第12話 南北朝の分裂
延元元年(一三三六年)五月二十六日、かなかなと鳴く日暮が京の都へ届けたのは、夏の始まりだけではなかった。
湊川の敗報が伝わった朝廷は、驚天動地の騒ぎとなる。劣勢としても、わずか一日で決し、楠木正成が討死するほどの大敗になるとは考えていなかったからである。
内裏では、御簾越しの帝(後醍醐天皇)を前に、焦りの色を濃くした公卿たちが、左右に向かい合った。
足利討伐の責任者、左兵衛督の四条隆資が、悲痛な面持ちで口を開く。
「河内守(正成)は、足利尊氏と直義の軍勢に、挟み撃ちに合い、壮絶に戦った後、舎弟帯刀(正季)と刺し違えて自害。一族一党、二十六名も後を追って自害したとのことにございます」
その報告に、皆が沈黙した。
参議の坊門清忠が不思議そうな表情で首を傾げる。
「戦上手の河内守が、こうもあっけなく破れるとは……足利を止める手立てを思いつかなかったのであろうか」
これに、権中納言の洞院実世が呆れ顔を見せる。
「宰相殿(清忠)が河内守の献策を退けたのであろう」
「い、いえ、このような大敗を喫するならば、それを押して、御上に言上するのが真の忠義というもの」
清忠は、冷や汗を扇で隠しながら弁明した。
隆資が眉間にしわを寄せる。こんな公卿の口車に乗った自分を恥じていた。そして、進言を最後まで後押しできなかった己を無言で責め立てた。
「控えよ、坊門宰相……」
御簾の向こうから、帝が低く唸るように声を上げる。
「……今更言うても詮無きこと。河内守の献策を退けたのは、朕も宰相と同罪である。こうなっては、今更ながら献策のとおり比叡山に動座し、足利を京へ引き入れるしかあるまい」
「御意」
勅命に、清忠はすぐに飛び付いた。
続いて実世も賛同の意を示す。そして、隆資も沈痛な面持ちで頭を下げた。
「さりながら、足利を京へ入れた後、どのように尊氏を討つべきか。河内守を頼ることはもうできぬのじゃな。無二の武士をなくしたものよ」
誰も、御簾に遮られた帝の表情を推し測ることはできなかった。
「比叡山への動座の後は、新田中将(義貞)と、よう相談して策を決めるのが良ろしいかと存じまする」
内裏の重い空気の中で、左大臣の近衛経忠が朝議を括った。
帝(後醍醐天皇)が比叡山の大宮彼岸所に動座した直後、足利軍は新田軍を追って入京し、東寺に陣を張った。
一方、足利を京に入れた朝廷だが、兵糧攻めのために、洛中の食糧を一掃する手筈を整える暇はなかった。
結果、足利軍は早々に兵糧を確保して朝廷に対抗する。逆に宮方は、足利討伐の策が定まらず、いたずらに時を過ごした。
河内国の赤坂。鮮やかな山々の緑とは対照的に、楠木館は全ての色を失っていた。家中の者たちは、楠木正成をはじめとする討死した男たちのために喪に服していた。
庭先で、虎夜刃丸が一節切を袋から取り出して見つめている。以前、足利尊氏にもらったものであった。
「こんなもの」
庭の植え込みの中に一節切を投げ捨て、館の中に駆けていった。自分が尊氏と戦いたくないと言ったばかりに父は死んだ。虎夜刃丸には、そう思えていた。
館に入った虎夜刃丸を、母の久子が手で招く。
「よいところに来ました」
そこには、楠木正行と美木多正氏、恩地左近満俊、それに見覚えのある男がいた。与力衆の一人、津田範高である。
一同は心なしか浮かない顔をしている。父が亡くなったということばかりではないようである。
母に促された虎夜刃丸は、広間の下に座った。
「虎夜刃丸、そなたに父上の遺言を伝えます」
「いごん……」
数え七歳の虎夜刃丸には意味がわからない。つっと兄、正行の顔を窺った。
「遺言とは、父上が虎に残した言伝じゃ」
「そうです。父上は亡くなる前、虎夜刃丸をこちらの津田左衛門尉殿の元へ猶子に出すように言い付けられたのじゃ」
久子が説明するが、やはり、虎夜刃丸には理解できず、もう一度、長兄の顔を見る。
「猶子になるとは、これから津田殿に父になってもらい、津田家で暮らすということ。つまり、お前はこの館を出て、津田殿の子になるのじゃ」
虎夜刃丸は、突如、床が消えて落ちて行くような感覚に襲われた。
怯えた表情で母に助けを求める。
「嫌じゃ……わしが悪い子じゃから館を出されるのですか……ならば、一生懸命よい子になりますゆえ、館を出さないでくだされ」
幼子の必死な姿は、皆の表情を曇らせた。
苦悶の表情を浮かべた久子は、虎夜刃丸ににじり寄って両手で抱き寄せる。
「違うのじゃ、虎夜刃丸。そなたはこの母にとって、自慢のよい子じゃ……」
しかし、その手を解き、虎夜刃丸の両肩に添える。
「……されど、楠木の血を絶やさないため、必要な事なのです」
だが、幼子にそのような事情などわかろう筈はない。虎夜刃丸は涙を溢し、母の手を振り払って広間を掛け出た。
まだ稚い虎夜刃丸は、奥の間に籠って泣き続けていた。
「少しよいか、虎夜刃丸」
そう言って部屋に入ってきたのは、叔父の美木多正氏であった。湊川の傷は癒えていない。手や足に白い晒を巻いて前に座る。
「津田殿は帰られた。今日のところは挨拶だけじゃ……」
しかし、その声が届いていないかのように、泣き続けている。
「……辛いであろう。お前の気持ちはわしが一番わかる」
「五郎叔父になぜわかるっ」
やっと虎夜刃丸が口を開いた。
「わかるぞ。わしも幼き時に、この楠木の猶子となった」
虎夜刃丸が、ひっくひっくと息をしゃくって顔を上げる。
「五郎叔父も……辛くなかったの」
「もちろん辛い。されど、この歳になってわかる事もある。武家は家名を残す事こそが大事なのじゃ。この先は乱世となろう。皆がひとところに居っては、一緒に絶えてしまう事も起こり得る。さすれば……」
「さすれば……」
「将来、楠木の名を受け継ぐであろう者たちも、この世から一緒に消えてしまうことになる。それは祖先に対して申し訳ないことじゃ。左様なことになれば何と詫びればよいか……」
真面目な顔で正氏が、虎夜刃丸の頭に手をやる。
「……いま、幼いお前にわかれとは言わん。されど、大人になった時、きっと父の気持ちがわかるであろう。わしが言いたいのはそれだけじゃ」
そう言うと正氏は立ち上がり、奥の間を出ていった。
幼い虎夜刃丸には、そんな大人の事情はわからない。しかし、ただ一つ、父がそれを望んだということだけは理解できた。
六月五日、日増しに緑の色を濃くする比叡山に、足利軍が攻め上がった。
対するは、参議を更迭された千種忠顕。護良親王を陥れた責任を問われ、剃髪して出家していた。
「麿はこのようなことではまだ終われぬ。手柄を立てるのじゃ。手柄を立てて再び公卿に復さん」
三百余騎を引いて比叡山の西、雲母坂で足利軍を迎え討つ。
「者ども、賊軍を切って切って、切り倒すのじゃ」
勇ましく兵を鼓舞するが、所詮、忠顕は戦を知らない。洛中から攻め上がった足利軍に退路を断たれ、囲まれて敢無く討死する。
建武の新政で、我が世の春と栄華を誇った左近衛中将、千種忠顕のあっけない最後であった。
六月十三日、その千種忠顕の罷免を求めて内裏に復帰した権中納言の四条隆資も、比叡山から討って出る。従うは、楠木正成の意を酌んで京に残った湯浅定仏(宗藤)ら五百の兵であった。
「男山さえ奪うことができれば、足利勢を押さえられる。よいか、目指すは男山八幡じゃ」
