第11話 湊川の戦い
建武三年(一三三六年)四月、金剛山は目にまぶしい青葉に被われていた。一年を通じ、最も清爽な季節である。しかし、この時季が長くは続かないことを人々は知っている。一旦、雲が覆いつくせば、そこからは長い雨。それだけに、皆、このひとときを大事にする。
楠木本城(上赤坂城)への登り口にある館に、数え七歳の虎夜刃丸、その隣に次兄の持王丸、長兄の正行(多聞丸)、そして、楠木正成の姿があった。
そこに、久子が両手にたくさん、紙のようなものを抱えて現れる。
「御覧あれ。もう自分の名も書けるようになったのですよ」
持ってきたのは、虎夜刃丸が書き貯めた書の束であった。書と言っても漉いた紙ではなく、経木と呼ばれる薄く剥いだ木の皮である。紙は高価なものだからであった。
これを、正成は一枚一枚手に取って、丁寧に目を通す。
「ううむ、虎夜刃丸、なかなか上手いではないか」
左利き特有の癖字であったが、咎められることはなかった。父に誉められた虎夜刃丸は、やったと言わんばかりに、得意満面な顔を母に向けた。
「武芸はわしが教えておる。近頃は馬にも乗れるようになった」
次兄の持王丸も、自慢げに父に訴えた。
「ほう、馬にも乗れたか。偉いぞ虎夜刃丸。持王丸もご苦労であった。この先も兄として、しっかりと虎夜刃丸の面倒をみるのじゃぞ」
「はい、任せてくだされ」
いつになく父は優しかった。
一方、正行は、手にした書を無言で見つめていた。思い詰めたように目を落とす長兄の前に、虎夜刃丸が立つ。
「多聞兄者、わしの書はどうじゃ」
「書……ああ、上手じゃぞ。虎夜刃丸」
我に返った正行は、ぎこちない作り笑いを返した。
その不自然な態度に、虎夜刃丸は父に目を向ける。
「やっぱり戦となるのか……」
幼子が不用意に、皆が避けていた話題を口にした。
九州では足利尊氏が、菊池武敏ら宮方の軍勢を破り、播磨では新田義貞が赤松円心に苦戦していた。近いうちに正成と正行が出陣するのは必至であった。
虎夜刃丸の言葉に、久子と持王丸は顔を強張らせる。そして、正行は不安げな表情を隠すかのように下を向いた。
しかし、正成だけは、落ちついた表情で向き合う。
「虎夜刃丸は覚えておるか。かつて、わしが下赤坂の城で、そなたらに話したことを」
「……」
首を傾げる虎夜刃丸に代わって、持王丸が口を開く。
「わしは覚えておるぞ」
それは、元弘の折。正成が帝(後醍醐天皇)の求めに応じて挙兵を準備をしていた最初の赤坂城(下赤坂城)での事であった。
「出陣に際して父上は言われた。長い戦いとなっても、河内を必ず元の平穏な野山に戻すと。それと……」
「それと、何ですか」
口籠る持王丸に、久子が先を求めた。
「それと、万が一、父上が果たせなければ、我らの手で、平穏な野山を取り戻せと」
幼かった虎夜刃丸は話の中身までは覚えていない。しかし、その時の父の凛とした横顔は、今でも鮮明に脳裏に残っていた。
「持王丸、虎夜刃丸。わしはあの時の気持ちと同じじゃ。帝の命を違えることはできぬ。勝って再び平和な世を取り戻す所存じゃ」
訴えるような瞳で、虎夜刃丸が正成を見つめる。
「勝てるよね……」
「うむ、策はある。されど、もし、わしが果たせなかったときには、そなたたちが帝を御護りし、平和な世を取り戻すのじゃ。よいな」
これに、持王丸が戸惑った表情を浮かべる。
「そ、そんな……父上の策が通用しないことなどありましょうや。それに、父上の策で勝てぬなら、我らが勝てようはずはありませぬ」
「戦に勝つ事だけが帝を御護りすることではない。持王丸には持王丸の、虎夜刃丸には虎夜刃丸の策を見つけ、平和な世を取り戻せばよいのじゃ」
父の言葉に、虎夜刃丸と持王丸は神妙な顔で頷く。その隣で正行も、口元を引き締めて顔を上げた。
そんな息子たちを、久子は、ただ静かに見守ることしかできなかった。
五月五日、足利尊氏が大船団を率いて備後国鞆の浦に出現する。
「わしはこの地で持明院の君(光厳上皇)から御院宣を賜ったのじゃ。円心殿の進言からであった。そなたの父上には感謝しておる」
「こちらこそ、我らの求めに応じて出立を早めてもらい助かりましてございます。この大船団を見れば、父もさぞ喜びましょう」
潮風を受けながら、船上で尊氏が語りかけたのは、赤松円心が三男、赤松則祐であった。
新田義貞に包囲された播磨の白旗城は堅牢な城である。だが、それでも日が経つに連れて、赤松党は厳しい状況にさらされた。円心は、尊氏に早期の上洛を促すため、則祐を九州に遣わしていた。その願いを聞き入れ、尊氏が九州を発ったのは四月二十六日のことである。
「さて、我らは鞆の浦で二手に別れる。一手は我が舎弟、直義が率い、山陽道の諸将を吸合して陸路、播磨に向かう。もう一手は、わしがこの船団を率いて播磨に向かう。直義の歩みに合わせてのう。赤松(則祐)殿はいかがされたい」
「ならば、このまま海路、播磨までお連れください」
則祐は、その顔に迷いを浮かべることなく船を選んだ。護良親王を弑逆した直義に対して、わだかまりは決して消えることはない。帯同することなど、とてもできなかったからである。
その足利直義が、鞆の浦で船を降り、兵たちを前にする。
「我らはこれより陸路、東へと向かう。我らは上げ潮ぞ。抗う輩を平らげて、いざ、上洛を果たさん」
「うぉぉ」
威勢を上げた兵たちを率い、直義軍は備後国から東征を開始する。すると、その元には山陽道から続々と武士が集まり、すぐに一万の大軍となった。
刻一刻と深刻になる西国の状況は、早馬によって朝廷へ報告され、公家たちの顔を青ざめさせた。
この事態に、楠木正成が急遽、内裏に召し出される。
黒雲のような不安に覆われた御殿に、硬い表情の公卿らが居並び、御簾の向こうには帝(後醍醐天皇)が鎮座していた。
左兵衛督として足利討伐を指揮する権中納言、四条隆資が重い口を開く。
「河内守(正成)、そちの推察通りとなった。備後の鞆の浦を立った足利直義は、西国の豪族どもを合わせて、山陽道を東に進軍しておる。そこで……河内守はこれから兵庫へと向かい、左近衛中将(新田義貞)と協力して賊を討ってもらいたい」
以前、正成の上奏を棄却した隆資が、ためらいがちに命を下した。
これに、正成が下座からゆっくりと顔を上げる。
「恐れながら、この河内(正成)が兵庫に出向いても勝てませぬ。足利尊氏は九州で菊池殿(武敏)らを破り、西国の武士たちは次々に尊氏の元に参じている由。兵庫に着くころには相当な大軍であることは必至でしょう。対してこの河内(正成)、すでに領国に使いを送り、出兵を促しておりますが、一族縁者でさえ渋る者がおる始末でございます。すでに武士どもは宮方に勝ち目がないとみております」
その口上に、殿上の公卿らがざわついた。
隆資が険しい表情を見せる。
「必ず我らが敗れるというのか」
「尋常な戦をしていては、まず勝ち目はございませぬ。唯一、勝つためには、足利が大軍であることを利用するしかありませぬ」
「というと」
藁をもすがるかのように、隆資は身を乗り出した。
「新田中将殿(義貞)を兵庫から呼び戻し、主上を御護りして、以前と同様、比叡山に御動座いただきます。それがしは河内へ戻り畿内の兵をかき集め、南から京を封鎖します」
