第23話 祝言
正平八年(一三五三年)六月九日、夏霧がかかる早朝、男山を出陣した正儀と和田正武が率いる楠木軍は、南軍の先兵として南から京へ攻め入った。
騎馬に跨った正儀が声を張る。
「よいか、我らは四条河原を目指して突き進む。後から来られる二条総大将(教基)に道を作るのじゃ」
「おうっ」
篠崎親久や津熊義行らが気勢を上げた。そして、九条河原あたりで小勢の幕府方を撃破して一気に四条河原を占領した。
手筈通り楠木軍に呼応して丹波口から京へ進軍した山名時氏の山陰勢は、嵯峨野周辺に火を放ちながら京へ入った。
南軍を迎え撃つ幕府だが、将軍、足利尊氏は、いまだ遠い鎌倉の地。京を預かっていたのは嫡子、足利義詮である。予てからの南軍の不穏な動きに対するべく、京に兵を集めていた。南軍侵攻の知らせを受けると、義詮は急ぎ鹿ヶ谷に布陣した。
大鎧を纏った義詮は、近臣らを前にわなわなと拳を握りしめる。
「ええい、またしても南軍の侵入を許すとは。父上(尊氏)に合わす顔がない。ここに兵はどの程度おるのか」
「まだ三千の兵しか集まっておりませぬ」
「くそ、諸将に使いを送るのじゃ」
「承知っ」
細川清氏が応じて諸将に使いを走らせ、兵の参集を急がせた。
細川顕氏が亡き後、清氏は義詮の傍に侍るようになっていた。八幡の戦いで幕府軍の大将を務め、義詮の側近の座を射止めた顕氏の立ち位置に、そっくり清氏が収まっていた。
「あれだけ、諸将が京にいたはずなのに、何で三千なのじゃ」
諸将の節操のなさに、義詮は苛立っていた。
そんな義詮に、清氏が進言する。
「坊門様(義詮)、先の御一統の二の舞を避けるため、帝(後光厳天皇)には、比叡山に御動座いただいてはいかがかと存じます」
「うむ、よい考えじゃ。さっそく手配せよ」
「承知致しました。それがしが内裏へ向かいます」
そう言うと、すぐさま清氏は馬を駆った。
南軍は楠木軍の進撃に続き、総大将の二条教基を男山に残し、権中納言、四条隆俊が率いる本軍が入洛する。馬から降りる隆俊を、正儀は片ひざ付いて迎えた。
「河内守(正儀)、戦況はいかがじゃ」
「はっ、幕府軍はさしたる抵抗はなく撤退を致しました。足利義詮は屋敷を抜けて鹿ヶ谷に入り兵を集めている由」
「そうか。ではここで山名と合流して足利義詮との決戦に挑むとしよう」
満足げに話す隆俊に、正儀は顔を上げる。
「恐れながら申し上げます。時をかければ我らが不利になります。ゆえ、我ら楠木党はこのまま鹿ヶ谷を突きます。山名へは伝令を送れば十分でございます。一刻を競いますゆえ、これにて御免」
そう言うと正儀は立ち上がり、隆俊に背を向けた。
「ま、待て河内。指図は麿が……」
隆俊の声が伝わる間もなく、がちゃがちゃと具足(かっちゅう)を鳴らして正儀は自軍に戻っていく。隆俊はその後ろ姿を目で追いながら、ちっと舌を打ち鳴らした。
正儀は、すぐに楠木軍を引きいて鹿ヶ谷へ向かう。
「きっと敵は浮き足だっておる。今が好機ぞ」
馬上から、足利義詮の本陣を突くように号令をかけた。
鹿ヶ谷の本陣は、佐々木崇永の軍勢が守っていた。崇永は佐々木氏頼の出家後の法名である。
崇永は、近江源氏、佐々木氏の嫡流で、佐々木道誉はその傍流である。この頃、佐々木崇永の家は六角氏、佐々木道誉の家は京極氏とも呼ばれ、互いに近江の所領を巡って仲は悪かった。
正儀が率いる楠木軍が義詮の本陣に近づくと、その崇永の軍勢がいっせいに矢を射かける。正儀も腕に覚えのある兵を並べて、相互に矢を射かけ合った。
一方、丹波口から攻め上がった山名時氏は、四条河原で、総大将の二条|教基に代わって四条隆俊に迎えられる。時氏は、自分の息子ぐらいに若い隆俊の前で、片ひざ付いて到着を報告する。
「右京の幕府勢を平らげ、ただいま参上つかまつりました」
「山名殿、よう参られた。今、河内守(正儀)が山名殿の到着を待ち切れず、鹿ヶ谷に向かったところじゃ」
隆俊の言葉に、時氏は驚いて顔を上げる。
「何と……それで、御大将様は、ここで何をなされておられる」
「何をとは……山名殿を待っておったのじゃ」
「それがしを待って何となさる。早う、先陣の楠木殿に続かねば」
時氏は声を荒げた。
「待たれよ。戦の指図は麿が行う。そなたの軍は、麿の命を待って……」
「先を急ぎますゆえこれにて御免」
時氏は、隆俊の言葉が終わらないうちに、配下の諸将に命じて、軍勢を京の東、鹿ヶ谷に進めた。
「戦も知らぬ公家の若造が指図か。あのような者のもとで、楠木もよく働くものよ」
時氏は、馬上で吐き捨てるように言った。
山名軍は、楠木軍が佐々木六角崇永の軍勢と争っているところに駆け付けて、阿吽のごとく加勢する。良馬を擁する山陰の軍団は、その騎馬で六角軍を側面から蹴散らした。
足利義詮の軍勢は、正儀が睨んだ通り、兵が十分に集まっておらず、兵の士気も上がっていなかった。
斥候の報告に義詮は項垂れる。
「何と、近江守(六角崇永)が崩れたというのか……ええい、ここはひとまず引くのじゃ。諸将に伝令を出すのじゃ」
勢いのある南軍に利があると悟った義詮は、近江の堅田に軍を撤退するように命じ、早々に京を後にする。
そこに、ちょうど帝(後光厳天皇)の動座の手配を済ませ、細川清氏が内裏から戻ってきた。馬上の清氏は、撤退しようと混乱する幕府本陣のありさまを見て、目を吊り上げて怒声を上げる。
「これは何としたこと。者ども、引くな。敵に向かえ。逃げるは武士の名折れぞ」
そう言って、細川勢を引き連れて、楠木軍に向かった。
一方、近江の堅田を目指して比叡山に入った義詮は、清氏が居ないことに気づく。
「清氏はどうした」
すると、その動向を知っている者が後ろから進み出る。
「左近将監様(清氏)は、戦わぬのは武士の名折れと申して、敵に向かっていきました」
「たわけが。なぜ引っ張って連れて来なんだ。軍議があると申して、清氏を急ぎ連れ戻してくるのじゃ」
義詮は苛立ちながら近習に命じた。
正儀は、撤退する幕府軍の中から、丸に二つ引きの旗印の一軍が、こちらに向かってくるのを見つけた。
正儀は目を凝らしながら、隣に馬を並べた河野辺正友に問いかける。
「敵の一軍が向かってくるぞ。二つ引き。あの旗印は足利義詮か」
「似ておりますが、あれは細川の紋様でございます」
「ほう、戦下手の細川に、あのような勇ましい者が居ようとは」
清氏は、細川一族の中で屈指の猛将であった。
