第18話 観応の擾乱
正平四年(一三四九年)六月も後半、長雨が上がった京の町は、地から沸き立つような湿気と暑さに覆われる。
楠木正行を討ち取り、発言力を強めた将軍家の執事、高師直は、ますます幕府の中で重きを置く。すると、その師直を担いで権益を得ようとする武功優先の者たちと、副将軍の足利直義を頂点とする一門の守旧派が、目に見えて対立を深めた。それは担がれた当人同士の争いでもあった。
将軍御所を訪れた足利直義が、書院に兄、足利尊氏の姿を見留める。すると、ついと怒りを表に出す。
「近頃、師直の振る舞いは度を越しておる」
「また師直の話か。どうしたというのじゃ。奴には奴なりに慎ましいところもあるがのう」
舎弟の剣幕にも涼しい顔で尊氏は写経を続けた。
筆を持つ手を緩めない尊氏の前に、直義がどかっと座る。
「兄上がそのようなことだから図に乗る。兄上は婆娑羅に甘うござる。吉野山の伽藍を焼き払ったかと思えば、今度は……知っておるか。師直は『王だの院が必要なら木や金で像を作り、生きているそれは流してしまえ』と言うたそうじゃ。まったく畏れを知らぬ者よ」
師直へ批判の矛先を向けようとしない兄に、これでどうじゃと詰め寄った。
それでも尊氏は筆を置かない。
「お前が直接聞いたわけでもあるまい。惑わされるな。そのような話は面白おかしく尾ひれがつくものよ。特に師直憎しと思う奴は多いでのう」
「まことであろうがなかろうが、そのような話が伝われば、困るのは兄上じゃぞ。師直は将軍家の執事。執事の行いは、いずれ兄上にも災いをもたらす」
写経の邪魔をされ、だんだんと尊氏が不機嫌になる。
「わしにどうせよというのじゃ」
「それがしに任せていただきましょう。いや、心配にはおよびませぬ。師直に、ちと灸をすえるだけじゃ」
やっと筆を止めた尊氏が、ため息まじりに弟を見据える。
そこに直義が、間髪いれずに迫る。
「師直は執事に加え引付方頭人。舎弟の師泰は侍所頭人。下の弟、重茂は関東執事。さらに、高一族の守護国は十を超える。これでは師直が図に乗るのは致し方ない。放っておけば、何れ執権北条の如きものになろうぞ」
「では、どうする」
「執事を罷免して上杉憲顕に挿げ替える。なあに、交互にやらせればよい。要は力を分けることじゃ」
従兄弟の上杉憲顕は、高重茂と共に関東執事の座にあった。
「お前が言うようにうまくいくかな。お前は政には聡いが、人は決め事だけでは動かせん……」
尊氏は何かを言おうとしたが、一旦飲み込んで深い溜息をつく。
「……されど……まあよかろう。好きなようにやってみよ」
ここぞと言うときに、面倒事を放り投げるのは、尊氏の悪い癖である。
ともあれ、我が意を得た直義は、にやりと口元を緩め、軽く礼を返すと、そそくさと部屋を出て行った。
足利直義の動きは早かった。兄の気が変わっては振り出しに戻ってしまう。上杉憲顕の上洛を待たず、翌、閏六月には高師直の執事職を罷免する。そして、若い高師世を形ばかり据えた。彼は高師泰の息子で、師直からすれば甥である。一時的にせよ、高一族の反発をかわすためであった。
その数日後、佐々木京極道誉が高師直の屋敷を訪ね、昼間から酒を喰らう師直の話し相手になっていた。
「いやあ、此度はまことに残念じゃ。四條畷でご活躍の貴殿を、まさか執事職から罷免するとはのう」
精一杯、道誉は同情する素振りを見せた。しかし、なぜかこの男からは、楽し気な雰囲気が隠しきれない。
師直はそれが癪に障り、殺気に満ちた眼を返した。
だが、そんな視線を意にも介さず、道誉は話を続ける。
「将軍(尊氏)も、いったい何を考えておるのか。いくら三条殿(直義)が仕掛けたとしても、将軍が認めなければこうはなるまい」
「いったい何が言いたいのじゃ。わしをからかいに来たのなら容赦はせぬぞ」
ぶすっとした態度で、師直は盃の酒を喉に流し込んだ。
「まさか、そのようなこと。わしとて命は惜しいでのう、うわっはは」
大きな声で笑ったかと思うと、回りを確認してから急に小声になる。
「ひとつ忠告じゃが、政所に行くときは、気を付けられよ。闇討ちしようとしておるものがおるらしい」
「御舎弟殿(直義)が命じたというのか」
「真偽はわからぬが、上杉、桃井、吉良、細川(顕氏)らにも、密かに兵を集めるよう命じておるとも聞く」
「まさか、そのようなこと……あるはずがない……」
師直は鼻で笑い、道誉から視線を外す。
「……いくら御舎弟殿といえども、将軍の許しもなくそのようなことをすれば、ただでは済まぬ。昨日もわしは将軍と話した。決して許すまいぞ」
「そこじゃ。貴殿は将軍と三条殿が組むことはあるまいと思うておるようじゃが、どうかな。そこはやはり御兄弟。わしは用心に越したことはないと申し上げたいのじゃ」
盃を置いて、師直は怪訝な表情を向ける。
「なぜ、そこまで御注進くださる」
「三条殿がこれ以上、幕府を牛耳れば、式目(法律)ばかりで息が詰まる。わしは婆娑羅。面白可笑しゅう生きるには、そなたの方が都合よい。それと……」
ずいっと師直の近くに身を乗り出す。
「……尊氏殿に家臣殺しをさせたくないのでな。うわっはは」
耳打ちすると大きな声で笑い、立ち上がった。
「いや邪魔をした。それがしはこれで失礼する。見送りは無用じゃ」
そう言うと、道誉は笑いながら部屋を出ていった。
師直は大きな目でじっとその背中を追う。
「用心のう……いざとなれば、河内から師泰を呼び戻すか」
視界から道誉が消えると、一人静かに呟いた。
一方、師直の屋敷を後にした道誉は、馬上で揺られながら顔をにやつかせる。
「面白くなったわい。どちらに転んでもわしに損はない。あっはは」
高笑いしながら馬を進めた。
八月初めの東条は、すっかり残暑も払われ、夜は虫の音で癒される。
楠木館を燃やされた正儀は、赤坂城の本丸に建つ陣屋を自らの館としていた。ここに、楠木の家宰を代行する神宮寺正房が登城する。
「殿(正儀)、斥候より、知らせが参った。高師泰が石川河原から撤退を開始しましたぞ」
「やはり、そうなりましたか」
正儀は手元の軍忠状から顔を上げた。
落ち着いた反応に、正房が首を傾げる。
「どうゆうことでござる」
「小波多座の治郎殿(服部元成)が知らせてきた。京では、副将軍の直義と、執事を罷免された師直が争っておる。諸将を自陣に引き入れようと、それぞれ密かに書状を送っていたそうじゃ」
「なるほど、それで師直が、舎弟の師泰を京へ呼び戻したわけですな。まあ、これで我らも一息つけます。殿、これまで、よう耐えられましたな」
その言葉に、正儀は少しだけ肩の力を抜いた。
河内につかぬ間の平穏が訪れる。兄、楠木正行・正時が討死してからすでに一年七カ月が経っていた。正儀は、この間の出来事が、いまだ現実のこととは思えなかった。
数日後、正儀は一人暮らしをする母、久子に招かれる。秋口の落ちついた緑の中を、母の庵に向かって坂を上った。
