第四話
6
池田は部屋に居ると、どうしても優貴からのメールが気になってしまうので、もう夜の八時を過ぎていたが、気分転換に車で出かけることにした。
愛車のラブフォーの乗り込み、夜になって落ち着きつつある土曜日の街を走る。
この車は大学生のときに無理をしてローンで買った。中古で買ったのでたまに調子が悪いときもあるが、でも、まだ十分に走る。そういえば、この車で優貴とはずいぶん色んなところに出かけたな、と、池田はつい感傷的な気分になった。
他人から見たらたぶんこんな感情は滑稽で、自分に酔っているようにしか映らないのだろうが、しかし、そうとわかっていても、池田は下降線を描いていく自分の気持ちを抑えることができなかった。
思いつくままに車を走らせてやがて池田が辿り着いたのは港だった。池田は車を止めると、車の窓から見える港の明かりをぼんやりと眺めた。
フェリーだろうか、大きな船が止まり、その周囲の、淡いオレンジ色がかったネオンの光がきれいだった。そんな淡い色合いの温かみのある光は、池田の心を慰めるでもなく、池田の心に静かに体積していった。
池田は長いあいだそうして港の明かりを眺めていてから、また車を運転して自分の町まで戻った。車を運転したことで、さっきまでふさぎ込んでいた気分も、少しはマシになった気がした。
池田は車で自分のアパートまで戻る途中で、ふと思いついてレンタルビデオ店に寄ることにした。家に帰っても退屈なので、なにか時間を潰すためにDVDでも借りようと思ったのだ。
池田が立ち寄ったレンタルビデオ店は本屋も一緒に入っていている。池田はせっかく機会なのでDVDを借りたついでに何か面白そうな本でもないかと見て回ることにした。
本屋の目立つ場所には、今売れている小説が平積みされていた。池田は試しにその本を手に取ると、パラパラとページを繰ってみた。なんでもこの小説は、人気のある芸能人がはじめて書いた小説らしい。
池田ははじめて小説を書いた人間が最初からこんな商品になるような小説を書くことができるなんてすごいなと感心する一方で、東京の友人のことが少し不憫にもなった。
池田の大学時代の友達にはひとり、東京に出て、アルバイトをしながら小説を書いている人間がいる。その友達とはたまにメールでやりとりをしているのだが、彼の話では、今のところ彼が小説家としてデビューできる見込みはなさそうだという話だった。結局全てのことはめぐり合わせだし、誰が悪いわけでもないのだが、池田は友人のことを考えると、少しやりきれない気持ちにもなった。
池田がそうやって本を手にとったままぼんやりと考えごとをしていると、
「なにしてん?」
と、急に背後から声をかけられた。
池田が驚いて後ろを振り返ってみると、そこには泉谷太陽が笑顔で立っていた。泉谷太陽は、池田の高校のときからの友人だ。今でも定期的に飲みにいったりしている。
「びっくりしたわ」
と、池田が呟くように言うと、
「びっくりしたじゃあらへんがな」
と、泉谷は笑って言った。家が近所なので、泉谷にとはこうしてたまにばったり遭遇することがある。
「何か買うん?」
という泉谷の問いに、池田は頭を振った。
「いや、もうDVDは借りててな。せっかくやし、どんな本があるんやろって見とっただけやで」
池田はハリウッドのアクション映画を一本借りた。
池田の返事に、太陽は曖昧に相槌を打つと、
「もし暇やったら、これから飯食いにいかへん?」
と、唐突に提案してきた。
「そうやなぁ」
と、池田は頷くと、自分の腹に手をやった。考えてみると、今日昼にパスタを食べてから何も口にしていなかったことに、池田は今更のように気がついた。
「じゃあ、すぐそこのファミレスに行こうや」
と、泉谷は池田の返事を待たずに勝手に決めて言った。
7
泉谷はレンタルビデオ店まで自転車で来ていたので、帰りに自転車はまた取りに戻ることにして、池田の車で一緒に車でファミリーレストランまで向かうことになった。
ファミリーリストランはレンタルビデオ店から車で十五分程走ったところにある。
駐車場に車を止めると、ふたりは店に入った。
店内に入ると、大学生くらいの髪の毛を明るい茶色に染めた女の子が、いくらか面倒くさそうにふたりを奥の窓際の席に通してくれた。
ファミリーレストランはさすがに休日の夜ということもあって混雑していた。学生風の男女の入り混じった集団や、五十歳代くらいの男性の集団など様々なひとたちがいて、それらのひとたちがあげる喋り声や、笑い声で、店内は少し騒がしいくらいだった。みんな楽しそうで、悩み事なんてなにもないように見える。