最初、正儀は、思わぬ清氏の奮戦に手こずるが、徐々に細川軍を押し返した。しばらくすると、楠木軍の前から細川軍が、比叡山に向けて撤退を開始する。
「よし、あの者どもは足利義詮の元に参るであろう。跡を追って、義詮の本軍を攻撃するのじゃ」
正儀は、四条隆俊が率いる紀伊勢と、北畠顕能が率いる伊勢軍が後に続いていないことを気にかけていた。しかし、ここは機会と進軍を命じた。
楠木軍が細川清氏と争っている間に、足利義詮の本軍は比叡山を越えていた。
義詮は、近江の堅田まで敗走して腰を下ろすと、ふうと大きく息を吐く。
「ここまでくれば、ひと安心じゃ。御上に御変わりはなかろうな。ご機嫌を窺って参れ」
「はっ、ただちに」
近臣が頭を下げて、帝の元に走った。
一行は、苦労して擁立した幼い北朝の帝(後光厳天皇)を奉じ、関白の二条良基ら北朝の公卿たちも従っていた。
一行を護衛する武将の一人が、侍所頭人の佐々木京極秀綱である。秀綱は京極道誉の嫡男で、父に代わって京極軍を率いて付き従っていた。
その秀綱が駆け寄り、義詮の前で血相を変える。
「坊門様(義詮)、舟が一隻も見当たりませぬ」
「何、琵琶湖を渡ることができぬと申すか」
義詮は顔を引きつらせた。ここ堅田から、舟で琵琶湖の対岸を目指すことを考えていたからである。
―― びゅん ――
突如、一本の矢が一人の兵の肩をかすめた。
「て、敵じゃ」
その声で一同が振り返ると、草むらから幾十もの矢がいっせいに放たれる。幕府軍に奇襲をかけたのは、在地の野伏たちであった。この野伏を集めて指揮を執るのは、南朝方の掃部助、堀口貞祐。貞祐の父は新田義貞の忠臣、美濃守の堀口貞満である。貞祐は、あらかじめ正儀と謀り、この地で傭兵を募り、舟を一掃したうえで、義詮を待ち構えていた。
秀綱の京極勢が、義詮を逃がすべく野伏たちの前に立ち塞がる。
「坊門様(義詮)、ここはそれがしに任せて、北へお逃げください」
「さあ、京極殿(秀綱)が防いでいる間に早く」
いつの間にか追いついた細川清氏に急かされて、義詮は、帝の御輿である玉輦を奉じて琵琶湖の西岸を北に向けて敗走した。
清氏の軍勢を追って、楠木軍も比叡山を越えて近江に入っていた。追撃の手を緩めようとはしない楠木軍に、義詮の幕府本軍は、徐々に追い詰められていく。
背後から楠木軍が迫る状況に清氏は、咄嗟に路を変える。
「街道ではなく山道に入れ。帝の輿を担いだままでは敵の馬に追いつかれる。馬が入れぬ山道に入るのじゃ」
義詮自身も馬を捨て、徒歩で山の中に入った。しかし、道はだんだんと細くなり、帝の玉輦を担いで進むことさえできなくなった。
清氏は帝の輿の前でひざまづく。
「主上様、ここからは御輿で進むことができませぬ。まことに恐れ多いことなれど、我が背にお掴まりください」
清氏は、まだ少年の帝を背負って塩津の山を越えた。
足利義詮の一行を追う楠木軍の元に、黒衣の透っ波が馬で駆けつけ、正儀の前で下馬する。
「義詮の一行は、馬を降り、輿を棄て、塩津の山の中に入りました」
「何、足で山の中に……」
片ひざ付いて報告する透っ波を前に、正儀は一瞬、目を閉じて思案してから、馬上で声を張り上げる。
「進軍を止めよ。追撃はここまでじゃ。諸将に伝えよ」
「承知つかまつった」
すぐに津熊義行が、正儀の下知を触れ回った。
すると、すぐに和田勢を率いる和田正武が、馬を降りて兜を脱いだ正儀の前に現れる。
「三郎殿(正儀)、なぜ追撃を止めるのじゃ。もう少しで追いつきそうであったのに」
「新九郎(正武)殿、後ろを見られよ……」
せっつく正武に、正儀は指を差す。
「……四条様はおろか、北畠様の軍勢も、山名軍も我らに続いておらぬぞ。山の中では時もかかる。近江は佐々木党の本拠地。我らが孤立すれば敵の思う壺じゃ」
血気に逸る兵を率いていても、正儀は冷静であった。
「くっ、ここまで追い詰めておきながら」
無念な顔つきで正武は兜を脱ぎ、頭を掻いた。
そこに津田武信が現われて、正儀に注進する。
「真野浦で、堀口殿が京極秀綱を討ち取ったようでございます」
「なに、秀綱を……そうか、ご苦労であった」
またしても京極道誉かと思う。道誉の次男、京極秀宗は、四條畷の戦の直後、南大和の戦で討ち取っていた。次男に続き嫡男までを討ち取ったことに、正儀は心が咎めた。
北朝の帝(後光厳天皇)と足利義詮を近江に追いやり、京は再び南朝のものとなった。
内裏を占領した南軍は、大納言の二条教基、権大納言の洞院実世と、さらに、権中納言の四条隆俊・北畠顕能が、朝廷の人事を差配する。
関白、二条良基ら多くの北朝の公卿たちが、北朝の帝(後光厳天皇)の動座に付き従う中、なぜか一人、京に残った北朝の公卿がいた。実世の父、洞院公賢である。公賢は、かつての北朝の太政大臣で、正平の一統の折は南朝が左大臣として遇していた。
南朝は、この度も実世が主導して、公賢を太政大臣に任じ、北朝側の代表とした。そして実世自身は、京占領の手柄で、このあと右大臣に昇進する。
時を同じくして、南朝に降った足利直冬は、庇護者である大内弘世の軍勢を伴って、長門から周防、石見へ勢力を拡大していた。
こうして南朝は、再び勢いを取り戻したのであった。
再び京を手中に収めた南軍であったが、先ゆきを占うがごとく、早くも不穏な事件が起きる。
京の町人たちは、南軍の兵たちが闊歩する大路から姿を消し、町屋で息を潜めていた。
―― がらがら、どん ――
勢いよく町屋の戸が開け放たれる。
「我らは南軍じゃ。我が大将からの命で兵糧になりそうなものを頂いて行く。食い物を供出してもらおう」
「そうじゃ、命が惜しくば米を出せ」
組頭に続いて、野伏まがいの兵が、町屋の主人の胸倉を掴んだ。
「ひゃあっ」
主人は怯え、震える手で奥を指し示した。
「おお、食い物がたくさんあるではないか。もらうぞ」
南軍の兵たちが中に押し入り、片隅で震える家族を無視して、米や芋とともに、鍋までも抱えた。
「お、お待ちください」
「うるせえ。命があるだけでもありがたく思え」
―― どがっ ――
兵に蹴り倒された町屋の主人が、勢いよく転がった。
この家ばかりではない。兵たちは次から次に町家を襲っていた。京の民衆は南軍を恐れるようになり、早く足利義詮が京へ戻ってくることを願った。
この事件は、すぐに東寺に駐留する正儀の耳にも入る。
「どこぞの兵が乱暴、狼藉を働いているようじゃ。我が軍ではあるまいのう」
