第20話 正平の一統
正平六年(一三五一年)十一月七日、京の町に木枯らしが吹く。
南朝の准大臣、北畠親房は、足利尊氏が東国へ下った隙を狙ったかのように、頭中将、中院具忠を、勅使として京へ送った。
具忠は、蘇芳で染めた直垂の上に鎧をつけ、二十騎ばかりの兵を引き連れて入洛する。そして、南朝の権大納言、洞院実世の父で、北朝に残り太政大臣に任じられていた洞院公賢の屋敷に入った。
具忠は、南朝の帝(後村上天皇)の勅使として、自身は上座に、公賢を下座に座らせた。続けて、幕府との約定を背景に、帝の綸旨を読み上げる。
内容は、北朝の帝(崇光天皇)の廃帝と、東宮、(皇太子)直仁親王の廃太子。さらに北朝の関白、二条良基らの更迭を通知した。新たな関白には、南朝の左大臣、二条師基を任じ、目の前の公賢を左大臣とした。これは、北朝側の代表として公賢を指名すれば、息子の実世を介して折り合いも付け易いと考えてのことである。
続いて年号も、北朝の『観応二年』を廃し、南朝の『正平六年』を唯一とした。後に、世間ではこれを『正平の一統』と呼ぶ。
綸旨を下し終わった具忠が、公賢に視線を向ける。
「洞院様、持明院の君(崇光天皇)がお持ちの三種の神器、今はどこにございますか」
「神器……でございますか……春興殿の賢所かと。いかがされましたか」
「それは虚器でありますゆえ、我らが引き取り、処分致します。洞院卿(公賢)におかれては、内裏に出向いて、主上をお迎えする御用意をし、虚器の引き渡しをよしなにお取り計らい願いたい」
具忠の口から出た言葉に、公賢が目を剥く。
「お、お待ちくだされ。まだ内裏には帝(崇光天皇)がおわします。昨日の今日では主上が移る御所さえ用意できておりませぬ。今しばらく、お待ちいただきとうございます」
「御移りいただくのは後でも構いませぬ。まずは虚器を接収しとう存じます」
「何も今でなくともよいのではありませんか。所詮は虚器。いずれ穴生の御上が京へ戻られた後で、ごゆるりと処分なされては」
来て早々に神器の引き渡しを命じる具忠に、公賢は首を傾げた。その態度に、具忠は険しい顔で睨みつける。
「それはなりません。偽物とはいえ、先帝(後醍醐天皇)より持明院の皇統へ譲り渡され、京の内裏では二代(光明天皇、崇光天皇)にわたって神器とされております。これを改めなくして、いかに穴生の帝が内裏へお戻りになることができましょうや」
目を吊り上げた具忠が、一方的にまくし立てた。公賢は釈然としないながらも、しぶしぶ、三種の神器の撤収を約束する。
この突然の具忠の上洛と南朝の綸旨に、京の公家たちは恐れおののいた。すかさず穴生の北畠親房は京へ使いを送り、以後、官位の取り仕切りは穴生の行宮にて執り行うと、京の公卿へ触れて回る。このことは、すぐに洛中全ての公家に伝わった。
正儀は穴生に来ていた。河野辺正友を連れ立ち、馬で右近衛少将、阿野実為の屋敷に向かっていた。
穴生は行宮ができて以来、かつてないほどの人で溢れかえっていた。
正友が首を傾げる。
「殿(正儀)、この公家どもはいったい何でしょう」
「どうやら、京の公家たちが官位を求め、穴生の御所を訪ねているようじゃな。京の帝(崇光天皇)が廃帝となり、官位の取り仕切りは穴生の行宮が行うと聞いておる」
正儀は馬を進めながら正友に答えた。
「されど、行宮だけでなく、あちこちの公卿の屋敷にも人が集まっておりますぞ」
「京の公家は、穴生の親族や知り合いを頼って、取次を頼もうとしているのであろう」
「なるほど……殿、あの屋敷はひと際、賑わっておりますな」
正友が指さす先は、北畠親房の屋敷であった。
この時、北畠親房は屋敷の中で、京の摂関家、近衛基嗣の使者に会っていた。
近衛家の使者は、親房の前で頭を低くする。
「これは北畠様、ご無沙汰しておりました」
「基嗣様は御達者か」
「はい、関白を退いてからは、好きな歌詠みに没頭されておいでです」
基嗣が関白を退いたのは十三年も前のことであった。
「ところで、今日はいかなる御用でございましょうや」
「はい、此度は准后宣下の内示があったとか。その祝いで駆け付けましてございます。これは准后に成られたことへの祝いの印にございます」
そう言って、使者は小降りの袋に入れた砂金を差し出した。
正平の一統を実現した功績者として、親房は帝(後村上天皇)より、准后の称号を贈られることが決まっていた。
准后とは准三后のことで、太皇太后・皇太后・皇后の三后に准じる地位である。阿野廉子のように皇后以外から帝の母となった国母や、帝の外戚に与えられるものであり、臣下に与えられる称号ではない。しかし、義良親王と呼ばれた幼き日の帝が、親房の薫陶を受けて育ったことで、養父に見なして贈ることとしたのであった。
近習の手で砂金が親房の手に渡ると、使者が言葉を足す。
「基嗣様の御嫡男、道嗣様は、京の朝廷では右大臣に任じられておりました。北畠卿が京へお戻りの際には、ぜひ元の処遇をお願いしたく、何卒、よしなに、お計らいいただきとう存じます」
そう言って、深々と頭を下げた。
親房には、使者の目的が官位であることは、端からわかっている。
「その道嗣様はここには来られぬのですな。確かに穴生は田舎ゆえ、京育ちの公達には似合ぬところでございましょう」
「いえ、決してそのような。今日は、廟堂に参っております」
「廟堂とは。はて、御上が穴生にしかおられぬのに、京の廟堂に用事などあるのですか」
使者の顔が蒼くなる。
「いや、あの、それは……」
「道嗣様は幾つになられた」
「十八にございます」
「十八……まだまだお若いな。いま、慌てて右大臣に復職せずとも、この先、いくらでも機会はありましょう」
親房の言葉に、使者が慌てる。
「い、いえ、北畠様、何卒。これではわたくしめは京へ帰れませぬ」
「御使者の勤めは、正確に主の言伝を伝え、返答を持ち帰ること。京へ帰れぬではいけませぬな。それではもう一つ大事な言伝を持って帰っていただきましょう。それならば京へ戻れることでしょう」
「だ、大事な言伝とは……」
「近衛家の家督ですが経忠殿に継いでいただきましょう」
使者は泡を食う。近衛経忠は基嗣の従弟で、南朝における先の左大臣であった。
「……い、いや、それは。近衛家の家督は内輪のことゆえ、北畠様が御指図されることでは……」
使者が言い終わらないうちに親房が遮る。
「近衛家は摂関家の筆頭。それを我らに反した基嗣殿がいつまでも家督を持つことはできますまい。まあ、関白に任じられた方が摂関家嫡流とならざる得ないでしょうが」
「北畠様、少しお待ちください」
「まあ、麿一人で決まることではありませぬ。御上(後村上天皇)の御聖断を仰いでみましょう」
