第22話 賀名生一揆
正平七年(一三五二年)五月十一日、梅雨が明けた男山は、足元からの湿気を含んだ熱気によって、不快な空気に包まれていた。
なかなか和睦に応じない南軍に対し、ついに、足利義詮は幕府軍に総攻めを命じる。男山攻めの総大将、細川顕氏は、一族の細川頼之・清氏、他にも山名師義、赤松則祐、土岐頼康らに下知して、麓の民家に火を掛け、激しく男山を攻め立てた。
対する男山の南軍は、慌てて麓に兵を集め、幕府勢の侵撃を迎え討った。
幕府軍の猛攻が続く中、具足(甲冑)をまとった楠木朝成と和田正武が、行宮に駆け込む。そこには鎧姿の公家たちが集まり、その中央には総大将の大納言、四条隆資の姿があった。
殿下で片ひざを付いた正武が、色をなして報告する。
「四条様、大変でございまする」
「和泉守(正武)、どうしたのじゃ」
「我が方の淡輪助重が降参して敵に寝返りました」
和泉の淡輪は湊川の戦い以降、幕府方に与して楠木党と幾度も戦をした仲であった。しかし、観応の擾乱で足利直義が南朝に帰参すると、助重も南朝に帰参する。そして、この度の還幸の行列に加わっていた。
ただ、助重にしてみれば、そもそも幕府と戦う理由は稀薄である。凱旋の行列に加わった流れで戦っているに過ぎなかった。
朝成が苦悶に満ちた表情で続ける。
「幕府方のあまりの激しさに、北畠中納言(顕能)の指揮下の伊勢の矢野下野守、紀伊の湯浅庄司も幕府に降伏した由」
「何、湯浅の中からも……男山が落ちるのは、もはや時の問題か」
隆資は険しい顔をして天を仰いだ。
二人の報告に公家たちの顔色が変わる。いつもは強硬な権大納言、洞院実世までも、弱気が口をつく。
「こうなってしまえば、降参を受け入れるよう、奏上されては……」
「洞院卿は御上に降参を強要なさるのか」
帝(後村上天皇)の従兄でもある権大納言の阿野実村が実世を睨んだ。
公卿たちのそんな様子に、隆資は意を決する。
「もう、我らに残された道はただ一つじゃ。一か八か、御上をお連れして、敵の囲みを一点突破しようぞ」
隆資が決意を口にすると、決心の付かぬ公卿たちは、下を向いて沈黙する。
その沈黙を正儀の舎弟、朝成が破る。
「承知つかまつりました。我が楠木軍が先達して血路を切り開きまする」
「左様、先陣は、我らにお任せあれ」
正武もそう言って胸を叩いた。
二人の進言に、隆資は満足そうに頷く。
「よし、決まりじゃ。では、麿が殿を努めようぞ」
「御大将自らが……なりませぬ」
「たわけたことを申すな。御大将は御上じゃ。麿は御上のためなら命を投げ出す覚悟よ」
正武が止めるものの、隆資の決心は固かった。しかし、決心の付かない公卿たちも多い。実世が不安げに呟く。
「麿たちも敵兵の中に突っ込むというのか……」
「当たり前じゃ。さ、皆、早う支度するのじゃ」
隆資に叱咤され、皆は慌てて座を立った。
「阿野卿(実村)は御上に奏上し、支度を進めてくれ」
「四条様、承知しました。では」
実村はただちに、帝の御座所に向かった。
南軍の一世一代の大脱出が始まる。
帝(後村上天皇)を伴って総大将の四条隆資や楠木党・和田党からなる本軍は、男山を南へ下り、幕府の包囲を突破することとした。また、男山の北の守りに携わっていた北畠勢と千種勢は、洞院実世らの公家を伴って西に下り、幕府の守備を突くことにした。
「御上、何がありましょうと、決して後ろを振り向くことなく、馬を御進めくだされ」
最後に、隆資が頭を下げると、帝は無言で頷く。そして、赤い直垂の上に大鎧を身に付けて馬に跨った。
帝は馬に乗ることができた。それは、建武の御代、先帝(後醍醐天皇)の命で北畠親房・顕家親子に伴われ、陸奥将軍宮として奥州に下向した幼き日のことである。顕家の指南を受けて、乗馬も含め、武芸全般の手解きを受けていた。
帝が跨る馬の背には、大きさの異なる三つの空箱が括り付けられていた。三種の神器である。しかし、中身はすでに正儀が賀名生へ持ち込んでいた。このことは味方にも内密にしていたため、ここに神器がある事を示さなければならなかった。
夕刻、帝は公家と武士に守られて男山を下った。
先達の楠木軍は、比較的手薄な男山の南を、数十騎の馬とともに駆けおりる。しかし、その先には、足利義詮が本陣を張る洞ヶ峠があった。
幕府の諸将は油断していた。男山の南軍が降参するのは、もはや時の問題と思っていたからである。それが、一点集中で幕府の囲みを突破しようと挑んできた。しかも、義詮の本陣目掛けて南軍の主力が突き進んできたのである。幕府軍は混乱に陥る。が、赤松則祐の一隊が、義詮を護って南軍を迎え撃った。
先達の楠木軍は、和田正武の騎馬隊が敵を蹴散らす。そこに、楠木朝成の楠木勢と、笹五郎が率いる荒々しい野伏たちが敵をかく乱した。
だが、不利な状況に変わりはない。
「神宮寺将監殿(正房)が討たれました」
楠木党を指揮する朝成の元に訃報が届いた。しかし、重臣の死さえも気に留めている暇はなかった。南軍は味方の屍を乗り越えて、休むことなく軍を進めた。
幕府軍は、北に配した山名勢を南に呼び寄せるも間に合わない。南軍は一目散に、義詮が居る洞ヶ峠に向けて突進した。
すると義詮は、慌てて洞ヶ峠の陣を逃げ出した。
楠木が率いる南軍は、主の居なくなった幕府本陣を蹴散らして、さらに南へと駆け抜けた。
難を逃れた義詮は、思い出したかのように、大将の細川顕氏に追撃を命じる。細川、赤松、土岐らが南軍の跡を追った。
そこに立ち塞がったのは、南軍の総大将である大納言、四条隆資である。
「ここからは何人も通さんぞ」
殿の隆資は馬を留め、兵を鼓舞して細川勢の追撃を防いだ。隆資自らも馬を降りて薙刀を持って敵兵を切りつける。その姿は、蟷を振るう蟷螂の如しであった。しかし、気がつけば、肩や脚にも矢を受けている。
「者ども、引くな。御上を御逃がしするのじゃ」
隆資は痛みに耐え、老体に鞭打ち、あらんばかりの気を振り絞って敵と戦った。
一本の矢が隆資の喉を貫く。同時に鮮血が噴き出した。
「うう……」
隆資は喉に刺さった矢を握り、崩れるように膝を着く。倒れた隆資は、あっという間に細川の雑兵に囲まれ、最後は名もない兵にとどめを刺された。先帝(後醍醐天皇)の御代から、武骨に忠義を尽くした老公卿の最期であった。
南軍は進軍を留めることなく、木津川沿いに大和に向かって遮二無二、駆け続けた。そして以仁王の御廟がある三山木あたりで、やっと進軍を止めて一息付く。
「主上(後村上天皇)は御無事か」