「我らの兵は野伏上がりも多いゆえ、そこは注意して、特に傭兵は男山に控えさせております」
津田武信が応じた。笹五郎が集めた野伏たちは、男山から動いてはいなかった。
「うむ、どこの兵か確かめて止めさせねば、我らは京の町中を敵にしてしまう」
正儀が命じて、楠木党は手分けをして狼藉を働く兵たちを探した。
すると、一刻もせぬうちに舎弟、楠木朝成が陣に戻ってくる。
「兄者(正儀)、わかったぞ。盗賊まがいの兵は山名の陣に入って行ったということじゃ」
「何、山名か。面倒なことをしでかしてくれたものよ」
ふうぅと正儀がため息をついた。
「いかがなされます」
「わしが時氏殿と話してみよう」
そう言って、正儀が立ち上がった。
時氏とは京侵攻の折の軍議で、顔を合わせたという程度の仲であった。
武信を連れて正儀が山名の陣に入った。いかつい風貌の時氏が、ぎろっと睨むように正儀らに視線を動かす。
「これは河内守殿(正儀)、いかがされた」
「伯耆守(時氏)、山名の軍兵が町家を襲い、兵糧や金目のものを横領しているという。止めさせてもらえませぬか」
「我が方の兵がか。それは証拠があるのか」
「盗賊紛いの兵が山名の陣に入っていくところ見た者がおります」
代わって武信が答えた。
すると時氏が、ふんと鼻で笑う。
「そのようなことでは証拠にならん。盗賊を捕まえて、ここに連れて来てからじゃ。そもそも、野伏上がりをたくさん抱える、その方の兵を疑うてはどうじゃ」
「我が方の兵は男山に布陣させております。それと兵糧の蓄えもあり申す。山名殿は兵糧を十分お持ちですか」
正儀は時氏の痛いところを突いた。
「ふん、大きなお世話じゃ。されど、仮に我が兵がやったとて、それを責められようか。京に留まるには兵糧が必要じゃ。帰れと言うなら帰るがのう。あははは」
若い楠木党の棟梁を舐めてかかる時氏に、すかさず正儀が応じる。
「では、我が方の兵糧をお分け致す。それで、兵を抑えてくだされ」
「何じゃと。これは殊勝な……」
意外な申し出に、時氏は目を丸くする。
「……ううむ、まあ、もらえるものはもろうておこうか。ただし、兵が収まるかは知らんがのう」
「結構でござる。兵糧は後でこの陣にお運び致しましょう。ではよしなに」
正儀は一礼し、武信とともに陣を出ていった。
「楠木正儀……ううむ、あの正行の弟か……」
時氏は、かつて楠木正行との戦で負った足の傷を摩りながら思案した。
七月二十四日、京の報を受け、鎌倉から上洛の途にあった将軍、足利尊氏の軍勢が、美濃の垂井へ到着した。
一方、尊氏の嫡子、足利義詮は楠木軍に追われ、いったん琵琶湖の北に敗走した。その後、北朝の帝(後光厳天皇)を奉じて美濃に移り、垂井の宿に入っていた。
南軍に駆逐されて口惜しい義詮は、苛立ちを隠さず尊氏に訴える。
「父上(尊氏)、此度の不手際、面目次第もござりませぬ。次は、この義詮自らが先陣をつかまつり、京の南軍を追い払ってご覧に入れます」
「まあ、そう気負わんでいい。昔から京は攻めるに易く、守るに難いところ。わしも楠木正成にはさんざんにやられた。そなたはその息子にやられたか。正成に似てなかなかやるではないか」
尊氏は、かつての幼い虎夜刃丸の顔を思い浮かべてにやついた。
「父上、笑っている場合ではありませぬ。嫡男の正行ならいざ知らず、若輩の弟などに」
「確か、そちと同じ歳じゃぞ。たいしたものよ」
この時、義詮と正儀はともに数えで二十四歳。義詮は、父が敵を褒めることが癇に障る。
「なぜ父上が正儀の歳まで知っておるのです」
「そう、かりかりするな。すぐに京は取り戻せる。なぜだかわかるか」
「い、いえ……」
返答に困る義詮に、尊氏は口元を緩める。
「京の支配は一度の勝ち負けでは決まらん。京を支配しようと思えば、京の公家や町人、畿内の豪族、諸国の諸将、周囲を味方に付けることじゃ。京に南軍が入っても、支援する者が周囲におらねば、京を出ていかざるを得ん。よいか義詮。小さな勝ち負けを見ていては駄目じゃ。大きな流れを捕えて諸将を味方に付けることじゃ」
「父上が、それがしにそのような教えを説くのは初めてでございますな」
「んっ、そうであったか」
父、尊氏の言葉に、義詮は少し落ち着きを取り戻した。
尊氏と合流した義詮の幕府本軍は、美濃の垂井を出立して京に進軍する。幕府軍は、鎌倉の軍勢に加えて、美濃の土岐勢、北伊勢の仁木勢が合流し大軍となっていた。さらに近江では嫡男、秀綱の弔い合戦とばかりに、佐々木京極道誉が加わる。この幕府軍の動きを聞き、播磨守護の赤松則祐も、白旗城を出立して京へ進軍した。
幕府軍の動きは、早くも京の南軍に伝わる。陣を敷く東山の寺には、総大将で大納言の二条教基を上座にして、補佐役の権中納言の四条隆俊、右大臣の洞院実世、権中納言の北畠顕能ら公卿と、越智家澄、湯浅定仏(宗藤)ら南朝の武将、それに、山名時氏・師義親子や石塔頼房といった元幕府の武将が集まっていた。
「尊氏が動いたと聞くが、どうなっておるか」
御堂の中で、総大将の二条教基が、皆の顔を見回した。
すると、湯浅定仏が諸将の前に絵地図を広げる。
「はい、東から尊氏が、二万を超える軍を率いて近江に入った由。西からは、赤松が五千の兵で摂津を進軍中とのことです」
「このままでは我らは挟まれる。何とかせねば……策はないのか」
洞院実世は、危機感を煽るだけで、どうしてよいかわからない。
軍議となれば、正儀が南軍全体の策を講ずるところである。だがこの時、赤松則祐の上洛を阻むため、楠木軍を率いて摂津に赴き、不在であった。
南軍を指揮する四条隆俊は、正儀抜きでも出来るところを見せようと、実践経験が乏しいにもかかわらず口を開く。
「ここは、いったん男山まで撤退して、様子をみてはいかがであろうか」
「おお、それはよい案じゃ」
すぐに実世が隆俊の意見に同調した。
しかし、越智家澄が難しい表情を返す。
「いえ、それでは前回の二の舞。同じことになり申す」
しばらく思案してから、それではと、隆俊が再び口を開く。
「では、楠木は男山に、北畠中納言は比叡山に、山名殿は丹波に引いて、敵をいったん京に引き入れ、兵糧の補給口を断って、敵を飢えさせてはいかがじゃ」
「それはよい案じゃ」
またもや実世が同意した。
「どこかで聞いた手でございますが、京の食料を買い占めるなど支度が必要でござる。とても今からでは間に合いませぬ」
今度は、山名時氏が否定した。
それでも諦めずに隆俊が続ける。
