第24話 足利尊氏
正平九年(一三五四年)十月、南河内の野山では、色鮮やかだった紅葉が、枯れ色に押されはじめる。
季節が変わるように、帝(後村上天皇)の御心にも変化が生じていた。理由は、二度に渡り京の奪還を失敗したことにある。その証が、行宮を正儀の支配下にある河内の天野山金剛寺に移したことであった。
自然と、正儀の和睦への期待は膨らんだ。しかし、その期待は、思わぬところから裏切られる。
同月、南朝より惣追捕使に任じられていた足利直冬が、山陰の石見から京を目指して進軍を開始した。伯耆の山名時氏の軍勢を加えて、あっという間に山陰・美作を平定する。
直冬は、実父でもある将軍、足利尊氏に私憤を抱いていた。挙げ句、正平の一統の折に九州の地を追われ、大内弘世を頼って長門に逃れた。
当時、准后の北畠親房が幕府との和約を一方的に反故にして、尊氏・義詮を追討して京を奪還した。しかし八幡の戦いに敗れ、京を失う。
南朝は、この直後に直冬を惣追捕使に任じていた。かつて源頼朝が、征夷大将軍の前段として任じられた役である。親房の狙いは、直冬を南朝側の武家の棟梁として担ぎ上げ、幕府の諸将を取り込むことにあった。これで直冬は勢いを得て、長門から周防・石見へと勢力を拡大していった。
この度、京への侵攻を画策したのは山陰の梟雄、山名時氏である。昨年、南軍の正儀らとともに義詮を追い払い、京を占領した。しかし、尊氏と合流を果たした義詮によって、いとも簡単に京を奪回される。時氏は伯耆に撤退せざるを得なかった。
時氏は考えた。南朝の公家大将では、諸国の武士たちの旗印にはなり得ない。武士には、武士の棟梁たる尊氏や義詮に対抗すべき旗印が必要であると。直冬はその旗印として唯一無二の存在であった。尊氏の実子であり、義詮の兄である。かつ、副将軍であった足利直義の養子でもある直冬は、次の将軍となる十分な資格と資質を兼ね揃えていた。
この直冬を擁して京を占領すれば、諸国の武士を二分して争うことができると時氏は思った。奇しくも、亡くなった親房の遠略を受け継いだのが、時氏だったということである。
足利直冬と山名時氏の京へ向けた進軍で、慌てたのは南朝であった。正儀は、中納言の阿野実為から呼び出され、天野山金剛寺の行宮に出仕した。
「河内守(正儀)、よう来た」
「六条様もお出ででありましたか」
実為の隣に参議の六条時熙も座っていた。
「六条卿は此度、参議となり朝議に出られるようになった。我らの力になってくれるものと思い、麿が呼んだのじゃ」
「河内守、麿とて朝廷のありさまを憂う者の一人じゃ。よしなに」
時熙は正儀よりも若年であった。廟堂も世代交代が進んでいた。
正儀には、時熙は真面目な公家に映る。
「六条様、こちらこそ、よしなにお願いします。して、中納言様(実為)、火急な用とはいったい何事でございましょう」
「実は足利直冬が惣追捕使の名において、諸国の武将に足利尊氏・義詮親子の追討を命じた。京へ討ち入るつもりじゃ。我らに対しても要望を出してきた」
正儀にとっても初耳であった。
「何と言って来られましたか」
「総大将を仕立てて、京へ進軍するように奏上してきた」
「すでに帝(後村上天皇)の耳には入っているのですか」
残念そうな表情で実為は頷く。
「直冬の使者が四条中納言(四条隆俊)を訪ねて参ったのじゃ。麿が知ったのは二条関白(師基)を通じてのこと。まったく余計なことをしてくれたものよ。これでまた、強硬派の公卿が勢い立つ」
「直冬殿にとって此度の戦は、大内殿と山名殿に担がれた、己が将軍に成るための戦と存じます。過去二度の、朝廷と武家の戦とは様相が異なります」
正儀の意見に実為も同意する。
「直冬は……いや山名時氏は、この戦を形ばかりは幕府と我らの戦に持ち込みたいのであろう」
「主導権は己らが持ったままに……ですな」
時熙がそう言って正儀を見た。
「その通りにございます。直冬殿が戦に勝っても、我らからみれば幕府の主が変わっただけになるやも知れませぬ」
正儀は直冬を信用してはいなかった。直冬は父、尊氏への私怨で動いている。正儀はそうみていた。
「それがしは、この戦、様子見をしたいと存じます。どちらが勝とうが、将来、我らは戦をせねばならない可能性がございます。ここで宮方が兵を損じることは避けなければなりませぬ」
「うむ、もっともなことじゃ。されど、朝議では軍を送ることになろう。前回に続いて四条中納言(隆俊)が軍立てを差配される。そもそもこの話を持ってきたのは四条卿じゃからな。右大臣となった洞院卿(実世)が話を進められるであろう。残念ではあるが仕方がない」
眉間に皴を寄せた実為が、吐息を漏らした。
正儀には、ひとつ気掛かりがある。
「北畠中納言(顕能)は、伊勢から出兵しましょうや」
「あの事件以来、北畠家自体が、帝(後村上天皇)の信頼を失っておる。よほどのことがなければ、帝は北畠卿の出陣を許すまい」
帝の勘気をこうむったのは、隠遁した北畠親房だけでなかった。跡継ぎの北畠顕能も廟堂から遠ざけられていた。
「では、紀伊勢とともに我ら楠木党が軍の中心となりましょう。それがしの指図の元、我らが戦の前面に出ることのないよう動きます。それゆえ朝廷の中においては、阿野中納言様、六条宰相様にて、お取り計らいいただきたく存じます」
「相わかった」
「ではよしなに」
正儀は、実為と時熙とともに手筈を整えた。
赤坂の楠木館に戻った正儀は、広間に重臣たちを集めた。朝成から名を改めた舎弟の楠木正澄、従弟の楠木正近、近臣の津田武信と河野辺正友、そして重鎮の橋本正茂らの面々である。この度の出陣の目的と意図を説明するためであった。
「なるほど、三郎兄者(正儀)。ということは、我らは直冬殿の戦を眺めているだけということか」
上座に腰を据えた正儀に、正近が穿って問いかけた。
「形は朝廷の軍じゃ。成りゆきによっては我らも戦はやむをえん。されど、わしはこの戦で兵を失いたくはない」
「兄者(正儀)、わしはそれで構わんが、和泉守(和田正武)は承服するかな」
正澄の指摘は、皆も懸念するところであった。
「新九郎(正武)殿には、出陣した後に、追々、わしから話をしよう。ではさっそく出陣の支度に掛かるのじゃ」