そう言うと親房は、砂金は返さずに使者のみを追い返した。
摂関家の家督に続き、親房は清華家である西園寺家の家督にも口をはさみ、強引に南朝側の西園寺公重に家督を継がせた。もはや京の公家たちの地位は、親房の思いのままであった。
十二月二十三日、北朝の三種の神器は頭中将、中院具忠の手に渡った。先の北朝の太政大臣で、南朝から改めて左大臣に任じられた洞院公賢が、なかなか納得されない京の帝(崇光天皇)を説き伏せたためである。具忠は、接収した北朝の神器を持って、ただちに穴生へ帰った。
同月二十八日、穴生に戻った具忠は行宮に参内した。その一室で具忠を待ち構えていたのは北畠親房である。
「頭中将(具忠)、よう帰られた。今か今かと待っておったぞ。さっそく京の神器を見せてくれ」
「准大臣様、これにございます」
具忠の後ろから地下の公家(位の低い公家)三人が、それぞれに神器を収めた箱を、高く掲げるようにして部屋に入ってくる。
そのうちの一人、八咫鏡によって、足元の視界を遮られていた公家が、部屋の敷居で蹴躓いた。すると、親房が思わず腰を浮かせて、手を前に差し出す。
「た、戯け者、気をつけて運ぶのじゃ」
「はっ、申し訳ございませぬ」
それまで機嫌のよかった親房の激昂に、三人の公家は肝を冷やした。そして、運び終えた三人は、そそくさと部屋から下がる。
「所詮、偽の神器であろう。そこまで怒鳴らなくとも」
「そうじゃ、そうじゃ」
公家たちはささやきながら、その部屋を後にした。
その日、穴生の行宮では、京から接収した神器を前に神楽が奉納される。
親房は正平の一統の功で、正式に准后の称号を送られた。皇族以外の者が准后に任じられたことで、親房は、名実ともに絶頂期を迎える。
また、政敵ともいえる阿野廉子にも新待賢門院の女院号が送られた。
穴生の行宮では、これらを祝って宴が催される。宴には、帝(後村上天皇)や廉子、親房のほか、新たに関白となった二条師基をはじめとする公卿らが出席し、互いに長年の苦労を称えた。
この一統によって願いが叶った帝は、年が明けて祈願成就の記念として、ここ『穴生』の文字を『賀名生』に改める。『かなう(叶う)』とも読むことができる当て字であった。
【伝承では、このときの改名は『穴生』から『加名生』とし、後に『賀名生』とした。さらに明治維新後に発音を『賀名生』に統一するが、本作ではこの時点から表記も発音も『賀名生』と記載する】
正平七年(一三五二年)一月、東国に下った足利尊氏は、駿河国薩埵峠、相模国早川尻と足利直義を連破する。この報はただちに賀名生の行宮にも届けられた。
「准后様、おられますかな」
行宮の一室、北畠親房の元に権大納言の洞院実世がたずねてきた。
「どうされました、洞院卿」
「今しがた、関東より知らせがあり、足利尊氏が直義を破り、これを鎮圧したとのことにございます」
実世はそう言いながら親房の前に座った。
「そうか、尊氏が勝ったか。して直義は」
「鎌倉の延福寺に蟄居させられた由」
「ほほ、やはり弟の首はとれぬか。甘い奴よのう……」
親房は含み笑いを返す。
「……では、次の策に取り掛かるか」
「いよいよでございますな。ついに、我らの大願が成就するとき。ほほほ」
実世は扇で口元を隠して高笑いする。一方、親房はそんな実世の顔を見ながら、不気味に微笑んだ。
准后、北畠親房は、さっそく大納言の四条隆資を介して正儀と和田正武を、賀名生の行宮に召し出した。二人は行宮の一間で親房らと対面する。
正儀は、正平の一統に関しては、まったくの蚊帳の外におかれていた。親房は、足利直義との和睦を主導した正儀を、わざと携わらせなかった。そして、自らの手腕を見せつけるように正平の一統を実現させた。しかし、次なる企てには楠木の力が必要であった。
「楠木左衛門尉、ただいま参上つかまつりました」
「和田和泉守、同じく参上つかまつりました」
昨年、正武は南朝から和泉守を任じられていた。本来は国を治める国司職の長である和泉守だが、幕府と同様に南朝における国司職も権限は無きに等しい、北畠など実力で国を治める一部の公家らを除き名目であった。あくまで和泉国の国務掌管者は守護の正儀である。
「うむ、二人ともよう来た……」
南朝軍を束ねる隆資が、親房に目配せしながら声をかける。
「……今日、そなたたちに来てもろうたは、大事な話があってのことじゃ。北畠卿からご説明いただこう」
親房は反り返り、正儀と正武の顔を下目遣いに窺う。
「久しぶりじゃのう。左衛門尉(正儀)」
「はっ。准后様におかれてはご機嫌麗しゅう……」
「挨拶はよい。本題に入ろう。御一統により我らは御上(後村上天皇)を奉じて京へ還幸致す。そなたたちは御上をお護りして、京へ上るのじゃ。よいな」
「御意」
二人は声を揃えて承服した。
「そしてじゃ、入洛に際して、そなたたちは足利尊氏の留守を預かる嫡子、足利義詮へ戦を仕掛けて、これを討伐せよ」
正儀は驚いて顔を上げる。
「准后様、何と申されます。和睦を反故になされますか」
「左衛門尉、何を驚いておる。そのようなことだから、そなたの仕事は進まんのじゃ。討伐するは京の義詮だけではないぞ」
顔を強張らせた正儀は、隣の正武を一瞥してから、改めて親房の視線に目を合わせる。
「どういうことでございましょう」
「東国では信濃宮様(宗良親王)を奉じて、新田義興(新田義貞の次男)、脇屋義治(脇屋義助の嫡男)、北条時行(北条高時の息子)の軍勢が鎌倉に討ち入り、足利尊氏を討伐する手筈じゃ」
正儀も正武も同様に目を丸くした。
「それだけではないぞ。伯耆の船上山では名和の一族が挙兵する手筈よ」
「そ、それはまるで元弘の折、北条幕府を討った時と同じでございますな……准后様の策、それがし感服つかまつりました」
正武は目を輝かせ、感心して頷いた。それに対して、正儀の表情は険しい。
「恐れながら申し上げます。それは、綸旨を与えし者を、騙し討ちすることにほかなりませぬ。主上の威厳を失墜させ、味方の離反を招きます。元弘の折の戦は、世情を味方にすることができたゆえ勝てました。されど、そのような事をすれば、此度は世情を敵に回すことになるかと存じます」
「左衛門尉。何を判ったように申しておる。若いそなたに何がわかろう。現実を見よ。諸国の豪族は、京であろうが、賀名生であろうが、己に都合のよい方に付いておる。結局は勢いのある方に人はなびくのじゃ。我らが勝てば、民は我らに付いてくる」
親房は、高眉を引きつらせながら正儀を説き伏せた。しかし、正儀は食い下がる。
「尊氏・義詮を討って、幕府を倒しても、それで事は収まりませぬ。武士には幕府が必要なのです。幕府を倒しても、いずれ第二、第三の尊氏が生まれます。もとより、諸国の武士が、幕府をなくす戦と知れば、彼らは尊氏・義詮の元に集まりましょう」