池田は席につくと、何を食べようかと早速メニューを手に取った。そしてそのときに、ふと窓ガラスに映った自分の顔を見て、池田は違和感を覚えた。
そこに映っている自分の顔が、まるで他人の顔みたいに見えるのだ。今日はもともと出かける予定ではなかったので髭は剃っていなかったし、おまけにメガネを(普段はコンタンクトをしている)かけているせいで、五つくらいはふけて見えるような気がした。そしてただ単にふけて見えるというだけじゃなくて、自分の顔は何かにぐったりとつかれきっているように見えた。
席に取りけられている呼び出しボタンを押してウェイトレスを呼び、池田はハンバーグ海老フライのセットを注文し、泉谷はカツカレーを注文した。
注文した料理はすぐに運ばれてきて、その料理を食べながら、池田と泉谷は思いつくままに話をした。お互いの仕事の話(泉谷は建築事務所に勤めている)や、最近観た映画の感想。共通の知人に関する話題。天気の話。
泉谷が最近同棲している彼女と大喧嘩をしてしまったという話をはじめたのは、お互いに料理を食べ終わったあとだった。
「いや、実はな、この前、彼女と大喧嘩してん」
と、泉谷はお冷の入ったグラスを口元に運びながら何故か楽しそうな口調で語った。
「そうなんや」
と、池田は答えようがなかったので、とりあえずという感じで相槌を打った。
「何が原因で喧嘩になったん?」
と、池田がふと気になって尋ねてみると、泉谷は、
「いや、俺が彼女の誕生日を忘れとってな」
と、苦笑して答えた。
「それはいずちゃんが悪いよな」
と、池田は半ば呆れてコメントした。
「でも、しゃあないんやって」
と、泉谷は池田の科白に開き直って答えた。
「その前の日とかや、仕事でずっと徹夜が続いとって、ほんとに死にそうやってんから」
「でも、それはいいわけにならへんで」
と、池田は軽く笑って意見を述べた。
「忙しくなるのわかってねんから、あらかじめべつの日に誕生日プレゼント渡すとかしといたらよかったやん」
「まあ、そうなんやけどな」
と、泉谷は認めた。
「でも、仲直りはできたんやろ?」
と、池田が確認を取ってみると、
「一応な」
と、泉谷は短く頷いた。
「でも、その変わり、めっちゃ高い鞄買わされたけどな」
と、泉谷は苦笑して続けた。
「まあ、それくらいはしゃあないやろ」
と、池田は泉谷の不満そうな表情が面白くて少し笑った。
「池ちゃんは最近どうなん?彼女とは上手くいってんの?」
と、泉谷は再びテーブルの上のお冷を手に取ると、改まった口調で尋ねてきた。
池田は泉谷の問いにどう答えるか、少し迷った。というのも、いま彼女に振られかけているということを告げるのが、なんだか格好悪い気がしたからだ。でも、軽く躊躇ったあと、正直に告げることにした。というより、池田は誰でもいいから相談したくなったのだ。優貴のことについて。どうしたらいいのか。
池田は軽く言い澱んでから、この前の優貴とのいきさつを太陽に話して聞かせた。デートの帰りに突然別れたいと告げられたこと。でも、池田はまだ別れたくないと思っていること。今日久しぶりにメールを送ってみたのだが、未だに返事がもらえずにいること。
泉谷は池田の話を聞き終えると、
「それはヤバイな」
と、微笑して答えた。
「池ちゃん、何かしたんちゃう?」
「いや、べつになんも心当たりはないねんけどな」
と、池田は泉谷の言葉に力なく笑って答えた。
「強いていえば、ここんとこずっと仕事が忙しくて会えへん日が続いてたっていうのはあるかもわからんけど」
「たぶん、原因はそれやで」
と、泉谷は池田の科白に笑って言った。
「池ちゃんがなかなか会ってくれへんから、すねてるんやって。きっと」
「そうなんかなぁ」
と、池田は言ってから、軽く首を傾げた。それから、テーブルの上のお冷を手に取って口に含む。
もし、泉谷の言っている通りだとしたら、まだ救いはあるような気がした。しばらくすれば優貴の機嫌も直るだろうし、なんとかなるかもしれないと池田は希望を感じた。しかし、その一方で、優貴が自分と別れたいと口にしたのは、太陽が述べたような理由ではないことが、池田にはなんとなくわかっていた。
たぶん、何か他に理由があるのだ。それも、救いようない理由が。でも、そのことを口に出して言ってしまうと、それが現実のことになってしまいそうで怖かったので、池田は敢えて自分の考えは口にしなかった。
「池ちゃんって、今の彼女と付き合ってから何年やったけ?」
池田が黙って自分の思考のなかに沈み込んでいると、ふと思いついたように泉谷が口を開いて言った。
「今年でもう三年目やな」