楠木朝成が、精根尽き果てて雑然と横たわる兵の間を、掻き分けながら帝を探した。すると、大勢の公家に囲まれた、赤い直垂と大鎧を着こんだ馬上の帝が目に飛び込む。
「ああ……ご無事じゃ」
安堵も束の間、朝成が駆け寄ると、馬上の帝が崩れ落ちた。見ると数本の矢が刺さっている。朝成は取り囲む公家の間を分け入る。
「お、御上」
しかし、朝成がそこで見たのは、馬上から崩れ落ちた帝に寄り添う、もう一人の帝の姿であった。
「実村、しっかりせよ」
帝の声が響いた。矢を受けて倒れているのは、帝の従兄でもある権大納言の阿野実村であった。実村は帝と入れ替わって敵を欺き、派手な出で立ちで敵の矢を受けていたのである。
「麿、亡き後は……我が弟、右近衛少将(阿野実為)と……楠木左衛門尉(正儀)を……お頼りください。信用できる……輩でございます」
「そうか、わかったぞ。実村、気を確かに持て」
帝の言葉に、実村は一瞬微笑み、息を引き取った。
その様子に朝成は、呆然と立ち尽くすのみであった。
かろうじて南軍は、帝を男山から逃がすことができた。しかし、その代償は大きかった。八幡を下って洞ヶ峠へ向かうまでに、武士とともに、多くの公家も犠牲となっていた。
大納言の四条隆資、権大納言の一条内嗣、右中将の滋野井実勝、関白二条師基の息子で二条教忠、さらには還幸の露払いとして先に京に入った頭中将の中院具忠までもが討死した。
楠木党も重臣、神宮寺正房を初め多くの親族、郎党を失うという惨憺たる状況であった。
これら、合戦で亡くなった者たちは、首級を挙げられ、京へと運ばれる。唯一、帝に看取られた権大納言、阿野実村だけは、首を落とされることは免れる。
南軍は帝を護りながら、木津川沿いに南へ向かった。あらかじめ正儀と大和の越智党、十市党によって、街道の幕府方はあらかた駆逐されていた。しかし、後ろから幕府軍が追撃しているかもしれない。
焦燥感に駆られた公家たちは、帝(後村上天皇)の騎馬を先に進めた。こうして奈良の唐招提寺へ入った時には、帝に供奉する者は、朝成らわずか七騎だけとなっていた。
南軍の決死の脱出劇は、聞世(服部成次)によって東条の正儀にも伝えられる。
五月十二日、多武峯を越えて吉野郡に入った帝(後村上天皇)を迎えるため、正儀は津熊義行ら手勢を率いて宇陀に向かい、この地の神社で帝を出迎えた。
舎弟、楠木朝成を見つけた正儀が、駆け付けて両肩を強く握る。
「四郎、よう無事で……」
「兄者、将監殿(神宮寺正房)をはじめ、多くの者を亡くしてしもうた。すまぬ」
朝成は悲壮な表情で下を向いた。
「何を言う。辛い役目をお前に与えてしもうた。兄を許してくれ」
正儀は、泣き崩れる朝成を抱きかかえた。
そんな二人の対面を、和田正武が言葉を発することなく見守っていた。
楠木党に迎えられ、一息付いた南軍であったが、正儀を見る目は厳しかった。
正儀は、神官らに囲まれて社に入った帝の元に駆け寄り、階の下に伏した。すると、いっせいに公卿らの厳しい視線に晒される。
「楠木左衛門尉(正儀)、どの面を下げて、今頃参ったのじゃ」
「四条大納言様、阿野大納言様、ともに討ち死にされたぞ」
正儀は、苦渋に満ちた表情を浮かべて頭を垂れる。
「ははっ、面目次第もございませぬ」
公卿たちの雑言に真実を言うことができない正儀は、ただ耐えるしかなかった。しかし、目をかけてくれた二人の大納言の死は耐え難いことであった。
ひれ伏して肩を震わせる正儀を見かね、帝が声をかける。
「楠木左衛門尉、大儀である。顔を上げよ」
「ははっ」
正儀は少し身体を起こし、上目遣いの顔を見せた。
「御上、よくぞ御無事で……」
「うむ、また生きてそなたに会えるとは思わなんだぞ」
帝の顔は、精根使い果たし、土気色になっていた。
「四条様と阿野様をお救いすることが叶いませなんだ。申し訳ありませぬ」
「それは朕の責任じゃ。左衛門尉(正儀)は朕の命に従ったまでじゃ。許せよ」
「御上……」
二人にしかわからぬ話であった。
翌日、帝は正儀が率いる楠木党の護衛で賀名生へ戻った。
南軍は武士だけでなく多くの公家も討死した。迎える賀名生の行宮は、女房たちが深い悲しみに打ちひしがれる。
中でも、帝の中宮である北畠房子は、愛する頭中将、中院具忠が討死したことで、いっそう悲しみに暮れた。しかし、帝や北畠親房の前では、生涯隠し通さなければならないことであった。
五月十八日、河内国の龍泉寺城に戻っていた正儀の元に、難しい客人が現われる。男山を脱出した権大納言の洞院実世、権中納言の冷泉実清、そして大納言、四条隆資の跡継ぎである権中納言、四条隆俊の三人であった。
龍泉寺城の本丸(主郭)は、持明院の四主上(光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王)に明け渡していたため、二の丸(二郭)の粗末な陣屋に三人の公卿たちを通し、正儀は堅い表情のまま、下座で頭を低くする。
「みなさま方、御無事で何よりでございます。楠木勢とは離れ離れになったと聞き、心配致しておりました」
この言葉に実世が怒りを見せる。
「心配じゃと。心配であれば、なぜ男山に援軍をよこさなかったのじゃ」
「その義に関しては申し訳なく存じます。南軍の評判すこぶる悪く、味方を探しあぐねておりました」
「だとしても、兵糧は手配できたであろう」
「兵糧は何度も男山に持ち込もうとしておりました。されど、敵の囲みに隙がなく、申し訳ありませぬ」
実世は正儀の釈明に、ちっと舌を鳴らして顔を背けた。
その隣で、四条隆俊が正儀を睨みつける。
「左衛門尉(正儀)、我が父は討死したそうじゃな」
「四条大納言様の御討死は、それがしにとって生涯の悔いにございます」
正儀は辛辣な表情で頭を下げた。
「援軍が見つからなければ、そなただけでも男山に駆け付ければよかったのじゃ。兵糧のことにしても、援軍のことにしても、そちの話は言い訳ばかり。そちが我が父を見殺しにしたのじゃ。麿はそちのことを生涯、許さん」
隆俊は、正儀がその隆資の命で三種の神器を護って賀名生に帰った事など当然、知らない。ただ、父を見殺しにした者としか見なかった。
だが、実世ら三人は、正儀に文句を言うためだけに、龍泉寺城に来たわけではない。
実世が本題に入る。
「ここに、祖曇禅師が参られておろう」
正儀は返答に躊躇する。祖曇禅師とはかつて父、楠木正成が師事した玄恵法印の弟子である。
「隠すでない。京の我が父君(洞院公賢)より、先の関白、二条卿(二条良基)がここへ差し向けたと聞いておる。持明院の方々(四主上)の御帰還の交渉であろう」