隆資は足利軍を背後から牽制し、比叡山の新田軍とで挟み込もうとしていた。
しかし、足利尊氏はこの動きに、執事で戦上手の高師直を向かわせた。
男山を巡って両軍の間で激しい合戦となった。
大将の隆資自らが先頭に立って兵たちを鼓舞する。
「何としてでも男山に取り付くのじゃ」
「おおっ」
互いに譲らぬ激しい戦を制したのは、意外にも四条軍の方であった。隆資の執念がかろうじて師直を退けた。しかし、男山に陣を張ったものの、師直はその周りを囲み、四条軍は身動きがとれない状況に陥ってしまう。
六月も終わりの三十日。いまだ宮方と足利方の散発的な衝突が、洛中、洛外を問わず続いていた。
業を煮やした、左近衛中将新田義貞と、伯耆守の名和長年を主力とする官軍は、足利軍と雌雄を決する事を決める。
夏盛りにも関わらず、大鎧を纏って比叡山の行宮(仮宮)に参内した義貞が、長年とともに、殿上の帝(後醍醐天皇)を前に畏まる。
「恐れ多くも主上に弓を弾き、洛外へと追いやった逆賊尊氏めを、必ずや討伐して御覧に入れまする」
「新田中将、大義じゃ。そちの勝利を信じておるぞ。伯耆守も、中将と力を合わせ、ことに臨むがよかろう」
御簾を上げさせた帝は、奏上役の一条行房を通さずに直答した。
「はっ、必ずや主上を内裏に御戻し致します」
長年も頭を低くして、神妙に答えた。
「伯耆守よ、千種殿も討死し、三木一草もついにそなただけになったな」
殿上から、権中納言の洞院実世が、少し嫌味を効かせて語りかけた。
すると、長年が顔を真っ赤にする。
「それがしとて武士の端くれ。命を惜しんで名を汚すようなことは致しませぬ。我が忠義、決して河内守殿(正成)に劣らぬところをお見せいたしましょう」
「伯耆守、そちとは船上山で苦労を分かち合った中じゃ。そちの忠義は朕が一番よく知っておる。必ずや賊を討伐すると信じておる。じゃが、決して命を粗末にするでないぞ」
帝は長年をじっと見つめて語りかけた。長年はその恩情に打ち震えた。
うちに覚悟を秘めた名和長年は、比叡山を下って洛中の足利軍に臨む。一条大宮で少弐頼尚の軍勢と相まみえ、両軍は激しくぶつかった。
「引いてはならんぞ。命を惜しむな、名をこそ惜しめ」
少軍にもかかわらず、長年は兵を鼓舞して突進していった。
しかし長年は、敵兵の矢を受けて動きが止まったところを、松浦党の草野秀永に討ち取られる。
東市正として商業を支配して財を蓄えた長年であった。だが、最後は武士としての意地を通して戦死した。
これで、建武の新政で三木一草と囃し立てられた四人は、全て討ち死にして果てたのであった。
一方、新田義貞は軍を率い、足利尊氏が布陣する東寺を急襲する。
最初、新田軍は、不意を付かれて慌てふためく足利の兵をたくさん討ち取った。しかし、徐々に足利の諸将が東寺に駆け付けると、新田軍を押し戻した。
ぎりっと奥歯を噛んだ義貞が、単騎で足利勢の前に進み出る。
「我こそは、賊軍が偽院宣を持って朝敵とする新田左近衛中将、義貞じゃ。賊の大将、足利尊氏に物申す。多くの兵、多くの民を巻き込んで、天下に騒乱を起こすことが尊氏の本望でないならば、ここは大将同士の一騎打ちで方を付けようではないか……」
じりじりと照りつける日差しに、汗がつうっと義貞の首を伝う。
「……ともに八幡太郎(源義家)を祖先に持つ身。その血が尊氏にも流れているなら、ここに出て来て尋常に勝負せよ」
馬に跨ったまま、義貞は足利勢に向けて挑発した。続々と数を増やす足利軍に対し、勝ち目がないと悟った義貞の、一か八かの賭けであった。
本陣の中、取次の兵からこのことを伝え聞いた足利尊氏は、自身の立場を顧みず、すぐに立ちあがる。
「よし、わしの馬を引けい。新田と足利、どちらが清和源氏の棟梁として相応しいか、今ここで決めようぞ」
尊氏の純真無垢な言動に驚いたのは周囲である。
「将軍、なりませぬ。皆、将軍を止めるのじゃ」
足利一門の細川頼春が、両手を広げ、前に立ちはだかって諫めた。
そうこうしている間に、頼春の従弟、細川定禅が大軍を率いて駆け付ける。目の前に続々と集まる足利軍を前にして、新田四天王の筆頭、篠塚重広が義貞の隣に馬を付ける。
「殿、敵は大軍です。ここはひとまずお引きくだされ」
「いや、今しばらく尊氏めを待ってからじゃ」
「なりませぬっ。きっと尊氏は出て来ませぬ。このまま、ここに留まれば、多くの兵を失いますぞ」
重広の大声に、義貞は言葉を詰まらせる。兵を無駄に死なせると諭されては、撤退せざるを得なかった。
退却する義貞を細川定禅が追撃するが、新田の郎党たちが命を捨てて戦場から逃がした。
ところは変わって河内の赤坂。楠木館は、僧侶の声明のような、わしわしと鳴く蝉の声に包まれていた。
とうとう、虎夜刃丸がこの地を離れる日がやってくる。養父となる津田範高が楠木館を訪れていた。その隣に、旅支度を整えた虎夜刃丸の姿があった。
そして、もう一人、少年が座っている。名は吉祥丸。近習として一緒に範高の元に預けられることになっていた。楠木の縁戚でもある家臣、河野辺家から選ばれた同じ歳の少年である。だが、虎夜刃丸以上に落ち着いて見えた。二人は烏を通じて不思議な縁で繋がっている。だが、互いにそのことは知らなかった。
「奥方様(久子)、若殿(楠木正行)、目代殿(美木多正氏)、そろそろ出立致します。では、虎夜刃丸殿」
館の広間で、範高が別れの挨拶を促した。
虎夜刃丸は吉祥丸とともに、範高の隣で正座して両手を突く。
「母上様、兄上様、叔父上様、では、行って参ります」
浮かない表情である。この一月、母の久子、兄の正行と持王丸、そして叔父の美木多正氏は、虎夜刃丸に優しく接した。いつもと違う雰囲気に戸惑い、そして、別れが近づいている事を自覚して過ごした。
長兄の正行は努めて温顔を崩さない。
「虎、津田荘は同じ河内の中じゃ。会おうと思えばいつでも会える。お前が津田殿の館に行っても我らは兄弟のままじゃ」
「遊びに来い。待っておるぞ。剣術の稽古は、やはり俺が教えてやらねばな」
次兄の持王丸が威勢のよい言葉を加えた。しかし、持王丸とて虎夜刃丸が居なくなる寂しさに胸を痛めていた。
「これを持っていきなさい」
久子が差し出したのは一節切であった。
しかし、虎夜刃丸は目を背ける。
「それは捨てたのです」
「でも、この笛はあなたのお気に入りだったではないですか。笛に何の咎めがありましょうや」
久子は捨てられた一節切を見つけ、足利尊氏からもらったものであることを承知のうえでしまっていた。
「わしが持っていてもよいのですか」
「殿の仇であるあの方も、そなたに笛を授けたあの方も、同じ人なのですよね。不思議なものです。されど、笛を吹いてくださった姿に偽りはなかったでしょう。そなたさえよければ、笛を持っていきなさい」
母の言葉に、虎夜刃丸は伏し目がちに手を出して一節切を受け取った。
「さあ、参りましょうか」
範高に促され、虎夜刃丸は立ち上がった。
館の外で、範高は虎夜刃丸を抱き上げて先に馬に載せ、自分はその後ろから抱えるようにして馬に跨る。同様に、吉祥丸も津田の郎党に抱えられて馬に乗った。
「では、みなさま方、これにて御免」
馬の脇腹に鐙を当てた範高は、二人を連れて北河内へと向かった。
