第17話 南大和の戦い
正平三年(一三四八年)二月五日、四條畷の戦からちょうど一月。紅梅が京の都に彩りを添えるころになっても、南河内の東条に春は訪れていなかった。
石川の河原に布陣する高師泰の幕府搦手軍は、いまだ赤坂城や龍泉寺城の楠木軍と対峙したままである。
一方、吉野山を焼き払った高師直率いる幕府本軍も、そのまま吉野周辺に留まっていた。
楠木本城である赤坂城。その本丸(主郭)に建つ陣屋の広間で、正儀が後見役の橋本正茂、一門の和田正武、与力の美木多助氏らと策を講じていた。
四條畷から怪我を負って生還した助氏が、苦々しい表情を見せる。
「高師直の本軍が、吉野から動く気配を見せておる。宇智の四条大納言様(隆資)の軍勢を叩くつもりであろう」
すると正武が、ふうぅと重い吐息を重ねる。
「四条様の軍勢は数こそ多いが見かけ倒しじゃ。まして、湯浅定仏殿(宗藤)も穴生に遣わされたままじゃし……とても高師直には歯が立たん」
「うむ、寄せ集めゆえ吉野山が落ちた後、かなりの兵が逃げ出した。今や五千程度であろうか」
助氏の話を聞き、正儀は食い入るように広げた絵地図に目を落す。
「宇智が落ちれば、東条は南からも敵の侵入を許してしまう」
「三郎殿(正儀)、そればかりか穴生の帝(後村上天皇)まで危うくなる。南大和から何とかして幕府軍を追い払う手立てを考えねばならん」
苦々しそうに正茂は腕を組んだ。
帝(後村上天皇)が穴生に動座したことで、南朝本軍が駐留する宇智は、背後の行宮を護って、幕府本軍に正面から対峙する位置にあった。
そこに、近習の河野辺正友が聞世こと服部成次を連れ立って入ってくる。
焦りの色を露にした聞世が、皆の前に座る。
「三郎様(正儀)、我が手の者の知らせでは、大和に布陣する京極道誉が、水越峠に一隊を差し向けた模様です」
「なに、水越峠に……なぜ……」
敵の新たな動きに、正儀は頭を掻きむしった。
しかし、年長の正茂は顎に手を当て、なるほどと頷く。
「高師直は宇智の四条軍と戦うにあたり、背後の憂いをなくしたいのじゃな。我らが水越峠から南大和へ入れば、ちょうど敵の背後をとることができる。それを見越して峠を押えたということか」
「されど、東条の北に高師泰の軍勢が居っては、我らは身動きがとれぬ」
現実を突き付ける助氏の言葉に、諸将は重い溜め息をついた。経験豊富な正茂をしても、この状況を打破することは難しそうであった。
沈黙が支配する中、満を持して正儀が口を開く。
「敵は水越峠を越えられるを嫌がっておるのであろう。ならば、その水越峠を越えようではないか」
若い棟梁の突拍子もない話に、戦馴れした正武が苦笑する。
「それができれば苦労はせぬが……」
「いや、策ならあり申す。聞いてくだされ」
まさかと驚く一同を前に、正儀はしっかりと自身の考えを口にした。
皆が顔を見合わせる中、正茂が興味深く頷く。
「なるほど、面白いかも知れんな」
「ううむ、確かにこのまま四条軍が敗れれば、どのみち東条は危ない……ここは三郎殿(正儀)の策に乗ろうではないか」
正武に続き、助氏も口元を緩める。
「それがしも同意致す。さすがは正成殿の血筋よのう」
「かたじけない。では、又次郎(正友)、至急、河内をあたって、野伏を集められるだけ集めるのじゃ。幕府を南河内や南大和から追い払うことができれば所領を与えると伝えよ」
「畏まってござる」
正儀の命に、正友はすぐさま座を外した。
「聞世、すまぬが小波多座の伝手で、四条様の元を離れた大和の野伏を、今一度集めてくれ。それと、宇智の四条大納言様と越智伊賀守殿に書状を書くので届けてくれまいか」
「承知。すぐに父(服部元成)に頼んでみましょう」
任せてくれと言わんばかりに、聞世は胸に手を当てた。
二月七日、まずは和田正武が和泉に戻って挙兵する。兵を率いた正武は、南軍の宮里城や槇尾山城を落とすために春木に駐留していた淡輪助重ら幕府方を背後から襲う。和田勢は得意の騎馬で幕府勢を蹂躙した。
当初、不意を突かれて驚くばかりの幕府軍であったが、次第に態勢を整えて騎馬で反撃に転じる。すると和田勢を押し戻し、追撃を仕掛けた。
逃げる正武が馬上で笑みを浮かべる。
「よし、敵は思い通り、追いかけてきたぞ」
幕府勢が和田勢を追って春木谷に入り込む。
―― びゅぅぅ ――
谷の両側に潜んでいた一軍がいっせいに雪崩れ込み、正面と側面から矢を射かけた。槇尾山から出撃した橋本正高の軍勢であった。
不意を突かれた幕府勢は慌てふためき、先を走っていた騎馬兵は引き返そうと馬を反転させる。しかし、後ろから続く勢いづいた騎馬兵は、止まることができず、押し合いへし合いの大混乱に陥る。そこを和田の騎馬隊が襲い掛かった。
この和泉国春木谷に於ける敗戦は、すぐに河内国の石川河原に布陣していた高師泰に伝えられた。
「何、和田と橋本が……小勢でこしゃくなことを。大軍で押しつぶし、息の根を止めてくれるわ」
すぐに師泰が軍勢を割いて和泉に送った。
翌、二月八日、今度は、龍泉寺城からは楠木軍が、高師泰が陣を張る石川河原に討って出る。津田武信、篠崎久親らが八百騎を率いていた。
これまで守備に徹していた楠木軍の反撃に、幕府軍は不意を突かれて混乱に陥る。楠木の騎馬は、四條畷の仇を晴らすように、果敢に突入を見せた。
石川河原の砦を本陣としていた高師泰は、郎党の報告にぎりっと奥歯を噛んで床几から立ち上がる。
「しまった。楠木の狙いはここであったか。すぐに軍を戻すよう、春木へ伝えよ」
和泉の和田攻めに向かわせた幕府軍に戻るように早馬を送った。だが、急に大軍を呼び戻すことはできない。兵を割かれたところに、不意打ちをくらい浮足立つ幕府軍を、楠木軍は散々に翻弄した。
しかし、徐々に落ち着きを取り戻した幕府軍は楠木軍を押し返す。兵を割かれていたとはいえ、石川河原の幕府軍は五千を下らない。さすがに大軍の前では抗うことができず、楠木軍はじりじりと後退し、東条に向けて撤退を開始した。
「敵を深追いしてはならん。春木の二の舞になるぞ」
本陣を出て兵を指揮していた師泰は、声を張り上げた。しかし、混乱する戦場で、下知は全ての兵たちには届かない。
およそ二千の幕府軍は、龍泉寺城に逃げ帰ろうとする楠木軍を追う。佐備への入り口である佐備谷口に幕府軍が入ったところで、潜んでいた美木多助氏の軍勢が幕府軍に矢を射かけ、騎馬で突進した。和泉国の春木谷の戦を大規模にしたのが、この佐備谷口での戦いであった。
幕府軍の先陣は侍大将を討たれ、進軍が停滞したところに、津田武信らが率いる八百騎も反転して幕府軍に戦を仕掛けた。
そのような中、師泰が放った伝令が追い付き、声を張り上げる。
「越州殿(師泰)のお達しじゃ。深追いはならん。撤退せよ。楠木はどのような罠を仕掛けておるかわからんぞ。深追いはならん。撤退せよ。越州殿のお達しであるぞ」
伝令が騎馬で駆け回り、やっと、幕府勢は石川河原に撤退した。
幕府軍が佐備谷口から撤退すると、楠木軍はゆうゆうと龍泉寺城へ引き上げた。
