第15話 四條畷の戦い
正平二年(一三四七年)十一月末、にわかに京の町を寒波が襲った。町屋や寺社仏閣、公家や武家の屋敷までもがぴんと張り詰めた空気に覆われる。
「まさか、あの山名殿が負けるとは」
瓜生野での幕府軍の大敗は、京の町人たちにとっても予想外であった。
「吉野方は京へ攻め上ってくるらしい」
「悪党楠木がくれば、何をしでかすかわからん」
「きっと京の町は燃やされるぞ。早く逃げねば」
口々に楠木の恐ろしさを語った。楠木党には、かつて宇治を火の海とした前科があったからである。
京の町人以上に、幕府には緊張が走っていた。将軍御所の鷹司東洞院第で敗戦の報に触れた征夷大将軍の足利尊氏、副将軍の足利直義、執事の高師直の三人は言葉を失う。
これまでも楠木正行に連敗していた幕府だが、どこか余裕を持ってこれを見ていた。だが、満を持して送った猛将、山名時氏は、舎弟を討ち取られ、自身も深傷を負った。さらには多くの兵を失ったと聞けば、顔色が変わるのも当然であった。楠木軍が渡辺橋で山名・細川の兵を助けたという美談も、楠木の余裕を感じさせた。
広間の上座に腰を据えた尊氏は、いつものおおらな顔とは違う表情を直義と師直に見せる。
「楠木の強さは本物じゃ。このまま付け上がらせば、諸国の吉野方は勢い付き、元弘の折の二の舞となろう」
元弘の折とは、先帝(後醍醐天皇)の綸旨を得て、楠木正成が鎌倉幕府を翻弄した時のことである。
「次はそれがしが、舎弟の師泰とともに参りましょう」
口元に力を込めた師直の進言に、尊氏がゆっくりと頷く。
「うむ、小軍と敵を侮ることなかれ。万全を喫して掛かるのじゃ」
「承知しております」
師直も神妙に応じた。
一方、直義はその隣で眉根を寄せて沈黙していた。この度はいっさい口を挟まない。口惜しいことではあるが、幕府の威厳を保つには、師直の出陣が最善であった。
尊氏は、先の戦に続いて、細川顕氏、佐々木六角氏頼、赤松範資に出陣を命じた。加えて、佐々木京極道誉、仁木頼章、武田信武、今川範国、千葉貞胤らにも下知した。
南軍の将、楠木正行は、瓜生野の勝利に一息つく暇もなく、吉野山の行宮に呼び出される。数人の郎党とともに正儀をも連れて吉野山に入った。来るべき日のため、若い弟になるべく多くのことを伝えておきたいと思っていたからである。
一行が吉野山に入ると、その勇姿を一目見ようと、多くの人たちが集まった。凍てつく寒さにも関わらず、公家や官女、近隣の住人までが、黒門(山門)から、行宮としている金輪王寺までの間を埋め尽くす。
この騒ぎに、正儀は困惑の表情を浮かべながら、正行の後に続いて馬を進めた。
「三郎様(正儀)」
自分を呼び止める声に正儀が振り向くと、侍女の妙を連れた伊賀局(篠塚徳子)の姿があった。
兄の元を離れた正儀は、局の側に馬を寄せてから飛び降りる。
「これは御局様。この人出、いったい何が……」
「まあ、おかしな御方……」
紅の口から白い息を吐いて笑う。
「……皆、三郎様(正儀)たちを一目見ようと、集まったのですよ。何と言っても、大勝利の立役者ですから。河内守様(正行)を存じ上げていると言うただけで、私までもが、ちやほやされる始末です」
伊賀局は自分のことのように喜んでいた。
「それはありがたい。じゃが、これからが問題でござる。太郎兄者は北畠卿(親房)に召し出された」
その口調から、局は得心の表情を返す。
「北畠卿……お苦手なのですね」
「い、いや、それは……」
見透かされたかと正儀は口籠った。
一方、正行に熱い視線を送っていたのは、弁内待(日野俊子)である。
「河内守様」
雑踏に掻き消されそうなか細い声であった。
しかし、正行はその中から自分への想いのこもった声を聞き分ける。いったん馬を止め、馬上から深々と会釈して、再び馬を進めた。
ただ、それだけのことである。だが、弁内待の顔は、夕日に染まったかのごとく赤らいだ。
一行が行宮としている金輪王寺に入ると、役人から、正儀と郎党は遠侍で待つようにと命ぜられる。遠侍とは警備の武士の詰所である。
一人、束帯に着替えた正行だけが廟堂へ進むと、准大臣の北畠親房が、寒さに抗うように、背中をぴんと伸ばして待っていた。向かい合うように大納言の四条隆資、権大納言の洞院実世も座して、正行に視線を向けた。
親房が、手に持つ扇で正行に座る場所を示しながら口を開く。
「河内守(正行)、幕府は高師直を総大将として男山八幡に出陣させた。諸将にも出陣を下知した。五万の兵を集めようとしているとの話もある」
その話にも、正行は慌てることもなく、静かに腰を下ろし、両の拳を床に着いて深く頭を下げる。
「御意」
京に放った透っ波から、すでに知らせは入っていた。
親房は正行の落ち着いた様子を見て話を続ける。
「対する我が方は、四条大納言の元に一万、河内守が三千。そして伊勢より我が息子の顕能が兵を纏めて出立の支度をしている。およそ五千にはなろう。占めて一万八千というところか」
一万八千と言うが、公家大将の隆資の元に集まる兵は野伏や百姓などの寄せ集めである。戦力にならないことはわかっていた。
「じゃが、戦は数ではありますまい。のう河内守」
実世に同意を求められた正行は、難しい表情を返す。
「いえ、今度の幕府軍は、執事の高師直が率いる幕府の中核。これまでの戦のような訳には参りませぬ」
「弱気じゃのう。河内守」
同意を得られなかった実世は、不機嫌そうな顔で目を反らした。
「さて、武家方はどちらから攻めてくるか」
四条隆資の視線の先には、中央に生駒連山を描いた絵地図が置かれていた。どちらから、というのは生駒の西側を南下してくるか、東側を南下してくるかという意味である。
すると、親房は自信ありげに、一同を見回す。
「兵を生駒の東西に配置するのが良策であろう。四条様には一万の軍勢を率いて鳴川峠の東に陣を敷いていただく。河内守の三千は鳴川峠を挟んで東に配する。東であろうが西であろうが、峠を越えればすぐに両軍は合流できよう」
すまし顔で親房が軍略を披露した。しかし、正行は難しい表情を崩さない。
「それがしの意見は異なります。少ない戦力を生駒の東西に分ければ、ますます勝ち目はございませぬ」
「峠を挟んで陣を敷くのじゃ。合流すればよいであろう」
「いえ、細い峠道では一列になって進軍せざるを得ません。時がかかるとともに、敵の別働隊が山の中に入って側面を突ければ、一気に崩れてしまう恐れがあります」
「ではどうしろというのじゃ」
だんだんと不機嫌になる親房に、正行は絵地図ににじり寄り、扇の先で生駒連山の南、金剛山を示す。
「千早城でございます。ここに幕府軍を釘付け致します」
隆資が、ぽんと自らの手を打つ。
「元弘の戦の再現じゃな」
