第十四話
28
中島とその彼氏を見送りに行く日、空は晴れ渡った。
空にはまるで冬の冷たさを取り込んだような透き通ったきれいな青空が見えた。空には小さな雲がぽつんぽつんとどこかのんびりとした表情で浮かんでいる。
池田は約束通り中島たちふたりの見送りに行くことした。見送りには泉谷も一緒についてきた。
駅に見送りにきているのは池田たちだけではないようで、中島とその彼氏の知り合いらしいひとたちの姿も幾人か見受けられた。
「池田さんたちほんとにきてくれたんですね」
と、中島は池田の顔を見ると、にっこりと微笑んで言った。
「今日はたまたま暇やったしな」
池田は微笑して答えた。池田は中島には会社を辞めたことは伏せておくことにした。もし池田が会社を辞めてしまったことを知ったら、彼女はきっと自分のせいだと責任を感じるだろうと思ったからだ。池田は彼女に余計な心配をかけたくなかった。
あの日、主任を殴った日の翌日、池田は部長に呼び出された。池田はその日会社を辞めるつもりで辞表を持っていっていたのだが、それよりもさきに解雇されることになるのか、と、池田は自嘲気味に思った。でも、まあいいか、と、池田は思い直した。そのぶん手間が省けて良いかもしれない。
池田が部長の部屋のドアを軽くノックすると、ドアの向こう側から返事があって、入室を促された。
部屋に入ると、池田は部長が口を開く前に、黙って、辞表を書いた紙を差し出した。部長はそれを受け取ると、中身を確かめて、それをテーブルの上に戻した。
「きみは会社を辞めるつもりなのか」
と、部長は池田の顔を見ると言った。
池田は、はい、と、頷いた。
「話は聞いているよ」
と、部長はしばらく間をおいてから言った。
「すまみせん」
と、池田は頭を下げた。やはり主任は昨日のことをもう既に話していたのか、と、池田は半ば呆れながら思った。
「あのときは頭に血が上ってしまっていて・・・でも」
部長は片手をあげて池田の言葉を遮った。
「弁解はしてなくてもいいよ。暴力を振るうのは良くないことだが、でも、どうせあいつがきっとまたろくでもないことを口にしたんだろう」
部長はそこで言葉を区切ると、何かを考えるように眼差しをテーブルの上に落とした。
「いや、あいつには俺たちもちょっと困ってるんだよ」
と、しばらくしてから部長は顔をあげると言った。
「あいつは俺たち兄弟のなかでも一番年下だから、どうも甘やかされて育ったところであるみたいでね・・・その、なんというか、すごく子供ぽっいところがあるんだ。気に入らない人間がいるとすぐに辛く当ったりしてね・・・再三注意はしているんだが、なかなか効果がなくてね」
池田は部長の言葉に何と言えばいいのかわからなかったので黙っていた。池田は部長からまさかこんな言葉がでるとは考えてもみなかった。
「どうだろう」
と、部長は池田が黙っていると言葉を続けた。
「会社を辞めるのは考えなおしてもらえないだろうか?きみの仕事ぶりはなかなか熱心なところがあるし、僕としてはできればきみに会社に残ってもらいたいと考えているんだ
・・・もちろん、きみもあいつと一緒じゃ働き辛いだろうから、ちゃんとそれも考えているよ。あいつには来月から九州に行ってもらうつもりだ。今度九州に進出する計画があってね、あいつにはそっちのプロジェクトに入ってもらうつもりだ」
池田は部長の言葉に頭を振った。部長の申し出はありがたがったが、しかし、もう既に池田の決意は固まっていて、今更会社に残るつもりはなかった。新しい場所で最初からやり直してみたいという気持ちの方が強かった。
池田がそのことを部長に伝えると、部長はいくらか残念そうな表情はしたものの、最終的には池田の気持ちを尊重して、会社を辞めることを認めてくれた。
「また機会があったら東京にも遊びにきてくださいよ」
と、中島のとなりに立っている寺岡が微笑んで言った。
池田は寺岡の言葉に曖昧に微笑して頷いた。
「そっちもたまには大阪に遊びにきてや」
と、池田のとなりで泉谷が明るい声で言った。
「ほんまやで」
池田も泉谷の科白に賛同して言った。
「もちろん」
池田と泉谷ふたりの言葉に中島は小さく笑って答えた。
「わたし、大阪のこと愛してますから」
そのうちに、中島たちふりたが乗る予定の新幹線がホームに入ってきた。
「じゃあ、東京でも頑張ってな」
と、池田はふたりが乗降口から新幹線に乗り込むと、そう声をかけた。
「何か色々ありがとうございました」
と、中島は乗降口に立ったまま、今にも泣き出しそうな表情で言った。
「池田さんたちに出会えて色々楽しかったです」
「俺も、池田さんたちと出会えて良かったです」
中島のとなりで寺岡が笑顔で言った。
「いつになるかわからないけど、絶対結果だすつもりなんで、みといてください」
「楽しみにしてるわ」
と、池田は微笑して言った。
やがて、新幹線の発車するアラームがなって、ドアがゆっくりと閉まった。
中島は乗降口に立ったまま、池田たちふたりに向かって手を振った。池田は軽く手をあけで中島に応えた。
動き出した新幹線はすぐに遠くに見えなくなった。池田はあげていた手をゆっくりともとに戻した。
「行ってしまったな」
と、車両の姿が見えなくなってしまうと、池田のとなりで泉谷が名残惜しそうに言った。
池田は泉谷の言葉に黙って頷いた。
それから、池田は中島たちふたりの姿を辿るように、新幹線が去っていったあたりの空間を黙って見つめた。空から舞い降りてくる微かに黄金色の色素を含んだ暖かな日差しが、その空間を穏やかに輝かせていた。池田はそんな眩しい世界を見つめながら、中島たちの未来を思った。池田は純粋に彼らが東京で成功できるといいなと思った。そして自分も頑張ろうと思った。少しずつでも、前に向かって進んでいけるように。
思い出したように少し冷たい風が吹き抜けいき、それはどうしてか誰かの哀しい歌声のようにも聞こえた。