実世が言うことは事実である。正儀は祖曇と交渉し、しかるべき機会に京へお戻りいただこうと考えていた。
正平の一統の失敗は、ひとつには南軍が約定を違えて京に攻め入ったこと。さらに決定的であったのは、南軍が四主上を拉致したことで、諸将や民衆に見限られたことだと思っていた。よって、南朝の信頼を回復するには、早々に京へお戻しするのがよいと考えていた。
しかし、実世らはこれを許さない。
「そちには任せておけぬ。持明院の方々(四主上)は我らが賀名生へお連れする」
実世らは、北畠親房の策に従って四主上を拉致しておけば、京の朝廷は帝を擁立することは叶わないと信じていた。
しかし正儀は、幕府や京の朝廷がその気になりさえすれば、先例があろうがなかろうが、何とでもするであろうと考えていた。ここが新興武士である正儀と、有職故実から抜け出せない古い公家との差であった。
「洞院大納言様、それはなりませぬ。四条大納言様(隆資)よりそれがしが命じられた大切なお役目でございます」
「その四条卿はすでにこの世にはおらぬわ」
実世は間髪入れず正儀を制した。
「では、賀名生にお戻りになった帝(後村上天皇)に奏上し……」
抗う正儀に、隆資の息子、隆俊が痺れを切らす。
「その義にはおよばぬ。麿が父の跡を継ぐのじゃ。麿が成り代わり命じよう。持明院の方々を今すぐ、我らに引き渡すのじゃ」
正儀は肩を落とし、ゆっくりと頭を下げる。南朝の組織の中では、隆俊らの命に、不本意ながら従うしかなかった。
一方、京の朝廷は、四主上(光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王)を連れ去られて困り果てていた。東条から京へ戻った祖曇禅師は、先の関白、二条良基に、洞院実世ら南朝の強硬派が四主上の還幸を許さず、賀名生へ連れ去ったことを伝える。困惑する良基は、幕府へ戮力を求めた。
困っていたのは幕府の足利義詮も同じである。ただちに佐々木京極道誉を良基の屋敷へ使わせ、今後のことを協議させる。すると道誉は、博識な洞院公賢に相談したいと、渋る良基を引きずるようにして連れ立ち、公賢の屋敷を訪ねた。
北朝における公賢の立場は微妙なものであった。京の朝廷において太政大臣であったが、四主上を賀名生へ連れ去った洞院実世の父でもある。正平の一統では、賀名生の帝(後村上天皇)から左大臣に任じられ、北朝を取り纏めるよう命ぜられた。このことで、良基をはじめとする北朝の公卿たちは、南朝への内通を疑っていたからである。
良基と道誉を座敷に迎えた公賢は、何事もなかったかのように応じる。
「これは二条様、それに京極入道殿まで。此度の御用向きはなんでございましょうや」
「河内から戻った祖曇禅師が言うには、そなたの息子が交渉を打ち切り、四主上を賀名生へ連れ去ったそうじゃ」
「それは、残念なこと」
「まるで他人事のようなお言葉ですが、祖曇禅師が楠木(正儀)との交渉の最中、なぜ洞院卿の御子息である実世殿は東条に現れたのか。洞院卿には御心あたりはありませぬか」
そう言って、良基は疑いの眼差しを向けた。
「なんと、麿を疑っておるのですか。親子とはいえ、今や縁を切っておりますゆえ」
「さりとて、その切れた縁を通じて、賀名生の勅使は京に入り、我らの四主上と三種の神器を連れ去ってしもうた。洞院卿の手引きがあればこそと存ずるが」
険悪な雰囲気が漂う二人の間に、道誉が割って入る。
「まあ、関白様(二条良基)。もうそのあたりでよろしかろう。洞院様(公賢)、南軍が去った今、我らは京の朝廷の元、秩序を取り戻さなければなりませぬ。その秩序とは、いかに帝を擁立するか、ということです」
道誉の説明に、良基が続ける。
「南軍に連れ去られた四主上が戻れないことはほぼ確実です。帝の空位をどうするべきか、有職故実に詳しい洞院卿であれば、お考えがあろうかと」
「何やら二条様は麿に疑いを持たれておるようですが。その麿の言葉を、お信じいただけるのですか」
「麿は、洞院卿が朝廷のためにお力を尽くしてくださるなら、それは忠義の証として、廟堂へお戻しするよう、尽力しましょう。いかがかな」
良基は駆け引きで応じた。
すると公賢が口元を緩める。
「わかりました。では麿の考えをお伝えしましょう。賀名生に連れ去られた先の帝(崇光上皇)には、皇太弟の直仁親王の他に、弟君の弥仁親王がおられます」
「それは麿とて存じております。御出家前でございました。されど、東宮宣下を受けておらず、宣下を出せるお方を全て賀名生に連れ去られました」
「はい、そこで、帝を決める前に治天の君を決めねばなりませぬ……」
治天の君とは、上皇や法皇として院政を敷くことができる、言わば天皇家の家長である。
「……親王の祖母でおわします広義門院様を治天の君として、伝国詔宣を賜ることで、弥仁親王が帝に御成りあそばすことができようかと存じます」
広義門院とは後伏見天皇の女御、西園寺寧子のことであった。北朝初代に数えられる光厳天皇とその弟、光明天皇の母である。
公賢の穿った提案に、良基は戸惑う。
「広義門院様をでございますか。皇位にもなかった御方を……そのようなことできましょうや」
「治天の君が皇位に就かれた御方である必要はありませぬ。後堀河帝の御代、治天の君であられたのは、父君の後高倉院でございました。院は皇位に就かれたことはありませぬ。国父の君でよいのなら、国母の君だった御方とて治天の君になれましょう」
公賢が言う後高倉院は、承久の乱で鎌倉幕府が配流とした後鳥羽上皇の兄である。仲恭天皇の後を受けて擁立された後堀河天皇の父であったため、太上天皇(上皇)の号を贈られ、法皇となって院政を敷いた。これも当時としては鎌倉幕府と公家らの苦肉の策である。
良基は苦い表情を浮かべる。
「されど、広義門院様は帝の御血筋ではありませぬ」
「げにも。治天の君が直系皇族でなきことを問題とする輩もおられるでしょう。されど、直系を重んじるのは帝であって、治天の君を直系皇族と限らなくてもよいのではないかというのが麿の考えです。そもそも、古代の継体帝(継体天皇)は、廷臣に擁立されて皇位につかれたくらいです。困った時は、そのときに応じた理由を付ければよいと存じます」
「ふうむ……まあ、考えようですな」
良基は釈然としないながらも、公賢に向けて頷いた。すると徐に道誉が進み出る。
「話は決まりましたかな。では、それがしが、広義門院様の元へ参り、お願いしてみましょう」