この一報を赤坂城で受けた正儀は、労いの言葉を伝令に掛けると、上気させた顔を河野辺正友に向ける。
「これで敵もしばらく、東条攻めを躊躇するであろう」
「では三郎様(正儀)、次は我らでございますな」
「うむ。又次郎(正友)、頼むぞ」
「承知、目にものを見せてやりましょう」
いつもは冷静な正友でさえ、高揚を隠せないでいた。
南大和に兵を留め置く幕府本軍、総大将の高師直は、吉野山の西、宇智の手前辺りまで兵を動かしていた。ここで、右翼に佐々木京極道誉、左翼に細川顕氏、背後に武田信武らを配置して、公家大将、四条隆資が率いる宇智の南朝本軍と対峙していた。
右翼の道誉は、金剛山の東麓、佐味辺りに布陣して、南朝に味方する高天寺など在地の寺院を次々と焼き討ちしていた。目下の気掛かりは、金剛山を越えて西にある東条である。楠木勢が水越峠を越えて南大和に討ち入ってくれば、京極軍は背後を突かれる状況にあった。そこで、道誉は次男の京極秀宗に命じ、峠に柵を設けて楠木の侵攻を防ごうとしていた。
辺りを黄金色に染めて日が暮れようとする頃、道誉は側近の箕浦定俊を呼び寄せる。
「師泰はまだ東条を落せずにおるのか」
「御意」
「四條畷で棟梁と舎弟が死んだというに、楠木は粘るのう。今や誰が率いているのかさえ、わからんというのに……」
道誉は高師泰の怠慢な動きに不満を抱くとともに、粘る楠木に不気味さを感じていた。
それは道誉だけではない。
「殿、水越峠の秀宗様は大丈夫でございましょうや。何分、初陣でございますゆえ」
「なあに、いくら楠木が粘ろうと、師泰が大軍を擁して対峙しておるのじゃ。小勢の楠木が南大和に進軍することなど、できようはずもない。だからこそ、水越峠を秀宗に任せたのじゃ。峠を我らが封鎖したことが敵に知れれば、十分に目的を果たしたといえよう」
自身の不安を払拭するように、道誉は定俊の言霊を封じた。
二月十二日の夜、月あかりが足下を照らす。赤坂城の守りを後見役の橋本正茂に任せた正儀は、河野辺正友、津熊義行、そして聞世ほか百人ばかりを率いて建水分神社へ向かった。
そこには既に大勢の野伏が、とぐろを巻いた蛇のように幾重もの輪になって集まっていた。その数は四百余。石川河原の高師泰と対峙している以上、正規軍は東条に残さざるを得ない。よって、今、正儀が頼りにできるのは、この野伏たちしかいなかった。
神社に集まった男たちを見て、正儀が感心しきり頷く。
「思った以上に、多くの野伏が集まったな」
「はい、笹田と申す野伏の頭目が、河内のあちらこちらから掻き集めたそうです」
後ろに立った河野辺正友が疑問に応じた。
「そうか、その笹田と申す者、連れて参れ。礼を申したい」
「承知」
と言って、すぐに正友が野伏の頭を連れて来た。
目の前で片ひざ付いて頭を下げる男に、つっと正儀が歩み寄る。
「その方、よくぞこれだけの野伏を集めてくれた。かたじけない」
「いえ、とんでもございませぬ、虎夜刃丸様。それがし、いつの日か楠木の方々に恩を返したいと思うておりました」
正儀の幼名を口にして、男が顔を上げた。野伏の頭領らしく、髭面の強面。だが、よく見ると優しい目をしている。が、正儀に見覚えはない。
「恩とは……いったい……」
「それがしの名は笹田五郎宗明。周りから笹五郎と呼ばれております。今から十七年も昔のこと。それがしは山賊の一味に誘われ、楠木の方々を捕えるために観心寺を襲撃しました。されど、思わぬ者たちの助太刀で返り討ちに合ったところを、奥方様の情けで助けていただきました」
長持に隠した虎夜刃丸を護良親王が救った話は、母、久子から何度も聞かされた話である。その時、山賊の一味にもかかわらず虎夜刃丸を庇おうとしたのがこの笹五郎であった。
「お前の話は母から聞いておった……そういうことであったか」
母、久子の恩情が今、巡って正儀を助けようとしていた。
御社の前に野伏たちを集め、河野辺正友が軍略を説明した後、正儀が皆の輪の中に無遠慮に進み出る。
「南軍の命運はこの一戦に掛かっておる。じゃが、決してお前たちだけを危ない目に会わすつもりはない。わしが先頭に立つ。わしら楠木が動いた後、お前たちは動いてくれればよい」
ここで負ければ後はない。兵を動かすには時として大将が命を張らねばならない。血統で兵を動かせる足利とは異なる。父や兄たちもそうやって兵を鼓舞してきた。
若き棟梁の意気込みは、日銭で雇われた者たちの心をも揺さぶる。
「若殿(正儀)、任せてくだされ」
笹五郎が胸をどんと叩き、力強く応じた。
そして、野伏たちを率い、敵に悟られぬよう、月あかりだけで山に入った。
「では、我々も参りましょう」
正友に急かされると、正儀はぶるっと武者震いで応じた。
月の光に山際がくっきりと浮かび上がる。正儀は河野辺正友と聞世(服部成次)、さらに郎党十人ばかりを伴い、息をひそめて山道を登りきった。
水越峠には柵が設けられ、その脇には数人の見張りが立っている。向こうには陣幕が張られ、焚き火によって兵たちの影が写し出されていた。
身を伏せた正友が正儀に顔を向ける。
「敵はおよそ五百といったところでしょうか」
「うむ。まだ起きている兵たちも多いようじゃ。しばらくここに潜み、兵たちが寝入るのを待とう」
互いにぼそぼそと、口に息を含みながら言葉を交わした。
数人の見張りを残し、兵たちが寝静まったところで、正儀は聞世に向け、意味ありげに頷く。
すると黒衣に身を包んだ聞世が、見張りが手薄なところを探し、柵を乗り越えて陣中に忍び込んだ。忍び事を行うときは、決まって小波多座の裏方が着るこの黒装束である。夜に溶け込み、動きやすいからであった。
聞世の段取りが整うと、正儀は深く呼吸をしてから弓を引いた。矢先には油を染み込ませた布が巻かれている。郎党が、その場で起こした火を近づけると矢先が燃え上がり、正儀の顔をめらめらと照らした。
炎に顔をあおられながら、じいっと狙いを定めて弦を放つ。と、火矢は陣幕を突き抜け、京極の家紋、平四つ目結の印が炎に包まれた。聞世が油を染み込ませていたためである。
夜の炎は人々の恐怖をあおる。まして寂しい山の中である。
「うわあ、何じゃ」
「皆を起こせ」
「火を消せ」
見張りの声で、寝ていた兵たちも飛び起きる。そして、火を消すために右往左往と駆け回った。
しかし、新たな火矢が次々に陣中を襲う。矢が飛んでくるたびに、聞世が撒いていた油に引火して、あちらこちらから火の手があがった。
若き大将、京極秀宗は何が起こったのかわからず、見張りの兵を掴まえる。
「何事か」
「て、敵襲にございます。柵の向こうに十人ばかりの人影が……」
これに秀宗は胸を撫で下ろす。
「そうか……敵はたかだか十人か。よし、追い込んで討ち取るのじゃ」
秀宗の下知で、京極勢は自ら柵を壊して討って出た。
この事態に正儀らは、柵を背にして一目散に逃げるしかない。後ろからは京極の兵、二百あまりが怒声を発して追い駆けてきていた。
