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第十五話

           29

 



 少し歩き疲れたので、池田は駅前のベンチで休憩することにした。まだ面接までは十分に時間がある。


 池田の目の前をたくさんのひとたちが忙しそうに足早に通り過ぎていく。


 ふと空を見上げると、そこには冬特有のどんよりとした冷たい灰色の空が見えた。


 もう、中島たちが東京に行ってから約二ヶ月が経過した。


 この前池田は久しぶりに中島にメールを送ってみたのだが、中島は東京で元気にやっているらしかった。なんでも今は雑貨屋さんでアルバイトをしているらしい。まだ標準語に馴染めなくてときどき大阪がすごく恋しくなると彼女はメールで書いていたが、彼女は東京での新しい生活をそれなりに楽しんでいるようだった。中島の彼氏も東京で順調に音楽活動をはじめていているようで、この前いつくのかレコード会社にデモテープを送ったところらしい。



 池田は会社を辞めてから結構たくさんの数の会社の採用試験を受けた。そのうちのいくつからの会社からは比較的良い返事がもらえていて、今日これから面接に行く会社は、一応社長との最終面接ということになっている。無事内定をもらうことができるかどうか池田はいまひとつ自信がなかったが、とりあえず今は自分なりにベストを尽くそうと思っていた。駄目だったら、またそのとき考えればいい。



 池田は空をゆっくりと流れていく冷たい灰色の雲を見つめながら、ここ半年ばかりの歳月を振り返ってみた。考えみると、この短い期間のあいだにずいぶん色んなことがあったような気がした。恋人を失い、会社を辞めた。どちらも全然大したことではないかもしれないが、しかし、そのことを思い出すと、池田はふと哀しいような気持ちにもなった。自分がこれまで信じてきたことは全て無駄だったのかな、と、池田は心から何かが失われていくように感じた。



 空に向けていた視線を足元に落とすと、そこには名前の知らない小さな草の花が咲いていた。歩道の敷石の隙間から雑草が生えていて、その雑草が小さな花を咲かせているのだ。淡い青色の小さな花だった。こんな寒い季節に花を咲かせる草があるんだな、と、池田は思った。それから、池田はふとこの前友人が自分に送ってくれた小説のことを思い出した。



 武田洋介から年賀状代わりの手紙が届いたのは、一月のはじめのことだった。その手紙のなかで武田は自分の近況を伝えてきていた。今自分は実家に戻って家業を手伝っていること。慣れないことが多くて大変だが、でも、それなりに充実した毎日を送っていること。


 そして、武田は手紙の最後にこう記していた。実は自分は実家に戻ってから再び小説を書くようになったのだ、と。最後に大阪で池田に会ったあの日、自分はもう小説は書かないと宣言したものの、やはりどうしても小説に対する未練の気持ちが捨てきれなくて、性懲りもなくまた書き始めてしまったのだ、と、武田は手紙のなかで弁解していた。




 その手紙には最近彼が書いたという短い小説も同封されていた。池田は早速その同封されていた小説を読んでみたのだが、その『冬の花』というタイトルの小説は、小説として優れているかどうかはわからないものの、池田の好きなタイプの小説だった。読み終わったあと、静かで、優しい気持ちになることができる。



 物語の主人公は三十代前半の女の人で、彼女は離婚していて、ひとりの幼い娘がいる。東京に住んでいる彼女は過去の色んなことを忘れたくて、地方の海辺の小さな町に引越すことにする。その小さな町には大学時代の古い友達が住んでいて、その友達がこっちに来ないかと彼女のことを誘ってくれたのだ。


 やがて海辺の町に引越した彼女は、娘を通して、その土地で様々なひとたちと出会い、成長していく。そして過去を乗り越えて、前向きに生きようという気持ちに少しずつなっていく。


 物語の最後で、冬にしか咲かない花の種を娘と一緒に植える場面があるのだが、池田は足元に咲いている名前の知らない花を見つめているうちに、武田の書いたその小説のことをふと思い出した。



 池田は俯けていた顔を上げて、もう一度空を仰いでみた。いま見上げた空には分厚い雲がかかっているが、でも、この雲を抜けた向こう側にはきれいな青空が広がっているはずだ、と池田は思った。そう。雲のない、明るい世界がそこには広がっているはずなんだ、と、池田は思った。



 今日はこのあと久しぶりに泉谷と会う予定になっている。池田が今日会社の最終面接があると伝えたら、泉谷が内定決定の前祝で急に奢ってやると言い出したのだ。今日は奢ってやると言ったことを後悔させてやるくらい、たくさん飲み食いしてやろうと池田は思った。池田があまりにもたくさん飲み食いするので、慌てる泉谷の顔が今から目に浮かぶようで池田は可笑しかった。



 腕時計で時刻を確かめると、もうそろそろ面接の時間だった。池田はそれまで座っていたベンチから立ち上がると、ゆっくりと歩き出した。前に向かって。


 

 吹きつけてくる風は冷たかったが、不思議とそれはむしろ心地よく感じられた。


 

 


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