「はっ。畏まってござる」
武信、正友らは立ち上がり、ただちに兵の招集、兵糧の準備に取り掛かった。
美作を平定して京を窺う足利直冬の元には、続々と味方が集まっていた。直冬を担いだ山名時氏と大内弘世に加えて、もともと直義党であった足利高経、石塔頼房、そして、桃井直常ら幕臣たちが参じて、侮れない勢力となっていた。まさに時氏が直冬を担いだ狙い通りである。
京の幕府は、この直冬軍の進撃に、ただちに臨戦態勢を整えた。
この頃、将軍の足利尊氏は病に伏せることが多くなり、跡継ぎの足利義詮が将軍に代わり、兵馬を預かっていた。その義詮は、先の南軍との戦で活躍した側近の細川清氏を最も頼りにしていた。
早速、駆け付けた清氏に、上座から義詮が問う。
「相模守(清氏)よ、直冬の軍は一万を超えたようじゃ。京は守りに難しい地。このまま敵がくるのを待つよりは、こちらから討って出ようと思うがいかがじゃ」
「坊門様(義詮)、それがしもそれがよろしいと思いまする。美作と接する播磨には、赤松殿(則祐)がおられます。我が細川勢を率いて播磨に向かわれてはと存じます」
自らの策に清氏が同意したことで、義詮は少し気をよくする。
「うむ、では、道誉にも出陣を命じよう」
「入道殿ですか……」
清氏は少し口籠る。京極道誉のような口達者な権謀家が嫌いであったのだ。
「相模守、どうした。道誉では不服か」
「いえ、決してそのような……よきご判断と存じまする」
「そうか。では、すぐに出陣の支度を整えよ。わしは父上に報告して参る」
そう言って義詮は、尊氏の居る二条万里小路第に向かった。そして数日後、義詮は兵を率いて播磨に出陣した。
美作に進軍した足利直冬は、陣を張って山名時氏や大内弘世をはじめとする諸将と、今後の軍の進め方について談議していた。
陣を敷いた寺の食堂。戸板を全て外し、外の日が差し込む板間で、上座に座る直冬が、弘世に顔を向ける。
「さて、義詮の奴は討って出てくるであろうか」
「左様にございますな。すでに美作に陣を布いてひと月になります。赤松が攻めてこないところをみると、京から出陣してくる坊門殿(義詮)を待って、責めてくるものと存じます」
「では、山陽道に狼煙を持たせた斥候を幾人も送ろう。義詮が率いる幕府軍が摂津に入ってくれば、次々に狼煙を繋いで、すぐに、ここまで知らせが届くようにするのじゃ」
直冬の指示に時氏が首を傾げる。
「佐殿(直冬)、幕府勢が入ってくる前に赤松勢を叩くのが得策ではありませぬか」
「弾正(時氏)よ、我らはここで兵を無駄に失うべきではない。幕府軍が摂津に入れば、我らはただちに丹波を目指して進軍し、丹波口から京へ突入する」
「なるほど、京を空にしたところで我らが京を占領するわけですな」
時氏は、直冬の戦の才は尊氏譲りだと舌を巻いた。
「その通りじゃ。南軍には男山から京へ突入させる。我らが到着する日を決めて南軍に渡りをつけるのじゃ。ところで、南軍は誰が率いるのか」
「それはしかとわかりませぬが、やはり主力は楠木でしょう」
時氏は顎鬚を触りながら答えた。
「そうか。楠木か。楠木の棟梁は何と言うたかな。父や兄に似て戦上手と聞いておるが」
「はい、正儀です。公家が差配する南軍では、やはり一番信頼のおける者と思われます」
「そうか、何といっても楠木正成の息子じゃ。京で会うのが楽しみじゃな」
直冬は無邪気な笑顔を見せた。
一月後、出陣の用意を整えた楠木の兵たちが、赤坂の楠木館に集まっていた。館の前には徳子をはじめとして、多聞丸や留守居役の橋本正茂らが見送りに出ていた。
「叔父上、行ってらっしゃいませ」
養子となった多聞丸だが、なかなか正儀のことを父とは呼べなかった。数えで二十五と若い正儀に対しては、仕方がないことであった。
「殿、御武運をお祈り致しております」
徳子は凛とした眼差しを正儀に向けた。
「うむ、心配をかけるが、城の者どもをよろしく頼むぞ」
「あら、心配をしているように見えましたか」
徳子はにこりと微笑む。
「いや、まったく……」
正儀も笑う。
宮中に居たとはいえ、やはり、武士の娘である。表向きはまったく動じる風はない。
「何かあれば、九郎殿(橋本正茂)を頼るのじゃ。よいな」
「承知つかまつりました」
頷く徳子の横に正茂が進み出る。
「殿、御安堵召されませ」
軍奉行の正茂だが、最近はめっきり戦場に出ることはなくなった。叔父の美木多正氏が亡くなる際、正茂に戦の諸事を任せ、正行らこどもたちの後見を託した。その甲斐もあって、正行は一廉の武将となって活躍した。そして今、正儀も立派に成長した。正茂は、己の役目は終わったとばかりに、この度の戦が終われば、紀伊橋本に隠居しようと決めていた。
舎弟の楠木正澄が正儀に声をかける。
「兄者、そろそろ参ろうか」
「うむ、では参ろう」
正儀は馬に乗り、兵たちに下知して出陣した。
徳子は胸の前で両手を合わせて見送る。やはり、心中は穏やかではなかった。
出陣した正儀は龍泉寺城で和泉の和田正武・橋本正高の軍勢と合流して、天野山金剛寺に入った。
金剛寺では食堂を廟堂としていた。その廟堂の奥、御簾の向こうに帝が鎮座し、公卿たちが殿上で控えた。この度、南軍を率いる大将は権中納言の四条隆俊である。隆俊は、南大和の兵を率いる左中将、千種顕経ともども、食堂の前に置かれた床几に武者姿で腰を据えていた。
その下で、正儀は正武と正高らを従えて平伏する。
「楠木河内(正儀)、これより楠木、和田、橋本の兵を率いて出立し、足利直冬殿と一緒に、幕府の足利尊氏および義詮を討伐して参ります」
真意はさておき、杓子定規な挨拶を行った。
「うむ、河内守(正儀)はすぐに出立し幕府を討伐せよ。麿は紀伊と十津川・賀名生の兵ととも、すぐに向かう」
「はっ」
大将、隆俊の下知に正儀は立ち上がり、中納言の阿野実為を一瞥する。そして互いに目配せし、軽く頷いてから、舎弟、楠木正澄ら諸将に振り向く。
「者ども、これより出陣ぞ。我ら楠木党の力を思う存分に発揮致せ」
「おおっ」
「おおっ」
兵たちの気勢がこだまのように重なった。
楠木軍は、京に向けて出陣した。
道すがら、正儀は和田正武の隣に馬を付ける。