と、池田は少し考えてから答えた。
「そうなんや」
と、泉谷は池田の返事に頷くと、
「もしかして今の彼女が今までのなかで一番長く続いてるんちゃう?」
と、笑顔でからかうように言った。何しろ、高校のときからの付き合いなので、お互いの恋愛事情についてはよく知っている。
「まあ、そうやなぁ」
と、池田は曖昧に微笑んで頷いた。付き合いはじめたときは、まさかこれほど長く続くとは思っていなかった。
「もしかして結婚とかも考えたりしてんの?」
と、泉谷は洋服の胸ポケットからタバコの箱を取り出すと、池田の顔を見て、冷やかすように言った。
「まあな」
と、池田は微笑して頷いた。
「もうちょっと収入が上がって落ち着いたら、結婚してもいいかなって思ってたりはしたけどな。もう俺もいい歳やし」
「確かにな」
と、太陽は池田の発言に軽く笑って同意した。
「俺らのまわりのやつら最近みんな結婚してんもんな」
池田は太陽の科白に曖昧に微笑んで頷くと、
「でも、こんなことになってしまった以上、結婚はなさそうやけどな」
と、池田は付け足して言ってから自嘲気味に口元で弱く笑った。
つられるようにして泉谷も少し口元を綻ばせると、
「でも、まだわからへんて」
と、泉谷は励ますように言った。
「この前、彼女は考えさせて欲しいって言ってたんやろ?もうちょっと待ってみたら?そのうち機嫌もなおるかもしれへんで。ていうか、たぶんすねてるだけやと思うけどな」
泉谷は明るい口調でそう言って、軽く笑った。
「そうやったらいいんやけどな」
と、池田は泉谷に誘われるようにして少し笑った。この前の優貴の表情を思い出すと、とても泉谷の言っている通りだとは思えなかったが、しかし、その一方で、泉谷の言っていることを信じたいと思う気持ちは強かった。
「だけど、俺たちもう二十八なんよな」
と、池田が黙っていると、泉谷が嘆くように言った。
「どうしたん?急に?」
と、池田が可笑しくなって尋ねてみると、
「いや、なんか信じられへんなと思って。自分が二十八歳なんて」
と、泉谷は持っていたタバコにライターで火をつけて、苦笑するように口元を歪めて言った。
「そうやな」
と、池田は泉谷の科白に口元で弱く微笑んで頷いた。実際のところ、内面的な部分は二十歳の頃とそれほど変わっていないような気がした。年齢だけが前へ前へと一人歩きをしていっているような感覚がある。
「もう完全におっさんやな」
と、泉谷は軽く笑って言うと、タバコを一口吸った。
池田も泉谷に誘われるようにして笑いながら、
「いずちゃんは高校のときとか、二十八歳の自分ってどうなってると思ってた?」
と、ふと思いついて尋ねてみた。
すると、泉谷はタバコの煙を口から吐き出すと、思案するように視線を斜めうえにあげた。そして、それからしばらくしてから、
「よくわからへんけど、とにかくすごくなってると思ってたな」
と、泉谷は首を傾げて笑って答えた。
「俺は高校んときは建築家になるのが夢やったし、だから、二十八歳の自分は世界的な建築家になれてると思ってたな」
と、泉谷は微笑しながら過去の自分の無邪気な妄想を告白した。
「俺も似たようなこと思ってたな」
と、池田は泉谷に科白に共感して少し笑った。
「池ちゃんは高校のとき、何になりたかったん?」
「俺はプロのギターリストやな」
池田は泉谷の問いに答えながら、恥ずかしくなった。池田は高校生くらいのときまでは本気でプロのギターリストになれると信じていた。というより、あの頃は何にだってなれる気がしていた。特に根拠もなく、過剰なほどの自信があった。
「でも、最近は触ってもいいひんけどな」
と、池田は笑って続けた。池田がギターを辞めたのは大学三年のときだ。途中で自分の才能の不足に気がついてしまったのだ。最近はギターに触ることすらしてない。ギターは完全に今では部屋のインテリアと化していた。
「でも、みんなそんなもんやよな」
泉谷は池田の言葉に、どこか諦めたにも似た微笑みを口元に張り付かせて少し小さな声で言った。
「みんなどこかでこんなものかって諦めたり、妥協したりしてるんよな」
「確かにな」
と、池田は小さく笑って頷いた。
それから、池田はふと窓ガラスの向こうに見える外の景色に視線を向けてみた。外の世界は夜の暗闇に黒く塗りつぶされていて、その黒い世界に横断歩道の赤い光がぼんやりと浮かびあがっているのが見えた。
「人生ってなかなか上手くいかへんもんやよな」
そう言って、太陽が静かに笑う声がどこか遠くに聞こえた。
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