第七話
13
月曜日、池田は会社の廊下で中島とすれ違いかけたときに、この前のライブの感想を中島に伝えた。ライブの演奏が自分が想像していたよりもずっと良かったこと。プロとしても十分通用するだろうと本気で感じたこと。
池田がそう感想を述べると、中島は、
「ありがとうございます。今度彼氏にあったら池田さんがそう言ってたって伝えておきますね」
と、嬉しそうな笑顔で言った。
「彼氏、たぶんめっちゃ喜びますよ」
と、中島は楽しそうに続けた。
「でも、もったいないよな」
と、池田はこの前も泉谷と居酒屋で話したことを口に出した。
「なんであれだけいい演奏ができてんのに、まだデビューできないんやろな?日本の音楽シーンとか、これってどうなん?って思う曲とか一杯あんのにな」
「そうですね」
と、中島は池田の意見にちょっと困ったように曖昧に笑って頷いた。
それから、中島は数秒間、感覚をあけてから、
「でも、わたしも池田さんと似たようなことはよく思うんですよね」
と、続けて話した。
「これはたぶん」
と、中島は少し躊躇ってから続けた。
「自分の彼氏だからっていう贔屓目もあるんだと思うんですけど、でも、わたしは彼氏の作る音楽がめちゃくちゃく良いと思ってて、それなのになんでなかなか認められないんだろうってときどき思うことがありますね」
中島はそこまで話すと、池田の顔を見て、自分の話した言葉が深刻身を帯びてしまうのを恐れるように口元で少し笑った。
「中島さんの彼氏さんはまだデビューするのは難しそうなん?」
と、池田は気になって尋ねてみた。すると、中島は、
「大阪では結構知ってくれるひともいて、なかには熱心なファンとかもいるみたいなんですけどね・・・でも、なかなか難しいみたいですね」
と、考え込むような表情で答えた。
「そうなんや」
と、池田はかける言葉が思いつかなくてただ頷いた。
「・・・彼氏、いまちょっと迷ってるみたいなんですよね」
と、中島は少し間をあけてから、いくらか小さな声で言った。
「迷ってるって?」
と、池田が気になって尋ねてみると、中島は、
「わたしの彼氏、いまフリーターしながら音楽やってるんですけど、でも、今年で二十七歳で、だから、このまま音楽続けていくかどうか・・やっぱり将来のこととかもあるし、親も色々うるさいみたいで」
と、心持顔を俯けるようにして、少し小さな口調で告げた。
「そっか。色々難しいよな」
と、池田は同情して言った。もし自分が中島の彼氏だったら、やはり同じように悩んだだろうと池田は感じた。
と、そのとき、向こうの廊下かから誰かが歩いてくるのが視界に入った。誰だろうと思って見てみると、それは主任の大島だった。主任は池田と中島の姿に気がつくと、ふたりがいるところまで歩いてきて、
「おい、池田、お前、何セクハラやってんだよ?」
と、半笑いで、冗談とも本気ともつかない口調で池田に声をかけてきた。
池田が主任の突然の意味不明な問いかけに上手くリアクションできずにいると、
「中島さん、気をつけろよ。こいつエロイことしか考えてねぇんだから」
と、主任は中島に笑いかけて言った。
中島は主任の言葉に困ったように口元で曖昧に微笑んだ。
「もしこいつになにかされたら、いつでも俺に相談するんだよ」
と、主任は妙に優しい口調で中島に声をかけた。それから、主任は池田たちに背を向けて歩いていうことしたが、突然何か思い出したのか、立ち止まると、後ろを振り返って、
「池田、そういえば、お前がさっき提出した報告書、あれ全然駄目ね。今日中に書き直して提出」
と、告げた。
その報告書というのは、この前池田が主任におしつけられた仕事の報告書で、本来であれば池田の仕事ではなく、主任の仕事のはずだった。報告書に不満があるのなら、最初から主任が自分でやればいいのだ。池田が不満に思って黙っていると、
「わかってんの?」
と、主任は脅すように語気を強めて言った。