「よし、この辺りでよかろう」
危機迫る中、正儀は声を上げて立ち止まった。
するとそこに、津熊義行と百人ほどの楠木の兵が峠道に現れる。
「今じゃ、出合え、出合え」
義行らが口々に叫ぶと、さらに笹五郎が率いる野伏四百余りが奇声を上げて、京極勢を包むように峠道の左右から現れた。
「者ども、掛かれ」
笹五郎の声で、野伏たちがいっせいに京極の兵たちに襲い掛かった。
月光に白む木々と深い闇。巧妙に森に隠れて戦う野伏に対して、京極の兵たちは、次々に討ち取られていく。罠に嵌まった京極勢は浮足立ち、峠の陣へと逃げ帰った。
「敵襲じゃ」
「逃げろ、逃げろ」
声を上げて柵に戻ってくる兵たちに驚いたのは、柵向こうで指揮をとっていた京極秀宗である。
「者ども、逃げるな。押し留まって、敵を討つのじゃ」
秀宗と近習たちは陣を立て直そうとした。しかし、騒然とする兵たちの声で、秀宗の声はかき消される。
いったん撤退をはじめた兵たちは、柵向こうの兵たちまでも巻き込んで敗走していく。結果、立ち止まって兵を鼓舞していた秀宗と近習たちは、逆に楠木勢に囲まれることとなった。
「狙い通り、柵を壊す手間が省けましたな」
ほくそ笑む河野辺正友ととも柵の中に入った正儀は、大混乱の中に敵将の秀宗を見定める。
「その出で立ち、大将の佐々木左衛門尉殿(秀宗)とお見受け致す。それがしは楠木の棟梁、楠木三郎。御覚悟を」
ぎょっとして秀宗が声の方をみた時には、すでに正儀と正友が太刀を抜いて切り掛かっていた。秀宗もかろうじて刀を抜いて正儀の刀を受け止める。今度は秀宗が正儀に切り掛かろうとしたところで、正友の刃を背中に浴びて崩れ落ちた。
すぐ様、正儀が秀宗を組み伏す。ぱちぱちと音を立てる柵の炎が、秀宗の顔を照らした。
正儀は初めてその顔を凝視する。
(自分と同じ位の歳ではないか)
一瞬の迷いが正儀を苦境に落とす。秀宗が正儀に抱き付き、ぐるっと上下を入れ替えて、身体を押さえつけたからであった。
「楠木の棟梁じゃと。願ってもなき相手、死ねっ」
刀を構えた秀宗が、正儀の上から声を張り上げた。
目の前でぎらつく切っ先に、正儀は思わず目を瞑る。
―― ずさっ ――
―― ううぅ ――
うめき声と共に、正儀の身体が重くなる。目を開けると、秀宗が力なく、のしかかっていた。
正儀は、何とか払いのけて立ち上がる。そこには、正友によって背中を突かれ、息絶え絶えの秀宗の姿があった。
「お……おのれ……」
そう言って、正儀を睨んだまま、秀宗は息絶えた。
生死の淵から生還した正儀は、肩で大きく息をしながら、横たわる秀宗を見つめた。一歩間違えば、自分だったかもしれない。正儀はただ、その場に立ちすくんだ。
「三郎様(正儀)、下知を」
呆然自失の正儀に正気を与えたのは河野辺正友であった。すでに京極勢は南大和に向かって逃げ出している。
「あ、ああ……わかっておる。このまま一気に峠を駆け降りるぞ。皆の者、ついて参れ」
「うおお……」
楠木の兵と笹五郎らの野伏は、気勢を上げ、南大和に向けて峠を下った。
こちらは、金剛山の東の麓、佐味に布陣する京極軍。
「父上、一大事でございます」
「な、何があった」
嫡男、京極秀綱の声に、道誉が飛び起きて陣幕を捲った。
「水越峠が敵に襲われた模様。味方の兵が次々に山を下っているとのこと」
秀綱の言葉に道誉は目をむく。
「何、本当か。秀宗は無事か」
「消息はわかりませぬ。逃げる兵を追って敵が峠を越えて追撃してきておるようです」
「敵……敵とは誰じゃ」
恐る恐る道誉は問い返した。
「菊水の旗印。楠木です」
聞く前から相手が楠木であることはわかっていた。一瞬なりとも楠木に感じた不気味さに、道誉は素直に従えばよかったと後悔する。
「くそ、秀宗を助けよ。急ぎ出陣する。名柄に向かうのじゃ」
水越峠から続く山道を大和側へ出たところに広がる平地が名柄。道誉の陣より風の森峠を越えて一里ほど北である。
佐々木京極軍は慌ただしく支度を整え出陣した。
東の空がかすかに白くなるころ、少しずつ水越峠の状況が風の森に伝わる。敵は五百。楠木の郎党は少なく、身なりから察すると多くが野伏であること。楠木勢の中には若き棟梁と思しき者がいること。そして、道誉の次男、京極秀宗が討死したことであった。
「秀宗……くそ、楠木にこれだけの力があったのか……」
道誉は自問自答し、自らの判断を嘆いた。
その時である。
―― びゅっ ――
矢が道誉の耳をかすめた。
「なにっ」
―― ううぉぉ ――
風の森の木々の合間を縫って、兵たちの気勢が京極軍を貫いた。正儀が聞世の父、服部元成の伝手で集めさせた大和の野伏と武士たちの軍勢である。
夜が明け、あたりが明るくなる中、京極軍は峠道の左右から散々に矢を射掛けられ、道誉と嫡男秀綱が負傷するほどの手痛い敗北を喫する。そして、命からがら平田荘(飛鳥)へ向けて敗走した。
幕府本軍の総大将、高師直は愕然としていた。右翼を担う京極軍の敗走だけではない。見計らったように、公家大将の四条隆資率いる南朝本軍が、幕府軍に向けて猛然と進軍を始めていたからである。
その幕府本陣の中では、左翼を担う細川顕氏の郎党が、師直の前で片ひざを付いていた。
「我が主、陸奥守(顕氏)よりの言伝てにございます。伊勢の北畠軍が東から攻め上り、我が細川軍はこれを押えて戦となっております。敵の勢い凄まじく、陸奥守は、本軍の援軍を求めております。どうか、早急に援軍をお送りください」
細川の郎党は頭を低くして、師直に必死に訴えた。
「何、伊勢の軍も……進軍の動きはみられないとのことであったが……誤報であったというのか」
眉間に皺を寄せた師直が、手で顎の辺りを触りながら考え込む。
すでに右翼の京極軍が撤退し、ここに来て、左翼の細川軍は東から押し寄せた伊勢の北畠軍によって押されているという。そして、目の前には南朝本軍。昨日まで圧倒的優位な状況だっただけに、まるで狐につつまれたような気分であった。
脳裏に、自分を快く思っていない足利直義の顔が浮かぶ。
(ここでけちがつけば折角の手柄が台無しじゃ。今のうちに勝ち戦を手土産に凱旋するか)
南朝本軍を破っても、南帝(後村上天皇)はさらに南に動座することは目に見えている。そもそも、短期決戦用の大軍を、これ以上留め置くことも難しかった。
腹が決まった師直が顔を上げる。
「正面から南朝本軍が兵を進めておる。目と鼻の先まで来ておるとのことじゃ。すでに京極軍は撤退した。このような中で援軍を送るのは難しい。我らはこれより平田荘(飛鳥)へ戻る。その方も早う自陣に戻り、陸奥守(顕氏)に撤退するよう告げるのじゃ。早う行け」
師直は細川の使者を急かした。
「はっ。承知致しました。さっそく」
細川の郎党は師直に一礼して背中を向ける。
深めに被った兜の下には聞世の顔があった。当の北畠軍はいまだ伊勢である。聞世は、ふっと口元を弛め、急いで陣を出て姿をくらました。