公賢が首を横に振る。
「いえ、勧修寺内大臣様(経顕)を立てて、同行されますように」
公家のしきたりに道誉が溜息をつく。
「ふう、堅苦しいですな」
「そういうものです。御慣れくだされ」
この後、嫌がる広義門院を説得し、その伝国詔宣によって、十四歳の弥仁親王を帝(後光厳天皇)として践祚させた。しかし、三種の神器を用いない践祚は朝廷に波紋を広げる。
南軍を退け、何とか体面を保った京の幕府であったが、実情は厳しい状況にある。北朝四主上を連れ去られたうえに、幕府の政庁とも言える三条坊門第は灰塵に帰していた。
さらに、征夷大将軍の足利尊氏は関東に下向したまま。新たに将軍家執事を任命された仁木頼章も、尊氏に従って関東の地にあった。
一先ず、足利義詮は、不在の頼章の京屋敷を仮御所として腰を据えるが、足下はぐらついたままである。将軍も執事も不在の中、諸将の不満を抑えるまでの器量は、まだ若い義詮には、備わっていなかったからである。いま義詮が京で頼りにできるのは、佐々木京極道誉と細川顕氏くらいであった。
八幡の戦いにも出陣した細川一門の細川清氏が、京にある従弟の細川頼之の屋敷を訪れる。
「弥九郎(頼之)、どう思う」
「落ち着け。来て早々にいったい何だ」
どがっと腰を下ろし、話の先を急ごうとする清氏を頼之が制した。
「顕氏のことよ。細川家の惣領であるお前の父が亡くなったのをよいことに、坊門様(足利義詮)に近づき、我らの上に立とうとしておる。分家筋の分際で」
清氏は憮然と言い放った。その清氏の父、細川和氏は、かつて、細川一門の惣領であった。幕府成立直後に思うところがあって出家し、惣領の座を舎弟の細川頼春に譲った。その頼春の子が頼之である。清氏が怒りをぶつける細川顕氏は、その和氏・頼春兄弟の従弟であった。
頼之は冷静に応じる。
「八幡合戦で顕氏が大将に任ぜられた件か」
「それだけではないぞ。戦で焼けた寺院の修復も、我らは顕氏を通じて下知された。まるで、すでに惣領にでもなったかの振る舞いじゃ。このままでは、坊門様のお墨付きを得て、あやつが細川の惣領じゃ」
清氏は、床を手で叩き、憤懣やるかたないといった態度を見せた。頼之は顎のあたりを触りながら同意する。
「うむ、顕氏は我が父が将軍(足利尊氏)側近として仕えている間に、副将軍(足利直義)に近づき、将軍(足利尊氏)へ弓を引いた。我が父に対する対抗心からであろう。それが掌を返したように将軍に近づき、今や坊門様の近習とは、確かに変り身の早い男ではあるな」
「そもそも、細川の惣領は我が父、和氏が隠居の際、お前の父、頼春が受けたもの。次の惣領はお主かわしがなるのが妥当であろう」
包み隠さず、開け広げに自分の名を入れる清氏が、頼之には可笑しかった。その態度に、清氏が憮然とする。
「笑っている場合か。お主が動かないならわしが動くぞ」
「動くとは」
「知れたことよ。奴を討つまでのことよ」
「待て待て、弥八(清氏)。冷静になれ。顕氏は、今や坊門様のお気に入りじゃ。討てばお前が誅殺される」
頼之は直情的な清氏を押し留めた。
「ではどうする」
「そうだな、わしであれば、まずは坊門様に伝わるよう、顕氏に不審な動きがあると噂を流す。これまでも将軍と副将軍の間を世渡りしてきた男じゃ。坊門様は信じないまでも、警戒されるであろう」
「なるほど。そこを討つか」
「いや、自ら手を下せば、噂の出所を疑われる。ことを荒立てずにやるのがよかろう」
「なるほど。では毒でも盛るか」
「ううむ、まあ、そんなところか」
頼之の答えに、清氏は腕を組んで頷く。
「うむ、ではさっそく手筈を相談しようぞ」
「何を言っておる。本当にやる奴があるか。わしを巻き込むな」
「女々しいやつよ」
清氏はふんと言って立ち上がった。
「おい、本気か。馬鹿な真似は止めておけ」
「弥九郎(頼之)が動かぬなら、手柄はわしがもらうぞ」
そう言って清氏は部屋を出て行った。
そして一月後のことである。楠木とも因縁浅からぬ細川顕氏が、突然、亡くなった。病死とのことであった。
「あやつ、本当にやりおったのか……」
細川頼之は顕氏の死を、従兄の細川清氏の仕業と確信した。改めて清氏の行動力に驚くとともに、一抹の不安を感じた。短気で真っ直ぐな清氏は、誰にも負けぬ行動力とは裏腹に、協調性はみられない。頼之は、幼い頃から親しく育った清氏を憂慮した。
幕府のほころびは他にも生じていた。
八月末、正儀と和田正武は、准后の北畠親房によって賀名生の行宮に呼び出される。
八幡の戦いで親房は、早々に味方を募ると言って男山を離れて伊勢に留まった。そして、帝(後村上天皇)が賀名生に戻ったあとに、何事もなかったかのように賀名生の行宮に出仕していた。
正平の一統の成功は親房の力であったが、失敗もひとえに親房の驕りからであるといえた。しかし、変わらず威厳を放つ親房に、面と向かって意見できる者は居なかった。
親房は、正儀・正武が廟堂の下に座るなり、用件を切り出す。
「山名時氏が我らに帰参した」
幕府の勇将、山名時氏・師義親子が突如、幕府を裏切ったというのである。
怪訝な表情で正武が口を開く。
「幕府との間で何があったのでございましょうや」
「うむ、八幡合戦の論功行賞で京極道誉と揉めたことがきっかけのようじゃ」
親房の話を要約すると、次のようなものである。
時氏の嫡男、山名師義は、八幡の戦いで功を認められ、足利義詮から若狭国今富荘を恩賞として与えられた。その今富荘は佐々木京極道誉が所領としていた。師義はその引き渡しを求めて道誉の屋敷をたびたび訪れた。だが、今日は連歌、今日は茶会と、いっこうに会おうとはしなかった。師義は腹を立て、幕府に無断で父、時氏がいる伯耆国に帰ってしまう。
道誉はこれを逆手にとって、『山名に謀反の兆しあり』と義詮へ討伐を進言した。もともと道誉と時氏は出雲守護職を巡って争っていた。時氏は討伐されるくらいならと、賀名生に参じたとのことであった。
「山名の家は新田の支流じゃ。我らに加勢するのは道理じゃ」
したり顔の親房が、口元を扇で隠した。
正儀は親房の考えがわからない。
「して、我らを召し出したのは、いかなる仕儀でありましょうや」
「山名時氏は出雲で兵を挙げた。すでに山陰を制圧する勢いじゃ。その方らも呼応して兵を挙げ、失地を回復して上洛するための露払いをするのじゃ。すでに直義(足利直義)の配下であった石塔頼房・吉良満貞らからも、供に兵を挙げる内諾を得ておる」
正儀は、内心またかと項垂れた。