「御意。幕府の狙いは我が楠木党でございます。必ずや生駒の西を南下し、我が拠点である東条に攻め込むでありましょう。我らは千早城に籠城し、敵を引き付けとうございます」
正行は、紀伊勢との戦を皮切りに、河内・摂津へ侵攻して幕府軍を翻弄した。そして次は千早城。まさに父、楠木正成が辿った道である。
「で、麿は……」
「四条大納言様におわしましては、一万の兵で大和の二上あたりに陣をお敷きください。千早城を取り囲んだ幕府軍に対して、背後から攻めていただきとうございます。攻めては引き、引いては攻め、幕府軍を翻弄していただく。さすれば兵糧も断たれ、敵は疲弊して撤退せざるを得なくなります」
「なるほどのう」
納得顔で隆資は大きく頷いた。
しかし、親房は顔を顰める。
「河内守の策は、武家方(幕府軍)は必ず千早を目指すと決めつけておる。だが、生駒の東を通って吉野山の行宮を狙ってくるやもしれぬ。また、生駒の西を通っても、途中で吉野山へ向かうかもしれぬ……」
そう言ってから親房が、ぎっと顔を向ける。
「……もし、幕府の軍勢が吉野山へ進軍してきたら何とする。御上(後村上天皇)に万が一のことがあってはならんのじゃ」
「いえ、吉野山は大丈夫でございます。東には北畠右衛門督様(親房の三男、顕能)が率いる五千が控えております。四条大納言様の一万を正面に、西に我ら楠木党がおりますゆえ、いきなり吉野山の行宮を攻めることはできませぬ。それがしが高師直ならば、先に東西の憂いをなくすでありましょう」
軍奉行のように軍略を述べる正行に、親房はかつての楠木正成の顔を思い出す。武士は公卿の命で動く駒であるべきというのが親房の持論である。その武士から、逆に意見されることは、認め難いことであった。
「いや、御上の目と鼻の先で、そのような賭けはできぬ。戦は行宮から離れた北の地で行うべきであろう。河内守の策は、いささか稚拙じゃ」
戦に関して稚拙と言われては武家の面子は丸つぶれである。正行は恥辱に耐えながら言葉を選ぶ。
「東西の敵をそのままに、隙だらけで吉野山を窺うようなことを、あの戦上手の高師直がとりましょうや。敵を千早におびき寄せて釘付けにすることこそ、少ない兵力で敵を打ち破る唯一の策かと存じます。我らが鳴川峠の西に布陣すれば、楠木党は壊滅するやもしれませぬ」
「何、御上の命より、楠木の命脈が大事と言うか。これは父、正成の忠義に泥を塗る不忠者の言いようよのう」
「何と、それがしを不忠者と言われますか」
怒りに震える目で正行は親房を見た。
慌てて隆資が割って入る。
「北畠様、河内守には河内守の考えがあってのこと。決して御上をおろそかにして、己が助かろうとする浅ましい考えで意見したわけではありますまい」
言い終えると、隆資は正行の方を向いて諭すように話しかける。
「されど、河内守。やはり我らは万が一のことを考えて、吉野山を守るべきと麿も思う。武家には武家の考えがあろうが、ここは曲げて北畠卿の策に従おうではないか」
南朝軍事の責任者である隆資にまで諭されては、正行は従うしかなかった。
廟堂から出てきた楠木正行は、沈痛な面持ちで正儀らの前に現れた。
「太郎兄者、如何であった」
「うむ、出陣を命ぜられた。此度は厳しい戦になるであろう。少し考えたい事もある。子細は河内に帰ってから話そう」
そう言うと、正行は直垂に着替え、足早に馬留に向かった。慌てて郎党たちも跡を追う。正儀は、決定が楠木にとって耐え難いものであった事を悟った。
楠木正行は、赤坂の楠木館に戻ると、すぐに舎弟、楠木正時・正儀に命じて、諸将を集めさせた。
赤坂城の麓にある楠木館に集まったのは、南河内の親族・家臣のほか、和泉国からは一門衆の和田正武と橋本正高、与力衆の美木多助氏らであった。
前回までの戦とは明らかに異なる表情で上座に座った正行は、一同を前に重い口を開く。
「皆に集まってもろうたのは他でもない、今にも河内を侵攻しようとする幕府軍への対応じゃ」
「多聞の兄者、千早城の修復はすでに終えておる。いつでも敵を迎え撃つことができるぞ」
したり顔で新発意賢秀(美木多正兄)が応じた。
「いや、その必要はない。我らは東条を出て北へ討って出る」
兄の言葉に、絵地図を広げていた正時の手が止まる。
「討って出ると……正気か」
「殿、敵は万を遥かに超える数。平地で戦うては我らの勝ち目はありませぬぞ」
後見役の橋本正茂が、諸将に代わって苦言を呈した。
「九郎殿(正茂)、わしとてわかっておる。されど、廟堂の軍議で決まったことじゃ」
呆然とした表情で正時が口を開く。
「なぜ、そのようなことに……」
「千早城へ敵を誘き寄せるわしの献策、北畠卿に一蹴された。幕府を河内の奥まで誘い込めば、吉野山の帝(後村上天皇)にも害がおよぶと考えたようじゃ」
「戦慣れされた四条大納言様もおられたというに……何ともならなかったのですか」
皆の胸の内を、正儀が代弁した。
「今や朝廷は北畠卿が動かしておる。四条卿はおろか、二条左大臣様でさえ、北畠卿を制することはできぬ」
「……」
正儀は口幅ったそうに、唇を噛んで押し黙った。
「くそっ」
怒りをどこにぶつけてよいかわからない正時は床を叩いた。
そんな弟たちの様子にも動じず、正行が一同を見回す。
「皆、聞いてくれ。こうなっては、討って出ることを前提に、策を講じなければならん。評定では鳴川峠を挟んで、生駒山の東に四条大納言様が率いる一万、西には我らが布陣することになった」
「おそらく高師直は、男山八幡から生駒山の西側を南下するであろう。そして、この東条を目指すことは間違いない」
大塚惟正の指摘に正行は頷く。
「その通りじゃ。生駒山の麓、水走のあたりは開けた平野。このあたりで数万の敵と騎馬戦になってはとても敵わん。師直は南進するために、必ず深野池の東、東高野街道を通るであろう。このあたりは生駒の山々と深野池に挟まれて、縦に長うなって進むしかない」
意図を察した正時が頷く。
「なるほど……では敵が南進して水走に進む前に、我らは北進して敵と対峙するわけじゃな」
「そうじゃ。ここは細い街道じゃ。正面同士で対峙すれば兵力の差を埋めることができる」
そう言って正行は、絵地図にある四條あたりを指で示した。
「なるほど、何とかなりそうな気がしてきた。さすがは太郎殿(正行)じゃ。では、先陣はそれがしにお任せを」
勇猛果敢な和田正武が名乗りを上げた。
しかし、正行は首を横に振る。
「いや、和泉の和田党と橋本党には別の役目がある。敵は兵を割いて和泉からもこの東条を攻めようとしておるようじゃ。新九郎(正武)殿と四郎(正高)殿には和泉に残ってもろうて、幕府搦手の軍に対応いただきたい」
「和泉に残る……」
「左様、和泉の兵は、大塔若宮様(興良親王)を奉じて、北畠卿が直々に差配されるとの申し出じゃ」
興良親王とは、大塔宮こと護良親王の忘れ形見であった。
正武が正高と顔を見合わせる。