「うむ、それで」
「まずは足利軍を京に引き入れて、洛外からの兵糧を断ちます」
「前回と同様か」
「此度の敵は足利ゆかりの東国武将ばかりではありませぬ。九州、山陽道から勢いに便乗しようと集まった多くの西国諸将が加わっております。京を閉鎖すれども、京を抜ける者に刃を向けないように致します。さすれば、必ずや尊氏を見限って、敵軍は徐々に数を減らし、宮方は兵を増すことでしょう」
「なるほど……」
隆資はゆっくりと頷き、溜飲を下げた。
「そして、そのときを待って、新田中将殿とそれがしが、名和殿、千種様らとともに、いっせいに兵を挙げまする。されば、京を落ちた西国武将たちも我らに続くことでしょう。このようにすれば、きっと足利を京から追い出すことはできるかと存じます」
すると、隆資は感心してひざを打つ。
「ううむ、さすがは河内守じゃ」
「まこと、戦のことは武士に任せるべきじゃな」
左大臣の近衛経忠も安堵の表情を見せた。
「ただ、中将殿(新田義貞)は、意地を貫き一戦交える御覚悟でしょう。勅使をもって京へお連れ戻しいただきたく存じます」
正成の話には多くの公卿が頷いた。
しかし、正成主導で話が進むことに顔をしかめる者もいた。参議の坊門清忠である。
「河内守の申すこと、いちいちもっともな事じゃ。されど、朝敵討伐の官軍が一戦もしないうちに都を捨てるというのは、いかがなものであろう。朝廷の体面を失わせることになるのではなかろうか。何よりも、わずか数か月のうちに二度までも御上に御動座を願うのは、御威光を軽んじることになろう」
「されど、戦は勝ってこそでございます」
珍しく、正成が語尾を強めた。
「まさにそこじゃ。武士は戦を単に勝てばよいと思うておる。されど、戦とて政じゃ。勝ち方というものがある。京の町を焼いて、民を路頭に迷わせて勝っても、人心は朝廷から離れていく」
どうじゃと言わんばかりに、清忠は正成に、嘲るような視線を向けた。
「恐れながら、人心の掌握はこれから先、いくらでも機会はございます。正月の戦で足利を追い払うことができたのも、策を弄してこそ。御上の御動座あればこそでございます」
「確かに尊氏めを打ち破ることができた。されど、まことに武士の軍略が優れていたからか。いや、ひとえに御上の御運が天命に適っておったからではなかろうか。思えばこれまでの御上の御運は天が与えしものという他ない。此度もきっと御上の御威光によって敵を討ち果たすことができるであろう」
清忠の発言は、結果に自信と責任を持っているようには見えなかった。正成には、ただこの場を自分の発言で仕切ることに陶酔しているだけのように映った。
事実、この場にはいない権大納言、北畠親房の受け売りである。軍奉行のように振る舞う正成を不遜に思った親房が、酒の席で溢した繰り言であった。
しかし、清忠の発言で殿上の公卿たちがざわつきはじめる。
とうとう、沈黙を守っていた帝が、御簾の向こうから玉声を洩らす。
「河内守の献策はよう判った。されど、坊門宰相(清忠)の言うことも道理じゃ。朕は京の町をたびたび戦火に合わせるようなことはしたくはない」
「されど……」
「いや、民の暮らしを守ってやることも朕の努めじゃ。河内守、此度は宰相の意見を汲んで、その方が兵庫へ赴いてくれまいか」
帝の勅裁には、さすがに正成も言い返すことはできない。
長い息を無音で吐き終えた正成が、今度は、覚悟を決めて息を吸い込む。
「勅命が出たからには、この河内(正成)、もはや異議はございませぬ。とくと、戦の始末をご覧頂きますよう」
異存をぐっと腹の中に収め、一言だけ意気地を貫き、頭を下げた。
曇天は雨を支えきれず、ぽつりぽつりと溢れだした天雫が、帰路についた楠木正成の肩を濡らす。両隣には、舎弟の正季と、京で家宰を代行する恩地満一が無言で従っていた。
四条猪熊坊門の屋敷に戻った正成らを、広間に集まっていた諸将が、案じ顔で迎えた。
上座に腰を下ろした正成が、硬い表情で一同を見回す。
「主上(後醍醐天皇)の勅命が下った。これより我らは兵庫に出陣し、京に攻め上がってくる足利軍と戦う」
その言葉に、舎弟の楠木正季は苦渋に満ちた顔で沈黙する。嫡男の楠木正行は、ただならぬ父と叔父の様子に息を呑んだ。
一門の神宮寺太郎正師が皆を代表する。
「殿、足利は二万を越える軍勢で押し寄せて来ていると聞きますぞ。兵庫に赴いて、今更、何ができましょうや」
「そうじゃ、ここは、再度、奥州軍を待って力を借りましょうぞ」
与力として加わっていた湯浅定仏入道(宗藤)が、後ろから声を上げた。
ざわつく武将たちを前にして、正季が兄を代弁する。
「正師殿、定仏殿、重々承知のうえでのことなのじゃ。されど、兄者の献策は朝議で退けられ、兵庫に向かうことが決した」
与力衆の一人、十市から名を変えた津田左衛門尉範高が身を乗り出す。
「正成殿、朝廷は我らのことをどう思うておるのであろう。結局、戦うのは我ら武士。奏上を無視する朝廷に、はたして義理立てする必要がありましょうや」
家臣や一門では言いにくい事を、外様の範高が指摘した。皆、口に出さないまでも、頷く者は多かった。
満一が、主人の心情を察して心を痛める。
「一同、殿は……」
しかし、正成が片手で制しながら苦しそうに胸のうちを吐露する。
「皆の気持ちはわかる。このまま兵庫に出陣しても厳しい戦になろう。じゃがわしは、兵庫に出陣する事を決した。名もなき土豪の楠木を、河内・和泉・摂津の太守として扱ってくれた帝に対する恩義がある。それに、何を阿呆なと言われてしまいそうじゃが……」
少しうつむき、苦笑いをみせる。
「……帝には人を引き付ける不思議な力がある。これは接した者でなければわからぬことじゃ。この御方のためであればと、不思議と思えてくる。実は、今攻め来る足利尊氏とて、帝に魅了された一人なのじゃ。されど尊氏は、同じくらい征夷大将軍というものに魅了されておる……」
意外な言葉に、一同は沈黙して耳を傾けた。
「……此度の戦は、わしの私恩によるところもある。よって、皆を強制するつもりはない。国へ帰っても咎めはせぬ」
これに、すぐさま正師が前に進み出る。
「何を仰せです。我ら一門、生きるも死ぬも棟梁と一緒じゃ。何で帰ることができましょうや」
外様の範高も頷く。
「それがしとて、同じじゃ。正成殿が帝に対する私恩があると言うのなら、それがしも正成殿に対する私恩があり申す。我が津田党は最後まで従う所存じゃ」
「それを言うならわしもじゃ」
範高に続き定仏も声を上げた。さらに、他の諸将も、正成と生死をともにする覚悟を訴えた。
「皆……かたじけない……」
正成は思わず声を詰まらせる。そして、続く言葉に代えて深々と頭を下げた。
そんな父の姿に、正行も命を賭して戦う事を自身に課せた。
戦評定の後、楠木正成は広間に、楠木正季、恩地満一とともに津田範高を残した。
雨がいつもより夕暮れを急がせ、徐々に互いの顔が見えにくくなる。満一が燭台に火を灯すと、荏胡麻の炎が四人の顔を赤く照らした。
最初に正成が範高に頭を下げる。