親房にとって武士は駒である。策が失敗しても、また代わりの駒を見つけてきて、何度でもやり直せばよいとの考えが透けて見えた。
「和田和泉守、楠木左衛門尉、それぞれ領国に戻り、出陣の支度を整えるのじゃ」
親房は楠木の惣領である正儀の名を、わざと正武の下に続けた。煙たがっていることは明白である。だが、楠木の軍事力に頼らざるを得ないという事情もあった。
「准后様(親房)、我ら軍勢は先の八幡合戦で多くの将兵を亡くし、その傷は癒えておりませぬ。また、領民も兵糧の供出で、貧しい暮らしがさらにひどい状況。飢えて亡くなる者も出ております。まだ数カ月しか経っていない中での出陣は、厳しいかと存じます」
正儀の意見に親房は眉間にしわを寄せる。
「何を申す。そなたたちはかしこくも帝の軍勢じゃ。己の都合を優先し、私心を欲すれば、それは野合の衆と同じである。将たるもの、自らの家名を立てようなどと卑しい心では勤まらん。兵が足りなければ新たな兵を募るがよい。将が足りなければ兵から将を取り立てればよい。兵糧が足りなければ隣国から調達すればよい。わかったな、それがそちの役目ぞ」
正儀は無言のまま、顔を上げなかった。
「和泉守よ、左衛門尉は物わかりが悪いようじゃ。そなたが率先して戦の備えをせよ。よいな」
「御意」
命じられた正武は応じるしかなかった。それは正儀のためでもあった。
十一月、正儀と和田正武は、かつて足利直義に与していた石塔頼房・吉良満貞らとともに、摂津に進軍する。そして、摂津守護、赤松光範(赤松則祐の甥)の守護代を追い出した。
幕府の足利義詮は、佐々木京極道誉の息子、京極秀綱・高秀の兄弟を送って、南軍を討伐しようとする。だが、楠木の巧みな戦振りに翻弄されて、なかなか討伐は進まなかった。逆に南軍は、京極兄弟を撃破して摂津の南を南朝の支配下においた。
同月、北畠親房の屋敷で慶事がある。
臨月を迎えた帝(後村上天皇)の中宮(皇后)、北畠房子は、父、親房の賀名生の屋敷に帰省していた。
親房は、落ち着きなく控えの間で、うろうろと歩き回っていた。そこに侍女が小走りに現れる。
「お生まれになられました」
「で、どっちじゃ」
「玉のような男子でございます。おめでとうございます」
「そうか、男子か」
親房に笑みがこぼれた。すぐに奥の間に向かい、娘の房子の手を取る。
「房子、ようやったぞ。男子じゃ。ほんにでかしたぞ」
出産を終えたばかりの房子の顔には笑みはなく、父、親房からも目を逸らした。しかし、親房は気に留める素振りも見せずに赤子に目をやる。
「中宮であるお前が生んだこの子は、将来の帝じゃ。いかに御上といえども、中宮が生んだ子を押しのけて熙成親王を帝にすることは叶うまい。お前は、この子を大切に育てるのじゃ」
親房は次の帝の外戚となることで、摂関家の地位を、藤原氏(藤原北家)から村上源氏である自分が奪うことに執念を燃やしていた。
正平八年(一三五三年)一月、正儀は数え二十四歳となる。
賀名生の行宮で新たな除目が行われた。正儀は、摂津の南を南朝の支配下に置いた活躍で、正五位下を授けられた。父や兄と同様に河内守に任じられ、河内と和泉、加えて摂津国住吉郡の守護を兼任する。
舎弟、楠木朝成は従六位上、掃部助。津田武信と河野辺正友はともに従六位下、左衛門少尉。そして、従弟の楠木正近は正七位下、左兵衛大尉にそれぞれ任じられた。
五月に入ると、南軍は活発な軍事行動に出る。これに京の人々は、近いうち京が再び戦場になるのではないかと戦々恐々としていた。
正儀と和田正武が率いる楠木軍は、京極秀綱・高秀の兄弟に続き、摂津の渡辺橋あたりで赤松光範が率いる赤松軍をも撃破する。一門の橋本正高も雨山城から、日根野時盛が籠る隣の土丸城を落として、城を奪取した。
そして、権中納言、四条隆俊は紀伊で兵を挙げ、活発な動きを見せる。また、すでに伊勢で挙兵していた中納言、北畠顕能が、この月、大和に進出する。越智家澄とともに、在地の豪族を平定し、その勢力を拡大していた。
さらに幕府から南朝に転じた山名時氏の取り成しで、足利直冬が南朝へ帰参する。
直冬は足利尊氏の庶子で、かつ足利直義の嫡養子である。実父、尊氏の追討を受けて、いったん九州に逃げていた。だが、養父、直義が幕府の実権を握った際に鎮西探題に任ぜられ、少弐氏や大友氏を味方に付けた。そして将軍尊氏の配下の一色範氏、南朝の懐良親王を奉じる菊池武光と、三つ巴の戦いに明け暮れた。
しかし、正平の一統によって、幕府からも南朝からも追討の対象になると、拠点の大宰府を失陥し、大内弘世の手引きで九州を離れ、長門国へと逃れていた。
翌六月、矢継ぎ早に策を弄する准后、北畠親房の姿が賀名生の廟堂にあった。公卿たちを前にして、親房が次なる策を押し通そうとしていた。
「いよいよ機は熟しました。出雲の山名時氏は但馬・丹後まで進出し、いつでも京を狙えるところまで来ております。さらに和田和泉守(正武)と楠木河内守(正儀)が赤松を破り、摂津に留まっております。大和には伊勢から出陣した我が子、顕能が、越智(家澄)を従えて大和に留まっております。三方からいつでも京へ進軍する支度が整いました」
慢心する親房に対して、関白の二条師基は厳しい視線を向ける。
「先の八幡合戦では、多くの公卿、公家武将を亡くし、御上(後村上天皇)の御命さえ危険にさらしてしまった。次の失態は許されませぬぞ」
八幡合戦で息子の教忠を亡くした師基は、親房の強硬路線に賛同しかねていた。
「左大臣様、此度、御上は賀名生に御留まりいただきます。まずは軍兵のみで京を押えますれば、その御心配にはおよびませぬ。それと、我らの軍勢だけではありませぬ。山名など幕府の諸将をも味方に引き入れておりますので、幕府の兵力は割かれております。さらに足利直冬を惣追捕使に任じ、義詮討伐の綸旨を与えとうございます」
意外な申し出に、二条師基が首を傾げる。
「惣追捕使……ずいぶん古風な官職を持ち出しましたな」
「武士の束ねの役でございますよ」
「されど、降参したばかりの足利直冬を惣追捕使に任じるなど……」
「いえ、惣追捕使は名目だけでございます。将軍の後継者は周知の通り足利義詮。じゃがもう一人、足利尊氏の血を引く直冬を惣追捕使に立てておけば、尊氏や義詮に不満を持つ者は、直冬の元に参じましょう。我らはそれを利用すればよい」
「さすがは准后様、万事抜かりはありませぬな」
同席の、洞院実世が扇で口元を隠して笑った。
惣追捕使は、昔、海賊や反乱などを鎮圧する追捕使の取り纏めとして置かれた官職である。征夷大将軍の宣下を受ける前の源頼朝も、舎弟、源義経の追討に際し、諸国の武士を束ねる名目で任じられていた。