嫁の満子を実家に戻したことへのけじめとして久子は髪を落とし、敗鏡尼と名乗った。水鏡に映った苦悶の表情を戒めとした号である。出家した敗鏡尼は、出自の甘南備村で庵を編み、一人暮らしをしていた。その庵は、皆から楠妣庵と呼ばれた。
庵が見えるところまでくると、侍女の清が落ち着きなく出入りする姿が目に入った。いかにも正儀を待ちわびている様子である。その姿に、正儀は自然と笑みがこぼれた。
清の実家も、ここからほど近い。敗鏡尼の世話をするため、毎日のように、庵に来ていた。
「敗鏡尼様、敗鏡尼様、三郎様(正儀)がお見えでございます」
清の大きな声が響き渡った。満面の笑みを浮かべている。
その声で敗鏡尼も庵の外に出てくる。
「三郎(正儀)殿、よう来てくれました」
「母上(敗鏡尼)、お達者で何よりでございます」
「此度の御働き、まことに御立派でした。父上(楠木正成)も、太郎(正行)、二郎(正時)も、さぞ喜んでいることでしょう」
母はいつものように優しかった。しかし、二人の息子を同時に亡くし、急に老いたようでもある。
「狭い庵ですが、上がってくつろいでくだされ」
促され、正儀は中に入った。
一方、清は厨に立ち、何やらせわしなく働いた。
「それがしをお呼びなされたのは、何か仔細がある由かと……」
「ええ。三郎(正儀)、今日はゆっくりできますか。実はお前に会わせたい御仁がおるのです」
「それがしは構いませぬが……御仁とはどなたですか」
「どう話したらよいでしょうか……すぐに来られるでしょうから、少し待ってくだされ」
歯切れの悪い母の言葉に正儀は当惑する。
兎に角、清が用意してくれた昼餉に箸をつけながら、その人物を待った。
一刻もしないうちに、庵に二人の男がやってくる。
「敗鏡尼様、連れて参りましたぞ」
そう言って年配の僧がとば口を潜る。その後に続いて、まだ元服を済ませたばかりかと思われる歳若い男も入ってきた。
正儀に気付いた僧が、じっと顔を見据える。
「三郎殿でござりますか。やっと会えましたな。ほんにあの小さき御子がのう」
そう言って、僧は愁眉を開いた。
すぐに敗鏡尼が二人を座敷に上げ、戸惑う正儀と向き合わせる。
「この御仁は授翁宗弼様です。俗世を捨てられる前の名は中納言の万里小路藤房様じゃ」
「中納言はお止めくだされ」
敗鏡尼の紹介に宗弼は頭を掻いた。授翁は道号、宗弼は法名である。
正儀は驚いて目を丸くする。
「中納言の万里小路様といえば、それがしが幼い時、鴨の河原で落書を読んでいただいた、あの万里小路様ですか」
「いかにも、その万里小路藤房でございます。されど昔の名でしてな。今は授翁宗弼と申します」
「何でも先帝(後醍醐天皇)に御苦言申されて身を隠されたとか……」
再び宗弼が頭をかく。
「ははは、その様なこともございましたな」
「して……」
「今日は是が非でも正儀殿にお会いしたく、敗鏡尼様に無理を言いました……のう」
そう言って、となりの若者に目配せした。
すると、その者が礼儀正しくお辞儀をする。
「それがし、四郎朝成でございます。兄上、お会いしとうございました」
「こ、これはいったい……」
正儀は、驚いて敗鏡尼に顔を向けた。
敗鏡尼は二人の姿に目を細めながら、宗弼が庵を訪ねてきた一月前のことから話し始めた。
元弘の戦の後、先帝(後醍醐天皇)は討幕に功のあった諸将へ、官女の賜嫁を取り持とうとした。そして藤房に、楠木正成へ見目麗しき姫を選ぶようにと申し付けた。そこで親族の娘、滋子を、父、万里小路宣房の猶子にして楠木正成に嫁がせようとした。
「正成殿はお断りなされたのだが、先帝の手前、わしの面子を立てようと、お引き受けいただいたという次第で……ただ二人で過ごしたのはほんのひと時。滋子にも悪いことをしたと思うております」
そう言った後で、宗弼ははたと気づいたかのように敗鏡尼に顔を向ける。
「いや、敗鏡尼様にも申し訳ないことを致した」
その言葉に、敗鏡尼は微笑んで首を横に振った。
安堵した宗弼が話を続ける。
「通名は四郎、諱は正成殿の下の一字を頂戴して朝成。拙僧が名付けました。楠木一門の通字は『正』ですが、一門にお目通しが叶わない中、はばかられましたのでな」
ここで、やっと正儀が口を開く。
「して、四郎殿の母上は、今はどのように」
「一年前に亡くなったそうな」
代わって敗鏡尼が応じた。
それを聞いて、正儀は再び黙り込んだ。
場の空気を察して、朝成が気遣いを見せる。
「母は、私が小さき頃より父(正成)の話をしてくれました。私にとって父の思い出は、母が話してくれたことが全てでした。母は私を……父、正成の子を産んだことが、生涯の自慢でした。伯父上(宗弼)、決して母は不幸ではなかったと思うております」
「これまで、ご苦労があったことでしょう。申し訳ないことです」
目を潤ませた敗鏡尼が、朝成に優しく語りかけた。一方、厨で聞き耳を立てていた清は、ううぅと泣き声を漏らした。
暫しの沈黙の後、宗弼が口を開く。
「今日は正儀殿にお願いがあって参りました。四郎は母も亡くなり、孤独な身の上。一応、拙僧は義理の伯父ということになりますが、何せ仏門の身。四郎も仏門に入るつもりがあればと思うたが、どうもその気はないようじゃ」
宗弼の話を受け、朝成がその場に手をついて突っ伏す。
「どうか、私めを楠木の一門にお加えいただけないでしょうか」
「三郎、母からもお願い致します。四郎殿を三郎のところで」
敗鏡尼は端から成りゆきをわかっていたようである。
「母上、そのような……簡単なことではござらん」
憮然と正儀は言葉を返した。
少し考えてから、朝成に向き直す。確かに、父の面影が見てとれる。
「四郎殿、少し外を歩こう。ついて参られよ」
そう言って正儀は外へ出る。慌てて朝成も外へ向かった。
緑の木々を押し分けながら、正儀は無言で山の中を歩いた。そして、見晴らしのよいところに朝成を連れ立つ。
戸惑う朝成を横目に、正儀が指を差す。
「四郎殿、あちらの方角は何かおわかりか」
「い、いえ、わかりませぬ」
「あの先が最初の赤坂城(下赤坂城)。我らの父が討幕の旗を掲げたところじゃ。ここからは見えぬが、あの山の向こうが楠木館。燃やされてしまったが」
朝成は正儀が示す方向に、じっと目を凝らした。
続けて正儀が指を動かす。
「その右が桐山。今の赤坂城(上赤坂城)じゃ。そしてあの山が金剛山。その麓が千早城じゃ」
正儀は左から順に指を差した。そして、遠くを食い入るように見る朝成の横顔に目を向ける。
「なあ、四郎殿……いや四郎。河内はこのように山深い地。都とはだいぶ違うであろう」
「はい……」
「されど、楠木党はこの山深い地に根付いているのじゃ。楠木党になるということはこの地のために生きる事。そなたはこの地で何ができる」
答えを期待しているのではない。正儀自身への命題でもあった。
「わかりませぬ。これから考えます。きっとそれがしができることを見つけます……必ず」
力強い口調で朝成は応じた。
その答えに、正儀は自身を重ねる。
「そうじゃな、できることを二人で探そうか」
「兄上……とお呼びしてよろしいか」
固い表情で朝成が正儀を見つめた。
