第六話
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つまらない浮き沈みを繰り返しながら、いつも通りの毎日が過ぎていく。幸せのような、不幸せのような日々。
八月が終わり、九月がはじまった。夏の目映いばかりの太陽は少しずつその輝きを失っていき、その代わりに秋の到来を思わせる涼しい風が町に吹き渡るようになった。
セミたちが最後の力を振り絞るように大きな声で鳴いている。
池田は先週の土曜日に優貴にメールを送って以来、ずっと連絡を取るのを我慢していたが、(結局、池田が以前送ったメールに対して優貴からの返事はなかった)金曜日の夜、どうしても不安な気持ちに耐えられなくなって電話をかけてしまった。
たとえ望ましい結果が得られなかったとしても、池田は優貴の声が聴きたかった。このまま別れることになるとしても、こんなふうに曖昧なまま終わってしまうのが嫌だった。
最後に優貴が電話をかけてきた日の着信履歴を呼び出し、優貴に電話をかける。ついこの前まで毎日のように電話をかけていたのに、その日ははじめて電話をかけるときのようにひどく緊張した。
一回目の呼び出し音がなり、二回目の呼び出し音がなる・・・そして十回目の呼び出し音が鳴ったところで、池田は諦めて電話を切った。
優貴は電話に出なかった。
もしかしたら、優貴はいま忙しいのかもしれなかったが、でも、なんとなくそうではないような気がした。部屋に居て、ケータイのディスプレイに表示された池田の名前を見つめたまま、電話が切れるのをじっと待っている彼女の姿が目に浮かぶような気がした。
そんな彼女の姿を想像すると、池田は傷ついた、寂しい気持ちになった。
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土曜日、池田は主任に頼まれた仕事を片付けると、その足でそのまま心斎橋に向かった。心斎橋で中島が言っていたライブがあるからだ。
ライブには泉谷も一緒に誘った。泉谷を誘ったのは、ひとりで行くのが心細かったからだが、泉谷も大学生の頃、池田と同じようにバンドをやっていたことがあるので、もしかしたら興味があるかもしれないと思ったのだ。
池田が誘うと、泉谷はその日は特に何も用事なかったようで、ふたつ返事で一緒にライブに行くことを承諾してくれた。
泉谷とは心斎橋の駅前で待ち合わせをして合流した。
泉谷は池田がスーツ姿なのを見ると、
「なんでスーツなん?」
と、少し可笑しそうに笑って訊いてきた。
「いや、今日さっきまで仕事しとってん」
と、池田が笑って弁解すると、泉谷は、
「大変そうやな」
と、笑って同情するように言った。
中島が言っていたライブハウスは駅から少し離れた地下にあった。
受付でチケットを買い、ライブハウスに入る。
ライブハウスは百人入るのがやっというくらいの小さな会場だった。薄暗いライブハウスでは演奏前らしい数人のバンドマンたちがそれぞれの楽器のチューニングをしている。池田はそんな彼等の姿を見つめながら微笑ましい気持ちになった。自分も何年か前ではこんな小さな会場で演奏をしていたことがあったな、と、懐かしくなった。
チケットにはソフトドリンクの券がついているので、池田が係りの女の子にチケットを渡して、紙コップにコーラを注いでもらっていると、
「池田さん」
と、背後から声をかけられた。
池田がふと後ろを振り返ってみると、そこには中島が笑顔で立っていた。
「ほんとに来てくれたんですね」
と、中島は嬉しそうな笑みを浮かべて言った。
「うん。中島さんの彼氏がどんな演奏するのか見てみたかったしな」
と、池田は曖昧に微笑んで答えた。
それから、池田は自分のとなりでどこか居心地悪そうな笑みを浮かべている友人のことを、中島に紹介してやった。すると、中島は、
「中島です。会社ではいつも池田さんにお世話になってます」
と、丁寧に頭を下げた。
「こんなやつにそんな頭さげでもいいで」
と、池田が笑って言うと、
「こんなやつってなんやねん」
と、池田のとなりで泉谷は笑って言った。それから、泉谷は中島に改めて視線を向けると、
「どうも泉谷です。よろしく」
と、少し恥ずかしそうに笑って言った。
「中島さんの彼氏は楽器はなにやってんの?」
と、池田はさっきいれてもらったばかりのコーラを口元に運びながら、ふと気になって尋ねてみた。すると、中島はちらりとステージの方に視線を向けて、それからまた池田の顔に視線を戻しながら、
「一応ギターボーカルです。あの背の高いひとがそうなんですけど」
と、心持ち照れ臭そうな口調で説明した。