「此度の戦は直冬殿(足利直冬)の戦ゆえ、我らの軍は、まずは、成りゆきを見守ろうと思う」
「何と申される。直冬殿とて帝(後村上天皇)の軍。我が方が負けてもよいと申されるか」
思った通りの反応であった。
「その肝心の直冬殿は、はたして帝の軍を率いていると思われているか。率いる諸将は直義党の面々じゃ。直冬殿が帝の名を使っているのは方便。足利尊氏・義詮を討って、自らが将軍の座に付こうとしておられる」
正武は顔をしかめる。
「じゃとしても、これは好機ではござらんか。直冬殿と組めば尊氏を討伐できる」
「新九郎(正武)殿、諸国の諸将は幕府を望んでおるのではあるまいか。我らが将軍を討伐しても、次の将軍が担がれる。結局、幕府は続くのではないかと思う。建武の御世にはもう戻らん。わしらは果てなく将軍と、いや幕府と戦わなければならんぞ」
「三郎殿(正儀)は考え過ぎじゃ……」
正武はそう言ってから、正儀から視線を外す。
「……じゃが、和田も含めた一党の棟梁はそなたじゃ。わしは納得せぬが、棟梁の指図には従おう」
「かたじけない」
「ただし、戦が始まれば、理屈では割りきれぬことも起きる。そのときには動く。我らが生きるためじゃ」
正武は正儀に目を合わせようとはしない。
「わかりもうした」
正儀のその言葉だけ聞くと、正武は鐙を馬の腹に当てて、先に駆けて行った。
正儀はこれまでと同様に男山の麓の寺に陣を敷いた。唯一異なるのは、京に討ち入ろうとは考えていないことであった。
金堂で大日如来に手を合わせる正儀の後ろに二人の男が座る。
「殿、山名殿(時氏)から再三、京への討ち入りについて、確約を求めてきております。どうされますか」
「兄者、四条中納言様(隆俊)からも、ご自身が入洛される時機をたずねてきておる。こちらもいかがする」
河野辺正友と楠木正澄が、いずれも心配そうな表情を浮かべていた。
正儀は、如来座像に深々と頭を下げてから、二人に向き直す。
「又次郎(正友)は山名殿にこう伝えよ。我らは足利義詮が無傷で西にいるなど想定外。播磨から引き返してくる足利義詮を京に入れぬよう、西に対峙せねばならん。ここは山名殿をはじめとする直冬殿の軍勢で京へ入られよ。そのように申すのじゃ」
「なるほど……畏まってござる」
正友は納得顔で承知した。
「四郎(正澄)は、山名殿にそう伝えた事を四条中納言様に御知らせし、我ら朝軍(南軍)は、敵の攻撃があるまで、ここにに留まると言上せよ」
「わかった。それがしが直接、四条卿(隆俊)にお会いしよう」
すっかり頼もしくなった正澄は、難しい役目を二つ返事で引き受けた。
南朝勢が京を窺う最中にも関わらず、足利尊氏は悠々と等持院で、母、上杉清子の十三回忌法要を行っていた。
僧侶たちの読経に手を合わせる尊氏の元に走り込んできたのは、将軍家執事の仁木頼章である。
「山陰勢が丹波口に迫って来ております。男山の南軍も直に入洛することでしょう。諸将には出陣の支度を整えるよう命じております。ひとまず将軍は、東寺に御移りください」
頼章が尊氏の耳元に手を当て囁いた。しかし、尊氏は動じることなく応じる。
「今は法要の最中。控えるのじゃ」
「されど、敵はそこまで迫っております」
「般若心経が終われば、話を聞こう。向こうで控えておれ」
焦る頼章を無視して、再び尊氏は僧侶たちの合唱に手を合わせた。
しばらくして、別間で苛立つ頼章の前に、尊氏が現れて腰を据える。
「左京大夫(仁木頼章)よ、わしは京を離れ近江に向かう。諸将にも近江に向かうように伝えるのじゃ」
「戦わずに逃げるのでございますか」
頼章は拍子抜けした顔をする。
「そうじゃ。義詮が軍を引き連れて出ている以上、京で迎え撃っても勝ち目はない。無理をして戦う必要はない。義詮が戻ってくれば奪い返すのは容易じゃ」
そう言って尊氏は、さっさと広間を出ていく。頼章も慌てて跡を追った。
「そうじゃ。左京大夫(頼章)よ、すぐに内裏に赴き、帝(後光厳天皇)をお連れするのじゃ。南軍に連れ去られるのではないぞ」
「は、畏まってございます」
頼章はただちに内裏へ向かった。
正平十年(一三五五年)一月十六日、山名勢が主体の足利直冬の軍勢が、丹波口から京に突入した。播磨に出陣した足利義詮の裏をかいた京攻めである。
山名時氏は正儀の言い分に納得した訳ではない。しかし、義詮が率いる大軍が居ない間に京を押さえるには、ゆっくり南軍と協議を重ねている暇はなかった。
一方、南軍が駐留する男山には、赤松則祐の舎弟、赤松氏範もいた。正平の一統の折、氏範は、京の赤松屋敷に預けられていた興良親王(大塔若宮)を連れて賀名生に走った。それ以降、南軍に身を置いていた。
氏範は腕に覚えのある荒武者であった。いつまでも出陣せずに男山に留まる南軍に痺れを切らせ、楠木の陣に赴き、正儀に詰め寄る。
「楠木殿(正儀)、なぜ討って出られんのじゃ。すでに山名らの山陰勢は京へ攻め入っておるぞ。みるところ、いつでも出陣できるではないか」
氏範は威圧的に迫った。
「赤松殿、貴侯の考えはあろうが、ここはそれがしの指図に従っていただきとう存ずる」
正儀はぴしゃりと釘を刺した。
「楠木殿は何を考えておいでじゃ。それがしにはさっぱりわからん」
「京は直冬殿にお任せしておればよい。我らはここで西からの敵に備える。これは南軍として決っしたことじゃ」
「楠木殿が動かぬなら、それがしにも考えがある。南軍の総大将は楠木殿ではあるまい。御免っ」
不満を露にした氏範は、すごい剣幕で陣から出て行った。
河野辺正友があきれ顔を向ける。
「四条卿(隆俊)にお許しを得に行ったのでしょうな。聞きしに勝る猪武者。とにかく戦をしたくて仕方がないという感じでございますな」
「赤松殿(氏範)が南軍から離れるのは損失じゃが、赤松殿に事情を話すことはできぬ。仕方あるまい」
正儀は諦め顔で氏範が去った方に目をやった。
この後、氏範は兵を率いて足利直冬の陣に参じた。
足利直冬は山名時氏らを伴い、抗う兵が居ない京へ悠々と入り、東寺に陣を張った。すでに将軍、足利尊氏は帝(後光厳天皇)を奉じて、近江の武佐寺(長光寺)へ脱出した後であった。
一方、正儀と和田正武らの南軍は、入洛せず男山に留まったまま、動こうとはしなかった。しかし、京を占領した直冬の要請で、正儀は数名の家臣を連れて東寺へと入る。