業を煮やして親房が立ち上がる。
「黙らぬか、左衛門尉。そなたは我らの指示に従えばよい。仔細は追って伝える」
そう言うと立ち上がり、一人、広間を出て行った。
沈黙していた四条隆資が口を開く。
「左衛門尉、そなたの言い分も一理あろう。さりながら、尊氏との和睦を纏め、持明院の皇統を廃して御一統を実現させたのは北畠卿じゃ。いま、北畠卿に逆らう者はおらん」
「四条様……」
無念の思いで正儀は隆資に目をやった。
「麿とて疑念がないわけではない。されど、ここまでは全て、北畠卿の描いた通りじゃ。麿はもう少し、北畠卿の策に乗ってみようと思う。左衛門尉、麿からも頼む。我らに力を貸してくれ」
「四条様の言われる通りじゃ、三郎殿(正儀)。ここまできて、我らが従わず、北畠卿の策がうまくいかなくなっては、失敗の矛先は我らになるのじゃぞ。ここは、策に従おうぞ」
正武にも促された正儀は、これ以上は口を噤むしかなかった。
ここは、賀名生のとある庄屋の屋敷である。上がり框を跨いでその家に入ってきたのは、京から三種の神器を持ち帰った頭中将、中院具忠であった。
「頼もう。麿じゃ」
家の中へ向けて声を張ると、家主が出て来て頭を下げる。
「これは、中将様」
すると、具忠は、金糸が縫い込まれた小振りの巾着を差し出す。
「いつもすまぬな。これは些少だが、とっておいてくれ」
「お気遣いありがとうございます」
家主は巾着を受け取ると、家族を連れ立って家を出ていった。
具忠の陰に隠れるように女の姿があった。市女笠を被り、顔が見えぬように虫の垂れ衣を纏っている。一目で公家の女とわかる出で立ちで、伏し目がちに下を向いていた。
女は具忠に手を引かれて家の中に入ると、自ら笠を取る。
「中将様」
そう声を発したのは、帝(後村上天皇)の中宮(皇后)である北畠房子であった。具忠は、房子の目を見つめる。
「房子様」
「早う、お会いしとうございました」
房子の声に反応するかのように、具忠はその手を取ってそっと抱き寄せた。
和田正武を連れ、正儀は賀名生の行宮から南河内の龍泉寺城に戻った。嶽山の麓に建っていた館は、高師泰に焼き討ちされて以来、いまだ再建は成っていない。
この城の本丸(主郭)に建つ陣屋に、楠木朝成、橋本正茂、神宮寺正房、津田武信、河野辺正友らを集め、北畠親房の命を伝えた。
正武が正儀の顔を窺う。
「三郎殿(正儀)、こうなったからにはやるしかあるまい。くよくよと考えている暇なぞないぞ」
「新九郎(正武)殿、わかっており申す。もはや最善を尽くすのみ。いかに戦うか策を考えましょう」
「兄者、策というと……」
「いかに味方の被害を少なく、敵を討伐するかじゃ」
朝成の問いに答えると、正儀は腕を組んだ。
対照的に正武は、自身あり気に含み笑いを浮かべる。
「何、気にすることはない。我らは、正成公の時代は砦に敵を引き付けて戦うのみであった。じゃが、正行殿の代となってからは騎馬をも得意とする武士団となった。平地でも東夷と互角じゃ」
「新九郎殿、互角では駄目じゃ。必ず我らが勝たねばならん」
四條畷で兄たちを亡くした正儀は、意気の上がる正武に釘を刺した。
都育ちの朝成が付け加える。
「京の街は、寺社仏閣、公家屋敷や武家屋敷、さらには庶民の長屋まで、所狭しと家屋が建っております。河内のような砦を築ける場所もなく、また、平野のように馬が駆ける平地でもありませぬ」
「そうじゃな、わしも京に出向いたとき、この目で見た。あそこで戦うとなると……」
正儀は目を閉じて、幼き頃に見た光景を思い出す。
一方、京を見たことのない正武は話に着いていけない。
「京とは、そのように家屋が多いのか」
「左様……それがしは幼きとき、大きな寺社は山のように、町屋は四方に広がる尾根のように、そして、その間を抜ける通りは谷合のように思うておりました。まるで、連々と成る河内の山々のごとく」
都で生まれた朝成は、何気に、幼き頃の感想を漏らした。目を閉じて思案していた正儀が、突如、目を開く。
「四郎(朝成)、それじゃ」
一人、納得顔で、正儀は口元を緩めた。
いっせいに一同が視線を向ける。そして、身を乗り出して、正儀の策に耳を傾けた。
二月二十六日、准后、北畠親房は、京への還幸の行列を仕立て、帝(後村上天皇)を奉じて賀名生の行宮を発った。もちろん、幕府の与かり知らぬことである。
行列には、新待賢門院(阿野廉子)や阿野勝子など女御の輿も加わっていた。伊賀局も侍女の妙を連れて同行した。
親房は還幸の行列を、隠岐からの先帝(後醍醐天皇)の凱旋に習って支度を行っていた。先帝のときと同じということは、あでやかな女房衆とは対照的に、物々しい数の兵が同行するということである。
大納言、四条隆資の元に集まった紀伊の豪族や、蔵人頭の千種顕経(千種忠顕の息子)が率いる吉野十八郷の郷士などが行列に従う。帝の行幸と思いきや、その実は行軍であった。
賀名生を立った行列は、紀見峠を越えて河内国の観心寺に入る。そこで帝を待っていたのは、正儀が率いる楠木軍千余騎であった。
正儀は、橋本正茂を留守居役として東条に残し、舎弟の楠木朝成、家宰を代行する神宮寺正房、そして、腹心の臣である河野辺正友らを引き連れていた。
この度は、楠木正近と美木多正忠も参陣している。
楠木正近は正儀の叔父、楠木七郎正季と甲斐庄澄子との間に生まれた子、弥勒丸が元服した後の名乗りである。正儀より四つ歳下で、正季が湊川で討死した時はわずか三歳。湊川の後、母方の甲斐庄家で育った。
一方、美木多正忠は正儀の叔父、美木多五郎正氏と和田良子との間に生まれた子で、新発意賢秀・賢快兄弟の末弟である。正儀より七つ歳下で、湊川の後、正氏が亡くなったときは、母、良子の腹の中であった。まだ十五才の正忠にとっては、これが初陣である。
正儀のもうひとりの腹心の臣、津田武信は、篠崎親久や津熊義行ら北河内の者どもと先達し、交野郡津田荘の父、津田範高の館にいた。武信は、ここから北河内の豪族に、帝の還幸の供をするようにと触れて回り、兵を集めていた。
観心寺に到着した帝は、槙本院を行在所とした。正儀はさっそく一族、家臣を引き連れ、帝に拝謁する。
槙本院の続き間から庭が見通せるよう、部屋の戸板を外し、中央に御簾を垂らして、その奥に帝が座っていた。
左右には准后の北畠親房、関白の二条師基、大納言の四条隆資、権大納言の洞院実世、権大納言の阿野実村、頭中将の中院具忠、右近衛少将の阿野実為らが座った。
南軍の総大将、大納言の四条隆資が正儀に声をかける。
「左衛門尉(正儀)、行幸の警護、大儀である」