「だめじゃ……ここは京ではないのじゃ。兄者と呼べ」
少しおどけて正儀が答えた。
「は、はい、兄者」
ようやく朝成は、緊張の糸をほどいた。
庵の外で二人を待っていた敗鏡尼と授翁宗弼は、楽し気に戻ってくる二人の姿に、ほっと息を付いた。
「我が殿(正成)には五郎殿(正氏)と七郎(正季)殿が、太郎(正行)には二郎(正時)と三郎(正儀)が付いておりました。比べて、一人で楠木を背負わなければならなくなった三郎を、不憫と思うておりましたが、これで母として安堵致しました」
憂いを拭った敗鏡尼の言葉に、宗弼は頷き、感無量と言った様子で遠くの空に目を向ける。この短いひと時から、正成譲りの優しさと度量の大きさを、正儀に感じ取っていた。
同じ頃、京では副将軍の足利直義と、執事を罷免された高師直の対立が頂点に達していた。
最初に仕掛けたのは直義の方であった。まず、側近の上杉重能(上杉憲顕の弟)と畠山直宗が師直の暗殺を試みた。これが失敗に終わると、北朝の光厳上皇に、師直追討の院宣を奏請したのである。
これを知った師直は激怒し、思いきった手を打つ。河内から大軍を率いて戻った舎弟、師泰を連れて、直義の三条坊門第を襲撃した。
直義は近臣、畠山直宗の知らせで、師直らが屋敷に到着する前に、からくも脱出する。そして、上杉重能とともに、兄、足利尊氏が住まう将軍御所に逃げ込んだ。
しかし、師直・師泰兄弟は、将軍御所であることを意にも介さずに大軍で取り囲む。御所の周囲は、鎧の擦れる音や兵たちの怒声、馬の嘶きによって、まるで戦場のありさまとなった。軍勢の中には、つい最近まで直義に従っていた山名時氏の顔まであった。
こうして、尊氏をも巻き込んで始まった直義と師直の争いは、時の北朝の元号から『観応の擾乱』と呼ばれる騒動に発展する。
兵たちを押しのけて叛徒の大将が進み出る。
「我は高武蔵守師直。此度のことは幕府に巣くう奸臣を取り除かんと、おもんぱかっての義挙にござる。それがしを騙し討ちしようとした上杉重能、畠山直宗を御引き渡し願おう。将軍家を讒言によって貶めた罪深き二人は万死に値する……」
さらに、語気を強める。
「……また、院に師直追討を奏請されたと聞く三条殿(直義)からもお話を聞く必要があり申す。この場に出てこられて釈明なされよ」
腹の中に溜め込んだ鬱憤が、怒声となって響き渡った。だが、足利家の家臣としてはあり得ようはずもない行動である。
さすがに舎弟の師泰も気をもむ。
「兄者、三条殿(直義)ばかりか、御所をも取り囲み、将軍(足利尊氏)までも脅して大丈夫か」
すると、師直は弟に振り向いて口元を緩める。
「何ら問題はない。これは、将軍と若殿(足利義詮)の世を確かにするための行動じゃ」
「どういうことじゃ、兄者」
怪訝な表情を浮かべる師泰に、師直は返事をせず、側近に裏門を固めるよう命じる。
師泰は釈然としない顔で兄を見つめた。
一方、緊迫感に覆われた将軍御所。上座に座った足利尊氏の前で、舎弟の足利直義が、爪を噛みながらうろつく。
「此度の師直の所業は正気の沙汰とは思えん。あろうことか御所を取り囲んで、将軍までも脅すとは言語道断。こうなれば、兄上から諸将に師直討伐を下知していただくのみ」
目をつり上げた直義が、尊氏に説いた。
「まあ、まずは、落ち着いてそこに座れ」
促されて、やっと直義は兄の前に腰を下ろした。
「お前の怒りはもっともじゃが、その前に、師直追討の院宣とはどういうことじゃ。お前が奏上したのか。それとも後ろに控えし伊豆守たちが勝手にやった謀か」
後ろには伊豆守こと上杉重能と、大蔵少輔、畠山直宗が頭を垂れて控えていた。
悪びれることなく直義が応じる。
「これは我ら足利と幕府のための処置でござる。政はこの直義に任されたこと。政所の者たちとも話おうて決めた。問題はござらん」
「師直追討が政か。わしはそのようなことをお前に頼んだ覚えはないぞ。以前、申したな。灸をすえるのが目的と。お前の灸とは命をとることか。政所の者たちとて、呆れておろうぞ」
低く太い声を響かせて直義を叱責した。事実、師直に計略を洩らしたのは政所の粟飯原清胤であった。
直義は兄の迫力に戸惑いの表情を浮かべるも、すぐにこれを隠す。
「兄上、断じて重能と直宗を師直に差し出すようなことがあってはなりませんぞ」
「もちろんじゃ。家臣に脅されて二人を差し出し、命を長らえようものなら末代までの笑いもの。師直に屈するつもりはない。こうなれば討って出ようぞ。お前が死んでしまってはわしも生きていく意味がない。兄弟そろって討死しようぞ。誰か、具足を持てい」
兄の覚悟がそこまでとは思っていなかった直義は、虚をつかれて、ううぅと唸った。
そこへ、計ったかのように一人の僧が現われる。
後ろを振り向いた直義が表情を変える。
「疎石様ではありませぬか。お越しであったのか……」
夢窓疎石は尊氏・直義兄弟が師事する臨済宗の禅僧であった。建武の御代には先帝(後醍醐天皇)から国師号を贈られた高僧である。吉野で先帝が崩御すると、菩提を弔うため、天龍寺の建立を尊氏・直義に強く勧めた。
その疎石が、落ち着き払った表情で、直義の隣に座る。
「お二人の御覚悟を聞かせていただきました。されど、将軍も副将軍もここで死んでしまっては、この世は乱世に逆戻り。将軍様、師直殿のところに、どうか拙僧を仲介の使者としてお送りください。御所を守る兵は少なく、師直殿が攻めてくれば、一刻も持ちますまい。無益な戦いにならないよう拙僧が使いになりましょう」
これに尊氏は頷き、直義は意気地を挫かれる。
疎石はさらに続ける。
「此度の仕儀、やはり、後ろの御二人の責任は重うございましょう。上杉殿、畠山殿は自ら役を辞して出家されては如何か。何とか拙僧が命だけはお助けするよう口利きしてみましょう」
疎石の言葉に顔を強張らせる重能たちだが、無視して尊氏は大きく頷いた。
「兄上、それは……」
「直義、頭を冷やせ。お前も少しの間、政の表に出ないようにすれば、師直も納得するであろう」
纏まらない考えを口にしようとした直義を尊氏が制した。そして、疎石に目配せしてさらに話を続ける。
「ちょうど鎌倉から義詮を呼び寄せようと思うておったところじゃ。奴にも政を学ばさなければならん。義詮を表に立ててお前が政を見てやればよい。さすれば師直も承服するであろう。もちろん師直にも処分を下す……それでどうであろう。疎石様」
「さすがは将軍様。直義殿もそれでよろしいな」
妙案も浮かばない。さすがに兄弟そろって、ここで討死するわけにもいかない。直義は不服ながらも首を縦に振った。
「ではさっそく」
疎石は、尊氏に意味ありげに頷いて座を立った。
そして、その仲介を受けて、師直はあっさりと兵を引き上げるのであった。
後日、足利直義は副将軍の立場を退く。そして、上杉重能と畠山直宗は蟄居謹慎の処分となった。
一方、高師直はさしたる処罰もないどころか執事に返り咲く。これには、さすがに直義も謀られたと後悔するが、後の祭りであった。
この後の幕府の動きも慌ただしい。
