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第十一話

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 日々は駆け足で過ぎて行き、十月も後半に入ると、秋の記しが色んなところで見られるようになっていった。木々の葉は美しい紅に色づき、通りには金木犀の甘酸っぱいような香りが漂うになった。


 街を照らす日の光はますます透明度を増し、そんな淡い光のなかで、世界は少しずつその色素を失っていくようだった。心なしか、空の色まで、夏の頃に比べると、半透明の淡いブルーに変わった気がした。耳を澄ませば、今どっかりと腰を下ろしている秋の背後に、冬の、微かな足音が聞こえるような気さえした。



 泉谷太陽から電話があったのは、土曜日の夜だった。電話の内容は、ちょっと話したいことがあるので、もし日曜日暇だったら、一緒にご飯でも食べにいかないかというものだった。池田はどうかにか日曜日は時間を作ることができそうだったので、夕方の六時に難波で待ち合わせをしようと言って、電話を切った。そういえば、中島が今度一緒に食事に行きたいと言っていたし、そのことを伝えるのにも機会だと池田は思った。



「池ちゃん、ちょっとやつれたんちゃう?」

 待ち合わせ場所に現れた泉谷は、池田の顔を見ると、軽く笑って指摘した。

「いや、最近ちょっと仕事が忙しくてな、あんま食べてないねん」

 池田は友人の指摘に、口元で少しぎこちなく笑って誤魔化すように答えた。おそらくやつれてしまったのは、ストレスのせいで食欲がこのところなかったせいだろうと池田は思ったが、しかし、そのことは黙っていることにした。ストレスのせいで食欲がなかったなんて格好が悪くて告げる気にならなかった。



 池田が、この前の送別会のときに、中島が一度泉谷も交えて食事に行きたいと言っていたことを伝えると、泉谷は意外な展開に戸惑いながらも、基本的に土日であれば問題ないと中島の誘いを承諾してくれた。



 それから、ふたりは通りをしばらく歩いて、最近できばかりのパブに入った。


 店に入ると、ふたりはどちらもとりあえずという感じでビールを注文した。


 程なくして運ばれてきたビールとつまみを口にしながら、池田と泉谷はなんでもないような世間話をした。泉谷の明るい笑い声を聞いていると、池田はこのところふさぎこんでいた心が、少しだけ解きほぐされていくような気がした。


「でも、なんか今日、池ちゃん、元気ないよな?」

 一通り話題が尽きたところで、泉谷が二杯目のビールを口元に運びながら言った。

「いや、べつにそんなこともないで」

 と、池田は泉谷の言葉に、口元で弱く微笑んで否定した。



「・・・あれから、彼女とは上手くいってんの?」

 池田は泉谷の問いに首を振った。優貴とはもう一ヶ月半近く連絡を取っていなかった。最初の頃は優貴のことを思い出すと、辛い気持ちになることもあったが、最近は仕事が忙しいのと、主任のとのことで、優貴のことを思い出すことは少なくなっていた。


 風呂に入っているときなどにふい思い出して、哀しい気持ちになることがないわけではなかったが、しかし、最近ではすっかり諦めの気持ちに変わっていた。もう、今更彼女の気持ちを繋ぎとめようとか、そういう気力は失われてしまっていた。


「実はあれから全然連絡とってないねん」

 と、池田は苦笑するように笑って少し弱い声で答えた。

「そうなんや」

 と、泉谷は池田の顔をどこか気遣わしげな表情で見ると、どんな表情を浮かべたらいいのかわからないといったように、曖昧な笑みを浮かべた。


「もう諦めたんや?」

「まあな」

 と、池田は眼差しを伏せて口元で少し笑った。

「いつまでも待っててもしゃあないしな」


「・・・そっか。それやったらいいんやけど」

 泉谷は池田の科白に言い淀むようにそこで一旦言葉を区切ると、少し躊躇ってから、

「いや、実はな」

 と、泉谷は言った。

「この前の土曜日、俺、池ちゃんの彼女、見かけてん」


 池田は、泉谷の言葉に、それまで俯けていた顔をあげて、泉谷の顔を見つめた。泉谷は何度か池田も交えて優貴と出かけたことがあるので優貴の顔は知っている。


 池田が黙っていると、泉谷は言葉を続けて言った。

「この前な、彼女と一緒に買い物にいってんけどな、そのときに、見かけてん。池ちゃんの彼女。遠くから見かけただけやから、もしかしたら見間違いかもしれへんけど、でも、たぶんあれは池ちゃんの彼女やったと思うで。誰か知らん男のひとと一緒に歩いとった」



「そうなんや」

 と、池田は相槌を打った。何をどう言ったらいいのかわからなかった。そんなことじゃないだろうかと覚悟はしていたつもりだったが、泉谷の口から改めてそう聞かされると、池田はやはりショックが大きかった。


