第一話
川島優貴がその言葉を口にしたのは、映画を観終わって、映画館近くにあるレストスランで食事をしているときだった。
「わたしたち別れたほうがいいと思わへん?」
川島優貴は俯き加減に言った。
池田正行は彼女の言葉があまりにも唐突だったので、口に運びかけていたお冷のグラスを思わず取り落としそうになった。
池田正行が咄嗟のことに上手くリアクションできずにいると、
「わたしたち別れたほうがいいと思うねん」
と、優貴はさっきと同じ科白を繰り返して言った。
「いきなりやな」
と、池田は動揺して言った。
「なんでなん?」
と、池田は尋ねてみた。それから、手にしているお冷のグラスをそっと慎重にテーブルの上に戻す。万が一落として割ってしまいでもしたら、自分たちの関係は完全に終わってしまうような気が、池田はした。
池田の思い出せる限り、自分たちが別れなければならない理由はどこにも見当たらないように思えた。浮気もしていないし、喧嘩もしていない。
「なんか俺に悪いところがあるんやったら直すしな」
池田は優貴のことが好きだった。だから、別れたくはなかった。
「べつに池ちゃんに悪いところがあるわけじゃないねん」
と、優貴は眼差しを伏せたまま申し訳なそうな口調で言った。
「じゃあ、なんでなん?」
池田としては別れなければならない理由が知りたかった。
優貴はテーブルのうえのお冷を手に取って一口口含んだ。それから、手にしていたお冷のグラスをテーブルのうえに戻すと、食べ終えたばかりの料理の皿のうえに眼差しを落とした。そうして少しのあいだそのままでいたあと、彼女は意を決したように顔をあけで池田の顔を見ると、
「べつにはっきりとした理由があるわけじゃないねん」
と、言った。
「でも、なんかな、最近自分の気持ちがよくわからへんくてな」
と、優貴は言葉を続けた。そう言った彼女の声は泣き出しそうに微かに震えた。泣きたいのは自分の方だと池田は思ったが、口に出して何も言わなかった。
「だから、ちょっとのあいだ距離をおきたいねん。自分の気持ちを整理する時間が欲しい」
池田としてはそう言われてしまうと頷くことしかできなかった。池田にできることがあるとすれば、そうして距離をおいているあいだに、彼女の気持ちがいい方向に変わってくれることを願うことだけだった。
レストランを出たあと、池田はいつも通り車で優貴を彼女の家まで送っていたが、その車のなかでの彼女の表情はどこか思いつめた様子で、これはもうほんとうにだめかもしれないな、と、池田は諦めるように思った。
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池田は一人暮らしをしている自分の部屋でソファーにうえに仰向けになって横になりながら、今日一日の出来事を思い返していた。
最近は仕事が忙しくて、このところは優貴とは会えない日が続いていた。今日のデートも一ヶ月ぶりくらいのことだった。優貴が別れたいと口にしたのは、もしかしたらそのことが原因なのかなと池田は想像したが、しかし、それにしては今日デートをしているときの彼女の表情は楽しそうだった、と、一方で府に落ちなかった。
今日、最後に、映画を見終わったあと、あのレストランで食事をするときまでは全てが順調にいっているように池田には思えた。来月は彼女の誕生日だし、そのことの話もしようと池田は考えていた。
それなのに、何故あそこであんな展開になってしまったのだろう、と、池田は不可解だった。もし自分に対して何か不満があるのなら、どうして彼女は今日最初に会ったときにそのことを口にしなかったのだろう。どうして別れたいと思っている人間と過ごすときに、あんな楽しそうな表情をすることができるのだろう。
池田は考えれば考えるほど理解できなかった。
池田が川島優貴に出会ったのは、今から三年前だ。知り合いのコンパに参加したときだ。出会い方としてはごく平凡だが、それでも池田はこれまでに付き合ってきたどの女性よりも真剣に優貴のことが好きだった。
三年も関係が続いたのは、池田にとってはじめての経験だった。いつもはどんなに頑張っても一年が限界だった。それも決まって池田の気持ちが冷めてしまう。池田はもしかしたら自分は飽きっぽい性格なのかなと心配していたのだが、でも、優貴と付き合ってみてそうではないことがわかった。池田は優貴と付き合いはじめてから一度も気持ちが冷めたことはなかった。やっとほんとうに好きなひとと巡り合うことができた、と、池田は思っていた。
それなのにこんな結果になってしまうなんて。でも、現実なんて所詮そんなものかもしれない、と池田は自分自身に言い聞かせるように思った。やっとほんものに出会えたと思った瞬間、それはすぐに失われてしまうのだ。