高師直の退却に驚いたのは、本軍の左手に布陣していた細川顕氏である。何が起きたのかわからないまま、自軍の危険を悟って、顕氏も全軍に撤退を命じる。この動きに、武田信武や細川頼春ら他の諸将も慌てて撤退をはじめた。
帰路に着いた幕府本軍は平田荘(飛鳥)に向かうため、重阪峠を越えて、巨勢(古瀨)に足を踏み入れる。
率いる高師直の機嫌はすこぶる悪かった。だが、さらに機嫌を損ねることが起きる。
「御注進、巨勢川(曽我川)の河原に、南軍が陣を構えております。その数、およそ一千騎」
「何じゃとっ。何れの者か」
馬上の師直は斥候に泡を飛ばした。
「旗印から楠木と越智、後は野伏と思われます」
「楠木……どうして楠木がここに……」
さすがに師直も想定外であった。
水越峠を越えて大和に入った正儀は、敗走する京極軍を追って東に進軍していた。そこで聞世から幕府本軍撤退の一報を受ける。平田荘(飛鳥)に向かう幕府本軍は、重阪峠を越えて巨勢を通ると予見して、在地の武士たちと幕府本軍を待ち構えていたのであった。
―― びゅっ、びゅっ ――
正儀らは矢を放って幕府勢を足止めした。
「くそ、たかだか千騎じゃ。蹴散らせ」
目を吊り上げた師直の下知で、幕府軍の先駆け二百騎が土埃を巻きながら突っ込む。
しかし、正儀たちはまともに迎え撃つことはせず、兵を左右に雲散させる。そして、別の場所で軍勢を立て直して、再び幕府軍に矢を射掛けた。味方が来るまでの時間稼ぎである。
すると、ついには南朝本軍が巨勢に雪崩れ込み、後方から矢を射掛け始めた。
帰路にあった幕府軍の士気は低い。これも勘案した師直は、戦うことをあきらめ、南軍を振りほどくようにして、何とか平田荘(飛鳥)までたどり着く。そして、憂さを晴らすかのように、南朝方の寺々を焼き、南都(奈良)を経て京へ戻っていった。
四條畷の戦い以降、幕府方は数々の南朝の拠点を蹂躙し、吉野山の行宮までを焼き払った。南朝を恐怖のどん底に陥れた将軍家執事、高師直であるが、こうしてあっけなく南大和から追い払われたのであった。
幕府本軍が撤退した後、正儀は河野辺正友を伴い、南朝本軍の大納言、四条隆資の元に馳せ参じる。
その脇には大和の源氏、越智伊賀守家澄が控えていた。
傍らに正友を従えた正儀は、隆資らの前で片ひざ付いて頭を下げる。
「河内守が舎弟、楠木三郎正儀にございます。大軍に動いて頂き、助かりましてございます」
「楠木三郎……そうか、その方が虎夜刃丸であるか」
「わ、私めの幼名をご存じなのですか」
思わぬ言葉に正儀が顔を上げた。
すると隆資が感慨深げに頷く。
「あの時の小さき童がこのように立派な武将になろうとは……」
ここにも笹五郎と同様に、十七年前の出来事を知る者が居た。正儀は不思議な縁を感じざるを得なかった。
「幾つになる」
「ははっ。十九になります。四條畷で兄たちが討死したため、若輩者ですが、楠木の棟梁を継ぐこととなりました」
これに隆資が納得の表情で応じる。
「そのほうの策略、見事であった。我らが手をこまねいていた師直を一瞬で追い返すとは」
「ありがたきお言葉、痛み入ります」
少し頬を赤らめて頭を下げた。
まだ少年のように純真な正儀に、隆資の表情が固くなる。
「麿はそなたに謝らなければならん。そなたの兄、河内守(楠木正行)を助けてやれなんだことじゃ」
准大臣北畠親房とは対照的な態度に、正儀は驚いた。隆資も親房と同様に、名うての強硬派と聞こえていたからである。
「……いえ……戦にはそれぞれの役割がございます。大納言様に謝っていただくなど、滅相もございませぬ」
「いや、麿が謝りたいのは、戦が始まる前のこと。河内守の献策を後押ししてやらなんだことじゃ。四條畷で戦が始まってから、今日までずっと後悔しておった」
あの時の兄正行の悔しそうな顔が思い出された。急に目頭が熱くなるのを覚える。
「い、いえ、そのお言葉だけで十分にございます。兄も大納言様のお気持ちを嬉しく思うでしょう。どうか、後悔の念は今日をもってお忘れください」
「そなた……」
隆資は言葉を詰まらせた。
そこに、隣の男が進み出る。
「楠木殿、わしは越智源太(家澄)じゃ。そなたの父(楠木正成)とは、時に戦った仲ではあったが、こうして息子のそなたに助けられようとは思わなんだ」
「いえ、こちらの方こそ、越智の館の方々に兵を集めて頂き、かたじけのうございました」
「いや何の。それにしても昨夜から寝てないのであろう。少し、我が陣で休んでいけばよい」
「ありがとうございます。されど、東条はいまだ、北に高師泰が布陣したまま。いつまた攻め込まれるやも知れません。お気持ちだけ頂戴し、我らは急ぎ、東条へ戻ります。それでは、これにて失礼つかまつる」
一礼した正儀は河野辺正友を連れ立って陣を離れた。それは陣中に吹き込んだ春風の様でもあった。
去り行く正儀を見送りながら、越智家澄がつぶやく。
「河内守殿(正行)が討死し、楠木はもうこれで終ったと思うておりました。されど、楠木正儀……あのような若者がまだ居ようとは……」
「うむ、正行といい、正成の血筋は争えぬものよ。三郎正儀……我が朝廷にとって、楠木はますます大きな存在になるであろう」
隆資は安堵と不安、相反する感情が沸き立つことに、戸惑いを覚えていた。
この後、南大和から高師直を追い払い、一息ついた南朝は、正儀を従六位下、左衛門少尉に任じ、河内・和泉・摂津住吉郡の守護とする。正儀の将来性を高く買った大納言の四条隆資が、准大臣北畠親房ら他の公卿を説き伏せたためである。
しかし、幕府本軍が南大和から撤退しても、官位官職を与えられても、正儀に心休まる日は来なかった。高師泰の幕府搦手軍が、東条の楠木党とにらみ合いを続けていたからである。
師泰にしても河内を離れることができない事情があった。それは、細川顕氏の後を受けて、幕府から河内国と和泉国の守護に任じらていたからである。石川河原の砦を東条に対する向城として修復し、楠木党を殲滅して、本格的に南河内の支配に乗り出そうとしていた。
短期で終わると思われた楠木残党の掃討戦は、南北両朝の守護対守護の腰を据えた争いに、その様態を変えていくのであった。
二月二十三日、桜のつぼみがほころび、淡い紅の一片が顔を覗かせるようになっていた。
この日は兄たちの四十九日。しかし、石川河原の高師泰と対峙する正儀に、大そうな法要を行う余裕はない。正儀は楠木家の氏寺である観心寺に母久子、義姉の満子らを呼び寄せ、中院の老僧、龍覚の読経に、久子や満子らとともに手を合わせた。
ささやかな法要が終わると、正儀は中院の座敷で満子と向かい合う。
「三郎殿(正儀)、此度のご活躍、橋本の館にも伝わっておりますよ。きっと殿(楠木正行)も喜んでおられることでしょう」
満子は少し元気を取り戻したようであった。
それに引き換え、正儀の表情は冴えない。
「義姉上(満子)、御不便をおかけし……」
「いえ、多聞丸も御婆様(久子)も一緒ですから」
視線の先には孫と戯れる久子の姿があった。
