第十話
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それから、主任とは飲み会が終わるまで一言も口を聞かずに終わった。
飲み会が終わると、池田は中島と帰る方向が同じだったので、途中まで一緒に帰ることにした。
他の社員と別れて、少し歩いたところで、
「すみません。わたしのせいであんなことになっちゃって・・・」
と、中島は心持顔を俯けて申し訳なさそうな口調で言った。
「そんな気にせんでもいいで」
と、池田は軽く笑って答えた。
「べつに中島さんが悪いわけやないんやし。だいたいあいつには前々からムカツいとってん」
「でも、あんなこと言っちゃたら、会社で働き辛くなりませんか?」
と、中島は俯けていた顔をあげて池田の顔を見ると、心配そうな声で言った。
「大丈夫やって」
と、池田は微笑して答えた。
「いざとなったら、会社辞めればいいだけの話やし。実際、最近転職しようかなって思っててん」
「・・・そうなんですか?」
中島はどこか気遣わしげな表情で池田の顔を見た。
「それより、中島さんはこのあとどうするか決めてんの?会社辞めてから?」
池田は明るい表情を装って、殊更に話題を変えて言った。
中島はさっきの主任との件について、まだ何か言い足そうな表情を浮かべていたが、もう一度迷うように池田の顔を一瞥してから、
「一応決めてます。東京に行こうかなって」
と、口元で弱く微笑んで答えた。
「東京に行くんや?」
と、池田は少し驚いて言った。
「実は最近、彼氏が東京に行くって言い出してて」
と、中島は池田のリアクションに曖昧に笑っていいわけするように続けた。
「わたしの彼氏、この前も話したと思うけど、もう二十七歳で、だから、もう一度最後に東京で頑張ってみようかなって言い出してて。それでわたしもついていこうかなって」
「そうなんや」
と、池田は頷いた。
「でも、そういうのもいいかもな。大阪よりも東京の方が色々チャンスもありそうやしな」
「でも、わたしも彼氏も東京で具体的にどうするかとかまだ何も決めてないんですけどね」
と、中島は池田の顔を横目で見ると、自嘲気味に付け足して言った。
「結構アバウトやな」
と、池田は中島の笑顔につられるようにして少し笑った。
少し冷たい風が吹いて、近くの街路樹の葉を揺らした。オレンジ色の、温かみのある街灯の光が、ふたりが歩く通りを静かに照らし出している。そんな静かな、淡い光のなかいると、何故か色んなものが色あせて、物悲しく見えた。
「そういえば」
と、しばらくの沈黙のあとで、中島が微かに口元を綻ばせて言った。
池田が中島の顔に注意を戻すと、
「この前、彼氏に池田さんが褒めてった言ったら、彼氏、すごく喜んでましたよ」
と、中島は楽しそうな笑顔で言った。
「一度、池田さんに会ってみたいって言ってました。池田さんも昔音楽やってたことがあるんだって教えたら、話が合いそうって」
「俺の場合はただの趣味やけどな」
と、池田は軽く笑って答えた。
「そうだ、今度みんなで一緒にご飯食べません?」
と、中島は明るい声で勝手に話しを進めて言った。
「ほら、この前一緒にライブに来てた、なんでしたっけ?・・・いず、なんとかさん」
「もしかして泉谷のこと?」
「そうそう、泉谷さん。その泉谷さんとか誘って。わたし、もう会社辞めちゃったし、だから時間なら結構あるし、彼氏もバイトだから、時間合わせられると思うし。それでいつかふたりが都合のいい日にでも」
「べつにいいけどな」
なんだか妙な展開になってきたなと可笑しくなりながら池田は承諾した。
「やった!」
と、中島は嬉しそうにはしゃいだ声を出した。
「わたし、池田さんの友達と一度話してみたかったんですよね。なんか面白そうなひとだったし。あのひと、名前忘れちゃったけど、お笑い芸人の誰かに似てますよね?」
池田がそのお笑い芸人の名前を告げると、中島はそのひとそのひとと言って、可笑しそうに笑った。
「でも、あいつは顔が似てるだけで、あんま面白くないで」
と、池田は中島に一応忠告しておいた。
「今日は月がきれいですね」
と、中島は唐突に歩みを止めると、夜空を見上げて言った。池田が中島につられるようにして夜空を見上げてみると、そこには、月が、冷たく澄んだ光をそっと放っていた。
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予想していたことではあったが、主任の池田に対する風当たりは強くなっていった。以前からそういう傾向はあったのだが、この前の飲み会の席での一件以来、その傾向はますます顕著になっていった。ときには嫌がらせ以外の何物でもないと思えるようなことまでされるようになった。
池田が自分のデスクで仕事をしていると、主任の机の前まで呼び出されて、どうでもいいようなことで大声罵らせた。適正がないからやめろ、と、まで言われた。また面倒な仕事は全部池田に押し付けられたし、何かミスがあると池田のせいにされた。
池田の会社は一応週休二日制になっているのだが、休日は決まって主任に何か仕事を頼まれて休日出勤しなければならなかった。
何人かの同僚は池田に同情してくれたし、慰めの言葉もかけてくれたが、しかし、だからといって、池田の弁護までしてくれるわけではなかった。もし、主任に逆らえば、今度は自分が標的にされることがわかりきっているからだ。
主任のせいで池田はストレスがたまり、ときには気分が悪くなって、胃液を吐くことがあるくらいだったが、しかし、ここで辞表を出したりしたら、それこそ主任の思うツボだと思って、どうにか我慢した。主任の嫌がらせなんかに負けてたまるか、と、池田は意地になっていた。
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