「はっ。我ら万全を期し、帝に御供つかまつります」
「御上は直答を許される。御上がお聞きになることに、畏まって答えるがよい」
頭中将の具忠がそう言って、傍らに目配せすると、脇に控えた二人の蔵人が、帝の前の御簾をくるくると巻き上げる。
すかさず正儀らは、尊顔を直視しないように顔を伏せた。
「左衛門尉(正儀)、朕はそなたら楠木党を頼みにしておる」
「はっ。大変、光栄に存じます」
帝の御声に、正儀は恐縮し、畏まった。
「左衛門尉が連れし、若武者らは誰ぞ」
「はっ、我が弟と従弟たちにてございます。名乗りを上げさせていただきます」
「ほう、左衛門尉(正儀)には弟がおったか」
「御意。四郎は京で生まれ育ちましたゆえ、それがしの元に参ったのは、最近のことでございます」
「左様か」
正儀は後ろを振り向いて、朝成に目配せした。
「はっ、それがし、亡き楠木河内守正成が四男、四郎朝成にございます」
続いて正儀は従弟らに目配せをした。
「それがしは、楠木帯刀正季が嫡男、楠木小七郎正近にございます」
「それがしは、美木多判官正氏が末子、美木多五郎正忠にございます」
正近と正忠は緊張しながら答えた。
「そうか、楠木帯刀と美木多判官の息子たちがこのように大きくなったのじゃな」
「はっ、叔父、正氏が討死した時、この正忠は、我が叔母の腹の中におりました。その正忠も、此度が初陣にございます」
正儀の補足に、帝は目を細める。
「そうであったのか。それでは父の顔も知らぬのじゃな。淋しいと思うたことはなかったか」
「はっ、父の顔を知らずとも、それがしには父の血が流れておりますゆえ、淋しいなどということはありませぬ」
「これは頼もしき若武者じゃ」
正忠の答えに声を上げたのは、満足そうな笑みを浮かべた権大納言の洞院実世であった。
正忠の話で少し和んだ場の雰囲気を、それまで無言であった准后、北畠親房が咳払いをして断ち切る。
「楠木左衛門尉(正儀)、御上の命じゃ。此度の還幸の先陣はそなたに申付ける。父、正成が務めた大役ぞ。心して務めるがよい」
「はっ。ありがたき幸せ」
正儀は親房を一瞥してから頭を低くした。
親房は、正儀を認めたから先陣を申し付けたのではない。先帝(後醍醐天皇)の還幸の再現に拘り、縁起を担いでいた。そのためには、正成の代わりを務める楠木の棟梁が必要だったからである。
二月二十八日、帝(後村上天皇)の行列は河内から和泉国に入った。そして、楠木一門の和田正武や橋本正高、与力の美木多助氏らを糾合し、大軍となって摂津国住吉大社に到着する。帝は宮司である津守国夏の屋敷、住之江殿を行宮とした。
ここで、伊勢から三千の兵を率いて京を目指す権中納言の北畠顕能(北畠親房の三男)や、越智家澄(越智家澄の嫡男)と歩みを合わせ、入洛する手筈となっていた。
住吉に入った正儀らを待ち構えていたのは、猿楽小波多座の座長、竹生大夫こと服部元成と、息子の観世(服部清次)である。
元成は小波多座を率いるとともに、今でも時折、各地で得た情報を正儀にもたらしていた。その表と裏の仕事を継いだのが双子の息子たちである。兄の観世は、小波多座の座長見習いとして父、元成に代わって一座を切り盛りすることも多くなっていた。そして、弟の聞世は、楠木党に入って諜報の活動に勤しんでいた。
「これは元成殿、それに観世。このようなところでどうしたのじゃ。我らを待っておったのか」
「はい、三郎殿(正儀)、京への御還幸の行列がここに留まると聞き、兵たちを相手に、この地で興行を打つことにしました」
観世が笑顔で答えた。
「叔母上(楠木晶子)は御達者か」
「はい、元気です。されど、最近、母は旅回りに同行することは少なくなりました」
「そうか……では、伊賀に戻れば叔母上によしなに伝えてくれ」
正儀の言葉に観世が頷いた。
元成があたりを見渡す。
「今日、聞世は居らぬのですか」
「聞世は先に京に入ってもろうた。そこから信濃宮様(宗良親王)の元に向かい、鎌倉に向かう手筈となっておる。元成殿が来られると知っておれば、他の者を当たらせたのじゃが……悪い事をした」
頭に手を添えた正儀が、申し訳なさそうな顔をする。
元成は、そんな正儀に掌を見せるようにして微笑む。
「いえ、ちゃんと聞世が務めを果たしておるか、それが気掛かりだっただけのこと。それより、お耳に入れたいことがございます」
「耳に入れたいこと……わかり申した。では、神官に頼んで、どこぞの屋敷を使わせていただこう」
二人を連れ立って、正儀は神官の屋敷に入った。小具足(篭手や脛当など)姿のまま、正儀が広間に腰を下ろすと、すぐさま、元成が本題に入る。
「三郎殿、今朝、鎌倉から入った知らせです。さる二十六日、慧源殿(足利直義)が亡くなりました」
正儀は息を呑む。
「何、殺されたのか」
「それがようわかりません。表向きは病気ということになっておるようですが、毒を盛られたのではないかという話もありまして。何せ二月二十六日は高師直・師泰兄弟の命日でございますれば……」
「なるほど……」
一族の仇であるはずの直義への憎しみは、すでに失せていた。和睦の交渉を経て、尊敬とはいえないまでも、敬意を払うべき相手と思ったからである。
関東の戦の経緯や、亡くなるまでの直義の様子など、正儀は時折頷きながら、静かに元成の話に聞き入った。
「まさに、諸行無常じゃな……関東の報、痛み入り申す。このことは四条卿らに伝えましょう」
正儀は、世の儚さを感じざるを得なかった。
二人の話が終わると、これまで静かに座っていた観世が口を開く。
「私からも一つ知らせを。父に願い出て、一座を離れることにいたしました」
そう言って父、元成に目を配った。
観世の一途さを知る正儀は、首を傾げる。
「芸一筋であった観世がどうしたというのじゃ」
「芸一筋であるからこそです。猿楽を極めるために、小波多座以外も見ておきたいと思いまして。まずは上の兄、宝生大夫の外山座(大和猿楽)、下の兄、生市大夫の出合座(山田猿楽)で修行をすることにしました」
宝生大夫と生市大夫は元成の前妻の子で、観世の腹違いの兄であった。
「さらに、田楽も身に付けたいと思うております」
「なに、田楽までも……観世の向上心は人一倍じゃな。きっと観世なら、猿楽を越えた猿楽を確立することであろう。元成殿も楽しみじゃな」
話を向けられた元成は、頭を掻く。
「ありがとうございます。されど、こやつが居らぬ間、小波多座は人手不足。三郎殿に世情をお伝えすることが難しくなります。今日はその報もあって三郎殿を追いかけて参りました」
そう言って元成は、観世とともに、申し訳なさそうに頭を下げた。