「でも、三郎殿ならば、きっと石川河原の敵を追い払い、我らを東条にお戻しいただけますよね。吉報をお待ちします」
義姉は悪戯っぽく笑い、席を外した。
正儀はその言葉を聞いて、ますます憂鬱な思いを強くする。満子は、なぜ自分たちが橋本正茂の紀伊の館にかくまわれているか知らされていなかったからである。
多聞丸を連れて満子が席を離れている間に、正儀は正茂を傍らに据え、久子を呼んで現状を打ち明ける。
「先日、穴生の行宮に参内しました。朝廷では、今や内藤殿の裏切りが四條畷の敗因と、まるで事実のようなあり様です。このままでは、義姉上(満子)はおろか、楠木家にも咎めがあるやもしれませぬ」
内藤右兵衛尉満幸の裏切りに激怒した准大臣の北畠親房は、その娘である満子にも罰を求めていた。
沈んだ正儀の声に、二人の表情も曇る。
「厳しいことを申しますが、能勢の内藤家へお戻しされてはいかがか。満子殿にとっても楠木家にとっても、最善かと」
冷静な正茂に、正儀は色めき立つ。
「な、何を言われる……多聞丸はどうせよと言われるのじゃ。楠木家の嫡男ですぞ」
「心を鬼にして申せば、満子殿と一緒に能勢に行かれるのがよろしいかと存ずる。どこの家でも家督争いというものはございます。将来、多聞丸殿と、三郎殿(正儀)の御子の間で争いが起きるやも知れませぬ。本人同士にその気がなくとも、周囲が担ぐのです。北畠卿の命は、考え方によってはよい機会であったかも」
「そ、そんな……楠木に限って家督争いなど……」
数えで十九の正儀には、まだ見ぬ我が子と多聞丸の争いなど、想像もできなかった。
困惑した正儀が母、久子に目をやる。そこには、ただ黙って下を向く久子の姿があった。正茂の話を理解できるからこその沈黙だと思った。
穴生では、吉野山から大挙して逃げてきた公家たちが、いまだ、あちらこちらの民家に別れて暮らしていた。
伊賀局(篠塚徳子)もその一人である。昼は廉子が腰を落ち着けた堀信増の家臣の館に通い、夜は近くの百姓屋に泊まる日々であった。
「三郎様(正儀)、お待たせ致しました」
この日、突然訪ねてきた正儀に、つい、心をはずませる。
「御局様、かたじけない。それがしが北畠卿(親房)に穴生をお勧めしたばかりに、宮中の方々には御不便をおかけしております」
申し訳なさそうな正儀に、局がくすっと笑う。
「三郎様が謝ることではないではありませぬか」
「そうですか」
「そうです。吉野山は灰塵に帰しました。もう、我らはここに落ち着くしかありませぬ。北畠卿は、この穴生に御所を建てようと支度をはじめられたと聞きました」
「この地に御所を……」
そう言って、正儀は何もない山間の里をぼんやりと見渡した。
その覇気のない表情に、局の心にもさざ波が立つ。
「何かございましたか」
「実は……」
正儀は義姉、満子の件を、掻い摘んで、伊賀局に打ち明ける。
「……以上のような仕儀にて……准三后様(阿野廉子)から北畠卿(親房)に御口添えを願えないでしょうか」
すると、局が表情を曇らせる。
「三郎様、御心中、お察し致します。准三后様から御口添えできればよいのですが……生憎、北畠卿と准三后様は難しい間柄にございます。残念ながら御力にはなれぬでしょう」
建武の御代の、隠岐派と大塔宮派の対立は、形を変えて今も続いていた。宮中の人間関係に疎い正儀が、初めてそれに触れた瞬間であった。
「まだ義姉上様(満子)にはお話しになられていないのですよね。正直にお話しされてはいかがでしょうか」
「そ、それは……」
反論を試みようとした正儀であったが、次の言葉が出てこない。二十歳にも満たぬ若者に、人の機微を察した妙案など浮かぶはずもない。結局、伊賀局に背中を押され、正直に満子に伝える事を決める。
日を改めて正儀は、再び、紀伊国橋本にある橋本正茂の館を訪ねた。館では、母の久子と義姉の満子に出迎えられる。
「三郎殿(正儀)、こちらへ」
「いえ、九郎殿(正茂)、それがしはここで」
家主の正茂から上座を勧められるも、正儀は下座で久子と満子に向かい合った。ふと庭に目をやると、侍女の福が多聞丸を遊ばせていた。正儀は険しい顔のまま多聞丸を目で追った。
さすがに満子も何かを悟ったようである。
「何かございましたか」
「義姉上、申し訳ござらん。実は……」
意を決した正儀は、正直に北畠親房の命を伝えた。
すると、満子の顔から、すうっと表情が消える。
「そうですか……そのようなことがあったのですか。それで、私はここにかくまわれていたのですね……」
「義姉上を御救いするには、能勢の御父上(内藤満幸)の元に戻っていただくしかありませぬ。それがしに力がないばかりに……申し訳けございませぬ」
神妙な顔で正儀は手を突いた。あとは無言である。
対照的に庭で無邪気に声を上げる多聞丸に、満子が目をやる。
「あの子は……多聞丸はどうなるのでございましょう」
問われても、正儀は答えることが出来なかった。
「母子別れて暮らさせるのは忍びない。御父上の元へ連れて行かれるがよい」
見かねて久子が口を挟んだ。
気遣う久子に、満子は首を横に振る。
「三郎殿、もし、多聞丸が楠木に残れば……多聞丸は楠木の跡目を継げるのでしょうか」
重い口を開こうとする正儀を、正茂が遮る。
「満子殿、三郎殿が跡目を継いだ今となっては……」
しかし、正儀は意を決し、正茂を制して身を乗り出す。
「多聞丸が跡継ぎで間違いありませぬ。それがしの養子として、いずれ家督を多聞丸に譲りましょう」
「三郎殿っ」
そう言って正茂が厳しい表情を向けた。
母、久子もぎょっとして目を合わせる。
「三郎、本当にそれでよいのですか」
「家督を兄者(楠木正行)に御返しするだけのことでございます」
皆の心配を軽く受け流した。当然のことを言ったまでである。若い正儀は、それ以上、深く考えることができなかった。
「三郎殿、私はこれで安心して能勢に戻れます。あの子を……多聞丸を、何卒、よしなにお願い申し上げます」
両手を突いた満子は、涙声で頼み込んだ。その両肩は震えている。久子はそんな満子の背中から覆い被さるように抱き締めて一緒に泣いた。
庭では多聞丸が館の中の母の様子に気づき、遊ぶのを止めて心配そうに見つめていた。
桜の花もすっかり散り、まぶしい若葉に置き換わった頃であった。満子が摂津国能勢に戻る日がやってくる。正儀は津熊義行を伴って、紀伊の橋本正茂の館に来ていた。目の前には、旅支度を整えた満子と侍女の福が居た。
「義姉上……すまぬ」
正儀は目を潤ませて頭を下げた。漢と言うにはほど遠い、心細やかで多感な男であった。
「三郎殿(正儀)、九郎殿(正茂)、多聞丸を何卒、何卒よしなにお願い申します」
満子も深々と頭を下げる。泣くでもなく、怒るでもなかった。その顔は、翻弄される自らの人生を、ただ、受け入れたがごとき表情である。
多聞丸は正茂の妻が外へ連れ出していた。東条が高師泰の軍勢に脅かされる中、多聞丸はこのまま橋本家に預けられることになった。そして、いずれ状況が整えば正儀が引き取ることとした。