待ち構えていたのは、直冬を上座に、時氏や直義党の諸将たちであった。
「その方が楠木殿(正儀)か。これはいったいどういうことじゃ」
周防の大内弘世が怒りの声を上げた。正儀は挨拶をする間もなく、直冬配下の諸将の厳しい視線にさらされる。その中には直冬の陣に走った赤松氏範もいた。
諸将の中から、時氏が正儀にぎろっと目を向ける。
「南軍は我らとともに京に入るおつもりはないのか。そなたらは友軍ではないのか。それともただの傍観者であったか」
傍観者だったことは事実である。やっと正儀が口を開く。
「山名殿(時氏)、これはしたり。戦は大局を観ることが肝要。我らは東から折って返す義詮の軍勢を抑えなければならん。それと京は手薄ゆえ山陰勢だけで十分と判断したまでじゃ」
正儀は南軍の面子が立つ反論を行った。すると沈黙していた直冬が口を開く。
「初めてお目にかかる。それがしが足利直冬でござる。楠木殿、失礼の段、許されよ。されど、それがしが南の帝(後村上天皇)より惣追捕使を任ぜられておる。楠木殿とて従っていただかなければなるまい」
「この戦に関しては四条中納言様(四条隆俊)が我らの大将。それがしが惣追捕使殿の命を聞かねばならん筋合いはなかろう。文句があるなら四条大将にお話あれ」
わざと強い口調で正儀は言い返した。ここで少々揉めておけば、楠木を当てにされることはなくなるであろうとの算段であった。
案の定、赤松氏範が激怒する。
「河内守殿(正儀)、そもそも四条中納言様はなぜ来ぬのじゃ。そなたでは話にならんではないか」
「四条様には四条様の都合があり申す。ここはそれがしに任されておる」
正儀の言うことは嘘である。四条中納言には東寺に行くことは伝えていなかった。全ては、将軍家の内輪争いともいえる戦に、南軍が巻き込まれないようにするための苦心である。
のらりくらりと言い訳をしてから、正儀は直冬に一礼をして、東寺の陣から男山に戻った。
正儀は京に入るに際し、ひとつの懸念があった。それは兵糧である。男山に陣を敷けば、河内国からの補給路を確保できるが、入洛して四方の兵糧口を押さえられると、すぐに窮すことは予想できていた。
正儀の予想通り、将軍、足利尊氏は仁木頼章に命じて、さっそく京の兵糧口を押えた。すると、直冬の軍勢は、次第に兵糧に窮した。前回と同様に山名勢から略奪、乱暴の類が生じ、京の民衆には、すっかり南軍嫌いが定着した。
従弟の聞世こと服部成次が、正儀の元へ現れる。
「三郎様(正儀)、四方の兵糧口を押さえられ、京に駐留する山陰勢に兵糧が届かなくなっております。いずれ兵糧は底を突きます」
「京の人々への影響はどうじゃ」
正儀にとって民衆の動向は重要であった。南軍が京に留まるには、京の公家や庶民の支持があってのことと考えていた。
「それが、よくないことが起きております。山名の兵がまたも町家を襲って、略奪をはじめております」
「はや兵糧に窮しておるのか……」
正儀は事態が予想より早いことに呆れた。
「いえ、先の戦で略奪の味を占めた兵が、他の兵をそそのかしている由。悪いことに公家の屋敷も襲われたようです」
「ううむ、此度も、長くはなさそうじゃ……」
苦々しい顔で正儀は呟いた。その目には、早くも勝敗は明らかであった。
「……幾度、同じことをくり返すのか」
庶民、武士、公家。人々の支持を得られない戦は、いくら粘ってみても出口がないことを、正儀はよく知っていた。むしろこれ以上、南軍が京に留まることの方を恐れた。
二月に入ると、播磨から足利義詮が引き返してくる。従うは佐々木京極道誉、赤松則祐、細川清氏。そして四国から参じた細川頼之を引き連れていた。幕府軍は、京奪還を目指して西から上洛し、摂津国三島郡の小高い丘に布陣する。
兵力に劣る男山の南軍は、態度を迫られていた。男山に籠城するか。足利直冬勢と一緒に京で義詮を迎え撃つか、はたまた、こちらから義詮の陣へ討って出るか。
一人、正儀は悩んだ。策を労すれば何とか互角に持ち込めるかもしれない。だが、その後が続かなかった。ならば、撤退するのが最善と考えたが、戦に逸る和田正武らの武闘派を押える自信はなかった。
陣を敷いた寺の中で、正儀は楠木党の諸将を前にしていた。
「三郎殿(正儀)、ここは討って出ましょうぞ」
正武に促されて、正儀は意を決する。
「又次郎(河野辺正友)、京の足利直冬殿に使者を送れ。京に敵を迎えて戦っては不利じゃ。摂津で敵を迎え撃つ。軍を摂津へ進めさせるよう、お伝えせよ。我らは三島の神南備に布陣する足利義詮の軍勢に奇襲をかける」
正儀は、播磨から攻め上ってきた義詮の軍勢を食い止めるために、津熊義行ら配下の諸将に下知した。不利な状況にも、少しでも可能性の高い策を選ぶのが、正儀の戦であった。
二月六日、京から山名時氏・師義親子が率いる山陰勢が楠木軍に合流する。山陰勢は、神南備の足利義詮本陣に向け、正面から兵を進めた。
対する義詮は、時氏の動きを見て、細川頼之を先駆けとして押し出した。義詮に侍る細川清氏の従弟である頼之は、讃岐から二千の兵を率いて参陣していた。
正儀は兵を二手に分けて、頼之の讃岐勢の側面に回る。
「今じゃ。者ども、かかれ」
正儀の下知で楠木軍は讃岐勢に急襲をかける。すると、頼之率いる二千は、足下から崩れ潰走した。すかさず、勇猛な和田正武が、勢いに乗じて義詮の本陣を脅かす。だが、佐々木京極導誉・赤松則祐の軍勢が天を覆うほどに矢を射かけ、和田勢の突入を阻止した。
山陰勢を率いる時氏・師義親子は、楠木軍が崩した頼之の讃岐勢を押し分けて突き進む。
「おお、あれに見えるは佐々木京極の旗印。我らが南朝に転じたのも、元はといえば京極道誉の無礼に始まったこと。あの旗目掛けて突き進め。者ども、道誉の首を取るのじゃ」
時氏が声を荒げた。
「父上、お任せあれ」
嫡男の山名師義は、一隊を率いて京極軍目掛けて突入する。
一方の道誉も、突入が山名勢だと気づく。
「あれは山名か。返り討ちにしてくれようぞ。矢を射かけろ」
山名勢は激しく責め立てるが、京極軍は相変わらず雨あられのごとく矢を射かけた。
「ぐ……」