九月、足利直義が養子とした足利直冬が、養父へ下された処罰に反発し、備後で兵を集める。直冬は中国探題(長門探題)に任じられ、備後国に赴任していた。
陸路、上洛を企てたが、播磨と摂津の守護である赤松円心(則村)が、早くに山陽道を押さえたため、諦めざるを得なくなる。
しかも、直冬が鞆の浦の大可島城に留まっていたところ、師直の意を汲んだ備後の国人たちの襲撃を受ける。その結果、直冬は船で九州に逃れざるを得なくなる。
十月に入ると、鎌倉から足利尊氏の嫡男、足利義詮が上洛した。奇しくも正儀と同じ歳である。入洛した義詮は、それまで直義が幕府の政務を執っていた三条坊門第に入った。
一方、執政所を明け渡した直義は、一先ず細川顕氏の屋敷に身を寄せて、翌月に出家する。
翌十二月には、直義と一緒に罷免された上杉重能と畠山直宗の身の上に禍が起きる。二人は一足早く出家して越前に送られていた。だが、師直の手が回って命を落としたのである。
さらに翌月、足利直冬の上洛を阻んだ赤松円心(則村)が、遺言も残さずに急逝する。
早くから先帝(後醍醐天皇)のために護良親王を押し立て、六波羅探題の攻略に多大な貢献を行った。だが、朝廷による不遇な扱いから、今度は先帝に反旗を翻すという数奇な生涯を送った。
赤松家の家督は円心の嫡男、赤松範資が継ぎ、播磨国と摂津国の守護となった。
所は変わって穴生の朝廷である。
正平五年(一三五〇年)、年が明けて、花も散り、青葉が目立つようになったこの日、帝(後村上天皇)が朝から一人、気を揉んでいた。
そこへ、官女が走り寄って頭を下げる。
「元気な親王様でございます」
「おお、そうか、祝着じゃ。勝子も大事ないか」
問い掛けに、穏やかな表情を返す官女に、帝は安堵の小息をついた。
この年、帝の女御(側室)、阿野勝子が男児を産んだ。勝子は中納言、阿野実村の娘、つまりは准三后、阿野廉子の大姪である。左大臣、二条師基の養女となったうえで、帝に輿入れしていた。
勝子は大叔母の廉子に似て美しかった。彼女を溺愛する帝は、生まれた男児を熙成親王と名付け、将来の東宮(皇太子)にと周囲に漏らす。藤原摂関家の出である中宮(皇后)との間に子はなく、その中宮もすでに亡くなっていたからである。
宮中が慶事に高揚する中、一人の男が色を失っていた。
「何とかせねばならぬのう」
回廊を歩きながら、そう呟いたのは、准大臣の北畠親房である。
かつて親房も、自らの娘、顕子を帝の女御として嫁がせた。七年前には願い通り寛成親王を生んだ。しかし、病がちであった顕子に代わるように、帝の寵愛は、若くて見目麗しき勝子に移る。そして、顕子自身も亡くなった。
寛成親王を世継ぎとして後押しすべき顕子が亡くなったことは、親房には無情なことであった。寵愛を一身に受ける勝子が熙成親王を生んだことで、寛成親王の東宮宣下は絶望的と悟った。それは、廉子が先帝(後醍醐天皇)の寵愛を一身に受け、自らの子を皇位につけた先例を、目の当たりにしていたからである。
親房は、藤原摂関家に成り代わり、北畠家をその地位に上げることを望んでいた。その出自は、天慶の御代に皇位についた村上天皇の血を引く村上源氏。親房は、帝の血を引き、すべての源氏の上に立つ源氏長者にもなった北畠家こそ、摂関家となることが道理だと思っていた。それは野望というより信念である。今後、藤原摂関家と同様に力を奮えるようにしていくには、是が非でも親房の娘が生んだ皇子を皇位につけ、帝の外戚となる必要があった。
一方の阿野家はもとは中流の公家である。廉子が先帝の寵愛を受けたことで一族が栄達し、兄の阿野実廉は従三位参議、宮内卿となった。
その実廉が早くに亡くなると、廉子は阿野家の地位低下を畏れ、先帝(後醍醐天皇)に願い出て、一族の阿野季継を後釜に据えた。亡くなった実廉の子が跡継ぎになれるまでの中繋ぎである。
そして、子たちが朝廷で力を発揮できる歳になると、廉子は阿野実村を中納言に、その弟、阿野実為を右近衛少将とする。さらには実村の娘、勝子を帝(後村上天皇)の女御とするよう働きかけ実現させていた。その勝子が生んだ熙成親王が次の帝となれば、阿野家は盤石となる。
帝の世継ぎを巡って、廉子と静かに争う親房は一計を案じ、顕子の妹、北畠房子を帝に嫁がせる。しかも、すでに中宮(皇后)も亡くなっていたため、房子を中宮とすることに成功する。これは、親房が南朝の指導者として、公卿たちの支持を得ていたからであった。これで房子が男児を産めば、勝子が生んだ熙成親王を押しのけ、皇位を継がせることを可能とした。
この年の十月、正儀は、休みなく走る馬を気にしつつ、大和国の壷阪寺を目指していた。後見役の橋本正茂と、新たに和泉の守護代となった和田正武、それにわずかな手勢を従えた一行は、土ぼこりを巻き上げて河内国から大和国へと入った。
寺に到着した正儀は、供の者に馬を預けると、正茂・正武ととも山門を潜って奥へ急いだ。
「楠木殿、待っておりましたぞ。目代殿(正茂)、守護代殿(正武)もご一緒か」
声の主を探して正儀が振り返る。
「これは伊賀守殿」
言葉を返した相手は、南朝方の伊賀守、越智源太家澄であった。越智党は壷阪寺近くの高取城を本拠に、大和国に威勢を張っていた。
鋭い目つきで正武が問いただす。
「伊賀守殿、ほんに、ここにおるのか……」
頷く家澄に、喋る暇も与えず続ける。
「……事の成りゆきによってはこの場で切って捨てようぞ」
「新九郎殿(正武)、まずは会うてからじゃ。我らも話を聞きとうて、駆け付けたのじゃ」
年嵩の正茂が、憤る正武を諫めた。
越智家澄は三人を奥の禮堂に案内した。
外の明るさに慣れた目は、堂の中では暗さに負けて人を見分けることは難しい。目を凝らすその先には頭巾を被った男が居た。
家澄が三人を紹介する。
「こちらが楠木の棟梁、左衛門尉正儀殿です。その隣は河内目代の橋本正茂殿、さらに隣は和田党を束ねる和泉の守護代、和田正武殿です」
「初めてお目にかかる。足利直義にござる。今は仏門に入り、慧源と名乗っております」
禮堂の暗さにも目がなれ、正儀にもはっきりと直義の顔が見えた。彼ら南朝武将にとって生涯の仇、足利兄弟の直義がそこに居た。
敵を前にし、正儀は動揺を抑える。
「楠木三郎正儀でござる。若輩の身ゆえ後見役の橋本正茂殿、それに、和泉を任せる和田正武殿にも同座願った」
「橋本左衛門尉にござる」
そう言って正茂は軽く会釈した。
正武も無言で会釈するが、鋭い眼光は終始、直義を捕えて離さなかった。
家澄が場の空気を察する。
「直義殿とは建武の御代からの馴染みでのう。一緒に和歌を嗜んだこともある。此度、京を出奔されてわしを頼って来られた。敵の立場なのじゃがな、ははは」
張り詰めた空気の中で、家澄は頭をかいた。
「わしから話そう……」
じれったそうに、直義が話を切り出す。
「……それがしが副将軍の立場を失ったことは御承知であろう。わしの嫡養子、直冬がこれに異を唱え、再び九州で兵を挙げたのが六月じゃ。将軍(足利尊氏)は高師泰を討伐に送ったが、途中で我が方の桃井勢が師泰を出雲に追いやった」