「うっ、北畠卿がくるのか」
その困った顔に、一同がどっと笑い声を上げた。
緊迫した空気が少し和んだところで、正儀が兄に顔を向ける。
「それで太郎兄者。我らはいつ、出陣することになるのじゃ」
問いかけに、正行は顎に手をやる。
「敵方の動き次第じゃが、十日のうちには出陣する。ただし、三郎(正儀)は留守居役じゃ。そなたはこの城に残って母上たちをお守りし、何かあった場合の後詰めと心得よ」
冷や水を浴びせる兄の言葉に、正儀は目を大きく見開く。
「太郎兄者、なぜ、わしが留守居役なのじゃ。此度の戦は楠木にとっての総力戦。わしだけ置いてけぼりはなかろう」
「総力戦だからこそ、一族の者の誰かが、その後を守らねばならん。あの湊川の戦ではわしであった」
正行の目配せを受けて正時が言葉を被せる。
「そうじゃ、三郎(正儀)。此度はそなたじゃ。まさか、此度も兄者がその役廻りというわけにもいくまい」
「なっ、それなら二郎兄者(楠木正時)が残ればよい」
正儀は食い下がった。
しかし、正時は頬を緩めて正儀をあしらう。
「おいおい、戦場でお前とわしのどちらが役に立つと思う。お前が留守居役に決まっておろう」
「残ってもらうのは、三郎(正儀)だけではない。賢快にも残ってもらう」
「えぇ、多聞兄者、わしにも残れというのか。それはないであろう」
新発意賢快(美木多正朝)も身を乗り出して抗った。
ひと際、正儀は納得できない。湊川と聞いて兄たちの覚悟を悟ったからである。
「いやじゃ……」
ぎゅっと拳を握りしめる。
「……湊川の戦の後も、わしだけ津田の父上(津田範高)に預けられた。此度は最後まで兄者たちと一緒におりたい」
そう言って口をつむぐ正儀に、正行は優しい口調で語りかける。
「三郎(正儀)、わしらは討死するつもりはない。生きて帰ってくる。兄弟三人で戦うことは、この先、いくらでもある。此度は、そなたが留守居役というだけのことじゃ」
「三郎様、殿の言われる通りじゃ。楠木の家宰として……家臣を代表してそれがしからもお願い申す」
恩地満一も身を乗り出して正儀を諭した。
さらに正時も続ける。
「当麻(津田武信)、又次郎(河野辺正友)、お前たち二人もこの地に残り、正儀を助けてやってくれ」
近臣の二人は、顔を見合わせてから互いに頷き、床に手を突く。
「二郎様(正時)……」
「……承知つかまつりました」
もう、正儀に反論の余地は残っていなかった。自然と目が潤む。唇を噛みしめ、悟られぬように下を向くことしかできなかった。
十二月二十五日、男山の麓に布陣した幕府軍の総大将、高師直の元に、細川顕氏、赤松範資、佐々木六角氏頼、佐々木京極道誉、仁木頼章、武田信武、今川範国、千葉貞胤、そして他にも東海、東山、西国の諸将が兵を率いて到着する。幕府軍は、予定通り総勢五万を超える大軍になった。
その諸将の軍勢を見下ろす男山の山頂、八幡宮には、大鎧姿で必勝を祈願する副将軍、足利直義の姿もあった。征夷大将軍の足利尊氏は、直義軍を後詰として男山に残すという念の入れようであった。
一方、高師直の舎弟、高師泰が率いる幕府搦手軍の八千騎は、すでに淀を渡って南進していた。
楠木正行・正時兄弟、それと従兄の新発意賢秀が出陣の日を迎える。
龍泉寺城(嶽山城)は、朝から馬の嘶きや鎧の擦れる音で騒然としていた。正行はこの城に南河内の兵を集め、ここから出陣しようとしていた。
一方、見送る正儀は、龍泉寺城で、本拠の防衛に付くこととなっていた。
その正儀は、湿っぽい話は止めようと近習の津田武信・河野辺正友らと話し合い、平常心を装う。
「賢快はどこに行った。知らぬか」
「そう言えば、朝から見ておりませぬな」
正儀に問われた武信は、正友とともに首を傾げた。
「困った奴じゃ。このような大事な日に居らぬとは」
ふうぅと溜息を付き、正儀は辺りを見渡した。
その後ろから河内目代の橋本正茂が歩み寄る。
「こういう日だからこそ、賢快殿は行方をくらましたのかもしれませぬな。見送るのが嫌なのでしょう」
この正茂も、若い正儀を助けるために、この龍泉寺城に残ることになっていた。
賢快は、兄の賢秀に似て豪胆で強がり。だが優しさと弱さも併せ持っていた。正儀としても、賢快がこの場で涙する姿など、やはり見たくはなかった。
「明王らしい……」
なるほどと正儀は頷いた。
大将の正行はこれまでと変わりなく、妻、満子の見送りを受けている。普段と違う事といえば、正行が多聞丸を抱いたことであった。
「よしよし、では行って参るぞ」
年が明ければ数えで三歳。しがみ付いて離れようとしない多聞丸の手を解き、いとおしそうに見つめてから、満子に託す。
「多聞丸を頼むぞ。では、行って参る」
「殿、御武運を御祈りしております」
満子は、これまでの見送りと変わることはなかった。しかし、何も知らないわけではない。武士の妻として、楠木の嫁として、満子は感情を抑えることに必死であった。
向こうでは、久子が正時を見送っている。久子も息子たちが覚悟を決めて戦に赴こうとしていることは承知していた。
「母上、では行って参ります。後は万事、三郎に任せますように」
「武運を祈っています」
母の言葉に、正時は深々と頭を下げた。
郎党が持つ馬の手綱を手にしようした楠木正行が、思い出したように正儀に振り返る。
「おお、そうじゃ。これを……」
そう言って、腰のものを鞘ごと抜いて、正儀に手渡した。
その刀はずしりと重い。
「この太刀は……」
「そうじゃ、我らが父から譲られし太刀、竜の尾じゃ」
正行は、郎党が差し出した替わりの太刀を腰に差しながら、平然と応じた。
「なぜ、これを……」
「意味など無い。わしが帰るまで、無くさぬように預かっておいて欲しいのじゃ」
「それは……」
竜の尾を手にした正儀は、瞳が潤んでいくのをこらえ切れず、言葉少なに顔を伏せた。
だが、出陣しようとする馬上の兄たちに向け、ぐっと耐えて声を張る。
「次は……次こそは、二郎兄者が留守居役じゃからな。絶対に帰って来て約束を守られよ。太郎兄者はその証人じゃからな」
二人の兄は、正儀に笑顔を見せてから馬を進めた。
軍勢の姿が見えなくなった頃、満子は久子の元に歩み寄って胸を借りる。
「義母上様……」
我慢していた涙が一気にあふれ出した。侍女の清と福もすすり泣いた。
久子は満子の頭の後にそっと手をやる。
「大丈夫ですとも。太郎は無駄死するような子ではありませぬ。不利となれば、無理をせず撤退することでしょう。安心なさいませ」
若い嫁を励ましつつ、亡き夫、楠木正成を思い出す。湊川の戦の後、再び、久子が対面した時には、首から上だけの姿になっていた。満子に同じ思いを味合わせたくはない。心の中で如意輪観音に手を合わせた。
十二月二十七日、東条を発った楠木正行は、美木多助氏ら与力衆の諸将と合流する前に、一門百四十余人を連れて吉野山の行宮に向かった。帝(後村上天皇)に出陣の報告を行うためである。