京極の兵が放った矢が、師義の左眼から耳にかけて貫いた。気を失いかけるも、馬ごと崩れ落ちて正気に戻る。気づくと、馬も敵の矢を受けて息絶え絶えであった。
「もはやこれまで」
師義は短刀を手に持って喉元に近づけた。
その時、家臣の河村弾正が一瞬早く、その手を押さえる。
「まだ、負けたわけではござらん。大殿(時氏)のもとに戻って兵に下知なされるのが若殿(師義)の務め」
弾正は配下の福間三郎に命じて師義を別の馬に乗せた。だが、そうしている間にも京極の兵に詰め寄られる。
「ちっ」
舌を打ち鳴らした弾正が、時間稼ぎで敵に切り込むと、その間に福間三郎は馬を引いて脱出した。福間が振り向くと、白刃に囲まれて倒れる弾正の姿があった。
師義は左眼を射抜かれていた。痛さのあまり右眼も開けてられぬ状態で馬の背にしがみつき、福間三郎に向けて怒声を上げる。
「わしをどこに連れて行こうとしておるのじゃ。わしは敵陣に向かうぞ。馬を向けよ」
「若殿、正に我らは敵に向こうておりまする」
福間は気転を効かせて師義を騙し、味方の陣まで運び込んだ。
山名軍は京極軍の弓矢に手こずっていた。時氏は、嫡男の師義が瀕死の状態で自陣に運び込まれると、もはやこれまでと撤退を命じた。
山名軍の撤退は、楠木軍が敵陣で孤立することを意味していた。
河野辺正友が声を上げる。
「殿(正儀)、山名が撤退しますぞ」
「是非もない。我らも撤退するぞ。諸将に伝えよ」
「承知しました」
正儀はこの無益な戦で無理をしたくなかった。
しかし、その思いは必ずしも皆、同じではない。和田正武は撤退の命が伝わると、正儀のところに駆け付ける。
「三郎殿(正儀)、まだ我らはまともに敵と戦っておらん。山名の兵が引いても大内(弘世)らがすぐに駆け着けるであろう。山陰勢に比べて我らはあまりにも臆病。ここは一戦交えようぞ」
息を荒らして正武が正儀に訴えた。
「新九郎(正武)殿、ここは無理をするところではない。ここで兵を失ってはならんのじゃ。和田の兵を纏めて男山へ戻るのじゃ」
正武の頑な訴えにも、正儀は首を縦に振ることはなかった。
二月八日、摂津国三島で楠木軍や山名軍らの防衛線を突破した足利義詮が京に迫る。そして、足利直冬の陣に対するように、京の手前で陣を敷いた。
ついに洛中で兄弟の戦が始まる。勢いに勝る義詮の軍勢が、直冬の軍勢を四条大宮に押し込んだ。
「坊門様(義詮)に阿波勢の力をお見せせよ。者ども、進め」
義詮の側近、細川清氏は敵軍を目掛けて斬り込んで行った。これに対峙したのは直義党の桃井直常が率いる越中勢である。
しかし、清氏の猛将振りは凄まじく、桃井直常の身代わりとして進み出た二宮兵庫助を一騎打ちで討ち取とり、桃井勢を敗走させた。
一方、男山に戻った正儀は、南軍を率いる四条隆俊に詰問されていた。陣中で床几に座った隆俊は、正儀を下に座らせて、頭から罵声を浴びせる。
「河内守(正儀)、臆病風に吹かれたか。なぜ、麿の命を無視して出陣せぬのじゃ。なぜ、義詮を追って京へ向かわぬのじゃ。惣追捕使(足利直冬)からは出陣を求めて再三、使者が来ておる。河内守は麿の顔に泥を塗ろうというのか」
「四条中納言様、京で起きている戦は我らが戦にあらず。直冬と義詮、足利の次の将軍を決める戦にございます。直冬は我らを利用しているのでございます」
「なぜ、そうだといえる。そなたに何がわかるというのじゃ」
隆俊は、こと正儀が相手だと冷静さを失った。
『くわんかうと、鳴くや吉野の山がらす、かしらも白き面白の子や』
はぐらかすように、正儀が狂歌を詠んだ。突然の正儀の態度に、隆俊は床几から立ち上がり、身体を震わせる。
「おのれ、麿を愚弄するか」
「中納言様、これは足利直冬が詠んだ歌です。『くわんかう』とは、帝(後村上天皇)の御還幸のことでもあるのです」
正儀はいたって平静に言葉を返した。
「なに……御上(後村上天皇)を『吉野の山がらす』じゃと」
「それがしは京に透っ波を放っております。直冬は東寺に収めた祈願文に、挙兵は幕府に対する反逆ではなく、将軍である父、尊氏をそそのかす奸臣を取り除くのが目的と認めております。直冬は我らの力を借りて、次の将軍に成ろうとしているだけにございます……」
その言葉に隆俊は血の気を失い、正儀を見つめた。
「……義詮がこのまま将軍に成るのか、直冬が将軍に成るのか、それがしには、さほど変わるものとは思えませぬ。まして直冬は起伏激しい気性の持ち主。とても我らの得にはなりますまい」
冷静な正儀の判断に、隆俊は複雑な顔をして床几に腰を下ろした。
「この場は、我らは男山に布陣したままで、直冬と義詮の戦の成りゆきを見守りとうございます」
隆俊は顔を背けて口ごもった。
その隆俊に、正儀は静かに頭を下げて、本陣を下がっていった。
三月十二日、近江の武佐寺(長光寺)を発って比叡山に布陣していた足利尊氏が、近江や美濃の諸将を引きいて東寺へ進撃した。
これを受けて足利直冬が率いる直義党の諸将は、東に尊氏、西に足利義詮を相手に劣勢となる。直冬は陣を追われて、七条洞院油小路へ逃げるが、西から義詮の軍勢に襲われ、交戦の未、敢えなく撃破された。直冬は京からの撤退を余儀なくされ、正儀ら南軍が守備する男山に退いた。
男山に到着した直冬は、ただちに南軍を率いる四条隆俊の陣に出向く。そして、陣に入るや否や、中央で床几に座る隆俊に詰め寄る。
「なぜ南軍は動かぬのじゃ。はじめから手助けするつもりはないという事か」
直冬のもの言いに、隆俊は気分を害する。
「出陣をせなんだは、そこの河内守(正儀)の考え。麿は与かり知らぬ事じゃ。たずねるであれば直接聞くがよかろう」
あからさまに不機嫌に応じる総大将の隆俊に、直冬は呆れながらも、今度は正儀に目を向けて凄む。
「河内守殿(正儀)、どういう事じゃ。説明してもらおう」
「惣追捕使殿(直冬)、まず最初に足利義詮を打つべきでござった。義詮の留守を狙ってまんまと京を狙ったおつもりであったのでしょうが、西に無傷の義詮の軍勢を残し、尊氏を東に追い出しただけでは、いずれ京は挟み撃ちになるのは必定。守るに難い京を、惣追捕使殿はいかに守り抜くおつもりであったのか。先の二度の京占領の教訓が、まったく活かされておりませぬ」