「では、こちらから全軍で近江に討って出てはいかがか」
「それもよい案じゃ」
またまた実世が同調した。
「近江で戦うのと京で戦うのとでは何が違うのでございますか」
今度は石塔頼房が呆れたように返した。ついには、隆俊が眉間にしわを寄せて沈黙する。
痺れを切らせた時氏が、立ち上って隆俊を見下す。
「大将たるもの、策の一つや二つは持っておくべきもの。策がないなら、山名は己で考えて戦をするまで。これ以上、話しても時の無駄でござる。これにて御免」
そう言って、時氏は陣を出て行った。
隆俊は万策尽きて配下の定仏に顔を向ける。
「湯浅入道、意見はないか」
「ここは、いったん引かれるべきかと存じます。籠城するには支度が不足し、討って出るには時を逸しております。中途半端に留まるより、ここは、捲土重来を期すべきかと」
「それがしもそれがよろしかろうと存じます」
公家の北畠顕能までもが撤退に賛成する中、隆俊は正儀の顔を思い受かべ、苦々しそうな顔で唇を噛んだ。
軍議で撤退が決まると、隆俊は実世に急かされ、本軍を率いて一足先に大和に向けて撤退した。
山名の陣では、撤退の支度に、兵たちが慌ただしく動き回っていた。
「兵糧は棄ておいてはならんぞ。楠木からもろうた兵糧も持って帰るのじゃ」
小具足(篭手や脛当など)姿で声を張る山名時氏の前に嫡男の師義が歩み寄る。
「父上、南軍の二条様(教基)や四条様(隆俊)が撤収されましたぞ」
時氏が、呆れたような表情を師義に返す。
「総大将らが誰よりも先に撤退するとはな」
「あのような公家を将として仰がなければならんとは。南軍も人がおりませんな」
師義も笑って答えた。
「じゃが、楠木は若いがなかなかの男じゃ。されど、公家の下で働いておっては、残念ながら器量が生きぬのう」
「まったくですな」
「では、我らも長居は無用じゃ。撤退しようぞ」
時氏は兵たちに前に立ち、全軍に撤退を命じた。
この南軍の動きに、正儀も摂津国神崎から、軍を一旦、男山に引き揚げる。
「兄者、六月九日に入洛して、今日が七月二十八日。此度も二か月に足りませなんだな」
残念そうに言う舎弟の楠木朝成に、正儀は両の拳に力を入れる。
「こんなことを続けていては駄目じゃ。四条卿も洞院卿も、公家の方々は、京を押えれば勝ちじゃと思うておる。京を押えるのは単なる飾りじゃ。本当の勝敗は京に入る前に決まっておる。まずは諸国の武士の支持を得ることじゃ」
「それがしも、昔は兄者の考えがわかりませなんだが、今はようわかります。されど、武士を下にみる公家にわからせるのは、なかなかに難しい」
朝成の言葉に正儀は頷いた。
そこに津田武信がやってくる。
「殿、全軍、集まりましてございます」
「よし。赤松が来ぬうちに撤退じゃ。木津川沿いに大和を経て東条へ戻るぞ」
ただちに正儀の下知が、全軍に伝わる。
南軍はひぐらしの声と共に京に現れ、その声とともに姿を消したのであった。
撤退の途に就いた楠木の兵たちは疲れていた。無理もない。この二年間、京へ進撃し、占領しては幕府に追い落とされるという、無益な戦の繰り返しであった。
退却する楠木軍の中に、一人、生気を失った男がいた。津田武信の配下、篠崎六郎久親である。
(父上、わしは何のために戦っておるのであろう。わしが討死するまで続くのであろうか)
心の中で呟いた親久は、胴丸の中に納めていた弁才天の御札を握りしめる。父にもらったものである。久親の父、篠崎嘉門は湊川の戦いで討死していた。
(もう、戦は嫌じゃ……戦いとうない)
この世の無常を感じずにはいられなかった。
親久は四條畷の手前、自分の館がある樟葉村のあたりで、楠木軍から離れて一人になる。親久には妻と五歳になる娘の菊、一歳の嫡男、藤若丸がいた。
そのまま自分の館の前まで帰ると、その前で遊ぶ菊と、妻に抱かれた藤若丸の姿が目に入る。親久は少し遠くから、しばらくその様子に見入った。そして、おもむろに懐に手を入れ、弁才天の御札をぎゅっと握りしめる。
「すまん……」
親久は小さく呟くと、館を背して行方をくらました。
楠木軍は、総大将の四条隆俊に遅れて河内国東条に帰還する。
龍泉寺城で兵を解散した正儀は、束帯姿で賀名生の行宮に赴いた。
廟堂で平伏し、御簾を上げた帝(後村上天皇)に拝謁する。傍らには関白の二条師基、それに阿野実為らが座っていた。この時、実為は、亡くなった兄、阿野実村に代わって中納言に任じられていた。
帰還の挨拶をした正儀に、帝は口元を緩める。
「よく無事に戻った。そちには苦労をかけた」
帝に声をかけられ、正儀は恐縮する。
「此度も、御上を京へお戻しすることが叶わず、申し訳なく存じます」
「親房の策には無理があったのか」
「それがし、北畠卿(親房)に直接、お考えを聞いておりませんので、軽々《けいけい》なことは申せませぬ。が、もし、北畠卿が、平安の御代に戻されようとされておられたなら、目の前の戦に勝つことができても、今世の流れには勝つことができなかったかと存じます」
「足利を滅ぼしてもか」
「確かに将軍家があるかぎり、武士は将軍の元に集まります。されど、足利を滅ぼしても、武士は他の誰かに将軍の役を求めるでしょう」
難しい表情を浮かべながら答える正儀に、帝は静かに頷く。
「河内守(正儀)の考えは判った。今後も御所に来て、朕に世情を聞かせてくれ」
「ははっ」
正儀は恐縮して頭を下げた。親房が廟堂から去った後、帝は、亡くなった権大納言、阿野実村の言葉の通り、弟の実為と正儀を頼りにする。
帝への拝謁を済ませた正儀は、廟堂の外で再び阿野実為に呼び止められる。
「河内守、ご苦労であった」
「かたじけのうございます」
頭を下げる正儀に、実為が扇を広げて耳打ちする。
「京より戻った北畠中納言(顕能)のことじゃが、行宮へ出仕不要を言い渡された。つまり伊勢にて謹慎ということじゃ」
驚いた正儀が、顔を向ける。
「例の件ででございましょうか」
「そうじゃ。北畠中納言も中宮様(北畠房子)入内の折はあれこれ動いておったからな。新待賢門院様(阿野廉子)のお怒りを受けた格好じゃ」
「そうでありましたか……」
正儀は言葉少なに応じた。同情でもなく、溜飲を下げたわけでもない。どんな言葉を返してよいか、わからなかったからである。
途惑う正儀に、実為が畳みかける。
「それと、父君の方の北畠卿のことじゃが……」
「今はどちらに」