津田範高に連れられて、虎夜刃丸と吉祥丸は津田の館に入る。津田荘は河内国の北に位置し、権中納言の四条隆資が布陣する男山八幡から南へ三里の所にあった。
館に入った二人は、範高の家族に迎えられる。人当たりのよさそうな母と、男子だけで五人の子ども達である。
嫡男は範長といい、虎夜刃丸の長兄、正行よりは随分歳上であった。
二人は順番に挨拶を受け、最後の一人となる。
「三輪丸です。お願い申します」
範高の末子で、虎夜刃丸より一つ歳下である。
歳も似通った幼子同士。三人が打ち解け合うのも早かった
猶子として虎夜刃丸を迎えた範高だが、あくまで楠木正成の子として、礼節を持って接する。これは将来、虎夜刃丸を擁して一城の主とするためである。これが範高なりの、正成に対する恩返しであった。
東寺に敷いた足利の本陣。食堂に座り、珍しく軍忠状の証判に袖書する足利尊氏の前に、舎弟の直義が静かに座る。
「兄者、畿内の武士どもが先帝(後醍醐天皇)の元へ兵糧を運び入れておる。何とかせねばならん。とりわけ楠木の動きが気になる」
比叡山の帝(後醍醐天皇)を先帝と呼んだのには理由があった。すでにこの時、持明院統の光厳上皇の弟、豊仁親王が、三種の神器がないままに、上皇の院宣をもって新帝(光明天皇)として即位していたからである。もちろん比叡山の帝の与かり知らぬことであった。
八咫鏡、草薙剣、八尺瓊勾玉の三器のない即位は、後白河法皇の院宣で即位した後鳥羽天皇の先例に倣ったものであった。
弟の意図を察した尊氏が、軍忠状から顔を上げる。
「楠木は一族揃って討死した。嫡男はまだこどもであろう。今はそっとしておいてやればよい」
「その嫡男の後ろ盾として、叔父が一族を纏めておるという。いまだ河内に影響ある楠木を、このままには捨て置けぬ」
悠長な尊氏に、直義は呆れ顔でせっついた。
「では具体的にどうするのじゃ」
「まずは守護じゃ。いつまでも名ばかりの守護では世間に示しが着かぬ……」
直義は、楠木家を気遣って煮え切らない兄に、不満を抱いていた。
「……兵部少輔、細川顕氏を河内・和泉の守護に任じよう。顕氏の元に河内の諸将を集め、楠木に与する者たちを我らに引き入れる」
「……お前に任せる」
尊氏は直義から顔を背けると、不機嫌に言葉を返した。
秋に入ると、虎夜刃丸が預けられていた津田範高の館が慌ただしくなった。
館の広間に座る範高の前に、嫡男の範長が神妙な顔で腰を下ろす。
「父上、何事でございましょうや」
「うむ、細川顕氏という者が、足利尊氏より河内・和泉の守護に任じられたという。両国の諸将に万事、細川に従うようにと命じてきた」
すべらすように、範高が書状を前に差し出した。
範長はその書状を拾い上げ、目を通した後、困り顔を上げる。
「父上(津田範高)はいかがされるのですか」
「当然、わしは従うつもりなどないが、この津田荘は京からも近い。表立って反旗を翻しては、真っ先に討伐されかねない。表向きは思案する振りをして、やり過ごすしかなかろう……」
頷く息子の顔を見ながら範高が続ける。
「……じゃが問題は虎夜刃丸殿じゃ。正成殿の子をかくまっていると知られれば、どのような咎めを受けるやもしれぬ」
「確かに、面倒なことになりますな」
「くれぐれも、虎夜刃丸殿を我が子としていることは内密にな」
「承知致しました。それがしから家中の者に伝えましょう」
範長は暗い顔で書状を父に返した。
その様子を柱の影から虎夜刃丸が覗いていた。漠然と、自分の立場を理解した瞬間である。自らの存在が津田家の厄介事になっていることに、居たたまれなかった。
心に波紋を広げる虎夜刃丸の後ろ姿に、吉祥丸と三輪丸は声を掛けることもできず、ただ見守った。
河内・和泉両国の守護に任じられた細川顕氏は、さっそく比叡山の帝(後醍醐天皇)を支える畿内の武士の切り崩しに乗り出した。
これに対して楠木党は、美木多正氏が若き棟梁、楠木正行の名で、河内・和泉の武士を召集する。呼び掛けに応じて赤坂の楠木本城(上赤坂城)に馳せ参じたのは、正氏らが信頼する一門衆と与力衆であった。
一門としては、楠木正成の従弟、大塚惟正。湊川で討死した橋本正員の舎弟である橋本正茂。同じく討死した和田正遠の子である和田正興。神宮寺正師の嫡男、神宮寺正房。他にも佐備正安・正忠兄弟らである。
与力としては、八木法達、八尾顕幸、高木遠盛、そして、正氏と血縁ある岸和田治氏ら、楠木に近しい河内や和泉の国人たちであった。
まずは正氏が、皆の前で頭を下げる。
「我らは先の湊川の戦で大敗し、多くの者が討死した。その中、楠木の下知に応じて、これだけの諸将が太郎(楠木正行)の元に集まってくれた事、亡き兄者(楠木正成)に代わり、礼を申す」
「皆の衆、若輩の身なれど、父、正成の跡を継ぎ、力を尽くし、賊から河内を護る所存じゃ。よしなに頼む」
まだ、数えの十四歳の正行は、緊張の面持ちで頭を下げた。
「若殿(正行)、目代殿(正氏)、ここは我らにお任せあれ。足利方が来ようものなら、我らが兵を出しましょうぞ。先代様(正成)がそれがしを湊川から帰したのも、きっと、このような時のためじゃ」
進んで出陣を申し出たのは、討死した和田正遠に代わり、和泉守護代を任じられた大塚惟正。正成の叔母の子である。
「掃部助殿(惟正)、ありがたい申し出、痛み入る。今は貴殿らが頼りじゃ」
棟梁の正行が口元を引き締めて一礼で応じた。
だが、与力の一人、八尾顕幸は、一同を見回して不安げな表情を浮かべる。
「されど、顔を出しておらぬ輩もたくさんおるな」
「和泉の国人どもでは、当初から足利に従う上条の田代(基綱)は言うにおよばず、淡輪(重氏)、日根野(盛治)……されど、これで敵味方がはっきりしたというものじゃ」
同じ和泉の豪族、八木法達は、清々したと言わんばかりに吐き捨てた。
「足利に付きたい者は付けばよい。比叡山の帝(後醍醐天皇)に忠義を尽くす者だけで、この地を踏みにじる輩を追い払おうではないか」
正氏の決意に、諸将がうおぉっと唸る様に気勢を上げた。
十月五日、宮方の八尾顕幸が摂津に出陣している隙に、河内に侵攻した足利方の河内守護、細川顕氏によって八尾城が落とされる。
これに対して宮方は、ただちに城の奪還を目指し、和田正興や高木遠盛らが出陣する。そして、八尾城を占領した細川旗下の秋山彦三郎・彦五郎兄弟らとの間で激しい戦が行われた。だが、続々と押し寄せる足利の援軍に押され、宮方は退かざるを得なくなる。
河内の中心にある八尾城が足利方の手に落ちたことで、南河内や和泉の宮方諸将と、比叡山の朝廷との間にくさびが打ち込まれた格好となった。
その比叡山では、鮮やかな紅葉に包まれる頃となっても、新田義貞ら宮方武将たちが、足利軍と小競り合いを繰り返していた。
行宮としている大宮彼岸所では、帝(後醍醐天皇)を前に、やつれ顔の公卿たちが居並んでいた。
権中納言の洞院実世が、くすんだ顔を上げて報告する。
「足利は琵琶湖の西岸を押さえ、堅田や瀬田からも兵糧の運び入れができなくなっております」
「つまり、船では兵糧を運び入れることはできぬということか」
その父である右大臣、洞院公賢が険しい顔で聞き返した。
「左様、あちらこちらの湊も佐々木党に抑えられております」
「では、河内国の正成の舎弟に命じて、軍を仕立て、南から兵糧を運び入れられぬか」