凍てついた空気の中で、武者姿の正行、正時ら数人が、内裏の前に広がる庭にひざまづいた。帝は殿上に垂れ下がった御簾の向こうにいる。
その手前に座る左大臣の二条師基が正行を鼓舞する。
「河内守(正行)、此度の出陣、大儀である。必ずや幕府を討ち破り、御上(後村上天皇)を京へお戻しあそばすのじゃ」
「はは。この楠木河内守正行、必ず朝敵を打ち破って見せまする」
その時、帝の側近である蔵人の中院具忠が、帝の姿をかくしていた御簾をくるくると巻き上げた。
「河内守、大義」
姿を現した帝は、短い言葉を投げ掛けた。
温和な、少し幼さの残る顔を目にした正行は、慌てて、直視しないよう顔を伏せた。
「朕は先君(後醍醐天皇)の意志を継ぎ、幕府を倒し、京へ還幸せねばならん。朕はそちが頼りぞ」
正行はいったん、蔵人の具忠に目をやる。
すると、具忠が頷く。
「河内守。直答を許すぞ」
「ははっ。身に余るお言葉、痛み入りまする。この河内、必ずや敵を平らげ、御上を京の内裏にお連れいたします」
これに、帝は満足そうに、ゆっくり、小さく頷いた。そして、中納言の阿野実村を一瞥してから正行に問う。
「河内守は弁内侍の賜嫁を断ったそうじゃな。なぜか。内侍は元弘の忠臣、日野俊基の娘。内侍も河内守を好いておると聞いた。河内とであれば喜ばしいことじゃと朕も思うておったが」
「御上自らお気遣いを賜り、恐れ入り奉ります。それがし如きのために、この上もなき喜びです。されど、此度の戦は命を賭してでも挑まなければならぬ大戦。新たな妻を持てば、それだけ我が死を悲しむ者が増えまする。今は後顧の憂いをなくして、出陣しとう存じます」
居並ぶ公家たちは、感心したように大きく頷き、この決意を称賛した。
「河内守の思い、まことにあっぱれじゃ……さりながら……」
帝は、正行の言葉を認めた上で、険しい視線を向ける。
「……朕は河内には生きて戻ってほしいと願うておる。命を賭して戦うのが武士の道なれば、不利となれば撤退して再起をかけるのも、またこれ武士の道と思う。どのようなことになっても、河内に対する朕の思いは変わることはない。されば、決して命を粗末にせぬように」
正行は我が耳を疑った。
死しても結果を残せと言う、まるで湊川を思い起こさせる非情な命を下したのは朝廷である。それは帝の勅命として下されたものであった。しかし、この自分より若い帝は、命を大事にしろと言う。勅命は帝の御心そのものではないということを改めて了知した。そんな当たり前のことさえ新鮮であったのは、自らの意のままに政を行った英邁な先帝、後醍醐天皇の存在があったからである。
ただ、先帝を反面に見て、今上の帝に天子の徳を説き、導いてきたのは、皮肉にも、この非情な出陣を整えた准大臣の北畠親房であった。
帝の人となりに触れた正行は一瞬で魅了される。人の心を揺り動かすのは勅命ではない。最後は、誰かのためにと思える心である。温情ある帝の言葉は、皮肉にも、くすぶり続けていた決意に火を着けるのに十分であった。
帝への拝謁が終わり、楠木正行は、内裏の目と鼻の先にある塔尾山如意綸寺に向かった。従うは、舎弟の楠木正時、従兄の新発意賢秀をはじめ一族一門の百四十余人。先帝(後醍醐天皇)が眠る御陵に、出陣の報告をするためである。
正行が一門を率いて如意綸寺の山門を潜った。
「あっ……」
賢秀が声を上げる。
「……なぜ、お前がここに居る」
そこには、本堂の濡れ縁に腰をかけた新発意賢快の姿があった。
賢快は、楠木正行の元に駆け寄り、その場に手を突いてひれ伏す。
「多聞の兄者、頼む。わしを連れて行ってくれ。こうして、戦の支度もしてきておる」
具足を身に纏った賢快に向け、正行は首を横に振る。
「駄目じゃ。帰れ」
「父上(美木多正氏)の仇を討ちたいのじゃ」
兄の賢秀が、賢快の胸ぐらを掴んで立たせる。
「遊びではない。帰るのじゃ」
だが、賢快は賢秀の腕を振り払い、再び、その場に座り込んだ。
刻々と出立の刻限が近づいていた。
正行に代わって正時が恩情を見せる。
「兄者、早くしないと刻限が来てしまう。とりあえず連れて行くだけ連れて行こう。何、危なくなる前に、早々に東条に返してしまえばよいではないか」
すると、正行は白い溜息をつく。
「勝手にするがよかろう」
賢快の扱いは兄の賢秀に任された。
正行は、先帝の御陵に一門とともに参拝したあと、本堂で全員が髻を切った。そして、過去帳に名を書き連ねて奉納した。楠木一門の決死の覚悟が現われていた。
『かえらじとかねておもへば梓弓、なき数に入る名をぞとどむる』
正行は、鏃で本堂の扉に辞世の句を刻んだ。
「皆の者、我らは帝と先帝の恩に報いるため、命を賭してこの一戦に挑む。皆、憂いのないよう参ろうではないか」
「おう」
鼓舞する正行に向けて、諸将の覚悟が木霊した。
年が明け、正平三年(一三四八年)一月早々、吉野山を発った楠木正行は、三千余騎の兵たちと合流し、河内平野が見渡せる岩瀧山往生院(六萬寺)に陣を敷いた。
一方、吉野方の公家大将、四条隆資は、生駒山を挟んで楠木軍とは、ちょうど反対側に布陣する。生駒の東西で、高師直が率いる幕府軍五万を待ち受ける策である。
隆資は、大和の豪族で伊賀守、越智源太家澄や湯浅定仏入道宗藤を参謀に、十市党など紀伊・大和の国人・土豪や野伏などからなる一万の兵を率いていた。参謀の家澄は大和源氏の末裔と称し、通称の源太は源氏の太郎という意味である。
また、和泉国の吉野方は、准大臣、北畠親房が二十歳を迎えたばかりの大塔若宮こと興良親王を征夷大将軍として奉じ、和泉国槇尾山の施福寺に布陣していた。
多くの僧兵を擁するこの寺は九百七十余坊を有する山岳寺院で、槇尾山城とも呼ばれる。親房はここに橋本正高が率いる橋本党や紀伊の国人など千騎を従えて籠った。
そして、和泉の堺浦には、和田正武が率いる二千騎が布陣する。淀を渡って南進する高師泰が率いる幕府の搦手軍に、対抗するためであった。
往生院の御堂の中。絵地図を囲んで軍議を開く楠木正行たちの前に、斥候が現れてひざまづく。
「殿(正行)、幕府の本軍が男山八幡から動きました。生駒の西側をゆっくり南進しております」
「うむ、ご苦労であった。やはり生駒の西から来たか」
頷く正行に続けて、正時が鼻を鳴らす。
「ふん、ゆっくりと南進か、余裕じゃな」
「よし、敵が油断している今が好機ぞ」
立ち上がった正行は、舎弟の正時、大塚惟正らを伴って御堂を出る。そして、兵たちを前に、御堂の外縁に立った。
「我らはこれより、急ぎ北へ向かい、幕府軍より早く東高野街道を押える。高師直の鼻を明かしてやろうぞ。者ども、いざ、出陣じゃ」
正行の下知に、新発意賢秀・賢快の兄弟が拳を突き上げる。
「えい、えい」
