第十三話
26
十一月の半ばから後半にかけてばたばたと色々なことが起こった。
まず池田は三ヶ月ぶりくらいに優貴と再会した。それから、池田はそれまで勤めていた会社を辞めることにした。
池田が優貴の姿を偶然見かけたのは、外回りの営業を終えて、会社に向かって帰っている途中だった。
会社に向かって歩いていると、池田は反対側の通りに見覚えのある女の顔を見かけた。それは優貴だった。一瞬、見間違いかなもしれないと思ったのだが、しかし、それは間違いなく優貴だった。通りを挟んだ向かい側にはカフェがあって、彼女はいまそのカフェに入ろうとしているところだった。
咄嗟に、池田は「優貴!」と彼女の名前を叫びそうになった。もしかしたらこれまで彼女が連絡をくれなかったのは何らかの事情があったのかもしれない、と、池田は思った。考えてみれば自分ももう長いあいだ彼女に連絡をしていなし、彼女の方でも自分が連絡してきてくれるのを待っていたのかもしれない、と、ふとそんな考えが浮かんだ。
話してみれば、意外と彼女はいまでも自分のことを好きでいてくれるんじゃないか。自分のことを必要としてくれているんじゃないか。池田のなかで突発的に彼女に対する未練の気持ちが強まって、つい池田はそんなふうに自分にとって都合の良いように解釈してしまった。すがるようにそんなことを思ってしまった。
だから、池田は「優貴!」と、彼女の名前を叫びかけた。でも、池田が彼女の名前を呼びかけたまさにその瞬間に、彼女はにっこりと微笑んで、後ろを振り返った。すると、そこには池田の知らない若い男がいた。まるで安っぽいドラマのワンシーンみたいに。ほんとにこんな偶然が起こることがあるんだ、と、池田は唖然とした気持ちになった。
池田は開きかけていた口を閉じ、優貴とその自分の知らない男がカフェに入っていくのを黙って見送った。優貴は全く池田の存在には気がつかなかった様子だった。
やがて、ふたりの姿が完全にカフェのなかに消えてしまうと、池田は再びゆっくりと歩き出した。歩きながら、池田は思った。この前泉谷が話していたことはやっぱりほんとうだったんだな、と。自分は知らないうちに彼女に裏切られていたのだ。
でも、不思議と腹は立たなかった。自分だってもし状況が違えば彼女と同じようなことをしていたのかもしれないと思った。彼女のことを責める気持ちは起きなかった。
ただ、池田は少し悲しいだけだった。誰も自分のことを愛してくれるひとはいないんだな、と、思うと、心から温度が消えていくように孤独な気持ちになった。
吹き付ける風がやけに冷たく感じられた。
27
気がついたときには池田は主任を殴り飛ばしてしまっていた。殴られた就任は派手な音をたてて座っていた椅子ごと後ろに転倒した。
やがて立ち上がった主任は殴られた口元を手でかばいながら池田のことを口汚く罵った。こんなことをしてどうなるかわかっているんだろうな、と、声高に主任は叫んだ。
池田は小さな声でわかっています、と、答えた。もうあんたの顔なんて二度と見たくないんだ、と、池田は言った。
その日、池田と主任はたまたまオフィスにふたりにきりになった。池田が自分の机で残業をしていると、どこかに出かけていたらしい主任が、池田ひとりしかないオフィスに戻ってきたのだ。
早く帰ればいいものを、その日主任はなかなか帰ろうとはしなかった。珍しく残業でもしているのか、自分の机で何か作業をしていた。そして案の定、しばらくすると、主任は池田に声をかけてきた。
またはじまったか、と、池田はうんざりした気持ちで思った。このひとは一日一回は自分に対して何か嫌味を言わなければ気がすまないのだろうか、と、池田は心のなかでため息をついた。
話があるからこっちにこいよ、と、主任は言った。それで池田はそれまで座っていた椅子から立ち上がると、主任のデスクの前まで歩いていった。
池田が歩いていくと、主任は俯けていた顔をあけで池田の顔を見た。そして自分の机の上を指し示して、
「これ、何かわかる?」
と、訊いてきた。
見てみると、主任の机のうえには何かの資料のようなものが置かれている。
「なんですか?」
と、池田が逆に尋ねてみると、主任はどこか池田のことをバカにしたような小さな笑みを浮かべて、
「今年の売り上げを書いた紙だよ」