「河内では八尾城を巡って宮方の諸将と足利方の間で激戦となったようですが、残念ながら宮方は駆逐されたとか。楠木は完全に南河内に押し込められてございます」
息子、実世の説明に、公賢は深刻な顔でうつむいた。
ふうっと息を吐いた坊門清忠が、諦め顔で一同を見渡す。
「こうなってはもはや致し方ありませぬ。ここは、足利尊氏と和睦するのがよろしいのではありますまいか」
これに公卿一同がざわつく。
抗戦を主張する実世が顔を真っ赤にする。
「和睦じゃと。何を持って和睦とするのじゃ。すでに尊氏は持明院の君(光厳上皇)の元で我らと抗っておるのじゃぞ。主上(後醍醐天皇)に御退位を迫るのは目に見えておる」
「持明院の院宣は新田左近衛中将(義貞)の討伐でございます。我らがここで新田中将と手を切れば、まだ、足利尊氏は主上を受け入れることでしょう」
清忠は、足利が新帝(光明天皇)を擁立したことを知らない。和睦が成れば、帝(後醍醐天皇)が内裏に戻り、いまだ自分たちも公卿を続けられるくらいに思っていた。
「何、新田中将を見捨てよと申されるか。それはかつて……」
実世は言いかけて口籠る。それはかつて清忠とともに聞いた、楠木正成の献策であった。
「此度の戦は、新田中将にも責任がございます。足利憎しと争いを広げてしまいました。言わば、主上は清和源氏の嫡流を争う足利と新田の争いに巻き込まれたようなもの。千種卿、伯耆守、河内守らを亡くした責めは免れませぬ」
かつての正成の献策を真似て、責任を義貞一人に擦り付けようとしていた。だが、その実態はほど遠いものである。正成はあくまで新田家の存続を図るのが前提であった。だが、清忠の献策では、比叡山に逆賊として取り残される新田軍が、足利軍に取り囲まれて全滅するのは目に見えていた。しかも、これだけ劣勢になってからの和睦では、宮方の条件など尊氏が……特に、舎弟の直義が呑むはずもない。正成のそれは、朝廷側が足利を九州に敗走させた直後だからこそ有効であり、義貞の出家か配流の程度で手を打つことができると計算されたものであった。
清忠の進言が道理に悖るものであることは承知しつつも、他に策を持たない公卿たちは帝の発言に注目した。
「忍びないことではあるが、こうなってしまっては是非もない。坊門宰相の言う通り、足利尊氏と和議を結び、山を下りよう」
帝の苦渋の決断に公卿たちは平伏した。中には、やっと山を下りられると安堵の表情を見せる公卿もいた。右大臣の洞院公賢がその一人である。
しかし、その公賢の息子である洞院実世は、坊門清忠の和睦案に不満を持ち、新田義貞の家臣に耳打ちする。すると、当たり前のように、新田軍に動揺と反発が沸き起こった。
このことで、帝(後醍醐天皇)は新田の処遇を思案し、義貞を行宮に召し出す。
「新田中将は、恒良と尊良を奉じて北陸に下向し、兵を募り、必ずや京から足利を駆逐するのじゃ。頼んだぞ」
恒良親王は東宮(皇太子)であり、尊良親王は、かつて正成も奉じた帝の第一皇子である。
義貞は、自らが切り捨てられようとしたことも、全て腹の中に飲み込んで、愚直に命に従って北陸に下向することを決した。そして、坊門清忠の意見に反発した洞院実世と蔵人頭の一条行房も、これに同行する。
一方、男山に布陣する権中納言の四条隆資は、徹底抗戦を唱えて、高師直が指揮する足利軍と戦っていた。だが、帝が和睦に応じたことを知ると、湯浅定仏の献策を受け、捲土重来を期し、兵を率いて紀伊へと落ちて行った。
十月十日、洛中に戻った帝(後醍醐天皇)を、赤や黄色に深く染めあげた晩秋の紅葉が出迎える。しかし、和睦に応じた帝を、足利は花山院に軟禁した。
一切を仕切ったのは、足利尊氏の舎弟、直義。彼の頭の中は、いかに三種の神器を譲り渡してもらうか、その一点のみであった。
去る八月十五日、持明院統の光厳上皇の弟宮、豊仁親王が、三種の神器がないまま、上皇の院宣によって新帝(光明天皇)として即位していた。これを確かなものとするためには、三種の神器が必要であった。
花山院の一間でのこと。直義が、帝に付き従う坊門清忠に、三種の神器の譲与を迫った。
すると、庭の楓のように、清忠が顔を真っ赤にする。
「御上に和睦を求めつつ、持明院の宮を帝に即位させていたなど、卑怯にもほどがあろう。そのうえで神器の譲渡を求めるなど、まったくもって不快極まりないことじゃ」
面子を丸潰れにされた清忠は、激昂して直義の申し出を一蹴した。
「坊門様(清忠)、それを言える御立場か。新田が北陸下向で奉じた東宮様(恒良親王)ですが、すでに先帝(後醍醐天皇)から皇位を譲られ、帝として北陸に下向したとの噂を聞き申す。真実はどこか」
「そ、それは……」
強い口調で追及する直義に、清忠はしどろもどろとなって口ごもった。
翌々日、花山院の帝(後醍醐天皇)から、三種の神器が持明院の豊仁親王に譲与され、名実ともに新帝(光明天皇)が誕生した。
そして、先帝(後醍醐天皇)には太上天皇(上皇)の称号が贈られ、成良親王が新帝(光明天皇)の東宮(皇太子)に立てられた。
この成良親王は、北陸へ向かった新田義貞が奉じた恒良親王の弟宮である。かつて、直義が鎌倉将軍府に下向した際、鎌倉府将軍宮として奉じた先帝(後醍醐天皇)の皇子であった。
尊氏と直義は、昔のように持明院と大覚寺の皇統を交互に立てる両統迭立とすることで、先帝(後醍醐天皇)の怒りを鎮めようとした。
その五日後の十一月七日。足利尊氏は、舎弟の直義が明法家の中原是円・真恵の兄弟らに命じて作らせた、十七条からなる建武式目を制定する。
すでに元号は建武から延元に改元されていたが、足利軍が京に再入洛した直後の六月十五日、持明院の君(光厳上皇)の院宣をもって、延元改元を無効として元号を建武に戻していた。
この建武式目は、鎌倉幕府の根幹であった御成敗式目(貞永式目)を敬し、新たな武家政権の施政の方針を、諸国の武士に示すものである。ここに、実質的に足利幕府が開かれたと言ってよかった。
足利尊氏は、二条高倉(押小路高倉)に造った新たな屋敷に直義を招いた。
白木の薫り漂う広間で、尊氏が弟を前に感慨深げな表情を浮かべる。
「やっと我ら祖先の悲願を達した。先帝(後醍醐天皇)には恐れ多きことなれど、これで太平の世を迎えられる」
「兄者、長い道のりでございましたな。あとは征夷大将軍としての宣下を待つのみじゃ」
「うむ。わしに大将軍の宣旨が下されれば、直義、そなたには副将軍として幕府の政務を任せたい。これまでと同様に、わしを支えてくれ」
「もちろんじゃとも」
兄弟は手を取り合う。二人は、これで全てが終わったと思った。だが、先帝の人並みならぬ胆力を見誤っていた。
失意のどん底にいるはずの先帝(後醍醐天皇)であったが、その気力はいささかも失われることはない。
十二月二十一日、北風が身を刺すほどほどの寒い夜のことであった。先帝は建武式目を発布して油断していた足利方の警備の隙を突き、女房(女官)の被衣を被って、密かに花山院を脱出する。そして、修験者らに守られて高野山へと向かった。
高野山は父帝であった後宇多院と深い関係にあった真言密教の総本山である。ここで、僧兵たちにかくまってもらい、先に紀伊に落ちた権中納言、四条隆資と合流するつもりであった。