「左衛門尉殿(津田範高)、先ほどはかたじけない。貴殿の厚情はわしの生涯の宝。その貴殿を見込んで一つ頼みがある」
「頼み……とは」
「津田殿には、兵庫への出陣ではなく、別の形でわしを助けて欲しいのじゃ」
その意味がわからず、範高は正季・満一の表情を窺ってから、再び正成に顔を戻した。
「頼みというのは虎夜刃丸のことじゃ。虎夜刃丸を津田殿の猶子としてもらえまいか」
「何と……急に何を……」
「此度の兵庫の戦は、わしも七郎(正季)も生きては帰れぬやも知れぬ。楠木の家名を残す事を考えねばならん」
「楠木の名……」
「うむ、楠木本家はわしの祖父、盛仲の代で断絶の危機を迎えた。その時、我が父、正遠を和田家から娘婿に迎え、何とか家名を繋いだ。それだけに、本家の血を受け継ぐ我らの母は、楠木の血筋に執着していた」
その言葉に、正季が頷く。
「兄者の言う通りじゃ。赤坂に万が一のことがあった時のために、楠木の血を受け継ぐ者を、別の地で生かしておく必要がある。わしの子、弥勒丸は舅殿の甲斐庄家で預かってもらうこととした」
「後は虎夜刃丸じゃ。津田殿を見込んで、猶子としてもらえまいか」
正成は範高の目をじっと見据えた。
この頃、畿内の小豪族の間では、同盟を組むために、他家に猶子として預けることは珍しいことではない。しかし、河内の国守となった正成が、血縁のない領国の一地頭である範高に、我が子を猶子として預けることは、考えにくいことであった。
範高は戸惑いの表情を浮かべる。
「それは恐れ多いことじゃ。されど、なぜ、それがしに」
親族も多い楠木なら、預け先には事足らないはずであった。
「楠木の縁者でない津田殿であれば、世の趨勢を見極めて、足利尊氏に参じる事も可能じゃ。きっと、楠木の家名を残してくれよう」
仇となるかもしれない足利に、将来、津田家が参じる可能性を見越していることに範高は声を失う。しかし、正成の度量と深慮に圧倒されるかのように、虎夜刃丸を迎えることを同意する。
だが、正成の話はそれだけではなかった。
「満一、実はそなたにも頼みがある。これは家宰である左近(恩地満俊)の息子……そなたにしか頼めないことじゃ」
突然話を振られた満一は、何事かと顔を上げる。
正成は、正季と範高の前で、満一に秘めたる大事を託した。
静まり返った広間で、満一は一筋の涙を流す。そして、ただその場に平伏するのみであった。
陸路、山陽道を東に進む足利直義軍のゆく手には備中福山城がある。城は新田党の大井田氏経によって攻め落とされた直後であった。
新田義貞は、赤松円心(則村)が籠る白旗城攻めに手こずっていた。そこで、自身に代わり舎弟の脇屋義助を西征に向かわせる。氏経は、その義助から一軍を与えられて、備中まで兵を進めてきたところであった。
大井田氏経が、城の回りを埋め尽くす足利の大軍に仰天する。
「ぐぬぬ、この大軍……このまま、御舎弟殿(義助)の元に行かせてなるものか」
背後の備前国には脇屋義助が攻め落とそうと囲う足利方の三石城があった。
果敢に打って出た氏経は、十倍以上もある敵に善戦する。しかし、兵力差はいかんともしがたく、結局、福山城は落城する。
かろうじて、氏経は足利軍の囲みを突破し、義助に合流しようと備前に向かった。
一方、足利直義は、その氏経を追撃しながら、足利尊氏の船団から遅れまいと、東に急いだ。
五月十六日、梅雨の谷間となったこの日、ついに、楠木三郎正成は出陣の日を迎える。明け方の、凛とした清気の中、楠木の京屋敷には続々と兵が集まった。
楠木太郎正行も決戦に向けて、真新しい直垂を着て、その上に具足(甲冑)を付けた。
庭先では、楠木七郎正季が弥勒丸を抱いて、妻の澄子と別れを惜しんでいる。
「澄子、我らが出立したら、ただちにここを出て甲斐庄の御父上を頼るのじゃ。よいな」
「承知しました。私と弥勒丸は甲斐庄の家で貴方様をお待ちしております。どうか……どうか、必ず生きてお顔をお見せくだされ」
正季は、力強く頷いてみせると、澄子に弥勒丸を預けた。
「出陣じゃ」
楠木屋敷を発った正成は、近隣から参じた兵を加えながら京を離れた。
同じ頃、楠木本城(上赤坂城)の西にある龍泉寺城は、朝早くから馬の嘶き、鎧の擦れる音、兵たちの声で雑然としていた。参集したのは、和田正遠や橋本正員などの一門衆や、八木法達らの近しい与力衆たちである。
河内目代の美木多五郎正氏を、息子の満仁王丸と明王丸、さらに甥の虎夜刃丸と持王丸が囲んだ。
集まった兵を見回して、虎夜刃丸が正氏を見上げる。
「五郎叔父(正氏)、兵はこれだけか……」
「およそ五百といったところか。こんな兵で足利尊氏に勝てるのか」
持王丸も弟に続けて疑問を投げ掛けた。
「ああ、此度は平地の戦じゃ。東夷との戦は騎馬武者がものをいう。歩兵ばかりが多くては足手まといじゃからな」
笑って言葉を返す正氏だが、もちろん、こどもらを気遣った答えである。
楠木正成は、自分たちと一緒に最後まで命を賭して戦ってもよいという騎馬者だけを集めよと命じていた。
正氏の妻、良子も、これまでの出陣でないことは承知している。
「これ、父上(正氏)の出陣の邪魔をしてはなりませんよ」
いつまでも正氏に纏わりついて離れようとしない満仁王丸や明王丸、倫子を諭した。
いつもは天衣無縫な正氏が、良子の手をとり、口元を引き締める。
「こどもらを頼む」
「御武運をお祈りします」
頷く良子は、心なしか目を腫らしていた。
「では義姉上(久子)、行って参ります。兄者に何か伝えることはありませぬか」
無理をして笑顔を見せようとする久子を、正氏は気遣った。
「では、悔いの残らぬように戦ってくだされと……」
「わかり申した。お前たち、言伝は」
「吉報をお待ちしております」
勝利を託す持王丸の隣で、虎夜刃丸も顔を上げる。
「五郎叔父、わしは……わしは戦は嫌いじゃ。でも、わしは武士の子じゃから……父上に、今度、戦を教えてくれるようにと伝えて」
頬を緩めた正氏は、片膝を付き虎夜刃丸の頭に手を添えると、がっと自らの胸に押し当てる。
「承知した」
そう、短い言葉を残して出陣した。
京の屋敷を出立した楠木正成は、西国街道を下り桜井の宿駅で進軍を止めた。河内・和泉の兵を率いて南河内から出陣した美木多正氏を待つためである。
馬を降りた正成のもとに、正季が、慌てた様子で駆け寄せる。
「三郎兄者(正成)、西国より早馬があった。備前の三石城を攻めるべく布陣していた脇屋殿(義助)が、足利直義の大軍に押されて東に撤退した。児島殿の熊山城も攻められ、高徳殿が深傷を負われた。直義軍にはゆく先々で兵が加わり、三万の大軍となっておるそうじゃ」
「そうか」
特に慌てる様子もなく短い言葉を返し、正成はここ桜井に陣を敷くように命じた。そして、傍らの恩地満一に命じて諸将を集めさせた。
宿駅の館に入った正成は、無表情に上座に腰を据える。両隣りには正行と正季が座り、諸将は下座であぐらを掻いた。
「皆、聞いてくれ。陸路、東上する足利直義軍は三万に膨れ上がっているとのことじゃ。兵庫に来る頃には五万をも越える大軍となろう。ますます、難しい有様となった……」
そう言ってから、正成は皆の顔を見渡す。