「うむ、賀名生の屋敷で謹慎されておられる。気落ちしたのか身体を壊しておるそうじゃ」
「あの北畠卿が……」
気力みなぎる親房の顔を思い浮かべ、世の無常を感じた。
「あれだけ北畠卿にべったりであった洞院卿(実世)は、賀名生に帰ってから、まだ顔を出していないそうじゃ。権力とは儚いものよ」
実為の話を聞き終え、正儀は親房に会ってみたいと思った。
行宮を出た正儀は、北畠親房の屋敷の前までくる。しかし、中に入る決心まではつきかねていた。しばらく前で立ち尽くしていると、後ろから声を掛けられる。
「河内守様(正儀)ではありませぬか」
はっと振り向くと、そこには伊賀局(篠塚徳子)が、侍女の妙を伴って立っていた。
局の笑顔に、正儀の気負いが解ける。
「こんなところでお会いできるとは……どうされたのです」
「新待賢門院様(阿野廉子)の使いでございます。河内守様こそいかがされました」
「う、うぅん……」
煮え切らない返事である。
「入りにくいのですね。私も同じです。では一緒に参りましょう」
「ちょっと待っ……」
伊賀局が、強引に正儀を引っ張って門を潜った。
屋敷のとば口に立った正儀は、息をぐっと吸い込んで、家人に取次を頼んだ。親房が病の姿を見せまいと、会わないおそれもあったが、すんなりと中に通される。
庭への戸板を開け放った奥間には、布団の上で上体を起こし、宿直物(夜衣)の上から直綴(法衣)を羽織っただけの親房がいた。
気位の高い親房が、寝所に自分たちを招いたことに、正儀は驚く。
「あの……お身体の具合がよくないと聞きました」
「うむ、隠居してから倒れてのう。それからは、ほれ、この通り、手足が上手く動かんのじゃ」
そう言って、ぎこちなく左手を上げてみせた。
「左様でございましたか」
「二人してわざわざ訪ねてくるとは、どのような用件じゃ。まさか、麿のこのような姿を見にきた訳でもあるまい」
強気の言葉は相変わらずであった。
「いえ、伊賀局殿とお会いしたのはこの屋敷の前。たまたまにございます」
そう言って、正儀は隣の伊賀局に目を配った。
「はい、私は新待賢門院様の使いで、お見舞の品を持って参りました」
伊賀局はそう言うと、妙に持たせていた包みを差し出した。
「これはかたじけない。御院様によしなにお伝えくだされ」
通り一遍の返答に、伊賀局は畏まった。
表面上は穏やかな対応だが、親房は見舞いの品に目もくれなかった。
自身の更迭に新待賢門院が関与していることはわかっている。本音は、女院の侍女の顔など見たくもないといったところである。
「さて、河内守は何用じゃ」
「それがしは……」
咄嗟に理由を考える。
「……それがしは京の戦の様子を伝えに参りました」
「それならば我が子、顕能が昨日、知らせに参った。それでも、そちの口から麿に聞かせたいというのか」
「い、いえ……」
再び、正儀は口籠った。
その様子に、親房は苛立ちを見せる。
「では、麿から聞こう。そなたの兄、正行のことか。麿が死地に追いやったとでも……」
「いえ、あの……」
刺すような親房の目に観念する。
「……わかっておいでですか」
正儀はゆっくりと顔を上げて応じた。兄、楠木正行がなぜ死ななければならなかったのか、その理由を親房に求めていた。
「そちは麿の策を恨んでおろうが、死を選んだのは正行自身よ。撤退しようと思えば機会など、いくらでもあったはずじゃ。父に似て聡いそなたならわかるであろう」
確かに親房の指摘の通りであった。
「ではなぜ」
「それを麿にたずねられても困る。正行のみが知ることぞ」
暫しの沈黙が続く。二人の様子を、伊賀局ははらはらと見守った。
思い出したように、親房が口を開く。
「ただ……」
「ただ……何でございますか」
「武士の気概を見せられた。正行にも、そして正成にもな」
「兄は……武士の気概を北畠様に見せつけたかったというのですか」
らしからぬ言葉に、正儀は驚いた。
「武士は公家の駒ではない、思い通りには動かぬ、ということを我ら公家に知らしめたということか……」
「それは武士の意地だと言われますか」
怪訝な表情を親房に向けた。
「いや、後の楠木一党のことを思うてであろう。正成も同じじゃ」
「では、楠木の跡を継ぐ者が、やり易いようにと思うて、父や兄は体を張った、というのですか」
自分で言いつつも、正儀は呆然としていた。
「先ほどから申すように、麿にはわからん。これ以上、詮索しても詮なきこと。後は己で考えることじゃ。麿はそろそろ横になりたい」
そう言うと、親房は肩で大きく息をした。
「北畠様、もう一つ、お聞きしてよろしいか」
「これで最後の質問にせよ」
「承知しました。我が兄の討死で、北畠様のお考えはお変わりになられたのでございましょうや。武士の扱いを変えようと思われたのでございましょうか」
食い入るような眼で、正儀は親房の答えを待った。
「そなた、正行は無駄死だったのではないかと思うたか……」
そう言って親房は、顔だけ屋敷の庭に向ける。
「……麿が考えを変えたかどうかは自分でもわからぬ。ただ変わった者もおる」
「四条卿(隆資)のことでございましょうか」
「そうじゃ。他にもな。麿の策に異を唱える者も増えた。そなたの兄のせいじゃ」
「そ、それは……」
思いがけない言葉に、正儀は戸惑った。
「どちらが善き世に導くか、麿はもう見届けることは出来そうにない。されど、そなたは生きて見届けよ。それが、そちを生かした兄の思いに応えることになろう」
顔を反らしたままで親房は応じた。
「は、はい」
「もう、よいか」
「お休みのところ、ありがとうございました。では失礼つかまつる」
そう言って、正儀はその場で深々と頭を下げた。
屋敷を後にした正儀の顔を、伊賀局が首を傾げて覗き込む。
「な、何でござるか」
「何だか、北畠卿にお会いする前とは表情が違いますね。先ほどのお話で、胸のつかえが取れましたか」
局にそう問われ、正儀も自身の変化に気づく。確かに、背負子を降ろしたときのように、両肩が軽くなっていた。
数日後の賀名生の宮中。帝(後村上天皇)が、母である新待賢門院(阿野廉子)の居室を訪ねた。
女院の傍らでは、伊賀局(篠塚徳子)が院の身支度をしていた。帝の渡りに気づいた伊賀局は、一度座り直し、頭を下げて出て行こうとする。しかし、帝は手振りを交え、そのまま続けるようにと命じてから、女院へ語り掛ける。
「母上様、おかわりありませんか」
「これは御上、珍しいですね」