その言葉は、直冬から冷静さを失わさせる。
「そこまで判った風に言うのであれば、なぜ別の手立てを打とうとされなんだ。結果からあげつらうだけなら誰でもできるぞ」
「惣追捕使殿、それがしは、幾度も、早々に京を捨てて、摂津に陣を移すようにお伝えしたはずじゃ。我らとともに、京に戻る足利義詮を討てば、流れは変わったやも知れませぬ。されど、貴殿は、京に拘られた。なぜにございますか」
正儀は冷静に直冬に詰め寄った。その理由は想像できていた。直冬は父、尊氏の目の前で義詮と戦い、自らが将軍にふさわしいところを見せたかったのだ。自分を無視し続けた実父に、認めて欲しかったのだ。
直冬は無言で肩を震わせる。
「もう、よい」
直冬は正儀に背を向けて陣を後にした。そして、兵を率いて西国へと撤退して行った。
三月二十八日、正儀らも、これを受けて河内へ引き上げる。またもや南軍による京の占領は、五十日あまりで終わった。
さりとて、南朝はこの四年間で、三回も京を奪還したことは事実である。世間は否が応でも南朝を意識せざるを得ない。当の南朝も、強硬な公家たちはこれを自身の力と過信する。しかし、何れも短期で京を追われたことこそが、正儀にとっては注目すべきことであった。
正儀が京を撤退してから百日あまりが経った七月十三日。東条では、徳子が初産を迎えようとしていた。すでに父母を亡くしていた徳子は、侍女の妙とともに、実家代わりに敗鏡尼(南江久子)の楠妣庵に入った。
徳子が産気づいたという知らせを受けた正儀は、敗鏡尼の元を訪れ、庵の前で、落ち着きなく待った。
「叔父上、まだか」
声の方に目を向けると、舎弟、楠木正澄に伴われた多聞丸の姿があった。
「おう、来たか。なかなか時がかかるものよのう」
「叔父上(正儀)、わしは男子がよいのう」
多聞丸は待ち遠しそうに言った。
それは、弟の誕生を待つ無邪気な兄の姿である。しかし、気難しい少年でもあった。多聞丸が楠木館で暮らすようになり一年が経つ。だが、結局、正儀と徳子を父、母とは呼ぶことはなかった。周囲はそんな状況を気遣ったが、正儀と徳子は特に気にすることはなかった。
―― んぎゃ、んぎゃ ――
しばらくして、甲高い産声が聞こえた。中から敗鏡尼の侍女、清が嬉しそうな顔つきで出てくる。
「三郎様(正儀)、男子でございますよ。おめでとうございます」
「おお、そうか。でかした」
清の知らせに正儀はほっと息をついた。
正澄が正儀の肩を叩く。
「兄者(正儀)、おめでとうござる。これで二人の父じゃな」
そう言って正澄は多聞丸に目をやった。
「そうじゃな。多聞丸、今日からそなたは兄ぞ。弟の面倒をしかとみるのじゃ」
「まかしてくれ、叔父上」
多聞丸は嬉しそうに応えた。
庵の中が落ち着くと、正儀は侍女の妙に、中へと招き入れられる。そこには、敗鏡尼のひざ下で横になる徳子の姿があった。
「三郎殿(正儀)、ごらんあれ。元気な男子でございますよ」
産着に包まれた赤子が、敗鏡尼から正儀に託される。
「おお、ほんに元気な、玉のような子じゃ」
目を細めた正儀が、今度は徳子に目を落す。
「よう頑張ったな。これで楠木家は、ますます安泰じゃぞ」
「はい。元気な男子でよかった」
精根を使い果たした徳子だが、笑顔を作って正儀に見せた。
敗鏡尼が正儀に目をやる。
「名前を付けねばなりませんね」
「男子が生まれれば持国丸。すでに二人で決めておりました」
「持国丸……持国天からですね。よい名です」
持国天も、多聞丸のゆえんになった多聞天(毘沙門天)と同じく、四天王の名であった。
「そなたの名は持国丸じゃぞ」
敗鏡尼は、正儀から返された持国丸に語りかけて、徳子の隣にそっと寝かせてやった。
「持国丸」
徳子は隣に寝る我が子を見つめながら、感慨深く呼びかけた。正儀に束の間の平和が訪れた。
正平十二年(一三五七年)、年が明けて正儀は、河内守と兼務して左馬頭に任じられる。
この年の二月十八日、正儀は南朝にとらわれの身となっていた三人の北朝主上(光厳上皇、崇光上皇、直仁親王)の輿を警護して、大和の東大寺に向かっていた。北朝の主上たちを京へ御戻しするためである。この時、四主上の一人、光明上皇の輿がなかったのは、すでに後村上天皇から許されて、一足早く京に還幸を果たしていたからであった。
四主上は正平七年の御一統の際、中納言、北畠顕能が、その父、北畠親房の命で京の内裏で拉致した。その後、正儀の龍泉寺城を経て、賀名生に軟禁される。そして最後に、河内国の天野山金剛寺の別院、観蔵院に移されていた。
窮した幕府は、崇光上皇の弟、弥仁親王を、三種の神器なしで北朝の帝(後光厳天皇)として即位させてしまう。このため、南朝にとって四主上を軟禁する意味はなくなっていた。
それでも南朝が四主上の軟禁を解かなかったのには理由がある。続く正平八年と正平十年に、南朝に降った山名時氏や足利直冬らと組んで、京の奪回に動いたためであった。もしここで、北朝の帝(後光厳天皇)を手中に収めれば、四主上を手元に置いている意味が出てくるからである。
正儀は北畠親房ら強硬派のこの策を、非現実的だと思っていた。北朝と幕府が二度までも同じ手にかかるとは思えなかった。正儀は、一昨年の直冬による京の奪還に失敗して後、積極的に北朝の四主上の解放を廟堂に訴えていた。その結果がこの度の御帰還である。
三主上を警護して正儀が東大寺に入る。そこにはすでに、幕府から遣わされたお迎えの一軍が待っていた。
馬から降りた正儀が、行列の先達として南大門を潜ると、入道頭の武将が仁王立ちで出迎える。
正儀は戦場では飽きるほどに、この男と相対していたが、面と向かって会うのは、これが初めてであった。
「楠木殿でござるか。それがしは佐々木京極道誉でござる」
「楠木河内守正儀にござる。京極殿、お出迎えご苦労にござる」
正儀は立ったまま頭を下げた。
「なるほど、楠木正儀とはそのような顔をしておったのか。わしをいつも手痛い目に合わせ、わしの息子たちを死に追いやった者が、どのような男か、今日はじっくり見に参った」
道誉は口元に苦々しい笑みを浮かべていた。道誉の次男、秀宗は正平三年に。嫡男の秀綱は正平八年に、それぞれ正儀ら南軍に討ち取られていた。
