛い目に合う。この城にはさまざまな仕掛けがある」
国清は配下の武将たちに命じた。助氏より龍泉寺城の守りの固さについて聞かされたからである。
いたずらに十日ばかりが過ぎていった。
四月二十九日、将軍家執事の細川清氏は、なかなか進展がない嶽山の状況に痺れを切らし、赤松範実・土岐頼康らの諸将とともに、自らも南河内に進軍した。畿内の諸将は、関東から来た畠山国清にばかりに手柄を取られてなるものかと意気込んでいた。
国清が布陣する廿山の本陣に、清氏をはじめとする諸将が集まった。
赤松円心の孫の一人、赤松範実が国清に詰め寄る。
「関東執事殿(国清)、何をやっておられる。手をこまねいているばかりでは、城は落ちませぬぞ」
「そなたたちは楠木と戦ったことがないからそのような軽口が叩けるのじゃ。我らは最初の攻めで多くの兵を失った。いかに楠木を城の外に引っ張り出すか、思案が必要じゃ」
生意気な若僧めと、国清は目を尖らせた。
すると頼康が小首を傾げる。
「楠木正儀の戦振りは正成と同じなのか。楠木党は騎馬を使った戦をするとも聞いておったが」
「昔ながらの悪党戦術と、東国武将の戦術。どちらもやるから手強いのじゃ」
国清が苦々しい表情を浮かべて吐き捨てた。
「まあ、いずれにせよ早く城を落とさねば。幕府の威厳、いや足利将軍家の威厳に関わる。我らがいっせいに、三方から攻め上がり、楠木を一気に攻め落とそうではないか」
執事である清氏の提案に、国清もしぶしぶ頷いた。
戦評定が終わり、諸将が陣幕の外に出ると、白髪の武者が龍泉寺城をじっと見上げている。土岐党の老武者であった。その者が、歩み寄った頼康に気づき、語りかける。
「殿(頼康)、あの城ですが、どうも様子が変じゃ。空に飛ぶ鳶、林に帰る烏、まったく騒ぐ様子がない。鳥が驚かないのは、城の中に兵が居ない証ではありますまいか。きっとあの城は、多くの旗を立て、大勢が籠っているように見せかけているだけでしょう」
「何、それは本当か」
頼康は、自らも手をかざして嶽山に目をやった。
二人の話に、後ろから清氏が割って入る。
「人が居らんのなら、どうして煙が上がるのじゃ。旗とて人が振っているものもあるではないか」
「そのようなこと、数人もおればできまする」
老武者は落ち着いて答えた。
清氏と頼康、そして範実は、互いの顔を見合わせ、はたと気がついたように、それぞれ急ぎ自軍へ戻る。そして、おのおのが兵を率い、先陣を争うために嶽山に攻め上がった。
細川勢は清氏自らが兵を率いて山を登った。幕府の執事たる者が先陣に立つことなど、本来、あろうはずもないことである。しかし、元来、猛将の類の清氏は、自陣で結果を待つよりも前線に立つことに喜びを覚えた。
「先駆けは、この細川清氏なり」
清氏は、誰よりも先に郭の塀に取り付くと、旗を立て、振り向きざまに幕府の軍勢に向かって叫んだ。一歩遅れて、赤松勢を率いる若い範実が、その横を駆け抜ける。
「そこは城ではござらぬぞ」
追い抜きざまにそう言うと、塀を乗り越えて城の中へ飛び込んだ。
「先駆けはこの赤松範実なり。おのおの方、後日の証に、しかとその目で見てくだされ」
「ちっ」
清氏は舌打ちして、自らも塀を乗り越えて城へ入った。それを切っかけに、幕府の兵たちが次々に城へ突入した。
土岐の老武者が言うとおり、城の中はもぬけの殻で、すでに楠木の兵たちは、夜陰に紛れ、本城である赤坂城に撤収していた。後はわずかに、聞世(服部成次)が数人の配下を指図して、火を炊き、旗を靡かせ、大軍が籠るように見せかけていただけである。
龍泉寺城のことをよく知る美木多助氏の裏切りで、正儀は急遽、この城を捨てる決断をしたのであった。
龍泉寺城に籠っていた聞世(服部成次)らは、幕府の兵が郭に取付く前に、さっさと城から脱出していた。清氏らの幕府軍は、誰もいない龍泉寺城をあっさりと占領した。また同日、今川範氏や六角崇永(氏頼)らの幕府軍も、東条の北に位置する平石城を落していた。
楠木の拠点である東条の多くは、ついに幕府軍のものとなった。