よって、征夷大将軍の前段階として捉える者が多い。南朝ではさすがに武士を征夷大将軍に任じることはできない。だが、直冬を惣追捕使に任じることで、武士の棟梁であることを世間に示そうとしていた。
親房は居並ぶ公卿を見渡し、大納言の二条教基に目を留める。
「われら南軍の総大将は、二条大納言殿にお願いしたい。それと四条中納言殿には副将として、紀伊の兵を率いて上洛され、二条様を御支えいただきたい」
「は、承知いたしました」
温和に応じた二条教基は、関白、二条師基の息子である。毛並みの良さから総大将に選ばれるも、事実上の総大将は亡き四条隆資の跡継ぎである四条隆俊であった。
親房に推薦された隆俊は、半身、前に躙り出る。
「おのおの方、麿は討死した父の意志を継ぎ、京を奪還する覚悟にございます。どうか、麿にお任せあれ」
若い隆俊は、父、隆資同様に、幕府に対して強硬な考えの持ち主であった。
後日、親房の策は、帝の綸旨をもって、諸将伝えられた。
摂津に布陣する正儀の元には、舎弟の楠木朝成、近臣の津田武信・河野辺正友、そして一門衆の和田正武や橋本正高などが集まっていた。
「帝(後村上天皇)の御綸旨じゃ。これより男山を制した後、丹波から進軍する山名時氏殿、大和から入る北畠中納言様(北畠顕能)、そして紀伊の兵を率いる四条中納言様(四条隆俊)の軍と計って京を占領せよとの命じゃ」
正儀は綸旨の内容を諸将に下知した。
「兄者、京の奪回には、まだ時が早うござらぬか。もっと時をかけて、摂津や大和の支配を確実にしておかねば、また我らは、足元から崩される」
「御舎弟殿(朝成)の意見にそれがしも同意でござる」
武信が頷いた。それに対しては、正武が首を横に振る。
「帝の御綸旨が出された今、何を言っても始まらぬ。まずは山名殿、北畠中納言様に使いを出して、京へ攻め入る時期をいつにするか決めねばならん」
正儀は深く息を吐きながら頷く。
「和泉守(正武)の言われる通りじゃ。帝から御綸旨が出てしまっては従うまで。当麻(津田武信)は諸将に伝えて上洛の支度を急がせるのじゃ。又次郎(河野辺正友)は兵糧の補給を算段致せ」
「はっ」
「ははっ」
さっそく二人は陣から出て行った。
正武が、苦悶の表情を浮かべる正儀の肩を叩く。
「幕府を討てば全てが終わる。それまでの辛抱じゃ」
しかし正儀は、たとえ幕府を討ったとしても、それで世の中は治まらないことはわかっていた。幕府が武士を統率して、そのうえで朝廷と役割を受け持つことが必要だと考えていた。それは父(楠木正成)の考えでもあった。
六月、正儀が率いる楠木軍は、三千騎を引き連れて摂津から男山に進軍した。これに歩調を合わせるように、山名時氏・師義親子が但馬・丹後の軍勢三千六百余騎を率いて京へ侵攻する。
賀名生からは四条隆俊が紀伊や十津川の兵、三千二百余騎を率いて、楠木軍を追うように、京へ向けて出兵した。さらに大和からは権中納言、北畠顕能が伊勢と大和の兵、三千騎を率いて京へ進んだ。
公家武将たちが出陣して閑散となった賀名生の行宮。その奥の一間では、帝(後村上天皇)の中宮(皇后)である北畠房子が塞ぎ込んでいた。
房子は父、北畠親房に命じられ、愛する頭中将、中院具忠と別れて中宮となった。そういう経緯もあり、帝に輿入れしてからも、暗い表情を見せることが多かった。その結果、帝の寵愛はますます愛妾、阿野勝子に集中する。それでも、房子に皇子が生まれると、帝も気にかけた。だが、帝が気にかければ気にかけるほどに、房子の表情は堅くなった。
この日も、そんな房子を心配して、帝が奥に渡ってくる。侍女たちはその姿に、それぞれ仕事の手を止めて頭を下げた。
帝は前部屋の一人の侍女の前で立ち止まる。
「中宮の具合はいかがじゃ」
「相も変わらず、塞ぎ込まれておられます。食も細く、皆、心配しております」
侍女は頭を低くしたまま答えた。
「皇子を生んでからすでに半年以上。産後の肥立ちともいえぬ。何か持病があったのか」
「いえ、そのようなことは。ただ……」
「ただ……とは」
その侍女は少し頭を上げて、伏し目がちに答える。
「はい、酷く塞ぎ込むようになったのは、八幡合戦の後からです」
要は出産の前からというのである。侍女の話を聞いて、帝は房子の部屋に入った。
房子の傍に侍る古参の侍女が頭を下げる。房子も居住まいを正し、両手を突いて帝を迎えた。
「朕が来たからといって、畏まらなくてもよいぞ。加減はどうじゃ」
「は、はい……」
帝の問いかけにも黙り込む房子に、古参の侍女が代わる。
「……今日は、朝食も残さず食されました。少しずつ、お元気になられているようにございます」
「左様であるか……朕が参ったからといって気を遣う必要はないぞ。横になって休むがよかろう。皇子のためにも、そなたに元気になってもらわなければならぬ」
帝は、前部屋の侍女の話と違うことに、少し戸惑いながらも房子を気遣う。その気遣いに、房子は一縷の涙を流した。
その様子に、古参の侍女が慌てる。
「まあ、中宮様……御上のお優しさに胸を打たれたのでございましょう」
「……いえ……」
か細い声が房子の口を付いて出た。
「うむ、何か朕に申したいのか」
「……ち、違うのでございます」
「中宮様っ」
房子を留めようとするその侍女に構うことなく、房子は続ける。
「わらわが……わらわが涙したのは……自らの所業に、さいなまれているためにございます」
「どうしたというのじゃ。何を言っておるのかわからんではないか」
前にも増して涙を流す房子に、帝は戸惑った。
古参の侍女が引きつった顔で、房子の側に寄り添う。
「中宮様、お加減が悪くなられたのですね。さ、奥に戻りましょう」
無理に寝所に連れて行こうとする侍女を振り払い、房子が続ける。
「いえ、これ以上、隠すことはできませぬ。本当のことを申します」
「本当のこと……とは」
おろおろする侍女を横目で見ながら、帝がたずねた。
「皇子の本当の父は、八幡合戦で亡くなった中院具忠様でございます。わらわは、わらわは……御上を裏切っておりました」
房子の言葉に、古参の侍女は総てが終わったかのように、力なく項垂れた。帝は泣き崩れる房子の様子に、声を出すことも忘れ、ただ茫然と見つめるのみであった。
このことは、すぐに北畠房子の父、北畠親房にも知らされる。事情が呑み込めない親房は、古参の侍女を捕えて、ことの真相について口を割らせた。