「何ら気にすることはありませぬ。そのために聞世が我らのところにおるのじゃから。逆に今まで、よう我らの目となり耳となり尽くしてくだされた。改めて礼を申す。わしは観世が芸の道を極め、猿楽が大成する事を祈ろう」
正儀に応援された観世は、嬉しそうに口元を緩めた。
この後、正儀らは、住吉で行われた小波多座の興行を見物する。しばらくぶりに見る観世の猿楽は、想像を遥かに超えたものであった。正儀は、久方振りに優雅なひと時を堪能した。
伊勢から北畠親房の三男、権中納言の北畠顕能が、三千余騎を引き連れ大和に入ったのは、それから十日ほど後のことであった。
閏二月十九日、万にも迫ろうという兵たちに守られた帝(後村上天皇)の行列は、住吉大社を出立して京を目指した。
この大軍に驚いたのは、幕府の留守を預かる足利尊氏の嫡子、足利義詮であった。
尊氏が不在の将軍御所。落ち着かない様子で、部屋の中をうろうろ歩く義詮の前に、佐々木京極道誉が現れる。
「これは坊門様(義詮)、お呼びでございますか」
「佐渡守(道誉)、いったいどうゆうことじゃ。賀名生の帝が京に向かっておる。それも万の軍勢を従えておるというぞ」
「はて、賀名生の帝が軍勢を引き連れて……でございますか。それがしも初耳でござる」
焦る義詮に、道誉はゆっくりと座り、とぼけた振りをする。
「知らぬはずがなかろう。北畠親房と御還幸について話しおうたのは、そなたではないか」
「いえ、それは誤解です。確かにそれがし、北畠親房と今後の段取りについて話し合いました。ですが、勅使が上洛するところまでです。まだ京の帝(崇光天皇)が内裏におられるというのに、それがしが承知するはずはありませぬ」
特に慌てることもなく、道誉が応じた。
「言い訳はよい。早う真相を確認してくるのじゃ」
「では、ただちにそれがしが北畠親房の元へ参りましょう」
切迫感のない道誉の言葉に、義詮は考え直す。
「いや、別に使者を立てよ。誰か良きものはおるか」
「それなれば、法勝寺の恵鎮僧正を使者に立てましょう」
「うむ、そうせよ。くれぐれも賀名生の帝を京へ入れるでないぞ」
「はっ、畏まって候」
わざと大げさな声と素振りで、道誉は義詮の命を受けた。そして、義詮が部屋を出ていくと、頭をゆっくり上げる。
「やってくれたな、古狸め……」
打って変わって憮然とした表情で呟いた。
帝(後村上天皇)の還幸の行列は、京から目と鼻の先である男山八幡で行軍を止めた。ここで、権中納言、北畠顕能の伊勢勢三千と合流する。准后、北畠親房の手筈通りであった。
南軍を率いる正儀は、近臣である津田武信、篠崎親久、津熊義行らが集めた北河内の軍勢を糾合して男山の周囲に布陣する。兵の多くは、津田範高・範長親子を筆頭に、交野郡の郷士や僧兵など北河内の兵で構成されていた。
帝は、八幡宮の別当(長官)に任じた、田中法印定清の屋敷に逗留することにし、行在所とした。
公卿たちが居並ぶ前で、この屋敷の主、定清が平伏する。
「此度の御還幸、まことにおめでとうございます。このようなむさ苦しきところで、たいへん恐縮でございますが、京の内裏にお戻りになられるまでの暫し間、どうかごゆるりと御逗留いただきますよう」
上座には、賀名生から持参した御簾が垂らされ、その向こうに帝が居た。
奏上役の頭中将、中院具忠が御簾の向こうの言葉を聞いて定清に伝える。
「御上は、暫しの間、迷惑をかけるが、よしなに、とのことでございます」
「め、滅相もございませぬ」
恐縮する定清の前に、三方に載せた小さな巾着が運ばれてくる。すると横に控えていた准后の北畠親房がおもむろに口を開く。
「これは御上からのお気持ちじゃ。受け取るがよい」
「これはお心遣い、ありがたく頂戴つかまつります」
定清は、小さいけれど、ずしりと重い巾着を受け取ると、頭を低くして下がって行った。入れ替わるように、右近衛少将、阿野実為が入ってくる。
「准后様、法勝寺の僧正、恵鎮殿がお越しです」
その言葉を受けて、親房が帝に振り向く。
「御上。さっそく幕府の使いが来たようです。たぶん京極道誉が寄越したのでしょう」
「さぞ幕府は、慌てていることでしょう。ほほほ」
権大納言の洞院実世が楽しそうに笑った。
「御上は、京の内裏との折衝が終わるまで、しばらくこの八幡に滞在されるということに致し、軍勢は単に先帝(後醍醐天皇)の還幸に倣ったものとしてごまかしましょう。それでは麿が会って参ります」
親房はそう言うと、席を立って恵鎮の元に向かった。
翌日、准后の北畠親房は行在所に、伊勢の軍を率いる北畠顕能、吉野・十津川など南大和の兵を率いる千種顕経、和泉の兵を率いる和田正武、そして河内の兵を率いる正儀を招集した。
上座には親房とともに、南軍の総大将で、紀伊勢を率いる大納言の四条隆資が座った。
「すでに東国では信濃宮様(宗良親王)を奉じた新田義興・義宗兄弟、さらには北条時行が蜂起し、足利尊氏を鎌倉から追い払っておる頃であろう。伯耆国の船上山でも、名和高政(名和長年の甥の子)が一族を率いて挙兵した。この報に、京の足利義詮は、きっと慌てふためくことであろう。この機を逃してはならん」
「はい、父上様」
親房の下知に、伊勢から上洛したばかりの顕能が応じた。
諸将の顔を見渡した親房が、正儀に視線を合わせる。
「左衛門尉(正儀)、不満はあるまいのう」
「いえ、それがしに不満など……」
そう答えるが、親房の言葉に、内心、少し動揺していた。
「ならばよい。では、楠木左衛門尉(正儀)と和泉守(和田正武)は、手筈通り桂川から京へ攻め入ってもらおう」
「御意」
正儀は、親房から視線を外して命を受けた。
総大将の四条隆資がそんな正儀の様子を気にしつつ、千種顕経に顔を向ける。
「千種少将(顕経)は南大和の兵を率い、西七条から京へ攻め入るのじゃ。北畠中納言(顕能)は伊勢の兵を率い東寺から北へ攻め上がる。よいな」
「はい、承知致しました」
「承知してございます」
隆資の命に顕経と顕能も応じた。
「では、諸将の武運を祈ろうぞ」
「はっ」
一同は威勢よく席を立った。
行在所を後にした正儀は、口数少なく自陣に戻っていく。和田正武がその様子を気にかける。
「三郎殿(正儀)、また気持ちが萎えたか」
「いや、そのようなことはござらん。今は幕府との戦いだけを考えておる」
「ならよいのだが……この期におよんで迷いは禁物じゃぞ」
「わかっており申す」
自分に言い聞かすように正儀は答えた。
正儀と正武が率いる楠木軍は、さっそく男山を発って京に進軍する。そして、手筈通り桂川を渡って、西から京へ突入していった。
将軍御所の足利義詮の元へ、侍所の頭人、細川頼春が、具足(甲冑)も付けずに駆け込んだ。頼春は細川家の惣領である。
「坊門様(義詮)、大変でございます。南朝の軍勢が京へ攻め入って参りました」