すでに従弟で家臣の聞世(服部成次)から仔細を聞いて知っていた。しかし正儀は、黙って頷いた。
一同を見渡して、直義が続ける。
「この二十八日のこと。将軍は高師直とともに、自ら直冬討伐のために西国へ下向した。わしはその隙をみて京から出てきたのじゃ。一緒に出家した上杉重能と畠山直宗はすでに高師直の手の者によって殺された。次はわしの番であった」
直義は、話をしながらも神経を研ぎ澄まし、正儀の一挙手一投足を見遣っているようであった。
話に正儀が割り込む。
「慧源殿(直義)、して、此度の用向きは何でござろう」
「不躾な仕儀、お許しくだされ。楠木殿に穴生の主上(後村上天皇)への御取次をお願いしとうござる」
「なぜ、それがしでござるか」
訝しがる正儀に、家澄が苦笑いする。
「本来、わしが穴生への取次をすればよいのじゃが、わしは四条大納言様(隆資)しか伝手がない。貴殿も存じておる通り、四条大納言様は強硬派じゃ。慧源殿(直義)の命が危うくなるやもしれぬ。それで、わしが楠木殿に会うてはどうかと勧めた」
じいっと正儀の顔を見つめていた直義が頷く。
「わしが楠木殿にお会いしようと思うたのは、貴殿が正成殿の子だからじゃ。正成殿は信頼できる御仁であった。湊川では、敵も味方もその死を惜しまぬ者はおらなんだ。聞けば正行殿も同様であったと聞く。その御舎弟殿であればと思うた次第じゃ」
その言葉に、隣から正武が激しく気を放つ。
「その正成殿、正行殿をはじめ、我が親兄弟を討ったのは誰ぞ。お主らではないか。他人事のように言うてもろうては困る」
「やらなければやられる。まことに不遜ではあるが、それが戦というものよ」
毅然として直義が正武に視線を返した。
「して、正儀殿に穴生への取次をせよと言われるか」
主題から外れた話を、正茂が落ち着いて引き戻した。
「その通りじゃ。わしは穴生の主上(後村上天皇)から師直討伐の綸旨がほしい。そのために穴生の主上に帰参する所存」
「師直討伐じゃと。尊氏討伐ではないのか。師直が死んでも尊氏が生きておれば幕府は続く。いったいわしらに何の利がある」
目を吊り上げて正武が指摘した。正論である。
だが、直義は真面目な男であった。自分が正しいと思うことなら、相手が敵であろうと自分が信じる道理を説く。
「わしは幕府がこの国には必要じゃと思うておる。公家ではこの世は収まらぬ。建武の御親政がそれを示したではないか。違いまするか。幕府を残すなら兄の尊氏は必要じゃ。されど、今の幕府は私利私欲に走る者に牛耳られておる。このままでは幕府も御親政と同じになってしまう。奸臣を取り除けば、またわしと兄とで幕府を立て直すことができる」
「幕府を立て直すと……阿呆なことを言う。そのようなことを敵の我らに言うて、生きてこの寺から出られると思うておいでか」
殺気立つ正武は、床に置いた刀をじわりと自分の方へ引き寄せた。
しかし、直義は少しも臆せず続ける。
「幕府を御認めいただければ、わしは、いや、幕府は穴生の主上(後村上天皇)を京へお戻し致し、京の帝と交互に御即位いただこうと思う。これは国のため、民のためですぞ」
提案を、正儀は現実的な妥協点であると思った。しかし、皆の手前、口には出すことは憚られた。
冷静に正茂が分析する。
「それでは穴生の公卿たちは呑みますまい。幼き頃から北畠卿(北畠親房)の薫陶を受けて育った帝におかれても同じであろう」
「副将軍を罷免されたが、わしにはまだ、桃井、上杉をはじめ、吉良、細川(顕氏)らの諸将、さらに一門筆頭の斯波(足利高経)がついておる。されど、穴生の朝廷には誰がおるのじゃ。貴殿らしか頼れる軍勢はいないのではないか。その貴殿らも四條畷で失った力を取り戻せてはおるまい。京が恋しい公卿も多いであろう。そして、誰よりも計算高い北畠卿(親房)は必ず乗ってくる。きっと我らと一緒になって師直どころか将軍をも討ち果たそうとするであろう。今は乱世、一度の勝敗で勝馬に乗ろうと南の朝廷に駆け付ける諸将も出てくる。その勢いをもって、最後にこの直義にも牙を向けることであろう」
正儀は驚いた。直義という男はそこまで見通せているのかと。底知れぬ恐ろしさを感じるとともに、なぜか親しみも感じた。直義の真面目さからかもしれなかった。隣では、さすがの正武もあっけにとられていた。
「もちろん、わしとて黙って討たれるわけではない。師直を討った後は北畠卿との知恵比べじゃ。されど、まずは北畠卿と手を握る必要がある。そのためには、吉野方を兵馬で支える楠木の棟梁から話をしていただくのが一番じゃ。いかがかな、正儀殿」
「師直は兄たちの仇。されど、貴殿とて父の仇。師直を討った後は、北畠卿の策に従い、お命を頂戴つかまつりますぞ」
若いなりに正儀が精一杯、睨みを効かせた。
しかし、直義はにやっと笑う。
「北畠卿はお好きか」
ふうっと溜息をついて、正儀は視線を外す。
「どうもいけませぬな。今のわしでは慧源殿(直義)の前では赤子のようじゃ。正茂殿、正武殿とよう相談してお返事つかまつる」
正儀は、正茂と正武に目配せして一緒に座を立つ。
「ではわしらはこれで。伊賀守(家澄)殿、この後、よしなにお頼み申します」
そう言って直義に背を向けた。
「向城の畠山国清を味方に付けた。楠木殿が兵を上げぬとお約束くだされば、それがしは国清の元に身を寄せたい」
東条の北を抑えるべく造られた石川向城には、高師泰の後を受け、新たに幕府方の河内守護となった畠山国清が入城していた。
背中から要望を浴びせた直義に、正儀がふり向く。
「穴生の裁定が下るまで、我らは手出しできませぬ。どうぞご随意に」
「では、お返事はそこで」
正儀は一礼してからその場を離れた。
禮堂を出た正儀は、まぶしい日の光を手で遮りながら、橋本正茂と和田正武に助言を求める。
「さて、いかがしたものか」
「ふ、白々しいな、三郎殿(正儀)。もう決めておいででしょう。わしはあのように全て見通したつもりになっている輩は好かん。じゃが、三郎殿は感じるものがあった……そうであろう。一門の棟梁は三郎殿じゃ。好きになされよ。決めたからにはわしとて自分の思いはしまって、ことが上手くいくよう尽くそう」
「かたじけない、新九郎(正武)殿」
申し訳なさそうに、正儀は頭を下げた。
「されど、穴生への取次というても、誰に話をするかじゃ。相手を間違えるとうまくいきませぬぞ。やはり北畠卿か」
心配そうに正茂が視線を合わせた。
四條畷の戦い以来、親房に対する正儀の不信感は大きかった。
「九郎殿(正茂)、少し待ってくだされ。相談したい御方がおられる」
正儀の頭には一人の人物が浮かんでいた。
数日後、穴生に新しく建てられた行宮近くの屋敷である。ここに宮中の女房たちが詰めていた。
伊賀局(篠塚徳子)の元に侍女の妙がやってくる。
「御局様、御客人でございます」
「私に……何方でしょう」
「楠木左衛門尉様(正儀)が御局様にお会いしたいと、お庭の方でお待ちです」