中宮として帝へ輿入れする前から、房子が中院具忠とは想い合った仲であったこと。中宮になった後でも、賀名生の庄屋に場を借りて密会していたこと。八幡合戦で中院具忠が討死し、自らも命を断とうとしたこと。そして子を宿していることに気づき、具忠が父親かもしれないと良心の呵責に苛まれたことを、順を追って吐露した。
親房は顔を真っ赤にし、身体を震わせる。
「何ということをしてくれたのじゃ」
いつもは沈着冷静な男であったが、この時ばかりは、冷静さの欠片もなかった。
「具忠の家は断絶じゃ。そして密会の屋敷を提供した百姓は、家の者を皆、さらし首にするのじゃ。その方も処罰は免れぬぞ」
古参の侍女は震え上がった。親房の激しい怒りは、すぐに近習から配下の武士に伝えられた。
命を受けた数人の武士が、その夜のうちに、場所を貸した庄屋の家に押し入った。そして、幼い子を含む一家七人を惨殺し、首を跳ねて家の前に晒した。晒し首には、帝(後村上天皇)に不忠を働いた者への処罰とし、帝の上意であるという趣旨が書かれた札が立てられた。
夜が空け、村の者が徐々に事件のあった庄屋の家の前に集まる。
「おお、幼い子までが……可哀想に」
「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時……」
「何とむごいことを……鬼じゃ」
家の者たちの無念を嘆いて泣く者、念仏を上げる者、帝や朝廷の残忍さに憤る者で、家の前は騒然としていた。
「幼子までがなぜ首を跳ねられねばならん」
「そうじゃ。納得いかぬ」
「帝に文句を言おうぞ」
怒りに狂う賀名生の村人たちが、大挙して行宮に向かった。
村人らは行宮の前で、それぞれ怒声を上げた。すると、近衛の兵たちとの間で小競り合いとなり、何人かの村人が斬殺される事態となった。このことに村人たちの怒りは頂点に達する。
「帝は我らの御味方じゃと思うておったが、こんなことなら幕府の方がましじゃ」
「そうじゃ、帝は京にもおるぞ」
「賀名生から帝を追い出せ」
「兵らは京へ出陣して留守じゃ。今なら我らでも帝を追い出せるぞ」
男女を問わず村人は、手に刀や薙刀などの武具、鍬や鎌の農具を持った。近隣の村人までもが集まり、その数は二千にもなる土一揆に発展する。一揆は賀名生の行宮へ向けて進んだ。
これに驚いたのは行宮に残っていた皇族や公卿たちである。帝は動座を余儀なくさせられる事態となった。
右近衛少将、阿野実為から話を聞いた伊賀局(篠塚徳子)は、ただちに女房たちを指図して、新待賢門院(阿野廉子)を行宮から連れ出した。
京の門口とも言える男山を占領した楠木の本陣に、准后、北畠親房からの早馬が到着する。
陣を張った麓の寺の中。賀名生の使者が手渡した書状を、正儀が眉間に皺を寄せて目を通す。その険しい表情に、河野辺正友が何事かと注目する。
「殿(正儀)、北畠卿は何と言ってこられたのですか」
「うむ、賀名生で土一揆が起こったので、戻って来いとのことじゃ」
「何と。これから京へ突入しようと、丹波や大和の軍と計った矢先でございますぞ。それを土一揆のために賀名生へ戻れとは、何たることでありましょうや」
「ううむ、確かに、土一揆で戻って来いとはな……いったい何が起きているのじゃ」
正儀は、親房が差し向けた使者にたずねた。
「一揆は二千を越え、行宮に押しかけました。帝は動座を余儀なくされておられます」
「何と動座まで……そもそも、なぜ土一揆がおきたのじゃ」
「それは……いえ……それがしはただ、河内守様(正儀)に書状をお渡すよう、申し付けられただけにございます」
使者は何かを知っている素振りだが、申し訳なさそうに口を閉じた。
「そうか……ううむ」
使者を前にして、正儀は腕を組んだ。隣で正友が厳しい表情を浮かべる。
「殿(正儀)、どうされますか。和泉守殿の軍勢はそのままとしても、我ら楠木の本軍だけでも、引き返しますか」
正友の意見に対して、津田武信が首を横に振る。
「いや、それは難しゅうござる。すでに丹波と伊勢・大和の軍勢の入洛の手筈を整えております。ここで楠木本軍が出兵できないとなると、お味方は苦しい戦いになるのは必定」
正儀は悩んだ挙句に腹を括る。
「楠木本軍の半分を割いて、これを四郎(楠木朝成)に指揮させて賀名生に向かわせる。北畠卿には、そのようにお伝えせよ」
「承知つかまつりました」
使者は頭を下げて、ただちにその場を後にした。
「兵割りは当麻(津田武信)に任せる。すぐに四郎を呼んで参れ」
「はっ。承知」
正友は、すくっと立ち上がると、陣を出て行った。
翌日の男山。正儀は賀名生へ帰還させる兵を集め、下知しようとしていた。そこへ、賀名生から第二の知らせが届く。今度は右近衛少将、阿野実為からの使いであった。
使者から書状を受け取った正儀は、舎弟、楠木朝成らの前で広げて目を落とした。
「兄者(正儀)、今度は何と書いてあるのじゃ」
読み終えた正儀は、朝成らの視線が集まる中で顔を上げ、ふうぅと深い溜息をつく。
「一揆は収まった。もう戻らなくてよいとのことじゃ」
「何ですと……まったく人騒がせな。いったい賀名生では何が起きておるのか」
「それはこの書状に細かく書いてある」
正儀はそう言って、憤る朝成に書状を渡した。
実為の書状には、中宮(皇后)、北畠房子の不義のこと、百姓惨殺のことが細かく書き綴ってあった。
土一揆が起こった時、右近衛少将、阿野実為が、帝(後村上天皇)が動座した後の行宮に一人残り、一揆の村人たちを説得した。
実為は、行宮を取り囲んだ人々に対して、自らの命を顧みず、あらんばかりの大声を出す。
「賀名生の民が命を落とした件、帝は与かり知らぬのじゃ。本当じゃ。これは朝廷が命じたことではない。帝も殺された民のことを思うて大そうお怒りじゃ。必ずや命じた犯人を捕らえ、処罰することを約束しようぞ。頼む、皆の者、麿を信じてくれ。この右近衛少将、阿野実為を信じてくれ」
一刻にもおよぶ実為の説得により、やっと一揆が治まった。
書状から顔を上げた楠木朝成の顔は険しかった。
「兄者(正儀)、我らは仰ぐべき人物を誤ったのか」
朝成の言葉に、正儀は唇を噛みしめた。
親房は、公家らしからぬ戦略眼を持った紛れもない英才である。かつて足利尊氏を九州へ追い払うことができたのも、吉野が南朝たりえたのも、切れ味鋭い親房の戦略眼のお陰と言えた。若い正儀にしてみれば、その実力は一目も二目も置かなければならない存在である。しかし、多くの武士の犠牲の上に、その政略はあった。この男に兵馬の策が委ねられ、兄たち(楠木正行・正時)は、捨て石にされたのかと思うと、全身の血が煮えたぎる思いであった。