と、告げた。
池田がどう言ったらいいのかわからずに黙っていると、
「今年は売り上げが下がってんだよ」
と、主任は言葉を続けた。
「さっきも部長に呼ばれてそのことで叱られてたんだよ。一体どうなってるんだってさ」
池田は答えようがなかったので何も言わなかった。
「なんでだと思う?」
と、主任はわずかに間をおいてから尋ねてきた。
「なんで売り上げが下がったと思う?」
池田はわからなかったので、わからない、と、答えた。池田は言われた仕事をこなしているだけなので、経営のことまではわからなかった。
「お前のせいだよ」
と、しばらく間をおいてから主任は言った。
「お前がトロトロ仕事してんのが悪りぃんだよ」
と、主任は決めてつけて言った。
「だいたいいつもなんでお前だけこんな遅くまで仕事してんの?他のみんなは帰ってんのにさ」
それはお前が色んな仕事を俺に押し付けてくるせいだろうが、と、池田は憤りを感じたが、しかし、我慢して何も言わなかった。すみません、と、ただ謝った。
「すみませんじゃねぇよ!」
と、主任はいくらか激昂して言った。そして持っていたボールペンを池田の顔に向かって投げつた。
「なんで俺が部長に怒られなきゃいけねぇんだよ」
主任は顔を赤くしてそう怒鳴った。
「だいたいお前の顔を見てると、イライラしてくるんだよ。仕事できねぇし。使えなねぇし。愛想悪いしさ。・・・ほんと、この前、中島さんじゃなくて、お前が辞めりゃあ良かったんだよ」
無茶苦茶な言われようだったが、池田は主任の言っていることにいちいち腹を立ててもしょうがないと思った。好きなように言えばいいと思った。
「お前さ、今度辞表出して、代わりに中島さん連れ戻してきてよ。お前中島さんと仲いいんだろ?」
主任は冗談のつもりなのか口元に笑みを浮かべて言った。
池田はどう言えばいいのかわからなかったので黙っていた。
しばらくの沈黙があった。
「中島さん、今度東京に行くらしいじゃん?」
いくらかの沈黙のあとで、主任はどこからそんな情報仕入れてきたのか口を開くと言った。
池田が否定も肯定もせずにいると、
「なんでも付き合ってる彼氏と一緒にいくらしいじゃん。中島さんの彼氏、バンドやってるんだって?」
と、どこかバカにしたような笑みを浮かべて主任は続けた。
「中島さんはもうちょっと頭のいい子だと思ったんだけどなぁ」
主任は薄ら笑い浮かべて楽しそうな口調で言った。
「なんでそんなヤツと付き合ってんだろ。東京でバンドなんかやったって結果は目に見えてんのに。プロになんてなれるわけねぇじゃん。青春ごっこもいい加減にしろよな。身の程をわきまえろっつうの。何がバンドだよ。バカじゃねぇの」
主任のその科白を聞いた瞬間、池田のなかでそれまで堪えていた何かが弾け飛んだ。池田は許せなかった。友人をバカにされたことが。友人がそれまで目指してきたものを、大切にしてきたものを、頭ごなしに否定されたことが。お前に一体何がわかるというのだと池田は思った。
友人たちだって何も考えていないわけじゃないのだ。なかなか思い通りにいかない現実のなかで彼らなりに必死に前に進もうとしているのだ。していたのだ。お前に何がわかるっていうんだ!
気がついたとき、池田は主任の顔を思いっきり殴り飛ばしていた。殴られた主任は座っていた椅子ごと派手に転んだ。
やがて身体を起こした主任はまさか殴られるとは思っていなかったのか、その顔に一瞬怯えたような表情を浮かべたが、すぐに口汚く池田のことを罵り始めた。俺にこんなことをしてただですむと思ってるのか、と、主任は怒鳴った。社長に頼んで、お前なんか首にしてやるからな、と、主任は脅した。
首か、と、池田は顔を赤くしてわめきたてる主任の顔を見ながら妙に冷静な気持ちで思った。首で結構だと池田は思った。もう、あんたの顔なんて二度とみたくないんだ、と、池田は心のなかで吐き捨てるように思った。
そして、まだ何かを叫び続けている主任に池田は背を向けると、自分の荷物をまとめて、そのままオフィスをあとにした。まだやりかけの仕事が残っていたが、そんなことは知ったことか、と、開き直った。主任が残って続きをやればいいのだ。
オフィスを去ろうとしている池田の背後で、主任はまだ何かを叫び続けていたが、しかし、池田は構わずに歩き続けた。