2章-11 希死念慮
サヤ「ふー…」
20戦4勝。
実に勝率2割。中堅バッターの打率にすら遠く及ばなかった。
それでちょっとヘコんだりしながら涼みに来たのだが、
この建物は意外と高い。
てっぺんからは、森の全景すら覗えそうだった。
…もちろん辺りは真っ暗でほとんど何も見えないが、
遠くのほうで、町の明かりが見えた。
…そして、わたしはふと感傷的になった。
…ついさっきまで、わたしはあの場所にいた。
…こうやって、遠くから眺めてみると、街というものはそれは綺麗だった。
…お母さん。育ての親のほうのお母さん。
…あなたは、まだ、あの町のどこかにいるんですか。
ナオヤ「よ」
サヤ「…最低?どうしたの?」
ナオヤ「アヌビスが酔いつぶれて寝ちまって。それで暇になって涼みに来た」
サヤ「…そうなんだ」
…。
サヤ「…綺麗だよね」
ナオヤ「…そうか?
真っ暗でなーんにも見えねえじゃん」
いつものように最低は、最低らしくつっけんどんだった。
サヤ「…ちょっとだけ、聞いてくれるかな」
ナオヤ「いやだ」
サヤ「ひどい…」
ナオヤ「…はあ。
…とっとと話せ」
…そう、最低になら、なんでも軽い気分で話せてしまえた。
…あるいは、わたしはほんのちょっとだけ、彼のことを…、なのかもしれない。
一人になって、こんな場所に来て、初めて気づいた。
…もし告白した所で、返事は分かりきっているけどさ。
サヤ「…私の話したいこと、分かるかな」
ナオヤ「金」
サヤ「…」
ナオヤ「…手紙のことだろ?」
サヤ「…うん」
サヤ「…わたし、お母さんの手紙見て、最初は信じられなかった」
ナオヤ「…」
サヤ「…でも、本当だった。
…本当だと知って…悲しかった。
ただ、ただ、すっごく悲しくって、もう立ってさえいられなくなるくらい」
ナオヤ「…」
サヤ「…それで…ね、
わたし…正直…死のうと思ってた」
ナオヤ「…」
サヤ「…もう、私のことを必要としてくれる存在なんか、一人もいないんだ、って」
ナオヤ「…」
サヤ「…でも、でもね、
この家に来て、家の中を歩き回るクマやワニを見て、
室内で竹馬を乗り回す子を見て、
文と文とを区切らずに話すマシンガントークなおばさんを見て、
食事前にかきのたねを大量に食べる子を見て、
それでかきのたねソースなるものを生まれて初めて食べて、
それで最後にインディアンポーカーしたら、
なんかもう、どうでもよくなっちゃった」
ナオヤ「…そっか」
ナオヤはなんか真剣な話なのに内容が内容なので、
吹きそうになってしまうのを必死にこらえる。
サヤ「…ねえ…さいてーはさあ、…あの日…お母さんが死んで、独りぼっちになっちゃった日から…
…死にたいって思った?」
こんなこと面と向かって聞けるのは、最低しかいない。
ナオヤ「…
まあ、思わなかったって言えば、嘘になるな」
サヤ「…最低も?…やっぱり、ナオヤもそうだったの?」
ナオヤ「…まあ、あの頃の俺はバカだったからな、まだ」
サヤ「…そっか…
バカだから、そう思うんだよね。
…死にたいなんて、思ってちゃ…ダメだよね、やっぱ…。
だけど…あたし…辛くて…辛いから…」
ナオヤ「そんなこと言ってねえよ」
サヤ「…もうやめてほしいよ。
…お父さんに裏切られたときだって苦しくて苦しくて死にそうだったのに、その上まだ、お母さんにも裏切られるなんて…
もう…やだよ……」
わたしの心は昔からずっと、ズタズタだ。
その上からさらにズタズタにされたら、それはもう耐えられない。
ナオヤ「…おい」
サヤ「…。
ご、ごめん…なんか私一人で」
ナオヤ「あー、その、おまえ、勘違いしてるよ」
サヤ「…へ?」
ナオヤ「ダメじゃない。全然駄目じゃないよ。
死にたいって思ったって、いいんだよ」
サヤ「最低…」
ナオヤ「思うぐらい、全然いいんだよ。
…死ななきゃ、それでいいんだよ。な?」
ナオヤは自分を指差して、そう言った。
サヤ「…さいてー…
具体的に…そのときどうだった?