「……さりながら、此度、出陣の命が下ったのはわしに対してじゃ。それに、この戦は、朝廷に奏上を受け入れられなかったわしの責任でもある。よって、兵庫へは一門衆など近しい者のみで向かう事とする。与力の方々は、ここより領国へ戻られよ」
正成の悲壮な命に、湯浅定仏(宗藤)が戸惑いの表情を浮かべる。
「な、何を言われる。すでに我らは正成殿に従う覚悟を決めて出陣したのじゃ」
その言葉に、多くの与力たちが声を上げる。
「そうじゃ」
「わしらは楠木殿への恩義がある」
「無論じゃ」
そんな中、突然、津田範高が立ち上がる。
「正成殿は……正成殿は、この戦で御身を賭けて、けりをつけようとされておられる。されど、仕損じれば、この後も戦は続くであろう。そのとき、帝(後醍醐天皇)を御支えする我らが必要になると考えられてのことじゃ。わしは下知に従うことにする。他の方々も従われよ」
範高は声を震わせて訴えた。
兵庫まで従うと言っていた範高が目を潤ませる姿に、定仏ら諸将は唖然として言葉を失う。
静かになったそのときを待っていたかのように、正成が隣の正行に目を向ける。
「太郎、これに」
自らの前を指し示し、息子を座らせ直させる。
「太郎、そなたもこれより満一とともに、河内に帰るのじゃ」
正行は、まばたきするのも忘れ、父の顔を凝視する。
「河内へ帰れと」
振り向くと、恩地満一が苦渋の顔つきでうつむいていた。
恐る恐る父に向けて顔を戻す。
「……どういうことにございますか」
「残念なことではあるが、此度は戦の勝ち方が見つからん。唯一あるのは、一か八かの捨て身の策だけじゃ。されど、わしは畿内三国の守護として、帝の盾にならねばならん」
「わかっておりまする。であればこそ父上の御供を。それがしが初陣を望んだのもそのためにござる」
息子の訴えに、正成はゆっくりと首を横に振る。
「そなたを河内に帰すのは、戦の後も考えてのこと。わしが死ねば、持王丸や虎夜刃丸、一族を率いる者が必要となる。お前は一族郎党、皆の命を惜しみ、朝廷を、帝(後醍醐天皇)をお支えするのじゃ」
「されど、父上……」
意見を述べようとする息子を制するように、正成は腰に差した長短、二振りの刀を鞘ごと抜く。
「これは帝より賜りし短刀と、我が父より譲られし太刀、竜の尾じゃ。父に代わり、これで帝を御護りせよ」
正成は息子の前に長刀を置き、菊水の紋様が入った短刀を片手に握って、目の前に差し出した。
正行は、戸惑いながらもその短刀に手を伸ばす。しかし、掴もうと開いた掌は、虚しく空を切ってひざの上に戻る。
「それがしに……父上の代わりなど……務まりませぬ」
息子は目を落とし、絶え絶えに応じた。
真面目で責任感の強い少年であった。幼い時から傑出した父の姿を見て育った正行は、いつか己がその跡を継がなければならないと、ひたむきに鍛錬を重ねた。しかし、長じるにつれ、父の背中は考えていた以上に大きいことに気づかされる。とても代わりなど務まるものではない。だからこそ、偉大な父に殉じて死ぬことこそが自分にできることであり、己を納得させる唯一の方法であった。
そんな息子の胸のうちを、正成は見抜いていた。
「一人で抱える必要はない。お前には弟がおるではないか。抱える憂惧は持王丸、虎夜刃丸とで分かち合え。三人でことにあたればよいのじゃ。さ、これを受け取れ」
そう言って、もう一度、短刀を差し出した。
促され、正行は再び両手を伸ばし、短刀を手にする。その瞬間、瞳にじわり暖かいものが溢れた。これを隠すように、正行はその場で顔を伏せる。
居合わせた諸将は、そんな父子の姿に、皆、声を押し殺して涙した。
河内から兵を率いた美木多正氏が到着すると、正成は、ここから国元に帰る与力衆らを差し引き、およそ七百を率いて兵庫に向かう。
涙を拭った正行は満一を伴い、菊水の短刀と竜の尾を手に、父たちを見送った。
五月十八日、足利尊氏を載せた船団は、播磨国室津に到着する。再起を誓い、この室津から九州に下って三月後のことであった。
船を下りた尊氏は、再びこの地の見性寺に陣を敷き、陸路、東に進軍する舎弟、足利直義の軍勢を待ち受けることとした。
足利船団の到着に伴い、白旗城を囲っていた新田義貞は、摂津国兵庫に撤退する。
すると、赤松円心は囲みが解かれた白旗城を出て、さっそく室津に駆けつける。
さほど大きくはない見性寺の境内は、船から降りた侍どもの羽を伸ばす場となっていた。負け戦でこの地から落ちていったときの悲壮な顔はどこにもなかった。
境内で、笑みを湛えた尊氏が、床几から立ち上がって円心を迎える。
「円心殿、お待たせした」
「足利殿、いや足利将軍、よう上洛されました。船団が到着し、我らは命拾いし申した。これより我らは足利将軍のもとで戦う所存にござる」
「こちらこそ、円心殿の献策で、持明院の君(光厳上皇)から御院宣を賜ることができた。御院宣なくば、これほどの兵は集まらなんだ」
傍らには、一緒に船に乗ってきた円心の三男、赤松則祐の姿もある。
「父上(円心)、足利将軍はこれより兵庫に出陣し、新田義貞との決戦に向かわれます。我ら赤松党には陸路東征する御舎弟、直義殿の軍勢の殿として、山陽道から兵庫に参じようとする宮方を制して欲しいと仰せじゃ」
「承知つかまつった。我らが睨みを効かせる限り鼠一匹通しませぬ。御安堵くだされ」
顔をぎらつかせながら、円心は胸を叩いた。
五月二十四日、楠木正成は播磨の白旗城攻めから引き揚げてきた新田義貞と兵庫で合流する。
意を決した出陣とはいえ、正成にとっては足取りの重い道程あった。京を出立して八日も経っていたのは、この時期に降る長雨のせいばかりではなかったかもしれない。
正成・正季兄弟が、湊川の西岸に布陣した新田本陣の中に招き入れられる。二人は、義貞と舎弟の脇屋義助、さらに篠塚重広らを前にして、差し出された床几に腰を下ろした。
挨拶も早々に、正成が、置き盾で拵えた机の上に絵地図を広げる。
「新田殿、敵は海路東上する足利尊氏と、陸路東上する足利直義。問題は海路でござる。どこに上陸してくるかで我らの戦況は大きく変わる」
上陸しそうな地点を、正成が閉じた扇の先で指し示した。
これに、義貞が大きく頷く。
「うむ、足利の船団に東を取られれば、我らは東と西からの挟み撃ちということじゃな」
「左様でござる。さらに東を取られれば、尊氏の軍勢は京へ向かい、これを新田殿が追いかけることになる。つまり、御上を危険にさらすということじゃ。よって、新田殿は東を取られぬよう、さらに敵の東へと回り、上陸する敵を討ち取っていただきたい」
腕を組んだ義貞が、相槌を打つ。
「あい判った。して楠木殿はいかがされる」
「我らはあれに見える会下山に陣を張り、陸路東上する直義軍の動きを止め申す」
これに、脇屋義助が怪訝な表情を返す。
「されど、楠木殿の兵は千にも満たないご様子」
「左様、我が軍を追って勢い付く直義軍を、その小勢で止めるのは難しかろう」
被せて心配する義貞に、正成はふっと口元を緩めて笑顔を返す。
「お忘れですかな、新田殿。我らは千早城、赤坂城で敵を寄せ付けなかった楠木党ですぞ」
「もちろんわかっており申す。が、此度は……」
掌を前に突き出し、正成が義貞の言葉を制す。