傍らに侍女の清を伴った久子が、満子の前に歩み寄る。
「満子殿、申し訳ない気持ちで一杯です。でも、そなただけを楠木から追い出すようなことはさせませぬ。私も楠木家を出ます」
久子の話は、満子はもとより、正儀や正茂にとっても初耳であった。
「満子殿に対し、楠木家が行ったことに対するけじめです。私は髪を落とし、庵を編んで住もうと思います」
「義母上様……」
表情を失っていた満子が、堰を切ったように、ぼろぼろと涙を流した。
久子は、そんな嫁の手を握り、耳元に口を近づける。
「お腹の子を大事になさいませ」
囁く久子に、満子がはっと顔を上げる。
子を生んだ者にしかわからぬことであった。
一方、正儀の隣では、義行が福に別れを告げていた。
「福殿……御達者で」
「津熊様も」
義行にとっても辛い日である。それは、まだ恋とも言えぬ、儚く淡いものであった。
満子は郎党に轡を引かれた馬の背に乗り、侍女の福とともに、摂津国能勢の実家へと戻って行った。
その後、宣言通り久子は髪を降ろして敗鏡尼と名乗り、生まれ故郷の甘南備に庵を結んだ。
三月十八日、幕府方の河内守護として、石川の向城に腰を落ち着けた高師泰は、再び東条攻略のため、兵を差し向ける。
対する正儀は、美木多助氏を向かわせて、佐備谷口でこれを迎え撃った。徐々に勢力を盛り返した楠木の防衛線は強固で、簡単に突破することは難しかった。
翌月の四月二十六日、東条の北の守りが硬いと悟った師泰は、今度は南から攻めようとする。河内南端の天野山や仁王山に向けて、和泉の諸将に出陣を命じた。そして、楠木の支城である仁王山城を攻撃する。対する正儀は、赤坂城や龍泉寺城から諸将を引き連れて出陣し、これと戦って何とか幕府勢を撃退した。
さらなる月を迎えても南河内の戦火は収まる気配はない。
五月十五日、幕府方の和泉豪族、淡輪助重が、突如、槇尾山の麓、橋本正高が支配する宮里城を襲って焼打ちにした。
しかし、正儀も単に手をこまねいているわけではない。翌日、一門の安間余一が紀伊の援軍を率いて駆け付けると、石川河原に討って出る。そして、高師直・師泰兄弟の舎弟、高師茂と戦って、これを破った。
この月の二十五日は父、楠木正成の十三回忌。だが、石川向城の高師泰と対峙する正儀に、大そうな法要を行うことは許されなかった。
幕府は、なかなか攻略できない東条に対し、別の手立てを講じる。
長雨が終わった京の都。湿気に被われた鷹司東洞院第に一人の若者が出陣の挨拶に訪れる。
上座には征夷大将軍の足利尊氏。左手前には副将軍の足利直義が座っていた。
その二人の前で若者が頭を下げる。
「これより紀伊の南軍討伐に赴きます。足利の名に恥じぬよう、必ずや敵を討ち果たす所存。そして紀伊討伐の暁には、楠木の東条をも落してご覧に入れとうございます」
その目は希望に溢れている。名は足利直冬、御年二十三歳。正儀より四つ歳上であった。
「そなたは東条には手を出すな。楠木の新たな棟梁となった虎夜刃丸……いや楠木三郎は、高師直を撤退に追い込んだのじゃ。只者ではない」
意気込む直冬に釘を刺したのは尊氏であった。
しかし、この若者に臆する風はない。
「奴は四條畷の戦の後、突如、現れたと聞きおよびます。それがしもこれまで名を知られることもなく、遅かりし初陣ですが、この日のために鍛錬を怠ったことはありませぬ。正儀が楠木正成の血を受けた者であれば、それがしとて足利尊氏の血を受けた者。きっと父上の名に恥じぬ働きができるものと存じます」
その言葉に尊氏の眉端がぴくりと動く。
「直冬、そなたの父はそこに控えし直義ぞ。直義のもとに養子に入りしその時より、わしはそなたの父ではない。これからは将軍と呼ぶのじゃ」
「はっ、申し訳ありませぬ。将軍……」
希望に満ちた目は、一瞬で曇った。
直冬の幼名は新熊野丸。尊氏が一夜の関係をもった女との間に生まれたとして、突如、その前に現れた子である。確信を持てぬ尊氏は、新熊野丸を実子として認知することはなかった。だが、これを不憫と思った舎弟の直義が養子として迎える。当時、直義には妻との間に子ができず、足利の血を引くと信じて、直冬を己の跡継ぎにしようとしたからであった。
「東条が落ちぬのは、紀伊の支援があるからじゃ。先日も紀伊の援軍を受けた楠木が、石川河原に進軍し、高師茂の嫡男、師義を討ち取った。紀伊の南軍を討って、東条を孤立させることが重要じゃ。わかるな」
尊氏は噛んで含むように言った。
「はい、承知しております」
「では、わしの下知に、一つ一つ結果を出していくことじゃ。そなたはこれより東寺に入り、兵を整えて紀伊に向かうがよい」
「ではさっそく……失礼つかまつります」
直冬は硬い表情のまま下がっていった。
足利尊氏の傍らで、終始無言であった足利直義は、直冬の姿が見えなくなるのを待って口を開く。
「兄上、もう少し優しい言葉をかけてやってはどうじゃ」
「直義、前にも言うたが、わしは直冬を息子とは思うておらん。わしの嫡男は義詮じゃ。それを奴にわからせねばならん」
「直冬は足利棟梁の血筋にも係わらず、存在を無視されて育ったのじゃ。ここで意気込むのも無理はなかろう。兄上はあの子が不憫じゃと思わぬのか」
直義は冷徹な実務者である反面、情に脆い側面もあった。
「突如、目の前にあらわれて息子じゃと申されても、そのようには思えん。例えそうであったとしても、時として、血を分けた親子こそ始末に負えんこともある。わしは直冬をそなたの養子とすることにも反対であった。それを知らぬ間にお主が引き取るから苦労が増えるのじゃ」
「兄上、言葉が過ぎますぞ。直冬をそこまで憎まなくてもよろしかろう」
「憎んでおるのではない。もうよい。今更、詮無きこと。紀伊討伐が失敗せぬよう、お前がよき参謀を選んで付けてやれ」
そう言うと、尊氏はすくっと立ちあがり部屋を出て行った。一方、残った直義は、兄の分までも深い溜息を洩らした。
六月十八日、直冬は紀伊に向けて出陣する。そして、当地の南朝勢力と攻防戦を繰り返しながら紀伊各地を転戦した。
三ヶ月後の九月二十八日、湯浅定仏の阿氐河城(阿瀬川城)など紀伊の城を次々と落とし、大きな戦果を手土産に京に凱旋する。
意気揚々と将軍御所に入った直冬は、居並ぶ諸将の視線を浴びながら、将軍、足利尊氏に戦功を報告した。そして、諸将が向き合う席で、鼻高々に養父、足利直義の横に座ろうとしたその時である。
「直冬、お前の席はそこではない。師直、案内せい」
そう言われ、直冬は呆然と周りを見渡した。
「佐殿の席はこちらです。さ、どうぞ」
執事の高師直がそう言って手で示したのは、諸将の末席であった。佐殿とは官職の左兵衛佐の末字をとった直冬の通称である。
これに直冬は、憮然として立ち尽くす。
養父の直義も驚き、身を乗り出す。
「兄上(尊氏)、これはどういったことじゃ」
「直義、そなたの子であろうが、今は初陣を済ませたばかりの若い一介の武将。将軍の跡継ぎでもないのに、歴戦の勇者の風上に座ろうとは何事ぞ。お主も、そのあたりはしかと教えねばならん」