「まあ、三郎様が。少しだけお待ちいただくように伝えてください」
妙が下がるのを見届けてから、伊賀局は慌てて手鏡を取り出して髪を整え、口に紅を差した。そして、小走りで庭に向かった。
紅葉の映える庭に正儀の姿を見留めた伊賀局は、足取りを緩め、上品さを繕って姿を現す。
「これは楠木様、お達者でございましたか」
眺めていた紅葉から目線を外した正儀が、声の方へと振り向く。
「これは御局様、急にお呼び立てをして申しわけござらん」
「今日は四条大納言様(隆資)に御用ですか」
「いや、御局様にお会いしとうて参りました」
「え、私にですか……」
伊賀局は少し驚き、少しはにかんだ。
「そうです。御局様しか頼るお方はおりません」
「私に会いに……え、頼る……」
期待した状況でないことに、局の笑顔が固まる。
「私に頼み事ですか」
少しだけぶっきらぼうとなった返事にも気付かず、正儀が続ける。
「さる幕府の立場ある御仁が、主上(後村上天皇)に帰参したいとわしを頼って参った。取次を頼まれておりますが、誰に話せばよいか、思案しております」
「そのような話を私にして大丈夫なのですか」
「はい、信用しております」
そう言われると、伊賀局も悪い気はしない。
「楠木様であれば、兵馬を司る公家大将の四条大納言様(隆資)、あるいは北畠准大臣様(親房)かと」
「やはりそう思いますか。されど、四条様は幕府に対して強硬派。四条様より朝議にお諮りいただくことは難しいでしょう。北畠准大臣様は同じ強硬派ではありますが、計算高いお方ゆえ、もしかすると話を聞いていただけるやも知れません。されど……」
「されど、楠木様は北畠卿を嫌っておられると」
口ごもる正儀の後を拾って局が続けた。
「いや、嫌いなどと……」
「隠したってわかります。四條畷で兄上様たちが亡くなったことに拘っておられる……それに義姉上様(満子)のこともあったばかりですし」
慌てて否定しても、伊賀局は見透かしていた。
「確かにそうかも知れませぬ。されど、この件で賭けはしたくありません。確実に朝議に諮っていただくための手立てを探さなければならないのです」
「そうですか……であれば、あのお方しかおられないでしょう」
自信ありげな伊賀局に、正儀は期待する。
「何方ですか」
「准三后様(阿野廉子)です」
「いや、されど……それがしは公卿の何方かがよいと思うておりました」
「准三后様は、朝廷で大きな力をお持ちです。そして、北畠准大臣様や四条大納言様らの強硬派とも距離を保っておられます」
国母(天皇の母)となった廉子は、息子である帝を通じて朝廷に大きな影響力を持つようになっていた。
正儀は、伊賀局の提案に熟考して頭を下げる。
「わかりました。准三后様への取次をよしなにお頼み申します」
「頭をお上げください。准三后様より御内諾いただければ、改めてご連絡を差し上げましょう」
「では、それがしは穴生の別邸に逗留しますゆえ、よしなに」
軽く礼をして立ち去っていく正儀の後ろ姿を、伊賀局は柔らかな表情で見送った。
翌日、楠木正儀は准三后、阿野廉子が待つ御殿に参殿する。そして、伊賀局の侍女、妙に案内されて広間に入った。
「楠木様(正儀)、しばらく、こちらでお待ちください」
そう言って妙は下がった。
下座に控え、正儀がしばらく待っていると、伊賀局が先達し、廉子が現われる。さらに続いて一人の公家が入ってきた。亡くなった兄、楠木正行よりは少し上のようである。
上座に廉子が座り、その公家は廉子より少し下座で、正儀を横から見られる位置に座った。
「伊賀はそのまま居てくりゃれ。そなたの意見も聞きたい」
退席しようとする伊賀局を、廉子が引き留めた。
「そなたが楠木左衛門尉(正儀)であるか」
「ははっ、左衛門尉正儀にございます。此度は准三后様にお目通りが叶い、恐悦至極に存じ奉ります」
「左衛門尉(正儀)、そなたのことは、この伊賀より、よう聞いております。若いのに知略優れる武将とか。やはり楠木の血筋よのう」
正儀は赤くなって恐縮する。
「いえ、それがしは、父や兄と比ぶるような者ではありませぬ」
「遠慮はいりませぬ。南大和では、憎き高師直を見事に追い返したではありませぬか。大儀です」
「はっ。過分なお言葉を賜り、恐悦に存じます」
褒める廉子に、深く平伏した。
その謙虚な素振りに、廉子は少し微笑み、隣の公家に目をやる。
「紹介が遅れました。この者は右近衛少将、阿野実為殿じゃ。わらわの甥で、側近として、わたくしの近くに居てもろうております。よしなに頼みます」
実為は、中納言、阿野実村の歳の離れた弟であった。
紹介を受けて、実為も軽く会釈する。
「楠木殿、よしなにな」
温和な顔立ちの貴公子であった。
頭を下げる正儀を見て、早速、廉子が本題に入る。
「左衛門尉(正儀)、伊賀よりあらましは聞いております。幕府から我ら朝廷に降ろうという御仁とは誰なのですか。わたくしが力を貸してやれるかどうかは、誰かを知らねば答えることはできませぬ」
「はい、今日は包み隠さず、お話しとうございます。その御仁は足利尊氏の舎弟にして、先の副将軍であった足利直義でございます」
「何、直義じゃと……」
その名に、廉子は二の句が継げなくなる。
予想外のことに実為も驚きを禁じ得ない。
「確かに、高師直に屈して副将軍を解かれ、蟄居したとも聞いておりましたが。まさか、直義が……」
そう言って、廉子と顔を見合わせた。
「直義は、桃井、上杉をはじめ、吉良、細川(顕氏)、斯波(足利高経)の諸将を率いて、我らに帰参致すとのこと」
「何と……して、直義の望みは」
廉子が先を急かした。
「はい、望みは高師直・師泰兄弟に対する追討の綸旨です」
これに、廉子の表情が曇る。
「尊氏追討ではないのか」
「はい、高兄弟を討った暁には、直義が主導して幕府を率い、我らが帝を京へお戻ししたいとのこと。尊氏を討ってしまえば、将軍殺しの汚名を被ることとなり、幕府を掌握するのが難しいのだと思われます」
皆を刺激しないよう、直義の言葉を歪曲した。
「楠木殿、直義は幕府を掌握するために、我らを利用しようということではないのですか。いずれにせよ幕府が存続するのなら、先帝の御意思に反することになります」
耳を傾けていた実為が疑問を呈した。
「はい、それは少将様の仰せの通りです。されど、足利が幕府を開き早や十五年。確実に幕府の支配が諸国に広がっております。いつまでも討幕に固執しておっては、我らが京に戻って政を司る機会を永遠に失います。現実の中から策を考えることも大事。幼き頃、父、正成に言われた言葉です」
真摯に応じる正儀に、廉子は頷く。
「左衛門尉(正儀)の申すことも一理あろう。のう、少将」
「確かに……楠木殿の仰せの通り。そう思っておる公家も少なからずやと思います。が、それは決して口に出してはならぬこと。少なくとも今日までそう思うておりました」
言い難そうに実為が応じた。
「失礼の段、ご容赦ください」