「母上を京へお戻しすることが叶わず、心苦しく思うております」
「京の戦のことでございますね。わらわも早う京へ帰りたいと思うておりましたが、少し考えを改めました」
「と申しますと」
「わらわの京へ戻りたいという思いが、御上の気持ちを急かし、此度のことを招いたように思えて仕方がありませぬ」
新待賢門院の話を聞いて、帝は口元を緩める。
「それは考え過ぎというもの。河内守(正儀)が申しておりました。幕府を倒しても武士は次の幕府を求めるであろうと。武士がこのように考える限り、京に入ってもすぐまた奪い返されます。責任を求めるならば河内守(正儀)の言葉を無視した朕でございましょう」
「河内守はそう言われましたか」
「はい。河内守は、幕府を否定せずに和睦することを期待しているのでしょう」
「近頃、阿野中納言(実為)もそう申します。河内守の考えがうつったやも知れませんね。御上はどのようにお考えなのですか」
言葉を返す新待賢門院の表情は穏やかであった。
「わかりませぬ。私は五歳で陸奥に下向した時から、北畠卿(親房)の教えを聞いて育ちました。北畠卿の申すことが最も正しいことと思うておりました。さりながら、此度のことは、河内守にも理があると思うております。正しいことは一つだけではないやもしれませぬ。皆の意見を聞いて、自分の考えを纏めたく思います」
「北畠卿があのようになったことは、御上が政に対して、ご自身のお考えを持たれる契機になったと存じます。北畠卿のためにも、よき政をお目指しくだされませ」
その言葉に帝は静かに頷いた。
「母上様、阿野大納言(実村)が亡くなる間際、朝廷の政では阿野中納言(実為)を、軍事では河内守を頼りにするよう朕に申しました。私も二人を頼りにしておりますが、河内守はいまだ独り身。まずは河内守が頼りにする嫁を世話してやらねばならんと思うております」
「まあ、御上自ら嫁の世話など、これは珍しいこと」
笑みを湛えた新待賢門院の指摘に、帝も、はははと声を上げて笑った。
急に正儀の縁談の話になり、驚いたのは、傍らに控える伊賀局であった。一礼をしてそそくさと出て行こうとするが、今度は新待賢門院が、手を前に差し出し、そのままと引き留めた。
「母上、奥向きに、誰かよき女房はおられませぬか」
「おりますよ。御上の目の前に」
「目の前とは……」
そう言いながら、帝は伊賀局に目を留めた。
「河内守はどうか知りませぬが、伊賀局は河内守のことを愛しく思うております」
新待賢門院の言葉に、伊賀局は耳まで赤くしてうつむく。
「御院様、戯言を……困ります」
「違うのですか」
すると、伊賀局は困った顔で沈黙する。
「ほう、そうであったか」
帝は納得顔で頷いた。
「伊賀局は、新田四天王の筆頭、篠塚伊賀守(重広)の娘です。河内守とであれば、ちょうど申し分なしかと」
「うむ、それでは河内守に問うてみましょう」
帝と新待賢門院の二人で話が進むのを、伊賀局ははらはらしながら聞いていた。
数日後、新たに再建された赤坂の楠木館に、中納言の阿野実為が訪れた。
「今日は、わざわざのお越し、恐縮でございます。いったい何事でございましょうや」
実為を広間の上座に上げると、正儀は恐る恐る問うた。中納言が、わざわざ用があるからと武家の館を訪ねてくることは、普段は珍しいことである。只事ではないと思った。
「今日は御上(後村上天皇)の使いで参りました。そなたの嫁について、御上から聞いて参るようにとのこと」
「よっ、嫁でございますか」
正儀の気負いは一瞬で解けた。
「左様、そろそろ身を固めてもよい歳。御上も心配しております」
「帝がそれがしの嫁を心配していただいているのですか……何ともったいなきこと。恐れ入りまする」
恐縮して正儀は頭を下げた。
「で、河内守は、すでに決めている女房殿はおられるのか」
「特におりませぬが……いや、おるような……おらぬような……」
しどろもどろに正儀は答えた。
「何だか煮え切りませぬな。御上は河内守に女房を紹介したいと言われておる」
「帝が自ら……されど、それがし、少々気になっている……」
窮する正儀に、実為が痺れを切らす。
「御上は伊賀局(篠塚徳子)殿はどうかと申しております」
「えっ、い、伊賀局様ですか……」
「気に入りませぬか」
「い、いえ、とんでもない。喜んでお受けしとうございます」
一転して正儀が即答したことに、実為が目を白黒させる。
「ははあ。さては、気になっている女房殿とは、伊賀局殿のことであったか。なるほどのう、これは傑作じゃ」
実為がほほえましそうに笑う。
一方の正儀は、耳まで赤くしてうつむいた。
年が明け、正平九年(一三五四年)三月、正儀と、伊賀局こと篠塚徳子との婚儀が執り行われる。赤坂の楠木館に親族、一門衆、家臣と大勢の人が集まった。
主だったところでは、母、敗鏡尼(南江久子)と侍女の清。舎弟の楠木朝成、従弟の楠木正近と、聞世こと服部成次。正儀の後見役で軍奉行でもあった橋本正茂。家臣の津田武信、河野辺正友、津熊義行。和田党を率いる和田正武、橋本党を率いる橋本正高、正儀を猶子として面倒をみた養父の津田範高らの姿があった。
さらには、八幡の戦いで討死した神宮寺正房の後を継ぐ嫡男の彦太郎正廣。四條畷の直後に討死した恩地左近満一の後を継ぐ次男の左近満信。他に美木多助氏、八尾、八木など、多くの与力衆も出席した賑やかなものであった。
そして、宮中で伊賀局に侍女として仕えた妙の姿もある。妙は、新待賢門院(阿野廉子)の計らいで、伊賀局に従って一緒に楠木館に入ることとなっていた。
萌黄色の直垂に袖を通した正儀と、口元の紅が映える白無垢姿の伊賀局が、法衣を纏った敗鏡尼の前に行って、あらたまる。
「母上、嫁を紹介致しまする」
「篠塚伊賀守重広が娘、徳子にございます。母上様、ふつつか者ではございますが、よしなにお願い致します」
伊賀局こと徳子は深々と頭を下げた。
「帝自らが三郎のためにお選びいただいたとは、何と嬉しいことよ。しかも、御局様は武家の出。三郎にとってこれ以上の縁談はありますまい」
「母上様、もったいない御言葉です。これからは徳子とお呼びくださいませ」
笑みを浮かべた敗鏡尼がこくりと頷く。
「わかりました。御局様……」
「まあ、母上様、さっそくお間違えです」
「まあ、わたくしとしたことが……ほほほ」
三人の間で屈託のない笑いが響いた。
徳子を連れて上座に戻った正儀は、舎弟の朝成を手で招きながら、徳子に顔を向ける。