池田は中島の説明を受けて、ステージでギターの調弦をしている、すらりと背の高くて、髪の長い男に目を向けた。目つきが少し鋭が、でも、整った顔立ちをしている。中島はこんなひとを好きになるんだ、と、池田は何故か意味もなく嫉妬の混じった喪失感を抱いた。
「だけど、池田さんたちが間に合って良かったです」
と、中島は微笑んで言った。
「わたしが池田さん誘ったときって、彼氏のバンドが何番目にやるかとまだ決まってなかったから、池田さんたちが間に合うかどうかちょっと心配だったんですよね」
池田のときもそうだったが、大抵のアマチュアバンドのライブは、何組かのバンドが集まってそれぞれ順番に演奏する。その方がスタジオ代などが安くなるし、アマチュアバンド一組では集客力に欠けるからだ。
と、そのとき、奥の方から「まゆー!」と、彼女の名前を呼ぶ声が聞こえた。見てみると、ステージの前の方に中島と同年齢くらいの女の子たちが何人か集まっている。中島は中島で友達と一緒に来ているのだろう。
「あ、すみません」
と、中島は微笑して言うと、池田たちに軽く会釈をして、名前を読んでいる友達のもとへと歩いていった。
そして中島が友達のもとへ歩いていくのとほぼ同時に、スタジオの照明の照明が落ちて、演奏がはじまった。
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中島の彼氏たちのバンドの演奏は、池田が想像していたよりもずっとレベルが高かった。普通にプロとして通用しそうな気さえする。少なくも日本のヒットチャートを賑わせている一部の即席のミュージシャンよりはずっとレベルが高いように池田には思えた。どうして彼らが未だにこんな小さな会場で演奏しているのか池田には不思議だった。
ライブが終わると、池田と泉谷は駅近くにある居酒屋に入った。夕食がてらに飲んでいこうという話になったのだ。
池田と泉谷はとりあえずという感じでビールを注文した。それと一緒につまみをいくつか適当に注文する。
「でも、なかなか良かったよな」
と、池田は注文したビールが運ばれてくると、さっき見てきたばかりのライブの感想を述べた。
「そうやな」
と、泉谷は池田の感想に微笑して同意した。
「池ちゃんからアマチャアって聞いとったからや、あんま期待してへんかったんやけど、普通に良かったな。あれやったらCDで売っててもおかしくないって」
泉谷は口元に浮かべた微笑をそのままに続けると、テーブルのうえのビールを手に取って少し飲んだ。
「ほんまやな」
と、池田は頷きながら、泉谷に続いてビールを飲んだ。
「なんであれだけレベルが高い曲が作れてんのに、未だにデビューできないんやろうな」
と、池田は手にしていたビールを机の上に戻しながら思ったことを口に出した。
池田はさっき聞いたばかりの曲を思い出した。中島の彼氏のバンドが演奏した曲は、静と動が入り混じったような雰囲気の曲だった。激しいのに静かで、怒りに満ちているようで、優しいようでもある。
「でも、まあ、仕方なんいちゃう?」
と、泉谷は池田の言葉に軽く笑って答えた。
「必ずしもいいものが売れるわけじゃないからな」
「まあ、そうなんやけどな」
と、池田は弱く頷いた。それから、二口目のビールを口元に運ぶ。
確かに泉谷の言うとおりだった。いま自分が思っているようことを感じているひとは世の中にはきっとたくさんいるのだろう。結局、仕方のないことなのだ。誰にもどうすることもできない。でも、そうとわかっていても、池田はどこか納得できなかった。
「結局、全ては運なんよな」
と、池田が小さな声で嘆くように言うと、泉谷は、
「まあ、でも、運も含めて実力やからな」
と、言い含めるように軽く笑って答えた。
「でも、ほんとうにいいものが埋もれていってしまうのってもたいなくない?」
と、池田は食い下がった。すると、泉谷は、
「そうやな」
と、考え込むように頷いてから、
「でも、ほんとうにいいものやったら、自然と世の中にでていくって」
と、しばらくしてから、なんでもなさそうに笑って言った。
池田は果たしてほんとうにそうだろうかと思ったが、口に出しては何も言わなかった。それから、池田は東京で小説を書いている友達のことを少し、考えた。
「それに、まだ中島さんの彼氏がデビューできないって決まったわけじゃないやん」
と、泉谷は運ばれてきたばかりのつまみを口元に運びながら、池田をなぐさめるでもなく微笑んで言った。
「まあ、そうなんやけどな」
と、池田は口元で弱く笑ってから、泉谷と同じようにつまみを口に運んだ。
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