「無粋なことはお止めくだされ。西の足利直義は我ら楠木にお任せいただき、新田殿は足利尊氏を相手に存分な御働きをお願い申す」
「楠木殿……」
決心を見抜いた義貞は、伏し目がちに沈黙した。
その様子に、正成が神妙な表情を見せる。
「少し、中将殿(義貞)と二人きりにしてもらえぬであろうか」
すると義貞が頷き、義助と重広に目を配った。
二人が正季を連れ立って陣幕から出ていくと、正成は改まり、義貞に向かって頭を下げる。
「それがしは新田殿に謝らなければならぬことがあり申す」
「どうされた、楠木殿」
「わしは四条卿(隆資)に、足利尊氏と和睦を結ぶように言上した。じゃが、結果は受け入れられませなんだが」
告白に、義貞は目を剥く。
「足利と和睦じゃと……なぜ、そのような」
「尊氏が九州に落ちたとき、負けた尊氏に、続々と武士が付き従った。これを見て、それがしは、足利が必ず復活し、大軍を擁して上洛すると確信しており申した。人心が尊氏に傾いている中、これを阻むには、それがしには和睦しか考えられなかった」
「戯けたことを。和睦など四条卿はおろか、主上(後醍醐天皇)とて、認めようはずはない。何より尊氏と、何をもって和睦せよというのじゃ。尊氏は持明院の上皇(光厳上皇)より、このわしを誅伐せよとの院宣を得て兵を募ったと聞く。それを翻して主上と和睦でもしようものなら、持明院の上皇や院宣に従った者を裏切ることになる。和睦は不可能じゃ」
義貞の言うことは、疑うべくもない正論であった。
「されど、ただ一つ……」
大きく息を吸い、正成が言葉を続ける。
「……ただ一つ方法がござる。それは院宣により追討を受けし、新田殿が退かれることじゃ。家督を御嫡男の義顕殿に譲られ、出家でもされて足利殿の処分に身を任せる。もちろん、それがしも同様に退き出家する。我ら二人が足利の処分に身を委ねれば、この戦は避けられる。我ら二人の処分など、大戦で失うものを思えば安いものだと四条卿に言上つかまつった……されど、何の罪もない新田殿には申し開きもできぬ策であった。許してくれとは申さぬが、それがしは貴殿に謝りたい。この通りじゃ」
深く頭を下げる正成だが、悔いているのではない。ただ、義貞を人柱としたことへの負い目からであった。
あまりのことに義貞は、ただ唖然と正成を見つめる。両者ともに言葉を無くし、しばし沈黙が続いた。
「なぜ戦が始まろうとする今になって、このわしに言うのじゃ」
義貞の問いで、やっと正成が頭を上げる。
「今でなければもう二度と、それがしの口から伝えることができぬやも知れぬからです」
「まったく……我ら二人の処分など安いものか……」
ふうと息を吐いた義貞が、口元の力を抜く。
「……会下山に布陣して足利直義を喰い止めようとするのは、罪滅ぼしという事か。討死してまで己が盾になるという事か」
「いや、そのような格好のよいものではござらん。やれるだけのことはやろうと、ただそれだけのことでござる。和睦が成らなかったからには、新田殿には生きて京に戻り、帝を御支えいただかねばならん。それがしの分まで、新田殿に託します」
正成が喋り終わると、義貞がその手を取る。
「楠木殿、死んではなりませぬぞ。主上のためにも……生きてこの先も帝を御支え致しましょう」
その手と口より、義貞の人柄が、温もりとして伝わった。正成の胸の奥から、不用意に熱いものが込み上げた。
楠木正成は、新田義貞の陣を離れると、軍を率いて会下山に向かう。
正成の表情は、梅雨明けの空と同様に晴れていた。気付けば足取りも軽い。新田義貞に打ち明けたことで、重い足枷が取れた思いである。
舎弟の楠木正季・美木多正氏とともに、正成は轡を並べて馬を進めた。
「三郎兄者、新田殿(義貞)は気づいておられたな。千早のようにはいかぬことを」
末弟の言葉に、正成が可笑しそうに口元を緩める。
「それはそうであろう。いくら再現したくとも、籠城するための兵糧もなく、仕掛けをこしらえるための時もない。明日にも直義の軍は押し寄せてくる。万事休すじゃな。ははは」
「兄者、笑うところではなかろう、わっはは」
そう言って正氏が代わって笑った。
「すまぬのう、七郎(正季)・五郎(正氏)」
「何を今更。わしらは三郎兄者(正成)が帝(後醍醐天皇)のために挙兵すると腹を決めたときから、命を捨てる覚悟をしておった。なあ、五郎兄者(正氏)」
「もちろんじゃ」
正季の問いかけに正氏が真顔で答えた。覚悟を決めた三人に悲壮感はなかった。
楠木軍は新田本陣から北に進んで会下山に到着する。平地からなだらかに続くその山は、丘を少し大きくした程度の小山であった。
山頂に登った楠木正成が、周囲を見渡す。
「少々、見晴らしが悪いな。八郎、周囲の木を切り倒して視界を確保せよ」
「承知」
橋本八郎正員が郎党を指揮し、持参の屶で周囲の木を切り倒す。すると、和田岬に布陣した新田の陣がよく見えた。会下山は、西から攻めてくるであろう足利直義軍を見張るにも、和田岬の先を進むであろう足利尊氏の船団を見張るにも、絶好の場所であった。
ここに強固な砦を造れば、少しは戦況を変えることができたかもしれない。しかし、天は正成にその時間を与えなかった。
五月二十五日午前、和田岬の沖合。穏やかな海を割って足利方の船団が現れる。
新田方の兵が足利の軍船を遠矢で牽制する中、経が島の辺りに停泊した別の船からあれよあれよと言う間に、敵兵たちが岬に上陸をはじめた。
「来たぞ、者ども、掛かれ」
新田軍の副将、脇屋義助の下知で、戦いの火蓋が切って落とされる。
経が島の対岸あたりに布陣していた脇屋勢五百余が応戦してこれを撃滅し、まずは、足利の先陣二百余を討ち取った。
一方、湊川を背にした新田本軍に挑むは、九州から従軍した武将、少弐頼尚。足利直義軍の一翼を担って陸路、海沿いを東進していた。
対して義貞は、万を越える軍勢で迎え撃ち、これを押し戻した。
緒戦、劣勢の足利方は、海からの和田岬への上陸を諦め、新田本軍の東に回り込もうと船団をさらに東に進めた。
新田義貞の脳裏に、正成の言葉がよみがえる。
「東に上陸を許せば、我らは挟み撃ち。京の主上(後醍醐天皇)をも危険に晒すことになる。何としてでも東を取らせるな」
すぐに湊川西岸の陣を払い、川を越えて遮二無二、足利の大将船を追いかけ、東へ馬を走らせた。
しかし、足利尊氏が一枚上手であった。その大将船に乗るのは尊氏ではなく、一門の細川定禅。東に向かう船団は囮であった。
後方から、尊氏を載せた本軍の船団がゆうゆうと和田岬の沖に姿を見せる。
「それ、西の浜ががら空きじゃ。あそこへ上陸せよ」
尊氏の脇で、執事の高師直が、波音にも負けない我鳴り声で船頭に命じた。
足利軍は幾艘もの小舟を出して、守り手のいない駒が林に、あっさりと上陸する。
これで、新田軍とも離ればなれの楠木軍は、大海に浮かぶ孤島のように、敵の中で孤立した。
その楠木軍が布陣する会下山。
山頂から手をかざし、足利尊氏の上陸を見ていた美木多正氏が、あきれたような表情を楠木正成に向ける。
「兄者、新田殿は初めの軍船に釣られましたな。今、西の浜へ悠々と上陸してきたのが尊氏であろう」