早馬を送って高野山からの受け入れの返答を待ったが、紀伊に入る頃になっても返事を得ることはできなかった。そのため、ひとまず、その東の穴生に入り、この地の土豪、堀孫太郎信増を頼って宿とした。十二月二十三日のことである。
【注記:本来は穴生と読むが、本作では穴生とする】
先帝(後醍醐天皇)が穴生に入られたとの知らせは、すぐに、河内国赤坂の楠木館にもたらされた。河内目代の美木多正氏は、郎党数十人を引き連れて、馬を飛ばして穴生に駆け付ける。
堀信増の館では、先帝が座敷の奥に座り、近習が縁側に控えていた。
庭に伏した正氏は、奏上役の呼び掛けに、寒さと緊張で顔を強張らせながら口を開く。
「楠木正成が舎弟、美木多判官にございます。主上がこちらに行幸されたと聞きおよび、すぐさま駆け付けましてございます」
すると、奏上役を無視して、先帝が直接、話しかける。
「判官、大儀である。正成の死は朕にとって悲痛な事実であった。生き残った楠木一族は今、どのようにしておるか」
「はい、兄をはじめ一門衆の多くが亡くなり、深い悲しみの最中にござります。我ら力は大きく削がれ、今や大軍を動かす力は楠木党にはなくなりました。されど、正成が嫡男、正行を擁して、必ずや楠木党を立て直し、主上に尽くしとうございます」
うむと満足そうに先帝が頷く。
「判官(正氏)、頼りにしておるぞ」
「はっ、恐縮に存じまする」
終始、正氏は頭を低くして応じた。
「判官、顔を上げよ。さっそくじゃが、朕は高野山を頼ってここまで来たが、すでに足利の手が回り、高野へ向かうことは叶わなくなった。どこか、朕を迎えてくれるところはあろうか」
問いかけに、正氏は恐る恐る顔を上げる。初めて見る先帝の尊顔であった。穏やかな表情だが、眼光は鋭く威厳に満ち溢れていた。
正氏は我に戻って口を開く。
「はっ。それであれば、吉野山、吉水院の執事、宗信法印殿がかくまってくれるかと存じます」
「吉水院というと、かつて護良が隠れたところであるか」
「御意、法印殿は忠節の志厚く、喜んで受け入れられるでありましょう。また、吉野山は天然の要害。我ら近隣の武士にとってもお護りし易く、うってつけの場所にございます」
先帝は長く整えられた顎鬚に手をやる。
「うむ。では、判官、手配はそちに任せよう。よしなに頼むぞ」
「ははっ」
すぐさま正氏は、吉水院の宗信法印に使いを送った。
十二月二十八日、先帝(後醍醐天皇)は、美木多正氏が率いる楠木党や、僧兵・修験者およそ三百人に警護されて、大和国の吉野山に入る。そして、吉水院の奥の座敷を一時的な玉座とした。
すぐさま、楠木党の若き棟梁、楠木太郎正行や、和田正遠の弟息子、和田新九郎正武が吉野山の警護に駆け付ける。
楠木正成の嫡男が警備に付いたと知った先帝は、すぐに参内を求めた。
後見役の正氏を隣に付けた正行は、吉水院の奥の座敷に鎮座する先帝(後醍醐天皇)の前に進み出て、恭しく頭を下げる。
「先の河内守が嫡男、太郎正行にございます」
低く平服して言上した。
「楠木正行、大儀である。顔を上げよ」
先帝は傍らに、奏上役の蔵人を置いていたが、自ら進んで声をかけた。
命じられて、正行はゆっくりと顔を上げる。
「うむ、よい面構えじゃ。朕は正成を救ってやることができなかった。申し訳なく思うておる」
「は、ありがたきお言葉、痛み入りまする。父、正成も、その御言葉を聞き、報われる思いでございましょう」
「うむ」
歳若いが、しっかりとした受け答えに、先帝は目を細めた。
「ここ吉水は、かの源義経をもかくまったゆかりの僧坊。義経を守った弁慶がごとく、この正行、命を賭して主上をお守りする所存。主上におかれましても、御心安らかになされますように」
「はっはっは。さすがは正成の嫡男だけのことはある。若いが立派なもの言いじゃ。朕も安堵したぞ。そうか、正成の子がのう……頼もしき限りじゃ」
死地へと向かわせてしまった正成を想いながら、先帝は感慨深げに頷いた。
吉野山の吉水院に一時的に落ちついた先帝(後醍醐天皇)の元には、続々と公家や武士が集まってくる。高野山で合流できなかった権中納言の四条隆資は、湯浅定仏の湯浅党、貴志党ら紀伊の諸将を率いて駆け付けた。京からも大覚寺統の公家らが少しずつ集まってくる。その中には参議の坊門清忠や、権大納言の北畠親房の姿もあった。
親房は吉水院に入るや、人払いをして先帝に今後の対応を進言する。
急進的な先帝と漸進的な親房とは、決して考えを一つにする仲ではなかった。これまでも、先帝は親房を重用したとは言い難い。しかし、この度は仕切りを任せる事とした。その明晰な頭脳と、嫡男、顕家が率いる奥州軍に、期待せざるを得ないからであった。
延元二年(一三三七年)正月。京の朝廷は延元改元を無効として元号を建武に戻していたが、ここ吉野では延元を使い続けていた。
権大納言の北畠親房は、吉水院に公家や近隣の武将を集める。その中には楠木正行と美木多正氏の姿もあった。
玉座の前には御簾が吊り下げられ、その前に公卿たちが居並ぶ。下座にはその他の公家が並び、正行ら武士は、小具足姿で屋敷の外の庭に控えた。
殿上から親房がおもむろに話を切り出す。
「出仕ご苦労であった。皆に申し渡したき儀がある……」
正行は何事かと、叔父の正氏と顔を見合わせた。
「……御上(後醍醐天皇)が京で持明院の豊仁親王に譲与した三種の神器は、いずれも偽物である。本物の神器は北国に向かった宮様(尊良親王と恒良親王)が持ち出され、いま、御上の元に戻された。よって、京におる帝は帝にあらず。皆の前におわす主上(後醍醐天皇)が、今もって今上の君(帝)である。よって、ここ吉野山を、暫しの間、都と致すことにする」
親房の話が終わると、集まった公家や武士たちからは、歓喜のどよめきが沸き上がる。正行と正氏は、そんな公家と武士たちに圧倒され、周囲を見ながらただ唖然とするばかりであった。
ここに、京と吉野に二人の帝と二つの朝廷が存在するという稀有な状況、まさに、あってはならぬ南北朝時代が始まったのであった。
先の帝(後醍醐天皇)が吉野で朝廷を打ち立てたという話は、すぐに京の朝廷の知るところとなる。
京の公卿たちはおろか、京の帝(光明天皇)や上皇(光厳上皇)でさえも、譲与された神器の真偽はわからなかった。当然のことながら、京の朝廷は吉野の朝廷と帝を認めることはなかった。
二条高倉に屋敷を構えた足利尊氏の元に、舎弟、足利直義が訪れる。直義は勝手に屋敷の中に上がり、奥の書院に尊氏の姿を認める。
「兄者、先帝(後醍醐天皇)が吉野に朝廷を開いたことはまことに由々しきことじゃ。このまま放置しておいては禍根を残す」
「おお、直義か。うむ、まさか神器が偽物であったとは……和睦の使者を送ったが、北畠卿(親房)に追い返された」
どがっと前に座った直義に、諦め顔で尊氏が応じた。
淡白な兄の様子に、直義は苛立つ。
「兄者、今さら神器の真贋はどうでもよい。武家と公家の多くが京の帝(光明天皇)に付けば、京の帝が唯一となる。それより、吉野の先帝が意地を通せるのも、支える武士が居るからじゃ。これを何とかせねばならん」
「うむ……」
結論を急ぐ直義に、尊氏は鷹揚に腕を組んだ。