「おお」
「えい、えい」
「おお」
兵たちが重ねて声を上げた。
その頃、河内国東条では、正儀が近習の津田武信・河野辺正友、河内目代の橋本正茂とともに、龍泉寺城で高師泰の幕府搦手軍の進軍に備えていた。
すでに赤坂の楠木館には、母の久子や義姉の満子ら女こどもの姿はない。龍覚を頼って観心寺の中院へ避難していた。
正儀らが拠る龍泉寺城は嶽山の頂上に作られ、かつて、叔父の楠木正季が城将となっていた。
嶽山の中腹には、その名の謂れとなった龍泉寺がある。蘇我馬子が建立したというこの寺の境内には、弘法大師が雨乞いをした雨井戸と、水を湛えた池があり、城は籠城にも適していた。
龍泉寺城は、湊川の戦の後、一旦、足利方の手に落ちる。しかし、楠木党が奪い返した後は、前線基地として、楠木本城である赤坂城(上赤坂城)、後詰の要、千早城とともに、楠木党の最も重要な拠点の一つとなっていた。山深い二つの城に比べ、摂津へ出るにも、紀伊に出るにも地の利があるためである。
楠木正行は、末弟のために、この城に戦経験が豊富な正茂を残し、後見役となるように頼んでいた。
正行に代わって広間の上座に腰を据える正儀の元に、家臣となった聞世こと服部成次が現れる。和泉から戻ってきたところであった。
「三郎様(正儀)、淀を渡って南進していた高師泰の搦手軍は、和泉国に入り堺浦を抑えました。その数およそ八千。槇尾山城から討って出た和田正武殿は幕府軍に押され、一戦も交えることなく退却されました」
「何、あの新九郎(正武)殿が……」
勇猛な正武が戦わずに退却するとは考えられなかった。
すると、正茂が顎を撫でる。
「きっと、新九郎殿には、何か考えがあってのことであろう」
「はい、左様にございます。正武様はいったん退却された後、二千の騎馬を率い、果敢に堺浦の幕府軍に奇襲を仕掛けております」
聞世の話に正茂は、さもあらんと頷いた。
「それで、堺浦の幕府軍はどうなった」
正儀が話を先へと急かした。
「はい、それが、幕府軍は和田勢の奇襲にも慌てず、逆に討って出る構えを見せ、今は、両軍睨みあったままで動けない状況です」
「八千の幕府軍を、堺浦に釘付けしているだけでも、上出来ではないか。さすがは新九郎殿じゃ」
津田武信が感心するが、正儀は首を傾げる。
「ううむ、堺浦の幕府軍は、動けないのではなく、動かないのではないか」
「三郎様、それは、どういうことでございますか」
近習の河野辺正友が不思議そうな表情を浮かべた。
「考えてもみよ。高師泰は淀を渡って真っすぐに堺浦へと進軍した。堺浦を抑えることが当初からの目的ではなかろうか。堺浦は海運の拠点。ここを抑えれば、幕府は簡単に四国や中国の瀬戸内から兵を呼び寄せることができるようになる」
「あ……なるほど……」
「山深い吉野にとっては、伊勢国大湊と和泉国堺浦は、畿内の幕府方を避けて各地の味方と繋がりを持つ重要な海の道じゃ。それに、交易の利益を得ることができる。動きを止められているのは、和田の軍勢の方であろう。太郎兄者(正行)に合力できぬように」
冷静な正儀の説明に、正友と武信は目を丸くして感心した。そして、後見役の正茂は、正儀の推察に目を細めた。
一月五日、往生院を発った楠木正行は、急ぎ北の四條へと兵を進めた。先陣は楠木正時が務め、中央に大将の正行、後詰めはこれまで楠木党を支えてきた大塚惟正である。
楠木の行軍が四條の手前、野崎に達したときであった。先陣を務めていた正時は目を疑う。
「な、なぜ、ここに……」
目の前には幕府軍が無数の旗を靡かせていた。
男山八幡を進発した高師直は、正行の裏をかくかのごとく行軍を早め、一足早く深野池の東、四條の畷(あぜ道)を南進して楠木軍を待ち受けていたのであった。
「くそ、あの者どもを討ち取るのじゃ」
正時の声で、ついに両軍は激突する。
幕府軍の先陣は、縣下野守が率いる白旗一揆(武蔵や上野の国人集団)の千余。これを、正時の騎馬隊が襲う。楠木軍は、先頭の侍大将をたちまちのうちに討ち取って白旗一揆を退却させた。
肝を冷やしたものの、幸先よい勝利に、楠木軍の気勢は自ずと上がる。正行はそのまま幕府本軍を攻めるべく、全軍を北へと押し上げた。
しかし、敵本軍に向けて深野池の東の畷を細くなって駆け上がる楠木軍は、側面から武田信武の千余騎に襲われる。武田勢は脇道に逸れて布陣し、楠木軍が来るのを待ち受けていたのだ。
恩智左近満一が、馬で正行の元に駆け付ける。
「殿(正行)、敵は田の中から二郎(正時)様に向けて矢を放っております」
「慌てるな、左近。小太郎に五百の兵を付けて送ろう」
正行の命で一門の神宮寺小太郎正房が応戦に向かった。
不意を襲われた正時率いる先陣であったが、すぐさま、救援に入った正房たちが矢を射かけて応戦する。これにより、両軍入り乱れての激闘となる。だが、楠木軍は決死の戦振りを見せ、何とか武田勢を追いやった。
気付くと、北に控えていた幕府本軍の姿が見えない。高師直は何故か、本軍を北へ退かせていた。
緒戦を凌いだ楠木正行であったが、すでに多くの兵を死傷させていた。先陣を受け持った正時も、返り血を浴びて肩で大きく息をしている。しかし、一息付く間もなく楠木軍は高師直を追って先を急がなければならなかった。
軍列のやや前方で馬を進めていた正行は、後方の異変に気づく。
「ぐわ……」
「て、敵じゃ」
「矢を射返せ」
突如として生駒の山中から現れた佐々木京極道誉の軍勢に襲われる。そして、縦に伸びきった楠木の軍列は、側面から突入した京極の騎馬勢によって、南北に分断されてしまう。
道誉と高師直の策略であった。一旦、師直が本軍を北へと引くことで、楠木軍を道誉のもとに誘き寄せたのである。
ただちに、新発意賢秀・賢快兄弟が率いる長槍隊が駆けつける。長槍を持った歩兵たちは田の中に広がり、京極の騎馬兵に応戦した。賢秀・賢快兄弟も、馬から降りて長槍を振るう。勇猛な兄弟は、京極の騎馬兵の動きを封じた。山名時氏との戦で、敵の騎馬兵を止めた長槍は、ここでも有効であった。
しかし、騎馬の脚を止められたのは、京極軍だけではなかった。楠木の騎馬も田のぬかるみに脚を取られ、思うように先に進むことができない。そこを、敵の歩兵が振う薙刀の餌食とされる。楠木軍は、貴重な騎馬を多く失ってしまった。
大将の正行は決心する。
「皆、馬を捨てよ」
田に脚を取られてしまうことを嫌い、馬を置いていくことにしたのだ。この先のことを考えると、思い切った策である。
「ここで進軍を止められるわけにはいかん。離れすぎるな。集まって戦え」
正行の怒号が響く。両軍入り乱れて死闘が繰り広げられた。
京極勢の矢は自ずと、剣の前立てが施された大鍬形の兜、大将の正行に集中する。
「殿(正行)をお守りせよ。皆の者、殿の周りを囲むのじゃ。我らが盾になろうぞ」