聞かせてほしいな…。
聞かれたくないことだってのは、分かってるけど、けど…寂しいから…」
今にも泣き出しそうだった。
ナオヤ「……。
…そうだな、俺の場合は、ずっと死にたい死にたいって思ってるわけじゃなかったけど、
一日一日の合間合間が自分との戦いだったな。
仕事にでかけるとき…仕事中に一息入れるとき…家帰って一人静かに眠る前…
ふとした状況で、一息ついたぐらいに襲い掛かってくるんだ、
その感情が」
サヤ「…」
ナオヤ「死んじゃいたい、死んじゃったら楽になるかもって繰り返してた」
サヤ「…じゃあ、じゃあ、どうして、死ななかったの?」
ナオヤ「…なんでだろうな」
サヤ「…」
ナオヤ「…分からないよ。
おれが最低だからじゃないかな」
サヤ「答えになってないよ」
ナオヤ「そんなことで死んでたまるか、って思いの方が、強かったんだろうな、きっと」
サヤ「…そうかぁ」
わたしは最低みたいにはなれない。
そうやって、すべてを否定して生きていけるほど、わたしは強くない。
そんなに強くない。
サヤ「…いつか、わたしも、そうやって、笑い飛ばせるようになるのかな…」
ナオヤ「なるよ、きっと。
悲しみなんて、しょせん一時的なものだよ」
とても悲しそうに、最低はそう言った。
『たかが親二人失ったぐらいで』
最低があの少年に言った言葉がリピートされる。
サヤ「…うん。
…分からない。…実際わたしには誰もいない。…ずっと暮らしてたお母さんから裏切られた。
…悲しいんだと思う。
…心が、すっごく痛んでるんだと思う。
…本当はもっとわたし泣いていいのかもしれない。…でも、涙が出ないの」
ナオヤ「…」
サヤ「…ねえ、わたし、現実逃避してるのかなあ」
今にも泣き出しそうだ。顔が歪んでるのが鏡を見なくても分かる。
ナオヤ「…」
サヤ「悲しいことに耐え切れなくなって、何も考えないようにして逃げてるのかな」
ナオヤ「…かもな」
サヤ「…でも、たぶん、一つトリガーが外れたら、もう、わたし、二度と立ち上がれなくなっちゃいそうで、わたし…」
ナオヤ「…」
サヤ「それじゃ、いけないんだ。わたしが泣いちゃったら周りの空気も悲しくなるし、みんな離れていく。だから、わたしは、がんばらないと…」
ナオヤ「…どうしてだよ」
ナオヤは私の頭に手を乗せて、そう言ってくれた。
サヤ「…え?」
ナオヤ「どうして、泣いたらいけないんだよ。
泣きたいときに泣くことの、何が悪いんだよ」
サヤ「…ナオヤ…」
ナオヤ「辛いときは、みんなから離れてたっていいじゃないかよ。
…いずれ、戻れるようになったときに戻ればさ。
戻れれば…それでいいじゃないかよ」
サヤ「……
…ねえ、最低、
最低はさ、待っててくれる?
わたしが戻ってきたら、ちゃんと迎えてくれる?」
ナオヤ「おれは最低だけど、
一つだけ自分のことで誇りに思ってることがあるんだ」
サヤ「?」
最低の方を見る。
目と目が合う。
ナオヤ「おれは誰も拒まない」
ナオヤは力強く、そう言った。
ナオヤ「たとえ相手がどんな、どんな最低の人間だろうと。
それは、おれが最低になり下がる前からも、ずっと変わらずだ」
なんで、なんで、こんなに優しいんだろう。
最低のくせに。
もう、涙が止まらなかった。
サヤ「…」
顔もくしゃくしゃだったと思う。
サヤ「…そう、かぁ…いつか…好きなときに…戻れば…いいんだよね…」
ナオヤ「そうだ」
サヤ「…戻れるかな」
ナオヤ「…戻れるさ」
ナオヤはそう言って後ろを向いた。
サヤ「…ねえ、ナオヤは…戻れた?」
ナオヤ「…さあな。…あるいは…まだ逃げて…」
がたん。
そこで突然背後から物音がした。
サヤ「…!?」
ナオヤ「…誰だ、出てこい」
声「にゃお~ん」
…思いっきり、人の声だった。
…っていうか
サヤ「…パギー?」
パギー「…ち、ちがうよ、ぼくねこの星からやってきたねこ星人だよ」
ナオヤ「ねこ星人の声はどこかで聞いたことのある声だなあ」
本人は声を変えてごまかしているつもりなのだろうが、バレバレだった。
パギー「そ、そんなことないよ」
ナオヤ「感じたままを言っただけなのに否定されても困るなあ」
サヤ「…聞いてた?」
パギー「…うん」
…どうやら、諦めたらしい。