「先帝の吉野入りを楠木の一族が支えたという。さらに吉野方は河内・和泉の両国の守護を、楠木正成の嫡男としたと触れ回っておる。やはり楠木を何とかせねば、収まりが着かぬ」
楠木家に恩情ある処置を考えていた尊氏は、直義の話を聞いて困惑の表情を浮かべた。
「兄者、ここで至情は無用じゃ。細川兵部少輔(顕氏)に命じて、楠木の拠点に軍を送る。よいな」
間髪置かずに直義に迫られ、尊氏はしぶしぶ頷く。
「致し方ない。東条(水分や赤坂を含む広域)に兵を送り、楠木の動きを止めるがよい」
「承知した、兄者」
口元に薄く笑いを浮かべた直義は、すぐさま座を立った。
三月十日、足利方の河内・和泉両国の守護である細川顕氏が、両国の吉野方武士の牽制に動く。これに対し、若い楠木正行に代わって美木多正氏が諸将に出陣を下知した。
湊川で壊滅的な状況に陥った楠木家に代わり、吉野方は和泉守護代の大塚惟正を抗戦軍の大将とした。惟正は、八木法達や岸和田治氏など和泉の諸将を率いて出撃し、藤井寺から野中寺にかけてのあたりで、顕氏率いる足利軍とぶつかった。
「こしゃくな吉野方め。歯向かう者どもは容赦をするな」
細川顕氏の下知で、坂東武者が吉野方の軍勢に斬り掛かった。
対して、吉野方を指揮する惟正は、歩兵たちに向けて声を張る。
「敵将に絞って矢を射かけるのじゃ」
吉野方の兵たちは、他の者には目もくれず、馬上でひと際目立つ、大鍬形の兜の武者に矢を集中させる。すると、吉野方が放った矢を受けて、一人の若武者が落馬した。
少し離れたところに居た、足利方の大将、顕氏があわてて駆けつける。
「た、直俊……」
落馬したのは顕氏の末弟、十九歳の細川直俊であった。
「……しっかりせよ、直俊」
「あ、兄者……」
慌てて顕氏が直俊を抱き起すが、首に矢を受けており、息絶える。
まさに窮鼠猫を噛む。敵将の一人を射止めた吉野方は、これで流れを作って足利軍を押し返し、細川顕氏を敗走させた。
虎夜刃丸が猶子に出された北河内、津田範高の館にも、足利方と吉野方の戦の結果は伝わっていた。
その広間では、範高に向けて、嫡男の津田範長が安堵の表情を見せる。
「ひとまず、宮方(吉野方)が足利方に勝利し、めでたきことです」
しかし、範高の表情は硬い。
「喜んではおられん。此度の足利方の戦は、楠木の動きを封じるのが目的であったと思われる。されど、この負け戦で、本気で楠木討伐に乗り出すやも知れぬ」
思いも拠らぬ範高の言葉に、範長が息を呑む。
「では赤坂の楠木本城を攻め落とすということですか……」
範長以上に驚いたのは、戸板の後ろで聞き耳を立てていた虎夜刃丸と吉祥丸であった。故郷が危機であると知った二人は、範高の前に飛び出す。
「津田の父上、赤坂を御救いくだされ」
「範高様、津田党の兵で足利軍を止めてくだされ」
幼い二人の訴えに、範高は辛そうな顔で目を閉じた。
嫡男の範長が、範高に代わる。
「虎夜刃丸殿、そなたの気持ちはわかるが、津田党は兵を出せぬ。北河内はもはや足利方の支配下。津田が兵を出せば、すぐに滅ぼされる立場じゃ。それに、津田の兵くらいでは焼け石に水なのじゃ」
「でも、赤坂には母上が……」
虎夜刃丸は声を枯らして訴えた。
「わしは虎夜刃丸殿の父上より、そなたを託された。残念じゃが、わしの役目は赤坂を助けることではなく、そなたを護る事なのじゃ」
そう言って範高は立ち上がって広間を出て行った。
後に残った範長が、幼い二人に頭を下げる。
「すまぬ。父も辛いのじゃ。わかってやってくれ」
虎夜刃丸と吉祥丸は肩を震わせて涙を流した。悔しいのか、悲しいのか、幼い二人は、自分が流す涙の理由さえも判らないほど動揺していた。
津田範高が心配した通り、細川顕氏は末弟、直俊の仇を討たんとするかのように、大軍を率いて再び河内国へ侵攻する。顕氏は、摂津国の四天王寺に本陣を敷き、田代基綱や二宮左衛門尉を率いて河内の制圧に着手した。
これに対し吉野方は、美木多正氏のもとで、橋本正茂や佐備正安・正忠ら楠木一族と、高木遠盛・小山忠能ら与力衆がこれを迎え撃つ。
一方、和泉国においては、足利方の和泉守護代、都筑量空入道と、吉野方の和泉守護代、大塚惟正が対峙する。
量空は宮里の地に城を築き、淡輪重氏や日根野盛治といった和泉の国人を率いた。
対して惟正は、槇尾山施福寺に陣を敷いて八木法達や岸和田治氏らを率いた。そして、足利方の宮里城を積極的に攻め立てた。
七月、足利方と吉野方の散発的な戦が続く中、楠木の家宰、恩智左近満俊は、流行り病のため自身の館で伏せていた。
夏の陽射しが燦々と館に降り注ぎ、周囲には青々とした野山が広がっている。しかし、館の中には、立つことさえもままならない老いた左近の姿があった。
戸板の間から野山の息吹きを目に写した左近は、自身の老いた身体を蔑むかのように溜め息を漏らした。
「父上、お加減は如何ですか」
嫡男の満一が、戦の合間を縫って父を見舞った。
「満一か……わしはもうだめじゃ。このまま、死ぬであろう……」
「何を弱気な事を。父上らしゅうございませんな」
つとめて普段と変わりなく、満一は父、左近に微笑んでみせる。
「いや……もうよいのじゃ。わしは歳じゃ……されど、足利に再三攻められておる楠木が心配でならん……満一、左近の名はお前が継げ。この後は、お前が恩地左近として楠木家をお守りせよ」
「父上……お任せあれ。それがしの命に代えても、若殿(楠木正行)をお守り致します」
涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえ、父の前で誓った。
この一月後、老臣、恩地左近は楠木家のゆく末を憂いながら息を引き取った。
晩秋十月、細川顕氏は数か月にも及ぶ膠着状態に決着をつけるべく、兵を動かす。侵食する紅葉と先を競うように、楠木党の拠点である東条に大軍を進めた。
楠木本城(上赤坂城)本丸(主郭)の陣屋では、具足姿の楠木正行と美木多正氏が、具足を鳴らしながら奥の間にやって来る。そこには久子と良子、そして、子どもたちの姿があった。
「義姉上(久子)、敵はこの赤坂に兵を進めておる。女こどもは千早城に早く向かってくだされ。良子、こどもらをよろしく頼むぞ」
厳しい表情で、正氏が皆を急かした。
「貴方様、御武運をお祈り致します。この子のためにも生きてお戻りくだされ」
妻の良子は身重であった。膨らんだお腹にそっと手を当てた正氏は、良子の顔を見て、無言で力強く頷いた。
「五郎殿(正氏)、太郎(正行)をよろしくお願いします。太郎も五郎殿の言うことをよく聞いて、命を大事になさい」
「母上、わかっております。さ、急いで」
息子に急かされて、久子らは山深い千早城に向かった。
楠木正行と美木多正氏は、南河内に向けて南進する足利本軍に対し、楠木本城で指揮を執る。
まず正氏は、敵将、細川顕氏を牽制するために、北の壷井丸山に橋本正茂を大将とする楠木軍を送った。さらに西の拠点、龍泉寺城には一族の佐備正安・正忠兄弟を配した。
和泉国では、足利方の和泉守護代、都筑量空が、和泉の国人らを搦手軍として率い、南河内へ向けて東に進軍を開始していた。
これに対して、槇尾山施福寺に布陣した吉野方の和泉守護代、大塚惟正が、和泉の豪族や僧兵たちを率いて出撃する。
南河内の一大決戦である赤坂合戦および天野合戦は、天野山金剛寺の西、横山において、互いに搦手軍を率いる和泉守護代同士の戦いで火蓋が切って落とされた。