年長の従兄、楠木将監正家が大声で嫡男の正種や近習を集めた。
その時、京極の郎党が放った矢が正行の顔に一直線に向かう。
―― びゅう、ずざっ ――
矢が貫いたのは、咄嗟に盾となった若い正種の首であった。
ぐらっと崩れ落ちる正種を正行が抱きとめる。
「おい、正種、気をしっかりせよ」
「……」
口を動かす正種だが、声にはならなかった。
父親の正家が正種の元に駆け寄る。
「太郎殿、構わず指揮を執るのじゃ」
息子の正種を抱きながら、正行に声を張った。
「将監殿(正家)……正種……すまん」
息子の前で座ったまま刀を振るって敵の矢を防ぐ正家をそのままにし、正行は京極軍との戦の指揮を執った。
不意を突かれた楠木軍の痛手は大きかった。
しかし、賢秀・賢快らの長槍を受け、京極勢の痛手も大きい。
「ええい、一旦、兵を退くのじゃ」
たまりかねた京極道誉は撤退を指示し、兵を引き上げた。
肩で大きく息をしながら、楠木正行がそこに見たものは、あたり一面に倒れた双方の兵であった。両軍ともに二百を超える兵が討死し、それ以上の兵が負傷して動けなくなっていた。
従兄の楠木正家は、息子の正種を庇うようにして上にかぶさり、たくさんの矢を受けて息絶えていた。その下で正種も絶命している。
家宰の恩地満一と重臣の神宮寺正房も、深傷を負って動けない。大塚惟正が率いる後詰の軍勢は遥か後方。どうなったのかさえもわからなかった。
敵将、高師直と刃も交えてもいない戦の序盤で、楠木軍の戦力は、すでに大きく割かれてしまった。
「やはり高師直。思いどおりにはいかぬか」
正行は、ひとまず周りの諸将を集め、兵の様子を確かめる。そして、与力衆の美木多助氏を呼び寄せた。
「助氏殿、深傷を負った者たちを連れて、この戦場から抜けてくれぬか」
助氏も足に矢傷を受けていたが、幸いにも傷浅である。
「河内守殿(正行)、何を言われます。このような状況の中、それがしだけ逃れることができましょうや。最後まで供を致します」
「いや、足に矢を受け、動けぬ者は足手まとい」
「されど……」
「わしは情で申しているのではない。少しでも勝てる可能性を高めるためじゃ。わかっていただきとうござる」
そうはいうものの、正行の優しさであることは、ここに居る一同には言わずもがなであった。
「二郎(正時)、賢秀、賢快、そなたたちも助氏殿を手伝って、東条に戻るのじゃ」
「な、何を言うておるのじゃ」
兄の言葉に、楠木正時は目を丸くして唾を飛ばした。
「そうじゃ。多聞の兄者」
「おお、帰れる訳がなかろう」
賢秀・賢快も抗った。しかし、正行は首を横に振る。
「ここからはわしの戦じゃ。初めから決めておった。お前たちは若い者を連れて東条に戻るのじゃ」
「いや、ならんぞ、兄者。ここまでくれば生きるも死ぬも一緒じゃ」
「若い者はお前たちだけではないぞ。お前たちが帰らねば他の若い者も帰らんであろう。むざむざ死なせてよいのかっ」
正行は、今まで見せたことのない険しい表情で、大声をあげて嗜めた。
その勢いに正時は躊躇する。
「さ、されど、兄者……」
「二郎、これは兄の命じゃ。そなたが首を縦に振らなければ、皆が帰れんのじゃぞ。若い者を連れて、助氏殿とともに、ここを離れろ」
かつて、湊川で楠木正成が、美木多正氏に残兵を託したのと同様のことであった。
戸惑う正時であったが、若い賢秀・賢快兄弟を一瞥してから決心する。
「兄者、承知した。賢秀、賢快、いくぞ」
「持王の兄者、本当に帰るのか……」
「おう、ここにいては兄者の邪魔じゃ。お前たちは怪我をした兵を支えよ。ここから脱出する。さ、早う」
正時は、動揺する賢秀・賢快を連れ立って、若い武者たちとともに、負傷した兵たちに肩を貸した。そして、美木多助氏とともに、戦場から離脱する。その中には、重傷を負った恩地満一と神宮寺正房の姿もあった。
馬を捨てた楠木正行らは、徒歩で北へと進軍する。
楠木軍は討死した兵、東条に戻した兵、また逃げた野伏などの傭兵もあり、気がつけば五百人ばかりとなっていた。ここを大軍で突かれれば、楠木軍はひとたまりもなかった。
しかし、飯盛山の南に布陣する細川顕氏、今川範国、佐々木六角氏頼ら、副将軍の足利直義に近い武将たちは動かなかった。手負いの楠木軍を警戒すると同時に、自らが高師直の盾となることを嫌ったためである。
郎党が正行の元に駆け寄り、注進する。
「山の中には、敵軍が控えておるようです」
「わかっておる……が、なぜ来ないのじゃ」
幕府軍が満身創痍の楠木軍に襲いかかってこないことを、正行は不審がった。しかし、考えている余裕もなく、総大将、高師直が布陣する四條を目指して突き進んだ。そして、ついに師直の輪違いの旗印が見えるところまで軍を進める。
「よし、本軍はあそこぞ。目指すは師直の首ひとつ。長槍を前に押し立てて突入する。弓矢の者どもは、その後ろから空に向かって矢を放ち、敵兵の頭に矢を降らせよ」
正行の下知で、弓矢の援護を受けた長槍隊は、幕府本陣を目指して大軍に錐で穴をあけるように突き進んだ。
敵軍を目前にして、後方の正行も郎党から槍を受け取る。ふと隣に目をやると、戦線を離脱したはずの舎弟、楠木正時がいる。
「二郎(正時)、なぜ、お前、ここに……」
「わしが帰ると言わねば、あの場は治まらなかった。されど、安心してくれ。わしが殿で皆を逃がした。逃がし終わったところでわしだけ戻ってきたのじゃ」
「お前が生きねば意味がない。この戦は、俺一人で十分なのじゃ」
兄の言葉に、正時は笑みを返す。
「兄者の腹づもりくらいわかっておる。だから、戻ってきた」
「くそ、わしの策が台無しではないか」
「そう怒るな。後は虎(正儀)に任せることとしようぞ。虎は俺などより余程、器量がある。俺は棟梁としての虎に賭けてみたいのじゃ」
「この阿呆が」
上気した正行が罵声を浴びせた。
その正行の目の前で、正時が手を上げる。
「ちょっと待て兄者、あれに見えるは師直では」
「何……」
正行は額に手をかざして正時が指差す方角を凝視する。本軍から大鍬形の兜を被った武将が、兵たちを率いて自分たちの前へ進み出ていた。
「……ううむ、あの大鍬形、まさに総大将にふさわしき兜。あやつが師直なのか」
敵の総大将を前に、楠木軍は最後の気力を振り絞る。
「者ども、ひるむな。進め、進むのじゃ」
正時は、郎党たちとともに長槍を降り回しながら、敵兵を押し分けて進んだ。
死にもの狂いの楠木の突撃に、さすがに高師直の近習たちもたじろいでいた。
「何をしておるのじゃ。みっともない」
大鍬形の兜が、後ずさる近習を叱咤して、自ら前に進み出る。
「我こそは、将軍家の執事、高武蔵守師直じゃ。楠木に気概ある者あれば、一対一でわしと組むがよい」
顔を隠すように兜の下に半首(頬当)を付けた師直が声を上げた。
「よし、わしが参ろう……」