「いや、楠木殿、責めておるのではない。自身を恥じておるのじゃ。して、仮に幕府を認めたとして、直義は、我らが主上と、持明院の皇統との折り合いをどうするのじゃ」
実為は、皆が一番気にしていることをたずねた。
「直義は、両統迭立を考えているようにございます」
「それでは、鎌倉の幕府の時と同じではないか」
つまらなそうに廉子は目線を落とした。
「その通りでございます。されど、直義が帰参し、幕府を掌握すれば、直義は帝に負い目を感じることと存じます。さらに、諸国の武士は、我らが帝の元に帰参した幕府とみるでしょう」
正儀の見通しに実為はゆっくりと頷く。
「なるほど、我らは持明院の皇統に対して自然と有利な立場というわけじゃな」
「御意」
「この話、伊賀はどのように思う」
突然、廉子に話を振られ、伊賀局は少し驚いた表情で正儀を一瞥した。
しかし、彼女は自分の考えをしっかりと持ち合わせている。
「わたくし如きが意見を述べるのは憚られますが、楠木様のご意見はもっともなことかと思います。穴生に朝廷がある限り、諸国の武士を御味方につけるのは難しいかと存じます。まずは京へ戻り、そこで御上の御力を少しずつ取り戻すことがよいのではないでしょうか」
これに廉子が頷く。
「左様であるか。左衛門尉(正儀)、よい話を聞かせていただきました。わらわから二条左大臣殿(師基)、阿野中納言殿(実村)にお話し、朝議にお諮りいただくようお願いしましょう」
「はっ。ありがたき幸せでございます」
この後、正儀は伊賀局に促され、ともに座を下がった。
十二月十三日、未だ白木の香り漂う穴生の廟堂に、左大臣の二条師基、准大臣の北畠親房、大納言の四条隆資、権大納言の洞院実世、中納言の阿野実村ら公卿たちが集まった。もちろん正儀は朝議に出られる身分ではない。
足利直義の南朝帰参の申し出は阿野実村から奏上された。
口火を切ったのは討幕論者の洞院実世である。
「自分の身が危うくなれば我が朝廷を頼るとは。どうせ偽りの帰参であろう。そのような者を味方に引き入れてもどうせ役には立たぬ。直義を捕らえ、首を取ってこそ我らの気勢も上がるというもの」
「さりとて、我らは四條畷の負け戦で吉野山も焼かれ、御味方は裏切り、国人どもは大勢、幕府方に走ってしもうた。勢いを得るには悪い話とも思えぬ」
穏健な二条師基は実世と視線を合わすことなく言葉を返した。
すかさず実世が切り返す。
「直義は幕府存続を願うております。皇位は持明院と我らで交互という。これでは鎌倉の幕府と同じではありませぬか。何のために先帝(後醍醐天皇)が鎌倉を滅ぼしたのか。先帝の恩顧に応えんがため、臣下のとるべき道は一つと存じます」
すると、師基は黙り込んだ。
なおも実世は勢いを得ようと討幕論者の四条隆資を促す。
「いかがでございましょう、四条様」
「麿も洞院卿に同意じゃ。幕府存続も、持明院と交互の皇統もあり得ん。ただ……兵馬を預かる者としては、今の軍勢では心もとないのは確かじゃ」
「まったくじゃ。我が朝廷が頼りとするのが楠木の子倅というのでは、あまりにも貧相じゃ。されど、北畠右衛門督殿(顕能)が伊勢で着々と力を蓄えておられる。今に楠木など頼りにせずともよいようになる」
伊勢国は守護が置かれず、伊勢国守(伊勢守:国司の長官)である北畠顕能が統治していた。既に南朝においても名目だけになりつつある国司職であるが、ここ伊勢では実権を伴っていた。
【本作では権限のない名目的な他国の国守と区別するため、北畠家の伊勢守は伊勢国守と記載する】
実世の軽口に、隆資は眉間に皺を寄せる。
「確かに楠木左衛門尉(正儀)はまだ若い。されど、高師泰を石川河原に釘付けにし、高師直を大和から追いやった。さらには、直義との和議といい、よう働くではないか。やはり正成、正行の血筋よのう。先の鎮守府大将軍(北畠顕家)も若かったが、北畠卿(親房)の血を受け継ぎ、良将であったではないか」
同意を得ようとしていた隆資の思わぬ反論に、実世は憮然とする。
「先の鎮守府大将軍(北畠顕家)と楠木の子倅ごときを同列に扱うなど、四条様ともあろうお方が。准大臣様(北畠親房)も、さぞ、ご気分を害されたことでしょう」
朝議があらぬ方向にいきそうになったところで、北畠親房がやっと口を開く。
「麿は直義の帰参を許してもよいと思う」
「准大臣様っ」
討幕論者、北畠親房の思いもよらぬ意見に、実世が驚いて声を上げる。しかし、それを無視して親房は話を続ける。
「騙された振りをすればよろしかろう。まずは師直、そして尊氏を討って幕府の勢力を削ぎ、御上(後村上天皇)を京へお戻しする。直義は後々、討てばよろしかろう。御一同、いかがであろうか」
和睦を願う左大臣の師基は大きく頷き賛意を示した。しかし、実世は不満顔を親房に向ける。
「騙された振りと申しても、我らが違約したことになるではありませぬか」
「直義が求めているのは我が朝廷への帰参と師直討伐の綸旨じゃ。他のことは知らぬ。それのみに綸旨を下し、後は時をかければよろしかろう。御上に誓紙を求めることなどあり得んからのう」
したたかな親房に、実世は不満顔で黙り込んだ。しかし、もう一方の強行派である隆資は頷いた。
一段落したところで師基が話が纏める。
「それでは、御上にお出ましいただき御裁断を仰ごう」
呼びかけに公卿たちは頷いた。
(それにしても楠木正儀、若く扱い易いと思うておったが……)
親房は、心の中で呟いた。そして、四條畷の戦の前に、正行と激論におよんだ時のことを思い出していた。
この後、正儀の案内で、北畠親房自らが河内国の石川向城に出向き、逗留していた直義と話し合いを持って帰参を許した。
十二月、金剛山からの山おろしに、木々が伊吹を止める中、楠木党に出陣の日がやってくる。
すでに近習の津田武信は、篠崎親久や津熊義行らを率いて北河内の父、津田範高の館に入っていた。津田家の長兄、津田範長とともに、北河内の南軍を取り纏めるためである。
一方、楠木本城である赤坂城では、正儀が、一族に新たに加わった舎弟、楠木朝成に見送られていた。
「四郎(朝成)、留守をよろしく頼むぞ」
「招致しました。されど、兄者(正儀)、それがしも楠木一門に加わったからには、戦場にお供しとうございました」
「なあに、急ぐことはない。戦場で弓矢を交えることばかりが戦ではない。兵や兵糧を工面し、敵を探り、後ろを固め、我らが憂いなく合戦に出られるようにするのも戦のうちじゃ。小太郎殿(神宮寺正房)によう習うがよい。それと、この度は足利直義殿の戦じゃ。我らは後詰め。楠木党が力を尽くす戦ではない」
家宰を代行する神宮寺正房が言い添える。
「御舎弟殿、焦る必要はありませぬ。殿(正儀)は小さき頃より、父上や兄上の戦を後ろで見聞きされて今があるのです。ここは殿の戦を見守りましょう」
「わかり申した。兄者、武運を祈っております」
素直な朝成の言葉を受けて、正儀は兵たちに振り返る。
「皆の者、これより和泉の和田新九郎(正武)殿と合流し男山八幡を目指さん。すでに津田荘では津田範長殿もお待ちかねじゃぞ。いざ、出陣じゃ」