足利方の都筑量空は、和泉の諸将を前にして声を張る。
「我らは天野山を貫いて、西から楠木の本城を目指す。邪魔立てする者は血祭りに上げよ」
都筑の軍勢は、大塚惟正が率いる吉野方を押し込んだ。両軍は大門坂を越えて天野山金剛寺にも雪崩れ込み、塔中にまで火を放って戦場を東に拡大させていった。
一方、南河内では、北の壷井丸山まで兵を進めた橋本正茂率いる楠木軍が、南進する足利方の総大将、細川顕氏と衝突した。本軍同士の河内の戦も熾烈を極め、一進一退の攻防が繰り返された。
戦は数日に渡る。長引くほどに、数に劣る吉野方は不利であった。
河内の戦では、楠木の本軍がじりじりと足利方に押し込まれた。美木多正氏は東条の入口である佐備に神宮寺正房らを展開して果敢にこれを防ごうとした。しかし、持ちこたえることができず、ついに足利軍は佐備谷口を突破して雪崩れ込み、佐備兄弟が守備する龍泉寺城を取り囲む。
楠木本城で指揮を執る楠木正行・美木多正氏の元には、次々に楠木軍の敗北と後退の知らせがもたらされていた。
「目代様(正氏)、龍泉寺城が敵の手に落ちました。佐備御兄弟は少兵でよく持ちこたえましたが、激戦の末、ともに御討死」
「何、正安と正忠がか……」
絵地図に目を落としていた正氏が、郎党の知らせに驚いて立ち上がった。すると、正行も意を決して立ち上がる。
「五郎叔父(正氏)、それがしも兵を率いて出陣します。名ばかりとはいえ、それがしは大将。城に籠るだけでは、兵の士気にも関わりましょう」
正行は、何もできない自分が悔しかった。
「たわけ者、今のお前が戦場に出て何ができる。お前は楠木正成ではないのじゃぞ……」
叔父の厳しい言葉に、正行は愕然と立ち尽くす。
「……太郎、お前の気持ちはわかるが、今のお前にできることは、生き延びることじゃ。少しずつ経験を積んで一廉の武将となることじゃ。兄者(正成)とて、最初からあのような差配ができたわけではない」
「父上も……」
「もちろんじゃ。場数を踏んでこそよ。じゃからその前に、決して無謀なことはするな」
正氏にたしなめられた正行は、唇を噛んでゆっくりと頷いた。
龍泉寺城を落した足利方の大将、細川顕氏は、ついに楠木正行・美木多正氏が籠る楠木本城を標的とした。
湊川で多くの将兵を失っていた楠木軍は、善戦すれども足利軍の猛攻を防ぐことができず、ついには水分や赤坂の地にも敵兵の侵入を許す。
「我らが土地を自由にさせてなるものか。左近は大将(正行)を護れ。他の者はわしに続け」
正氏は、左近の名を継いだ恩地満一に命じて本城の守備を固めると、自らが兵を率いて討って出る。そして、果敢に騎馬を操り、足利方と熾烈な戦いを繰り広げた。
和泉国で繰り広げられる搦手同士の戦も、足利方の優勢で進んでいた。しかし、足利方は、吉野方の搦手の大将、大塚惟正に一瞬の虚をつかれる。
天野山攻略で手薄となっていた足利方の拠点、宮里城は、夜中に岸和田治氏ら吉野方の侵入を許し、東堀際で激しい戦となった。しかし、吉野方の猛攻を防ぐことが出来ず、城は焼き払われる。これによって都筑量空が率いる和泉の足利方は東西から挟まれ、形勢が逆転してしまった。
この余波をもろに受けたのは、自らも山を越えて水分・赤坂の地に入ろうとしていた大将の細川顕氏である。
「何、都筑が援軍を求めておるじゃと……」
水分・赤坂の総攻めを始めようとしていた顕氏は、和泉の戦況を聞いて考え直す。
「……そ、それでは本城を落としても、難攻不落の千早城を落とすには寄手の兵が足りぬではないか」
ちっと舌打ちして、顕氏は山向こうを睨みつけた。
秋雲の如く足速い足利軍の動きが止まったことで、楠木正行・美木多正氏は後詰めの千早城まで一気に軍を引いた。
「若殿と目代様が御帰還じゃ」
新たな家宰となった恩地左近満一が、大声で触れ回った。
すると、久子や良子らが、慌てて陣屋の外に駆け出てくる。そこには、たくさんの負傷した兵たちが横たわっていた。
「母上、叔母上、ここじゃ。五郎叔父が……」
楠木本城から撤退してきた正行が、大声を上げて久子らを呼び寄せた。
そこには脚を負傷した正氏が、運び込まれた戸板の上に横たわっていた。
「それがしが不甲斐ないばかりに、兵を率いた五郎叔父(正氏)がこのようなことに……申し訳ござらん」
正行が暗い顔をして項垂れた。
脚の傷は深く、酷く出血していたため、その顔は青ざめていた。
臨月の良子が正氏の手を握って励ます。
「貴方様、しっかりなさいませ」
「良子か……そなたに会えてよかった……よき子を産めよ」
正氏は弱々しくも、口元に笑みを作って答えた。
すぐに三人の子、満仁王丸・明王丸・倫子も駆け付ける。
「父上っ」
「おお、倫子か……よき娘に成れよ」
倫子は涙を浮かべ、父のもう一方の手を取った。
「父上、死んではなりませぬ」
「父上っ」
「満仁王丸、明王丸……立派な武将に成れ……お前たちは太郎殿(正行)を支える……御仁王様なのじゃからな……」
涙を溢す二人の息子に向け、正氏は痛みにたえて笑顔を続けた。
「太郎……太郎はどこじゃ……」
正行が慌てて正氏の傍らに座る。
「五郎叔父、ここにおりまするぞ」
「く、楠木の……楠木の若き力を育てよ。それまでは、ただ逃げておればよい……ここぞというその日まで……」
遺言ともいえる言葉を残し、正氏は息を引き取る。
良子と三人の子たちは正氏にすがり付き、声を枯らして名を呼び続けた。久子も持王丸とともに涙を流してこれを見守った。
大きな後ろ楯をなくした正行は、息することさえ忘れるくらい、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
北河内の津田荘で過ごしていた虎夜刃丸にも、早馬で美木多正氏の悲報が伝えられた。津田範高は取るものも取り敢えず、虎夜刃丸を抱えて馬に乗る。そして、二人の郎党とともに、夜通し馬を走らせて、千早城に入った。
虎夜刃丸が本丸の陣屋に入ると、亡骸の脇に、良子と子どもたちが、心を何処かに置き忘れたかのように座り込んでいた。さらにその周りを久子ら一族が取り巻いていた。
「五郎叔父、五郎叔父、五郎叔父っ」
陣屋に駆け込んだ虎夜刃丸が、顔をくしゃくしゃにして、横たわる正氏を揺さぶった。
河内の目代であった正氏は、父、楠木正成が居ない間の親代わりでもあった。実子の満仁王丸・明王丸に対する愛情と何ら変わることなく接してくれていた。
遺体にすがって泣く虎夜刃丸の姿は、再び一同の涙を誘った。
翌日、身内だけで読経を唱え、美木多正氏の亡骸を千早城の裏手に埋葬した。
虎夜刃丸は明王丸と並んで墓に手を合わせる。墓と言っても墓標となる丸石を二つ重ねただけのものであった。
皆の前に広がる枯色が、心の色も枯れさせる。
正行は、手を合わせる虎夜刃丸らの背中を虚ろに見ていた。湊川の戦と、続くこの度の戦で、楠木党は多くの将と兵を失った。そればかりではない。足利方に龍泉寺城までも奪われた。正氏が亡くなった今、この壊滅状態の楠木党を、正行自身が立て直さなければならない。責任の重さに、数え十五才の少年は押し潰されそうになっていた。
突然、墓に手を合わせていた持王丸が、正行に振り返る。