敵の名乗りを聞いて、楠木正時が進み出る。
「……我こそは河内守が舎弟、楠木左馬助正時じゃ。お相手つかまつろう……」
正時は長槍を両手で上げるようにして構え、突進する。
「いざっ、うぉぉ」
「こしゃくな若造め。返り討ちにしてくれよう」
正時が繰り出す槍を師直が刀で跳ね除ける。咄嗟に正時は槍を捨てて、腰の刀を抜いて切り掛かる。
―― きん、きん ――
刀と刀が幾度もぶつかる音が響く。
―― きん、びゅ ――
一瞬、正時の切っ先が師直の腿をえぐった。
その目元が苦痛に歪む。
「ぐっ……何のこれしき」
師直は倒れない。それどころか、正時に向けて鋭く刃を突き出した。
「うっ、ふぅ」
正時は間一髪でこれをかわした。一筋の汗が頬を伝う。だが、冷や汗を拭う隙すらなかった。
双方の郎党は、それぞれの主を助けようと刀を構えるが、激しいつばぜり合いに刃を振り下ろす機会がつかめない。ただ、呆然として、二人の闘いを見守った。
先般の戦いで正時はあちこちに傷を負っていた。だが、師直も腿に刀傷を負っている。若くて機敏な正時が師直の腿の傷を、足で蹴り上げた。
「ぐっ」
苦痛の表情を浮かべて、師直は片ひざを落とした。
その瞬間である。正時は師直を押し倒し、組み伏す。
「御覚悟っ」
「くっ、勝ったと思うな」
睨み返す師直の首に、正時が刀を当てる。
―― びびゅ ――
返り血が正時の顔を赤く染める。師直は、正時を睨んだまま息絶えた。
「敵の総大将を討ち取ったぞ」
首級を掲げた正時は、勇ましく声を上げた。
楠木軍は歓喜に沸く。逆に、師直を討ち取られた敵兵たちは慌てて退いていった。
楠木正時が高師直の首級を引っ提げて正行の元に戻る。
「兄者、ほれ」
正時が放るようにして差し出した師直の首級を、正行が受け取る。
「二郎、ようやった」
「殿、これで大手を振って吉野に戻れますな」
郎党の一人がそう言って感涙にむせた。
「ち、違う……違いまする」
歓喜の中で冷や水を浴びせる声が聞こえた。
正行が声の主に振り返る。そこには、ここまで正行に従っていた土豪、鷺池平九郎が居た。
「何が違うのじゃ」
「この首は師直ではない。これは師直の家臣、上山左衛門尉六郎の首じゃ。わしは幕府方に付いていた時もある。じゃから、この顔は知っておる」
上山六郎は昔、戦で手柄を立て、褒美として賜った師直の鎧兜を付けて参陣していた。主の危機に接して、六郎は自ら進んで影武者役を買って出た。そして、師直のごとく振る舞い、楠木軍の前に現れたのであった。
師直を討ち取って喜んだ楠木勢であったが、影武者と知ると一気に気勢が削がれてしまう。特に、精根使い果たして首を取った正時の落胆は大きかった。
正行が、そんな正時の肩を軽く叩く。
「上山という者、自らの命を賭して主君を逃がすとは、敵ながらあっぱれじゃ。他の首と一緒にはすまいぞ」
「ああ、そうじゃな」
気を取り直して、正時も顔を上げた。
上山六郎の首は、正行の命で郎党が掘った穴に埋め、墓標となる石を置いた。
すでに楠木軍は百人ばかりとなっている。敵の懐深くに誘い込まれ、周りは敵に囲まれていた。もう、撤退という選択肢は残されていない。再び、正行・正時兄弟を先頭に、楠木勢はむしゃらに突き進んだ。
遠くに、輪違いの紋様の旗印が見える。供回り七十騎ほどに守られた総大将、高師直の姿がそこにあった。
「今度こそ師直じゃな」
確認をとる正時に、先の鷺池平九郎が頷いた。
一方、楠木勢が三町あまりに迫る中、高師直は少しも慌てず、一人の武士を呼び寄せる。
「須々木四郎、楠木の者どもへ矢を射かけよ。わずか百人では勝負にもならん。早々に、止めを刺してやれ」
「畏まってござる。者ども、続け」
強弓で名をはせる須々木四郎は、弓矢の得意な兵を集めて、雨あられのごとく、楠木勢に矢を射かけた。すると楠木の動きが鈍る。これを見て、幕府軍の他の武士も、落ちていた矢を拾い、正行らに射かけた。
それでも、楠木の者たちは、自らの兜を脱いで片手で前に掲げ、これを矢除けにしながら雨のような矢の中を、本陣に向けて迫って来る。
しかし、須々木四郎にあせる様子はまったくない。他の者には目もくれず、正行・正時だけを狙って、正確に矢を射かけた。
横殴りの暴風雨のような矢であった。だが、楠木兄弟はひるまない。脱いだ兜を前にかざし、向かいくる矢を左右に弾きながら前進する。しかし、もう誰の目にも勝敗は明らかであった。それでも、なぜか正行は退かなかった。
「う……」
―― どさっ ――
正行が隣に目をやると、正時が喉を射られ、動けなくなっていた。
「二郎、二郎……くそ」
弟を心配する正行であったが、自らも左右のひざに矢を受け、立つのもやっとであった。痛みに耐えかね、正行は思わず立ち止まる。
―― ざぐっ ――
「うっ……」
一本の矢が右の目尻をえぐった。血が目の中に入り、目の前が真っ赤に染まる。
しかし、あたりが赤いのは血の色だけではない。朝から始まった戦は、気がつけば夕暮れ時となっていた。
意識が遠のく中、正行は、うっすらと見える左目で周囲を見渡す。最後まで付き従った三十人のほとんどは矢を受けて動けなくなっていた。
一瞬、敵の矢が止まった。
正行は大きく息を吐くと、必死で起き上がろうとする正時の傍らに座る。
「今世はこれまでぞ。皆、敵の手に懸かるな」
全員に下知すると、正時を抱き起す。
「二郎、わしを刺す気力は残っておるか」
「……」
喉を射抜かれて声にならない。正時は代わりにゆっくりと頷いた。
今まさに命が潰えようとしている弟の様に、正行は涙をこらえ、手に短刀を握らせて自らの胸に刃先を宛がう。そして、自身も短刀を構え、正時に向け、ゆっくりと頷く。
「いざっ」
―― ずっ ――
正行の声で、刃先が互いの胸を貫いた。正時の刃を胸に受けた正行は、最後に声を振り絞る。
「虎よ、楠木を……御上を……頼む……」
そう言って、正時と重なるように倒れた。
最後まで付き従った楠木の兵たちは、兄弟の最期を見届けて、それぞれに刺し違え、また、ある者は自刀した。
龍泉寺城の正儀は櫓に登り、暮れる夕日を横顔に浴びながら、河内四條の方に、じっと目を向けていた。
すると突如、一陣の風に煽られる。身も凍る真冬であるにもかかわらず、なぜか優しい温もりある風であった。
「兄者……」
思わず正儀は声を漏らした。
楠木軍の後詰めとして、後方の敵軍を防いでいた大塚惟正の元に、前線の状況がもたらされる。
「お味方は全滅。殿(正行)と御舎弟殿(正時)は、刺し違えて果てられました。それに、ここにも敵軍が押し寄せてございます」
楠木軍の敗北を見定め、それまで兵を動かさなかった幕府軍の細川顕氏が、猛然と惟正の元に迫っていた。すでに退路は断たれている。
「くっ、これまでか……」
意を決した惟正は、迫る敵軍目掛けて馬を駆った。