「それがしは入道殿にお会いするのを楽しみにしておりました」
正儀は敵対心の欠片もない笑顔を見せた。
「ほう、なぜじゃ」
「それがしは父から道誉殿のことは聞かされておりました。ああ見えて義理堅い男じゃと。婆沙羅で義理堅いとはどのようなお方か、興味を持って参りました」
道誉が豪快に笑う。
「がっはは、わしが義理堅いじゃと。正成もおかしなことを言うたものよ」
「いえ、それがしもそう思うております。道誉殿は、離合集散の幕府の中で、足利尊氏殿に対しては、いまだ裏切りを見せておりませぬ。きっと惚れ込んだお方には、忠義を尽くされるのだろうと」
「ふん、若造が判ったようなことを」
「これは失礼を致しました。お許しくだされ。敵味方と別れていなければ、一度、じっくりとお話を聞いてみとうございました」
「わしと話をしたいか。またそういう機会があれば話をしようぞ」
気負いを解いた道誉の言葉に、正儀は口元を緩めて応じた。
その後、三主上を道誉に引き渡した正儀は、馬上から頭を下げて、軍勢を従えて引き返した。
「楠木正儀……正成の息子だけあって、やはりなかなかの男よのう」
道誉は去っていく正儀の一行を目で追いながら呟いた。
この年の冬、正儀の従弟、観世大夫こと服部清次は、山城国宇治の白川にいた。田楽師の一忠に師事して、白川の本座で田楽を習得しようとしていた。
正月の興行に向けて、神社仏閣と話し合いを持った帰りのことである。宇治橋の上、音も立てずに観世の後ろに男が立った。
「聞世(服部成次)か」
観世は振り向かず、迷うこともなかった。双子の間にだけ通じる不思議な気脈である。
「久し振りじゃな。田楽は面白いか」
「ああ、猿楽とは違った魅力がある」
振り向いた観世は、口元に笑みを蓄えていた。
「猿楽を捨てるつもりか」
「捨てはせぬ。猿楽を越えるのじゃ。猿楽でもなく田楽でもない。そんなものを目指しておる」
聞世も笑みで応じる。
「お主らしいのう」
通り掛かりの人が振り返るほど、二人の笑った顔は似ていた。
「ところで聞世、何しに来た」
「足利尊氏が病に臥せているそうじゃ。長くはないかも知れぬ。お前にも知らせてやろうと思うてな」
すると、観世は聞世に背を向ける。
「もう、そのようなことには関りを持ちとうはない」
「観世なら、そう言うと思うた。されど、我らにはおおいに関係がある。殿(正儀)は君臣和睦を目指しておる。足利尊氏が亡くなれば、和睦の道は遠のくやも知れぬ」
「それで……」
「うむ、そこで、殿(正儀)は京極入道(道誉)と気脈を通じておきたいと仰せじゃ。京極入道は田楽の一忠を気に入っておる。田楽の本座なら入道と会う機会もあろう。お前に京極入道との繋ぎ役となって欲しいのじゃ」
これを聞き、ふうと溜息をついた観世が、睨むように聞世に向き合う。
「わしは楠木党ではない。三郎殿(正儀)には悪いが、わしの仕事場を汚して欲しくないのじゃ」
「汚すじゃと……我らがやっていることは、お前がやろうとすることより、もっと大きな事なのじゃ。君臣和睦はこの国のためじゃぞ」
熱く語る聞世に、観世は再び背を向けた。
「悪いが頼みは聞けぬ。三郎殿(正儀)には謝っておいてくれ」
強い意志を滲ませた表情で、観世が再び振り向いた時には、すでに聞世は姿を消していた。
聞世(服部成次)の頼みを断った観世(服部清次)であったが、さっそく佐々木京極道誉と会う機会が訪れる。一忠が率いる本座によって、宇治の平等院で年越しの田楽が奉納された。ここに道誉が見物に現れたのだ。
道誉は一忠の洗練された田楽に満足した後、観世の舞も見物する。
篝火の中、しずしずと観世は舞台の中央に進み出た。そして、締太鼓と笛の音に載せて、手をしならせるように動かし、足を踏み鳴らした。一忠の動きとは趣が異なる、一つ一つの動きに切れのある舞である。
篝火に照らされる観世の顔を、道誉が食い入るように見つめていた。そして演舞の後、観世を呼び寄せる。
ふんと道誉が鼻を鳴らす。
「その方、以前会うたな。桟敷崩れの田楽で会うた猿楽師であろう」
「はい。観世大夫にございます。覚えていただき光栄にございます」
道誉は差すように視線を向ける。
「忘れるものか。わしに、猿楽を田楽を越える芸能にすると言うた。それが今は田楽師か。大口を叩いただけに終わったものよのう」
道誉は観世を蔑んだ。
「いえ、私めはあくまで猿楽師。田楽を越えるためには、まず田楽を知らねばなりませぬ。いずれ殿様にも、我が猿楽をお目にかけとうございます」
「わっはっはっは。面白き奴よのう。では賭けをせぬか。お主が田楽を越えれば、何なりと褒美を遣わそう。されど、田楽を越えれなければ、そなたは猿楽を封じる。どうじゃ」
「それは……」
「ふん、所詮、そんなものか。もうよい。下がってよいぞ」
道誉は手の甲を振って、観世を追い払おうとした。
「わかりました。御約束しましょう」
「おお、そうあるべきじゃ。わしの楽しみが一つ増えた」
にやりと道誉は口元を緩めた。
観世に自信があったわけではない。観世は聞世(服部成次)の依頼を思い出し、咄嗟に、道誉の関心を引こうとしたのである。
「あの、私めからも一つ、よろしいでしょうか……」
「何じゃ。申してみよ」
「く、くす……いや、何でもございませぬ。失礼致しました」
交換条件として、正儀の名を切り出そうとした。しかし、躊躇して道誉から視線を外す。観世の興味は、すでにこの男との賭けに移っていた。いっさいの雑念を廃して、この男との勝負に勝つことに専念したいと思った。
一方の道誉は一瞬、不審な表情を浮かべるものの、すぐに戻す。些細なことに興味はなさそうであった。
翌、正平十三年(一三五八年)は、幕府にとって節目の年となる。
四月、征夷大将軍の足利尊氏は、二条万里小路の御所で、その生涯を終えようとしていた。
尊氏は背中の腫瘍に悩まされていた。戦で負った傷が元でできた肉腫である。いわば、征夷大将軍が背負った業であり、敵対した者たちの怨念といえなくもない。それは、日を追うごとに大きくなり、尊氏の精根を奪っていた。
病床には嫡男、足利義詮が付き添う。
「父上、お気を確かに」
そう言って、背中の瘤を庇うようにうつ伏せる尊氏の顔を覗き込んだ。