「兄者、わしも早く元服し、武将となって兄者を支えるぞ。我らで楠木を立て直そう」
弟に悟られたかと、正行は苦笑いで応じた。
それを見て、満仁王丸と明王丸も立ち上がる。
「多聞の兄者(正行)、わしも立派な武将に成って、父上(正氏)の仇を討つぞ」
「わしもじゃ。多聞の兄者」
すると、虎夜刃丸も立ち上がり、恐る恐る正行にたずねる。
「わしもじゃ……でも、わしは津田の家に入った……それでも、わしも楠木の者でよいのか」
「お前も立派な楠木の男じゃ。虎を必要とするときは必ずやってくる。そのとき、わしが津田の父上にお願いして、必ずや呼び戻そうぞ」
その言葉に虎夜刃丸は安堵の表情を見せ、うんっと大きく頷いた。
早く武将となって、戦場に赴こうとする息子たちを、久子と良子は複雑な表情で見守った。
河内国はその大半が、足利方の守護、細川顕氏の支配するところとなった。楠木党はわずか、赤坂から千早のあたりにのみ、押し込められてしまった。しかし楠木正行は、叔父、美木多正氏の遺言を守り、若い世代が一人前の武将として育つまで息を潜めることとする。
延元三年(一三三八年)が明ける。この年、吉野の朝廷を次々と不幸が襲う。
三月二十一日、参議の坊門清忠が病で亡くなる。享年五十六歳であった。
帝(後醍醐天皇)の後を追って吉野山へ入ってから、一年と少し後のことである。虎夜刃丸らにとっては、楠木正成を死地へ追いやった張本人であった。しかし、帝にとっては忠実な近臣であり続けた。言うまでもなく、帝の悲しみは大きかった。
次なる不幸は、吉野の朝廷にとって希望の星であった鎮守府大将軍、北畠顕家の死である。
前年八月に、万をも超える大軍を擁して奥州を出立した。そして、朝敵、北条時行までもを味方に付けて、十二月の終りには鎌倉を奪還した。
休む間もななく一月には鎌倉を出立し、激烈な戦を行いながら伊勢から伊賀を経て二月には大和に入る。
しかし、大和街道で上洛を阻まれた顕家は、河内・和泉へと転戦し、在地の国人たちを従えて北へ進撃。足利方と一進一退の攻防を繰り広げた。
だが、河内・和泉守護の細川顕氏と、足利家執事の高師直らの軍勢と阿倍野で激突し潰走する。
五月二十二日、雪辱を誓った顕家は、和泉国石津で再び師直の軍勢に挑んだ。しかし、たくさんの兵を討ち取られ、最後は共廻り二百騎とともに包囲され討ち取られた。享年二十一歳という若さであった。
一方、東宮(皇太子)の恒良親王を奉じて、北陸に下った新田義貞と舎弟の脇屋義助は、足利方の追討軍との間で熾烈な戦を繰り広げた。
前年には、拠点とした越前の金ヶ崎城を、足利高経と、高師直の舎弟、高師泰に攻め落とされていた。
この時、金ヶ崎城を守備していたのは義貞の嫡男、新田義顕。父が不在の中で足利軍に包囲された義顕は、第一皇子の尊良親王、さらに蔵人頭の一条行房とともに自害して果てる。
味方を募るために杣山城に赴いていた義貞と舎弟の義助、さらに権中納言の洞院実世は無事であった。生き延びた義貞は日野川の合戦で足利高経を破り勢いを盛り返す。
そして、この年の閏七月二日。上洛しようと軍を進めていた矢先のことである。越前国藤島の灯明寺畷にて足利高経旗下の細川孝基、鹿草公相の軍勢と戦になった。ぬかるんだ水田に馬の足を取られた義貞は、運悪く眉間に矢を受ける。するとすかさず、刀の切っ先を自らの首に当て、己の身体を預けるようにして、倒れながら豪快に首を突いて果てた。
吉野の帝(後醍醐天皇)のために、最後まで忠義を貫き通したが、その忠義は報われることはなかった。
新田義貞が奉じた東宮(皇太子)、恒良親王は、落城する寸前に金ヶ崎城を脱出していた。しかし、足利の兵に見つかって京に連れ戻されてしまう。親王は京の花山院に幽閉された後、亡くなる。毒殺とも噂された。
その弟宮の成良親王も、兄宮の恒良親王とともに花山院に幽閉されて命を落とした。一時は、足利尊氏によって京の帝(光明天皇)の東宮(皇太子)として擁立されたが、兄宮とともに悲劇の最期を迎えた。
これで、帝の寵妾、阿野廉子が産んだ皇子は、陸奥将軍宮の義良親王だけになってしまった。このことに廉子は、幾日も泣き続けた。
八月十一日、足利尊氏が京の帝(光明天皇)から征夷大将軍に任じられる。清和源氏棟梁の座を争った新田義貞の死を待っていたかのような宣旨であった。
すでに建武式目の発布で幕府は開かれていたと言ってよかったが、ここに、名実ともに足利将軍と足利幕府が成立したのであった。
九月に入ると、吉野の帝(後醍醐天皇)は挽回を図るため、自らの皇子を各地に差し向ける。かつて、護良親王が奏上した今世における四道将軍である。
第四皇子の宗良親王を東海へ、第八皇子の懐良親王を九州へ、第十一皇子の満良親王を四国へ、そして、北畠顕家の上洛に伴って奥州から吉野山に戻っていた第七皇子の義良親王を、新たに准大臣に任じた北畠親房に奉じさせて関東に送った。
さらに帝は、越前国の金ヶ崎城で自害した尊良親王の子を、養子に迎えて親王宣下し、居良親王とした。そうして、親房の次男、北畠顕信に奉じさせて陸奥に送った。
吉野朝廷の延元三年は、こうして暮れていった。
翌、延元四年(一三三九年)、今度は不幸が、吉野の帝(後醍醐天皇)自身に、病となって襲い掛かった。
七月も終わりの頃、午後に現れた入道雲が炎昼の情景を一変させる。夕立が、行宮としていた金輪王寺を激しく打ちつけた。
病に犯された帝は熱にうなされ、過去の記憶と夢が交差する。
「……いまだ、伯耆は見えぬのか……」
激しい雨音は、かつて隠岐の島から漕ぎ出た舟の上へと帝を誘った。
「お、御上……御気を確かになされませ」
阿野廉子が、帝の片手を自らの両手で柔らかく包んだ。
伯耆を目指す舟の上は、雨に打たれ、あたり一面を闇が支配する中、廉子の手の温もりだけが、生あるこの世のものだと思えた。
「御父上様」
「おお……義良か……そこに居ったのじゃな」
薄目を開けた帝の傍らには、廉子に唯一残された男児、義良親王の姿があった。
前年、親王は関東支配のために、准大臣の北畠親房に奉じられ、船団を仕立て、伊勢から関東を目指した。しかし、生憎の暴風雨で親房の船は遠く常陸国に流される。一方、義良親王の船は伊勢国に押し戻されたため、仕方なく吉野山に戻っていた。
正気を取り戻した帝が、言葉を絞り出す。
「廉子よ……無念ではあるが……朕はもう長くはない」
「何を弱気なことを仰せになられます」
「いや、よいのじゃ……このようなときに義良が戻っておったことは……きっと、天の意志であろう……あのときのそなたの願い……朕は義良に譲位をしよう」
「御上……」
廉子の瞳から一縷の涙が流れた。
八月十五日、吉野山に沸き立った山霧が、幾重にも重なる山稜を際立たせた。
この日、吉野の帝(後醍醐天皇)は、いよいよ最期の時を迎える。
「玉骨はたとえ南山(吉野山)の苔に埋もれるとも、魂魄は常に北闕(京)の天を望まんと思う」
朝敵討滅と京奪回を遺言し、廉子と義良親王、四条隆資ら公卿たちに看取られて崩御する。御年五十二歳。その左手には法華経の五巻、右手に剣を握っていたという。
混迷乱擾。吉野の帝の崩御によっても、南北に分裂した朝廷の世が終わるわけではない。
南北朝時代と、虎夜刃丸こと楠木正儀の人生は、まだ始まったばかりであった。