「ああ、そうじゃな。されど、新田殿を責めまいぞ。誉めるべきは足利じゃ。さすがは尊氏というべきか」
自身の危機を二の次にして、正成は、新田軍が挟み撃ちになるという最悪の事態に陥らずに済んだことに安堵していた。
「三郎兄者、こっちもすごい軍勢じゃぞ」
西に目を向けていた楠木正季が、かん高い声を上げた。
「ふふ、わずか七百余騎の我らに対し、足利がこれだけの軍勢を充ててくるとは……まったく男冥利に尽きる」
正成は、振り向いた正季に、苦笑を返した。
五万とも言われる軍勢で陸路、東上した足利直義は、会下山を前に進軍を止める。
楠木軍を目の前にした直義であったが、すぐに戦を仕掛ける素振りはない。
従兄弟で側近でもある伊豆守、上杉重能が不思議そうに顔を向ける。
「攻め込まぬのですか」
「うむ、戦上手の正成のこと。この山も、また何かの仕掛けがあるやもしれん」
楠木軍が到着したばかりということを、直義は把握していなかった。しかし、彼に限らず、多くの者が赤坂城・千早城の再現を恐れていた。それほど、楠木正成の天才的な軍略は、皆の頭の中に嫌というほど刷り込まれていた。
その頃、虎夜刃丸らの姿は、楠木の氏寺である観心寺の金堂にあった。母、久子と、桜井から戻った長兄の楠木正行、次兄の持王丸、叔母の良子と従兄弟の満仁王丸・明王丸・倫子、家宰の恩地左近と嫡男の満一、それに侍女の清をはじめとする女中や下働きの男たちも一緒である。
一同は、本尊の如意輪観音に手を合わせ、中院院主、龍覚のもとで読経を唱えた。
(観音様、どうか父上の命を持って行かないでください)
虎夜刃丸は心の中で繰り返し念じる。こんなにも御仏を身近に感じたのは初めてのことであった。
楠木軍と対峙した足利直義は、自身が指揮する本軍を会下山の西に留め、分家の足利高経を大将とする軍勢を山の北側に回らせる。そして、南側は新田義貞に追し戻された少弐頼尚を大将に、山を囲うように兵を分散させた。このことで、直義自身の本営は、若干、手薄となる。
楠木正成は、これを待っていた。
「よし、頃合いじゃな。いよいよ覚悟の時ぞ。目指すは直義の首一つじゃ」
「我ら一丸となって敵の大将目掛けて突き進むのみ」
「者ども、我ら兄弟について参れ。いざ」
楠木正季と美木多正氏が、正成の後に声を被せて張り上げた。
「承知っ」
「いざっ」
「おうっ」
諸将が口々に声を上げた。
そして、正氏の騎馬を先頭に、楠木軍がいっせいに駆け降りた。
会下山の西の麓では、上杉重能が目を剥いて声を上げる。
「ご、御舎弟殿(直義)、楠木軍がこちらに向かって山を駆け降りて来ますぞ」
「ちっ、自ら山を下りてくるとは……いつもの楠木とは異なるな。正成はいったい何を考えておる。されど、もっけの幸いじゃ。楠木に山に籠られては戦いにくい」
そう言うと、直義は配下の細川兵部少輔顕氏を呼び寄せる。顕氏は軍船で東に向かった細川定禅の兄である。
「敵が山から降りたら包み込んで殲滅するぞ。兵を集めよ」
命じると、直義は、自らも高揚した顔で馬に跨った。
楠木軍は三隊に分かれて会下山を下った。
楠木正成、楠木正季、美木多正氏は、それぞれが騎馬兵を率いて足利直義の本軍へ突入する。少数精鋭の楠木勢はすさまじかった。騎馬が走り過ぎた後は、両軍ともに死屍累々《ししるいるい》のありさまであった。
楠木の三兄弟は騎馬を駆って、それぞれが西に東に、南に北にと縦横無尽に走り回り、守り手をかく乱した。
直義は、代わる代わる己を狙って突撃する騎馬に、軍勢を指揮する暇もなく、身を守ることで精一杯の有り様であった。
これが正成の、命を賭した最後の策であった。
そのころ東に進んだ新田義貞は、上陸した細川定禅との小競り合いを制し、舎弟の脇屋義助と合流して西宮まで退却していた。
苦々しそうに、義助が兄、義貞に進言する。
「楠木とはあまりにも離れてしもうた。楠木が敵を引き付けている間に、我らはいったん京に退却し、名和殿や千種様らを糾合して戦った方がよいと存ずる」
「じゃが、河内守殿(楠木正成)が心配じゃ」
「河内守殿は畿内の土豪。我ら、東国武士のように名を惜しんで討死することもありますまい。きっと、戦場からうまく逃げおおすでしょう」
「うむ……」
義貞は、義助に促されて小さく頷く。だが、昨日の正成の態度が頭から離れなかった。
上陸した足利尊氏の元に、会下山に放った斥候が戻ってくる。
息を切らした斥候が、尊氏の前で片ひざを付く。
「申し上げます……河内守の騎馬は小勢ながら……その勢いすさまじく……御味方勢をかき乱し、敵味方ともに屍であふれかえっております……敵は執拗に左馬頭(足利直義)を狙って馬を駆り、左馬頭は追われるままに、須磨に向かって退かれたとのことでございます」
「うむ、さすがは正成じゃ。我らも会下山に向かうぞ。急ぎ直義を助けよ」
下船した強兵たちを率いた尊氏は、楠木軍を背後から挟み込んだ。
こうなると多勢に無勢。勝敗は明らかであった。ここで楠木軍は撤退するのが戦の定石である。しかし、楠木正成、正季、美木多正氏の兄弟は、湊川を背にして足利軍に何度も何度も騎馬で突入を繰り返した。
十六回目の突入を行った正成が、別方向から突入した正季と顔を合わせる。
「三郎兄者」
「おお、七郎」
正季は背中と肩に矢を受け、足は薙刀で突かれて血を流していた。一方の正成も、肩に矢を受けて、足も切られ自由が利かなくなっていた。両者とも苦痛で顔が曲がりそうなところを、押して笑顔を繕った。
双方の兵を合わせた正成は、最後の力を振り絞って足利軍の囲みを突破する。
「三郎兄者、向こうに五郎兄者が……」
その声で、正成は舎弟の正氏に向けて馬を駆った。
「五郎、無事であったか」
「兄者こそ」
三兄弟は馬を降りて手を取り合った。
「五郎、残ったのはどのくらいじゃ」
「ざっと百余騎かと」
あたりを見渡し、正氏が応じた。
皆、肩で大きく息をしている。負傷していない者はいないありさまであった。
「五郎、お前には辛い役目を頼まねばならん」
不意な正成の言葉に、正氏が振り返る。
「辛い役目……この期におよんで何じゃ」
「深傷を負ったわしと七郎はともにここでけじめを付ける。お前は幸いにも浅傷の様じゃ。頼む、動ける者たちを連れて、河内へ引き上げてくれ。命を無駄にする必要はない」
正氏は足に矢傷を受けているが、深傷といえるほどの傷ではない。驚いて隣に目をやると、正季も頷く。
「五郎兄者、そうしてくれ。わしも三郎兄者も、この傷では足手まといじゃ」
「何じゃと。このわしに落ち延びよと言うのか。兄者、それはないであろう。わしも縁あって弟になった。死ぬときは一緒じゃ」
大の大人の正氏が泣きそうな顔で抗うが、正成は首を縦に振らない。
「いずれ足利は河内をも攻めるであろう。目代のお前には、太郎(楠木正行)を支えて、河内を護って欲しのじゃ」
「そ、そんな……」
「頼む。お前にしか頼めぬことじゃ」
頭を下げる正成に、正氏は大粒の涙をこぼした。
正成は、浅傷の者たちを正氏に託し、追い立てるように戦場から逃がした。
「……終わったな……」