「南の帝(後村上天皇)と和睦して……京へ……お戻しするのじゃ」
途切れ途切れの弱々しい声で、尊氏は義詮に話しかけた。
「もはやその議は……南の帝は我らが敵でございますぞ」
「わしは……後醍醐の帝が好きであった……帝に褒められると嬉しかった」
「その辺で。お身体に触ります」
義詮に制されても、尊氏はなおも話を続ける。
「後醍醐の帝と袂を分かったことは……生涯悔やまれて……ならなかった」
「父上……」
「頼む、南の帝と和睦して、この京にお戻しするのじゃ……頼む」
そこには、これまで義詮が見たこともない、後悔に苛まれつづけた父の顔があった。
「父上、承知しました。この義詮、父上の願いを必ずや実現させてみせまする」
「ああ、頼んだぞ……」
尊氏は安堵したかのように目を閉じる。
「……直義が居て……師直が居て……帝が居て……正成が居て……ああ、懐かしい」
「楠木正成でございますか」
「そうじゃ……あの男は……敵にしたくはなかった……四国をやると申したが……断りよった」
「父上は、その正成にも勝ったではありませぬか」
「正成とともに……幕府を作りたかったのじゃ……迷い子の虎夜刃丸を見つけて屋敷に行き……正成と酒を酌み交わした」
「虎夜刃丸……」
「うむ、虎夜刃丸に一節切を吹いてやった……」
「父上……」
「……懐かしいのう」
次の日、尊氏は眠るように静かに息を引き取った。正平十三年(一三五八年)四月三十日のこと。享年五十四歳であった。
赤坂の楠木館。正儀はその書院で軍忠状に目を通していた。
背後の気配に気づく。
「聞世(服部成次)か」
「はい。足利尊氏が亡くなりました。昨日のことです」
知らせに正儀は息を呑んだ。
「そうか、ご苦労であった。今日は館でゆっくりしていくがよい」
「かたじけのうござる」
聞世は正儀を残して下がっていった。
一人になった正儀は、立ち上がって戸棚を開き、中から笛を取り出した。そして、これを持って庭に出る。
「尊氏殿、覚えておいでですか。それがしに、この一節切を与え、また一緒に吹こうと言われましたな。されど、ついに約束を果たされずに逝ってしまわれた」
そう言って、歌口(吹き口)に息を吹き込んだ。
久しぶりに奏でた一節切は、いつもに増してもの悲しい音色である。一節吹き終わると、背後に人の気配を感じた。
「殿(正儀)、ここにおいででございましたか」
振り返ると、縁に徳子が座っていた。
「何だ、そこに居ったのか」
「御邪魔をしてはと思いまして」
「うむ、どうした」
「聞世殿からお聞きました。足利尊氏殿が亡くなったと。お祝いの宴の支度をしようかと思いましたが、殿のご様子を見て考え直しました。殿は我らにはわからぬ心をお持ちなのですね」
「ああ。わしは幼き日に、この笛を尊氏殿にもらい、今の調べを教えてもろうたのじゃ。尊氏殿と我が父は、敵でもあったが心を同じくする友でもあった」
「そうでございましたか」
「なあ伊賀(徳子)よ、わしが尊氏殿の冥福を祈ってこれを吹くのは、いけないことであろうか」
徳子が微笑む。
「いえ。殿は殿のお心のままになされませ。私はいつでも殿の味方でございますよ」
「そうか、すまぬな」
正儀は、徳子の前で一節切をもう一度、静かに奏でた。
天野山金剛寺の行宮では、足利尊氏が亡くなったことを喜んで、三日続けて祝宴が行われた。正儀や和田正武をはじめとする楠木党の面々も祝宴に招かれていた。
宴席の向こうでは、この時、左大臣に昇進していた洞院実世が、浮かれて軽口を叩く。
「尊氏が死んだ。これで幕府は崩壊じゃ」
「我らが京に帰れる日も近いでありましょう」
権中納言の四条隆俊が盃を片手に応じた。
幕府に対する強硬派の面々は、口々に尊氏の死を喜び、無礼講とばかりに、武士たちも交えて酒を飲んで騒いだ。浮かれる輪の中には、いつの間にか正武の姿もあった。
対して、正儀の心は冷めていた。酒を口に運んでも酔わない。一人、縁に出て風に吹かれていると、中納言の阿野実為が現れる。
「河内守(正儀)、このようなところにおられたか。どうされた、あまり酒が進んでいないようじゃな」
「阿野様、それがしは、足利尊氏が生きていたからこそ、我らを滅ぼさずにいたのではないか……そんな気が致しまする」
思わぬ言葉に、実為は正儀をじいいっと見つめる。
「なぜ、そう思われる」
「いや、特に根拠などはありませぬ。お気になされませぬよう」
正儀はそう言ってから、幼い時に見た屈託ない尊氏の表情を思い出そうとした。
時代は着実に変わっていく。それから四月後、南朝と幕府、それぞれで、世代交代を感じさせる出来事があった。
八月十九日、足利尊氏の死で浮かれていた左大臣の洞院実世が、自らも浮腫(水腫)を悪化させて亡くなった。享年五十一歳であった。
名門、洞院家に生を受け、太政大臣、洞院公賢の嫡男として自身も栄達を求めた。三年前には南朝の中で従一位左大臣にまで出世した。衰退する南朝の中においても、ひたすら栄達を求め続けた生涯であった。
同月二十二日、幕府では足利義詮の側室、紀良子が男児を産んだ。
「おお、玉のような男子じゃ。でかしたぞ、良子」
笑みを湛えた義詮が、出産して間がない良子の手を握る。
「すでに名は考えてある。春王丸じゃ」
その名に、良子は微笑んだ。
義詮には正室、渋川幸子との間に生まれた嫡男がいた。しかし、自らの幼名を与えた千寿王は、すでに夭折していたため、この子に大きな期待を寄せる。
「きっとこの子は我が父(足利尊氏)の生まれ変わりじゃ。いずれ大将軍に成るであろう」
義詮は男児の誕生を大そう喜んだ。
十二月八日、その足利義詮は京の帝(後光厳天皇)より宣下を受け、正式に幕府の第二代征夷大将軍となった。
将軍となった義詮は、近臣として信頼を勝ち得ていた細川清氏を、仁木頼章に代えて、幕府の執事に任命した。
ひとつの時代が終わったと言える。当世を主導したのは北朝の足利尊氏であり、南朝の北畠親房であった。
二人の指導者が居なくなった南北朝時代は、新たな世代による新たな時代に突入する。担い手は北朝の足利義詮であり、また、南朝の楠木正儀である。時代は、二人の予測をはるかに越えて、混沌とした争乱に突入する。