池田はいちいち口答えするのも面倒だったので、わかりました、と答えた。それで主任はやっと満足したようで、後ろ手でと軽く手を振ると、オフィスがある方に向かって歩いていった。
「・・・あのひと、ほんとに嫌い」
と、主任の姿がやっと見えなくなると、中島が小さな声でそう言うのが聞こえた。
14
武田洋介が電話をかけてきたのは、金曜日の夜だった。
池田はその日仕事を終えると、自分のアパートに戻り、とりあえずという感じでシャワーを浴びた。今週は珍しく休日出勤の予定もなく、ゆっくり休暇を過ごすことができそうだった。
相変わらず優貴からの連絡はないままだったし、特にやりたいことも、用事もなかったが、しかし、これから少なくとも二日間は仕事(特に主任)のことを考えずにすむのだと思うと、池田はほっとくつろいだ気持ちになれた。
さっぱりした気分で風呂から上がり、喉が渇いたので、ビールでも飲もうかと冷蔵庫を開ける。そしてそのときに、池田は机の上においてあったケータイのランプが点滅しているのにふと気がついた。自分が風呂に入っているあいだに、誰かから連絡があったのだ。
もしかしたら優貴から電話があったのかもしれないと思い、池田の動悸は早くなった。開けかけていた冷蔵庫の扉を再び閉め、テーブルのところまで歩いていく。そしておもむろにケータイを手に取り、着信履歴を確認する。すると、そこにはあったのは、優貴の名前ではなく、大学時代の友達の名前だった。
彼の名前は武田洋介で、彼は大学を卒業したあと、東京にでて、アルバイトをしながら小説家を目指している。
期待していた優貴からの連絡ではなかったので少しがっかりもしたが、しかし、池田は着信履歴に武田洋介の名前を見つけたとたん、懐かしい気持ちになった。彼とはもう三ヶ月ちかく連絡を取っていない。そのうちに連絡を取らなきゃなと思いつつ、つい日々の雑事に追われているうちに連絡を取るのを忘れてしまっていたのだ。
池田は慌てて友達に電話をかけなおそうとした。そして池田がリダイヤルのボタンを押そうとしたまさにその瞬間に、ケータイの着信音が鳴った。画面に表示されている名前は池田が電話をかけなおさそうとした本人からだった。
「もしもし」
と、池田は電話の通話ボタンを押すと言った。すると、
「もしもし」
と、耳元に懐かしい友人の声が広がった。
「池ちゃん?武田だけど、わかる?」
「久しぶりやな」
と、池田は軽く笑って答えた。
「久しぶり」
と、電話の向こう側で友人の声が嬉しそうに弾んだ。
「メールはちょくちょくしてたけど、こうやって電話で話すのはほんとうに久しぶりだよね」
「そうやな」
と、池田は微笑して同意した。
「どうしたん?」
わずかな沈黙のあと、池田は用件を尋ねてみた。
「いや、実は友達の結婚式がそっちであってね」
と、武田は答えた。
「だから、明日そっちに行くんだよ。それで、そのあとちょっと会えないかなって思って。急で悪いんだけど」
武田は少し申し訳なさそうな口調で付け足して言った。
「それやったら全然大丈夫やで」
と、池田は笑って答えた。
「どうせ明日は何も用事がなくて暇しとってん」
「ほんと?それなら良かった」
「予定はどうなってんの?」
と、池田は確認してみた。
「一応、三時くらいに式が終わる予定で、だから、五時くらいに梅田とかで待ち合わせでどうかな?」
「わかった」
と、池田は武田の提案に頷いた。
「でも、二次回とかは行かんでいいの?」
と、池田がふと気になって尋ねてみると、
「ほんとうは二次回も誘われてるんだけどね、でも、池ちゃんに会えるのは明日くらいしかないから」
と、武田は微かに笑って弁解するように答えた。
「そうなんや」
と、池田は何と言ったらいいのかわからなくてとりあえず相槌を打った。
「じゃあ、明日、楽しみしてるよ」
と、そう言って電話を切った友人の声は、気のせいか、寂しそうにも聞こえた。
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