「なにっ……」
書院で南朝へ送る約定を認めていた義詮は、筆を落とし、目を大きく開く。
「……ほ、本当か。昨日、法勝寺の恵鎮殿が、北畠親房より約定を取り付けたばかりじゃというに……そうじゃ、道誉はどうした」
「今朝、近江に行くと申しておりましたが」
佐々木京極道誉は南軍の不穏な空気を察知したためか、手勢を率いて近江の所領に引き上げていた。
義詮は拳を握りしめて怒りを露にする。
「ぐっ、道誉め。こうなるかもしれんと見越して逃げおったな」
「とにかく早くここを退去致しましょう」
「判ったが、どこに向かうのじゃ」
真っ赤な顔で義詮が聞き返した。
「取りあえず、東寺に在京の諸将を集めるよう、伝令を放ったところです」
そこへ具足姿の陸奥守、細川顕氏が駆け込んでくる。
「坊門様、お急ぎください。さ、早う」
義詮と頼春は小具足や胴丸を着ける暇もなく、馬に飛び乗り、配下の兵を引き連れて東寺に向かった。
足利義詮を守って東寺へ向かう細川顕氏と細川頼春の軍勢は、運悪く七条大宮で南朝軍に出くわす。
頼春の郎党が声を上ずらせる。
「て、敵でございます」
「敵は誰ぞ」
「き、菊水の旗印、楠木です」
郎党の返事に義詮が顔を強張らせる。
すると、すかさず頼春が義詮の前に馬を進める。
「これはよい敵に会うた。これを蹴散らせば後世まで名を留めようぞ。者ども怯むな。突っ込め」
義詮の顔色を見てまずいと思った頼春は、咄嗟に兵を鼓舞して敵に挑ませた。
楠木の先陣が槍を持って襲い掛かる。すると、細川の兵たちも薙刀や刀で応じ、白兵戦をはじめた。
楠木の兵は具足姿で、木でこしらえた盾まで備えていた。それに比べて幕府勢は、不意を突かれて腹当を付けている者さえ少ないありさまである。
それでも、侍所頭人である頼春は、直垂姿のまま、馬上から細川軍を指揮して楠木軍の侵攻を防ぐ。
「坊門様をお守りせよ。ここに兵を集めよ」
その声に応じて駆け寄せたのが、頼春の従弟でもある顕氏である。
「坊門様、それがしの兵がお守り致す。どうかご安堵くだされ」
そう言うと幾人もの兵を義詮の周りに張り付かせて壁を作った。
(これはわしにとって好機かも知れん)
心の中で呟いた顕氏は、義詮の傍らから声を張る。
「楠木がすでにここまで来ているということは、東寺も敵に奪われていることでしょう。ここは東に、近江へ撤退しましょう。それがしがお守り致します」
「されど、頼春を見捨てるわけにはいかぬ」
「何を仰せです。ここで坊門様にもしものことがあれば、頼春殿の奮戦が報われませぬ。さ、早う」
顕氏はそう言うと義詮が乗る馬の尻を、刀の峰(背)で叩いて東に走らせ、自らも配下に下知して付き従った。
もともと顕氏は、高師直に敵対して副将軍の足利直義に従っていた。だが、足利尊氏の度量に魅せられて、今度は直義を裏切って今があった。世渡り上手ともいえる顕氏であるが、惣領になれたわけではない。
細川の惣領は、将軍、足利尊氏に付き従ってきた従兄の頼春である。頼春が討死し、自身が次期将軍である足利義詮に認められれば、惣領は自らの懐に転がり込むという算段であった。
正儀が馬を駆って現れたのは、足利義詮が七条大宮を去った直後であった。
先陣を率いた神宮寺正房が、自らの馬を寄せる。
「殿(正儀)、足利義詮を取り逃した。申し訳ござらぬ」
「残念じゃが、深追いはせぬように命ぜられよ。戦列を延ばしてはなりませぬ。我らはここで固まって、幕府の残軍を壊滅いたす」
「承知」
「では、手筈通りに」
正儀が右手を上げて合図すると、二十間ばかり向こうで兵を指揮していた舎弟の楠木朝成も同様に右手を上げる。
「よいか、手筈通りじゃ。者ども、かかれ」
朝成の下知に、篠崎親久や津熊義行らをはじめとする楠木の武者たちが行動を起こす。それぞれ手にした木の盾を連ね、あっという間に梯子を組み立てた。あらかじめ盾には、盾同士が組木できるよう、細工が施してあった。親久や義行らはその梯子で、七条大宮の通りの東西に連なる家屋の屋根に駆けあがる。
そこに、敵軍を引き付けた津田武信が、騎馬で通りを駆け抜けた。
「それ、幕府の者ども目掛けて射かけよ」
屋根の上、親久のかけ声で、雨あられのようにいっせいに矢が飛んだ。
山間合いに敵を誘い出して両脇から矢を射かけるという楠木党が得意とする戦術を、正儀は京の町中で再現した。
細川頼春らが、左右から矢を射かけられ立往生したところへ、今度は和田正武が率いる騎馬隊が襲い掛かった。頼春は正武の一太刀めを刀で返すが、支えきれずに落馬する。それでもなお、和田の兵二人を斬って捨てる。
「者ども、ひるむな。ここで引けば細川の名折れぞ」
兵を鼓舞して刀を振り回す頼春であったが、後ろから現われた津田武信の槍に突かれて絶命する。
結局、足利義詮が近江へ逃げたことが伝わると、各地で幕府軍は総崩れとなり、ついに正儀らは京を制圧する。南朝が京を取り戻した瞬間であった。
早馬が男山八幡の麓にある行在所に入る。知らせを聞き付け、准后の北畠親房が使者の前に現れた。
「准后様、北畠中納言(顕能)様からの言伝でございます。西と南から突入した我らの軍は、幕府勢を駆逐し、三条坊門第を焼き払って京を占領した由にございます」
三条坊門第は、足利直義が幕府の政務を執り、その後、足利義詮が執務を行った、言わば幕府の政庁とも言える場所であった。
「うむ、そうか。でかした。して、義詮の首は」
「はい、七条大宮で、楠木左衛門尉(正儀)の軍勢が義詮を守護する細川勢と激戦となり、これを撃破。侍所頭人の細川頼春を討ち取ったものの、義詮は東に敗走したとのことでございます」
「楠木め、取り逃がしたか。ここぞというときに役に立たぬ奴じゃ」
親房は、正儀にはとことん厳しかった。
「義詮を取り逃がしたのは残念ではあるが、侍所頭人の細川を討ち取ったとは、さすがではなかろうか」
後ろから現われたのは大納言の四条隆資であった。
親房は隆資の言葉を聞き流して振り返る。
「さて、四条卿。これからが我々の出番でございます。我らは露払いとして、先に京へ入り、御上をお迎えする役目がございます」
「その儀については、麿は御遠慮申そう。形ばかりとはいえ麿は南軍の総大将。御上をこのようなところに一人にはできぬ」
「さりながら、四条大納言様がおられぬと、どうも麿ばかりが目立って、仕方がありませぬ」
「では、隆俊を向かわせましょう」
隆俊とは、隆資の息子で権中納言、四条隆俊のことである。
「承知つかまつりました。隆俊殿も大人になって初めての京入り。さぞ喜ばれることでしょう」
親房は武骨な隆資に、冷ややかに笑みを返した。