「このことを言おうかどうか迷ってんけどな」

 と、池田が言葉を見つけられずにいると、泉谷はいいわけするように付け足して言った。

「でも、一応言っておいたほうがいいと思ってな」


 池田は泉谷の科白に黙って頷いた。


「まあ、もしかしたら、俺の見間違いかもしれへんけどな」

 と、泉谷は励ますように微笑して言った。


「いや、でも、たぶん、見間違いじゃないと思うで」

 と、池田は少し間をあけてから、なんでもないふうを装って言った。池田としては友人に心配されたくなかった。

「これで色んなことがはっきりするもんな。突然彼女が別れたいって言い出したのも、連絡がつかへんかったのも」


 池田は一旦そこで言葉を区切ると、泉谷の顔を見て、

「でもまあ、これで良かったんかもな、色々はっきりしたし」

 池田は力なく笑って言った。泉谷は池田に誘われるようにして口元を曖昧に笑みの形に変えると、少し間をあけてから、

「でもまたそのうちいいことであるで」

 と、慰めてくれた。


「そうやな」

 と、池田は頷いて軽く笑った。それから、池田は心のなからせり上がってくる感情を無理に押さえ込むように、グラスに残っていたビールを一息に飲み干した。

          


    21



 それでも明日はやってくる。たとえどんなに明日という日がやってくることを望んでいなくても。


 仕事を終えアパートに帰宅し、風呂に入り、ぐったりと疲れきった状態でベッドに入る。ベッドに入って瞼を閉じるときに、池田はふと暗い気持ちになる。もう明日という日なんてやってこなくてもいいかなと。ただこのままずっと静かに眠っていたいと。それでも、当たり前のことではあるが、そんな池田の意志とは無関係に、夜が明ければ、また新しい一日がはじまる。


 ちょっと大袈裟かもしれないが、自分にとって会社での時間は、水中のなかでずっと息を止めているみたいだ、と、池田は最近感じることがあった。


 中島の送別会からもう二週間以上が経過したが、一向に主任の池田に対する態度は変わらなかった。面倒な仕事は押しつけられるし、何かミスをすれば、必要以上に嫌味を言われた。池田は一体自分は何のためにこんな毎日を我慢しているのだろうとしばしば思うようになった。


 決して今の仕事が嫌いなわけではないが、かといって、どうしてもこの仕事を続けてきたいと思っているわけではない。会社のなかに特別親しい人間がいるわけでもない。いっそ今の会社を辞めてしまおうか。池田は何度となくそんな思いに駆られる。


 でも、と、池田は一方で思う。もし、ここで自分が会社を辞めたりしたら、それこそ主任とって都合の良い結果になるだけなんじゃないのか。池田はたとえどんなことがあっても、主任を喜ばせてやるようなことはしたくなかった。


 でも、じゃあどうすればいいのだろう。このままずっと主任の嫌がらせを耐え忍んでいくしかないのだろうか。


 池田は確かな答えを見つけられなかった。見つけられないままに、必要以上に心は落ち込んでいった。


 そんなふうに気持ちが沈んでしまうのは、この前泉谷から話を聞いたせいもあるのかもしれなかった。街で優貴を見かけたという話。


 あれから池田は泉谷と別れて自分のアパートに戻ったあと、ケータイのアドレスから優貴の連絡先を削除した。そうすることで、未練の気持ちを断ち切ろうとしたのだが、結果はかえって、惨めな喪失感が深まっただけだった。


 まだ根っこの部分には優貴に対する想いがどうしようもなく残っていたし、それは池田の心に眠っている様々な暗い思いを呼び寄せて、たださえ疲労している池田の心を余計に暗い場所へと追い詰めていった。



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 その日、アパートに帰り着いたのは、夜の十一時を過ぎていた。仕事がなかなか片付かなくて帰るのがいつもよりも遅くなってしまったのだ。


 明日は明日でまた仕事がある。八時には会社に着いていなければならないので、遅くとも朝の六時半には起きなければならない。


 これから風呂に入って、ご飯を食べて、テレビを見たりしていたら、もうすぐに一時過ぎだ。何も自分のやりたいことをやる時間がない・・・そして、また明日、あの主任の顔を見なければならないのか。


 そのとき、ふいに、池田の心の中に、自分でも上手く説明のつかない、色んな感情がごちゃまぜになった、激しい苛立ちのようなものがこみ上げてきた。一瞬、色んなことが忌々しくなった。仕事のことも、優貴のことも、将来のことも、生活のことも、なにもかも。


 もう何もかもが嫌だと、池田は思った。全て投げ出してしまいたい、と、自棄になった。それが大袈裟な感情であることはわかっていたが、しかし、池田はそんな発作にも似た感情をどうすることもできなかった。


 ソファーに座ってしばらく時間をおくことで、さっきまでの突発的な感情の高まりはいくから収まったものの、池田は何もする気になれなかった。風呂に入るのも、これから食事をするのも、眠るのも、全て億劫に感じた。ただ何もかもが面倒だった。面倒というよりは哀しいのかもしれなかった。自分という存在を消し去ってしまいたいと思った。