「我は大塚掃部助惟正じゃ。我こそはと思う者は、名乗りを上げて我が首を取ってみよ」
惟正は、ただの一騎で敵の真っただ中へ切り込んだ。そして、果敢に長槍を繰り出して、敵兵を蹴散らした。だが、単騎では、すぐに敵兵に取り囲まれる。
ついに惟正は、四方から向けられた白刃に突き上げられ、息絶える。覚悟の殉死であった。
激戦の地、四條の畷(畦道)からほど近くに、いまだ新発意賢秀・賢快兄弟の姿があった。二人は、郎党の津熊三郎義行を伴って、美木多助氏から別れ、この地に留まっていた。義行は楠木家の郎党で、まだ元服したての少年である。
賢秀が、突如、具足を脱ぎ捨て、討死した敵の雑兵から腹当を奪って身に着ける。
「兄者、何をするのじゃ」
「知れた事よ。敵の雑兵に紛れて、師直の首を取るまでのこと」
「ならわしも……」
勇み立つ賢快の手を賢秀が掴む。
「いや、お前は東条へ戻れ」
「何を言う。わしだけ生きていられようか。わしも師直の首を狙う」
兄の命に、賢快は首を振って抗った。
「ならん、お前は東条へ戻り、虎(正儀)の元でわしの仇を討つのじゃ。お前がおらんと、虎(正儀)は一人ぼっちになってしまう」
その言葉に、賢快は、幼い頃から一緒に育った正儀の顔を思い浮かべる。
「くそっ」
あきらめた賢快は、肩を震わせ、血が出るほどに唇を噛んだ。
弟の様子に、賢秀はほっと息を吐き、義行の肩に手を添える。
「三郎よ、明王(賢快)をよろしく頼む」
「賢秀様……承知しました。どうか御無事で……」
義行は涙をぼろぼろと流した。そして、項垂れる賢快を急かして、その場を離れた。
夕日が沈み、あたりは薄暗くなる。新発意賢秀(美木多正兄)は敵の雑兵に紛れ、幕府軍の本陣に紛れ込んだ。
中央には赤々と焚火が燃え、周囲には篝火が灯されていた。戦勝気分に浸る陣営に潜り込むのは容易であった。そこでは、まさに楠木正行の首検分が行われていた。
(多聞の兄者……)
泣くまいと思う賢秀であったが、自然と涙が溢れた。しかし、袖で涙を拭い、仇を討つことだけに専念する。
諸将に囲まれた大将らしき男を凝視する。
(あの者が高師直で間違いなさそうじゃ)
賢秀は心の中で呟いた。
極力自然に、ゆっくりと師直との距離を詰める。あと十歩くらい。そっと刀の柄に手をかけた。その瞬間である。
―― がちゃ ――
師直の顔にばかり気を取られていたため、足元の鎧に蹴躓いた。
しかし、ここは戦場である。本来、この程度のことなら、誰も賢秀に気を留める者など居ないはずである。だが、運は味方をしなかった。本陣には、昔、楠木軍にも従軍していた元、湯浅党の郎党、本宮太郎がいた。
鎧の音に本宮太郎が振り返る。
「み、美木多正兄(賢秀)……こ、ここに美木多正兄がおるぞ。楠木正行の従弟の美木多正兄じゃ」
周りの兵が、薙刀を持っていっせいに賢秀を取り囲んだ。
「くそ、邪魔立て、するな」
一喝して刀を振るう賢秀に、四方から白刃が舞った。
血を吐きながらも賢秀は、正面の兵の首に噛みついた。
「ぎゃっ」
首を噛みつかれた兵が奇声を上げる。そして、その場に縺れるように二人して倒れた。その兵は賢秀をどかそうともがく。だが、噛みついた歯は首を離さない。兵たちは薙刀を放って、縺れる二人を引き離そうと賢秀を引っ張った。
―― ぎゃあぁ ――
だが、賢秀の歯が余計に首に食い込み兵は気を失う。これに周囲の兵が、慌てて賢秀の背中を刀で突いてとどめを刺した。
「ううぅ……」
兵の首に噛みついたまま、賢秀は断末魔を口の中に響かせ、息絶えた。
兵から賢秀を引き剥そうとした本宮太郎が腰を抜かす。
「ひ、ひぃ」
息絶えても賢秀は、噛みついたまま兵の首から離れず、両の目は睨み続けていた。あまりの眼光の鋭さに、その場の兵たちは後ずさる。
この騒動に、総大将の師直が歩み寄り、息絶えた賢秀に目をやる。
「ふん、無駄死にじゃな。首をとれ」
師直は、眉一つ動かすことなく配下に命じた。
一方、弟の新発意賢快(美木多正朝)は、暗い夜道を松明で照らし、徒歩で東条を目指していた。四條での詳細を正儀らに伝えるべく、郎党の津熊三郎義行とともに急いでいた。
「そこの者っ、逃げるのかっ」
先を急ぐ賢快は、後ろから怒声を浴びせられた。
驚いて賢快が振り返ると、一町ほど後に、松明をかざした武将とその郎党とおぼしき二人の姿があった。賢快たちの松明の灯りを目印に、跡を追い駆けてきたようであった。
「その武者姿、楠木の名のある武将とお見受けした。それがしは高武蔵守の家臣、安保忠実じゃ。引き返して参られよ。正々堂々と一戦、交えようぞ」
賢快は、松明の灯りに照らされる忠実の顔を睨みつけた。しかし、郎党の義行が賢快を制する。
「賢快様、どうかここは我慢を。相手にせずに逃げましょう。我らは賢秀様の命で東条の三郎様(正儀)の元に行かねばなりませぬ」
「……わ、わかっておる」
拳をぎゅっと握り、賢快は忠実に背を向けた。
すると忠実が、それも見越していたかのように罵言を浴びせる。
「楠木の者どもは皆自害したというに、一人逃げるとは卑怯なり」
「何、自害したじゃと……」
「そうじゃ、大将の楠木河内守とその舎弟もじゃ。最後まで従った三十人も皆、自害したぞ。一時は武蔵守様(高師直)の近くまで迫ったが、力尽きおったわ」
この時初めて、正行と正時が亡くなった事を知った。
「まあ、潔い死に様ではなかったな。やはり楠木の武将は野伏と同じよ。わっはは」
明らかに挑発であったが、若い賢快は正行たちが罵倒されたことに、かっと血が上る。
「引き返すなどわけもない」
刀を抜いた賢快は、忠実が掲げる松明の方へとゆっくり歩き出した。
これに義行は顔を強張らせる。
「け、賢快様……」
「義行、そなたは先に東条に戻っておれ。わしはあやつを始末する」
そう言って義行に背を向けると、刀を振り上げ、忠実に向けて駆け出した。
すると忠実は、にやりと笑みを浮かべ、郎党とともに背を向けて逃げはじめる。
「おのれ、逃げるとは卑怯なり」
目を吊り上げ、賢快は追いかけた。
気がつくと、賢快は弓矢を持った数人の兵に囲まれていた。忠実の目的は、味方の元に誘い出すことであった。
敵兵たちは賢快に矢先を向け、ぎりぎりと弓を引いた。
「うぐ……卑怯な……何が正々堂々とじゃ……」
―― しゅん、ざっ ――
その瞬間、敵兵たちが放った矢がいっせいに身体を貫く。賢快は口から血を噴き出し、片ひざを付いてうずくまった。それでも賢快は、敵を睨みつけるように、歯を食い縛って顔を上げる。
目の前に忠実が刀を抜いて、ゆっくりと近づいてきていた。
「くそっ」
賢快は刀を振り回すが、虚しく空を切るばかりであった。
―― ぐぐ ――
忠実の刀が賢快の身体を突き抜く。
「うっ、兄者(賢秀)、虎(正儀)……すまぬ……」
振り絞るように声を上げ、賢快は息絶えた。