閏二月二十四日、京を占領した正儀は、後を北畠顕能と千種顕経らに任せ、男山八幡に戻って帝(後村上天皇)の護衛に付いた。
入れ替わるように、准后の北畠親房は京への凱旋を果たす。朱雀大路の左右には南朝の行列を見ようと、京の人々が群がった。
親房は、帝の御輿である玉輦に載って、花をつけた歳かさの童子を引き連れ、大行列を成して入洛した。その派手な様子に京の人々が驚く。
「これが南の帝の行列か。大そうな行列じゃのう」
「いやいや、南の帝はまだ男山におられるという噂じゃ」
「楠木が戻って守護奉っておるとのこと」
京の人々が行列を見て、口々に噂する。
「何でも、准后となった北畠親房というお方の行列だそうじゃ」
「おお、北畠卿なら知っておるぞ。菅原道真の再来とも言われる偉い学者じゃ」
「されど、その偉い学者が、なぜ南の帝を差し置いて、先に入洛されるのじゃ」
誰もその疑問に答えられる者はいなかった。
「じゃが、将軍が留守の間に、南軍も思い切ったことを」
「偉い学者か何か知らぬが、やっていることは泥棒猫じゃな」
「ほんにそうじゃ。このような者に、帝の座を追われる京の主上(崇光天皇)はお可哀想じゃ」
「まったくじゃな」
人々の間では、親房と南軍は、すこぶる評判が悪かった。
北畠親房は北朝の太上大臣、洞院公賢の屋敷に入った。そして、東寺に布陣する息子、北畠顕能を呼び寄せ、兵を率いて内裏へ向かうように命じた。
鎧に立烏帽子の出で立ちで、顕能は五百の兵で内裏を取り囲み、二十人の兵を引き連れて中へと入った。
慌てたのは北朝の公卿たちである。
「お、お待ちあれ、誰の許しがあって、内裏にお上がりか」
「これより先は、御上(崇光上皇)の御住居。御無体は許されませぬぞ」
公卿たちは顕能を止めようと前に立ちはだかった。しかし、顕能はそんな公卿たちに睨みを利かす。
「御上は男山八幡におられるお方、御一人のみぞ。麿はその御上の命で参っておる。早う持明院の君の元へ案内せい」
顕能は、食い下がる公卿たちに声を荒立てて、ずけずけと奥へ進んだ。
「麿は関白である。そなたたちはここで何をしておるか」
騒ぎを聞きつけて現われたのは、北朝の関白、二条良基であった。背後から威圧するような声に、顕能がふり向く。
「これは二条殿、関白とはどなたのことかな。今や御一統で、そなたは従二位、権大納言殿ではありませなんだか」
すると良基は、苦渋に満ちた顔で顕能から視線をはずした。
「麿は准后、北畠親房が一子、権中納言の北畠顕能と申す。乱暴は致しませぬ。御三方の上皇(光厳上皇・光明上皇・崇光上皇)と直仁親王にお会いし、御上の勅命をお伝えしたいだけじゃ」
三方の上皇のうち、光厳上皇とは後醍醐天皇が隠岐に流されていたときの持明院統の帝である。光明上皇はその弟で、後醍醐天皇が足利尊氏によって廃帝となったおりに皇位についた帝であった。崇光上皇は光厳上皇の皇子で、光明上皇の後に皇位につき、この正平の一統がなるまで北朝の帝であった。そして、直仁親王は、その崇光上皇の東宮(皇太弟)として、次の帝となることを約束された御方である。
顕能は良基の制止を振り切り、廟堂に向かった。
「ここでお待ちしますゆえ、上皇と宮様(直仁親王)を早くお連れあれ」
良基を始めとする北朝の公卿たちに伝えると、顕能は兵を見張りに立たせて、廟堂の中で腰を下ろした。
しばらくの後、北朝の蔵人が先達し、四人の主上が廟堂に入った。いずれも不安げな表情を浮かべながら上座に着座する。御簾を降ろす暇さえ与えられなかった。
先の関白、二条良基らを後ろで控えさせた顕能は、鎧姿のまま、まずは四主上を前にして平伏する。
「麿は権中納言、北畠顕能と申します。御上(後村上天皇)の勅命をお伝えしに参りました。御三方の上皇様と宮様におかれては、内裏を出られて、賀名生に御移りいただきとう存じます」
北朝の主上らの顔が恐怖で強張る。
後ろに控えていた良基が声を上げる。
「な、何を申されます」
「それ」
良基を無視して顕能は、廟堂の外に待機させていた兵たちを指図し、上座の四主上に向かわせた。
北朝の公卿らは、顕能の思わぬ発言と行動に悲鳴を上げる。公卿の何人かは立ち上がり、四主上に掴みかかろうとする兵たちに立ち向かう。だが、逆に屈強な兵らに、その場に組み伏せられた。
慌てて逃げようとする四主上を、それぞれ二組の兵が両脇から掴み、支えるように立ち上がらせて、内裏の外へ向かった。
「何と無体な。お止めくだされ」
「何卒、お許しあれ」
北朝の公卿らは顕能や兵たちにすがり、無謀を止めようとする。
「すでに勅命が出たからには聞く耳は持たぬ。すっかり遅くなった。者ども、急ぐのじゃ」
冷たく言い放った顕能は、内裏の前に用意していた輿に四主上を載せると、泣きすがる北朝の公卿を後に出立した。
男山八幡の麓にある行在所、その南にある寺が正儀の陣屋である。ここで舎弟の楠木朝成、和田正武、津田武信らとともに、今後の幕府の出方について話し合っていた。
食堂の中で上座に腰を据える正儀に、津田武信が幕府軍の様子を説明する。
「近江に土岐頼康が到着したようです」
頼康は、酔っぱらって光厳上皇の牛車に矢を射かけて斬首された叔父、頼遠に代わる土岐氏の惣領である。
「近江にはもともと京極道誉が居る。義詮は必ず近いうちに京へ攻め入ってくるであろう」
正儀の言葉に和田正武が腕を組む。
「慧源殿(足利直義)に味方していた足利高経を味方につけられぬであろうか」
ちょうどその時、正武の言葉を遮るようにして、河野辺正友が血相を変えて陣に駆け込む。
「殿(正儀)、大変です。京から北畠中納言様(顕能)の軍勢が、四つの輿を伴って戻って来ました。馴染みの兵に聞いたところ、京の上皇様たちを拉致奉ったと」
「な、何っ……」
正儀は思わず立ち上がる。
「……何ということをしてくれたのじゃ。我らが京を取り戻すためには、京の、いや諸国の武士や民を味方に付けねばならんのに……これでは敵を作っているようなもの」
陣を飛び出した正儀は、馬を駆って行在所に急いだ。
正儀は、行在所に着くや、四条家の家人を見つけ、大納言、四条隆資への取り次ぎを依頼した。
小具足姿のまま、正儀は行在所の庭に回り、外縁に出てきた隆資に建言する。
「大納言様、京の上皇様たちを拉致奉ったと聞きました。何ということをされたのですか」
隆資はその場に立ったまま、片ひざを付く正儀に、苦悶の表情を浮かべる。
「左衛門尉(正儀)。そなたに言えば、きっと反対したであろう。知恵袋の北畠卿(親房)と、楠木の棟梁を、これ以上、仲違いさせてはならんと思うたからこそ、麿はそなたに黙っておった」
「されど、これでは京の民や武士を敵にすることになります」