「名馬も老いれば駄馬……か」
正儀は小さく呟いた。そして、冷静さを取り戻そうと無言で目を閉じた。
土一揆が収まり、賀名生の行宮に戻った帝(後村上天皇)の元に、北畠親房が弁明に訪れる。
帝の前で、親房は苦々しい表情を浮かべて畏まる。
「御上、此度の不始末、この親房の不覚の極み。されど、御安心召されませ。二度とこのような一揆が起きぬよう、首謀者を見つけて打首に致しましょう」
そう言う親房に、帝は無言のまま目を逸らした。その様子に、親房は言いにくそうに、言葉を続ける。
「また、その……房子のことですが、娘とはいえ、必ずや厳しい処罰を致しましょう。また頭中将(中院具忠)ですが、すでに八幡合戦で討死しておりますのでいかんともし難く……官位を剥奪したうえで、親族への処罰を検討しようかと……」
親房の言葉を遮るように、帝が深い息を吐く。
「中宮(北畠房子)のことはもうよい。事情は聴いた。あれは可哀想な女であった」
「御上のお優しきお気持ち、痛み入ります。ですが、それでは示しがつきませぬ。きっと厳しき処罰を致しましょう」
恐縮して答える親房に、帝は冷たい視線を送る。
「厳しき処罰をせねばならぬのは、北畠准后、その方ではないか」
「な、何をおっしゃいます」
驚く親房に、帝は言葉を続ける。
「朕は中宮の父としてのその方を責めておるのではない。中宮と頭中将(中院具忠)を手引きしたという賀名生の庄屋一家を問答無用に切ったことじゃ。民に落ち度があったなら、なぜにこのような騒動になる。実の娘が絡んだその方の都合からではあるまいか」
「いえ、それは、浅慮の土民ゆえのことかと」
いつもの冷静な親房なら、深慮して答えるところである。しかし、自分のせいにされるのは、甚だ迷惑とばかりに応じた。
「いや、賀名生の民衆は我らを支持しておらぬのじゃ。それはこれまでの朝廷の振る舞いからくるのであろう。此度の一揆の鎮圧で、阿野少将(阿野実為)が、庄屋の一家を切った犯人を捕らえると民たちに約束した。民を納得させるには、我らも厳しき処罰をせねばならん。北畠准后、その方は蟄居するがよい」
「何と仰せられます。今は我が軍が京を奪回するべく大事な時ですぞ。その時期に麿を更迭されると申されますか」
「そうじゃ。この大事なときに、このようなことで河内守(正儀)を呼び戻すことなどあってはならんのじゃ」
親房は、帝が本気で自分を更迭しようとしていることに、初めて焦りの色を見せる。
「さ、さりながら、麿はこれから京へ向かい、策をもって指揮をとらねばなりませぬ」
「戦は河内守(正儀)がおれば、その方が居らずとも大丈夫じゃ。あの者であれば、押すときは押し、引くときは引くであろう」
「楠木など、まだ、右も左もわからぬ若造でございます」
親房は事態を見誤っていた。すでに宮中には、親房に対する不満が渦巻いていた。新待賢門院(阿野廉子)や、関白の二条師基など八幡の戦いで親族を失った公卿達である。賀名生の土一揆は、親房降ろしのきっかけに過ぎなかった。
帝は抗う北畠親房に一縷の涙を見せる。
「准后、その方は朕を護って奥州まで随行してくれた。幾多の困難をともに潜り抜け、朕に多くのことを教えた。朕にとっては師であるとともに父でもあった。感謝しておるのじゃ……」
昔を懐かしむように、帝は少し目を閉じる。
「……されど、もうよいのじゃ。もう終わりにしようぞ」
そう言うと帝は立ち上がり、奥へ退いた。近習らも下がり、部屋には、親房が一人寂しく取り残された。
この後、親房は行宮への出仕を禁じられ、自らの屋敷に蟄居させられた。また、娘の北畠房子は、自らが生んだ赤子を連れて宇陀にある陽雲寺に入り出家する。
陽雲寺には、房子の亡くなった姉で、新陽明門院の諡を授けられた北畠顕子の廟があった。房子が生んだ赤子は、後年、出家して坊雲と名乗ることになる。
この事件の陰で、哀れであったのは十一歳の第一皇子、寛成親王であった。叔母となる北畠房子が中宮(皇后)として帝(後村上天皇)に輿入れしたのは、母の北畠顕子が亡くなっていたためである。その時から、祖父である北畠親房の関心は、房子が生む皇子に移っていた。
寛成親王は宮中でも忘れられた存在であった。それが、さらにこの事件で、北畠の血を引く親王を構うものは居なくなった。
逆に、第二皇子の熙成親王にとっては、東宮(皇太子)宣下が現実的となった。母である阿野勝子にとっても、この上もない喜ばしい状況である。しかし、元来、心優しい彼女は寛成親王を憐れんだ。
ある日、勝子は、そんな寛成親王を見かねて部屋を訪れる。
「一の宮様(寛成親王)、急に訪ねて申し訳けございませぬ」
「何でございましょう」
親王は勝子に背中を向けたまま、書物に目を落し続けた。
「源氏物語でございますね」
背中越しに勝子が覗き込むと、親王は慌てて書物を閉じる。源氏物語は親王の愛読書であった。誰からも相手にされない淋しさを、親王は書物で紛らわしていた。
「し、失礼でございましょう」
寛成親王は恥じ入るように顔を真っ赤にした。しかし、勝子はお構いなしに親王の前に座る。
『さびしさは まだなれざりし昔にて 松のあらしにすむ心かな』
勝子は唐突に寛成親王の前で歌を詠み、微笑んだ。親王は唖然として勝子の顔を見つめる。
歌の意味は『寂しく感じたのは今は昔、今では松吹く嵐の音にも心が落ち着く』である。
「一の宮様は歌を詠まれますか」
「歌……でございますか……少々」
勝子の問いかけに、戸惑いながらも答えた。
「我が子(熙成親王)は幼すぎて、一緒に歌を楽しむこともできませぬ。もし、一の宮様さえよろしければ、女房衆で行っている歌合に出られませぬか」
勝子は二条流の歌詠みでもあった。高名な歌詠み、信濃宮こと宗良親王に歌の手解きを受けたこともある。勝子は歌を介して寛成親王を慰めようとしていた。
寛成親王は勝子の問いかけに、顔を伏せる。
「我は、とても歌合に出られるような歌は詠めませぬ」
「誰でも最初は上手に詠むことはできませぬ。ご興味があれば、わらわが歌を教えましょう。いかがでございますか」
優しい言葉に、親王は顔を上げる。
「なぜ我にそのような事を……我と勝子様の御子とは並び立つことができぬ者同士……」
「いえ、ともに御上(後村上天皇)の皇子でございます。二の宮も一の宮様も、わらわの皇子でございますよ」
そう言って勝子は微笑んだ。その明るく優しい声に、寛成親王は、少しだけ表情が和らいだ。