小さくなっていく正氏たちの後ろ姿を見ながら、正成は誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。
そして、その姿が見えなくなると、正季と負傷した将たちを連れて、近くの百姓家に逃げ込んだ。
足利尊氏のもとに、再び斥候が駆け込む。
「申し上げます。楠木軍は総崩れとなり、河内守(楠木正成)とおぼしき者が三十人ほど連れて川向こうの百姓家に逃れました」
尊氏の隣で、執事の高師直が、ふっと笑みを浮かべる。
「ついに力尽きたようじゃな。追い打ちをかけて討ち取ってしまえ」
「いや、追うな。楠木に追い討ちをかけてはならん」
険しい表情で尊氏が師直の命を取り消した。
「御館様、相手は楠木ですぞ。とどめを刺さなければ、またぞろ死んだ振りでもして逃げてしまいますぞ」
しかし、尊氏は首を横に振って師直の進言を無視する。
「その百姓家を遠巻きにしておればよい。手を出すことは相成らぬ。直義にも伝えよ。これは将軍の命じゃ」
「はっ、承知」
斥候は一礼して、足利直義の元へ駆けていった。
百姓家には楠木党の二十八名が入った。一門の和田正遠、神宮寺正師、橋本正員も一緒である。
皆、具足の草摺は引き剥され、鎧袖には矢が刺さったままである。ある者は腕を切られ、ある者は足を突かれていた。各々、深傷を負った箇所を止血するため、下帯で手や足を縛っていた。
上座に腰を下ろした正成が、諸将を見渡して頭を下げる。
「皆、よう戦ってくれた。ここまで付き合わせてしまい、申し訳のう思う」
「何の殿、わしらはわしらの思いでここまで従ったまでのこと。殿が何を謝ることがございましょうや」
正師が応じると一同が頷く。皆、清々した顔つきである。その様子に正成は一安心して表情を和らげる。
「皆、心おきなく戦えたようじゃな」
「ほんに精一杯、戦いましたぞ。これ以上の戦はできませぬ」
正員が笑って応じた。
「それは何よりじゃ。では潔く腹を召し、共に仏界を目指そうぞ」
正成の言葉に、皆、神妙な顔で短刀を手に取った。
「人は死ぬ間際の一念により、仏界からまた九界の世に生まれ変わるという。九界とは地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界、声聞界、縁覚界、菩薩界のことじゃ。さて七郎(正季)、そなたなら、いずれの世界に生まれたいと願うか」
「もとより、人間界じゃ。七度までも人として生まれ、朝敵を滅ぼさん」
「ふふ、恐ろしきことを言いよる。じゃが、わしも人として今一度、生を受け、御還幸のお迎えからやり直したい。次は国造りをお支えするのじゃ。今度は失敗せぬようにな」
そう言って笑ったあと、正成は落ちついた表情で正季と向かい合う。
「朝敵か……目の前に見えたものばかりではなかったやも知れぬな」
そう言いながら、正成はゆっくりと短刀を抜いた。そして、正季と、互いに相手の胸に短刀を合わせる。
「今生の別れじゃ、七郎」
「では三郎兄者、来世で」
―― ずっぶっ ――
うめき声を漏らすことなく、二人は重なり合って倒れた。
続いて義兄の和田正遠が鞘から短刀を抜き、大きく息を吸い込む。
「先に参る」
正遠は短刀を首に当てて一気に引いた。ばっと血が飛び散る。そして、崩れるようにその場にうずくまった。
「では、それがしも」
橋本正員は歯を食いしばって一気に喉を突いた。
「さらばじゃ」
「御免」
楠木の諸将は次々に声を上げて自害して果てた。
最後に、神宮寺正師がゆっくりと皆を見渡してから、目を閉じて白刃を首に当てる。
「では、参る」
―― ずっ ――
うっと小さな声を上げた正師が、首から血を噴き出して、前のめりに倒れた。
勧心寺で如意輪観音に手を合わせる虎夜刃丸は、読経の声に揺られて夢と現実の狭間を彷徨っていた。
『虎夜刃丸、わしはそろそろ行かねばならん』
一面立ち込めるもやの中、楠木正成は虎夜刃丸を残して馬に跨った。
『父上、どこに行かれるのですか……』
しかし、正成は振り向くことなく馬を進ませる。
『父上っ……虎を、虎を置いて行ってはなりませぬ』
『楠木を頼むぞ』
背中を向けたまま、正成は最後の言葉を残して濃いもやの中へと消えていった。
すると、虎夜刃丸は現実の世界で突然、立ち上がる。
「父上、戻って来てくだされ。お願いじゃ」
その声に一同は驚き、中院院主、龍覚の読経が途切れる。
久子は、そんな息子の姿に、自然と涙が溢れた。
足利尊氏の元に斥候が戻ってくる。
「申し上げます。楠木河内守(正成)は御舎弟帯刀(正季)と互いに刺し違えて御自害。将兵たちもこれに従い、自害した者は総勢二十八名に上ります」
「そうか……惜しい男を亡くした……」
尊氏は力なく息を吐くと、その百姓家の方角に向かって両手を合わせた。
と、その時、慌ただしく、別の斥候が飛び込んでくる。
「申し上げます。新田の本軍が西宮から軍勢を返し、生田の森のあたりまで押し戻してきております」
「何じゃと、義貞が……」
「では、それがしが参りましょう」
傍らにいた執事の高師直が、ずいっと前に進み出る。そして、刀を腰に差しながら斥候を従えて、馬に向かった。
一人になった尊氏は、拳を強く握る。
「義貞、なぜ、もっと早う返して、楠木を助けてやらなんだ……」
昇天する正成を見送るかのように、尊氏は天を仰いだ。
生田の森での足利軍と新田軍の総力戦は、これ以上にない激しいものとなった。しかし、時が経つにつれて、優劣は明確になる。片翼になるはずの楠木軍は最早いない。もともと兵の数で劣る新田軍の不利は補い難く、義貞は兵を率いて京へ撤退するしかなかった。
湊川の戦いは、わずか一日で終わった。楠木正成の亡骸は近くの魚御堂に運ばれる。その昔、平清盛が魚供養のために建立したと伝わる御堂であった。
顔改めは足利尊氏自らが行う。
「正成殿……」
経机の上で目を閉じる正成の首に、尊氏は沈痛な面持ちで手を合わせた。
「御館様、どうなされますか」
「世の倣いじゃ。河内守殿(正成)の首を湊川の河原に晒せ。亡骸は、近くの寺の僧侶に頼んで懇ろに弔ってもらえ。礼として寺に所領五十丁を寄進すると伝えよ」
「はっ、承知しました」
執事の高師直が、無表情に頭を下げた。
「さて、その後のことじゃが……」
尊氏は師直を近くに呼んで、耳元でささやく。その指示に師直は、ぎょっと顔を上げた。
翌日、南河内の楠木館は、兵庫の戦況が入るのを待っていた。
「奥方様(久子)、五郎殿(美木多正氏)が、五郎殿が戻られましたぞ」
楠木の家宰、恩地左近が大声を上げて、仏間で手を合わせる虎夜刃丸らの元へ走ってきた。
男たちは、湊川から六甲山の山麓沿いに進んで布引の滝に抜け、夜通し歩いて河内に戻ったところであった。
虎夜刃丸も久子も、取るものも取り敢えず、館の外に駆けだした。
庭には正氏らおよそ四十人が倒れ込むように座り、肩で大きく息をしていた。皆、怪我を負い、中には、いまだ具足に矢が刺さったままの者さえいる。
すでに楠木正行や持王丸、恩地満一らも集まっていた。
正氏は、館から飛び出してきた久子に気づくと、姿勢を正してその場に臥す。
「義姉上(久子)、わしだけおめおめと生き延びてしもうた。面目ない。この通りじゃ」