「うむ、わかっておる。さりながら、持明院の方々《しゅじょう》(光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・直仁親王)を京に残しておいては、必ずこの先、このうちの誰かが担がれて、幕府は我らに戦いを挑んでくる。苦渋の選択なのじゃ。わかってくれ、左衛門尉」
そこに現れたのは、四主上を拉致した張本人の北畠顕能であった。顕能も小具足姿のまま、縁側の上から正儀を見下ろす。
「これは楠木左衛門尉。何しに参られた。まさか、我らに文句があるのではあるまいな」
同じほどに若い顕能であったが、地位も高く、高圧的であった。
「北畠中納言様(顕能)、これでは近江の足利義詮の元に、畿内の兵が味方しようと集まるのは必定かと。京の守備が難しくなったと存じます」
「左衛門尉(正儀)は戦に臆したか。たとえ楠木がおらぬとも、麿らが京を守ってみせようぞ」
「いえ、それがし、そのようなことを言っているのではございませぬ」
二人の間に険悪な雰囲気が漂った。隆資が間に割って入る。
「左衛門尉(正儀)、ここで味方が割れていたのではうまくいくものもうまくいかぬ。すでに事態は動いておるのじゃ。この先のことを考えようぞ」
苦悶の表情で、正儀は口を閉じる。
「そちの気持ちはわからんではない。じゃが、いったん北畠卿の策にかけたのじゃ。最後まで准后様にお任せしよう」
「……御意」
隆資は、唇を噛みしめる正儀の様子を窺う。これ以上、親房の計画に異議を唱えさせ、禍根を残させるようなことは阻止しなければならない。
「左衛門尉(正儀)、四主上の落ち着かれるところが見つかるまで、そなたが警護して、東条の、そなたの城にお連れせよ」
「そ、それがしがでございますか……」
遠ざけられようとしている事を正儀は悟る。
「……されど、義詮が軍勢を整えて、いつまた攻めてくるやもしれませぬ」
「楠木軍の指揮は神宮寺将監(正房)と和泉守(和田正武)に任せるがよいであろう。四主上を警護するのも大事な役目。五十ばかりの兵を率いて河内へ向かうのじゃ」
「されど……」
「これは総大将である麿の命じゃ」
「……承知……つかまつりました」
隆資に命じられ、正儀は承服するしかなかった。
東条への出立の前に、正儀は、権大納言の阿野実村、右近衛少将の阿野実為の兄弟が宿泊する寺を訪ねた。
正儀は寺の客間に通される。
「大納言様(実村)、持明院の四主上が、この八幡へ連れて来られたのは御存知かと存じます。それがしはこれより、四条大納言様(隆資)の命で、四主上をわが東条の城へお連れすることになりました」
「そうであったか。麿も四主上を拉致するなど、まったく聞かされておらなんだ」
実村も、弟の実為と一緒に呆れ顔で頷いた。
「それがしは、北畠中納言様(顕能)が四主上を拉致されたことで、京や諸国の人々の心が、我らから離れることを恐れております。京は攻めるに易く、防ぐに難しい地にございます。京を取り戻しても、諸将を味方にすることができなければ、すぐに京を追われることになりましょう」
「そなたの父、楠木正成の言葉であったな」
そう言って実村は頷いた。
「御意。足利義詮は躍起になって京を取り戻しに来ます。もし、このまま御味方が現われなければ、いずれ我らは京を追われます。さすれば、この八幡の地が戦場となる可能性があります」
今度は弟の実為が頷く。
「うむ、左衛門尉(正儀)の申す事、いちいちもっともなことじゃ」
「そこで、新待賢門院様(阿野廉子)や中宮様(北畠房子)をはじめ、女房衆を今のうちに賀名生に御返しするのがよいかと存じまする」
「そうであるか。そこまで差し迫っていると左衛門尉はみておるのか。ならば相わかった。今のうちに女房衆を賀名生に送ること、新待賢門院様に奏上し、御上(後村上天皇)の許可を得るように働きかけよう」
「かたじけのうございます」
「何の、礼を言うのはこちらじゃ」
頭を下げる正儀に、実為が頷いた。
正儀の具申を受け、この後、実為が供奉して、待賢門院ら女房衆を賀名生へ帰すことが決まった。
正儀は河野辺正友とともに、四主上(光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・直仁親王)の輿を伴って、男山八幡を出立しようとしていた。
「三郎様(正儀)」
馬に乗ろうとしていた正儀が、呼び止める声に振り返る。
「これは伊賀局様(篠塚徳子)ではありませぬか」
壺装束に市女笠姿の伊賀局が、侍女の妙と数名の女房衆を連れて立っていた。
「阿野中納言様(実村)より、お話をお聞きしました。東条で持明院の主上様方のお世話をする者が必要と存じます。新待賢門院様(阿野廉子)の許しを得ました。どうぞ、我らを御供にお加えくだされ」
伊賀局はそう言って、後ろの女房衆に目をやった。
「か、かたじけない。そこまで考えておりませなんだ」
「私も三郎様のお役に立つことができましたか」
「も、もちろんでございます。何分、気がきかぬ男ばかりで……伊賀局様のように気が利くお方が、常にそれがしの傍にいてくれると、嬉しいのじゃが」
「え、それは……」
伊賀局が顔を赤らめる。
対する正儀も、自らの言葉に狼狽する。
「い、いえ、何でもありませぬ。それでは出立します。よろしいか」
「はい」
行列に加わった伊賀局は、四主上の御輿の後を歩いた。
男山を出立して間もないところにある洞ヶ峠で、正儀は四主上(光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王)の輿を止めた。そして馬を降り、四主上の元に駆け寄る。
最後の御輿の後を歩いていた伊賀局が、驚いて正儀に目を向けた。
そんな伊賀局を一瞥してから、正儀は四基の御輿の前で土下座する。
いずれかの輿からか、すすり泣くような声が漏れていた。
「主上に対する此度の不遜、ただただ申し訳なく、言葉もありませぬ。この楠木左衛門尉(正儀)、決して主上に危害を加えるようなことはありませぬ。それがしの命に代えてお守りする所存。どうか、どうか、御安堵召されますように存じます」
正儀は頭を地面に擦り付け、沈痛な面持ちで誠心誠意、訴えた。伊賀局は両の掌を合わせ、心配そうな顔つきで、これを見守った。
それぞれの輿の小さな御簾が揺れる。皆、御簾越しに、正儀の様子を窺っているようであった。
「相わかった。そなたの言葉、信じるとしよう。楠木左衛門尉とやら。決して違えるでないぞ」
光厳上皇の輿の中から落ちついた声が響いた。正儀は悔恨の情に、ただただ、頭を垂れることしかできなかった。
翌日、正儀は四主上を伴って南河内の龍泉寺城へ入る。正平七年(一三五二年)三月三日のことであった。