 十五分か、二十分、そうしてソファーでぼんやりと自分の感情の流れに身を任せていたあとで、池田はふと久しぶりにあそこへと行ってみようと思い立った。池田はその場所のことが無性に懐かしくなった。


 その場所のことを、池田たちは昔から「星見」と呼んで親しんでいた。「星見」というのは、べつに星が綺麗に見える場所のことではない。大阪郊外にある、夜景が見える場所のことだ。


 その場所は、池田が昔通っていた大学の近くにあって、あまりひとに知られていない。池田が大学のあたりを車で走っているときに偶然見つけて、いつしか池田の友達みんなでときどき通うようになったのだ。


 何故その場所のことを「星見」と呼ぶようになったのかはわからない。徹夜明けの朝にみんなで車でその場所に出かけて、そこから見える星空が綺麗だったことから、太陽がそう呼んで、いつの間にかそれがみんなに浸透したような気がするが、でも、そんな気がするだけで、実際はそうではないのかもしれない。池田の記憶は曖昧だった。



 ただ池田のなかでその場所は特別な場所だった。大学生のときも、何か上手くいかないことがあって落ち込んだりすることがあると、池田はひとりでよくその場所に通ったものだった。


 池田はアパートから外に出ると、駐車場まで歩き、自分の車に乗った。そして池田の今住んでいる場所から片道一時間程かかる「星見」を目指した。「星見」に行って帰ってくると、眠るのは深夜の二時を過ぎてしまうことになるが、そのとき池田はもうどうでもいいような投げやりな気持ちになっていた。


          23


 もう夜の十二時を過ぎているということもあって、車道に車の数は少なく、予想していたよりもずっと短い時間で目的の場所に辿り着くことができた。


 池田は道端の隅に寄せて車を駐車すると、車を降りた。


「星見」はちょっとした山のうえにあるので、空気はひんやりとして肌寒い。まるでその場所だけ、一ヶ月ほど早く季節が進んでいるかのようだ。もう少し厚着をしてくればよかったな、と、池田は軽く後悔した。


 少し歩いて、展望台のうえに上がる。展望台といっても、観光地にあるような立派なものがあるわけではなく、木材で間に合わせで作った、ちょっと大きめのベランダのようなものが備えつけてあるだけだ。


 池田は展望台に上がると、歩いていって、手すりにもたれかかり、そこから見える大阪の街の光をぼんやりと眺めた。


 オレンジ色がかった、淡い光が遠くに見える。瞳のなかから池田の心に沈みこんだいくつもの光の欠片は、池田の心を微かに震わせていった。


 一瞬、池田のなかで何かが大きく膨張して、またもとに戻るような感覚があった。


 最後にこの場所に来たのはいつのことだろうと池田は思い返した。あれはたぶん、大学を卒業してすぐのことだと池田は思い出した。卒業式の何日か後に大学の親しい友達にみんなで集まって飲んで、それでそのあとにみんなでこの場所に来たのだ。確か。


 あの頃から比べて、自分は少しでも成長できたのかな、と、池田はふと思った。少しでも前に進むことができただろうか。


 たぶん、答えはノーだ。あの頃持っていた希望や、可能性を失ってしまったという意味では、むしろ逆に後退してしまったといえるのかもしれない。


 結構自分なりに努力してきたつもりだったんだけどな、と、池田は心のなかで力なく笑った。でも、それはたぶん、ただのつもりだったのだろう。まだまだ努力が足りなかったのだ。時間だけが・・・そう、時間だけが、ただ流れすぎていってしまったんだな、と、池田は心のなかから何かが零れ落ちていくように思った。



 池田は何かを閉じ込めるように強く瞼を閉じた。そうして、しばらくあいだそのままでいてから、閉じていた瞼をゆっくりと開いた。


 それにしても、生きていくということはなんて難しいんだろう、と、池田は今更のように痛感した。自分はべつに有名になりたいわけでも、お金持ちになりたいわけでもない。ただ、ささやかな自分だけの居場所が欲しいだけだ。


 だけど・・。


 いや、でも、そんなふうに今の自分の状況を嘆くのはただの甘えかもしれない。世の中には自分なんかよりももっと過酷な状況に置かれているひとたちだっているのだから。なにをこれくらいのことで自分はくよくよしているのだろう。しっかりしろよ、と、池田は心のなかで自分を叱咤した。でも、そうしても、心に上手く力は入らなかった。心はいつの間にか冷えて硬く強張ってしまっていた。



 池田は改めて遠くに見える街の光を眺めた。じっと見ていると、その美しい光の集まりは懸命に池田に何かを伝えようとしているようにも見えた。でも、池田には光が一体自分に何を語りかけようとしているのか、どれだけ耳を澄ませてみても聞き取ることはできなかった。

 


 ただ聞こえるのは、耳元を吹きすぎていく少し冷たい風の音だけだった。





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