「弟の四郎を紹介しよう。四郎、これに」
朝成が進み出て、正儀と徳子の前に座る。
「伊賀局様、弟の四郎朝成にございます。これからよしなにお願い致し申す」
そう言って徳子の杯に酒を注いだ。
「四郎殿、こちらこそお願い致します。ただ伊賀局はおよしください。もう局ではありませぬ。名は徳子というのですよ」
「では姉上とお呼びしましょう」
「本当の弟ができたようで、嬉しゅうございます」
父母に先立たれた徳子は、家族ができたことに心底、嬉しそうな表情を浮かべていた。
和やかな宴が続く中、突如、中納言の阿野実為が、家人に案内されて皆の前に現れた。
一同が驚き、居住まいを正そうとするのをみて、実為が手で止める。
「今日は無礼講じゃ。麿に構わずにやってくれ」
そう言って、実為は正儀と徳子の前に座る。
「帝と新待賢門院様(阿野廉子)からの、祝いの品を届けに参った」
実為はそう言うと、供の者が、正儀に太刀を、徳子には硯を差し出した。
「中納言様自らが、これを渡しに山を越えてやってこられたのですか」
正儀と徳子は目を丸くして驚くとともに恐縮した。
「二人の婚儀をどうしても見てみたくてな。麿がその役を買って出たまでのことじゃ」
驚く正儀と徳子に、実為は朗らかな笑顔で応じた。
「これはかたじけのうござる」
「ありがとうございまする」
二人は実為の心遣いに感謝した。
宴もたけなわ、和田正武が突然立ち上がる。
「どれ、三郎殿(正儀)と奥方のために、一つ、わしが舞を進ぜよう」
周りがどよめく。
「武骨な新九郎(正武)殿に舞などできようか」
「これは見物よ。もう生涯、見られぬぞ」
「うるさい」
茶化す周囲を一喝して、扇を片手に歌を口づさみ、静々《しずしず》と舞った。とても誉められたものではない拙い舞であった。しかし、この日のために稽古したであろうことは、皆にも伝わった。
「新九郎殿、かたじけない」
正儀は、正武の気持ちが嬉しかった。
舞の後、おもむろに正儀が立ち上がる。
「皆、聞いてくれ。わしから一つ話がある。四郎、これに」
舎弟の朝成を手で招いた。
「この宴席を借りて、わしから四郎に渡したいものがある」
「なんじゃ、兄者、突然に」
「まあ、そこに座れ」
朝成は戸惑った表情を浮かべながら正儀の前に座った。
正儀が皆の顔を見渡す。
「皆も知っていよう。四郎が授翁宗弼様(万里小路藤房)に連れられて、京からこの地にやってきたのは、元服を済ませたばかりのときであった。あれからもう四年、この通りすっかり逞しくなった」
「どうしたというのじゃ」
首を傾げる朝成を一瞥し、正儀は微笑む。
「諱の朝成は、宗弼様が名付け親じゃが、我ら一門に憚って通字の正を付けなんだそうじゃ。されど、四郎はもう、誰が見ても楠木の一門に違いない。そこで、わしから四郎に、正澄の名を送ろうと思う」
「何、わしに正の名を……」
「そうじゃ。すでに宗弼様の了承はいただいておる。遠慮なく受けるがよい」
「正澄、楠木……正澄、楠木四郎正澄……兄者、かたじけない。皆、わしは今日から四郎正澄じゃぞ」
朝成を改めた楠木正澄は振り返り、皆に向かって感慨深げに名を繰り返した。
「おお、よい名じゃ」
「よかったな、四郎」
一門の正武や従弟の正近が寄ってきて、正澄の肩を叩いて喜んだ。
その頃、賀名生の御殿では、帝(後村上天皇)の女御である三位局、阿野勝子が、女房衆を集めて歌を教えていた。
勝子の侍女が現われて、下座から伺う。
「失礼致します。一の宮様(寛成親王)が御歌の集いに顔を出したいとの仰せでございます。いかが致しましょうか」
その場に居た女房衆は眉をひそめる。そして、互いに顔を見合わせて、ひそひと小声で話した。
十二歳の寛成親王は、勝子が生んだ五歳の熙成親王からすれば兄宮にあたる。すでに母、北畠顕子は亡くなり、祖父である北畠親房の関心も失っていた。そして賀名生の土一揆の後は、その親房の血縁ということで、その立場は以前にも増して、可哀想なものとなっていた。
「そうですか。では、さっそくこちらへ御渡りいただくよう、一の宮様の御付きにお伝えくだされ」
勝子がそう応じると、女房衆らの顔色が変わる。
「三位局様(勝子)、そ、それは、いかがでございましょうや。二の宮様(熙成親王)の御母上が、一の宮様と一緒に御歌など……」
「一の宮様とは関わりを持たぬのがよいのではありませぬか。後ろ楯をなくしたとはいえ、本来は皇位を争うお立場」
女房たちが意見した。
「一の宮様に御歌を御教えする約束を致しました。いけませぬか。一の宮様も御上(後村上天皇)の子、ひいてはわらわの子ですよ」
勝子にとって、寛成親王の心の傷を癒やすことは、皇位継承とは別の問題であった。我が子を心配する帝の気持ちも察してのことでもある。
しばらくして寛成親王が顔を出した。勝子は親王に歌の手解きをして、歌合の真似事をしてみせた。親王にとって、母とも呼べぬほどに若い勝子は、姉といってもよかった。次第に寛成親王は勝子らと打ち解けていった。
三月二十二日、帝(後村上天皇)は、賀名生に軟禁していた北朝の四主上(光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王)を、河内国、天野山金剛寺の観蔵院に移す。
正儀が四主上を護衛して金剛寺に入った。金剛寺に渡りをつけ、動座の手配を整えたのは正儀である。准三后であった北畠親房が廟堂を去った後、正儀に対する帝の信頼は、日増しに高くなっていた。
そして、一月後の四月十七日、その北畠親房が宇陀の屋敷で亡くなる。享年六十二歳であった。
宇陀は北畠親房が領する地で、別宅を構えていた。朝廷を退いた親房は、賀名生を離れ、残りのひとときを、ひっそりとこの地で過ごした。南朝の指導者として廟堂に君臨した親房にとっては、あまりに淋しい最期であった。
正儀の心に、親房の死は重くのしかかる。兄、楠木正行・正時を死に追いやった者として、憎しみを抱き続けた。一方で、その知略や政には一目置き、大きな目標でもあった。しかし、公家と武士としての立場の違いは、生涯、埋めることができなかった。
正儀は妻となった徳子を伴って、宇陀の室生寺に造られた親房の墓に赴く。そして二人は、最後に言葉を交わした昨年のことを思い出しながら、墓標の前で静かに手を合わせた。