単なる一門衆であれば尊氏の言い分は一理ある。直義は苦々しい顔をして口を閉じるしかなかった。
当の直冬はみじめであった。下手に将軍の血を引いていることが余計に恥ずかしい。その瞳には高師直、佐々木京極道誉、仁木義長ら諸将が、蔑んだ笑みを浮かべているように映った。
事実、将軍御所に直冬の居場所はなかった。特に尊氏の正室、赤橋登子の視線は特別冷たい。登子は直冬とすれ違っても、眉一つ動かすことなく、存在自体を無視した。
自然と直冬は、将軍御所に足を運ぶことは少なくなっていく。
一方で、養父の直義は元より、引付方頭人の桃井直常や、伯耆守の山名時氏ら実力派武将は、直冬の能力を高く評価していた。
このことは、実力とは関係なく、尊氏が自分を冷たくあしらっているという認識を植え付けるに十分であった。
実子の直冬に厳しい態度を見せる足利尊氏であったが、別の顔も合わせ持っていた。
九月末、尊氏は将軍御所に摂津の国人、池田九郎教依を呼び寄せる。
「将軍、此度のお召し出し、何事でございましょうや。戦の命でございますか」
教依は、尊氏の傍に控える執事の高師直を、ちらっと見てからたずねた。
「いや、そうではないのだ。手間を取らせてすまぬのう。兵庫助(池田教依)は奥方に先立たれて、どれくらい経つ」
意外な問いに教依は戸惑う。
「はあ、もう二年になります」
「そうであるか。今日、兵庫助に来てもろうたのは、そなたに後妻を紹介したくてな」
「斯様なことでお気使いいただき、かたじけのうございます。されど、将軍自らが、それがしを呼んで縁談を紹介されるとは、何事かあるのでございましょうや」
思わぬことに、教依はいぶかしがった。
「兵庫助は、武勇だけでなく、頭も切れると見える。実は紹介したい女子とは、内藤右兵衛尉(満幸)の娘じゃ」
そう言って、尊氏は教依をじっと見据えた。
「内藤殿といえば、能勢でございますな。我ら池田の所領にも近うございます。ただ内藤殿は南軍におったため、これまで付き合いはあまりございませなんだが……」
「右兵衛尉(満幸)の娘は、南軍の楠木正行に嫁いだが、此度、満幸が幕府に味方したため、その娘は楠木を追われ、満幸の元に戻っておる」
敵方である楠木の名に教依は戸惑う。
「何と、その女をそれがしの嫁に、というのですか」
「左様。ただその女は右兵衛尉の元に戻った時には、すでに腹の中に子がおってな。先日、男児が生まれたばかりじゃ」
満子は父、満幸のもとで生まれた子に、美勝丸と名付けていた。
「男児を生んだと。それは正行の子ではありませぬか。これは由々しきことと存じます。その子をどうされるのですか」
厳しい表情で教依はたずねた。
「まさにそのこと。わしは、その女と男児を、そなたの後室として、また養子として、そなたにどうかと思うておる」
驚くべきことを尊氏は淡々と言った。
あまりの展開に、教依は息を呑んだ。
「その子は仇の大将の子ではありませぬか。なぜに助けようとされますか」
「わしは楠木を仇とは思うておらん。楠木正成殿は尊敬する御仁じゃ。敵味方として戦うことになったのは不本意であった。それは正成殿とて同じであったであろう」
傍に控えた師直に目をやりながら、尊氏はさらに話を続ける。
「されど、吉野(穴生)に朝廷がある限り、楠木は南朝の主軍として我らと戦わなければならんであろう。幕府はいずれ楠木家の息の根を止めるやもしれん。わしの手で、正成殿の血筋を断つのは忍びない。楠木の血筋を残してやりたいと思うておる」
その身勝手な理由に、さすがに教依は唖然として言葉を失う。なぜ己が巻き込まれなければならないのか、という思いであった。
終始、沈黙していた執事の師直が口を挟む。
「お主に白羽の矢を立てたのは、四十近くなっても子がおらず、妻にも先立たれたからじゃ。このままでは池田の家にとっても由々しきことであろう。いずれどこからか養子をもらうのであれば、将軍の縁談を受けるのが池田の家のためになろう。楠木の血筋も残してやりたいが、池田の家も残してやりたいという将軍の思いやりぞ」
そう言って師直は教依に睨みを利かせた。
「兵庫助、どうであろうか。この将軍の頼みを聞いてくれまいか」
そう言って尊氏は頭を下げた。
「しょ、将軍、頭をお上げください。されど、それがし一人では決められませぬ。身内とも話をしとうございます。暫し、お返事を待っていただくことはできましょうや」
今、教依にできる精一杯の反抗であった。
「もちろんじゃ」
尊氏はにこやかに言葉を返すが、師直は威圧するように言葉を足す。
「祝儀は領地一万石じゃ。されど、断れば池田の領地は減ることにもなるやも知れぬ。いや、賢明なそなたのこと。まさかそのようなことにはならぬであろう。よき返事をまっておるぞ」
「はっ、ははっ」
教依が抗うことは事実上、不可能なことであった。
しかし、真に憐なのは満子である。愛する夫が亡くなり、追い討ちをかけるように内藤家に戻された。そして子を産み、今度は嫁に出されるのである。自らの意志を主張する場など砂粒ほどもなかった。
楠木本城である赤坂城の正儀の元に、神宮寺正房が登城した。正房は四條畷の戦で深傷を負い、神宮寺城に逃れた。しかし、そこも高師直に落とされ、一族の元に逃れて療養していた。
本丸の陣屋に入った正房は、申し訳なさそうな顔で断ってから、痛む足を投げ出すようにして、正儀の前に座る。
「三郎殿(正儀)、無作法、御許しあれ」
「小太郎殿(正房)、気になさらず。それで、足はどうですか」
「御心配をおかけ申した。傷も大夫よくはなりました。まだ戦場に出るのは難しいが……」
そう言って傷む足を押えた。
「小太郎殿、無理は禁物じゃ。身体がよくなるまで戦には出ぬ方がよい。しばらくはこの城に居て、それがしを助けていただけないか」
「助けるとは……」
「家宰の代わりじゃ」
楠木家譜代の家宰、恩地左近満一とその嫡子、満重親子は、高師直の軍勢と戦って討死していた。残った次男、恩地満信は年少のため、楠木の家政を宰領できる年長者が居なくなっていた。
「それがしはこのありさまゆえ、役に立てることがあれば何であれ力になりましょう」
正房は快く正儀の求めに応じた。
この度の幕府軍の南河内、南大和の侵行で深い傷を負ったのは人ばかりではなかった。
年が明けた正平四年(一三四九年)春。准三后、阿野廉子は伊賀局と妙を伴って、穴生から吉野山に入った。目的は先帝(後醍醐天皇)が眠る塔尾陵である。
「話には聞いておりましたが、これほどまでとは……」
吉野山に着いて輿から下りた廉子は、あたりを見渡して声を詰まらせた。
吉野山は、示現の宮、七十二間の回廊、三十八の神楽屋、宝物蔵、竈殿、さらには吉野山の象徴である蔵王堂まで、ことごとく灰塵に帰していた。
「本当に……ここで暮らしていたのでしょうか……」
あまりの状況に、伊賀局も茫然と立ちつくすことしかできなかった。
