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第九話

               16



 九月も半ばを過ぎた頃から秋はその存在を急速に際立たせていき、まだ微かに残っていた夏の余韻のようなものを遠くへ押しやっていった。気のせいか色んなものの色素が薄れていくような気がした。町を照らす日の光。空の色。木々の葉の色。空き地に茂る草の色。



 結局いつまで経っても優貴からの連絡はないままだったが、しかし、次第に池田のほうでも優貴のことを思い出すことは少なくなっていった。池田が優貴に連絡を取ることを試みたのは、二週間前の土曜日が最後だった。それからは一度も電話もメールもしていなかった。


 二度も連絡を取ることを試みて、それで駄目だったのだから、結局のところ、もうどうしようもないのだろうと池田は判断した。優貴を失ってしまうのは哀しかったが、しかし、池田にもプライドがあった。無理をして、ストーカーと勘違いされるようなことまではしたくなかった。


 中島はこの前エレベーターのなかでも告げたように、会社に辞表を出したようだった。退社までには手続きなどがあってもう少し時間がかかるようだったが、それでも十月のはじめ頃までには退社してしまうという話だった。



 主任のこともあるので、中島が会社を辞めてしまうのは仕方のないことだったが、しかし、池田は中島がもうすぐ会社からいなくなってしまうのだと思うと、寂しい気持ちになった。考えてみれば、会社のなかで、音楽のことや、趣味のことについて話がきるのは彼女くらいのものだったのだ。他の人間とはそれほど話がかみ合わなかった。



 池田はふと会社のなかから自分の居場所がどんどん失われていってしまうような、疎外感の混じった、孤独感を覚えた。そんなふうに感じてしまうのは、この前の武田の話のせいもあるのかもしれなかった。



 池田はときどき、いま自分がどこに居て、どこに向かって進もうとしているのか、上手把握できなくなってしまうことがあった。一体何が楽しくて、何のために生きているのか。ただ生活するために働く、淡々とした毎日だけがあるような気がした。そう考えると、池田の気持ちはひどくふさぎこむことになった。まるで出口ない、細長い廊下に迷いこんでしまったみたいに。




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 十月に入ると、何日が続けて激しい雨が降った。その雨が上がってしまうと、世界はいよいよ秋めいていった。大地を照らす日の光は透明度を増し、空気は澄んで、肌寒く感じられるようになっていった。木々の葉も少しずつ色づきはじめ、道端にはところどころで木々の枯れ葉が目つくようになった。



 中島の送別会が催されたのは、中島が会社で働く最終日だった。予定があって出席できない人間も何人かいたが、池田の働く部署のほとんど全てのひとが参加することになった。


 仕事が終わったあと、近くの居酒屋に移動して、中島が去ってしまうことをみんなで惜しんだ。


 そのとき池田はたまたま中島の近くの席になって、彼女と楽しく話しをしていたのだが、しばらくすると、酒を飲んで顔が赤くなった主任がふらふらと池田と中島が話している席に割り込んできた。


「中島ちゃん、どうして辞めちゃうんだよ」

 と、主任は中島のグラスに無理にビールを注ぎながら妙におどけた口調で言った。


 中島が主任の言葉に困って曖昧に微笑んでいると、主任は池田の顔に視線を向けて、

「中島ちゃんが辞めるくらいなら、こいつが辞めりゃあいいんだよ」

 と、主任は笑って言った。


 池田は主任の科白に多少腹が立ちもしたが、酔っているし、きっと冗談で言っているのだろうと思って、そうですね、と、曖昧に笑って話を合わせておいた。


「こいつなんて全然仕事できねぇし、中島ちゃんの方が会社に居てくれた方が会社のためになるんだよ。な、中島ちゃんもそう思うだろ?」

「そんなことないですよ」

 と、中島は主任の言葉にぎこちなく笑って答えた。

「池田さん仕事頑張ってるし、後輩の面倒見とかもいいし」



「そんなことねぇて」

 と、主任は笑って中島の科白を否定した。

「こいつが優しいのは、エロイこと考えてるからなんだって。そうだろ?池田?」

 池田がどうリアクションしたらいいのかわからずにいると、

「な、こいつ否定しねぇだろ?」

 と、主任は笑って勝ち誇ったように言った。



「だいたいこいつの目からしていやらしいんだよ」

 と、主任は微笑して続けた。それから、主任は中島の方に向き直ると、

「それにしても中島ちゃんって胸デカイよね?」

 と、主任は中島の胸のあたりをまじまじと見つめて言った。

「ちょっと一回でいいからさわらしてよ」

 中島が困惑していると、主任は構わずに中島の胸に手を伸ばした。



「ちょっとやめてください」

 中島は小さな声で抗議したが、主任は笑って「最後にもう一回だけ」と言って、また手を伸ばして中島の胸に触れようとした。



「主任、それセクハラですよ」

 と、池田はもう一度主任が中島の胸に触れようとしたところで声をあげた。しかし、主任は池田の声が聞こえなかったのか、そのまま手を伸ばそうとする。



「ちょっと主任」

 と、池田は今度は少し大きな声で注意した。それから、中島の胸に手を伸ばしかけた主任の手を軽く叩く。



 主任はまさか池田に手を叩かれるとは思っていなかったらしく、それまで浮かべていた笑みを消して、池田の顔をじっと見た。


「なんだよ、池田」

 と、主任は池田の顔を見つめまま、脅すような口調で言った。主任は池田に注意されたことが気に食わなかったようだった。


「なにがセクハラだよ。お前、中島の彼氏じゃねぇだろ?」


「そういう問題じゃないでしょう」

 と、池田は答えた。

「中島さんが嫌がってるのがわからないんですか?」


「そんなかっこつけんなって」

 と、主任はバカにしたように小さく笑って言った。

「中島さんの前でいいところ見せようたって無駄だって。中島さんはお前のことなんて絶対好きならねぇし。誰かお前みたいなやつ」



 池田は主任の言い草に腹が立った。我慢しようと思ったのだのだが、今回はできそうになかった。気がつくと、言い返してしまっている自分がいた。

「誰もそんなこと言ってないでしょう。だいたい誰のせいで中島さんが会社辞めると思ってんですか?あんたのセクハラのせいですよ」



 ちょっと池田さん、と、中島が小さな声で注意する声が聞こえたが、そのときは池田も頭に血が上っていて、自分の感情が抑えられなくなっていた。


「お前、誰に向かって口きいてんだよ」

 と、主任も池田の言葉に声をあらげた。

「あんたって、あんたですよ。他に誰がいるんですか?」



 本格的に雰囲気が緊迫しだしたところで、

「主任!ちょっとこっちに来てくださいよ」

 と、よく事情を知らない男の社員が主任に声をかけてきた。


 主任は一度その社員の方を振り向くと、それからまた池田の方に向き直って、池田の顔を睨みつけた。そして立ち上がると、何も言わずに、主任は声をかけてきた男の社員のもとへと歩いていった。


 池田は去っていく主任の後ろ姿を無言で見送った。




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