第五話
確かに、人生はなかなか上手くいかない、池田は会社の窓の外に見える灰色の空を見つめながらため息をつくように思った。
でも、人生とはそんなものなのだろう。仕方のないことだ。それにもし仮に何もかもが思い通りになったとしら、きっと人間は成長しないだろう。これは誰かの受け売りだが、挫折があるからこそ、ひとは学ぶことができるのだ、と、池田は自分に言い聞かせた。
でも、それにしてもな、と、池田は一方で思う。上手く行くことよりも、上手くいかないことの方が、ちょっと多すぎるんじゃないのか、と。池田はいるかどうかもわからない誰かに対して抗議したくなった。もうちょっとなんとかなりませんかね、と。
池田が今の会社に就職したのは二十六歳のときだ。それまではフリーターをしながら公務員を目指していた。でも、なかなか採用試験に受からず、途中で諦めていまの会社に就職した。
そうしたのは、このままいつまでも結果が出せないままに歳を取ってしまうのが怖かったからだ。歳を取れば取るほど就職先を見つけることが難しくなるだろうと思った。手遅れにならないうちにと思った。
そして現在の生活がある・・・だが、正直、それほど心躍る毎日ではない。べつにいまの仕事が嫌いなわけではないが、かといって、この仕事をずっと続けていきたいと思えるほど愛しているわけでもない。何よりもネックなのは拘束時間が異様に長くなったことだ。
入社した当初はそれほどでもなかったのだが、最近は朝の八時に出勤して、夜の九時十時まで残業するのが当たり前になっている。それで残業代はつかない。土日も満足に休みを取ることができない。こんな生活がこれからあと何十年も続くのかと思うと、池田は暗澹した気持ちになった。
いっそ今の会社を辞めようかと思わないでもないのだが、経済的な問題もあるのでなかなかそういうわけにもいかない。転職したとしても、どこの会社も条件は似たようものだという気がする。
なんとかしなきゃな、と、池田は思う。もっとものごとをポジティブに捉えることができるようにならなければ。どらちかだ、と、池田は思う。もっと今の仕事を好きになって仕事に追われる毎日でも楽しいと思えるようになるか、もしくはべつの道を見つけるか。でも、具体的にどうすればいいのだろう?
「おい、池田」
と、池田がそこまで考えたところで、突然、大きな声で名前を呼ばれた。声の聞こえた方向に視線を向けてみると、いつからそこに居たのか、主任の大島が自分のデスクの前に立っている。大島は池田よりもひとつ年下なのだが、池田よりも社歴が長いということもあってか、池田のことを呼び捨てにしていた。
「なにぼおっとしてんだよ」
と、主任は半笑いで言った。主任はもともと大阪出身の人間なのだが、大学で東京に行っていたとかで、何故か標準語でいつも喋った。
「すみません」
と、池田はとりあえず頭をさげた。ぼおっとしていたのは事実なので何も言えない。
「お前さ、今度土曜日どうせ暇だろ?」
と、主任は勝手に決め付けて言った。
いや、その日はちょっと予定があると池田は口を開きかけたのだが、主任はそれを無視して言葉を続けた。
「悪りぃんだけどさ、今度土曜日、俺の変わりにA社のメンテナンス行ってくない?ほんとうは俺の担当なんだけどさ、ちょっと用事ができちゃったんだよ」
池田の勤めている会社は他の会社のネットワークの管理と保全を行っている。
池田はこのところ休日出勤多くて今度の土曜日はゆっくり休みたいと思っていた。そのことを池田が口にしようとすると、それを大島は遮って、
「じゃあ、決まりな。しっかりやってこいよ」
と、主任は池田に手をあげて、もう用は済んだとばかりに池田に背を向けて歩いていった。
池田はその主任の背中に向かって自分の椅子を投げつけたいような衝動に駆られたが、どうにか我慢した。
9
池田の乗ったエレベーターは目的の一階に到着する前に五階で停止した。
旧型のエレベーターのドアがゆっくりと開く。これでばったり主任とかと鉢合わせになったら嫌だなと池田が思っていると、開いたエレベーターのドアの前に立っていたのは中島だった。中島はエレベーターに乗っている池田の姿を認めると、少し嬉しそうな笑顔をみせた。
中島は小走りでエレベーターのなかに乗り込んでくると、
「これから外回りですか?」
と、明るい声で尋ねてきた。
池田は中島の問いに頷いた。これからルート営業にいかなくてはならない。
「大変ですね」
と、中島は小さく笑って言った。
池田がこうして中島とふたりきりで口をきくのは、先週カフェで中島の話を聞いていらいだった。
「中島さんは何階?」
池田は再びエレベーターのドアがゆっくりと閉まると、中島の目的の階数を確認した。
すると、中島はエレベーターのパネルに表示された階数に目を向けて、
「あ、わたしも同じです」
と、微笑して答えた。
「お昼取るの遅くなっちゃったんで、これからコンビに行くところなんです」
と、中島は口元に浮かべた微笑をそのままにいいわけするように続けた。
少しの沈黙があって、降下をはじめたエレベーターの微かな稼動音がその沈黙を満たした。
「わたし」
と、短い沈黙のあと、中島はやや躊躇ってから口を開いた。池田が中島の顔に視線を向けると、
「わたし、やっぱり会社辞めることにしました」
と、中島は心持顔を俯けるようにして少し早口に告げた。
「やっぱやめるんや」
予期していたことではあったが、池田は彼女がいなくなってしまうのだと思うと、残念だった。
「あれから色々考えたんですけどね・・・でも、やっぱりなと思って」
と、中島はどこか申し訳なさそうに小さな声で言った。
「まあ、働く場所はべつにここしかないわけじゃないしな」
と、池田はできるだけ優しい声で言った。
「そうですね」
と、中島は池田のかけた言葉に少し寂しそうな声で頷いた。そして何秒間の沈黙のあと、
「池田さんって、今度の土曜日とかって暇ですか?」
と、中島は唐突に尋ねてきた。
土曜日はさっき主任に突然おしつけられた仕事がひとつ入っていたが、夕方からなら時間はあるはずだった。そのことを池田が告げると、中島は微笑んで、
「あの、もし良かったらライブ来てくれませんか?」
と、提案してきた。
「ライブ?」
と、池田が少し怪訝に思って尋ねみると、中島は恥ずかしそうに小さく笑って、
「ライブっていってもべつにわたしがライブするわけじゃなくて、わたしの彼氏がバンドやってて、それでライブやるみたいなんですけど、もし良かったらどうかなって思って」
と、中島は遠慮がちな声で誘った。
池田は中島が友達料金にしてくれるというので、そのライブに行くことを承諾した。
そのうちにふたりの乗ったエレベーターは一階に到着した。
エレベーターのドアが開くと、中島は、
「じゃあ詳しいことはまたあとでメールしますね」
と、微笑んで言った。そして中島は池田に向かって軽く頭を下げると、さきに歩いていった。
池田はエレベーターから降りると、さっき中島から手渡されたチケットに視線をぼんやりと落とした。