正儀の下知で、楠木党二百余騎が気勢を上げて出陣した。
正平六年(一三五一年)一月七日、まだ冬将軍が居座り続ける中、足利直義は、畠山国清、細川顕氏らを率いて男山八幡に陣を敷いた。さらに伊勢からは石塔頼房、越中からは桃井直常と、足利一門の軍勢が続々とはせ参じ、十五日には京へ攻め入った。
正儀ら南軍は男山の南に布陣し、直義の求めに応じて、和田正武の軍勢を割いて、桃井勢らと共に攻め上がらせた。
一方、足利尊氏の留守を預かる嫡男、足利義詮は、直義の軍勢が拡大するにつけ、兵の離反が相次ぎ、反撃する体制を整える間もなかった。北朝の帝(崇光天皇)と上皇たち(光厳・光明上皇)を直義派に押さえられると、慌てて桂川を渡って西へ向けて撤退した。
この報に、山陽道を西に向かっていた足利尊氏が率いる二万の軍勢は、急遽、京へ引き返す。軍勢の中には高師直や、元は直義派だった山名時氏らの姿もあった。そして、京から落ちてきた義詮の軍勢を糾合すると京に戻り、直義方の桃井直常ら七千余と合戦になる。
さらに男山八幡からは直義自らも出撃し、尊氏らの背後を攻めて挟み撃ちにした。この結果、尊氏は不利を悟って丹波へと撤退する。しかし、直義は追撃の手を弛めることなく、丹波から摂津へ逃げる尊氏勢を追って進軍した。
あまりのあっけなさに、正儀が率いる楠木本軍に出る幕はなかった。
尊氏が京を追われのを見届けた正儀は、急いで軍を河内に引き上げる。足利兄弟の争いに乗じて河内・和泉国を制圧するためである。
河内に戻った正儀は、南河内から将軍、尊氏に与する国人たちの一掃に乗り出した。
これに呼応して、すぐに兵を動かしたのは、楠木軍の与力衆である美木多助氏である。助氏は、高師泰の和泉侵攻によって幕府の手に落ちていた和泉国大饗城を攻めてこれを奪還した。
はち切れんばかり膨らんだ桜のつぼみから、薄紅の花弁がぽつりぽつりと見え始める頃となる。ここは摂津国にほど近い、河内国瓜破野の砦。かつて楠木正成の時代にも陣を張ったこの場所に、楠木軍が布陣していた。
幕府の争い事に乗じて河内国を攻略する正儀のもとに、小具足姿の聞世(服部成次)が現われる。戦の間、戦況把握のため、透っ波数人を率いて足利直義軍に同行していた。
砦に建つ粗末な陣屋で、正儀が聞世を迎える。
「ご苦労であった。慧源殿(直義)が打出浜で将軍(足利尊氏)と決戦になったそうじゃな」
一旦、播磨国の書写山まで退いた尊氏であったが、石見から引き返した高師泰らを加えて態勢を立て直す。そして、細川顕氏らと刃を交えながら兵庫まで押し出していた。
「はい、二月十七日に雀松原で両軍が激突。互いに多数の死者を出しながら翌日まで戦が続きました。当初から慧源殿の軍勢が押しておりましたが、山名時氏の寝返りが勝敗を決しました。高師直・師泰兄弟を負傷させるなど、慧源殿の圧勝でございました」
「もともと山名は慧源殿を支えておったはずじゃ。将軍有利とみるや将軍のもとに走り、此度は慧源殿か……」
まだ、若い正儀には、己が利のために戦う山名時氏のような梟将は理解できなかった。
その苦々しそうな顔を見ながら、聞世が先へ話を進める。
「その後、尊氏は高兄弟を伴って、何とか兵庫の陣まで逃れました。されど、味方の離反を受け、ついに尊氏は慧源殿に和を求めました。条件は高兄弟の出家と執事など役の罷免です」
「そうか。やはり、慧源殿は、将軍の身は守ろうというのじゃな」
直義には直義なりの一途さがあることを、正儀は改めて感じ取った。
敗北を喫した足利尊氏は、舎弟、足利直義が送った目付役の武士達に先導され、千騎足らずの兵で京を目指した。
その中には、頭を丸めた師直・師泰兄弟が馬に揺られて付き従っていた。刀を取り上げられ、具足(甲冑)を纏う事も許されず、白い法衣姿のその様は、まるで罪人であった。
師直の馬が、摂津国の武庫川に差し掛かる。その土手には、早くも一本の桜が花衣をまとい、水面に薄紅を映していた。
「何と見事な……負けてこそか」
勝ち奢っていれば、見過ごしていたかもしれない。師直は思わず苦笑いを浮かべた。
ふと正気を戻せば、前を行く尊氏の姿が見えない。
「おい、どんどん離されておるぞ。前も後ろも離れすぎじゃ」
師直は、直義から遣わされた目付に、普段と変わることなく文句を言った。
「いや、これでよいのでござる」
馬に跨った目付の背後から、数騎の騎馬武者が近づいてくる。
「そこの者、高師直じゃな」
「無礼者、名を名乗れ」
騎馬に乗ったまま声を投げ掛けてきた武士を、師直が一喝した。
「我は上杉能憲。養父、上杉重能の恨みを今、果たさん。思い知るがよい」
言い終わらないうち、馬上の師直を、手に持つ薙刀で突き倒した。
「ぐわっ」
うめき声を上げて馬から転げ落ちた師直を、能憲の郎党たちが囲んで止めを刺した。
その半町ばかり後ろ。悲劇を目の当たりにしたのは舎弟の高師泰であった。とっさに馬を駆って逃げようとするが、兄同様に上杉の郎党に囲まれる。幕府最大の実力者であった高兄弟の、あっけない最期であった。
洛陽の桜が見頃となった頃、敗軍の将として足利尊氏が京へ戻った。ひとまず、足利兄弟の従兄弟である上杉定朝の京屋敷に迎えられる。
一方、勝利を収めた足利直義は、細川顕氏の館に帰還する。そして、公式な会談に先立ち兄の懇願を探るべく、密かに顕氏を遣わした。尊氏を罰する意図はない。兄の面子も立ててやろうと考えてのことである。
広間に通された細川顕氏が、極力、尊氏の面子を傷つけないよう、下座で平伏して言葉を選ぶ。
「此度のこと、将軍におかれましては、まことに遺憾なことと存じます」
「うむ、で、小四郎(顕氏)、今日は何用じゃ」
何事もなかったかのようなもの言いに、顕氏は面喰らう。
「あ、あの……慧源殿(直義)より、此度の戦の処理について、将軍の御意向をうかがってくるようにとのことでございましたので」
「そうか……では、我が方に従いし者どもには、十分な恩賞を取らせるように申し付ける。それと、卑怯にも待ち伏せして高兄弟を討った上杉能憲を死罪とせよ」
思いがけない尊氏の要求に、顕氏の思考が止まる。負けたのは尊氏であり、勝ったのは自分たちの方である。顕氏は頭の中で混乱を整理する。
「将軍、それでは和睦を違えることになりますゆえ……」
「これは将軍の命ぞ。聞けぬと言うのか」
「あ、いや、そのようなことは……」
あまりにも堂々とした尊氏の態度に、顕氏は畏縮する。負けた者と勝った者の立場が完全に逆転していた。
「小四郎(顕氏)よ、しかと申し付けたぞ。よいな」
「は、はは」
圧倒された顕氏は、思わずひれ伏してしまった。
三月二日、足利兄弟の会談が行われる。
結局、尊氏の要求を突き付けられた直義は、上杉能憲の死罪を流罪に減じさせるが、尊氏に与した諸将にも恩賞を与える羽目となった。
翌日、足利尊氏はこの結果でさらに強気になったのか、再び挨拶に訪れた細川顕氏を、降参人の如く扱い、門前払いしてしまう。
当事者の顕氏にとっては、将軍の威厳と畏怖を、改めて感じざるを得ない出来事であった。