しかし、そんな吉野山の痛々しい傷を癒やすように、見事に咲いた桜が灰塵を包み込んでいた。
廉子は、目の前の桜の花を手折って歌を詠む。
『みよし野は 見しにもあらず荒れにけり あだなる花はなほ残れども』
そして花びらを、歌の師でもあった宗良親王への手紙に添える。
親王は先帝の第四皇子で、帝(後村上天皇)の異母兄である。朝廷が吉野に移ってから、南朝勢力を拡大するために、東海に下向していた。今は、遠江国の井伊谷から、信濃国の大川原に拠点を移し、信濃宮と呼ばれるようになっていた。
四月二十六日、正儀は、河内の長野荘へ攻め入った幕府方の河内守護、高師泰と戦い、これを何とか撃退していた。四條畷の戦いから一年以上経つというのに、いつ終わるとも知れない戦いが続いていた。
退却していく高師泰の軍勢を、具足(甲冑)姿の正儀が津田武信とともに目で追う。
「当麻(武信)、これで何度目であろうな」
「そうですな、先月は佐備谷口、寺田、山田で、今月に入ってからも日野、高岡、そして今日は長野。まったく、敵も飽きることなくよくやる」
そう言って武信は溜息をついた。
正儀は師泰の立場になって考えてみる。
「敵は、我らが内から崩れていくのを待っておるのやも知れぬな。兵を挙げても我らが出張って戦が始まれば、潮が引くように兵を引き上げる。何度も何度も繰り返しじゃ。一族の諸将も早く自らの所領に帰りたいであろう。こちらが疲れて士気が落ちたところを大軍で攻め落す……そんなところか」
「であれば、いかがなされます。こちらから討って出ますか」
さすがに武信も、長く続く戦に、疲労の色を濃くしていた。
「いや、疲れて士気が落ちるのは向こうも同じであろう。今は我慢比べじゃ。それと気になる話も伝わってきておる」
「と申しますと」
興味深そうに武信が正儀に顔を向けた。
「副将軍の足利直義と、執事、高師直の確執じゃ。我が方に寝返った者の話では、紀伊討伐に出向いた直義の息子、足利直冬の援軍要請を、師泰はにべもなく断ったという。背景に、副将軍と執事の仲違いがあるという噂じゃ。京に入った小波多座の治郎殿(服部元成)の話とも一致する」
「なるほど、それは面白いですな。それを聞くと、師泰と対峙するのも張り合いが出て参ります」
津田武信は幼いときから向こう気が強い。冷静な河野辺正友とともに、正儀の足りないところを補ってくれる頼もしき側近であった。
その年の六月、京の四条河原で、四条大橋再建のための大規模な勧進田楽が行われる。
田楽とは、もともとは田植え踊りなど豊作を祈る農民の歌舞である。後に田楽法師が現れ、曲芸も組み入れて独自の芸能として発展していった。公家や武家の上流階層にも愛好者が多かったため、この頃、猿楽に比べて格式高く扱われている。
ここに戦傷もすっかり癒えた佐々木京極道誉の姿があった。歌舞音曲に通じた婆娑羅大名の道誉が、比叡山三塔貫主の梶井宮院法親王、北朝の関白二条良基、そして将軍足利尊氏を連れ立って、中央の桟敷(客席)に陣取っていた。
「将軍、大そうなものでございましょう。これを観るだけでも来た甲斐があったというもの」
道誉は、四条河原に造られた百間を越える三階建ての長い桟敷を手で示した。
「うむ。わしも楽しみにしておったが、弟(足利直義)に、北条高時がごとく田楽狂いにはなるなと釘を刺されておるのでのう」
「相変わらず、三条殿(足利直義)はお堅い。元はといえば、三条殿が普請の金を出さなかったので、こうして田楽で金を集めておるのですぞ」
道誉は、婆娑羅に厳しい直義の話になると憮然とした。
近くの桟敷には、京に滞在していた竹生大夫こと服部元成と、その息子、観世大夫こと服部清次の姿があった。
「あそこに居るのが将軍、その隣が佐々木道誉、向こうには関白二条様じゃ。よく覚えておくがよい」
父、元成の耳打ちにも、観世はうわの空であった。猿楽ではあり得ない大規模な興行と、皇胤門跡や関白、将軍までもが観にくる格式の高さに驚き、沸々と悔しさが込み上げていたからである。
観世がここに来た目的は、田楽名人と言われる本座の一忠を観るためである。
最初の演目は、その一忠と新座の花夜叉の立合、つまり、二人が同時に演舞して勝ち負けを競うものであった。
舞台に上がった一忠と花夜叉が、笛や太鼓の音色に合わせて、同時に舞いはじめる。
『恨みは末も通らねば……』
曲が進み、佳境に入ろうというとき、一忠は突如、扇を取り出し、咳払いをしてからゆっくりと扇ぐ。
段取りにはない、この一忠の動作で平常心を乱された花夜叉は台詞を間違える。奏楽が終わり、花夜叉が真赤な顔をして小走りに舞台を下りると、一人、舞台に残った一忠は拍手喝采を浴びた。
「これが京の田楽……」
一忠の態度もさることながら、観世は、猿楽とは異なる腰鼓や太鼓の音曲、踊り手たちの編成、華美な装束などに見入った。
演舞も終盤、猿の面をつけた稚児の曲芸が始まる。観客たちはおおいに盛り上がり、稚児が宙を舞ったところで観客は総立ちとなった。
まさにその時である。みしみしという音に人々の動きが固まった。続いて観世は、宙を舞う感覚に包まれる。
(何が起きている)
そう思った時には、すでにことが終わった後であった。桟敷が観客の重みに耐えかねて崩れたのである。あたりは白い土煙が立ち上がり、土の臭いが立ち込めていた。
「ち、父上(元成)、大丈夫でございますか」
「あ、ああ、大丈夫じゃ……おい、観世、どこへ行く。おい……」
倒れた父を助け起こすと、観世はすぐに中央の桟敷に向かった。尊氏は近臣に抱き抱えられるように立ち上がると、すぐに現場から離れた。だが、梶井宮と二条良基、道誉は木切れの下敷きになっていた。
観世は周りの者を指図して素早く木切れを除いて、三人を始め観客を助け出した。梶井宮は腰を押さえてうずくまっていたが、二条良基と道誉はかすり傷程度であった。
道誉はその場に座り込み、大きく息をしながら観世に顔を向ける。
「助かった。礼を申すぞ。その方、名は何という」
「観世大夫と申します」
「その方も、田楽師か」
「いえ……猿楽でございます」
隣の二条良基にも手を貸しながら、観世は答えた。
「何じゃ。猿楽師か」
蔑むような道誉の言葉に、観世が顔を上気させる。
「猿楽はお嫌いですか」
「猿楽は品というものがない」
その言葉が観世の胸に突き刺さる。
「いずれ……いずれ、私めが、猿楽を田楽以上の芸能にしてみせましょう」
そう言うと、観世は立ち上がって一礼し、その場を後にした。
「猿楽を田楽以上に……か」
ふふっと口元を緩め、道誉は観世の後姿を目に焼き付けた。
この日の勧進田楽は、桟敷の半分以上が壊れ、百人あまりの死者が出るという大惨事であった。
そもそもこの年は、正月から不吉なことが重なっている。清水寺では、坂上田村麻呂ゆかりの将軍塚から不気味な音が聞こえ、伽藍が炎上した。さらに男山八幡宮の宝殿も唸りを上げたという噂である。人々は、恨みを持って亡くなった護良親王たちが、大天狗となって世に騒乱の種を撒いていると噂した。