「殿(楠木正成)は……七郎殿(楠木正季)は、正遠殿(和田正遠)は……皆はどうされたのですか」
ひざを付いた久子が、座り込んで頭を下げた正氏の肩を揺さ振る。その様子を、虎夜刃丸も息を呑んで見守った。
「足利の進軍を止めることは叶わなかった。兄者はわしに、身体が動く者を連れて、河内に帰るように命じた。その後のことはわからん。ただ兄者も七郎も深傷を負い、覚悟を決めておった。おそらくは……」
正氏の話に、久子は力が抜けたようにその場に座り込んだ。
帰還した者たちの中から橋本九郎正茂が進み出る。正茂は湊川に残った橋本正員の舎弟であった。
「奥方様、どうか、目代殿(正氏)をお責めにならぬように。目代殿は、殿に最後まで一緒に居りたいと申されました。されど、若殿(楠木正行)のために河内に戻るよう強く言われ、我らとともに、このような仕儀となり……」
「ええ……わかっておりますよ」
涙を拭い、久子は気丈夫に頷いた。
その隣では、持王丸が力なくその場に座り込んでいた。
「父上は死んだのか。父上は死んだのか」
虎夜刃丸は泣きながら、正行の足に抱き付いた。だが、正行は、そんな虎夜刃丸に言葉を掛ける余裕もなく、ただ、その姿を見つめることしかできなかった。
湊川の戦から三日後、楠木正成が討死したという知らせは、さまざまな形で河内国赤坂の楠木館にもたらされていた。もはや討死は抗うことのできない事実となった。
虎夜刃丸らは観心寺に出向き、金堂で弔いを上げる。女たちのすすり泣く声の中で、中院院主、龍覚の読経が響いた。
そこへ観心寺の小僧が、蒼い顔をして久子の元に歩み寄る。
「奥方様、足利の使いと申す者が表に来ております。奥方様にお会いしたいとのことですが……」
一同は一瞬、自らの耳を疑って、小僧に視線を注いだ。
「足利じゃと……」
湊川で生き延びた美木多正氏は、怒りの込もった声を震わせた。
久子は自身に言い聞かせるように、胸に手を当る。
「わかりました。お会いしましょう」
「母上……」
正行が驚いて声を上げると、久子は大丈夫といった顔で小さく頷いてみせた。
龍覚の計らいで観心寺の中院で足利の使者を迎える。上座に楠木正行と久子が座り、その前に二人の使者を座らせた。正氏をはじめとする楠木の男たちが使者を挟むように両方の脇に並んで座る。そして、虎夜刃丸ら女こどもも末席に控えた。
二人の使者は、傍らに首桶を携えていた。一同はそれを見て使者の目的を悟った。
持王丸は思わず目を背ける。だが、幼い虎夜刃丸は、それが何だかわからず、ただ見つめていた。
使者の一人が、いったん平伏してから、伏し目がちに顔を上げる。
「我が主、足利尊氏は、河内守殿(正成)を尊敬する御仁と申し、こうして敵味方として戦わざるを得なかったこと、たいへん後悔しておりました。このような仕儀と合いなり、まことに申し訳けないとお伝えするよう申し付けられております。これに河内守殿の御首をお届けに参りました。何卒、よしなにお取り計らい願いたく存じます。まずは、御検分くださりませ」
使者の口上に、久子は気丈夫に振る舞う。
「正行、そなたが楠木の棟梁です」
促され、正行が首桶の蓋に手をかける。が、一瞬ためらい手を止める。そして、息を止め、覚悟を決めたかのように蓋を開けた。
思わず目を逸らす正行であったが、もう一度、しっかりと首桶の顔に目を落とす。
「確かに、父、正成の首でござる」
周囲の郎党、下に控えた女たちから嗚咽が漏れた。
「我が主は、戦さえなければよき御味方になったであろうと申しておりました。こうして亡くなられたからには、もはや敵ではなく、丁重に扱うのが道理じゃと申し、慣習を破り、お届けに参った次第にございます」
二人の使者が、緊張した面持ちで頭を低く下げた。
「遠いところをご苦労であった。足利殿の恩情、楠木一門を代表して礼を申す」
涙をこらえ、正行は毅然と応じた。
足利の使者が帰った後の観心寺中院の広間。楠木正成の首桶を一同が取り囲んだ。
虎夜刃丸は、母、久子のひざに顔を埋め、うっ、うっと、しゃくるように泣き声を洩らす。その泣声が久子の涙を誘い、ひざの上の虎夜刃丸の髪を濡らした。
一方、持王丸は目に涙を湛え、肩を震わせていた。泣くまいと声を押し殺しているようであったが、時折、嗚咽が口をついていた。
「こんな姿になりおって……」
美木多正氏は、怒りに任せ、拳で床を叩いた。
その隣では家宰の恩地左近(満俊)と満一の親子が、沈痛な面持ちで手を合わせた。
放心状態で桶をながめていた楠木正行が、おもむろに立ち上がる。
「太郎(正行)、どこへ……」
「少し……外の風に当たって参ります」
母にそう応じて、正行はふらふらと中院を出ていった。
楠木正行は無表情のまま、何者かに手を引かれるように阿弥陀堂に入る。そこには闇の中に、柔なか光を放つ阿弥陀仏が鎮座していた。
その前に座った正行は、父、正成から譲り受けた、菊水の紋様が入った短刀を腰から外し、じっと見つめる。
「父上……」
何者かの手が介添えられたかのように、短刀を鞘から抜いて、切っ先をそっと自分の喉に近づけた。
真似だけである。真似だけのはずであった。しかし、ぎらりと光を返した切っ先が喉に触れる。にじんだ血が、一向に離れようとしない刃先に伝わった。
「太郎、何をしているのですか」
あとを追ってきた久子が、甲高い声をあげた。
はっと我に返った正行が振り返る。
「母上……」
手に持つ短刀に自身も戸惑いつつ、言葉を繕う。
「ち、違いまする……父上は、どの様なお心持ちであったのかと思い、つい……」
苦しい言い訳を口にした。実際、正行自身、何をしようとしたのかわからない。兎に角、手にした短刀を振り払うように鞘に収めた。
「太郎……父上の御遺言を忘れてはなりませぬ。父上はなぜにあなたを河内に返したのですか。なぜに五郎殿(正氏)を兵庫から戻したのですか……」
自らの悲しみは胸のうちにしまい込み、久子は毅然とした態度で接する。
「……五郎殿の方が、よほど腹を召されたかったことでしょう。されど、あなたの後見として、泣く泣く戻ってきたのです。父上や七郎殿は、あなたが居るからこそ安心して最後の戦いに望んだのです」
「……」
母の言葉が正行の胸に突き刺さった。
「多聞兄者(正行)……」
久子を追ってきた虎夜刃丸が、その脇を抜けて正行に抱きつく。
「死んでは駄目じゃ……」
涙で顔をくしゃくしゃにした虎夜刃丸が、泣き声の中から絞り出して懇願する。
「……お願いじゃから死なんでくれ」
末子のむせび声に、久子が濡れた瞳を正行に見せる。
「太郎、幼い虎夜刃丸にとって、今やお前は単なる兄ではないのです。頼るべき父でもあるのですよ」
母の諫言に、正行は項垂れた頭を起こす。
「虎夜刃丸、もう泣くな……もうこのような真似はせぬ。この兄が悪かった」
―― ひっ、ひっく ――
虎夜刃丸はしゃくりあげながら頷いた。
取り憑いた得体の知れないものを振り払い、正行が正気を取り戻す。
「母上、楠木の棟梁として……自分が何をすべきか、よう考えてみます」
憑き物が落ちた息子の姿に、久子は安堵の表情を返した。
虎夜刃丸も落ち着きを取り戻し、正行の胸に顔を押し付けて涙を拭った。