正儀は、妻を娶ったことで、紀伊、橋本正茂の館に預けていた九歳になる多聞丸を、赤坂の楠木館に引き取る事とした。多聞丸は四條畷の戦で討死した兄、楠木正行の忘れ形見である。
多聞丸の名は楠木正成の幼名でもあった。由来の多聞天とは毘沙門天のことで、仏教を守護する四天王の一神である。きっかけは、正儀の祖母が信貴山朝護孫子寺の毘沙門堂に詣でたことであった。その直後に、金色に輝く鎧を着た武者の夢を見て正成を生んだので、多聞天の名を幼名とした。その多聞丸の名は、嫡男の正行に受け継がれ、さらにその子にと受け継がれて、楠木嫡流の証しとなる。
母、内藤満子は、多聞丸と別れて摂津国能勢の父、内藤満幸の元に戻されていた。一方、多聞丸は母と別れて紀伊、橋本家に預けられ、父母の温もりを知らぬ寂しい少年時代を過ごした。
楠木館の広間で、正儀と徳子が、紀伊から到着した多聞丸を迎える。
「多聞丸、寂しい思いをさせてしもうた。そなたを迎えてやるのが遅くなってすまぬ。これは我が妻の徳子じゃ。お前を引き取ったからには、わしを父、徳子を母と思うがよい」
「多聞丸殿、これから仲よく致しましょう」
徳子の呼びかけにも、多聞丸は視線を合わせようとはせず、無言で頭を下げた。
「それにしても、しばらく見ぬうちに大きくなった。幾つになったのじゃ」
「九つ……です」
正儀の問いかけにも、多聞丸は目を合わせずに応じた。
「いかがした、多聞丸。元気がないようじゃのう」
「いえ、そのようなことはございませぬ」
とはいうものの、その言葉に覇気はなかった。さらに言葉をかけようとする正儀を、制するように、徳子がその裾を軽く引く。
「今日は着いたばかりで疲れているのでしょう。多聞丸殿、早めに休まれるがよい」
徳子に促され、多聞丸は軽く頭を下げてさがっていった。
「慣れぬところに来たからでしょう。直に元気になられます」
徳子は正儀が心配しないよう気遣った。そして、はたと気がついたように正儀に向き合う。
「傳役を付けねばなりませぬね」
「うむ、それならばすでに考えがある。ここに呼んでおるぞ」
しばらくすると津田武信が現れ、正儀と徳子の前に座る。
「殿(正儀)、お呼びでござるか」
「うむ、その方に多聞丸の傳役を頼みたい」
「それがしがでございますか。いや……まだ嫁ももろうておりませぬゆえ、子の扱いなどわかりませぬが」
とんでもないと言わんばかりに、武信は顔の前で手を振った。
「兄として接してくれればよいのじゃ。そなたの兄、津田範長殿がわしに接してくれたようにな。いろいろと教えを乞うた。怒られもしたがな」
「そういえば、又二郎も入れて、よう三人で怒られましたな」
「それでよいのじゃ。それにお主なら戦の才もある。よき武将に導いてやってくれ」
正儀にとって、幼いときから寝食をともにした、この武信と河野辺正友の二人は、特別に気が置けない家臣であった。
武信が笑顔を見せる。
「そういう事なら、承知つかまつりました」
「多聞丸殿は、この城に入ってから、少し元気がありませぬ。気に留めておいてくださらぬか」
横から徳子が付け足した。
「左様でございますか……奥方様、では、それがしが様子をみて参りましょう」
そう言って、武信は奥の間から下がって行った。
館の縁側に座った多聞丸は、何をするでもなく、ぼんやりと外を眺めていた。
「多聞丸殿、ここにおられたか」
武信の問いかけにも、多聞丸は黙っていた。
「それがしは、多聞丸殿の傳役を仰せつかった津田当麻武信でござる。当麻とお呼びくだされ」
「そうか」
多聞丸は顔を合わすことなく言葉を返した。
「どうされました。元気がありませぬな。殿(正儀)も奥方(徳子)も心配されておられましたぞ」
多聞丸は武信を相手にするのが面倒なのか、くるっと背を向けた。
「なるほど、多聞丸殿は育った橋本の家を離れ、寂しいのでございますな」
すると多聞丸は、きっとした眼差しで振り向く。
「当麻」
「お、喋っていただけましたな」
「お前はうるさい……」
武信は笑顔のまま固まった。
「……当麻は知っておるのか。死んだ我が母上のこと。ここに来て皆に聞いてみたが、誰も母上の墓のことを知らん。なぜなのじゃ。なぜ母上は死んだのじゃ」
多聞丸の質問に武信はううむと唸った。多聞丸の母、内藤満子は死んではいないからである。
四條畷の戦の折、満子の父である能勢の豪族、内藤右兵衛尉満幸が、南朝を裏切って幕府方に付いたため、激怒した北畠親房の命で、正儀が満子を能勢に送り返していたのだ。
多聞丸が預けられていた橋本の分家では、周囲の者が気遣って、死んだことにしていたようである。
武信は、多聞丸が元気のない理由を理解すると、咄嗟に嘘が口を突く。
「多聞丸殿の母上の墓は能勢にあります。母上が出た家の墓でございます。されど、今は敵方ゆえ、お連れするわけには参りませぬ」
武信の苦し紛れの言い訳であった。
「敵方……それで皆は知らぬ振りをしたのであろうか」
「それがしにもわかりかねますが、おそらく……」
「そうであったか……」
多聞丸は顔を上げる。
「……当麻、よう言うてくれた。ありがとう」
「いえ……」
頬を緩める多聞丸に、武信は心の呵責を伏せて、精一杯の微笑みを返した。
十月二十八日、帝(後村上天皇)は河内国にある天野山金剛寺の摩尼殿を行宮として定めた。そして、正儀が率いる楠木党に護衛されて賀名生から金剛寺に動座する。帝は金剛寺に移ると、食堂を廟堂にして政務を執った。
すでにこの年の三月には、北朝の四主上(光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王)が同じ金剛寺の観蔵院に移されている。まさに南北両朝の天子が、金剛寺に同居するという状況となった。
女も参拝できる天野山金剛寺は、女人禁制の高野山に対し、女人高野とも呼ばれている。そして楠木氏の氏寺である観心寺とともに、楠木氏と縁の深い寺院でもあった。
帝が河内国に動座した理由は二つ。一つは、正儀の活躍で南朝が摂津国の住吉郡までを支配下に置き、勢力圏が北に広がったこと。さらに一つは、河内の守護でもある正儀を頼りにしたためである。北畠親房亡き後、右大臣の洞院実世、権中納言の四条隆俊、権中納言の北畠顕能といった幕府に対する強硬派の威勢は衰えていた。関白の二条師基や中納言の阿野実為、そして武士では正儀といった和睦派が重きを置かれるようになった証でもある。
動座は、ひとえに正儀と実為の努力の現れで、幕府との和睦に向けての第一歩でもあった。